呪いは皿の上で

 来た道を戻る途中、邪魔になった寝間着を脱ぎ捨てた。風に流された薄い着物が風に乗って山を下る。
 そうして辿り着いたのは坑道の入り口だ。来たときと何一つ変わっていないそこを通り抜ければきっと元の世界に戻れるだろう。
 来た時と同じように、桔平がスマホのライトで暗い穴を照らし上げる。

「ぅ……、来たときもこんな匂いしたっけ?」

  桔平が口と鼻を両手で覆う。嗅覚をガツンと殴られたような鋭い臭気だ。反射で涙が浮かんで眼球を包む。

「ここまでじゃなかった。何でこんな鉄臭えんだ」

 けほっと小さく空咳をしながら、藤吾もスマホのライトで照らし上げる。露出した赤い土の壁は濡れているのかぬらぬらと輝いている。
 土の一部を指で弄った。土の中に、硬い石が混在しているようだ。その密集した石の一つを観察しようと、顔を近づける。桔平が傍からライトで照らし上げる。
 まるで巨大な生物の内臓の中に呑み込まれたような戦慄が走った。
 ツンと鼻に響く鉄臭さが濃くなる。それでも鼻先が壁に当たる距離まで近づいて見た。
 結晶化した赤い塊は石だ。血のように深い赤い色のそれが全体に埋まっている。 

「早く出よう。何だか……気分が悪くなってきた」

 淀んだ空気のせいか。桔平の顔色が悪い。瞼を閉じた右目もやはり状態が悪そうだ。
 頷いて炭鉱を進んでいく。その奥に何かが光るのが見えた。目を凝らして警戒しながら注視する。

「やっぱり、ここに忘れてたんだ」

 濡れた地面にポツンと置かれていたのは藤吾の腕時計だ。やはりここに忘れていたのだ。
 お気に入りのそれを見つけた嬉しい気持ちより、安堵が全身に巡る。元の世界に戻りつつあるという確認によって。
 小走りで駆け寄り、それを拾い上げて振り向いた。その一瞬の間に桔平はその場に膝を着いてしまった。

「桔平!」

 ポケットに腕時計を詰め込み慌てて駆け寄る。顔色は依然として悪い。吐き気を堪えているかのように背中が大きく震えていた。
 背中を摩って落ち着くのを待つ。だが震えは大きくなっていくばかりだ。

「大丈夫、もうすぐ出られるから!だから──」

 ビシャっと粘度のある水音が藤吾の足元から上がった。生温い飛沫が顎先にまで届く。
 項垂れた姿勢のまま桔平が吐いたのだ。そう思いながら、何度も背中を摩り続ける。大丈夫、大丈夫だからと自分にも言い聞かせるように。しかし、それが無意味だったことはすぐに理解した。

「──出られた」

 桔平の声とは思えぬほどに嗄れた声。突如、桔平が顔を上げる。その右目に灯りはない。刻まれた字画もない。
 あるのは──、穴だ。眼球が抜けた穴が藤吾を見た。

「き、っぺい」

 あまりの事態に藤吾の足は無意識に一歩下がった。その拍子にスニーカーの爪先が何かを蹴る。コロコロと弾みながら転がるそれは、クラゲのよう。丸い頭に細い繊維状の足が伸びている。
 それは、5画目が刻まれた桔平の右目だった。

「ごぷっ……」

 吐き気が込み上げる。目の前がクラクラと歪んで真っ直ぐ立てない。頭の中が白くなっていく中、必死に藤吾の意識を繋ぎ止める存在は桔平だった。
 彼は痛みを感じていないのか。その場にただ立ち尽くす。

 入ってきたものが出てきた。彼の言葉からそう察せざるを得ない。出てくると同時に、桔平の何かを絡め取って出てきたとでもいうのか。
 彼の眼窩からは黒い泥のような液体が溢れ続けていた。止め処なく流れるそれは地面に落ち、ゆっくりと盛り上がって形を作っていく。
 その現象は病院で見たものとよく似ているように感じた。
 
 桔平の体から溢れたそれは犬の形となった。次に巨大な翼の骨格が。長い髪の毛が。炭鉱に入る直前に襲われた犬が、勝ち誇ったように咆哮を上げる。
 いなくなったのではなかった。あれからもずっと後を付け回して、ついに桔平の中に押し入ったとでもいうのか。
 獣の執念深さを前に、藤吾の足がもつれてその場に尻餅をついた。

『人間による無秩序な採掘によって、山の神様が怒ったのです』

 不意に、藤棚で出会った彼女の声が脳裏に過ぎる。走馬灯だろうか。
 死を悟ったせいか、不思議なくらい頭がスッキリしていた。そのおかげで涎を垂らしながら迫る四つ足の異形を観察する余裕が生まれた。
 その犬の脇腹には、奇妙な縦の切れ込みのようなものがある。興奮しているためかパクパクと忙しなく開いては閉じてを繰り返している。それは……鰓だった。

『最初は川の魚が大量死から』

 その魚の特徴を持つ胴体から伸びる尾は間違いなく犬そのもの。だが、四肢は違う。よくよく見ればその足には蹄があった。背中の羽が呼吸に合わせて上下に揺れる。

『次に、山の獣が』

 髪に隠れるその顔を見る。人の顔であることには変わりない。歪み切った口元。充血した瞳。そして左目の下にある、墨を落としたような泣き黒子。藤吾のよく知る顔だ。
 
「……日奈子さん?」

 朗らかに笑っていた彼女の面影は薄い。だが、間違いなく日奈子だった。その名を呼ばれた彼女はピタと動きを止めた。
 反射で止まっただけだったのか、再び蹄が光る太い四肢が迫る。そして好戦的に振られていた先端だけが白い尻尾を見て、藤吾が声を張り上げる。

「これっ、クロ!」

 ヤエの口調と声を真似て叱りつける。再びその動きが止まった。このことからこの異形が日奈子とクロであることは疑う余地もない。
 だが、何故二人が現代でこんな姿になっているのか。混乱する頭の中で情報を必死に掻き集める。また、藤棚の彼女の声が頭の中で反芻する。

『次の年にはまだ息があった魚や獣を捌き、湯気立つ内臓と肉を供えられた。
 そして次には──』

『まだ若い娘でした』

 藤吾の中で全てが結びついた。この異形は、生贄にされた者の混合体だ。不条理に殺された者たちの恨みや悲しみが地に留まり続け、五災厄の一つと成り果てたのだ。
 彼女たちの生者への怨嗟の理由を察した藤吾ができるのは一つ。その場で正座をして、地面に額を擦りつけた。

「……お願いだから、桔平だけは見逃してください」

 必死の懇願を嘲笑うように日奈子の声が吠える。神経を逆撫でする甲高い獣の声だ。

「殺すなら俺にしてください……! 俺、死にたいんです。誰も俺のこと愛しちゃいないし、誰も必要ともしてない。殺し甲斐がないってんなら、必死に泣き叫ぶんで拷問でもなんでもしてくれていい。だから──」

 何度も何度も硬い地面に額を叩きつける。人生かけての懇願だ。溢れる涙は、生に縋ろうとする本能が流させているのだろうか。
 それでも、桔平を失う人生を生きるより遥かにマシだ。切れた息を吸って言葉を続けようとしたが、できなかった。
 獣の背後で虚に佇むだけだった桔平がスコップを振り上げている。高々と振り上げられたそれは日奈子の後頭部を強かに殴りつけた。
 鋭い殴打の音が炭鉱に波紋のように響く。一度では終わらず、何度も振り下ろしては殴りつける。そんな暴力的な行為の間中、右目は閉ざされたままだった。

「ふざけんなよ……!」

 ゼエゼエと息を乱しながら、スコップを地面に突き立てる。顔は憤怒で真っ赤だ。残された左目がぐったりと横たわる獣を一瞥し、今度は藤吾を睨む。

「勝手に生贄にするわ。勝手に俺と一緒に死のうとするわ。引越しも知らないとこで決めるわ。それで、今度は身代わりになろうだって?!俺の気持ち、全員で無視しやがって!」

 突き立てたスコップの柄を勢いよく足裏で蹴り上げる。痛いだろうに怒りで我を忘れているのか。木製の柄がしなり、ビインっと間の抜けた音を立ててスコップが揺れた。
 怒りはまだ収まらないのか。落ちていた自分の右目を拾い、ジャージのポケットに押し込んだ。

「行くぞ。もうこんなとこいられるか」

 啖呵を切ってずんずんと進む。桔平は優しいしイイヤツだと思っていた。どんな時でも自分よりも他者を優先できる善良な男だと。だが、そうじゃなかった。
 彼も、内心では人間らしい苦悩を抱えていた。暴力という形で暴発させるほどに、他人に見せていなかっただけなのだ。それが努力していたのか無意識かは分からない。だが、藤吾はひどく安心していた。

「あのー……桔平くん。右目は大丈夫でしょうか」
「ウオノメみたいにポロッと抜けたんだぞ。大丈夫なわけないだろ」

 しかし、痛いわけではないらしい。もしかすると、まだアドレナリンが痛覚を麻痺させているだけなのかもしれないが、今のところは苦しむ様子はない。

「だけど、抜け落ちてよかったかも。これでもう怯えないで済む」

 深く吸って、言葉を吐き出した。その声は何もかもから解放されてスッキリとしているようだ。

「だったらもっとスッキリしますか」

 追いかけてくる気配はない。だが、あの異形が死んだとは思えない。藤吾は徐にリュックを下ろして中身を取り出した。それは来るときに使ったガスコンロだ。
 やたらガシャガシャとうるさい音を立てていたから察していたが、やはり破損していた。
 よりにもよって、ボンベがベッコリと凹んでいる。火力調整のツマミも外れてしまっていた。このまま使用するのは危険だと、高校生の二人でも分かる程度には壊れている。
 それを地面に設置した。二人にとっては幸いなことに火が着いた。
 何をする気か察した桔平が楽しそうに口角を釣り上げる。二人で顔を見合わせ、ガスコンロの上に腕時計を投げ込んだ。次にジャムの瓶を。

「俺にもやらせろよ」

 そう言って桔平が投げ込んだのは、太陽光パネルがついた大容量モバイルバッテリーだった。
 さらにダメ押しとばかりに、スコップを乗せた。蓋をするように重ねれば準備万端ということらしい。
 それらに桔平の本気を感じてケタケタと声を出して笑った。火力を最低限に調整しながら二人は全速力で走る。
 途中、桔平が振り返って何かを投げ込んだ。弧を描いて飛んでいくそれは抜け落ちた右目だ。ここに呪いの全てを捨てていく算段なのだろう。
 再び二人は手を繋いで必死に走った。足の裏の痛みも、酸欠で苦しい肺も、気にならないくらい愉快な気持ちでいっぱいだった。
 全部全部壊してしまおうという爽快感。恋のように浮かれた破壊衝動で、二人は満面の笑みを浮かべていた。