呪いは皿の上で

 ふと、藤吾は目が覚めた。あれから2人は揉めながらも睡魔に負けてしまったらしい。
 枕元に置いておいたスマホは2時14分を示していた。コンセントに充電器を差したが、どうやら問題なく充電できたようだ。

「……?」

 何かが聞こえる。それは屋外から聞こえているようだ。
 トン、トン、とリズミカルなその音は何かを叩いている音だろうか。桔平もその音で目を覚ましたのか、もそもそと上半身を起こした。

「なあ、これ何の音だろ」

 少なくともいい物ではないだろう。桔平が右目を押さえている。指の隙間から鈍い光が漏れていた。
 うう、と唸るのは痛みを感じているのか。不安に駆られ、桔平の名前を呼ぶ。トン、トン、トン、と速度を増した音に小さな呼びかけは掻き消された。

「フジ、これ……やべえかも」
「っ、分かった。この音が落ち着いたら帰ろう。元の世界に戻ればきっと」

 ドン、ドン、ドンと叩く勢いも増していく。まるで祭り太鼓を力任せに叩いているかのよう。古い家屋が震え、内臓が振動に合わせて震えた。
 
 ──ドン、ドン、ドン、ドン

 ここに来てその音がどこから響いているのかが分かった。玄関だ。一階の引き戸を何かが叩いている。
 鈍い殴打音の間に聞こえるガシャガシャと鳴る音は、引き戸のガラスが揺れる音だ。耳を押さえたくなるくらい暴力的な響きだった。ヤエと日奈子は気づいていないのだろうか。

「あ」

 桔平が上を見る。振動で落ちてきた埃を見上げて惚けたように呟く。

「入ってきた」

 抑揚のない声だった。快不快もない、ただ発せられただけ。それが異常に恐ろしくて、桔平の頬を全力で張った。
 パァン!と鋭い音を立てて桔平の上半身が揺れる。

「逃げるぞ!」

 スマホを引っ張って充電コードごとリュックに押し込んだ。畳んでおいたジャージに浴衣も脱がずに足を突っ込む。そうして桔平も同じように着替え、リュックを掴んだのを見てその手を引っ張った。
 しかし、逃げ場は一つだけ。客間の窓だ。滑りの悪い木枠のサッシを軋ませて、力づくで窓を開けた。
 ここは2階。素足でここから飛び降りるのは正気じゃない。だが、選択肢はなかった。2人でリュックを地面に落としてクッションにしたが、効果は期待できない。

「入ってきやがった、入ってきた。畜生──」

 ブツブツと桔平が口走っている。その意味は分からなかった。だが、今まで以上に良くないことが起きてるのは確実だった。

「桔平。約束したじゃんか。……頼むって、しっかりしてくれ」

 希望が崩れていく。押さえ込もうと必死になる程、力に耐えきれず端から粉々になっていくかのようだ。

「どこへ行かれるの?」

 桔平を胸に抱き寄せ、いざ飛び降りんと覚悟を決めた矢先、呼びかけられた声に振り返る。
 客間の真ん中にいたのは日奈子だ。きっちりと黒髪を束ねて紅を引いた、浅葱色の着物のヤエがいた。
 不思議そうな表情をしながら、2人を優しい声で呼び止めた。

「遅い時間だけど、夫が帰ってきたのよ。2人のこと紹介させてくれないかしら」
 
 優しい声だ。しかし有無を言わせぬ圧を感じた。肺を掴み上げられたように呼吸が止まる。

「……お断りします」

 桔平がきっぱりを答えた。右目を押さえる手も肩も震えている。しかし、意識ははっきりしているようだ。左目で強く日奈子を睨め付けた。

「それは残念」

 少しだけ肩を竦めて、困ったように眉が八の字になる。ふんわりと笑う優しい顔と声。なのに全身の産毛が逆立つ怖気を感じた。ミシ、と襖の向こう側で床が軋む音を立てている。襖に手をかけているのか、ガタガタと襖が音を立てて揺れ始めた。

「はいはい。今、開けますからね」

 日奈子の顔が恋慕う表情へと変わる。瞳が輝き、頬にほっこりと朱色が差す。
 その襖の向こうを見るべきではない。直感全てが警鐘を鳴らしている。動物的本能のまま、藤吾は桔平の腕を引いて窓から飛び降りた。
 桔平も逃げ出したい一心だったのだろう。何の抵抗もなく腕を引かれるままに桔平も飛び降りた。

「ぅぐっ!」
 
 両足裏はリュックサックを捉えた。クッションとして少しは効果があったようだが痛いものは痛い。足裏から背骨へ、着地の衝撃が貫いた。
 無意識に背中が丸まって、痛みに呻きながら地面に転がった。桔平も自分のリュックをクッションに着地できたようだが、同じように背中を丸めている。
 足の痛みを堪えながら、桔平と一緒に歩き出す。互いに支え合うように肩を組んだ。そうしてよろよろとぎこちなく、小石が刺さる痛みに怯えながらも桐島家から遠ざるのを、窓から日奈子は優しい顔で見守っていた。
 子を見守る母親のように慈悲深い、穏やかな視線。
 そんな彼女の背後に何かが蠢いている。それを見ないように視線を外した。

「あー……もう、クソ痛ぇ」
「靴、持ってくりゃよかった……!」

 泣き言もぼやきも2人分。夜闇に響かせながら2人は進む。しかし心配なのが、あの家にまだ残っているだろうヤエだ。
 しかし考えても何も分からない。今は逃げるしかない。
 鈴虫がチリチリ鳴いて、白い蛾が羽ばたく。命の数が増えるのは山に近づいている証拠だろう。素足で坂を登っていく。
 足裏は焼けるように熱を感じるのに、もう痛みは感じなかった。痛覚神経の全てが擦り切れてしまったのだろうか。

「なあ、もし生き残れたらさぁ!」

 何も感じてないだけで神経は擦り切れていない。感じないだけで、正しい位置にあることを知っているから藤吾は叫んだ。

「また学校行こうなぁ!」

 生き残って9月を迎えるなんてことは奇跡でも起きない限りは無理だ。分かっていてそう叫ぶ。
 藤吾は自他ともに頭がおかしいからだ。

「分かった!」

 だが、この瞬間に置いては桔平も頭のネジが緩んでいたらしい。希望も何もないような状態のまま、足を引きずって声を張り上げる。こんな状況下でありながら、何故か心が弾んでいた。
 顔が緩んで、感情の趣くままにヘラヘラと笑う。背中に背負ったリュックの中身は踏みつけた衝撃で何かが破損したのか、ガラガラと何かが擦れる音が聞こえていた。