「なあ、桔平。これも五災厄の内だって分かってるのに居心地良すぎないか?」
和やかな食事を終えた二人は二階の客間へ戻っていた。風呂を借りた二人は寝巻きの浴衣を借りて布団に横になっていた。
桔平は返事をせず、スマホの画面を覗いている。
スマホを盗み見れば昼間に撮った石碑が写っていた。やはり何が書いてあるか分からない。だが、神妙な顔をして桔平は指で石碑の文字を追っていた。そうして何かを考え込み、桔平が左目を手で隠した。
「……読める」
どうやら呪いが進んだ右目は、石碑に書かれた文字の解読ができたようだ。
そして石碑気に刻まれた内容は聞いていて面白いものではない。生贄の儀について書かれているらしい。
かつて、犬も含む四つ足の獣を捧げたことから、犬塚と呼ぶようになったのが経緯であると桔平が言葉を締める。
豆電球は消され、窓からは眩しいほどの月明かりが差し込んでいた。
風呂に入っている間に、日奈子かヤエが布団を敷いてくれたらしい。隣に並べた布団の距離を、こっそり縮めたのは藤吾だけの秘密だ。
こっそり千切った、日時が書かれた紙片をひらひらと振っては見返す。しかし何度見ても「昭和101年 8月4日」と書かれているのだ。それだけが際立って気持ちが悪い。
そこでふと、自分が腕時計をどこかに忘れてきたことに気がついた。あるとすれば、一度外した炭鉱以外にないだろう。
そこそこいい値段で買ったシルバーの腕時計への喪失感に両手で顔を覆った。
「本当にな。このまま暮らしてもいいくらい」
「もしかして、ここに居たら死なないで済んだり……しないかなぁ」
桔平の弱音を聞くのは少しだけ久しぶりだった。午前には豪雨に打たれながら狂犬に襲われ、その次に穏やかな日常を享受したせいだろうか。
「お、いいじゃん。そしたら俺と一生一緒だな」
その言葉には心底うんざりといった表情を浮かべる。うざがっているのか、それとも本気で嫌なのか。
ぎゅっと顰められたその顔も可愛いと指ハートでラブコール。しかしファンサは返ってくることはない筈だった。布団から伸ばした手が藤吾の手を握る。
「何よ、今日は随分サービスいいじゃん」
「うぜえ〜……」
絡み付く指は硬くて無骨だ。少しだけひんやりとしていたが、それもすぐに体温が馴染んだ。
とりあえず、本来口にすることができなかった八宝山の山菜を口にはできたのだ。目標は達成できたと言ってもいい。
明日の朝にでも、「おせわになりました」とお礼を告げる。そうして炭鉱の入り口へ戻れば元の世界にも帰れるだろうと、お気楽に考えていた。
しかし、帰ったところで藤吾を待っているのは、崩壊した過程と死を待つだけの桔平だけだ。
しかし、桔平は違う。毎日弁当を持たせ、制服のシャツにアイロンをかけて、バスケットボールウェアを洗ってくれる母親がいる。部活で遅くなった時、最寄り駅まで車で迎えに来てくれる父親がいる。勉強を教えてくれる面倒見のいい姉もいる。
彼の帰りを待つ、優しい家族がいるのだ。
「俺、8月の半ばに引っ越すんだ」
突然の告白に、意外にも藤吾は驚かなかった。
「土地から離れれば、死なずに済むかもって話?」
「……ああ。親も姉ちゃんもそう考えているみたい」
やっぱり彼は家族から愛されていた。桔平の家族の気持ちは痛いほどに分かる。きっと今この瞬間だって、いても立ってもいられないだろう。だが、この土地を離れても彼が助かるとは思えなかった。
ここ数日で立て続けに味わったことが、それを確信に変えてしまったのだろう。何の希望も持てない。
それは桔平も同じだ。不安そうに濡れた瞳が藤吾を見る。
その右目に刻まれた画角が増えていた。
四画目。残された猶予はあと一画。
青白い光が電気を消した部屋に灯る。儚い灯りへ藤吾は手を伸ばした。見なくて済むようにと願って、彼の右瞼を閉じ、撫でる。
極めて優しい力で瞼に触れると眼球が震えているのが伝わってきた。
「死にたくねえなあ」
少しだけ、藤吾は逡巡する。どの言葉を選んでも桔平を傷つけてしまうことを分かっているからだ。
「……一人にはさせねえから」
握った手に力を込める。手の甲の血管が浮く位、強く強く。だらりとした手に力はなく、人形の手を握っているかのようだ。
すんと鼻を啜る音が聞こえた。藤吾の悩み抜いて選んだ言葉は、桔平の心に少しでも触れられただろうか。
「俺はお前に死んで欲しくないんだけどなあ」
寂しそうにそう言って、桔平の両腕が伸びる。桔平は自らの胸の内に藤吾を抱き寄せた。どくどくと脈を刻む心臓の音が直に鼓膜を震わせる。
しかし、その抱擁に藤吾は応えられなかった。藤吾の右手はまだ手を握っていた。
その手の主は、ここに来て藤吾の手を強く握った。手の甲に爪が食い込み、薄皮が破れる。見えないがきっと血も滲んでいるだろう。
骨を軋ませる痛みに耐え、藤吾は左手で桔平の肩を優しく撫でた。悟られぬように、いつものように笑みを取り繕いながら。
「それは無理。お前のこと好きだからさ。後くらい追わせろよ」
──邪魔するな。
桔平と過ごせる時間は限られている。それだけではなく、互いの心境を打ち明けるような貴重な時間だ。それに水を差されたことに激しい怒りが込み上げた。
彼の胸の中の温もりを堪能しながら、握る手を睨め付ける。その表情は笑みは消えて怒りの表情が浮かんでいた。
──邪魔するなら、お前も道連れにしてやろうか。
母親にさえ向けたことがない怒りで心臓が痛い。急激に頭に血が昇ったせいか、少しだけ意識がクラクラとした。
赤くなった顔はこうして恋煩う相手に抱かれているからではない。憤怒の感情のせいだ。歯軋りの音が出ないよう、細心の注意を払いながら強く奥歯を噛み締める。
それでも収まらぬ怒りに空気を読んだ、という訳でもあるまい。すっと空気に溶けるように握った手が解けていった。
「フジ、どうし──」
様子がおかしいことに気づいたらしい桔平が呼びかける。その声を押し切って、藤吾は唇を奪った。
怒り任せに唇を割って、舌を潜り込ませる。そこで初めて食いしばった勢いで舌の側面を噛んでいたことに気づいた。
じんわりと広がる血の味を無視し、桔平の口腔内を舐めしゃぶる。どうせ直ぐに殴られて引き剥がされるだろう。自虐か自罰か、そんなやけっぱちの気持ちのまま舌を伸ばす。なのに、桔平は大人しかった。
一方的に求められるがままのキスを受け入れている。くぐもった声が上がるのは生理的反応だろう。
なされるがままのせいで、逆にやり辛い。気まずいままに舌を抜いて唇を離した。
ぷはっと息をすれば、桔平は自分の唇を手の甲で拭った。
「満足、したか」
これが彼なりの贖罪なのだろう。引っ越しを明かさなかったことではなく、一緒に生きてやれないことへの。
桔平は、ここに来てもどうしようもなくイイヤツだった。
「してねえ〜。もっともっと触れてえよ。キス以上のこともしてえし、デートもしたい。結婚して、園田藤吾って名乗りてえ〜!」
勢いに任せて暴露する感情は全てが本音だった。笑みを浮かべるのも難しくて顔が歪む。泣き出しそうに顰められたその頬に桔平が触れた。
その腕がちゃんと彼から伸びているのを確認すれば、今度は藤吾が桔平を抱き締めた。あやすように背中をトントンと叩かれる。
「フジ、ごめんな」
優しいテノールが放つ「ごめんな」には、拒絶の意味が含まれている。片思いだってことくらい、藤吾は分かっていた。
だから、ずっとふざけてちゃんと向き合わないようにしていたのに。
「嫌だ嫌だ〜。俺もフジのことずっと前から好きだったって返事以外聞きたくねえ〜!」
涙が決壊した。惨めったらしく恋に敗れて、叶わぬ恋愛対象に慰められるなんてとんでもない屈辱だ。桔平の無自覚な優しさは、10代の藤吾の心を大いに傷付けた。
悲しいやら虚しいやら苦しいやら。楽しくない感情をボウルに落とし、泡立て器で掻き混ぜたみたいにぐちゃぐちゃだ。
混乱に任せ、頭突きをするように桔平の胸に頭を押し付ける。その頭を大きな手が包み込んだ。これ以上暴れるのを制するようにということか。
藤吾は諦めて髪を撫でられるままに、腕の中に収まった。
その間も、桔平は一言も話さなかった。藤吾のねだった言葉を嘘でも口にできないからだろう。
鮮やかで無様な失恋だった。
だから、藤吾はただただ泣いた。桔平が自分の恋人にはならないこと。彼が遠くない未来には生贄として死んでしまうこと。母親の感情に振り回されるのが辛いこと。全部を声にして吐き出しながら桔平に縋った。
死を目前にしている彼の方が辛いはずなのに、桔平は相槌を打ちながら耳を傾けた。言葉を挟まないのは、ようやく明かした藤吾の感情の邪魔をしたくないからだろう。
汗ばむ藤吾の髪の毛を撫でる手は、話が終わるまで止まることはなかった。
「俺、母親とは違うって思ってたのに。感情的にならないでずっと笑っていようって思ってたのに、全然だめだ」
結局乱れた感情に振り回されて、彼女と同じように桔平に縋ってしまった。その自己嫌悪にポツリと溢す。
だが、桔平は大真面目にそれを否定した。
「我慢してた結果だろ。自分を責める必要なんてない」
お手本のようなイイヤツの返す言葉だ。藤吾の痛みを包む優しい言葉にまた涙が滲んで、桔平の胸元を濡らす。
「父親の浮気に気づいてたのに、いつか自分の元に戻ってくるって信じて、いい妻を演じようとしてたんじゃないかな。お袋は」
堰を切ったように言葉が連なる。
「……俺もそうだよ。我慢して何かを演じてれば全然痛くないと思ってた。そうやって耐えて耐えて。結局このザマ。マジで酷いことしたって思ってるよ」
情けない限りだった。何も感じない演技をし続けた皮が剥がれていく。その内側に潜んでいたのは、思い通りにならない状況に泣き喚くだけの幼稚な自分だ。
それを大好きな人の前で剥き出しにしてしまう。そのことへのやるせなさに鼻を啜った。
だが、紛うことなきカタルシスで心は満たされていた。泣いて喚いて縋って、それでも桔平はいてくれる。それどころか、優しい目で藤吾を見守っていた。
「今度こそ落ち着いたか?」
「おー……」
涙で乾いた喉は掠れている。だが、気分は悪くなかった。鼻詰まりで頭が痛いし、瞼はパンパンに腫れている。涙が乾いた頬は乾燥して痒い。だが、もう心に澱むものはなかった。
「全く……。死んでも死にきれねえよ。そんなに好き好き泣かれたら」
「じゃあ死ぬなよ」
「……分かった」
予想に反した言葉に、藤吾は桔平の胸から顔をずらして見上げた。
「努力する。だからお前も、一緒にどうするか考えろよ」
桔平の声に宿った意思は強い。食事をしっかりしたせいだろうか。バスで見た時より、隈が薄くなっていた。
どうしてだか。その桔平の顔を見ていると、まだ抗う手段が残されているような気がした。「もちろん」と頷き、生きる方向へとギアを切り替える。まだ遅くはないと信じて。
だから、今のうちに言っておくことにした。
「さっき手繋いだけどさ、あれ俺じゃなかったよ」
怪異の存在を強く感じた。そのことを今なら恐怖を与えずに伝えられると思い、そう告げたが桔平の表情が強張った。
そして鋭い舌打ちを響かせた。
「お前、やっぱおかしいよ」
藤吾を抱き締める腕は離れることはない。それが藤吾への許しなのか。それとも純粋に恐怖を感じているからなのか。
やはり、頭がおかしいことに変わりない藤吾には理解ができないのだった。
和やかな食事を終えた二人は二階の客間へ戻っていた。風呂を借りた二人は寝巻きの浴衣を借りて布団に横になっていた。
桔平は返事をせず、スマホの画面を覗いている。
スマホを盗み見れば昼間に撮った石碑が写っていた。やはり何が書いてあるか分からない。だが、神妙な顔をして桔平は指で石碑の文字を追っていた。そうして何かを考え込み、桔平が左目を手で隠した。
「……読める」
どうやら呪いが進んだ右目は、石碑に書かれた文字の解読ができたようだ。
そして石碑気に刻まれた内容は聞いていて面白いものではない。生贄の儀について書かれているらしい。
かつて、犬も含む四つ足の獣を捧げたことから、犬塚と呼ぶようになったのが経緯であると桔平が言葉を締める。
豆電球は消され、窓からは眩しいほどの月明かりが差し込んでいた。
風呂に入っている間に、日奈子かヤエが布団を敷いてくれたらしい。隣に並べた布団の距離を、こっそり縮めたのは藤吾だけの秘密だ。
こっそり千切った、日時が書かれた紙片をひらひらと振っては見返す。しかし何度見ても「昭和101年 8月4日」と書かれているのだ。それだけが際立って気持ちが悪い。
そこでふと、自分が腕時計をどこかに忘れてきたことに気がついた。あるとすれば、一度外した炭鉱以外にないだろう。
そこそこいい値段で買ったシルバーの腕時計への喪失感に両手で顔を覆った。
「本当にな。このまま暮らしてもいいくらい」
「もしかして、ここに居たら死なないで済んだり……しないかなぁ」
桔平の弱音を聞くのは少しだけ久しぶりだった。午前には豪雨に打たれながら狂犬に襲われ、その次に穏やかな日常を享受したせいだろうか。
「お、いいじゃん。そしたら俺と一生一緒だな」
その言葉には心底うんざりといった表情を浮かべる。うざがっているのか、それとも本気で嫌なのか。
ぎゅっと顰められたその顔も可愛いと指ハートでラブコール。しかしファンサは返ってくることはない筈だった。布団から伸ばした手が藤吾の手を握る。
「何よ、今日は随分サービスいいじゃん」
「うぜえ〜……」
絡み付く指は硬くて無骨だ。少しだけひんやりとしていたが、それもすぐに体温が馴染んだ。
とりあえず、本来口にすることができなかった八宝山の山菜を口にはできたのだ。目標は達成できたと言ってもいい。
明日の朝にでも、「おせわになりました」とお礼を告げる。そうして炭鉱の入り口へ戻れば元の世界にも帰れるだろうと、お気楽に考えていた。
しかし、帰ったところで藤吾を待っているのは、崩壊した過程と死を待つだけの桔平だけだ。
しかし、桔平は違う。毎日弁当を持たせ、制服のシャツにアイロンをかけて、バスケットボールウェアを洗ってくれる母親がいる。部活で遅くなった時、最寄り駅まで車で迎えに来てくれる父親がいる。勉強を教えてくれる面倒見のいい姉もいる。
彼の帰りを待つ、優しい家族がいるのだ。
「俺、8月の半ばに引っ越すんだ」
突然の告白に、意外にも藤吾は驚かなかった。
「土地から離れれば、死なずに済むかもって話?」
「……ああ。親も姉ちゃんもそう考えているみたい」
やっぱり彼は家族から愛されていた。桔平の家族の気持ちは痛いほどに分かる。きっと今この瞬間だって、いても立ってもいられないだろう。だが、この土地を離れても彼が助かるとは思えなかった。
ここ数日で立て続けに味わったことが、それを確信に変えてしまったのだろう。何の希望も持てない。
それは桔平も同じだ。不安そうに濡れた瞳が藤吾を見る。
その右目に刻まれた画角が増えていた。
四画目。残された猶予はあと一画。
青白い光が電気を消した部屋に灯る。儚い灯りへ藤吾は手を伸ばした。見なくて済むようにと願って、彼の右瞼を閉じ、撫でる。
極めて優しい力で瞼に触れると眼球が震えているのが伝わってきた。
「死にたくねえなあ」
少しだけ、藤吾は逡巡する。どの言葉を選んでも桔平を傷つけてしまうことを分かっているからだ。
「……一人にはさせねえから」
握った手に力を込める。手の甲の血管が浮く位、強く強く。だらりとした手に力はなく、人形の手を握っているかのようだ。
すんと鼻を啜る音が聞こえた。藤吾の悩み抜いて選んだ言葉は、桔平の心に少しでも触れられただろうか。
「俺はお前に死んで欲しくないんだけどなあ」
寂しそうにそう言って、桔平の両腕が伸びる。桔平は自らの胸の内に藤吾を抱き寄せた。どくどくと脈を刻む心臓の音が直に鼓膜を震わせる。
しかし、その抱擁に藤吾は応えられなかった。藤吾の右手はまだ手を握っていた。
その手の主は、ここに来て藤吾の手を強く握った。手の甲に爪が食い込み、薄皮が破れる。見えないがきっと血も滲んでいるだろう。
骨を軋ませる痛みに耐え、藤吾は左手で桔平の肩を優しく撫でた。悟られぬように、いつものように笑みを取り繕いながら。
「それは無理。お前のこと好きだからさ。後くらい追わせろよ」
──邪魔するな。
桔平と過ごせる時間は限られている。それだけではなく、互いの心境を打ち明けるような貴重な時間だ。それに水を差されたことに激しい怒りが込み上げた。
彼の胸の中の温もりを堪能しながら、握る手を睨め付ける。その表情は笑みは消えて怒りの表情が浮かんでいた。
──邪魔するなら、お前も道連れにしてやろうか。
母親にさえ向けたことがない怒りで心臓が痛い。急激に頭に血が昇ったせいか、少しだけ意識がクラクラとした。
赤くなった顔はこうして恋煩う相手に抱かれているからではない。憤怒の感情のせいだ。歯軋りの音が出ないよう、細心の注意を払いながら強く奥歯を噛み締める。
それでも収まらぬ怒りに空気を読んだ、という訳でもあるまい。すっと空気に溶けるように握った手が解けていった。
「フジ、どうし──」
様子がおかしいことに気づいたらしい桔平が呼びかける。その声を押し切って、藤吾は唇を奪った。
怒り任せに唇を割って、舌を潜り込ませる。そこで初めて食いしばった勢いで舌の側面を噛んでいたことに気づいた。
じんわりと広がる血の味を無視し、桔平の口腔内を舐めしゃぶる。どうせ直ぐに殴られて引き剥がされるだろう。自虐か自罰か、そんなやけっぱちの気持ちのまま舌を伸ばす。なのに、桔平は大人しかった。
一方的に求められるがままのキスを受け入れている。くぐもった声が上がるのは生理的反応だろう。
なされるがままのせいで、逆にやり辛い。気まずいままに舌を抜いて唇を離した。
ぷはっと息をすれば、桔平は自分の唇を手の甲で拭った。
「満足、したか」
これが彼なりの贖罪なのだろう。引っ越しを明かさなかったことではなく、一緒に生きてやれないことへの。
桔平は、ここに来てもどうしようもなくイイヤツだった。
「してねえ〜。もっともっと触れてえよ。キス以上のこともしてえし、デートもしたい。結婚して、園田藤吾って名乗りてえ〜!」
勢いに任せて暴露する感情は全てが本音だった。笑みを浮かべるのも難しくて顔が歪む。泣き出しそうに顰められたその頬に桔平が触れた。
その腕がちゃんと彼から伸びているのを確認すれば、今度は藤吾が桔平を抱き締めた。あやすように背中をトントンと叩かれる。
「フジ、ごめんな」
優しいテノールが放つ「ごめんな」には、拒絶の意味が含まれている。片思いだってことくらい、藤吾は分かっていた。
だから、ずっとふざけてちゃんと向き合わないようにしていたのに。
「嫌だ嫌だ〜。俺もフジのことずっと前から好きだったって返事以外聞きたくねえ〜!」
涙が決壊した。惨めったらしく恋に敗れて、叶わぬ恋愛対象に慰められるなんてとんでもない屈辱だ。桔平の無自覚な優しさは、10代の藤吾の心を大いに傷付けた。
悲しいやら虚しいやら苦しいやら。楽しくない感情をボウルに落とし、泡立て器で掻き混ぜたみたいにぐちゃぐちゃだ。
混乱に任せ、頭突きをするように桔平の胸に頭を押し付ける。その頭を大きな手が包み込んだ。これ以上暴れるのを制するようにということか。
藤吾は諦めて髪を撫でられるままに、腕の中に収まった。
その間も、桔平は一言も話さなかった。藤吾のねだった言葉を嘘でも口にできないからだろう。
鮮やかで無様な失恋だった。
だから、藤吾はただただ泣いた。桔平が自分の恋人にはならないこと。彼が遠くない未来には生贄として死んでしまうこと。母親の感情に振り回されるのが辛いこと。全部を声にして吐き出しながら桔平に縋った。
死を目前にしている彼の方が辛いはずなのに、桔平は相槌を打ちながら耳を傾けた。言葉を挟まないのは、ようやく明かした藤吾の感情の邪魔をしたくないからだろう。
汗ばむ藤吾の髪の毛を撫でる手は、話が終わるまで止まることはなかった。
「俺、母親とは違うって思ってたのに。感情的にならないでずっと笑っていようって思ってたのに、全然だめだ」
結局乱れた感情に振り回されて、彼女と同じように桔平に縋ってしまった。その自己嫌悪にポツリと溢す。
だが、桔平は大真面目にそれを否定した。
「我慢してた結果だろ。自分を責める必要なんてない」
お手本のようなイイヤツの返す言葉だ。藤吾の痛みを包む優しい言葉にまた涙が滲んで、桔平の胸元を濡らす。
「父親の浮気に気づいてたのに、いつか自分の元に戻ってくるって信じて、いい妻を演じようとしてたんじゃないかな。お袋は」
堰を切ったように言葉が連なる。
「……俺もそうだよ。我慢して何かを演じてれば全然痛くないと思ってた。そうやって耐えて耐えて。結局このザマ。マジで酷いことしたって思ってるよ」
情けない限りだった。何も感じない演技をし続けた皮が剥がれていく。その内側に潜んでいたのは、思い通りにならない状況に泣き喚くだけの幼稚な自分だ。
それを大好きな人の前で剥き出しにしてしまう。そのことへのやるせなさに鼻を啜った。
だが、紛うことなきカタルシスで心は満たされていた。泣いて喚いて縋って、それでも桔平はいてくれる。それどころか、優しい目で藤吾を見守っていた。
「今度こそ落ち着いたか?」
「おー……」
涙で乾いた喉は掠れている。だが、気分は悪くなかった。鼻詰まりで頭が痛いし、瞼はパンパンに腫れている。涙が乾いた頬は乾燥して痒い。だが、もう心に澱むものはなかった。
「全く……。死んでも死にきれねえよ。そんなに好き好き泣かれたら」
「じゃあ死ぬなよ」
「……分かった」
予想に反した言葉に、藤吾は桔平の胸から顔をずらして見上げた。
「努力する。だからお前も、一緒にどうするか考えろよ」
桔平の声に宿った意思は強い。食事をしっかりしたせいだろうか。バスで見た時より、隈が薄くなっていた。
どうしてだか。その桔平の顔を見ていると、まだ抗う手段が残されているような気がした。「もちろん」と頷き、生きる方向へとギアを切り替える。まだ遅くはないと信じて。
だから、今のうちに言っておくことにした。
「さっき手繋いだけどさ、あれ俺じゃなかったよ」
怪異の存在を強く感じた。そのことを今なら恐怖を与えずに伝えられると思い、そう告げたが桔平の表情が強張った。
そして鋭い舌打ちを響かせた。
「お前、やっぱおかしいよ」
藤吾を抱き締める腕は離れることはない。それが藤吾への許しなのか。それとも純粋に恐怖を感じているからなのか。
やはり、頭がおかしいことに変わりない藤吾には理解ができないのだった。
