呪いは皿の上でほどける

 ──やらかした。
 心臓が破裂しそうな位バクバクと暴れている。呼吸もひっきりなしに乱れて、喉が痛い。ふくらはぎがパンパンに腫れているのは日頃の運動不足のせいか。
 桐島藤吾(きりしま とうご)は廃病院の暗い廊下を必死に走り回りながら、自分の迂闊さを後悔していた。両手に小さな壺を抱え込んでいるせいで、余計に足が遅くなっているのだ。
 投げ出してしまえばいいだろう。こんな嵩張るだけのお荷物。
 しかし、落として割る訳には行かない。藤吾にとって命より大事な壺だ。

「げほっ!はッ、はぁ──!」

 自分の唾液が喉に絡んで咳が出た。ついでによろけて壁に肩をぶつける。骨組みの一部が剥き出しになった壁に、強かに体をぶつけて呼吸が詰まった。そのせいで呼吸のペースが完全に乱れ、ついにその場で足を止める。
 ひんやりとした壺に額を押し付けた。汗ばむ肌に、少しだけその冷たさを感じながら瞼を閉じる。だが、そんなささやかな猶予は藤吾に許されなかった。ガラスを爪で掻くような金切り声が近づいてきている。

「クソ、……しつけえ」

 聞こえない程度に小さな声で罵った。すぐ近くの扉に静かに潜り込んで、ボロボロに錆びたアルミの棚の影に身を潜ませる。
 どうやらこの部屋は病室の一室らしい。ここは個室だったのか。ベッドは一つだけ。
 シーツは虫食いで穴だらけで衛生とは程遠い。かつては清潔が保たれていた病院なのだろうか。アルコールが気化しきった病院は淀んだ空気で満ちている。樹脂で作られたはずの床には、埃や虫の遺骸の層が生まれ、歩く度に靴底がふかふかするのが気持ち悪かった。
 だが、そんな不衛生な床に藤吾は手をついた。胸に壺を引き寄せて、匍匐全身でベッドの下に移動する。
 金切り声が部屋に入ってきた。

──俺っていっつもこうだよなあ。

 藤吾は向こうみずだとか、無鉄砲だとか、それ以上の言葉もよく言われる性格だ。実際、藤吾もその通りだという自覚はある。
 だからと言ってそれを改善してこなかった結果がこれである。
薄汚いベッドの下で息を顰め、藤吾を探す足を観察した。
 それは血を抜かれたような紫色の足の間から、ずるずると縮れた尾のようなものを引きずっていた。
 それは、噂が正しければ臍の緒だ。血管の透ける生々しいそれを引き摺りながら、キイキイ泣いて藤吾を探していた。その手に錆びたメスを握って。
 この怪異に捕まったらどうなるのか。誰も知らない。何せ生きて帰ってきた者はいないのだ。
 病院の地下にある、秘密の手術室に連れて行かれるのか。あるいはその臍の緒で首を絞めでもするのか。考えたくもないことが控えているのかも知れない。

「それも、有りかもな」

 壺を抱え込んで、藤吾が呟く。

「なあ、桔平」

 窓から覗く満月を見上げる。やけに目に染みる淡い光だ。

「やっと一緒に死ねるかな」