そのあとはお互い無言で歩いていた。その時の記憶はほぼないが、鷹峰が隣に居てくれてよかったと思っていたのは覚えている。
それから玄関前で鷹峰と別れて、家に帰った。靴を脱いだ瞬間から、胸の奥のざわつきが消えなかった。
あれが俺を狙っていて、もしかしたら見えないだけで、今も後ろにいるかもしれない。
でも俺が家の中に入るまで鷹峰は視てくれていたから、きっといないはずだ。なのに不安になってしまうのは、目の前で被害を見てしまったからだ。
「ただいま」
声を出すと、いつも通りキッチンから母さんの声が返ってくる。
「おかえり、明。手洗いうがいしてね」
それだけのやり取り。いつも通りのはずなのに、どこか遠く感じる。
これは、俺の日常なんだろうか。実はもう怪異に食べられてしまって、まったく違う世界にいるとか。
洗面所で手を洗いながら、鏡を見る。そこに映っているのは、いつもの自分の顔だ。
なのに “これ、本当に俺か?”
そんな感覚がよぎる。すぐに首を振って、蛇口を閉めた。これ以上考えたら、今の幸せが消えてしまうような気がする。それが、本物なのかも分からないのに。
制服から私服に着替え、リビングに入る。テレビの音と煮物の匂い。生活の音がちゃんとあるのに、現実味が薄い。妙にふわふわした心地なのは、疲労感なのか、それともナニかの影響のせいか。
考えないように、考えないようにしていても、どうしても怪異のことを考えてしまう。
「今日、どうだった?」
「普通」
反射で答える。星が倒れたことも、山代のことも、口に出す気にはなれなかった。
言ったところで、理解されない気がした。
でも親同士の仲がいいから、星のことは何かしらの伝手で母さんの耳に入りそうだ。ちゃんとあとで言わないとな。けれど言葉にした瞬間、“現実になる”気がして怖い。まだ俺の中で貧血だったとか、そんな可能性のままにしたかった。
「明日ね、お姉ちゃん帰ってくるから。覚えてる?」
ご飯の準備をしている母さんが火を止めて、振り返って言った。
「ああ。そういえば……」
スマホを取り出して、メッセージアプリを触ろうとしてやめる。鷹峰の連絡先を知らなかった。何を連絡しようと思ったか、特に中身なんてないけれど、鷹峰がいなくて不安だった。ひとりが不安だ。
父さん母さん、縁だって居るのに、俺は世界に取り残されたひとりだって気がしてしまう。
「こっちの友達と遊ぶから、明日と明後日いるみたいよ」
「へえ……」
頭では理解する。でも、その情報がうまく感情に繋がらない。
姉が帰ってくる。本来なら少し嬉しいとか面倒くさいなんて感情が湧いたり、ついでに橘先生の話を聞こうとか、姉のときの怪異の話。教えてほしいことが色々あるのに、うまく頭が働かない。
怪異に食われたらどうなるんだろう。俺が俺じゃなくなるかもしれない。外見だけは俺で、中身のない俺になるとか。返事もしなくなったりする人も居たってことは、何も考えられないのか。それとも、こうやって考えているのに、喋れなくなるとか?
頭のなかで思考がぐるぐる回って曖昧な返事のまま居たら、母さんがご飯を作りながら声を掛けてくる。
「部屋、ちょっと片付けときなさいよ。物置みたいにしてるんだから」
「分かってるって」
キッチンカウンターから覗く母さんの背中を見つめながら、適当に返して、きっと味がしないだろう食べ物の香りを嗅ぐ。今日はカレーだ。煮物だと思っていた匂いは、カレーになる前の野菜を似た匂いだったらしい。でも、それも本当なのか? 一応、確かめるために立ち上がって、キッチンに入るとそっと作っている手元をのぞき込む。
カレーだ。嗅覚はまだ大丈夫だ。
こうやって毎日、怯えて過ごさなければいけないのだろうか。そろそろ、母さんに味がしないことを伝えたほうがいいのかな。もしかしたら、怪異なんかじゃなくて、精神的に味覚障害になっているだけかもしれないし。
キッチンで突っ立っていたら、母さんが振り返って、不可解そうな視線を投げてくる。
「手伝ってくれるの?」
「んーん」
「じゃあ先に風呂行きなさい」
「はーい」
言いそびれた。でもなんて伝えればいいんだ? ただ味がしないというだけでいいのか。怪異の話をしたところで信じてはくれないだろうし、もっと酷い精神障害だと思われてしまう。
今日はやや冷たいシャワーで簡単に風呂を済ませる。風呂場は色々と考えてしまいそうになるから、さっさと終わらせたかった。
少し冷めた皮膚の水気をタオルで拭う。
夕ご飯の時間まで自分の部屋で休むことにした。
自室の部屋の扉を開けると蒸し暑い。エアコンをつけて、空調が効くまでスマホのゲームをする。基本的に据え置きゲームを好んでいるからスマホのゲームはあまりしないけれど、このゲームだけはやっていた。実装されたキャラクターの男が、黒髪で切れ長の目で、それで……密かに始めた気が――。
――――
――
そろそろエアコンも効いてきたはずだ。そういえば、部屋を片付けろと言われていた。テスト勉強か、それとも片付けか。
俺は片付けを選んだ。まあ、勉強は寝る前に少しだけはやるか。その勉強をするには、机を片付けなければ。
久々に勉強机を見た気がする。積みあがったいつのものか分からない紙束を適当に纏めて、机から、空いている引き出しに適当に突っ込む。母さんが見たら、それは片付けなのかと怒りそうだが、此処の空間には俺しかいないので、俺が片付けだと思えばこれは片付けなのだ。
次はクローゼットのなか。この部屋を片付けろってことは、姉ちゃんはここに用事があるのだろう。
扉を開けて、中には色々な箱や本、衣類が入っている。
記憶にない箱があって、それを開けてみれば知らない本があった。
本? なのかな。俺が知っている本よりもかなり薄い。そして大きい。
気になって開こうと一冊手に取ると、扉の開く音がした。
「飯だって」
「ん、ああ。今行く」
扉の前で何をしているのかと怪訝そうな縁がいたので、開こうとした本を箱に戻して、クローゼットに押し戻す。俺を待つことなく先に階段を降りる縁の足音を聞いてから、ベッドに転がる電源の切れたスマホを充電して、俺も一階へと降りてリビングに向かった。
いつもの席に座る。父さんはまだ帰っていない。
母さんは明日の準備と言って、まだキッチンに居る。「急に帰ってくるなんて」と言いつつ、姉ちゃんが帰ってくるのが嬉しいみたいだ。甘い匂いがするから、お菓子作りもしてるんだろうな。
「そういえば……あんたたち、明日お姉ちゃんが帰ってきても大丈夫なの?」
「なんで?」
母さんの問いかけに首を傾げると、ため息を吐かれた。
「テスト勉強は?」
「縁はするんだ?」
「兄貴はする気無さそう」
まさか勉強する気があると思われているなんて、思いもしなかった。そういうことに口出しするのは、姉ちゃんと縁だけかと思っていた。まあ、俺はする気ないし、縁も勉強をしているところを見た覚えがないけど。
「いいよ。俺と縁が勉強する気ないと思って姉ちゃん来るんだろうし、母さんもOKしたんだろ」
肩を竦める母さんはまた作業を始めた。縁は俺を見て、ため息を吐く。なんだ、やる気があるならあるって言えばいいのに。反抗期の可愛い奴め。
皿に盛り付けられたカレーは福神漬けが乗っていて、もうひとつの器にはサラダがもりもりに盛られている。山盛りのキャベツときゅうり、コーンにプチトマトがふたつ。ドレッシングも多めにかけてもらった。
スプーンにカレーを乗せる。俺はルーが多めで濃い味が好きだ。
口を開いて、ひと口。
すこしだけ、味がする。昨日よりは味がした。多少薄いけれど、それでもカレーだとしっかり分かる味ではある。
けれど、昼に鷹峰から食べさせてもらった時よりはぜんぜん薄い味だ。
あれはなんだったんだろう。なんであの時だけ?
手に持っていたスプーンが止まる。けれど、考えるのはやめた。きっと、俺では答えは出ない気がする。
止まっている俺を見て、不思議そうにする縁を見れば、誤魔化すようにまたスプーンを持つ手を動かし始めた。
完食して皿を片付ける。縁のほうが先に食べ終わって、さっさと二階へ行った。
なにがきっかけか知らないけど、縁はテスト勉強にやる気を出しているようなので、なるべく明日と明後日の姉ちゃんの相手は俺がしよう。
それから玄関前で鷹峰と別れて、家に帰った。靴を脱いだ瞬間から、胸の奥のざわつきが消えなかった。
あれが俺を狙っていて、もしかしたら見えないだけで、今も後ろにいるかもしれない。
でも俺が家の中に入るまで鷹峰は視てくれていたから、きっといないはずだ。なのに不安になってしまうのは、目の前で被害を見てしまったからだ。
「ただいま」
声を出すと、いつも通りキッチンから母さんの声が返ってくる。
「おかえり、明。手洗いうがいしてね」
それだけのやり取り。いつも通りのはずなのに、どこか遠く感じる。
これは、俺の日常なんだろうか。実はもう怪異に食べられてしまって、まったく違う世界にいるとか。
洗面所で手を洗いながら、鏡を見る。そこに映っているのは、いつもの自分の顔だ。
なのに “これ、本当に俺か?”
そんな感覚がよぎる。すぐに首を振って、蛇口を閉めた。これ以上考えたら、今の幸せが消えてしまうような気がする。それが、本物なのかも分からないのに。
制服から私服に着替え、リビングに入る。テレビの音と煮物の匂い。生活の音がちゃんとあるのに、現実味が薄い。妙にふわふわした心地なのは、疲労感なのか、それともナニかの影響のせいか。
考えないように、考えないようにしていても、どうしても怪異のことを考えてしまう。
「今日、どうだった?」
「普通」
反射で答える。星が倒れたことも、山代のことも、口に出す気にはなれなかった。
言ったところで、理解されない気がした。
でも親同士の仲がいいから、星のことは何かしらの伝手で母さんの耳に入りそうだ。ちゃんとあとで言わないとな。けれど言葉にした瞬間、“現実になる”気がして怖い。まだ俺の中で貧血だったとか、そんな可能性のままにしたかった。
「明日ね、お姉ちゃん帰ってくるから。覚えてる?」
ご飯の準備をしている母さんが火を止めて、振り返って言った。
「ああ。そういえば……」
スマホを取り出して、メッセージアプリを触ろうとしてやめる。鷹峰の連絡先を知らなかった。何を連絡しようと思ったか、特に中身なんてないけれど、鷹峰がいなくて不安だった。ひとりが不安だ。
父さん母さん、縁だって居るのに、俺は世界に取り残されたひとりだって気がしてしまう。
「こっちの友達と遊ぶから、明日と明後日いるみたいよ」
「へえ……」
頭では理解する。でも、その情報がうまく感情に繋がらない。
姉が帰ってくる。本来なら少し嬉しいとか面倒くさいなんて感情が湧いたり、ついでに橘先生の話を聞こうとか、姉のときの怪異の話。教えてほしいことが色々あるのに、うまく頭が働かない。
怪異に食われたらどうなるんだろう。俺が俺じゃなくなるかもしれない。外見だけは俺で、中身のない俺になるとか。返事もしなくなったりする人も居たってことは、何も考えられないのか。それとも、こうやって考えているのに、喋れなくなるとか?
頭のなかで思考がぐるぐる回って曖昧な返事のまま居たら、母さんがご飯を作りながら声を掛けてくる。
「部屋、ちょっと片付けときなさいよ。物置みたいにしてるんだから」
「分かってるって」
キッチンカウンターから覗く母さんの背中を見つめながら、適当に返して、きっと味がしないだろう食べ物の香りを嗅ぐ。今日はカレーだ。煮物だと思っていた匂いは、カレーになる前の野菜を似た匂いだったらしい。でも、それも本当なのか? 一応、確かめるために立ち上がって、キッチンに入るとそっと作っている手元をのぞき込む。
カレーだ。嗅覚はまだ大丈夫だ。
こうやって毎日、怯えて過ごさなければいけないのだろうか。そろそろ、母さんに味がしないことを伝えたほうがいいのかな。もしかしたら、怪異なんかじゃなくて、精神的に味覚障害になっているだけかもしれないし。
キッチンで突っ立っていたら、母さんが振り返って、不可解そうな視線を投げてくる。
「手伝ってくれるの?」
「んーん」
「じゃあ先に風呂行きなさい」
「はーい」
言いそびれた。でもなんて伝えればいいんだ? ただ味がしないというだけでいいのか。怪異の話をしたところで信じてはくれないだろうし、もっと酷い精神障害だと思われてしまう。
今日はやや冷たいシャワーで簡単に風呂を済ませる。風呂場は色々と考えてしまいそうになるから、さっさと終わらせたかった。
少し冷めた皮膚の水気をタオルで拭う。
夕ご飯の時間まで自分の部屋で休むことにした。
自室の部屋の扉を開けると蒸し暑い。エアコンをつけて、空調が効くまでスマホのゲームをする。基本的に据え置きゲームを好んでいるからスマホのゲームはあまりしないけれど、このゲームだけはやっていた。実装されたキャラクターの男が、黒髪で切れ長の目で、それで……密かに始めた気が――。
――――
――
そろそろエアコンも効いてきたはずだ。そういえば、部屋を片付けろと言われていた。テスト勉強か、それとも片付けか。
俺は片付けを選んだ。まあ、勉強は寝る前に少しだけはやるか。その勉強をするには、机を片付けなければ。
久々に勉強机を見た気がする。積みあがったいつのものか分からない紙束を適当に纏めて、机から、空いている引き出しに適当に突っ込む。母さんが見たら、それは片付けなのかと怒りそうだが、此処の空間には俺しかいないので、俺が片付けだと思えばこれは片付けなのだ。
次はクローゼットのなか。この部屋を片付けろってことは、姉ちゃんはここに用事があるのだろう。
扉を開けて、中には色々な箱や本、衣類が入っている。
記憶にない箱があって、それを開けてみれば知らない本があった。
本? なのかな。俺が知っている本よりもかなり薄い。そして大きい。
気になって開こうと一冊手に取ると、扉の開く音がした。
「飯だって」
「ん、ああ。今行く」
扉の前で何をしているのかと怪訝そうな縁がいたので、開こうとした本を箱に戻して、クローゼットに押し戻す。俺を待つことなく先に階段を降りる縁の足音を聞いてから、ベッドに転がる電源の切れたスマホを充電して、俺も一階へと降りてリビングに向かった。
いつもの席に座る。父さんはまだ帰っていない。
母さんは明日の準備と言って、まだキッチンに居る。「急に帰ってくるなんて」と言いつつ、姉ちゃんが帰ってくるのが嬉しいみたいだ。甘い匂いがするから、お菓子作りもしてるんだろうな。
「そういえば……あんたたち、明日お姉ちゃんが帰ってきても大丈夫なの?」
「なんで?」
母さんの問いかけに首を傾げると、ため息を吐かれた。
「テスト勉強は?」
「縁はするんだ?」
「兄貴はする気無さそう」
まさか勉強する気があると思われているなんて、思いもしなかった。そういうことに口出しするのは、姉ちゃんと縁だけかと思っていた。まあ、俺はする気ないし、縁も勉強をしているところを見た覚えがないけど。
「いいよ。俺と縁が勉強する気ないと思って姉ちゃん来るんだろうし、母さんもOKしたんだろ」
肩を竦める母さんはまた作業を始めた。縁は俺を見て、ため息を吐く。なんだ、やる気があるならあるって言えばいいのに。反抗期の可愛い奴め。
皿に盛り付けられたカレーは福神漬けが乗っていて、もうひとつの器にはサラダがもりもりに盛られている。山盛りのキャベツときゅうり、コーンにプチトマトがふたつ。ドレッシングも多めにかけてもらった。
スプーンにカレーを乗せる。俺はルーが多めで濃い味が好きだ。
口を開いて、ひと口。
すこしだけ、味がする。昨日よりは味がした。多少薄いけれど、それでもカレーだとしっかり分かる味ではある。
けれど、昼に鷹峰から食べさせてもらった時よりはぜんぜん薄い味だ。
あれはなんだったんだろう。なんであの時だけ?
手に持っていたスプーンが止まる。けれど、考えるのはやめた。きっと、俺では答えは出ない気がする。
止まっている俺を見て、不思議そうにする縁を見れば、誤魔化すようにまたスプーンを持つ手を動かし始めた。
完食して皿を片付ける。縁のほうが先に食べ終わって、さっさと二階へ行った。
なにがきっかけか知らないけど、縁はテスト勉強にやる気を出しているようなので、なるべく明日と明後日の姉ちゃんの相手は俺がしよう。
