「明」
名前を呼ばれて顔を上げる。
透の声でようやく現実に引き戻された。昔から透に名前を呼ばれるのはうれしかった気がする。
今日もうれしいはずだけど、何故か黎助のあの微笑みが記憶のなかに居座っている。
「そんじゃあ、一緒に帰るか」
透に言われると、慌てて「うん」と返して、テスト前とは思えないほどのすかすかの鞄を持って立ち上がる。
鞄を肩にかけて、ふたりで教室を出た。
廊下はまだ蒸し暑い。窓は開いているのに、風はほとんど入ってこなかった。
帰宅する生徒の波に流されるまま、階段を降りる。
その途中で、透が口を開く。
「そういや、山代ってさ」
山代、誰だっけな。記憶を引っ張り出すが、顔がぼんやりしている。同じクラスにいたはずなのに、うまく思い出せない。ということは、俺にとってそこまで関係のある人ではないのだろう。
「最初に休んだやつ」
それなのに、透は迷いなく言う。名前も、順番も、当たり前みたいに。
——そんなに覚えてるものか?
ほんの少しだけ、違和感が引っかかった。
「そんなの覚えてるって、透はそいつのこと気になってたんだ」
軽く茶化すつもりで言った。けれど、自分でも少しだけ声が硬いのを自覚する。
「うん」
あっさりした返事。間も、迷いもない。それだけで胸の奥がきゅっと縮む。
ああ、そうなんだ。
勝手に納得して勝手に落ち込む。情けないな、と思いながらもどうしようもない。鞄の持ち手を持つ力が強く籠る。俯いて、自分の足先しか見えない。
「山代って成績良かったからさ」
透は続ける。
「テスト前に毎回ヤマ張ってもらってたんだけど、今回の期末は無理だな」
一拍遅れて、理解が追いつく。視線を上げて透を見ながら「あ、そっちか」と、思わず声がこぼれて息が抜けた。
「え、何だと思ったんだよ」
「別に。というか、お前そんなことやってたのかよ」
強張った身体と、さっきまでの感情をなかったことにするように、肩をすくめる。
「知らないのは優等生か、成績を気にしてない明くらいだろ」
「今からでも山代に会えないかな……」
「俺もテストの神様失っちまったから、さすがに今回の期末は勉強しねぇとな」
軽く笑い合う。いつも通りのやり取りだ。いつも通りの幼馴染の、俺と透。恋愛なんて感情のない、ただの幼馴染で親友だ。
校門を出ると、夕方なのにまだ青空が広がっている。昼間よりはましだけど、空気はぬるい。
アスファルトの照り返しがじわっと熱を上げてくる。
「暑……」
思わずぼやきながら、シャツの襟元を掴んでぱたぱたと空気を送るが、全然涼しくもない。生ぬるい熱を循環させるだけ。虚しくなって手を止め、こっちを見る透と目が合うが「夏だしな」と、当たり前のことを返される。そういうところも、なんだか透らしい。
歩きなれた帰り道。今日はいつもと違って隣に透がいるけど。特に何か話すわけでもなく、並んで歩く。それでも、沈黙は苦じゃない。むしろ落ち着く。
昔からたくさん話すタイプではないが、口を開いたときの言葉は大体真っすぐだ。そこがみんなから好かれているところだと思う。けれど、透はよく話すタイプでもあった気もしたが、気のせいだったかもしれない。俺とは頑張って話さなくてもいい関係だと思ってくれているなら、特別な存在として見てくれている可能性がある。そんな些細なことがうれしい。
靴音がふたつ分、一定のリズムで続く。それだけで、なんとなく安心する。
しばらく歩いたところで、「明」と、透に呼ばれる。
顔を向けると、少しだけ視線が合う。どうしたんだろう、と首を傾げるが、視線を逸らされる。
「……いや、なんでもない」
「なんだよ」
「別に何でもない」
顔を前に戻されて、俺はその透の横顔を見つめる。
やっぱり好きだ。なんて、ぼんやり耽る。好きになったきっかけは何だっただろう。確か、夏だった気がする。いや、違う。夏になにかあったような。忘れているのに覚えている。気持ち悪い感覚に胸を摩った。
住宅街に入ると人通りはぐっと減って、遠くでセミの声が聞こえる。電柱の柱の陰で少しでも涼しくならないかなと入ってみたら、透に怪訝そうな視線を向けられたので、大人しく帰路に戻った。
分かれ道までそろそろ、というところで、背後に気配を感じて思わず首が動く。
振り返りかけて、それよりも先に声を掛けられた。
「あら、明くんに透くん」
振り返ると、近所のおばさんだった。片手にリードを持って、ふわふわもふもふなポメラニアン。あまりの可愛さに、姉が嫁に行くまでおばさんの家に入り浸る日もあった。確かに、もふもふで可愛い。
普段は大人しい印象の子だが、今日はやけに落ち着きがない。
「こんにちは」
透が先に挨拶したので、俺も遅れて挨拶と共に軽く頭を下げた。
視線を下に落とすと、犬がこちらをじっと見ている。
黒い目。瞬きもしないで、ずっと。
この子、こんな目してたっけ。なんとなくそう思ったが、またうろうろと歩き回るので、気のせいにした。
「ふたりとも、帰り?」
「はい」
「透くんは、今日部活ないの?」
「テスト前で休みなんです」
透が答える。いつも通りのおばさんとのやり取り。
なのに、おばさんの表情が少しだけ固い。笑っているのに、目が笑っていない。
おばさんは少し潜めた声で話す。
「あのね、うちの子、知ってるでしょ」
「ああ、一個下で陸上部の……」
名前が出かけて、止まる。思い出せないわけじゃない。
いい話では無さそうで、喉が開かなかった。
「そう、その子」
おばさんは小さく頷く。犬のリードを握る手に、少しだけ力が込められている。
「最近ね、学校行ってないのよ」
「確かに部活にも来てないけど……体調不良ですか?」
透が聞く。穏やかな話し方で。いつもと変わらないはずなのに、少しだけ低く聞こえた。同じ陸上部だから、心配なんだろう。
「それがね……」
おばさんは一瞬だけ視線を落として、先ほどまで貼り付けていた笑顔は消えた。
「何も喋らないの」
と、言って、視線は完全に地面へ落ちた。
「名前を呼んでも、反応しないし」
おばさんは困ったようにまた笑った。けれど、その笑い方はどこかぎこちない。俺たちに心配かけないようにと、無理に口角を上げているみたいで、見ているこっちが落ち着かなくなる。
おばさんの言葉に、胸の奥がざわつく。
——名前。
さっきまで、普通に呼ばれていたそれが、急に違う意味を持った気がした。
「うるさいくらいに話す子だったのよ。なのに急に……」
犬が小さく鳴いた。きゅ、と短い声。
でも、どこか掠れている。喉の奥で引っかかるような音。まるで、誰かの真似をしているみたいだ。
そのまま、こちらを見続けている。俺と、透を、交互に。
「ずっとぼんやりしてて……病院にも行ったけど、原因が分からないって」
おばさんは困ったように笑う。そして、おばさんも俺と透を交互に見つめる。
「学校のほうでも、なにかあったりしないかしら?」
「最近、休んでる人が俺たちのクラスでも多いですね」
「そう……」
おばさんは落胆した様子で深いため息を吐いたあと、気を取り直したように顔を上げた。
「あなたたちも気をつけて」
何に、とは言わなかった。
「……はい」
そう返すしかなかった。透も「分かりました」と頷く。
おばさんは軽く手を振ってから歩き出して、その隣を犬もついていく。
けど、一度だけ犬は振り返った。
こっちを見ていた。目が合った、気がした。次の瞬間には、もう前を向いていたけど。
「……なんか、やだな」
思わず呟く。自分でも理由は分からない。ただ、嫌な感じがした。
「なにが?」
透が聞く。その声はいつも通りだった。
「いや、なんか……」
うまく言えない。空席のこともさっきの話も、全部繋がっている気がして。
「気をつけろって言われたじゃん。だから何かあると嫌だなって思っただけだよ」
軽く笑ってごまかす。
「そうだな、気を付けないと。明は特にボーっとしてるからな」
「は?」
「はは、冗談。じゃあな」
「うん」
背を向けて、それぞれの道へ。数歩、歩いたところで、足が止まる。何故かわからないが、足が前に出ない。
「……明」
後ろから呼ばれた。足が動かない。
振り返ろうとして、——やめた。なんとなく。本当に、なんとなく。
「透?」
振り返らずに、声だけ返す。
少し間があって、「……なんでもない」と、声がした。
そのまま、何も続かない。まだそこに透がいるかと思って振り返ったが、姿はない。
「……変なの」
小さく呟いて、また歩き出す。背中に視線を感じた気がした。気のせいかもしれない。
俺は自宅に辿り着くまで駆け足で帰った。ホラーを見た日の不安みたいな、目に見えない恐怖がまとわりつく。
玄関に入ると、安堵でその場にへたり込む。先に帰っていた弟に不思議そうな目で見られたが、弟は反抗期なのかそのまま無視をして二階へ上がっていった。
弟に限らず、両親も特に心配するような言葉はかけてこなかった。
両親は優しいが、俺の意志を尊重してなのか、何も口を出さない。今日も夕飯の時だって、聞いてくるのは弟のことや、嫁いでいった姉のことばかり。友人周りの話とかも全然聞いてこない。昔は聞いてきたような気もするが、最近はめっきりだ。せめて進学はどうするのとか働きなさいとか、どちらか言ってくれたら助かるんだけど。
その日は、それ以上何も起きなかった。きっと俺の気にしすぎで、気のせいだった。
けど、夜。布団に入ったあと。
「明」
聞こえた声は、知らない声だった。
ドッと脂汗が出る。誰だ。知らない、知らない。でも、覚えている気がする。
足元でぐしゃっぐしゃになった薄いタオルケットを、足の指を器用に使って摘まんで引き上げ、手繰り寄せて頭まですっぽり隠れる。
足音も、呼吸の音もしない。こんな夜に人なんてこない。気のせいだろうか、そうだ気のせいだった。妙なホラー気分に浸ってしまって、幻聴が聞こえたに違いない。
タオルケットから、そろりと頭を出した瞬間、突然扉が開いた。
「うわッ!」
「えっ、な、なんだよ……シコってたとかじゃないのに、なんでそんな驚いてんの」
驚いて飛び起きると、それで更に驚いた弟がいた。
「なんだ、縁か……」
「あのさ、兄貴……最近、喧嘩したの?」
「喧嘩……なんて、誰ともしてないけど」
「ふーん、それなら別にいいんだけど」
俺をまじまじと見てから、拗ねたように部屋を出ていく縁を見て首を捻ったが、反抗期の男の子時代はよく分からない時期だと俺も通過した儀式なので、気にしないこととした。
むしろ、縁のお陰で怖さが消えたので、そのままタオルケットに潜り込んで、夢のなかに落ちていった。
まだ部屋の中は暗い。変な時間に目が覚めてしまった。
夢を見た。内容は覚えていない。ただ、誰かと笑っていた気がする。
距離も、声も近くて、隣にいるのが当たり前。そんな距離。俺がそんな近くで仲良くしているなんて、透以外にありえない。
「明」と呼んでくれた声が落ち着くし、ドキドキした。あれは透だった。隣にいて、名前を呼ばれるとうれしくなるなんて、透だけ。俺には透しかいない。
ピロン、とスマホの通知音が鳴る。
文字化けして、読めない。けれど、とても嬉しい気がする。このまま幸せに浸っていたい。
そう思った矢先、はっとして起き上がる。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
夢、か。夢のなかで夢を見ていたらしい。そう思おうとしたのに、胸の奥のざわつきが消えない。枕元に置いていたスマホに手を伸ばす。
通知は何もない。
当たり前だ。夜中に誰かから連絡が来るような相手もいない。
なのになぜか、「連絡が来ていたはずだ」と思った。
画面をもう一度確認する。何もない。履歴も、メッセージも、全部。
消えた?
いや、そんなはずないだろ。あれは夢のなか。寝ぼけてるだけだ。
そう思ってスマホを置こうとした、そのとき。ふと、スマホの画面に映る自分の顔の横。
ほんの一瞬、影が映った気がした。
反射的に振り返る。が、当然誰もいない。
「……気のせい、だよな」
小さく呟いた声が、やけに空っぽに響いた。
そのままベッドから降りる。床に足をつけた瞬間、ひやりとした感覚が伝わる。夏のはずなのに、妙に冷たい。
違和感を振り払うように立ち上がって、制服に着替える。夏服は半そでのワイシャツ。それならネクタイもやめさせてほしいけれど、しぶしぶと鏡の前で緩めにネクタイを結びながら、自分の顔を見る。
寝不足でもないのに、目の下が少し暗い。
「……睡眠時間は足りてるはずだけど」
呟いて、なんとなく違和感を覚える。でも、その違和感が何なのかは分からない。
まあ、いいか。適当に納得して部屋を出る。
階段を降りる途中で、ふと足が止まった。下から、話し声が聞こえる。
母親ともう一人。縁の声がした。
「ねえ、最近明の様子おかしくない?」
「……兄貴はいつでもおかしいじゃん。それに、何かあっても兄貴が原因だろうし」
「それもそうね」
一応親は心配してくれているらしい。俺は至って普通のつもりなので、縁の返事に文句を言いたいが飲み込む。母さんも納得しないでくれ。
階段を降りて、何も聞いていないフリをしながら、ふたりに挨拶をする。
「おはよ」
そう声をかけると、母さんはいつも通りの笑顔で挨拶をしてくれて、縁はため息を吐いたあと、さっさと家を出て行った。
「明、朝ごはんは?」
「んー……遅刻していいなら食べたい」
「ダメね。おにぎり渡すから教室で食べなさい」
「はーい」
母さん特製のおにぎりを受け取って、家を出た。
