その日の夜、黎助は俺の家に泊まることとなった。
 黎助はまた縁の家庭教師をしに行った。俺も暇だったので縁の部屋にいたら、邪魔だと追い出されてしまった。悲しい。
 そういえば、昼間母さんから持たされたパウンドケーキがあったはず。男子高校生はすぐに腹が減るので、包装紙を剥いて食べる。
 うん、うまい。けど母さんのパウンドケーキっていつも胡椒の実が乗ってるのはなんでだろう。
 甘すぎるもののアクセントにはいいけど。そういや、これも黎助の好きなものだったな。確か甘いものが苦手なこともあって、いつもお菓子を遠慮してたから、母さんが生みだした新作。
 それが意外と美味くて、姉ちゃんの好物にもなってた。姉ちゃんだけじゃなくて、黎助がいつ遊びにきてもいいように焼いてたんだろうな。
 このパウンドケーキも、黎助を思い出す手段のひとつになっていたかもしれない。俺の家族のなかで、黎助の思い出がしっかりとある。黎助の分まで食おうかと思ったけど、思い出用に一切れは残しておくことにしよう。
 ハンバーガー屋のパイだって、そうだ。あれは黎助だったな。金と見栄はある家だったから、ファーストフードとかは全然行かないって聞いて。初めて食べたときの黎助の不可解そうな顔が面白かった。
 それから俺は身体に悪いものを教えた。ドーナツとか、牛丼とか。そしたら昼ご飯がコンビニのパンとかになっていったから、さすがにまずいと思って、母さんに黎助の分のおにぎり作ってもらったりしたんだよな。弁当を用意するって言ったけど、黎助が断って。母さんの方がしょんぼりしてたな。でも、体育祭とかそういうときは、一緒に食べてた。行事にくるような親じゃなかったし。
 黎助のことを考えると、どんどん懐かしい話が溢れてくる。本当に、思い出ばっかりだ。
 まあ、それはいいとして。俺は、黎助に、伝えたいことがある。
 告白だ。
 というか夏祭りのときに伝えようと思って、姉ちゃんにも相談してたんだ。だから避妊具なんて渡しやがって。ポケットから取り出して、ぽいっとゴミ箱に捨てておいた。

 ベッドで転がっていると、黎助が帰ってきた。風呂上りで髪が濡れている。すごい色気だ。好きだって、自覚してからの威力が凄いが、記憶が無くなる前の俺はこれ、耐えられたのか?! すごい!
「俺も風呂行ってくる」
「気を付けて」
「何に?」
「……俺にかな」
「ばーか」
 
 風呂に入っても落ち着かなかった。湯船に浸かっても、頭に浮かぶのは黎助のことばっかりだ。
 濡れた髪とか。笑った顔とか。さっきの「俺にかな」とか。黎助に気をつけろって、そういうこと、そういうことで合ってるのか?
「無理だろこんなん……」
 顔を覆う。好きな奴が家に泊まってる。
 しかも両親公認みたいな空気。姉ちゃんは応援気味。なんなんだこの状況。
 
 風呂から上がって部屋へ戻ると、黎助は俺のベッドを半分占領してスマホを見ていた。
 俺のオーバーサイズのTシャツを着てる。終わりだ。
「明、ドライヤー使う?」
「使う……」
 受け取る時に指が触れて、無駄に心臓が跳ねる。
 やばい。今なら言えるかもしれない。いや無理かもしれない。
 でも今言わないと、また一年とか経ったら嫌だ。
 ドライヤーの音だけが部屋に響く。黎助が、こっちを見る。
「……明?」
「あ、あのさ!」
 勢いで予想以上の声が出た。
 黎助が驚いているが、気にしない。
 今だ。言え、俺。

「俺、黎助のこと――」

 コンコンコン!!!!
 誰だ! 普段ノックそんなにしないだろ!
「明ー! 母さんから聞かれたけど布団の追加いるー!?」
 姉ちゃん! あ、これヤってたら空気がマズイから、めちゃくちゃノックしてるやつだ! そんな気遣い要らないから!
「いらない!」
「あとアレ、使ったら包んで捨てなさいよ」
「ばか!!!!」
 最悪だ。人生で一番最悪なタイミングだ。
 声を潜ませたって黎助には聞こえているわけで。そして黎助はゴミ箱の中を見てしまっているから、今現在。なうだ。now。
 頭を抱えて羞恥で死にそうになっていると、隣で黎助が肩を震わせていた。
「……っ、はは」
「笑うな!!」
「ごめ、ごめん、無理……」
 腹抱えて笑ってる。こんな黎助初めて見る。
 けれど、空気と恥ずかしすぎて告白どころじゃない。
 勢いは完全に死んだ。勢いもタイミングも今じゃないことは悟った。中途半端に乾かした髪のまま、ベッドに倒れ込む。
「……もういい」
「えー」
「絶対今じゃなかったし……」
「まあ、明らしいけど」
 笑いながら言う黎助に、クッションを投げつける。まさに当てつけだ。
 くそ。避けられた。
「そっか、結さんからか。よかった」
 上機嫌に飛んで行ったクッションを取りに行った黎助が独り言ちて、机の上に置いた食べかけのパウンドケーキを指さす。
「明、これは?」
「食う?」
「食べかけか……新手の嫌がらせだったりする?」
「八割くらい」
「そっか。じゃあ貰おうかな」
 残ったパウンドケーキを大口開けて躊躇いなく齧りつく。
 俺の家族の前だと食事のマナーを大分気を使っているけれど、二人の時は結構雑だ。
 指を舐める赤い舌。
 さっきまで意識していなかったのに、急に意識する自分の単純さが嫌になって、ずるずるとベッドにうつ伏せで倒れ込む。
「やっぱりおばさんの手料理、美味いね」
「黎助に美味いもの食わせるために、生み出された失敗作を処理する俺もいるけどな」
「それはそれは、俺のためにありがとう」
「どーいたしまして」
 それから寝支度をして俺はベッド、黎助はソファで横になる。黎助用のソファベッドだ。
 今の黎助にはソファベッドは小さいから、まだ黎助より小柄な俺と場所を交代するか毎回聞くけど、NOと言われてしまう。
「おやすみ」
「……おやすみ」


 部屋の電気を消す。
 カーテンの隙間から入る街灯だけが、ぼんやり部屋を照らしていた。
 静かだ。怪異もいない。誰かの声も聞こえない。なのに、眠れない。
「……黎助」
「なに」
 即答だった。
「起きてたのかよ」
「明もね」
 ソファの方を見る。暗がりの中で布が擦れた音と共に、黎助もこっちを見ていた。
「……なんか、不思議だなあ」
「何が?」
「普通に話せるの」
 一年間、黎助のことを忘れてしまって。思い出せなくて。俺は思い出す努力もしてなくて。気付けない状況とはいえ、その環境にただ流されていた。
 なのに今は、こうして同じ部屋で話してる。それは全部、本当に黎助のお陰だ。
「俺さ」
 黎助が静かに言う。布の擦れる音がする。暫くの無言。これは言いあぐねているとき。口は挟まない、そしたら黎助は自分の意思を隠して、二度と言わなくなるって知っているから。
「もう戻れないかと思ってた」
 その声が少しだけ震えていて、か細い。昼間みたいな余裕がない。
「明に忘れられたまま、高校卒業する可能性も考えてた」
 胸が苦しくなる。俺は呑気に忘れて。黎助はずっと覚えてくれて、それを抱えてた。
「……ごめん」
「明が謝ることじゃないって」
「でも」
「俺が勝手に好きだっただけだから……、おやすみ」
「お……やすみ……?」

 暗闇の中。
 その言葉だけが、やけに鮮明に聞こえた。