気づいたら、病院にいた。全部夢だったかな。なんて思うことにしようとしたが、黎助の記憶は消したくないな、というわがままで現実だということにしよう。
 俺が目を覚ましたことに気づいた母さんが、看護師さんを呼びに行く。
 それから医者が来て、何個かの質問と点滴を抜かれて帰っていいとのこと。母さんに聞いたら、黎助が救急車を呼んだらしい。初めての救急車の記憶が無くてちょっと悔しい。
「黎助くんにお礼言っておくのよ」
「そういや、黎助は?」
「黎助くんなら縁の家庭教師してもらってるから」
「なんで?」
 どうしてそうなった。話の流れは分からないが、俺が運ばれてからとりあえず三時間くらい経っているらしい。
「あんたのことが心配で心配で、何も手につかないからなにかさせてほしいって。よかったわね、明」
 背後からにゅっと出てきた姉の言葉に、言葉を詰まらせる。やっぱり、そうだ。俺は姉ちゃんには言っていた。黎助が好きだってこと!
 何とも言えない顔で姉ちゃんを見ると、少し勝ち誇ったような顔で車まで向かっていった。
 父さんの運転で、自宅に帰る。玄関を開けると、二階から足音がふたつ。
「……おかえり」
「うん。ただいま」
 縁がちょっと距離が遠いがいつもの挨拶をしてくれる。それが嬉しくて、笑ってしまう。
「明、無事で良かった。本当になんともない? 痛いところとか違和感があるところとかない?」
 顔をぺたぺたと触られてちょっと気恥ずかしい。手を掴んで、そっと引き剝がしたら、「あ」という声と共に大人しく手を放してくれた。ちょっと暴走したらしくて、それを見た父さんと母さんはほのぼのとして、姉ちゃんはにやにやして、縁は呆れている。
「ちょっと、黎助。話がまだ途中だから」
「黎助くん独り占めはずるい」
「母さんは息子より黎助なわけ?!」
「ちゃんと私のご飯美味しいって言ってくれるもの!」
 玄関を上がって、黎助の手を掴む。母さんの黎助大好きっぷりがちょっと面倒なので、そのまま二階に引き連れる。二階へ上がる途中に、家族に頭を下げていく黎助の姿を見て、ますます母さんは気が良くなる。そういえば、母さんは黎助の顔面が整っているって言ってたな。親子で好みが似てるのか。いや、そこだけじゃなくて、礼儀とか所作とか、そういうのが好きなんだろうな。そこは俺も分かるし。やっぱり好みは似てるのか。
 俺の部屋に通すと、黎助は当たり前のように勉強机前の椅子に座って、俺はベッドに座る。ふたりのいつもの場所だ。
「俺は大丈夫だったんだけど、そっちは、その……腕は?」
「大丈夫、なんともないよ。寧ろ綺麗に消えた」
 腕を見せてもらうと、噛み痕が全くない。
「去年噛まれた此処に黒い靄があったんだけど、それも消えてるし。多分あの怪異が持っていってくれたのかもね」
「去年の夏祭り……」
「そう、明がナニかに呼ばれて追われて、転んで、俺が噛まれた。中途半端に犬に好かれた明を、佐伯透に見られた」
 答え合わせ。黎助から教えてもらうが、まだピースが足りなさすぎる。
「味覚も?」
「それは分からないし、俺の推察だけど犬神は味覚を変化できる、って話があったから……もしかしたら、明は犬神にも好かれていたのかもしれない。夏祭りの犬は、送り犬じゃなくて犬神だったのかも」
 その推察が合っているかは、また夕飯の時に検証するしかない。
「それにしても、色々好かれすぎじゃん」
「……明は、敏感だから」
 言い方にどきりとする。ちょっと待ってほしい、絶対わざとだろ。勝手に集まる顔の熱。それを見て笑う黎助にムッとする。
「敏感で人を寄せ付けて、それが良いこともあれば悪いこともある。敏感であり、鈍感でもあるというか……」
 褒められているのか貶されているのか分からなくなってきて、首を傾げて黎助を見れば、黎助は椅子から立ち上がって、ベッドにいる俺の隣に座る。
「人って、生まれて最初にもらう呪いって何だと思う?」
「呪いなんて……」
 突然の謎解きが始まってしまって、困惑する。そして黎助と距離が近い。
「名前」
「名前って、…………あ。そういえば、今は明って呼んでくれてるな」
 黎助といて、違和感がないのはそのためか。やっぱり社本と呼ばれるより、名前で呼ばれたほうが嬉しい。特に好きな人には。
「のろいでも、まじないでも。俺の家ははたから見れば裕福だけど、親とは……そんなに仲が良くないから」
 そうだ。黎助の家は夫婦も親子も仲が良くない。裕福ではあるし、外面はいいから生活は送れているけれど、黎助が愛されているとは言い難い。黎助から昔少しだけ聞いた話も、本当に信じられなかった。母さんもそれを知っているから、黎助を実の息子のように、息子以上に可愛がっている理由もそれだろう。
「黎助って名前。全然良い意味なんかじゃない。付けたときの意味も、生みたくなかったからだって」
 そうなんだ? いや、そうだった。黎助の名前、昔調べたことがあった。黒いとか、暗いとか。それを生んだ息子に言うなよ! と、憤怒しそうになるが、肩を叩かれたので、黎助の代わりに怒るのは一旦やめておくことにする。
「あの両親のことはどうでもいいんだ。呪い、祝福、まじないだってなりうるもの。一番最初に受けるのは名前」
 だからなんだろう。腕を組んでうんうん考えていると、隣で笑った気配がする。やっぱり黎助はよく笑う人だと思うんだけど。今度俺の家族にも聞いてみよう。
「明は、怪異の影響で明も怪異になってたんだ」
「え?」
 全然違うことを考えていたとき、予想外なことを言われた不意打ちの驚きで黎助の方向を勢いよく見つめる。
「佐伯透」
 黎助が名前を言って、途端に胃がむかむかしてきた。表情が歪んだことで、宥めるように背中を撫でてくれる。黎助はスキンシップが多いな……。けれど、じんわりと胃が治ってきた気がするから、手を当てて摩られるだけで癒されて、手当てって言葉そのものみたいで黎助の手は魔法の手だ。

「明と名前が合わさると、透明」
「だから?」
「記憶が透明になる」
 透明になる。それは消えるとか、覚えられないとか、真っ白になるとか。確かに、黎助の記憶は消えてしまった。それで、透のことが上書きされた?
「……あとは、俺の名前が黎だから」
 黎だから? だからなんだって言うんだ。それ以上、黎助の名前に何か暗い意味を持たせないでほしい。こんなに綺麗な音なのに。
「俺が明の名前を呼ぶ度に、明の記憶は消えていった」
 だから社本と呼んでいたってこと。そう言って、眉尻が下がる黎助の顔が辛そうで。何をしたら慰めになるのだろうと、抱きしめた。
「ごめん、黎助!」
 勢いよく抱き着くと、黎助はグッと身体に力が籠って強張っている。けれど、少ししたら背中に手を回してくれる。
「俺には明がいないとダメだ。明がいないと、ずっと暗い夜のままでさ。でも、明は人に……怪異にも好かれて」
「怪異に好かれるのはもう嫌だなあ……」
「ははっ、うん、そうだね」
 笑って揺れる振動が、俺の身体に伝わる。それが嬉しくてますます腕の力を籠めると、ギブアップとばかりに背中を叩かれる。
「ほかにも、飯塚先生に、橘先生、月森さんも……明に反応してた」
「え?! そうだった?」
 頭を上げるとちょっとだけ拗ねた顔をする黎助を見て、可愛いと思ってしまう。前に、黎助から可愛いと言われたが、多分こういう気持ちだったんだろう。確かにすごく可愛い。けれど、飯塚先生と橘先生、星だって別になんともなかった気がする。
「まあ、あのあたりは多少の影響だし。どっちもいい影響だったし」
 まだ拗ねている黎助の頬を抓ってみても、無抵抗のままだ。どうやら、結構落ち込んでいるのもあるらしい。
「黎助が俺の名前を呼ぶ度に記憶が消えて、透で透明化されて新しい記憶に書き換えられてたってこと、でいいのかな」
「佐伯は意図的に書き換えてた。俺も色々と実験はしてた、メッセージ送ってみたりとか」
 あの例の夜中に送られたやつ。確かに、覚えていなかったのも、文字ですら名前を呼ばれたら、記憶から消されていたのか。難儀すぎる自分の怪異!
「でも、去年の夏にそれが起きて、なんで今更黎助のこと思い出したんだろ。母さんと縁だって、今更……」
「ようやく容量がいっぱいになったんだと思うよ。言ってただろ、佐伯透が」
 透が犬の怪異を使いすぎて容量がいっぱいになって、俺に付けられた怪異の呪いが薄まってきたってことなのか。でも違う犬なのに? もしかして、犬神と送り犬は繋がっていたのか。そのあたりは見当がつかない。
 でもそれで母さんと縁が、最近俺が全く黎助と話していないことに気づいた。黎助の存在が暗闇からも透明からも抜け出せたのか。
「それに、明のおばさんの名前は(つむぎ)さんで、(えん)くんと(ゆい)さんの名前も。いい名前だね」
「…………母さんの名付けに感謝しとく」
「うん」
 気恥ずかしいそうに言う俺に、頭をぽんぽんと撫でられる。ちょうどいいなって、嬉しくなる。俺の頭を撫でる手のひらの大きさはこの大きさだって、しっくりくる。
「この怪異、プログラミングの妖怪とかだったのかもね」
「なんだよそれ」
「名前があると意味をもって行動して処理、実行してしまうところがさ」
「妖怪も進化してんのかよ。やだよ、妖怪だらけになるじゃん」
 二人で笑い合う。こうやってくだらない話ができるくらい、ちょっとは日常に戻れた気がする。束の間のかもしれないけれど。

「あのさ、黎助」
「なに?」
 抱き着いていた身体を思い出して、ようやく離すと、黎助の顔をじっと見つめる。今度は黎助が首を傾げる番だ。
 口を開いた瞬間、下の階から声が聞こえる。晩御飯のお誘いだ。黎助くんのも準備してあるわよ、なんて拒否権のないお誘いである。
「……食ってく?」
「明のおばさんのご飯、美味しいからね。ありがたく頂こうかな」
 そう言って笑う黎助に、なんだか少しだけ安心した。


 当たり前にある、黎助の椅子。それは俺の隣に並んでいる。姉ちゃんが帰ってきても十分にある食卓のスペースは、本当に黎助のためにあるようなものだ。
「いただきます」
 全員の声が重なる。全員集まれるときはなるべく全員で食べる。それが我が家のモットーだ。
 湯気の立つ味噌汁。焼き色のついたハンバーグ。サラダに刺身、オムライス。
 母さんのことだから、ハンバーグにはチーズでも入っているんだろう。それに、黎助の好きなオムライスまで急遽追加したに違いない。結果、食卓は和洋折衷もいいところだった。でも、並んでいるのは全部、好きなものばかりだ。
 
 ハンバーグを一切れ箸で切る。見慣れたはずの夕飯。なのに。
「……あ」
 口に入れた瞬間、思わず声が漏れた。
「どうしたの、明」
 母さんが不安そうにのぞき込んでくる。
 違う。違う、そうじゃない。不安そうにしないでくれ。
「うま……」
 じわ、と視界が滲む。
 肉の味がする。玉ねぎの甘みが分かる。ソースがしょっぱくて、少し甘くて、美味しい。
 今までだって食べていたはずなのに。黎助に食べさせてもらわなくても、ちゃんと怪異がいなくなった。
 怖かった。味がなくなったことも。ナニかに追われていたことも。黎助のことを忘れていたことも。
 ようやく、全部ぜんぶ、解放されたのだ。
「えっ、ちょ、明!?」
 姉ちゃんが慌てる。俺が泣いてると一番動揺するのが姉ちゃんだ。無言だけど、縁もちょっとおろおろしているのが視界の端に映る。
「なに泣いてんの!? 怖いんだけど!」
「うるさい……っ」
 涙が止まらない。母さんが正面でぽかんとしていた。
 隣でも、オムライスをひと口食べた黎助が泣いていたから。
「す、すみません……」
 一年間、俺のことを守ってくれたんだ。仲が良かったひとに忘れられていたんだ。それが全部終わった。黎助だって、怖かったはずだ。辛かったはずだ。
 よかった、一緒に母さんのご飯が食べられて。隣に座ることができて。
 家族はみんな喧嘩したあとの仲直りだと思って、やれやれって雰囲気を出している。正面に座る父さんが立ち上がると、俺と黎助の頭をわしゃわしゃっと撫でる。喧嘩したり、仲直りするとき、慰めるときにする父さんの不器用なやり方だ。
 黎助と互いに顔を見合わせて、ぼさぼさになった髪と泣き顔を見て笑い合った。