玄関で靴を履いて、外に出る。
昼前の一番暑い時間。雨が降った日を思い出せないくらい、ここ最近ずっと晴れが続いている。
暑い。暑いことなんてしたくないのに、足は自然と早くなる。会いたい。知りたい。
家を出るまで少し時間が掛かったから、鷹峰を待たせているかもしれない。
走って、人通りの少ない抜け道に入る。
近所の人はみんな知っているけど、通学路には指定されていない道なので、使うと怒られる道だ。補装されていないし、天気が良くても周りの壁で日陰になっていて、ジメジメしている。雰囲気的にもみんな使いたがらない。
はやく、一秒でもはやく鷹峰に聞きたいことがある。
「明」
耳心地の良い名前で呼ばれた。
迎えに来てくれたと思って、俺は。
「なに。黎助、迎えに――……」
振り返った。
透。
佐伯透。
あれ、透ってこんな顔してたか? どんな顔だったっけ。
佐伯透は人当たりのいい、爽やかな男。
まるで、知人くらいの認識の記憶。目の前の男を認識する顔の情報は、それしかない。
透のことを好きだった気持ちが、今は鷹峰に戻っているせいなのか。なんで、俺は透を好きだと思ってたんだろう。
爽やかってみんな言うけど、今の透の顔は、爽やかとは程遠い。この空間がよく似合うような陰湿な顔。
「えっと、どうしたんだよ……」
「明に会いたくて」
きっと、数日前の俺なら喜んでいたと思う。でも、今は怖くて、それに白々しい。俺が喜ぶような言葉を選んでいる。
「そんなウソはいいから」
「嘘じゃないって。それに犬の散歩中なんだよ」
散歩。散歩と言っても、目の前には透しかいない。
嫌な汗が流れる。意識させられると、感じ取ってしまう。見たくないのに。
透の隣がぐにゃりと歪んでいる。目を細めると、なんとなく黒い靄にも見える。
「あーあ、上限があるなんて知らなかったんだ」
透はしゃがんで、隣のナニかを撫でる。
「なに、が……」
「ナニって、分かってるだろ」
得体の知れないものを撫でながら、俺の方を見るが、表情が読み取れない。
でも、ひとつ分かることがある。隣にいるナニかが、今までの原因ってことだけ。
「なんで、透が……?」
「なんでって、興味があったから」
「きょう、み?」
ナニかを撫でているが、何も音がしない。
「好きな人に裏切られる姿とか、絶望する姿ってやつ?」
「は?」
「去年の夏祭りの時にお前が襲われたのを見たんだけど、それからお前、俺のこと鷹峰のポジションに勘違いしてさ」
夏祭り。そんな記憶は……ちがう、ある。夏休みに祭りがあって、それを透、と……違う。鷹峰だ、鷹峰と一緒に夏祭りへ行った。その前に、姉ちゃん以外、鷹峰本人はもちろん誰にも好きという感情は隠していたはずなのに。そんなに俺って、好きって感情がみんなにバレバレだったのか!
それが鷹峰から透にスライドしているというとは、鷹峰にもバレバレだったということだ。二重に恥ずかしいが、今は恥ずかしがっている状況ではない。ここから抜け出せたら、鷹峰を問い詰めよう。
「こいつも、そん時に見つけたんだけど」
「こいつ……?」
やっぱり透の周りには何もいない。けれど、変なにおいがする。何度か嗅いだことのある臭い。星のときにも漂っていた、あの臭い。
「明って俺が仕掛けなくても、怪異に狙われやすい体質って言う―の? だから、他の犬に先越されそーで冷や冷やしたけど」
「ほかの犬?」
「最近、犬たちが俺の真似して言葉を覚えやがってさ、名前呼ぼうとしてんだよ。それに、最初に明を襲ったデカいヤツは、名前を呼んでたし」
ほかの犬。怪異はひとつじゃなかった。だから、橘先生と鷹峰の言っていることに差異があったのか。
だから、それで? なぜ、透は俺にそんなことを言うんだ。
犯人は全部話したあと、聞いた奴をどうする?
透の次の行動の、最悪のパターンを予想して、足に力を入れる。
「でも、それも出来ないみたいだから、お前もう要らねえわ。さっき呼ばれて返事して振り向いたヤツ、だーれだ」
走って逃げろ。橘先生の、言葉を思い出す。
走る。とりあえずこの細道から出るために。背を向けて、全力疾走。身体鍛えておけばよかった。今更の後悔がひどい。
苦しい、めちゃくちゃ苦しい。胸が締め付けられる。肺が焼けるみたいだ。けれど、今止まるわけにはいかない。
後ろから足音が聞こえる。爪が固い地面を蹴る音。
カツ、カツ――……カツ、カツ――
いや、違う。足音じゃない。リズムがおかしい。
一歩ごとに間がズレている。速くなったかと思えば、ぴたりと止まる。なのに、確実に詰まっている。
背中に視線を感じる。怪異か、それとも透かもしれない。
わからない。振り返るな。分かっている。見たら終わる。
そうだ。いやだ、こんなところで終わらせたくない。せめて謝りたい。鷹峰に、黎助に謝りたい!
「明」
すぐ後ろで声がした。
びくりと肩が跳ねる。さっきよりも近い。近すぎる。
足が止まりかける。
――走れ。
頭の奥で、誰かの声が弾ける。
歯を食いしばって、無理やり足を動かす。
狭い道を抜ければ、人通りのある通りに出る。
そこまで行けば、誰かが助けてくれるかもしれない。ここで誰にも知られずに怪異に蹂躙されるより何百倍もマシだ。
あと少し、あと少しだ――……!
光が見えた。
少し、ほんの少しだけ気を抜いた瞬間、ぐにゃり、と視界の端が歪んだ。
横。
思わず目を向ける。
壁際。日陰の濃い場所。
そこに、“それ”がいた。
黒い。形が定まらない。けれど、さっきよりもはっきりと、“四つ足”の輪郭を持っている。
地面に、影だけが先に走る。
「っ……!」
息が詰まる。あれが、追ってきている。
透じゃない。透の隣にいた“ナニか”。
足音が増える。後ろだけじゃない。横、前、どこからでも聞こえる気がする。
逃げ場が、削られていく。
「明」
また、呼ばれる。
今度は、優しく。昔、何度も聞いた呼び方と同じで。
胸の奥が、ひどくざわついた。
違う。これは違う。
分かってるのに。
懐かしい、と一瞬でも思ってしまった自分に、ぞっとする。
足が、止まる。
その瞬間。
ぐん、と背後から何かが跳ねる気配。
来る。
反射で身体を捻る。視界の端に、黒い塊が飛び込んできた。牙の形だけが、やけにくっきり見える。
避けきれない。両腕で顔を覆って、ぎゅっと目を瞑る。もうだめだ。
そう思った瞬間――
ぐちっ。
生々しい音が聞こえる。嫌だ。
痛いのは嫌だが、みんなのことや、鷹峰の記憶を思い出す前に、全部なくなってしまうのが嫌だ。
怪異に噛まれても痛みはないのか。記憶はこんなにも保っていられるのか。
数秒の疑問は、長い時間にも思える。おかしい、そう思って、顔を上げると目の前に、誰かの腕が割り込んでいた。
「っ……!」
低く押し殺した声。黒い塊――犬みたいな“それ”は、鷹峰、黎助の腕に噛みついていた。噛みついている、肉は凹んで骨の軋むような音が聞こえる。
「黎助!?」
頭が真っ白になる。
なんで。なんで、黎助が。
塀の陰に居る俺と、丁度抜け道の境の向こう側にいる黎助のあいだ、隔たるような影の境界。
見上げると、黎助はまぶしくて、神々しくて、まるで俺の道標みたいだ。
既視感がある。見覚えがある。俺はこの状況を知っている。二度目だ、助けてもらったのは。
犬は唸り声も上げず、ただ肉を裂くみたいに食らいついている。輪郭はぼやけているのに、腕の肉に埋もれた牙だけが異様に鮮明だった。
「さわ、るな……!」
鷹峰が呻くように言う。
反対の手で無理やり犬の頭を掴み、そのまま引き剥がした。
べちゃり、と黒い靄が地面に落ちる。
生き物みたいに蠢いているのに、影みたいだ。
「黎助、腕……ッ」
「大丈夫」
慌てる俺を落ち着かせるためか、それともこれ以上騒がないためか、抱きすくめるように背中に手を当て、力強く引き寄せられる。
なんでここに黎助がいるんだ?
それに黎助との約束を破ってしまったし、腕の怪我はどうしよう、手当をしないと。
そう思って、そろりと黎助の腕を見ても噛み痕も、血も流れていない。驚きのあまり黎助の腕を掴んでマジマジと見つめるが、本当に何もなっていない。
「……は?」
背後から聞こえたのは、透の声だった。数歩離れた場所で、初めて動揺した声をしている。
「なんで、そっち……?」
そっち、とはなんだろう。俺が狙いだったはずなのに、黎助が噛まれたせい?
「……去年の夏祭りと一緒だね、佐伯透」
「ははっ! なんだよ。奪われて指くわえてた男がよ」
夏祭り、一緒。
なんのことだ、ふたりはそこで何かあった?
俺の知らない記憶。知らないんじゃない、忘れているんだ。さっきの既視感は、現実にあった、俺が忘れていることだ。
黒い犬がゆらりと立ち上がる。俺と黎助を見つめてくる。
けれど、さっき俺を追い掛け回したような殺意はなく、首を垂れてその場に迷子のように彷徨っている。
俺を見て、黎助を見て、また俺を見る。
「夏祭りの時、明がソレよりでけえ犬に襲われて、それでソイツがさっきみたいに庇ってたのを見たんだよ」
透は顎で黎助を指す。
以前黎助が言っていた、大切な人って……俺か?!
動揺してしまうが、黎助は微動だにしないし、寧ろ背中を引き寄せられて、黎助の顔も透の顔も見えない。
「コイツは明を襲ったヤツとは違ってコケた奴を襲うんだけど、それじゃ要領悪ぃからさ、俺の声を貸してあげたわけ。俺が呼んで、襲わせる。そっちの方が明を襲った犬みたいで効率的だろ」
「なんで、そんなこと……?」
そっと振り返って透の顔を見ると、瞳が人間じゃない、気がする。直視していたら、いけない気がするのに、目が離せない。
ぎゅっと、黎助の服を握ると、手のひらが目の前を覆って、透と視線が物理的に外れる。
「面白そうだから」
「は……?」
「興味。別に苦労もしてない、何もない、楽しくもない人生。そんな中で面白そうなものを見かけたら、興味が湧くだろ」
「それだけのために、お前は、今までソレで襲ったのか?!」
「そう。でも今まで実験。最後に一番愉しそうな明を残してたんだけど、一番つまんねえ結果になっちまったな」
ははは、と笑う透は無邪気な子供みたいだ。
「一番最初の被害者は、山代なんだろ……」
「正解」
一番最初に休んだ人は山代。そんなの知らなかった。そんなの誰も知るはずなんてなかった。それよりも先、一年生のときまで遡れば、長期間休んで休学や退学をしたやつがいたし、風邪を引いて休んでる奴もいた。それこそ山代の言っていた、園山や黒川みたいに。そのあとも複数人休みはじめて、誰が最初かなんて知らなかった。なんで透は山代だって知っていたんだ。もっと早くに気づいていればよかった。
透が一番最初にクラスメイトで襲った奴が山代なんだ。
目元を隠す黎助の手を掴んで外させる。そうすると、背中に添えていた手も腕も多少緩んだ。
「ちなみに、明の記憶を弄ったのは俺じゃない。それは知らねえけど、面白かったから利用させてもらっただけ。最初に明を襲った犬もコイツじゃないし」
「じゃあ、なんだって……」
「知るかよ、うっざ」
普段の爽やかな好青年、という透はどこにもいない。アレは俺が作り出した透だったのかもしれない。星が、透に対してかなり苦手意識を持っていたのを思い出す。根本の透の本性を、感覚的に星は感じ取っていたんだ。
「はーあ、けど最悪。コイツ上限一個だからマジで面倒なんだよ」
「……上限?」
思わず聞き返すと、透はだるそうに頭を掻いた。
「コイツ、“ちゃんと喰える相手”が一人だけなんだよ。月森が噛まれて押し出された山代みたいに、容量だって少ねえ」
黒い犬を、軽く足先で示す。
「だから、最初に狙い定めた相手を追わせるのが一番効率いい。呼ばせて、振り返らせたり転ばせて、喰わせる」
ぞっとするほど軽い口調。悪いことだとも、犯罪でもなんとも思っていない。ただのおもちゃ遊びをしている感覚なんだろう。
「だからさあ」
透が笑う。
「鷹峰が噛まれたせいで、ズレちまったんだよ」
その瞬間、黒い犬がぴくりと反応した。透を見る。俺を見る。黎助を見る。
迷ってる。そんな風にしか見えなかった。
「本来なら、“呼ばれた側”だけ見てりゃよかったのに」
透の声が、少しだけ苛立つ。
「鷹峰がソイツを庇ったせいで、“優先順位”が壊れたんだよ」
黎助が、静かに口を開いた。
「……怪異の認識が、俺にも向いた」
「そ。最悪」
透は肩を竦める。
「しかもコイツ、執着が強い方に引っ張られるっぽいんだよな」
嫌な沈黙。黒い犬が、ゆっくりと――透の方を向いた。
「違う」
「……あ?」
「怪異は、公平なんだ。条件だけで動く」
透の声が止まる。
初めて。初めて、透の顔から余裕が消えた。
黒い犬の輪郭が揺らぐ。地面に落ちた影が、じわじわと透の足元へ伸びていく。
「おい、待て」
透が一歩下がる。犬も、一歩進む。
「は? なんで俺?」
笑い声が消えている。
その顔を見て、背筋が冷えた。
――こいつ、本気で想定してなかったんだ。自分に怪異が向かうかもしれないことを。
黒い犬が、ぐん、と跳ねた。
「っ!」
透が咄嗟に避ける。
コンクリートを爪が抉る音。
今まで俺を追っていた時より、速い。
「おい、ふざけんな!!」
透の声が裏返る。
犬は止まらない。ぐるり、と低く身体を沈める。
狙ってる。完全に透だけを。
「お前だろ! 俺が呼んだんだぞ! どれだけ協力したと思ってやがる!」
叫ぶ。けれど犬は理解しない。いや、最初から言葉を理解なんてしていなかったのかもしれない。
透は後退る。黒い犬は、その分だけ前へ出る。逃げるものを追うみたいに。
「っ、待っ……!」
透が踵を返す。
その瞬間、犬も飛び出した。黒い影が、小路の奥へ駆けていく。
透の荒い足音。それを追う爪音。
補装されていない、道。ドサッと転ぶ音。
そして、少し遅れて。
人間のものとは思えない悲鳴が、小路の奥から響いた。
透の悲鳴が、ぶつりと途切れる。
静寂のなか、呼吸の音だけがやけに大きい。俺と、黎助と、遠くから獣の呼吸。
俺は動けなかった。助けに行かなければいけないのに、足が竦む。
黎助も動かない。
小路の奥から、ぐちゃっ、と水気を含んだ音がした。
胃が捻じれるような感覚。見るな。本能がそう叫ぶのに、視線だけが奥へ引っ張られる。
暗闇のなかから、黒い犬が歩いて向かってくる。逃げないと。剥き出しの牙が赤い。いや、赤黒い。
それが透のものだと理解した瞬間、吐き気が込み上がる。手のひらで口元を抑えると、黎助が背中を撫でてくれる。
犬のようなナニかは俺と黎助を見上げてくるが、もう飛び掛かってはこない。
役目を終えたみたいに。そのまま輪郭が滲む。
夜の陰に溶けるみたいに、少しずつ、少しずつ薄れていく。最後消える直前に、失った声をようやく絞り出せるみたいに、嬉しそうな「わんっ」とひと鳴きだけして、消えていった。
「終わった……のか」
声が掠れて、俺の声だと分かるまで時間が掛かった。
黎助はただ俺の肩を抱いたまま、小路の奥を見ていた。
肩から手を離して一歩、また一歩と奥へ進む黎助の後ろ姿に俺も歩く。
そして、小径の出口に到着しても、透の姿はなかった。
今までとは違う。星のように、山代のように。倒れたり、虚ろ気味になったり、かならず人のかたちはあったのに。透だけは違う。
隣に並び立つ黎助の横顔がひどく苦しそうで。そこでようやく、現実が追いついた。
佐伯透が消えたこと。黒い犬が消えたこと。そして、黎助が噛まれたこと。
押し込められていた記憶まで、一気に溢れ出す。
夏祭り。転びかけた俺。俺を庇った黎助。伸びてきた黒い影。
忘れていたんじゃない。佐伯透という存在が消えて、黒い犬がすべて持って行ってくれて、闇に覆われていた記憶が一気に修正される。
黎助が噛まれたことや色々な感情を思い出す、その脳内作業が至極辛い。頭痛が酷くて、その場に蹲ってしまう。心配する黎助の声が遠くて、そのまま意識を手放した。
昼前の一番暑い時間。雨が降った日を思い出せないくらい、ここ最近ずっと晴れが続いている。
暑い。暑いことなんてしたくないのに、足は自然と早くなる。会いたい。知りたい。
家を出るまで少し時間が掛かったから、鷹峰を待たせているかもしれない。
走って、人通りの少ない抜け道に入る。
近所の人はみんな知っているけど、通学路には指定されていない道なので、使うと怒られる道だ。補装されていないし、天気が良くても周りの壁で日陰になっていて、ジメジメしている。雰囲気的にもみんな使いたがらない。
はやく、一秒でもはやく鷹峰に聞きたいことがある。
「明」
耳心地の良い名前で呼ばれた。
迎えに来てくれたと思って、俺は。
「なに。黎助、迎えに――……」
振り返った。
透。
佐伯透。
あれ、透ってこんな顔してたか? どんな顔だったっけ。
佐伯透は人当たりのいい、爽やかな男。
まるで、知人くらいの認識の記憶。目の前の男を認識する顔の情報は、それしかない。
透のことを好きだった気持ちが、今は鷹峰に戻っているせいなのか。なんで、俺は透を好きだと思ってたんだろう。
爽やかってみんな言うけど、今の透の顔は、爽やかとは程遠い。この空間がよく似合うような陰湿な顔。
「えっと、どうしたんだよ……」
「明に会いたくて」
きっと、数日前の俺なら喜んでいたと思う。でも、今は怖くて、それに白々しい。俺が喜ぶような言葉を選んでいる。
「そんなウソはいいから」
「嘘じゃないって。それに犬の散歩中なんだよ」
散歩。散歩と言っても、目の前には透しかいない。
嫌な汗が流れる。意識させられると、感じ取ってしまう。見たくないのに。
透の隣がぐにゃりと歪んでいる。目を細めると、なんとなく黒い靄にも見える。
「あーあ、上限があるなんて知らなかったんだ」
透はしゃがんで、隣のナニかを撫でる。
「なに、が……」
「ナニって、分かってるだろ」
得体の知れないものを撫でながら、俺の方を見るが、表情が読み取れない。
でも、ひとつ分かることがある。隣にいるナニかが、今までの原因ってことだけ。
「なんで、透が……?」
「なんでって、興味があったから」
「きょう、み?」
ナニかを撫でているが、何も音がしない。
「好きな人に裏切られる姿とか、絶望する姿ってやつ?」
「は?」
「去年の夏祭りの時にお前が襲われたのを見たんだけど、それからお前、俺のこと鷹峰のポジションに勘違いしてさ」
夏祭り。そんな記憶は……ちがう、ある。夏休みに祭りがあって、それを透、と……違う。鷹峰だ、鷹峰と一緒に夏祭りへ行った。その前に、姉ちゃん以外、鷹峰本人はもちろん誰にも好きという感情は隠していたはずなのに。そんなに俺って、好きって感情がみんなにバレバレだったのか!
それが鷹峰から透にスライドしているというとは、鷹峰にもバレバレだったということだ。二重に恥ずかしいが、今は恥ずかしがっている状況ではない。ここから抜け出せたら、鷹峰を問い詰めよう。
「こいつも、そん時に見つけたんだけど」
「こいつ……?」
やっぱり透の周りには何もいない。けれど、変なにおいがする。何度か嗅いだことのある臭い。星のときにも漂っていた、あの臭い。
「明って俺が仕掛けなくても、怪異に狙われやすい体質って言う―の? だから、他の犬に先越されそーで冷や冷やしたけど」
「ほかの犬?」
「最近、犬たちが俺の真似して言葉を覚えやがってさ、名前呼ぼうとしてんだよ。それに、最初に明を襲ったデカいヤツは、名前を呼んでたし」
ほかの犬。怪異はひとつじゃなかった。だから、橘先生と鷹峰の言っていることに差異があったのか。
だから、それで? なぜ、透は俺にそんなことを言うんだ。
犯人は全部話したあと、聞いた奴をどうする?
透の次の行動の、最悪のパターンを予想して、足に力を入れる。
「でも、それも出来ないみたいだから、お前もう要らねえわ。さっき呼ばれて返事して振り向いたヤツ、だーれだ」
走って逃げろ。橘先生の、言葉を思い出す。
走る。とりあえずこの細道から出るために。背を向けて、全力疾走。身体鍛えておけばよかった。今更の後悔がひどい。
苦しい、めちゃくちゃ苦しい。胸が締め付けられる。肺が焼けるみたいだ。けれど、今止まるわけにはいかない。
後ろから足音が聞こえる。爪が固い地面を蹴る音。
カツ、カツ――……カツ、カツ――
いや、違う。足音じゃない。リズムがおかしい。
一歩ごとに間がズレている。速くなったかと思えば、ぴたりと止まる。なのに、確実に詰まっている。
背中に視線を感じる。怪異か、それとも透かもしれない。
わからない。振り返るな。分かっている。見たら終わる。
そうだ。いやだ、こんなところで終わらせたくない。せめて謝りたい。鷹峰に、黎助に謝りたい!
「明」
すぐ後ろで声がした。
びくりと肩が跳ねる。さっきよりも近い。近すぎる。
足が止まりかける。
――走れ。
頭の奥で、誰かの声が弾ける。
歯を食いしばって、無理やり足を動かす。
狭い道を抜ければ、人通りのある通りに出る。
そこまで行けば、誰かが助けてくれるかもしれない。ここで誰にも知られずに怪異に蹂躙されるより何百倍もマシだ。
あと少し、あと少しだ――……!
光が見えた。
少し、ほんの少しだけ気を抜いた瞬間、ぐにゃり、と視界の端が歪んだ。
横。
思わず目を向ける。
壁際。日陰の濃い場所。
そこに、“それ”がいた。
黒い。形が定まらない。けれど、さっきよりもはっきりと、“四つ足”の輪郭を持っている。
地面に、影だけが先に走る。
「っ……!」
息が詰まる。あれが、追ってきている。
透じゃない。透の隣にいた“ナニか”。
足音が増える。後ろだけじゃない。横、前、どこからでも聞こえる気がする。
逃げ場が、削られていく。
「明」
また、呼ばれる。
今度は、優しく。昔、何度も聞いた呼び方と同じで。
胸の奥が、ひどくざわついた。
違う。これは違う。
分かってるのに。
懐かしい、と一瞬でも思ってしまった自分に、ぞっとする。
足が、止まる。
その瞬間。
ぐん、と背後から何かが跳ねる気配。
来る。
反射で身体を捻る。視界の端に、黒い塊が飛び込んできた。牙の形だけが、やけにくっきり見える。
避けきれない。両腕で顔を覆って、ぎゅっと目を瞑る。もうだめだ。
そう思った瞬間――
ぐちっ。
生々しい音が聞こえる。嫌だ。
痛いのは嫌だが、みんなのことや、鷹峰の記憶を思い出す前に、全部なくなってしまうのが嫌だ。
怪異に噛まれても痛みはないのか。記憶はこんなにも保っていられるのか。
数秒の疑問は、長い時間にも思える。おかしい、そう思って、顔を上げると目の前に、誰かの腕が割り込んでいた。
「っ……!」
低く押し殺した声。黒い塊――犬みたいな“それ”は、鷹峰、黎助の腕に噛みついていた。噛みついている、肉は凹んで骨の軋むような音が聞こえる。
「黎助!?」
頭が真っ白になる。
なんで。なんで、黎助が。
塀の陰に居る俺と、丁度抜け道の境の向こう側にいる黎助のあいだ、隔たるような影の境界。
見上げると、黎助はまぶしくて、神々しくて、まるで俺の道標みたいだ。
既視感がある。見覚えがある。俺はこの状況を知っている。二度目だ、助けてもらったのは。
犬は唸り声も上げず、ただ肉を裂くみたいに食らいついている。輪郭はぼやけているのに、腕の肉に埋もれた牙だけが異様に鮮明だった。
「さわ、るな……!」
鷹峰が呻くように言う。
反対の手で無理やり犬の頭を掴み、そのまま引き剥がした。
べちゃり、と黒い靄が地面に落ちる。
生き物みたいに蠢いているのに、影みたいだ。
「黎助、腕……ッ」
「大丈夫」
慌てる俺を落ち着かせるためか、それともこれ以上騒がないためか、抱きすくめるように背中に手を当て、力強く引き寄せられる。
なんでここに黎助がいるんだ?
それに黎助との約束を破ってしまったし、腕の怪我はどうしよう、手当をしないと。
そう思って、そろりと黎助の腕を見ても噛み痕も、血も流れていない。驚きのあまり黎助の腕を掴んでマジマジと見つめるが、本当に何もなっていない。
「……は?」
背後から聞こえたのは、透の声だった。数歩離れた場所で、初めて動揺した声をしている。
「なんで、そっち……?」
そっち、とはなんだろう。俺が狙いだったはずなのに、黎助が噛まれたせい?
「……去年の夏祭りと一緒だね、佐伯透」
「ははっ! なんだよ。奪われて指くわえてた男がよ」
夏祭り、一緒。
なんのことだ、ふたりはそこで何かあった?
俺の知らない記憶。知らないんじゃない、忘れているんだ。さっきの既視感は、現実にあった、俺が忘れていることだ。
黒い犬がゆらりと立ち上がる。俺と黎助を見つめてくる。
けれど、さっき俺を追い掛け回したような殺意はなく、首を垂れてその場に迷子のように彷徨っている。
俺を見て、黎助を見て、また俺を見る。
「夏祭りの時、明がソレよりでけえ犬に襲われて、それでソイツがさっきみたいに庇ってたのを見たんだよ」
透は顎で黎助を指す。
以前黎助が言っていた、大切な人って……俺か?!
動揺してしまうが、黎助は微動だにしないし、寧ろ背中を引き寄せられて、黎助の顔も透の顔も見えない。
「コイツは明を襲ったヤツとは違ってコケた奴を襲うんだけど、それじゃ要領悪ぃからさ、俺の声を貸してあげたわけ。俺が呼んで、襲わせる。そっちの方が明を襲った犬みたいで効率的だろ」
「なんで、そんなこと……?」
そっと振り返って透の顔を見ると、瞳が人間じゃない、気がする。直視していたら、いけない気がするのに、目が離せない。
ぎゅっと、黎助の服を握ると、手のひらが目の前を覆って、透と視線が物理的に外れる。
「面白そうだから」
「は……?」
「興味。別に苦労もしてない、何もない、楽しくもない人生。そんな中で面白そうなものを見かけたら、興味が湧くだろ」
「それだけのために、お前は、今までソレで襲ったのか?!」
「そう。でも今まで実験。最後に一番愉しそうな明を残してたんだけど、一番つまんねえ結果になっちまったな」
ははは、と笑う透は無邪気な子供みたいだ。
「一番最初の被害者は、山代なんだろ……」
「正解」
一番最初に休んだ人は山代。そんなの知らなかった。そんなの誰も知るはずなんてなかった。それよりも先、一年生のときまで遡れば、長期間休んで休学や退学をしたやつがいたし、風邪を引いて休んでる奴もいた。それこそ山代の言っていた、園山や黒川みたいに。そのあとも複数人休みはじめて、誰が最初かなんて知らなかった。なんで透は山代だって知っていたんだ。もっと早くに気づいていればよかった。
透が一番最初にクラスメイトで襲った奴が山代なんだ。
目元を隠す黎助の手を掴んで外させる。そうすると、背中に添えていた手も腕も多少緩んだ。
「ちなみに、明の記憶を弄ったのは俺じゃない。それは知らねえけど、面白かったから利用させてもらっただけ。最初に明を襲った犬もコイツじゃないし」
「じゃあ、なんだって……」
「知るかよ、うっざ」
普段の爽やかな好青年、という透はどこにもいない。アレは俺が作り出した透だったのかもしれない。星が、透に対してかなり苦手意識を持っていたのを思い出す。根本の透の本性を、感覚的に星は感じ取っていたんだ。
「はーあ、けど最悪。コイツ上限一個だからマジで面倒なんだよ」
「……上限?」
思わず聞き返すと、透はだるそうに頭を掻いた。
「コイツ、“ちゃんと喰える相手”が一人だけなんだよ。月森が噛まれて押し出された山代みたいに、容量だって少ねえ」
黒い犬を、軽く足先で示す。
「だから、最初に狙い定めた相手を追わせるのが一番効率いい。呼ばせて、振り返らせたり転ばせて、喰わせる」
ぞっとするほど軽い口調。悪いことだとも、犯罪でもなんとも思っていない。ただのおもちゃ遊びをしている感覚なんだろう。
「だからさあ」
透が笑う。
「鷹峰が噛まれたせいで、ズレちまったんだよ」
その瞬間、黒い犬がぴくりと反応した。透を見る。俺を見る。黎助を見る。
迷ってる。そんな風にしか見えなかった。
「本来なら、“呼ばれた側”だけ見てりゃよかったのに」
透の声が、少しだけ苛立つ。
「鷹峰がソイツを庇ったせいで、“優先順位”が壊れたんだよ」
黎助が、静かに口を開いた。
「……怪異の認識が、俺にも向いた」
「そ。最悪」
透は肩を竦める。
「しかもコイツ、執着が強い方に引っ張られるっぽいんだよな」
嫌な沈黙。黒い犬が、ゆっくりと――透の方を向いた。
「違う」
「……あ?」
「怪異は、公平なんだ。条件だけで動く」
透の声が止まる。
初めて。初めて、透の顔から余裕が消えた。
黒い犬の輪郭が揺らぐ。地面に落ちた影が、じわじわと透の足元へ伸びていく。
「おい、待て」
透が一歩下がる。犬も、一歩進む。
「は? なんで俺?」
笑い声が消えている。
その顔を見て、背筋が冷えた。
――こいつ、本気で想定してなかったんだ。自分に怪異が向かうかもしれないことを。
黒い犬が、ぐん、と跳ねた。
「っ!」
透が咄嗟に避ける。
コンクリートを爪が抉る音。
今まで俺を追っていた時より、速い。
「おい、ふざけんな!!」
透の声が裏返る。
犬は止まらない。ぐるり、と低く身体を沈める。
狙ってる。完全に透だけを。
「お前だろ! 俺が呼んだんだぞ! どれだけ協力したと思ってやがる!」
叫ぶ。けれど犬は理解しない。いや、最初から言葉を理解なんてしていなかったのかもしれない。
透は後退る。黒い犬は、その分だけ前へ出る。逃げるものを追うみたいに。
「っ、待っ……!」
透が踵を返す。
その瞬間、犬も飛び出した。黒い影が、小路の奥へ駆けていく。
透の荒い足音。それを追う爪音。
補装されていない、道。ドサッと転ぶ音。
そして、少し遅れて。
人間のものとは思えない悲鳴が、小路の奥から響いた。
透の悲鳴が、ぶつりと途切れる。
静寂のなか、呼吸の音だけがやけに大きい。俺と、黎助と、遠くから獣の呼吸。
俺は動けなかった。助けに行かなければいけないのに、足が竦む。
黎助も動かない。
小路の奥から、ぐちゃっ、と水気を含んだ音がした。
胃が捻じれるような感覚。見るな。本能がそう叫ぶのに、視線だけが奥へ引っ張られる。
暗闇のなかから、黒い犬が歩いて向かってくる。逃げないと。剥き出しの牙が赤い。いや、赤黒い。
それが透のものだと理解した瞬間、吐き気が込み上がる。手のひらで口元を抑えると、黎助が背中を撫でてくれる。
犬のようなナニかは俺と黎助を見上げてくるが、もう飛び掛かってはこない。
役目を終えたみたいに。そのまま輪郭が滲む。
夜の陰に溶けるみたいに、少しずつ、少しずつ薄れていく。最後消える直前に、失った声をようやく絞り出せるみたいに、嬉しそうな「わんっ」とひと鳴きだけして、消えていった。
「終わった……のか」
声が掠れて、俺の声だと分かるまで時間が掛かった。
黎助はただ俺の肩を抱いたまま、小路の奥を見ていた。
肩から手を離して一歩、また一歩と奥へ進む黎助の後ろ姿に俺も歩く。
そして、小径の出口に到着しても、透の姿はなかった。
今までとは違う。星のように、山代のように。倒れたり、虚ろ気味になったり、かならず人のかたちはあったのに。透だけは違う。
隣に並び立つ黎助の横顔がひどく苦しそうで。そこでようやく、現実が追いついた。
佐伯透が消えたこと。黒い犬が消えたこと。そして、黎助が噛まれたこと。
押し込められていた記憶まで、一気に溢れ出す。
夏祭り。転びかけた俺。俺を庇った黎助。伸びてきた黒い影。
忘れていたんじゃない。佐伯透という存在が消えて、黒い犬がすべて持って行ってくれて、闇に覆われていた記憶が一気に修正される。
黎助が噛まれたことや色々な感情を思い出す、その脳内作業が至極辛い。頭痛が酷くて、その場に蹲ってしまう。心配する黎助の声が遠くて、そのまま意識を手放した。
