やっぱりクローゼットの中身が目的だったらしい。
 箱を開けて、中身を確認して必要な箱を下ろす。その力仕事要因に俺は使われている。何が入ってるんだこれ、すげえ重い。
「明、痩せた?」
「そうでもないけど」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるって」
 なんでもない会話。なのに、姉の声はどこか探るようで、落ち着かない。母さんとか縁に何か言われたのかな。居心地が悪くて姉ちゃんを見ることができずに、黙々と渡される箱を床に積み上げていく。
「あっ!」
 箱を開けて、大きめな声を出す姉ちゃんに、びくっと肩が跳ねた。
「な、何?!」
「あ、ああ、明、これ、開けてないよね?!」
「う、ウン」
 嘘です。昨夜開けました。でも中身は読んでないから、開けてない判定にしておいていいよな、うん、いいはず。
「ねえ~……明、」
 さっきの探るような声色だ。あんまり得意じゃない。こういう時の姉ちゃんはお節介で、根掘り葉掘り聞いてきて、母さん以上にめんどくさい。返事の代わりに、視線だけを投げる。

「そういえばさ、レイちゃんは元気?」
 何気ない口調で、けれど視線は箱に向けたまま。手は動いていない。
「……は?」
 思わず間の抜けた声が出た。誰だ、レイちゃん。
 俺の返事が怒っているように聞こえたのか。それとも俺がレイちゃんを知らないことに、驚いているのか。俺を見る姉ちゃんの表情が硬い。
「レイちゃんだよ。……ほら、あんたの」
 言葉を探すように視線が彷徨って、少しだけ間を置いて、俺をまた見た。
 
「幼馴染の親友」

 と、当たり前みたいに言った。

 ——誰だ、それ。

 頭の中で名前が転がる。
 レイちゃん。レイ。れい。幼馴染。
 そんなやつ、俺にいたか?
「……誰それ」
 自分でも驚くくらい、あっさりした声だった。
 けれど反対に、姉の表情が固まる。少しだけ怒気も含んでいる気がする。
「は?」
「いや、だから……知らないけど」
「ちょっと待って」
 なんとか作っていた作り笑いすら、すっと消えた。
 姉ちゃんはクローゼットの中の片付けをやめて、俺に一歩近づく。
「明、冗談で言ってる?」
「冗談って……」
 何を言ってるんだ、という言葉が続かない。
 本当に、知らない。そんな名前の友達なんていない。レイちゃんなんて女の子の幼馴染とか友達だって、姉ちゃんや家族と話題を共有するような、そんな深く仲のいい子はいない。
 姉はじっと俺を見つめて、それから小さく息を吐いた。
「……ちょっと待って」
 またクローゼットのなかを漁り始める。下段の本とか写真がしまってある場所。
 そこから数冊のアルバムが取り出された。ぱらぱらとページをめくられる音がやけに大きく響いた。
「ほら」
 指で示された写真を見る。これはそれなりに最近、中学時代のやつだ。
 ピースする俺の隣に、もう一人。
 黒い髪。切れ長だけど大きい瞳。
 見覚えのある顔——……鷹峰。
 自然にそう思った。思った、はずなのに。胸の奥がざわつく。
 合成写真だと思ってしまうくらいに、このアルバムのほうが嘘だという感覚に陥る。
「これ、誰だと思う?」
「……」
 答えようとして、言葉が出てこない。
 見れば分かる。分かるのに、口に出せない。
 たった三年前。今の面影がしっかりあるから誰かは分かるのに、この写真を撮った覚えが全くない。卒業写真を撮った記憶はある。でも、隣にいたのは鷹峰じゃ……なら、誰だ?
「明?」
 姉ちゃんの声が、少しだけ震えた。
「これ、レイちゃんだよ」
 震えているけど、はっきりと言い切る。
「ずっと一緒にいたでしょ。幼稚園も、小学校も、中学も」
 アルバムを捲りながら、鷹峰と一緒に写っている写真を見つける度に、それに指をさしていく。
 目視するだけでも、俺は家族との写真よりも、この子との写真のほうが多いかもしれない。
 父さんが写真を撮るのが趣味だから、いつも節目とかイベントとかに、写真を沢山撮ってくれていたのは覚えている。
 でも、そんなはずない。
 俺の隣はいつも、——透と。
 ずっと、隣には透がいた。一緒にいたのは透だ。そのはずなのに。
 ページがめくられる。
 運動会。文化祭。どれも、隣にいるのは同じやつ。
 写真の中で、俺はそいつと笑っている。肩が触れるくらい近くて、当たり前みたいに並んで。俺は馬鹿みたいに嬉しそうで。
 透じゃないのに。
「……おかしいだろ」
 思わず零れる。何を喋っても信じられない事実を突きつけられそうで、声を出さないように口を手のひらで塞ぐのに、言葉は無意識に出てしまう。
「――透は?」
「……は?」
 怪訝そうな顔で俺を見る。けれど、俺があまりにも動揺しているせいで、反対に姉ちゃんは冷静になっている。
 アルバムを置いて、両手を肩に置かれる。そして、俺のことを真っすぐ見つめている。
「透って、誰」
 その一言で、頭の中が真っ白になった。
「なに言ってんの。透だよ、幼馴染の」
「だから、それがレイちゃんでしょ!」
 声が少しだけ強くなる。そして両手で身体を揺さぶられる。
「名前、黎助くん。鷹峰黎助くん!」
 はっきりと告げられる。
 違う。違うはずなのに。
 じゃあなんで。なんで、写真の中の“そいつ”の顔を見てると、苦しくて、でも……安心するんだ。
 喉がひりつく。息がうまく吸えない。
「……明、大丈夫? 顔色、悪いよ」
 心配そうな声。でも、その言葉がどこか現実味を持たない。俺のことを心配しているこの姉は、本当に俺の姉ちゃんなのか。
 肩から手が離れた。視線がもう一度、開きっぱなしのアルバムに落ちる。
 そこに写っているのは、確かに俺で。隣にいるのは——分かっているはずの名前が、浮かばない。
 いや、違う。浮かぶ名前が、違う。
 鷹峰。鷹峰黎助。

 昨日、片付けた机の上。いつから触っていなかったんだろう。何を、置いていたっけ。
 ふらりと棚の前に移動して、昨日乱雑に突っ込んだ紙束を漁る。
 突然の行動に、背後にいる姉ちゃんは多分訝しむ顔をしていると思うが、それを考える余裕がない。
 多分、そこには大事なものがあったはず。だから、俺は無意識に閉まったんだ。消えてしまうように。思い出さないように、暗闇のなかへ捨てるように。
 一枚一枚、確認する途中、手が止まった。
「……明?」
 姉の声が遠くで聞こえる。
 紙を見る。
 進路希望調査。

 第一志望の欄。見覚えのない学校名。
 それだけじゃない。
 志望理由の欄まで、びっしりと文字が埋まっている。
 ——俺、こんなの書いたか?
 字は、自分の字だ。
 見慣れているはずの癖。書き順。全部、自分のものなのに。内容だけが、まるで他人みたいだった。
「……なにそれ」
 姉が覗き込んできて、紙をひょいと取り上げる。
「進路のやつ? ちゃんと書いてるじゃん」
「……書いてない」
「え?」
「俺、こんなの書いてない」
 即答した。迷いなく言い切ったのに、姉のほうが一瞬言葉に詰まる。
 紙と俺の顔を交互に見て、眉を寄せる。
「……これ、あんたの字でしょ。この汚い字」
「そうだけど……でも、書いた覚えない」
「はあ?」
 さっきよりも露骨に、不審そうな顔になる。
 当然だと思う。俺だって逆の立場なら同じ顔をする。
 でも、本当に覚えてない。
 志望理由の欄に書かれている言葉を、もう一度目で追う。

 ——“昔から興味があって”
 ——“将来はその分野に関わりたいと思っている”
 ——“誰かの役に立てるように”
 綺麗すぎる文章。でも、たぶんこれは上辺だけで、本当の理由は別にある。覚えていないのに、分かる。本心は誰かの傍にいたいからだ。
「……俺、こんなこと思ってたっけ」
 ぽつりと零れた。姉が、ぴくっと反応する。
「は?」
「だって、俺……別に、こんなちゃんとした理由で進路決めてないし。今日も担任から、進路先決めろって言われた」
「……」
 姉が黙る。さっきまでの勢いが、少しだけ引いた。
 代わりに、じっと観察するような目になる。
「……明」
「なに」
「ほんとに覚えてないの?」
 静かに、確認するように言う。さっきまでの“押す”感じじゃなくて、確かめる声音。本気で心配している声。この声にも、俺は逆らえない。
「……覚えてない」
 嘘はつけなかった。姉は、少しだけ視線を落とす。
 見られるのが恥ずかしくなって、手に持っていた紙をゆっくりと折りたたんだ。
「……そっか」
 短く、それだけ。それ以上は追及はしてこなかった。
 その代わりに。
「……ごめん」
「え?」
「ちょっと、言い方きつかったね。お母さんと縁も、明のこと心配してたんだよ」
 ふっと笑って、いつもの姉の顔に戻る。
 さっきまでの張り詰めた空気が、嘘みたいに緩む。これだから俺は姉ちゃんに逆らえない。
「まあ、テスト前で疲れてんじゃない? あんた昔からそういうとこあるし」
「……そうだっけ」
「あるある。都合いいことだけ覚えてて、面倒なことは忘れるの」
「楽しい毎日だよ」
「楽観的すぎるの」
 軽口。いつものやり取り。
 なのに、胸の奥の違和感だけは消えない。
「そういえば、聞きたいことって何だったの?」
「あ、いや……」
「橘になんか言われた?」
「え?」
「あいつ、たまにあんたのこと聞いてくるから。まあ報告も貰うけど、ちゃんと授業受けなさいよ」
 まるで母さんみたいだ。姉ちゃんもいつか旦那さんとの間に子供ができたら、母さんみたいな母親になりそうだ。けれど、そこが繋がっているのはなんか嫌で苦々しい表情になってしまたった。心配した姉ちゃんが橘先生に連絡したんだろうな。
「というか、母さんと縁も心配してたって、どういうこと?」
「あんたがレイちゃんの話題を一切しないから、喧嘩したんじゃないかって」
 なるほど。だからこの前、あんな質問をしてきたのか。
 ということは、俺の記憶は最近薄れてきたのか、戻ったというのが正しいのか。
 衝撃的な現実が突きつけられたのに、妙に冷静だった。突拍子がなさ過ぎて、逆に冷静になれるというか。寧ろ、しっくりきたというか。
 姉は、アルバムを箱に戻しながら、何気ない調子で言う。
「でもさ」
「ん?」
「喧嘩しても存在を忘れるなんてやめなさいよ。レイちゃんのこと、忘れるのはさすがにないでしょ」
 さらっと言った。軽い調子で。
 でもその一言だけ、やけに重く落ちる。
「……」
 返事ができない。
 姉はそれ以上何も言わずに、箱を閉じた。

「はい、これ下持ってって。重いから気を付けて」
「……うん」
 言われるままに箱を持つ。ずっしりとした重み。

 現実の重さは、ちゃんとあるのに。
 頭の中の記憶だけが、現実からずれていく。
 階段を降りながら、さっきの言葉が何度も繰り返される。
 
 ——レイちゃんのこと、忘れるのはさすがにないでしょ。
 
 じゃあ、俺はなにを忘れているんだろう。今の記憶はなんなんだろう。

 荷物を一階に運んで、俺はすぐに二階に上がった。
 今、母さんと姉ちゃんの質問攻撃に合うわけにはいかない。
 俺の周りで、全てを知っていて説明できる奴は、一人しかいない。
 
 スマホを掴んで、指を滑らせる。
 
 鷹峰黎助。
 
 メッセージアプリの、その名前を押す。
 そして遡る。
 
 この前。夢の中で鳴った通知音。あれは夢じゃなかった。
 
『明、気づいたら明日教えて』

 ただ、その一文だけが残っていた。そして、その記憶も抜け落ちている。
 更に遡ると、仲良さそうにしているメッセージが残っていた。
 最後は、去年の夏あたりだろうか。

『夏祭りのとき、言いたいことがある』
 そう書かれた文字は、鷹峰からだ。それから更に遡って、本当に鷹峰と俺は仲が良かった。黎助、明と呼び合って、何をするにもお互いに誘って、登校の時、毎日迎えに来た。
 全部、透だと思っていた記憶。
 でも、そうだ。透の朝練の時間に合わせて、俺が家を出ることはない。俺の家のほうが学校より距離が遠いから、俺が迎えにいかないと毎日登校なんてできないし。
 鷹峰とこんなに仲がいいなら、多分、ここにも入っているはずだ。
 フォトフォルダに触れて、遡ってみる。
 鷹峰との写真が大量だ。大人数の集合写真でも、鷹峰の隣を俺は絶対に死守している。
 透との写真もあるが、基本的には大勢のなかのひとりで、家族に話すほどの距離感ではない人なんだろうな、と写真の内容から察する。
 怖い。俺の記憶は、なんで。なんでこんなにぐちゃぐちゃなんだ。
 
 一番最近の、最後に鷹峰と撮ったツーショットは、去年の夏祭り。ふたりで色違いの浴衣を着ている。
 俺がもし、本当に鷹峰のことを忘れていたとしたら。俺が忘れているこのあいだ、こんなに仲良くしていた人が、自分のことを忘れている絶望感を、鷹峰は味わっていたのか。
 心臓が痛いほどの鼓動がする。手汗が酷い。
 もしかして、俺は大切なひとを忘れて、取り返しのつかないことをしてしまった?
 でもなんで急にあの日、あの青空の窓で、鷹峰のことを認識したんだ。
 メッセージアプリを開いて、震える指で文字を打つ。
『鷹峰』
 それだけが限界だった。
 送信した瞬間、後悔が押し寄せた。
 名前だけ。用件も説明だって何もない。でも、それ以上が打てなかった。
 画面を見つめるが、既読はつかない。
 そりゃあそうだ、昼前だし、鷹峰の都合だってある。
 なのに、この数秒がすごく長く感じる。もしも、返ってこなかったら。
 喉の奥がひりつく。さっき見たアルバムが、頭から離れない。
 “ずっと一緒にいたでしょ”
 だったら、今までの俺は何をしてたんだ。
 スマホを握る手に力が入る。
 ――怖い。
 もし、鷹峰が全部知っていたら。俺が忘れていることをずっと知っていて、何も言わなかったとしたら。
 それとも鷹峰に“社本がおかしい”って、はっきり言われたら。
 それならまだいいけど、俺のことを見限ったと言われたら。そう考えるだけで、胸が苦しくなる。
 メッセージアプリを閉じて、ベッドに寝転んだ。いろんなことを考えすぎて頭が痛い。怪異以前の問題な気がしてきた。それに、なんで透なんだろう。いや、透なんて気軽に呼ぶ関係だったのか。
 今も、好きという気持ちは。これはもしかして、俺が元々鷹峰に向けていた感情だった?
 そうだったら、俺は死ぬほど最低だ。恋愛じゃなくても、友人同士でも、なくしちゃいけないものだ。
 じわり、目元に水分が溜まる。なぜ泣きたくなるか分からないけれど、心が苦しい。
 その空気を突然、ピュロロロ……という通知音が響いた。
 びくっと肩が跳ねる。鳥の鳴き声だ。そういえば、昨夜もやり取りのときも鷹峰の通知音だけ違った。鷹峰だけ変えているなんて、本当に特別なんだと実感する。それをなんで昨夜思い出さなかったんだろう。
『なに』
 短い。いつも通りのそっけない返事。これがいつも通りだって俺は知ってる。
 今はそれだけで、少しだけ息ができるようになる。けれど、指が止まる。
 何を聞けばいいんだ? どこから聞く?
 俺のこと、覚えてる?
 違う。
 俺たちってなに?
 違う。
 頭のなかがぐちゃぐちゃに絡まっている。既読だけつけて、画面を見つめて固まって。俺は、鷹峰に何を聞いたらいい。
 指を、ゆっくりと動かす。
 『俺さ』
 それを送って、動きが止まる。緊張して喉が張り付いているように、指が動かない。
 画面の向こうではきっと待っているはずだ。いつもみたいに、淡々とした表情で。
 たぶん、俺より分かった顔で。それって、なんか腹立ってこないか?
 知っているなら、なんで全部話してくれないんだ?
 逆切れなのは分かっている。分かっているけど、俺と鷹峰が喧嘩したと思ってる母さんと縁は多分、俺が原因だと思っている。
 こういう突拍子のない行動は俺がするから。
 『れいすけ』
 なんで。ずっと俺のこと名前で呼んでくれたのに、ずっと社本なんて呼んで。鷹峰のことを忘れてしまった俺が言うのもなんだけど。
 送ったあと、冷静になる。毎回これだ。それで、やらかしたことに頭を抱えて、それから。それから?
 既読がついて。暫く、思考の時間があって。
 着信音。
 どうしよう。出て、何を話そう。
 ――俺も男だ。ええい、ままよ! なるようになれ!
 通話のボタンを押して、耳に当てる。けれど、声が全くしない。お互いに無言で、その時間に耐え切れず、口を開く。
「たかみ……れ、いすけ?」
『あ、……えっと、社本は、どこまで思い出した?』
 俺の名前を呼ぼうとしてやめたな。ちょっとだけむかついたけど、これを詰める時間ではない。それより、もっと聞きたいことがある。そのためにまずは答えないと。
「えっと、きっかけは姉ちゃんからで。レイちゃんと喧嘩した? って言われてさ」
『ああ……(ゆい)さん、帰ってきてるんだ』
 当たり前のように姉ちゃんの名前を出す。俺の家のこと本当に知ってるな。というか、よく透が遊びにきてたって記憶があるから、もしかしたらその記憶は、全部鷹峰のことなのかもしれない。
「……本当に俺が忘れてるんだな」
『今の社本は現実とズレているのは分かっているけど、記憶が戻ったとかじゃないって感じかな』
「そんな感じ」
『もし、時間があるなら会いたい』
 会いたい、俺も。そう言いたいのに、本当に会っても大丈夫だろうか。俺は鷹峰に会いたいと思って、可笑しくないだろうか?
 言葉を詰まらせているとスマホの向こう側から、少し硬めの声が聞こえた。
『多分、会って話したほうが、色々と思い出してくれるかなと思って』
「あ、あ~~! う、うん、そっか。そうだよな、あははッ!」
 あっぶね~~! 俺も会いたいなんて言ったらとんでもない勘違いになってたはずだ。危ない危ない。
『ごめん、嘘。名前呼ばれて嬉しかったから、ただ会いたいだけ。ちょっと舞い上がってた。迷惑だったらこのまま通話でもいいよ』
 記憶が曖昧で幻聴まで聞こえたか? 俺の都合のいい世界になる呪いとか?
 「あ」とか「う」しか声が出なくて、電話口の鷹峰が慌てているのが分かる。嫌じゃない。だから早く返事をしないと。
「会う! けど、その……俺と、れい、すけは、俺の記憶が戻る前はどこで会ってた? やっぱ俺んちとか?」
 鷹峰の名前を呼んだら、息を飲む音がした。呼吸してるのか? 吐いてる感じしないけど。ちょっと面白い。
 いや、記憶をなくした俺が悪いので、面白がったり遊んではいけない。でも鷹峰の表情変化とか、感情の揺れが見られるのは面白いと思ってしまう。きっとこれは昔から思っていることなんだろうな。独占欲も持っていた気がする。今まさにそうなので。
『あ、……社本の家は、よくお邪魔させてもらってたけど、今日は結さんが帰ってきてるから流石に邪魔になってしまうよ』
「別に気にしないって。寧ろ喜ぶと思うけど……その、それより、俺のことなんで名前で呼ばないんだよ」
『それも説明するから。俺も分かっているところまでの仮定の話だけど……』
「わかった。じゃあカラオケ屋にしよ。そこなら二人っきりで話しても問題ないし」
『……うん、準備して出るよ』
「あっ、でもそっちはテスト勉強中じゃなかった?」
『それは俺だけじゃなくて、君もだと思うけど。まあ、社本のことは勉強よりも大事なことだし』
「……と、とりえずカラオケ屋で……」
『うん。またあとで』
 びっくりした。耐え切れなくて電話を切ってしまった。少しだけでも思い出した瞬間、こうやって気持ちは直ぐに動くものなのかな。俺ってもしかして、浮気性とか。それだったら嫌だな、ってちょっと思ってしまった。それも、やっぱり透よりも鷹峰に申し訳なくて。
 透に対しての気持ちが今は分からない。あんなにドキドキしていたのに、今は透がよくわからない。ゲームで言うところの、RPGで呪いが解け始めたとき、みたいな。
 とりあえず、鷹峰を待たせたらいけない。オーバーサイズの白いTシャツと黒のワイドパンツに着替えて、荷物を詰める。財布と鍵と、今日見つけたものも何点か入れておこう。
 小さい鞄を持って、洗面所で髪を整える。学校に行くときより多少時間をかけて。伸びた前髪を下ろそうとしたけれど、やっぱり乱雑な切り口に、いつも通りカチューシャで隠すことにした。近いうち、ちゃんと美容室に行こう。
 リビングで寛ぐ両親と、箱の中身を整理する姉ちゃんがいるリビングに顔を出す。
「ちょっと出てくる」
「あら、外出するの? せっかくお昼ごはん作ったのに」
 少しチクチクした口調に、視線を逸らす。昨日から気合を入れてご飯を仕込んでいたし、申し訳なさはあるけれど。
「後で食うから。その、……れい、すけに、会ってくるから」
「あら、あらあらあら。それならちょっと待ってなさい」
 ぱっと、明るくなる母さんの表情から、本当に喧嘩したと思っていたんだなと分かった。
 姉ちゃんが顔を上げて、グッと親指を上げてくる。うざーい。多分だけど、俺が鷹峰のことが好きだって、姉ちゃんだけには言ってたんだと思う。姉ちゃんを見ているとそういう些細な記憶が、少しずつ掘り起こされる。
「明、あき」
 姉ちゃんが俺を手招きするので、素直に足を向ける。キッチンにいる母さんと父さんに背を向けて隠すように、そっと渡された。
 手のひらの上には、避妊具。
 姉ちゃん、姉ちゃん! なんてもの渡してんだよ!
「っ……、そ、んな……仲じゃないし」
「でも必要になるんじゃない~?」
「姉ちゃん嫌い」
「あら、私は好きよ。可愛いかわいい弟だもの。応援してるから報告頂戴ね」
「ほんとやだ」
 父さんと母さんに見られる前に、ポケットの中へサッと隠した。その行動を見て笑う姉ちゃんは昔から変わらない。
「お待たせ……結、何かしたの?」
「なんにも~? 可愛い弟を可愛がってただけ」
「あっそ。ほら、明より可愛い子の黎助くんにこれ」
 あ、はーい。これはあれだ。母さんは鷹峰のことかなり気に入ってるみたいだ。
 保冷バックのなかは、母さんの得意料理で姉ちゃんが大好きなパウンドケーキだろう。昨夜仕込んでいたやつ。あとは保冷剤がしっかりと入っている。
「本当は黎助くんの好きなツナマヨのおにぎり作ってあげたいけど、夏だから腐っちゃうかもしれないでしょ。今度食べに来てもらって」
「う、うん」
 母さんの熱意と喜び方、前のめり感は相当気に入っていることは確定で、というか息子その3くらいの勢いだ。それに、ツナマヨおにぎりは鷹峰の好物だったのか。やっぱり、鷹峰と透の記憶が入れ替わっているのか?
 でも、この前一緒に食べたとき、透は母さんの料理を知っていた。もしかして、佐伯透という男が嘘だったとか無いんだろうか。現実にいない男のような、透そのものが怪異とか。
「あの、さ……透、佐伯透って、知ってる?」
「ああ、佐伯さんちの。昔はよくあんたと黎助くんと一緒にうちにきて遊んでいたけど……」
「そっか……いや、なんでもない。じゃあ行ってくる」
「変な子。黎助くんによろしくね。行ってらっしゃい」