日常。いつもと変わらない毎日。
 ここは田舎の県だけれど、田舎過ぎるわけでもない中途半端なところ。
 そんな七四面字(しちしめんじ)町にある、七四面字普通科高校の三年一組。
 最終学年の夏。最後の部活動の大会やコンクールに気合が入っている人、受験勉強や就職へとシフトしつつある人が増える時期だ。
 俺、社本明(やしろもとあき)は、部活で青春を燃やしてもなければ、この先のことも、とくには決めていない。
 だらだらと授業を聞いて、昼ご飯を食べてまた授業。終われば帰宅。なにひとつ変わらない日が続いている。
 毎日がつまらないとは思ってはいない。ただ、見えない先が分からないだけで。その先の選択肢が多すぎるから、目標もない俺はどうしていいか焦ることも出来ない。
 自分は気楽に生きているから将来に悲観したことはないが、ほかの同級生は悩みがあるのか、受験の不安か、体調不良か。最近、休みの人が増えたように感じる。
 
 ぽつぽつと空いている席。
 最初は気にしていなかったはずなのに、こうして眺めていると妙に目につく。空きすぎている気がする。
 昨日は、どうだったっけ。
 視線だけで席をなぞる。前から、横から、後ろから。数えようとして、途中でやめた。数えたところで、正しい数なんて分からない気がしたので。
 誰がいないのか正確には分からないのに、“減っている”ことだけがはっきり分かる。
 たしか、ここに誰かいた。窓側の三列目、前から2番目。部活だけが楽しみみたいな顔で、いつも授業中は机に突っ伏してたやつ。
 顔が思い出せない。名前も、声も、何も浮かばない。なのに“いた”という感覚だけが、やけに残っている。
 机と椅子だけがある。まるでそこにあったはずのものが、丸ごと抜け落ちたみたいに。
 視線を逸らした。見ていると、自分があまりにも他人に興味がなくて、薄情者であることを自覚しそうだったから。
 他にも、部活を頑張っていた子もいたような気がする。その子は吹奏楽部だったから、そろそろ最後のコンクールが目前のはずだ。
 学生生活を全て捧げるほど、熱量を注ぐものがあるのに勿体無いなと感じるが、そこまで熱心になるものなんて俺の人生に一度もないので、共感や否定はできない。
 
 午後の数学の授業も一番後ろで、空いた席をぼんやりと眺める。
 夏の暑さは教室のエアコンだけではどうにもならない。
 去年の夏、自分で切ったバラバラの前髪。それを見て爆笑した女子から貰ったカチューシャは、前髪が伸びた今年も使っている。髪が顔に張り付かないし、ちょっとだけ涼しくて便利だ。
 去年切ったままで、生まれつき色素の薄い髪は肩くらい伸びてしまっているから、余計手放せない。
 
 数学の授業は右から入って左から抜けるくらいに意味が分からない。聞きなれない数式をBGMに、ノートの隅に落書きをしていると、名前を呼ばれた気がして反射的に顔を上げる。
 ——誰もこっちを見ていない。勘違いだったことにすこし気恥ずかしくなって窓を見た。
 外は雲ひとつない晴天。真っ青のキャンバスに、飛行機雲の白い一筆。
 やや垂れ目な眦は眠そうに見えるのか、よそ見をしていたら名指しで数学教師に呼ばれてしまった。「眠そうな顔でそのまま寝るなよ」なんて揶揄われたので、不貞腐れて机に突っ伏したら、丸めた教科書で叩かれた。酷い、と泣き真似をしながら頭を摩るが、無視される。よくある戯れだ。
 
 数学は嫌いだがこの教師は好きだ、という人が多いくらいに見た目と性格に評判のある教師だ。教え方が上手で見た目もかっこいいので、女子にかなり人気がある。
 名前は橘灯(たちばなあかり)。名前は中性的だが、身長が高く、清潔感がある。しかも新任だけあって二十三歳と若い。ここの卒業生で俺らと五歳しか違わないせいか、知り合いの兄のような雰囲気もあって、女子だけじゃなく、密かに男子からも人気があったりする。俺も数学は得意じゃないが、橘先生は嫌いじゃない派だ。寧ろそばにいると落ち着く雰囲気がある。俺には姉と弟しかいないから、兄がいたらこんな感じなんだろう。

「なあ、明」
 六限目、本日最後の授業が終わった解放感から机に突っ伏すと、幼馴染の佐伯透(さえきとおる)に声を掛けられた。
 身長もそこそこ、ガリガリではないが細身で自堕落が着て歩いているような見た目の俺とは違って、透は短髪で高身長。運動部にいるためか日焼けして筋肉質で爽やか、男の俺から見てもかっこいい部類の男である。
 突っ伏した頭を上げて、眠そうだとクラスで有名な垂れ目を、透に向ける。
「なに?」
「何じゃなくて、進路決めたのかよ。この前も言われてたろ」
「あー……忘れてた」
 嘘だ。本当は忘れていない。この先なにになりたいか、何をしたいか全く想像ができなくて、第三候補まで書くはずの紙は白紙のまま、提出日もとうの昔に過ぎている。
「ふーん。そういや、最近欠席が多いよな」
 透が教室を見渡す。空席の位置をなぞるみたいに。
 俺も一緒に教室を眺める。
「みんな悩んでるんじゃない?」
「お前はもっと悩めよ」
 ごつごつした手の甲で頭をこつんと叩かれる。どうやら俺の頭は叩きやすいらしい。
 手のひらで頭を摩りながら、一応抗議のために唇を尖らせるが、透は笑って適当な謝罪を口にして終わる。透とは適当に話し合える、そんな仲だ。
「そんなこと聞くなら、透は決まってんの?」
「スポーツ推薦貰ってるからな。それで行くつもりだ。明も一緒に行けたらいいんだけどな」
「流石に体育大学系は無理だね」
「明が入ってきたら裏口疑っちまうな」
 透は陸上で有名な選手。推薦も貰って将来が決まっているようなものだ。
 透の通う大学の近場で働き場所を探して、一緒に来てほしいなんて言われたら、本当にそうするかもしれない。行きたい先もないし、自分じゃ決められない。それに俺は密かに透のことが好きだから。
 小さいころからずっと仲が良くて、なにをするにも透を誘って、毎日迎えにきてもらって一緒に登校して。いつから好きだったかなんて覚えてはいないが、気づいたら好きになっていた。
 透は部活で結果を出して有名になって、反対に俺は何も決まっていない。毎期のテスト結果だって赤点がちらほらある落ちこぼれ。最近は本当に透が進学する大学近くで就職でもいいかな、なんて考えていたりするが、さすがに流されすぎだし、引かれるか怒られそうなので言わないでいる。それに、そこまで重いことなんて恋人同士とかじゃない限り、全部投げ売るような決断力も度胸もないから、こうやってうだうだしているんだろうし。
「今日部活は?」
「今日は期末テスト前で無し。お前、まさかテスト忘れてないだろうな?」
「はは……」
 じとっ、と向けられた視線から逃げるようにそっと横に逸らす。忘れてはいないが、勉強はしていない。
 どこに行きたいとか、やりたいとか目標が無いせいで、頑張る方向が分からない。なんて自分を誤魔化すような理由を並べているが、勉強が嫌いだ。だから勉強をしてない、と数学の点数が悪くて橘先生から呼び出されたときに言ったら、ため息を吐かれたのを思い出した。
「そんじゃあ、一緒に帰るか」
「透と一緒に帰るとか久々じゃん」
「お前が遅く登校して、早く帰るからな」
「健康的で羨ましい生活だろ」
 まるで橘先生みたいな呆れ顔を向けてくる透に笑っていると、終礼の始まるチャイムが鳴った。

 
 教室に入ってきた担任は、女性で名前は飯塚光(いいつかひかり)。二十代後半の家庭科の教師。初めてクラスを持つことになったらしいが、張り切って頑張るというよりは、生徒寄りの発言が多い柔軟な対応をしてくれる先生。
 姉と年齢が近いためか、揶揄い方とかあしらい方とか、姉に似ているところがある。進路とか学習面に少し口うるさいが、俺のためを思っているものわかっている。それが妙に居心地が悪い時もあるが、俺の将来について一番心配しているのが、もしかしたら放任主義の両親よりも飯塚先生の方かもしれない。
 穏やかな顔つきに反して性格はキビキビとして、終礼の内容も端的で分かりやすい。それを透の背中を見ながらぼんやりと聞く。
 
 いつもは短い終礼が、今日は妙に長い。
 配られたプリントは、悩んでいたら此処に電話、という精神カウンセラーのいる施設に繋がる電話番号。
 なるほど、やっぱり進路に悩んだ欠席が多いのか。だが、飯塚先生の話しぶりから、今年は例年と比べて異例の数という言い方をした。とにかく気を付けて、なにかあれば私にでもいいから相談、とのことだ。
 珍しく長い終礼のあいだ、プリントに落としていた視線を青空に向けた。いや、正確には青空に向けようとしたら、窓側の同級生と目が合った。
 鷹峰黎助(たかみねれいすけ)
 ぱちり、と視線が合った。逸らそうとしたのに、できなかった。
 目が離せない、というより「離してはいけない」と思った。
 黒い前髪の奥。影になっているはずなのに、確かにこちらを見ているのが分かる。
 数秒。ほんの数秒のはずなのに、やけに長く感じた。
 そのあいだ、教室の音が遠くなる。誰かの椅子を引く音も、紙の擦れる音も、全部。俺と鷹峰だけが切り取られたみたいだ。
 普段何を考えているのか分からない、表情筋が死んでいる男。黒の前髪は切れ長だけれど大きい瞳を影に落として、長い髪は襟足で結って、中性的な見た目。ぱっと見たら暗そうに見えるが、綺麗な顔立ちで暗いと言うよりは儚そうとか美人のほうが合っている。
 そんな男と数秒見つめ合って、何故か知らないが、微笑まれた。
 柔らかくて、穏やかな、ただの笑み。
 なのに、ぜんぶ知っているみたいな顔で。
 
 今、俺は可笑しなことをしただろうか? 否、していない。混乱する頭のなかが、両手を叩く音で打ち切られた。
「じゃあみんな、今日は終わり。気を付けて帰ってね」
 
 終礼が終わると、教室は一気にざわついた。
 椅子の音と、笑い声と、足音が混ざる。何が起きたわからない。
 ただ、何かが“ずれている”気がして、騒がしい教室のなか、青空と滲んだ飛行機雲を見つめてぼんやりと座ったまま、動けなかった。