Ⅰ
とろとろと夕日がおちて街の色を朱色に染めてあげていた。とっぷり暮れる前の、太陽はまだかろうじて引っかかっているけれど薄闇が忍び寄ってくる狭間の時間。どこか幻想的で、見慣れた風景が嘘みたいに白々しく映る瞬間がある。
誰しも同じ景色を見ている、というのは幻想だ。あるいは儚い願いなのかもしれない。だとしても、碧生は幼いころからずっとそう願っていた。みんなと同じものを見たい。みんなと同じになりたい。それができなければ、――せめて見えているふりを、して、そこにいさせてほしい。
(日が暮れるの、はやくなってきたなぁ)
大きな通りから一歩外れ、古びた空き家がぽつぽつ並ぶほかはなんにもない道だ。人が住んでいないから、もちろんだあれも通らない。ときおり散歩中の老人とすれ違うこともあるが今日はそれすらなく、さらにわき道にはいって何のお寺か神社か知らないがとにかくそういった古い建物がある横をすり抜け細い階段を降りていく。街灯が少ないので、暗くなる時期はここは通れないだろう。暗い道は、苦手だ。
ひとと同じものを見ているはずの自分の視界がたまにずれていることに気づいたのはいつだっただろう。
碧生の左目は髪の毛と同じ漆黒なのに、右目はなぜか色がうすく光の加減では黄色っぽくも見えてしまう。神さまが間違えて別のおかしな目玉をはめ込んでしまったのかもしれない。色白でやせっぽっちに平均身長、闇のように黒い髪、それだけみれば目立たない地味な風貌なのに、その目だけが異質で、碧生の顔を見た人は途端に訝しげな顔か嫌悪を浮かべる。遺伝? ときかれても親の顔なんて知らないから答えられない。物心ついたころには施設にいた。
(自分からは見えないけど、きっと、すごく変なんだろうな)
目の色がちがうから視界もぶれて、きっと二重写しになってしまうのだ。違うレイヤーが重なっているような、遠近感が狂う瞬間。
だから、変な物ばかり見てしまうのだろう。
右手側は急な斜面になっていて草がぼうぼうに生えている。反対側は古い塀だろうか、石の壁がずっと続いている。その向こう側にいったいなにがあるのかはうかがい知れない。時折頭上を烏が飛んでいくけれど、そのほかは葉擦れの音くらいしかしなかった。
たんたんたん、とリズムよく階段を下りる途中で、ふいに、ぬるい風が首元をすりぬけた。
「え?」
つい足をとめてしまった。ぺたん、と右手で自分の首を触る。拭う。気のせいかな、と首を傾げて、碧生はまだ残り半分以上ある階段を再び降り始めた。
その途端。
「 !」
奇妙な、大声が聞こえた。
「わっ」
びっくりして肩をすくめてしまう。そのままそろりと後ろを振り返りたくなって、けれど、生ぬるい風――吐息のようなそれがうなじをかすめて、背筋がぞっとした。
こわい。
なにか、はっきりしないけど、でも。気持ち悪い。その直感だけで、ぎゅっと肩ひもをにぎり、振り向くのをやめた。右目の奥がちりっと痛む。
やめておいたほうが、いい気がした。
ごくっと唾を飲み込み声もたてないようにして、さっきより一段と薄暗さを増した足元に注意しながら、駆け下りる。
気配が、ついてくる。
足を動かす。スニーカーの底がすべりそうになって気をはりながら、それでも慌てて駆け降りる。降りる。降りる。降りても降りても階段が終わらない。こんなに長かっただろうか? おかしい。たかだか二十段くらいの、階段のはずなのに。緩やかにカーブを描いていて一番下が見えてこない。
は、は、と自分の息の荒さが耳にうるさい。生ぬるい風がただよって少し伸びすぎた髪がうなじにまとわりつく。汗がにじんでいるのがわかる。だれも登ってこない。だれも降りてこない――いや、なにかがひたりと背中にひっついているような心地がする。唾を呑む。気のせいかもしれない。気のせいだといい。気にしすぎなのかもしれない。伸びすぎた葉っぱが目の前にでてきて、肩のみならず頬を打った。足を動かして、うごかして。はやく、降り切らないと。
追いつかれる。
「 !」
奇妙な大声がもう一度聞こえた。あまりにうるさくて、とっさに両手で耳をふさぐ。こちらの反応を見たからだろうか、さらに、もう一度、もう二度、くりかえし、すぐちかくで大声を出している。吠えている?
(……犬?)
犬の鳴き声にしては大きすぎる気がしたが、そしていったいどこから出てきたのか知らないが、犬、と思えば少しは気が楽になる気がした。でも犬であればあっという間に追いつかれてとびかかられてもおかしくない。ちりちりと目の奥が痛んでいる。いやな痛みだ。覚えのある、じっとりと湿度のある、痛み。
物心ついた時からそうだから、もはや、切っても切れないものなのだろう。それこそ目の玉をくりぬいて入れ替えるくらいしないとだめかもしれない。そんなことかなうはずもなく、だから、ただ、人といっしょにいながらすこしだけずれたものを見ていて、そのことが、ときおり、叫びだしたくなる。新しい土地で、学校で、不安もあったけれど、でも、考えてみればいつだって碧生は異物なのだ。どこにいても大して変わりはない。
「 !」
なんて言っているのか聞き取れない。吠えている。だが、その声は近くで聞こえる割に、一向に足音がしない。そう気づいてぞっとした。
(おれのうしろに居るの、なに)
がくん、と踏み出した右足がすべる。心臓がきゅっと縮まった。そのまま足が階段の縁から飛び出して、身体が前のめりに傾いだ。
「っ、」
落ちる。
大きな声が、後ろで、吠える。追い立てるように、獲物を追い詰めるように――
「うわん」
低い声が、前方から響いた。
そのまま石段に激突するかと思ったけれど、身体はすこし前のめりになっただけだ。ふ、と清潔な花の匂いが鼻を掠める。
気付けば目の前に人がいて、落下しそうだった体を抱き留められている。鼻先が布にふれ、その向こうにあるあたたかさとたしかさに、瞬いた。
「……あ、先輩?」
「なにをしている」
両手で軽々と支えられ、碧生は瞬いた。階段は気づけばもう終わりかけで、その先につづく古びた石畳に立っている人は、自分と同じ学校の制服を着ていた。もっとも彼は碧生との下手くそな結び方とは雲泥の差できっちりタイを締め、磨き込まれたローファーを履いている。短い前髪の下から鋭い視線がこちらを見つめ、軽く眉を寄せた。
「えと、おうち帰るところ、です」
その人が目の前にいる――ただそれだけで一瞬なぜ自分が階段を降りていたのかすら忘れてしまったけれど、はたと思い出しそう告げた。背負ったリュックも履きなれたスニーカーもいつも薄汚れたブレザーにスラックスも、いつもどおりだ。そうだ。
先輩は訝しそうにこちらを見て、けれどまだどこかおぼつかないスニーカーの歩みを見かねたのか、黙って肩を支えてくれた。よろよろと階段を降り切って、気づけば、生ぬるい風はどこかに去っていて、うなじがすっきりしている。眼の奥の鈍痛も薄らいでいた。
「なんでこんなとこにいるんですか?」
ほう、とため息をついて平らな地面に降りる。先輩の視線はこちらではなく階段の上へ向いたが、それも一瞬のことだった。
「先輩のおうちもこっちのほうでしたっけ」
こちらの質問はまるで聞こえていないようで、彼はため息をつくとさっさと歩きだしてしまう。さくさく歩いていく姿勢の良い背中を慌てて追いかけて、一歩後ろから彼を見上げた。
この人の近くにいると、少し息が楽になる気がする。
出会った時からそう感じているけれど、そういうあいまいな感覚を人に伝えるのは難しくて、また、そういうことを言おうとしても気持ち悪がられることが多かったので、もうずいぶんと口にすることをあきらめている。
歩くたびに揺れる彼の手をぼんやりと眺めていると、「この道は、通らないほうがいい」と低く言われた。
「え、」
「街灯が少ない。君は暗い道が苦手だろう、転んでけがをするのが関の山だ」
「あは、そうですね、違う道、通るようにします」
さっきなんだか気持ち悪いこともあったし。
素直にうなずくと、彼はちらりとこちらを見て、かすかに唇を曲げたようだった。
その人に初めて出会ったのは春だった。
入学式は翌日だったが、校門前の桜はとうに盛りを過ぎはらはらと散り始めていた。引っ越してきたばかりで慣れない土地が不安で、碧生は念のため下見のために訪れた学校の前に立ち尽くしている。いまは私服だから、いくら明日からここの学生と言ってもやはり気後れしてしまうのでどうにも落ち着かない。幸い、式の準備のためか制服姿の生徒は見かけなかった。校舎は大きくて、心細さに拍車がかかる。
ひとりで、ここまで来てしまった。
なにか強い目的があったわけではない。流されるがまま、押し出されるがまま、ここに。ひとりで。施設だって高校卒業までしかいられないのだから、だから、このタイミングで引き取り手がいてくれてよかった。そう思う。引き取られたはいいもののろくな挨拶も事情の説明もなく一人暮らし用のアパートを与えられ、それきり。いったいなんのために養子に迎えられたのだろう、と思うが、でも、しかたない。碧生に選択肢などはない。
(きっと、こんなふうなのかな)
自分の人生はもうずっと。まだ十五だが、もう十五だ、という気分にもなった。誰にも選ばれず、欲しがられず、ここにいてもいいのか、わからないまま。よるべない。
ただ、はらはらと桜の花が散っている。
どこにもとどまらず地面に落ちて、そのうち踏まれていく花びらの白さが、なんだか、自分みたいだと思った。何の力ももたず、ただ、流されるがまま。大人の間でやりとりされて。
ふ、と息をついた。
知らぬ土地で気を張っているのだろう。どうにも考えが散漫になる。
首を振って、もう帰ろうかと思った。校門から目をそらし、桜の樹から目をそらす。
その間際。
「え」
にゅ、と白い手が、見えた。あきらかに異質な、たしかにそこに人はいなかったのに。
(やばい)
慌てて目をそらそうとする。それなのに、うまくいかない。まるで見えない手に固定されているみたいに首が動かない、むしろ、先ほどみた樹のほうへと顔をむけるように、ゆっくりと促されている。
じわっと汗がわきでる。唾をのみこむと大きな塊みたいに喉につまった。
(……これ)
いままで、何度となくこういうことがあった。誰も気にしていないものに碧生だけ気が付いてしまう、みんな平気なところでひとりだけ躓く。ひとりだけ物がなくなる。裾をひっぱられる。理由も原因もわからない。対処法もわからなくて、だから、結局、そのままやりすごしてどうにかここまできたけれど。
(……こわい)
でも。
こわい。なにが起こるかわからない。どうなってしまうのだろう。心臓がうるさい。目を閉じればいいのだ、と気づいて慌てて目蓋を下ろした。けれど頭を押されている。肩を押されている。桜の樹のほうへ、吸い込まれるように、足が動く。喉がせまくなる、息が、しにくい。目蓋が何かに抵抗するようにひくひくと震えた。
でも、こわいけれど。
もう逃げるのにも、疲れてきた。呼ばれ続けて耳が、頭が麻痺している。考えるのも疲れる。抗って、明るい方にいきたいのに、身体はこんなに重たい。
(もう、いいのかなぁ)
あきらめてしまっても。手放してしまっても。
(どうせおれなんて、だれにも愛されない)
そんな自暴自棄な思考を遮るみたいに、頬を撫でる冷たい感触があった。
雨、にしては続かない。花びらだ、と直感で思った。見えてもいないのに、肌の感触でわかる。桜の花びら。けれどそれにしてはずいぶんとはっきりしすぎているような。
「目を開けたまえ」
凛と響く声で命令され、なぜか、懐かしい気持ちがした。
聞いたことがあるような、気がする。だれかはわからない。でも、なんだか。すがるような気持ちで、ゆっくりと瞼を押し開けた。
「……ほう」
ため息のように小さくつぶやく声が、目の前から聞こえた。気づけば本当に目の前、鼻先がぶつかりそうな距離に、見たことのない男の人の顔があった。
「え、あ、わあ⁉」
「チッ、喧しい」
華々しく舌打ちを響かせ、その顔が離れた。え、なに、と後ずさり、そこでようやく自分の思うとおりに体が動くようになったことに気が付く。拳を握って開いてみると、じっとりと嫌な汗で濡れていた。
「匂いはそのままのようだね――ふん、黙っていればそれなりに見栄えがするのに口をひらくと相変わらず台無しじゃないか。いっそ口を縫い付けてやろうか」
「え、ええ? こわいこと言わないで……そもそも、だれ、ですか?」
目の前の人は腕組みをして、不遜にこちらを見降ろしている。ブルーのジャケットにグレーのスラックスはこの学校指定の制服のはずだがまるで先生みたいな落ち着きがある。白い額がうつくしく、すっと立つと背が高い。
「佐倉祥」
「さくら、さん」
彼はひとつ頷く。じろりと見つめられ、いたたまれなくて碧生は口早に「あ、日浦碧生、です」と告げた。
「あの、四月から一年生で、」
つっかえながらとそう告げると、サクラショウと名乗った人は腕組みをしたまま「新入生、ふうん」とこちらをそれこそてっぺんからつま先までじろじろと見た。見下ろした。視線のあまりのぶしつけなやり方に、戸惑ってしまう。
奇妙な目で見られることはたくさん経験してきたのに、いつまでたっても慣れることがない。視線、というのはそれだけで不思議な力があって、目に見えないのに、あからさまにまとわりついてくる。見られる、ただそれだけでどこかが消耗していく。
(……変な目って、言われるんだろうな)
諦めがちにそう思っていれば、「顔をあげなさい」と厳しい声で言われた。
「え」
反射で言われたとおりにしてしまう。その人と目があって、彼がなぜか満足げに頷いた。さらさらと風に短い髪がなびいて揺れている。やわらかそうな、茶色とも赤ともつかない色。
「顔をまっすぐあげていたまえ。こんなに美しい目じゃないか、くりぬいて飾っておきたいくらいだ」
その人の瞳こそ、光の加減だろうか、夕暮れ時の朱とも水色ともつかない混とんとした空の色を映しこんだようで、つい見つめてしまう。それからのんびりと言葉の意味を咀嚼して、んん、と首を傾げざるを得ない。
「……誉め言葉ですか、それ」
怖いことを言われた気がする。思わず自分の右目――色の薄い方の眼を手のひらで隠す。
変な目。病気じゃないの。ふうん。気味わるい。こっち見ないで。
そう言われたことは数えきれないほどあったが、『美しい』などと言われたことが、あっただろうか? あとくりぬいて飾っておきたいは、絶対に今初めて言われた。
目の前の人は、まるでばかにするみたいに目を細めてこちらを見下ろした。
「それ以外どう聞こえるんだい。君の耳はなんのためについているんだね? 眼が節穴とはいうが耳も節穴といってやろうか――ふん、よく見れば、どこもかしこもがらんどうで、穴だらけじゃないか。息を吹き込めばさぞかしいい音がするのだろう」
とてもじゃないが褒められているようには思えない、のみならず、なんだかすごいことを言われている気がするのだが――どうにも人間というよりそのへんの観賞物に対しての言葉みたいな――、意味を理解するのに頭が追いついていかない。目の前のきれいな人の顔を、その鋭い瞳を、ただ、見つめ返すしかできなかった。
「日浦」
凛とした声で名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
「あ、はい」
「日浦、ヒウラ、ね。覚えておこう。僕に覚えられるなんて光栄だと思いたまえ」
「は、はぁ」
そういうと彼はくるりと踵を返し桜の幹に近寄った。つられて自分の足もそちらにむいて、近づけばやはり大きさで圧倒されてしまう。降り注ぐ花びらの白が、顔をなでていく。
「女の人の手みたい」
碧生がそうつぶやくと、佐倉はちらりとこちらを見たようだった。視線を感じながらも、桜の樹に吸い寄せられる。
招かれている。やさしく受け止めてもらえそうな錯覚すら覚えて、くらりとした。
気づかず一歩踏み出した体を、だが肩をつかまれて立ち止まる。
瞬いて、緩慢に振り向けば隣の人にしっかりと肩をつかまれている。大きな手だった。桜の花びらとはちがう、輪郭のある、力強い、ゆびさき。
「これは、僕のだよ」
「え?」
これってなに? と意味がつかめないままその顔を見上げていると、またはらはらと桜の花びらが散った。風もないのに――そう気づいて、ぎょっとする。自然に散るにしても、あまりに、量が多い。ここにばかり固まって落ちてきていないか。
頬に髪に肩にまるでしつこくまとわりつくように降ってくる。
桜を見上げようとしたけれど、それを制するみたいに佐倉の手が肩から離れ、こちらの髪先にふれた。
きれいな指が、何度か髪を梳くように撫でていき、そこに花びらがつままれていることに気づいて落ち着かなくなる。別に頭を撫でてくれたわけじゃないのだ、と。でも、他人になでられるなんてそれこそびっくりしてしまうだろうに、なんだか、残念に思ってしまってそんな自分が恥ずかしかった。
「あきらめたまえ」
静かに、きっぱりとした口調で言われて首を傾げてしまった。
「なにを?」
相手は視線だけでこちらを見て、ふいっと目をそらす。
「君になど話していないよ」
さっきから思っていたが、この人、怖い人なんじゃないだろうか? 気遣いというものを一切感じない。ちょっと不安になりながらも、けれど彼の指先はひどく優しくて、髪や肩にくっついた花びらをひとつひとつ取り除いてくれると、最後に軽く手を打ち合わせた。
ぱあん、と高い音が静かな一帯に響き渡る。
瞬間、強く風が吹き荒れた。突風にパーカーの裾がもちあがる。驚いて目をとじて、それから、おそるおそるひらく。
先ほどの人は、いつの間にか目の前から消えていた。
「え⁉」
振り返ると、校門のところに制服を着た後ろ姿がある。茶色がかった短い髪の毛は、まちがいなく、先ほどの彼だ。あっという間にあんなところまで?
彼は軽く振り向くと「行くよ」と呟き、こちらの返事も待たず歩き出す。
「え、あ、ま、待って!」
咄嗟に足を踏み出した。なぜ佐倉がこちらに声をかけたのか、どこに行くのか、何もわからない。けれど。
(呼ばれたから)
撫でてもらった髪が走るたびに揺れる。地面に落ちた桜の花を靴底で踏んでも感触なんてわからない。
ただそこに、よごれた白い指があまた落ちている気がして、そう見えてしまう自分の目がいやで、碧生は振り向けなかった。ただ一心に、彼を呼んでくれた人のところに駆けていく。
そうしておれは、その先輩に出会った。桜の樹の下で。
**
チャイムとともにざわめきが溢れ出す。話し声、椅子から立ち上がる音、机を動かす軋み、浮足立った空気。授業中の気だるさを押し殺したような沈黙がやぶられ、休み時間になったとたんあちこちから膨れ上がったにぎやかさがはじける。まだ入学して間もないというのに皆あっという間に人とのつながりを作り立ち上げ、いくつかの塊が生まれているようだった。
碧生はつい、うつむいたまま立ち上がり、教室の賑やかさから逃げるように廊下に出た。
昼休みに入り途端にあふれ出した生徒たちの間を縫うようにくぐりぬけ、よろよろと、屋上へ向かう階段へ足を動かす。通りすがりの人と肩がぶつかり、慌てて壁際によける。相手は気にもしていない。見えてもいないのかも。
(……ひと、多いなあ)
人気のない方へ、人気のない方へ。屋上はふだん解放されておらず、そこへと続く階段は薄暗い。まだ履きなれない上靴をぺたぺたと引きずって、どうにか最上階の手前までたどり着き、階段のてっぺんにぼんやりと腰を下ろした。見下ろせば階段がまっすぐ続いていて、踊り場でくるりとその先は折れ曲がっている。薄暗くて、ほこりっぽかった。あまり人の出入りがないところ特有の気配がする。
静かだった。
喧騒は遠くて、教室にいるとみんなはちきれそうに楽しそうで、圧倒される。にぎやかなのは嫌いではないけれど、そこに自分がいていいのかわからなくて、大勢の中でのひとりはいっそう心細くて、碧生はうつむいてしまう。それならさっさとすみっこに逃げたほうが楽だった。
まだ真新しい制服のズボン、ジャケットの袖をなんとなくながめて、はあ、とため息をついた。
遠い親戚に引き取られたものの一緒に暮らすわけでもなく――じゃあなんで引き取ったのだろう? 大人の事情は複雑そうで、上手に聞き出せなかった。彼らはこちらを見もしなかった――、ひとりで暮らすだけの最低限のサポートはしてもらえているのだからまだ僥倖だと思うことにした。それにあのまま施設にいても、高校を出た後は自活しなければならない。高校の三年間は、だから、できるだけ貯蓄をしなさいと言われていた。バイトをして、お金をためて、就職先を探して、それから先、一人で生きていくための。
(……ひとりで、なぁ)
それなら、どこでもいっしょだなあ。
そう思えばいまなんてぜんぜん、まったく、悪くない。はずだ。そう思うことにする。自分もまた施設にいた子供たちと同じように、この三年間で自分で生きていくためのお金をためてそうして、それで。それで?
「……どうしたらいいんだろう。ぜんっぜん、わかんない」
はあ、とため息をつき、そこで思考は途切れた。自分の進むべき道がわからない。道しるべがない。碧生はため息を吞み込み、ポケットをまさぐると硬い飴玉の感触と、その奥に糸がひっかかった。摩擦ですりきれてすべらかになった糸はちょうど腕の長さ位で、もう何年も使っている。指先に引っ掛け反転してひとつの弧を描いていて、両指にかるくひっかけ、組みなおす。
ひとりあやとりは得意だった。いつでもどこでもできるし、単調に手を動かすのは気がまぎれる。一つの形ができるとそれなりに達成感があるし、すぐに崩してもそんなに後悔はない。どうせその一瞬なのだ、なにもかも。人と出会うのも別れるのも、叱られて下を向いているのも誰かがこちらを見て笑ってくれるのも。まるで一瞬の、花びらが散るくらいの、あっけなさで。
(そういえば)
あの人。
入学前に、下見に訪れた学校で出会ったあの人。明るい色の髪の、凛とした雰囲気の人を思い出す。あんなに目立つ人なのに、そういえばまだ校内で見かけていなかった。
「えっと……」
なんていったっけなぁ、とぼんやり手を動かす。考えなくても指先は動く。知っている道を歩くように、指を動かしている間はとりとめもない考え事が浮かんでは消えていく。
「サクラ、って言ってたな。漢字どんなふうだろ。桜? さくら、さくら……」
「佐倉祥。人偏にひだり、倉庫のクラで佐倉。吉祥天のショウ。わかるかね?」
「ひえ⁉」
びくっと思わず数センチくらい尻が浮いた気がする。慌てて階段の下を見る。そこに、人影があった。
「こんな汚れた場所でなにをしている」
「よ、よごれたって、いちおう学校のなかだし」
確かに掃除も行き届いてなさそうな隅っこの砂利だかほこりだかを見て、それから、もう一度彼を見下ろす。
そこにいるのは、入学式前に出会った彼だ。
両腕を組み、階段の下からこちらを見上げているのにまるで見下ろされているかのような威圧感を覚える。座っていたら失礼だろうか、ええ、でも、と、戸惑いながら、両手をそのままの形にひとまず立った。あやとりの糸が指に絡まったままもたもたとくずれる。
「隅が好きなのかい」
「え、あ、うん、落ち着くから、」
もそもそ答えている間も相手は黙ってこちらを見上げている。薄暗い室内で見ると、鋭い瞳はやはり暮れかけのあいまいな夕空の色よりも夜に近い色合いだった。引き寄せられるように、階段を降りる。彼の視線に、言葉はないのに、従ってしまう。
ようやく踊り場まで降り切ると、今度は見下ろされる格好になった。相手の方がすこし背が高い。細身に思っていたけれど、そして実際痩せているけれど、こうしてみるとしっかり背も高くて手も足も長くて、自分よりずっと大人の男の人に見える。何年生なのだろう。三年生かな。
「え、えっと、日浦です」
ぺこっと頭を下げる、上げる。彼は不可解そうにこちらの手元を見ていた。
「それは知っている。それはなんだね」
「これ? 東京タワー」
ほら、とまだ糸が絡んだままだった両手を動かし、ぴんと糸を張りつめさせる。位置を上下に変え、上をつまんでそれっぽく形を作ってみると、きれいな顔がかすかに動いた。
「……なに?」
不可解そうにいわれて、え、と瞬く。
「え? 知らないです? おっかしいなあ、これ定番かと……」
いったん解いて、それからちゃちゃっと簡単なものを作って見せた。
「ゴム」
怪訝そうな顔に、もう一度解く。ささっと指先を動かす。どこをどう、というのを考えることはなく体が勝手に動く。考えなくてもできる暇つぶしだ。お金もかからないし。
「あさがお」
そう宣言してから、最後に糸の中央を口でくわえて形を作って見せた。
その間も彼はじっとこちらを見ている。くだらないと吐き捨てられるかな、と身構えながらそっと口から糸を吐き出すと、佐倉は手を伸ばして、糸に触れた。
「ん、やりたい、です?」
「いや、結構だ」
興味を持ってもらえたのかなとうれしくなって聞いてしまったけれど、つれなく断られる。糸を撫でた手もあっさり離れてしまうので、まあ見ていても楽しくないかなあ、実際にやる方が他のいいのにとポケットに糸をしまった。その際に指先に飴玉がふれて、あ、と取り出す。
「それなら、飴食べます?」
彼は今度こそぎゅうっと眉を寄せた。きれいな人なのでそういう表情をすると大変迫力がある。ありていにいうと、こわい。こわいけれど、なんだか、こちらを厭っているようには思えなくて、だからこんななれなれしく話しかけてしまうのかもしれなかった。
(だれかとこんなしゃべったの、久しぶりかも)
教室の同級生とはまだ仲良くなれなくて、始めたばかりのアルバイトもまだぜんぜんうまくいかなくて、ひとりぼっちの部屋で寝て起きて、日々を送るのに精いっぱいだったから。
彼のそっけない返事でも、なんだか嬉しかった。せめてお礼をしたかったのだが、相手の返事はにべもない。
「いらない」
「えっと、これ、あまくておいしいですよ。おれの好きな味で」
「……なぜ一番気に入っているものを他人に差し出すのだね」
ますます眉を寄せられて、え? と差し出した手のやり場に困った。受け取ってもらえないのだろうか。
「え? だっておいしいですし」
「それなら自分で食べたらいい」
「でもおいしいやつ食べてもらえたらうれしいような……その、おしゃべりしてもらえて、嬉しくて」
「意味が分からない。君が食べたいのなら食べなさい」
なんだか同年代というより先生と喋っているような気がしてきた。いや、先生ならもう少しこちらに寄り添った返事をしてくれる気がする。もっとはるか、年の離れた大人と会話しているような。
「お礼、したいんです! あ、でも、これだと足りないかな、え、ごめんなさい、おれこれしかもってないし……」
慌ててもう片方のポケットを探してみるも、そちらにはなにも入っていなかった。ええと、ええと、ときょろきょろしても当たり前に不愛想な階段や壁や埃っぽい床があるだけだ。
「ど、どうしよう、先輩!」
「どうもしなくていいのだけれど」
「でも、その、入学式前に会ったっきり見かけなかったからどうしてるかなって思ってたとこで、また会えてうれしくて、ええとおれのはなし、わかりにくいですよね、ごめんなさいよく言われるんです、ちゃんと整理して喋りなさいって、えっと、だから」
とにかく、なにか言わなければ、と必死に口を開いて動かしていると、ふと、佐倉が腕組みを解いた。軽く首をかしげて碧生をまじまじと、なんだか変なものを見るように観察している。
「僕に会いたかったのか?」
「え? うん、えっと、たぶん?」
「僕に聞くな」
呆れたようにそう言われて、戸惑っているうちに彼はくるりと踵を返す。とっさにその背中に呼びかける。
「え、もう行くの」
「こんな埃っぽいところにいつまでもいられるか」
「あ、ああ、ですね……」
どうやって話を続けたらいいのかすら、わからなかった。引き留めたい気もするが、相手に嫌な思いをさせたいわけでもない。そもそも、他人と話すのが不得意な碧生だ。なにをどうしていいのかさっぱりだった。
「僕は図書研究会の部室にいる」
「え?」
彼は背中を向けたまま、静かに告げた。後ろを向いていても声はくっきり聴きとりやすい。
「君がもし興味があるなら訪れたまえ」
「と、図書? 図書室ってこと?」
「ちがう。旧館東棟の三階一番奥だ」
なにそれ。旧館といえばクラブの部室や選択授業の一部の教室があるところで、教室は新館で一年生の授業はだいたいそのあたりで事足りるからいまだに足を踏み入れたことがない。碧生がぽかんとしているうちに彼はどんどん下に降りて行ってしまう。踊り場からそのきれいな後頭部が一番下まで降りるのを見守っていると、佐倉はそこで足を止めた。首をひねるように、こちらを仰ぎ見る。
「――来ないのかい」
「え」
きょとんとして聞き返すと、彼はふいっと顔をそむけた。
「あ、そう。別にかまわないけど」
「え、い、行く! 行きます!」
慌てて階段を駆け下りる。上靴がばたばたと騒がしい音をたて、それがまるで碧生の心臓そのものの音みたいに喧しかった。誰かに誘われるなんて、久しぶりだ。薄暗い中であと数段、といったところでふいに慣れない上履きの底がずるりと滑る。
「あ、」
落ちる、と、思った。実際に落ちた。とっさに受け身をとろうと手を伸ばした先で。床よりもはやくなにかにぶつかる。
衝撃はない。
硬い床ではなく、けれどしっかりとした弾力に抱き留められた。あわい花の匂い、どこか土と雨の匂いに似た春先の気配を吸い込んで、ふ、とつめていた息を吐く。
地面が、まだ遠い。
「……なにをしているんだ、一体」
はあ、と深いため息がこぼれる。あ、と顔をあげると、彼を見下ろしている。ただしさっきよりもずっと距離が近い。両腕に抱き留められて、足が浮いたままだ。小さい子みたいに抱っこされている。そのことに気づいて、遅れて、身体が緊張した。
「わ、あっ、あああ、あのぉ」
「怪我をしないよう気を付けたまえ」
口調は厳しく冷たいが仕草は丁寧で、ゆっくりと足を下ろしてくれてようやく床に両足がついた。まだちょっとぐらぐらして、どうにか立つまで背中を支えてくれている。佐倉はじっとこちらを見守っていたが、碧生がしっかりバランスをとって立ったのを確認するとそっと手が離れていった。
「――――行くよ」
そう告げる声に、慌てて頷く。凛とした背筋はまっすぐ美しく、ほれぼれするように堂々と佐倉は歩いた。部活の事とか、ほかにどんな人がいるのかとか、そういった詳しい説明はなにもせず、傲岸不遜に黙ったまま、けれど碧生の歩く速さにあわせて歩いてくれる。
(こわそうだけど、優しい人だ)
碧生は素直にその背中を追いかけていく。
「こんにちは」
「また来たのかね」
あきれたような声に出迎えられながら、碧生はへへっと笑い後ろ手に戸を閉めた。図書研究会の部員は彼以外見たことがない。旧棟の端っこにあって誰も寄り付かないうえに、戸を開けた途端びっしり古い本が詰まった本棚が両面に設置されていて威圧感がすごいのだ。
気のない顔をして本をめくっていた佐倉は、ふと顔をあげる。
大きく開いた窓から差し込む夕日が、世界を焼きそうなほど赤かった。その中で、彼の陰影が暗く、くっきりと浮かぶ。短い前髪の下、形の良い眉と切れ長の瞳が凛々しい印象を与えていた。
(……きれいなひとだ)
何度見てもそう思う。人の顔の美醜などあまり気にしたことがなかったのに、彼については、どうにも、見つめてしまう。気になってしまう。どうしてだろう。
「どうした」
「え? いえ、その、いっつも先輩って本読んでるけど何の本かなって」
適当に誤魔化そうとしたところで、彼はぴしゃりと言葉を遮った。
「そうではなく――血の匂いがする」
ひやりとするような冷たい声に、思わず背中が伸びた。血?
(さっき、技術の授業で手を切ったけど)
ぷくりと浮かんだ血の玉を適当に指で押さえ、そのままにしていたのだったか。左手を慌てて後ろにまわすと、彼は不機嫌そうに眉を跳ね上げる。
「日浦」
まるで叱られた子供みたいな気分で、目をそらす。口をむぐむぐさせていると、もう一度「日浦」と名前を呼ばれた。佐倉は自分の声を、言葉の力をよくわかっている。
「こちらに来なさい」
この体はすでに彼の言葉に反応し落ち着きなく揺れ始めている。持ち主の制止なんてちっとも聞きやしない。
「あ、えっと」
「僕の命令だよ――日浦、ここに立て」
低い声でそう言われて、もう、自分の体のはずなのに、その声にこそ従順になっている。抗いたいのに、気づけば立ち上がって、よろよろと机のまわりを歩き、気づけば彼の椅子のすぐ隣まで歩み寄っていた。
佐倉はこちらの顔をみて、それから背中に隠した手をまるで透視するみたいに目をぎゅっと細めて睨んだ。
「左手を出しなさい」
「……はい」
もはや逆らう元気もない。おずおずと左手をだす。薄いかさぶたが何かの拍子に剥がれてしまったらしい、じわりと新鮮な血がにじんでいた。
「不注意だね」
佐倉の長い指が碧生の左の手の甲をつつみ、すくいあげるようにする。碧生は立ったままぼんやりと、自分の手の動きをなんだか自分のものではないような心地で眺める。なんだか、夢でもみているみたい気分だった。自分の体のはずなのにちがうなにかにされるがまま。起きていながら夢を見る、というのは、よくある。世界が二重に見えているような、隣を歩いていた子と急に、角度がほんの少しずれたような世界に取り残されるような。
(このひとは、)
いったいなんなのだろう、と、いまふと思った。
導かれるままに彼の顔の前に碧生の指先がある。たとえば外国の映画で紳士が女性の手を取り口づけをするような仕草が重なる。そんな風に感じてしまうことを恥じて、でも少しでも変な動きをしたら碧生の指が彼の鼻先や頬に触れてしまいそうなほどの距離で、そう気づくと指がこわばった。佐倉はただじっと、碧生の指先を見つめている。血がにじんだ左手の人差し指を。
薄く、彼の唇が開いた。
赤い舌がちらりとのぞく。色白の人なので、その赤が妙に目について、離れない。彼の切れ長で涼し気な目元もどこか色づいているように感じられた。
(……あれ、先輩の、瞳)
いつもと見る角度が違うからだろうか。彼の瞳の印象がいつもと違って見えた。どうしてだろう。どこが違うのだろう。もっとよく見ようと目を凝らしたところで、彼がじろりとこちらを見上げた。
目があう。見つめていた気まずさと、彼の視線の鋭さにうなじがぞくっとした。
いつもの先輩じゃない。
どうしてそう思ったのかわからない。けれど、握られた手にじわりと冷汗が浮かぶ。
くん、とゆっくり唾を飲み込む。その目に見られていると、本当に、どうしていいのかわからない。息すらうまくできない。瞬きも、彼のゆるしがないとできないような、追い詰められたような心地になって。
ふいに、飽きたように佐倉が手を離した。
「――よく洗っておいで。深い傷ではないけれど、感染がつくといけない。人間の体は脆弱なのだからね」
「う、はい」
急に解放されて、緊張からの弛緩でめまいがしそう。よろけそうになりながらも碧生は一歩後ずさり、そのままじりじりと部屋のドアにたどり着く。佐倉はもうすっかりこちらには興味がないようで、うつむいて読書に戻っていた。音を立てて邪魔をしないようにそうっとドアをあけて、閉める。
廊下にでて、深くため息。
(……あのひと、なんなんだろう)
あの瞳に見つめられるとなんにもごまかせない気がしてしまう。なにもかも見通すような黒とも茶色とも赤ともつかない瞳の色。あのひとといるとどきどきするし緊張するけれど、どこか安心もする。
考えても答えがでない。そもそも難しく考えるのは不得手なのだ。首をふって、碧生は誰もいない廊下を歩きだす。手洗い場はすぐそこで、並んだ蛇口の一番端を使ってざあざあ手をゆすいだ。
新しく建て増しした校舎は教室が入り、今いる部室棟は以前まで使っていた校舎をそのまま利用しているらしい。学校というのは大人数が同時に使うことを想定されているからか、洗い場も横に長く、すこしだけ低い位置についた鏡も同様だ。後ろの壁が映り込んで、ところどころくすんでとれない汚れがこびりついていた。蛇口も錆ついて、トイレ周りも古い雰囲気が否めない。年月は圧倒的で人間の力ではどうしようもないのだ。
もういいかな、と水を止めて、ぱぱっと手を振り、指先でそろっとハンカチを引っ張り出す。先に出しておけばいいのに、というのをもう何度やっても忘れてしまう。
いったんうつむいて、手を拭って、ふと顔をあげて。
鏡に映った自分の顔が、妙にくすんで見えた。
「……ん?」
薄暗いところだとどうにも見えにくい。鳥目というらしい、と小学校の時に学んで、それからは暗くなってからは出歩かないように気を付けてはいる。いるのだが、なにせ生きていると暗くなってから出歩くことくらいある。結果としてあちこちぶつかったりケガをしたり、まあそれでもいままで生き延びているわけだからさほど大したことでもないのだろうと思っていた。
鏡が急に曇ったのだろうか。なぜ? 古い鏡だからってまさかそんなことはない。
変だな、と顔を少し近づける。それでもなんだかぼんやりと輪郭が怪しい。目が急に悪くなったのだろうか。疲れ目というやつだろうか? それともまた、起きたまま見る夢の続きかもしれない。
まだ見えない。おかしい。体を前に倒し、いよいよ鏡に鼻先がぶつかりそう、そんなところまで近づいていく。なんだかもっと、きちんと見たほうがいい気がしている。見なければならない気がしている。
両目の色が違う、ということが、周りの人にひどく不安な印象を与えるということはいつから気が付いていたのだったか。
自分からは見えないのだからそんなことどうでもいいのに、周りの人からは自分の顔がよく見えるから。
いっそ自分のことなんて誰も見えなくなればいいのに、と思ったことだって何度となくある。ぎゅうっと眉を寄せる。それでも焦点がうまくあわない。ぼやけたままの輪郭に吸い込まれるように、顔を傾けて。
鼻先が鏡に触れた。ひんやりと固い、はずなのに、なぜか水の中につっこんだみたいにぬるりと包まれる。
途端、うなじに悪寒が走る。
「あ、」
これ、だめなやつだ、と根拠もなくただ直感だ。この予感は今までだって何度も経験しているけれど、でも、こんな、こんなに直前まで気づかないなんて。足が棒立ちになっている。両手はうまく動かない。体をひこうとしてもまるで全身押さえつけられているみたいにそのまま前のめりになる。鏡にぶつかる。ぶつかっているはずなのに、抵抗がない。そのまま引きずり込まれ、
「――こら」
ぐい、と襟首をつかまれ、後ろに引っ張られた。
は、と息をつく。途端に心臓がばくばく走り始める。さっきまでもしかして心臓も呼吸も止まっていたのかもしれなかった。おそるおそる振り向く。誰がそこに居るのかなんて、もう、わかっている。
「せ、んぱ、い」
「何を道草ばかり食っているのだね。まっすぐ帰ってくるくらいできないのか、この愚か者」
「あ……」
へなへなと膝から力がぬける。洗い場の台に手をのせて、ステンレスのひんやりした感触が指に伝わってきた。これは、現実だ。肌がそう教えてくれて、だから、ほっとしてどうにか顔を上げる。彼は不愉快そうに眉を顰めたまま「行くよ」とだけ言うとさっさと歩き出してしまう。
「あ、ま、待って」
慌てて一歩、二歩、と足を踏み出す。駆け足のようにしないととてもじゃないが、滑べるようにさらさらと歩くこの人には追い付けない。大股で頑張って踏み出してどうにか佐倉の隣に並んで、ちらちら相手を伺う。
「おれが遅いから、その、迎えにきてくれたんですか?」
「まさかこんな近場で迷い子になっているとは思いもしなかったがね」
「ご、ごめんなさい、先輩、なんだかお父さんみたい」
「はあ?」
急に険悪な表情になるので、戸惑って、急いで言葉を探した。
「え? あ、おこった? それなら先生? 先輩いっつも先生っぽいことしゃべるし……でも先生ってわけでもなくて、あ、あといっしょに居るとなんだろう、息がしやすいんです。先輩のまわりって空気がきれいな気がする」
そんなことをいっているうちにあっというまに部室だ。「僕は空気清浄機ではないのだけれど」と嫌みっぽく言いながら佐倉はドアを開ける。
「そういう意味じゃないんですけど……でもだから、えっと」
「何が言いたいか頭の中でまとめて整理してから口に出したまえ」
扉を閉めて、彼がいつもの定位置に座るのを眺めながら碧生もうろうろと部室を歩く。物が多くて、カーテンはいつも締め切られ、圧迫感のある部屋だった。閉じ込められてしまいそうな錯覚を覚える。閉所恐怖症ではないし物が多い方が落ち着くタイプだと自覚しているけれど、それでも、なんだか。
「なんか、先輩って、ちがうような」
「なにが」
そう真正面から問われて戸惑ってしまう。きれいなひとだ。大人びた、冷たそうに見えるけれどこうして迎えに来てくれたり隣にいることをいとわないでくれたり、やさしいひとで、けれど。
(だって、さっきの)
怪我した指先を見つめていた瞳。表情の冷ややかさ。この人はいったいなんなのだろう、と一度浮かんだ疑問はなかなか押しつぶせない。部活の先輩。それは、そうだけれど、でも。
「ちょっと、人間離れしてるみたいな」
「……は?」
ぴりっと空気がしびれた。すこし首周りが冷えた気がする。なにか、冷たいもので撫でられたような感覚。ぱちぱち瞬くと鈍色の鈍い光が通りすぎて、消えた。
(鱗?)
彼は腕を組み、座ったままこちらを見つめている。切れ長の瞳がどこか赤みがかって見えた。
「なんか、一個上の先輩にはとても思えない、です」
「……ふん」
ひやりとした声音で言われて機嫌を損ねただろうかと不安になるが、彼はひとつため息をつくと「血はとまったようだね」とつぶやいた。
「え、あ、うん。ほんとちいさい傷だしどうってことなくて」
見てもいないのに、と瞬くが、放っておいても血は止まる程度の傷だった。それを見越しての発言だろう。
「気を付けたほうがいい」
そっけなくそれだけ言うと、先ほどまで読んでいたのだろう本を取り上げ、めくり始めた。その動きは丁寧で、もうこちらに興味はないと言っているようでもあった。
「先輩ってほんとに一つ上ですか? 鯖読んでたりします?」
「さあね」
今度こそ怒られるかも、と思ったが彼は呆れたように告げるだけでそのままだ。
(こわいところもあるけど、でも、やさしい)
ひそりとそう思って、それから笑っているのがばれてまた叱られるかもしれないのでうつむいた。
烏が遠くで鳴いている。その声に背中を押されるように碧生はひとりとぼとぼと歩いていた。午前で終わった授業の後、その足でバイト先に向かい立ち仕事をこなした後なのでぼんやりと疲れがまとわりついている。今日は普段とは別の単発の仕事で、大変だけど割はよかったはずだ。
「ふあ」
歩きながらあくびがこぼれた。新しい環境に適応するのは苦手だけれど、短期バイトのほうが割が良いこともあり、また自分が要領がよくないからなのかもしれないが長くいるとなんだかよくわからないトラブルに巻き込まれることが続いた。
それが二、三回。ほんの数か月の間にさすがに多くて、結果として、単発の仕事であちこち根無し草のように転々とする方へシフトしつつある。どこに行ってもまあやることはあるしお給料も貰えるので、へらへらしながらその場その場でできることをするだけだ。
ポケットに手をつっこむと、指先に固いものがふれた。いついれたのか忘れてしまった飴玉がふたつ。とりだして、うーん、と眺めて、悩んで、やっぱりポケットに戻した。またあとで食べよう。
歩いていると夕飯時の食事の匂いがどこからともなく流れてくる。くたびれたスニーカーでふらふらと道を歩き、自分の部屋に戻っても当たり前に誰もいないしなんにもないのだ、と思って、首を傾げた。
寂しい、とか。誰かに受け入れてもらいたいとか。
(そういうの、もう、諦めないとなあ)
施設にいるときはそれなりに誰かがいたが一人暮らしもさほど悪いものではなかった。家賃の安さで選んだアパートは町はずれもいいところで、あたりにはなんにもない。狭い路地を歩きながら、もしこのまま誰もいない世界に迷い込んだとしても気づかないかもしれない、と眠たい目蓋をしぱしぱさせて空想した。だれもいなくても、かまわないのかもしれない。
(誰にとっても、おれなんて、見えてないようなものだろうし)
腫れ物みたいに扱われて、嫌がられて、そのうち存在も無視される。その繰り返しだ。施設の弟や妹たちはこんな自分でも慕ってくれた。彼らのことは大切だけれど、でも、ずっと一緒にいることもできない。
(佐倉先輩は、)
高校に入ってから、なんとなく一緒に居ることの多い先輩のことを思い出す。隣に居てもさほどかまってくれないし優しいことをいうわけでもない。好きにしろと放っておいてくれる、バイトが続いて顔を出さないと「学生の本分を忘れていないか?」などとすこしだけ嫌みっぽいことを言われるが、「仕事など寝食を忘れてまでするものではないよ。ちゃんと食事くらいとれ」と叱られるのは、たぶん彼なりの優しさだ。
(おかしいの)
くすぐったい気持ちで、ふふ、と唇を緩める。出会ってほんの数か月なのに、思い出すだけでほっとする存在になってしまっている。こんなに心を預けて――大丈夫だろうか。
(でも、佐倉先輩もきっとトラブルが続いたら嫌になるだろうし、うん、大丈夫)
碧生のことが面倒になったらさっと切り捨ててくれるだろう。頭のよさそうな人だし。でも意外と情がある人な気もするから、かえって面倒なことをさせてしまうだろうか。それはいやだ。嫌がられていそうと気づいたら、碧生の方からさっさと出ていこう。
ひとりでそう確認しながら歩いているところで、ふと、はたはたとはためくものが見えた。
白、いや、あわく黄色味がかっているような。そう、アイボリーだ。
もうだいぶ夜にちかい、けれどなかなか暮れ切らない昼と夜の境目みたいなあやふやな色合いの空の下で、その布が、しずかに、ゆらめいていた。
洗濯ものでもとんできたのかな、と思った。あるいは、交通安全の旗みたいな、そういう系。けれど、よくみると無地ではない。どこか古めかしい花が描かれていて、四角いけれど旗でもなさそうで――そう、着物だ。と気づく。
(でも、どこから?)
気づけば遠くに見えていたはずのその着物はもう腕を伸ばせば触れられそうな距離にあった。はたはたと重たくゆらめく着物の袖は、路地の曲がり角の向こうから見えているのだろうか。そこにだれかがいる? それにしても着物ってあんなに揺れるのだろうか。もっとずしりと重たい生地だと思っていた。碧生はぼんやりと考えながら、疲れた足を動かし続けている。
白っぽい袖の先から、にゅ、と細長く華奢な手首と手のひらが、見えた。
「え」
さっきまで、なかった気がする。いや、見えていなかっただけ? 思わず足を止める。
その手が、軽く揺れた。細いたおやかな指先が薄暗い闇を背負い、いっそう白く、くっきりと浮かぶ。
おいでおいで、というように、手招きをしている。
立ち止まってその手を凝視する。飲み込んだつばがなにか重い塊のようにせまい喉を通り過ぎていく。
あれは、なんだろう。誰だろう。
(なんか、やばい)
うなじにどっと汗が噴き出す。その袖は、手は、碧生の目の高さくらいにあった。手の形から女の人だと思うがその位置から逆算するとものすごく背が高いことになる。高い台にのっているだけかもしれないが、それでも、なんでそんなことをするのかという答えはでてこない。
おかしい、ということはわかる。近寄ってはいけない気もする。
「……っ、」
回れ右して今歩いてきた方向に戻ろうと思うのに、なぜか、足が動かない。むしろ後ろから何かに押し出されるように、じりじりと足の裏が滑って前に動いている。自分の足なのに、となじんだスニーカーを見下ろして、顔をあげて、その手がさっきよりずっと――もう目の前にあることに気づいて、とっさに、目をつぶった。
「――――なにをしている」
ふと、肩に手が載せられている。軽く後ろに引っ張られて、あぅ、と小さく声が出た。
こわばっていた首をどうにかひねり、背後に立つ人を振り向く。
「……先輩」
さっきまでぼんやりと考えていた佐倉そのひとが、そこに居た。幻覚かとも不安になるが掴まれた肩にはしっかりと感触がある。すっきりした花の匂いが遅れて漂った。
いつからいたのか、全然気が付かなかった。物音も気配もしなかったのに。夕方だというのに乱れ一つない短い髪から肩にぴったりそったジャケットに袖、スラックスに革靴に至るまで一部の隙もなくきっちり整えられていて、いつ見ても威圧感というか物言わぬ迫力のある人だ。
「粗忽者め、危ないからきちんと目を開けて歩きたまえ」
「あ、うん、ごめんなさい」
叱られてなんだかほっとしてしまった。それから、もう一度前を向く。
先ほど見えていた袖も、小さな手のひらも、どこかに行ってしまっている。瞬きをして、目をこすっても、当たり前になんにもない。
「ほら、行くよ――君の眼は、どうにも見すぎてしまうようだ」
軽く背中を押され、促されるがままに歩き出した。どきどきしながらさっきまで袖が揺れていたあたりを通りすぎ、曲がり角を過ぎて、でもどこにも、なんにもなかった。ただいつもの見慣れた道が広がっているだけ。
「はは……おれの目、なんか、おかしいんです。こんなものいらないのに」
怖さが去って、現実が戻って来る。ざわざわとした名残はあるけれどそれを押し潰すよう握りこぶしをつくり、ぐっと力を込めた。
碧生だけがいつだっておかしなものを見て、他人から取り残されていく。誰も信じてくれない。けれど、いまは、この人が迎えに来てくれた。たまたまかもしれない、それでも、隣に、いてくれる。ここが現実だ。
(先輩がいるところが、現実だ)
相信じることで碧生はどうにか、まだ、歩いていられる。帰ってこられる。そう気づいて、心臓が跳ねた。
(……こんな、信用しすぎて、いいんだろうか)
信じすぎて、いいのかな。信じることは、なにかひとつを信じて疑うのをやめるのはとても楽だ。でも、そうやって、信じた先に手のひらを返されることだってあるのに。
ぎゅっと手のひらを握りしめたまま見上げた先、佐倉もまた碧生を見つめていた。夕焼けの色を反射してその切れ長の瞳が薄暗く、赤く、閃く。
「君の眼は君の選択だ――与えられたものだとしても、君が望んでいないとしても、もはやそれは君のものだよ。君の眼が君の世界を変える」
「……え?」
まだ指は強張っているし鼓動も速い。佐倉が何を言っているかわからない。
それでも、この人が、自分を否定していないことだけがわかる。背中に添えられた手がたしかにあたたかくて、ほっと息をついた。
気持ちがゆるんだままに、先ほどのポケットの中身を思い出す。
「……先輩、飴食べます?」
そう尋ねると佐倉は不可解そうな顔をしたあと、きっぱりと答えた。
「いらない」
「おれ、なんか安心したら急に甘い物食べたくなって」
彼はちらりとこちらを見て、勝手にしろ、というように眉を上げて見せた。ごそごそ飴玉を取り出し、ふたつとも手のひらにのせて差し出してみる。
「一緒に食べませんか? 先に一個、どうぞ」
「いらないけど」
返事はにべもない。この人のこういう潔いところはすごく好きだ。でも。
「うう、そ、そうですか……」
さっき見たものがなんなのか、わからない。碧生の、いつもの錯覚なのかもしれない。小さい頃は見るたびに驚いて怯えていろいろな人に訴えたけれどだれも本気にしてくれなかったし、気を引きたいがための嘘をついているとさえ言われて、そのうちいうのをやめてしまった。
碧生自身だって自信がない。気のせいなのかもしれない。さびしくて、大人の気を引きたくて、自分の中で勝手に物語をこしらえてそれを見た気になっているだけなのかもしれないと不安になる。本当にいるとしても本当にいないのだとしても、どちらでも、こわい。
「先輩がいっしょにいてくれるて、嬉しくて」
この人に碧生が見えているようなものを伝えたことはないけれど。わかりあえなくても、同じものを見ていないとしても、ただ否定しないで、変に思わないで変わらず底にいてくれることがこんなにうれしい。
佐倉はかすかに眉を顰め、それからため息をつくと飴玉をひとつだけつまみあげた。ぱっとうれしくなってしまって、それだけで、不安が、怖さが、少しずつ薄れていく。
「あ、いちご。それ、おれのおすすめです」
「ふうん」
かさりと包み紙をほどく指先をじっと見つめてしまう。白くて、たおやかな指だった。
(この手に招かれたら)
ふらふらと、近づいてしまいそう。かも。
見つめていることに気づいたのか、佐倉がちらりと視線をよこす。そのまま飴玉をつまんだ指が近づいてきて、こちらの唇に軽く触れた。反射でゆるく口をひらくと、飴玉を押し込まれる。
「ん、」
びっくりして口を閉じると、飴玉だけでなく、彼の指先をかすかに含んでしまった。飴玉の人工的な甘さが舌の上にひろがって、佐倉の指先がなんでもないことのように離れていくのをスローモーションみたいに見送る。
「それなら、君が食べたらいい」
「……おれ、先輩にお礼したかったんですけど」
「はっ、飴なんていらないよ」
ばかにしたように言い捨て、腰に回った大きな手が歩き出すように促す。止まっていた足を慌てて動かして、もうすっかり暗くなってしまう帰り道をたどった。
この人は、いつも、急に現れる。最初に出会った時から。なんだか寄る辺なくて、どこにいけばいいのかわからないときに、こちらだよ、と手を掴んでくれるようなタイミングで。
(おれの気のせいなんだろうけれど)
「佐倉先輩って、神さまみたい」
照れとも願いともつかないようなことを笑いでごまかしながらつぶやけば、隣の人は鋭い視線をよこして「さあね」とどこかかみあわない返事をよこした。
夏が過ぎ秋が過ぎ去り、どんどん日が暮れるのが早くなって夜が明けるのも遅くなる。それでも碧生の日々は変わらない。授業にどうにかついていける程度の勉強をこなし、暇な時間にはバイトをつめこみ、一か所ではやはり居心地が悪くなり短期バイトの繰り返しに戻って、クラスでは相変わらずあまり居場所がなく、暇な時間があれば図書研究会の部室に顔を出した。幸い、佐倉は何も言わずにただそこにいる。追い返すこともないしなにか特別気をまわすこともない。その距離感が心地よくて、野良猫がどこかの家にいつくのってこんなかんじなんだろうな、と碧生は非そりと考えている。
年の暮れが近づくにつれ街中は慌ただしくなり臨時バイトも増えて、ばたばたと走り回っているうちにすっかり二学期の終業式だ。すっかり冷えた空気に首をすくめ、かじかんだ手をこすり合わせた。
はあ、と息を吐くと、白く濁る。冬だなあ、と当たり前のことを思いながら薄暗い校門をくぐった。終業式なので午前中で終わったのに、バイトの後に忘れ物に気づいたという有様である。
「校門、開いててよかった」
独り言ちながらぺたぺたと階段を上っていく。上靴の裏はゴム素材で廊下を歩くとどうにも間抜けな音が鳴る。
でも佐倉が歩くときはこんな変な音は鳴らないから、もしかしたら靴云々ではなく碧生の歩き方のせいかもしれない、と考えながら廊下を進んだ。薄暗くて、教室棟はしんとしている。部活動をしている生徒はいるはずだし先生方もいるだろうに、ここだけどうにも暗くて、静かで、淀んでいた。
そろっと教室のドアをあける。椅子と机だけが整列して、教壇にもロッカーにも人の気配は残っていない。ほんの数時間前までここに数十人の学生があふれてざわめいていたのを考えると、なんだかパラレルワールドに足を踏み込んでしまったような不安な心地になった。
「……えっと」
なんとなくこわくて、ひとりでぼそぼそとしゃべってしまう。当たり前に返事はない。あったら怖い。おそるおそる机の隙間を縫って、自分の席にたどり着く。中を覗き込んで、提出用のプリントを取り出した。
「……進路希望、かあ」
はあ、とため息。
進路、とか、将来、とか。
碧生は何にも思いつかない。自分がいま生きていることもおぼつかない。ふらふらとして、たぶん、今日このままいなくなってもだれも気付かないし気にも留めないだろうなと思う。最近仲良くしてくれる相山くんはちょっと心配してくれるかも。それもなんだか申し訳なかった。
(きっと、どこにもいけないなあ)
施設を出て、でも、新しい土地でも結局誰とも馴染めない。小さい頃からいじめられていたのは、みんなが見えているものと自分だけが見えているものの区別がついておらず、ついすべて口に出してしまっていたから、というのも原因だろうと思った。中学校に上がったときはそのくらいの分別はついていたが、小学校からの知り合いばかりだったからすでにあいつは変なやつだと噂されていたし、黙って隅っこで小さくなって、いないものみたいにふるまうフリばかりうまくなって。
(高校に入ったら、違う場所に来たら、変われるかもってちょっとだけ思ってたけど)
結局元来の人付き合いの悪さというわけだ。はあ、とため息を吞み込み、カバンに適当にプリントをつっこんで顔をあげた。
「日浦、なにしてるの」
「んひゃ!」
突然話しかけられて慌ててそちらを振り向けば、黒髪の子がいた。自分の机から三つほど離れたところ、教室の奥の机だ。あれ、さっき見た時誰もいないと思ったのに。
「んあ、ね、根来くん。まだ帰ってなかったんだ?」
どきどきする心臓を押さえつけて、入ってきた時に無視してしまったのかもしれない気まずさからどうにもごまかすような早口になる。一方の根来は気にした様子もなく、ふああ、とあくびをしながら机に顔を預けた。
「ちょっと野暮用。日浦が忘れ物してるなあって気づいちゃったし」
「え、あ、おれ?」
彼は机に両手を預け、その上に頭を乗せて気だるそうにつぶやいた。彼のんびりした言葉で気が緩む。
「ひとりで暗いとこ歩くのは気を付けなよ」
「それいうなら根来くんも、帰り道気をつけないと……一緒に帰る?」
勇気を振り絞ってそう聞いてみた。だが、彼はゆるゆる首を振った。机に額をこすりつけるだけになっているが。
「今日はまだ用事があるから。そっちこそ、迎えに来てもらったら?」
「ええと、おれ一人暮らしだから。じゃあまた新学期に」
「家族って意味じゃないけどさ。まあいいや、良いお年を」
ひらひらと根来の手のひらが揺れるのを眺めながら教室を出た。こんな時間から用事? いったいなんだろう。部活とかだろうか。
(根来くんって何部だっけ)
考えてみたけれどまったく思い出せなかった。そもそも根来くんがふだんなにをしているかすら思い出せない。こんなに覚えていないとは……三学期はもう少し周りに気を配ってみよう、と反省しながらとぼとぼと廊下を歩く。
片面が窓になっている廊下は、夕暮れを過ぎぼんやりと薄暗い。遠目にぽつりぽつり、街灯が点き始めた。早く帰ろう、と、そう思って碧生はふと旧館を見る。
「あれ、」
いつも通りすがるときに無意識のうちに確認してしまう東棟の三階の奥の部室の、窓が開いていた。こんな寒い時期に? けれどたしかに半分ほど空いた窓とその奥にはためくカーテンが見える。灯りは、ついていない。
なんだか気になって、足早に階段を降りる。渡り廊下を通り、再び階段を上って。旧館に足を踏み入れてもやはりしんと静かで、みんな今日は早々と帰ったのか。それとも一斉下校するよう連絡がきていた? ちっとも覚えていない。
廊下に差し掛かり、まっすぐ奥まで碧生は走った。ばたばた、みっともない足音が無人の空間に響いて吸い込まれていく。窓の外は薄暗く、廊下の蛍光灯はもうそろそろ切れそうなのか、一部、ちかちかと点滅していた。
部室の前で足を止める。思ったより息が切れていて、まだどきどきしている心臓をぐっと押さえつけるように胸の前でこぶしをつくって、ドアをノックした。
「……先輩、います?」
返事はない。けれど、窓が開いていたのは多分この部屋のはずだ、と碧生はどきどきしながらそのドアを見つめる。
日も落ちて気温もぐっと冷え込む時間だ、もし、単に開けたまま忘れて帰っただけならいいのだが、万が一、中で眠り込んでいて開けっ放しになっていたりしたら大変だ。あの人がそんなことはしないと思うけれど、でも、もし。
目をとじて、すん、と息を吸う。なにか変わった匂いがするわけでは、ない。でも。閉じた目蓋の向こう、くらりと影が揺らめいた。
(先輩、部屋にいるがする)
なんとなくざわめく胸がある。待ちきれず、もう一度ノックをする。
やはり、返事はない。
「先輩、はいります、よ」
そうっとドアを開ける。ぎい、と古びた軋む音が響き、その奥もやはり薄暗い。暗いところでは視界がきかない碧生なので、それでも目をこらしてみるが、どうにもよく見えない。白いカーテンがはためいている。部屋の中はひんやりと寒かった。廊下より、ずっと寒い。冷え込んでいる。思わず身震いしてしまった。
「佐倉先輩?」
ふくらんだカーテンがまた重力に従うようにしぼむ。その隙間に――窓際の下に、座り込んだ影があった。それが人影だと認識した瞬間、弾かれたように飛び込む。
「先輩? だいじょうぶですか!?」
ひらひらと白い裾が揺れている。その下で顔が隠れてよく見えない。片膝を立て、もう片足は伸ばした格好で壁にもたれ顔は俯いているのは、佐倉に見えた。いつもの制服姿だ。ただでさえ冷えた部屋で、床に座り込んで、窓の下で、寒いに決まっている。それなのに彼は返事すらしない。
本棚に取り囲まれた部屋の奥、長机の横を回って慌てて奥へ駆け寄る。勢いのまま、佐倉のそばにしゃがみこんだ。
「先輩、先輩ってば、寝たらだめですよ、冷えてしまうから。起きてください、体調悪いですか? あ、窓」
閉めないと。碧生はいったん床に膝をついたけれど、すぐに思い直して立ち上がろうとした。
けれど、ぐっと足に力をいれたタイミングで、腕をつかまれる。
「――――先輩?」
先ほどまでだらりと垂れていた佐倉の手が、いまはしっかりとこちらの腕を掴んでいる。痛いほど握りしめられて、思わず顔を顰めてしまった。
「先輩、起きたんです? あの、窓、閉めていいですか? 風邪をひいてしまいます」
「……ら」
「え、なんですか?」
よく聞き取れなくて、体を傾ける。前かがみになって佐倉の顔に耳を寄せるように膝でにじり寄って、少しだけ不安定な姿勢になった。その隙をつくように強く腕をひっぱられて、あ、と受け身をとることもできず前のめりに倒れてしまう
「……っ、先輩」
肩が、思い切り彼の体にぶつかる。どこか痛くしたんじゃないか、と慌てて起き上がろうとするのに、腕はしっかりつかまれたままで、反対の手もこちらの背中を捕まえている。真正面から抱きしめられるような格好で、制服越しに佐倉の指が碧生の腕に食い込んだ。
「っ、ちょっと、いたいかも」
大きな手が絡みつくよう握りしめてくる。碧生の控えめな抗議にも佐倉は何も言わない。ただ、細く、荒っぽい息を吐いている。動物が唸るみたいに、低く、苦し気な声。
「佐倉先輩?」
その声に導かれるように、佐倉は、うっそりと顔をあげた。
薄暗い部屋の中で、その瞳が鈍く光る。
「……っ、」
思わず碧生は体をひいてしまう。けれどがっしりつかまれ、抱き込まれているのでわずかに背中が震えただけにとどまった。ふーっ、ふーっ、と長く低く吐きだされた相手の息が、碧生の冷えた頬をかすめる。身じろぎもできない。呼吸の音が近い。荒々しい気配。捕食される前の動物にでもなった心地で、ただ、身体をこわばらせてしまう。
(……先輩じゃ、ない?)
その瞳の輝きはどこか人間離れしている。たとえば――夕暮れ時に目を合わせてしまった、なにか、ここではない別の次元の存在と遭遇してしまったときの寒気に近い。鳥肌がたつ。恐ろしさと、怯え。けれど、でも。
息が上手く吸えない。それでも、捉えられてこれだけ近くにいて――匂いが。
(先輩の、におい)
すっとした花の匂い。冬で、どこにも花なんて咲いていないのに、彼からはいつもこのにおいがする。
だから、これは、佐倉だ。先輩だ。このひとだ。荒っぽい息が頬に、碧生の首にかかる。抱きすくめられたなかでどうにか腕を動かす。まるでこちらの肩口に顔をうずめるみたいに俯くその頭を、そっとなでた。
相手が息を止めたのが伝わってくる。見えないけれど肌で感じられる。
そのまま、やさしく撫でた。片手で、窮屈な中で動かして。軽く頭をひきよせるように――碧生の首筋に、相手の鼻先がぶつかるのがわかる。短い髪の毛は手のひらの中でふわふわと動いた。
「先輩、身体が冷えちゃいますよ――ほら、風邪ひいたら大変ですから」
見えないだろうけれど微笑んで見せて。かるく頭を引き寄せるようにすると彼の息が鋭く、浅くなる。
かすかに、首筋に痛みが走った。
「っ、あ」
驚きで目を見開く。
爪。いや、吐息がかかっているので、たぶん、歯。いたい、でも、我慢できないほどじゃない。
食いちぎる強さではない。けれどあきらかに、異物が、触れている。動物の甘噛みのような、戯れにも似たむず痒さだった。息は荒っぽいままで、獰猛なほどの鋭さなのに、苦しそうに響く。
(……噛まれて、る)
こわい。急所をさらしている。緊張で肌がこわばる。けれどその牙は食い込んでこない。そのまま触れて、押されて、なにかを必死に抑え込んでいるような。
(……ちっちゃいこが、癇癪おこしたときみたい)
施設に入ったばかりで馴染めていない子が感情を爆発させることがある。わけもわからず自分でもなにに怒っているのかわからないくらいに大声を挙げたり泣いたり。ちょっとちがうけれど、でも、その時の感情の熱量の高さに似たものを感じて、だから、碧生はその頭をそっとなでた。抱きしめられるなら抱きしめ返してあげたかった。
「先輩、」
手をぎこちなく動かし、なだめる様に、安心させるようにその頭を撫でる。
彼の体が震える。自分より大きな人で、こちらを抑え込んでいる力もとても強くてかなわないと思うのに、どうして抱きしめてあげたいと思うのだろう。
「いいんですよ――好きにして」
さっきまでの怯えは完全にはなくなっていない。けれど、それよりも、この人が何かを求めているのであれば――食い込むほどの力で碧生の腕を掴んでいるのであれば――なにかをあげられるなら、なんでも与えてあげたかった。
しばらくそのまま頭を撫でている。この人の髪に触れるのは初めてだったけれど、短くて、手触りが良くて、柔らかい髪だった。ひんやりとつめたくて、はなびらみたいな温度。その後頭部の形の良さを確かめるみたいに、何度も撫でる。
徐々に、一つ一つの呼吸の間が伸びてきた。獣っぽい音がやわらいで、少しずつ小さくなり、ため息に変わったのを聞いて、そっと手を止めた。
「……先輩、おちついた?」
そうっとその顔を覗き込もうとすると、途端に手を離される。
「……君は、どうして、こんな時間に」
佐倉の声は、それでもまだ辛そうだった。表情は翳ってみえない。すっかり日がおちて暗くなってしまった部屋の中で、気づけばカーテンは揺れなくなっていた。そもそも、風なんてそんなに吹いていたのだろうか?
教室棟からこちらを見た時。
カーテンが揺れていた。ここだけ揺れていた。木々の枝もどこも、揺れてなんていなかった。外はただしんと寒くて、それだけだ。どこで風が吹いていたのか。
「日浦」
名前を低く呼ばれるから、すぐに思考がそれる。
「――もう、帰りなさい」
かすれた声は疲労がにじんでいた。彼に握りしめられていた腕がまだしびれている。
「でも、先輩、」
「僕は、いいから」
「具合悪いんですよね、おれ送ってくから」
きょろきょろあたりを見渡して彼のカバンを見つける。立ち上がって窓をしめ、鍵を下ろし、それからカバンをもってきて佐倉の前に再び膝をついた。
「おれ、一緒に帰るから。ぜったい送ってくから!」
「……僕が」
佐倉は、気だるそうに顔をあげる。その瞬間、少しだけ身構えてしまう。
(先輩の、目)
さっきは見間違いだったのかもしれない。あんなふうに、暗い中でくっきり光って見えるなんて――
彼はいつもどおり、うんざりした、不機嫌そうな顔だった。顔色が悪くみえるのは部屋が暗いせいだろうか。瞳もどんよりと黒く、暗い。それでも苛立ちよりどこか虚勢を張っているようにも見えて、心配になる。
「君といま、一緒に居られない――居たくない」
はっきりそう言われて、言葉より見えない何かが鋭く碧生の胸の奥を刺す。針がかすめた指先を思い出す。それよりももっともっと、深く。じわりと、血が滲んだ気がした。
咄嗟に拳を握り、痛みをごまかす。
「……は、い」
「すまない」
今まで彼に謝られたことなんてなかったからびっくりしてしまう。本当に嫌――なのだ。そう気づいて、慌てて立ち上がって、座ったままの佐倉から一歩、離れた。
「ごめんなさい、おれ、先輩に……そんなつもりじゃ……」
頭を撫でたこと? 部屋に勝手に入ってきたこと? 窓を閉めたこと? それともいままで、図々しく近づいていたこと?
どれが引き金なのかわからなくてぐらぐらする。けれど、そんなこと聞けない。彼はひどくおっくうそうに首を振った。
「ちがう――君の、問題じゃない」
「あの、おれ、だから……その」
「日浦」
先輩の声にかぶせるように「あの!」と、碧生にしては大きな声を出した。
ぎゅっと拳を握る。爪を手のひらに立てる。痛みは、別の痛みで上書きしてしまえば。じくじく血がにじんでいるのはどこなのかわからないように。きつく、爪を立て。俯けば上履きが目に入って、それだけだ。
「――また、新学期になったら……遊びに来ても、いい? それもだめですか?」
先輩は何も言わなかった。その答えを聞く前に、碧生はばたばたと部屋を飛び出してしまったから。
II
年明けから三月まで、まるで瞬きのように短い冬を駆け抜けた。季節というのはただそこにあるもののようで実際は常に過ぎ去っていく現象でしかないのかもしれない。碧生はただそこに居続けるため、懸命に勉強をしバイトに励み、あまり人とぶつからないようできるだけ気配を殺して過ごしていた。相変わらずバイト先ではしばしばトラブルに巻き込まれ、誰かに嫌われたり逆にものすごく好かれたり、人間関係のひびわれがきっかけで居続けることが難しかった。
(おれ、どうしてこうひととうまくやれないんだろうなあ)
ため息をつく間もない。奨学金だけでは賄えない部分はお金を稼がなければならないし、ちゃんと試験に通らないと進級できない。どうにか試験は潜り抜け、二年生に進級できるらしいと分かってほっとした。
短い春休みは単発のバイトが増える。時給も悪くないのでどんどんいれて、そうするとあっという間に四月になっていた。当然のように親戚からは何の音さたもない。こちらからもどう連絡を入れていいのかわからず、バイト帰りに通り過ぎる学校の門の前から桜の木を見上げる。白い花びらをたっぷりとまとわせ揺れている桜の大木はそれだけでひとつのいきもののようだ。
「……先輩、どうしてるかな」
一年前、彼と桜の下で出会った。あの時の凛とした佇まいと、終業式の日に蹲っていた彼の姿が、重なってぶれていく。
(あんな先輩、見たことなかった)
いつもしゃんとしてほとんど表情を変えずに立っている人だ。時折口元をゆがめるように微笑んだり、なにかに驚いたような顔をすることはあっても、あんな。あんなふうに苦し気な――それだけではなく。
(体調が悪かったのかな? でもなんか、ちがう、かも)
なにかを必死に抑え込むような、険しい表情と、抑えきれずに獰猛な光を湛えていたあの瞳の色を、どうにも忘れられない。爆発しそうな衝動を秘めた暗さ。碧生の首筋にあたった歯のかたさ。腕をつかむ力の強さ。
頭の奥に引っかかっていて、こうしてぼうっとしているとあのやりとりが思い出されてしまう。あの後、三学期が始まってから部室に行っても常に鍵が下ろされ中に人の気配は感じられなかった。校内のほかの場所で佐倉を見かけることもなく、もしかして二年の教室を片っ端から調べたりしたらわかることもあったのかもしれないが、そこまでする勇気はなかった。
(もし、そうして、見つからなかったら)
全部、全部が碧生の妄想だったのかもしれない。気のせいだったのかも。それを突き付けられるのが怖くて、ふわふわと、遠回りして。バイトをたくさん詰め込んで忙しくしてほかのことを考えて、でも、ぽっと浮かんでしまうその顔に、慌てて首を振る。その向こう、視界の奥でさわさわと桜がゆれ、枝が垂れている。春休みで人気のない校庭になんとなく踏み入り、そのまま木の下まで歩いて行った。こまかな白い花びらが、風にゆさぶられ舞う。
(きれい)
毎年見ているのにどうして毎年のようにきれいだと、新鮮に思うのだろう。何度見てもつい見に行ってしまう。何度でも会いに来てしまう。サクラという響きが先輩の名前を思い起こさせ、彼に出会ったことを想起させ、だから、きっと、もう碧生にとって桜の木は特別なものになってしまった。
(先輩)
「あまり近づかないように」
ひんやりとした声に、息が止まるかと思った。
はっとふりむく。桜の枝が届かないあたり、制服姿の人が静かに佇んでいる。
「……先輩?」
「なんだね、幽霊でも見たような顔で」
幽霊ではない証拠のように、佐倉は聞きなれた声で返事をした。まだでも、夢かもしれないと碧生は半ば疑いながら、尋ねてしまう。
「桜は拐すのがうまい。君みたいに呆けた顔をしていればあっという間に攫われてしまうよ」
「え、えっと、おれ、先輩以外についていきません」
そう答えながらもまだ呆然としている。さっきまで考えていたその人がそこにいる。けれど、本当に、いるのだろうか。
「その、なんでここに」
「別に。散歩だよ」
「学校やすみなのに」
「君だって」
同じじゃないか、と肩をすくめるやり方も声の調子も佐倉だ。いつもどおりのこの人だ。そうわかって、わっと嬉しくなって、思わず大股でそちらまで近づいた。うれしさのまま、飛びついてしまった。
「先輩!」
「なんだね急に、犬か!」
「せんぱい、先輩、ちゃんといますよね?」
ぎょっとしたように体をひくが、かまわず碧生はその肩や胸にべたべたと触れる。確かに固さがあり、そこにいる。実感がある。夢、では、ないはず。よかった、と思わずためいきをついたところで、ようやく最後にあった日――終業式の日、彼は、何と言っていたかが頭をよぎった。
『君と一緒に居たくない』
そんなことを言われた、はずだ。さっと血の気が引く。だきついた腕をばっとはなして、そのまま一歩後ずさる、のだがなぜか佐倉が一歩近寄ってきた。
「なんだね」
「あ、あの、ご、ごめんなさい」
「何を謝る」
「その……おれと、会いたくなかったかもって」
思いだして、と、もそもそ喋っても佐倉は変わらずじっとこちらを睨むように見つめ、距離を詰めてきた。ひえええ、と碧生が下がろうとして、踵が何かにつんのめる。
「あっ」
そのまま後ろにひっくり返りそうになるところで、彼の手がぱしっとこちらの腕を掴んだ。
「落ち着きなさい」
重心が若干後ろの状態で、それでも彼の腕は揺るがない。花びらがちらちらと舞い、暮れかけた青とも朱色ともつかない空があり、そこに精悍な顔立ちが浮かび上がっていた。切れ長の瞳は、深い藍色にも紫にも見える。こんな色だっただろうか、この人の瞳は。
「……は、はい」
「先日は失礼した――もう、あんな醜態はさらさないよう気を付ける」
そう呟いて、佐倉は少し首を傾ける。眉を寄せ、まるで困ったように、苦く微笑むような表情をうかべて。
「……僕が、怖いかい」
その声は、静かに、耳を打った。
意味を考えるより先に、口が開く。声がでる。自分で考えるよりも碧生の身体の方がずっとはやい。
「こわくないです」
佐倉は掴んだ手をひるんだように緩ませた。碧生は足を一歩踏み出す。その顔を睨むように見上げて、今度こそはっきりと、自分の意志で、告げた。
「こわくない、です――先輩がいてくれて、ほっとしました。だから」
目を合わせる。この間の表情がまるで嘘みたいに、いまはいつもどおりの佐倉の表情で、瞳で、気配だった。あの獣めいた、なにかを必死に抑え込んでいるような空気はない。今度は碧生から、彼の腕に手を伸ばす。彼は立ったまま、拒むことはなかった。
「……変な子だね」
「あ、そうだ。あけましておめでとうございます」
「今それを言うのか」
「だって、言いそびれて。先輩どこ探してもいないし。先輩、今年もよろしくおねがいします」
それでも、いいのかなと思いながら頭を下げる。相手はしばし無言だったが、小さく吐息をつくと、「うむ」と小さく返事をしてくれた。
んん、と背伸びをひとつ。暮れ行く空を見上げながら碧生は早足で歩いている。カバンの紐をぎゅっと握りしめて、アルバイトの帰り道だった。スタジオの設営バイトは力仕事だから大変だけれどその分お給料もいい。
(もうちょっと筋肉つけたほうがいいのかな)
一緒にバイトに入っていた人に「本当にこれ運べる? 君、華奢だから心配になるな」と笑われてしまった。なんとなく自分の腕を握ってみて、たしかに筋肉はついていないかも……と若干がっかりしながら、くたびれたスニーカーで緩い坂道を下る。もうすぐ梅雨があけるだろう空はようやく暮れなずみ始めた。朝も早くから明るいのでいい季節だ。
陽が落ちる間際の、昼間のふりそそぐような日差しではない。けれどまだ日が落ち切らないぼんやりと青い空はなんだか不思議だった。
そういえば、今日は夏至だと誰かが教えてくれた気がする。一年で昼間が一番長い日。今日を折り返して、明日からは少しずつ日が短くなっていくのだと。はふ、と額ににじんだ汗を碧生は手の甲で拭う。それから、あ、と思い出してハンカチをひっぱりだし、ごまかすようにもう一度同じところを拭いた。
(先輩、こういうのうるさいから)
彼の声、姿を思い出せば、すぐに胸の中があたたかくなる。佐倉は、今まで見てきた人たちとは全く違った。だれかに阿るということを知らないらしい態度で、堂々として、自分の正しさを疑うことのないゆるぎない視線はまぶしく、憧れてしまう。あんな人に会えるなんて、故郷を出て、高校に入ってよかったのかもしれないとようやく思い始めている。たまにはいいこともあるのかもしれない、と碧生はひとり唇をゆるめてしまう。自分なんかの人生でも、たまには。
ハンカチをポケットに戻し、袖がたるんでいるシャツを手の甲にひっかけるようにいじくりながら、いつも通りの道を何も考えず歩いて、角を曲がった。
その先に、誰かが立っていた。
「……ん?」
思わず、足を止める。
ぶつかりそうなほど近くはない。二、三メートル、数歩あるけばたどり着けるくらいの距離に、それは――いた。
黒い髪が頬やうなじを隠すように垂れ、前髪も長い。頭の上に小さなかざりみたいなのがふたつ、くっついている。映画とか絵本に出てきそうな、とにかく、現代にそぐわない雰囲気だ。和服の、着流しというやつだろうか。帯が細く腰のあたりに結ばれているし、背格好も男性のように見えた。
つられるように足元をみて、そこになにか紐が垂れているのが見える。
その人が――いや、ひとなのか? 人影に見える。けれど、頭の上についている飾りはやわらかそうに垂れ、なんだか、動物の耳みたいに見えた。
背筋がぞっとする。いつものやつだ、と思う。名前を付けることはできない。けれど、何度も、形を変え場所を変え、こうしてなにか、よくわからないものに遭遇することが、ある。こっちに来てからも一定の間隔を置いて、急に、目の前に差し出される。ここ最近はだいぶ、減っていたのに。
(逃げなきゃ)
それだけ思って、碧生は唾を飲み込む。スニーカーの底がじゃりを踏んで、かすかな悲鳴のように響いた。
目の前のそれが、顔をうっそりとあげた。
「え」
逃げ出そうとそう思っていたのに、突然全身に冷たい水をぶっかけられたように驚いて、碧生の足が止まった。
それは静かにこちらを見ている。
二つの目の色は不ぞろいで、黒々とした前髪の下からこちらをひたりと見据えている。鼻も口も当たり前についていて、不健康に痩せていた。長い袖をまとわせた腕がよろよろと持ち上がり、こちらに、手を伸ばすように、動く。
自分とまったく同じ顔をした、耳と尾――そうだ、それは、黒い耳と尻尾だ、なにかの動物の、そういったものをつけて、どう見てもこの世のものではない気配を漂わせながら、それが、口を開く。
おぞけが走る。はやく、逃げ出さなければ。
そうわかっているのに、ちっとも動けなくて。
それが、口を、開いた。
「おまえは かみに くわれる」
その声は、聴いたことがあった。友達がふざけて動画を撮って、それをあとでみんなで覗き込むとき。ちょうど、こんな、すこし間延びした、声が。
(おれの、顔して)
碧生と同じ顔と声をもった、それが。
「な、なに」
確かに日本語ではあったが、意味がわからなくて聞き返してしまった。かみ? 神? 上? なんのこと、くわれるって、食べられるってこと?
途端、目の前のそれがぐらりと揺れる。そのまま真横に地面に倒れ伏して、あ、と思ったままに惚けてその動きを見守るしかできない。生き物の重さをまるで感じさせない動きでくずれおちた、と、瞬きをした。
もうすでに、そこにそれの姿はなかった。
「……なに、いったい」
喉がからからに乾いて、声がはりついている。咳込んで、けれどちっともまともに動かない声帯や、手足を持て余して、ただ、それが倒れただろうところにすぐ近くの建物の影が長く射していて、それだけだった。
(なんだったんだろ)
机に頬杖をつきながら、ぼうっと外を見ている。
昨日は、結局しばらくあの場所に立ち尽くしていたがどうしようもできなくて困惑と不安を抱えたまま碧生は家に帰った。眠ろうとしても目を閉じた途端、あの変な現象の――自分と同じ顔をして、耳と尾をつけた変な格好をした存在――姿が思い浮かんでうまく眠れず、結果として寝不足だ。おかげでずいぶん寝坊したし、朝食も食べる気が起きずそのまま来てしまった。
「寝不足? 顔色悪いけど」
ひらり手のひらが目の前に突き出され、は、と顔を上げると根来がこちらを覗き込んでいる。慌てて笑顔をつくり、首をかしげて見せる。
「昨日ちょっと眠れなくて。じめじめしてるからかな」
「そりゃかわいそう。でもそろそろお昼たべたら?」
「え? もうお昼休み?」
ぽかんとしてそう聞き返すと根来はからかうように笑った。
「まったく……なにかもってきてる? 購買でも一緒に行く?」
「う、でもお昼時って混雑するから苦手なんだよ……」
「そんなこと言ったって、腹減ったら午後ばてちゃうよ」
平気平気、と手を軽く振って、でもまさか昨日あったことを正直に言うわけにもいかず、どうしたものかと視線をうろうろさせているところで、ちょうど、廊下を見知った人影が通り過ぎるのが見えた。
「あ」
がたん、と唐突に立ち上がる。福崎がびっくりしたように「どうした?」と呟く。
「あ、その、ごめん、おれ、用事思い出した!」
「日浦、そっち、やめたほうが」
「根来くん、ありがと」
なにか言いかけている彼を遮り、廊下に向かって歩き出す。本当は走っていきたいけれど人や机やいすや障害物がたくさんあってうまく進めない。廊下に出て、たしか、と彼の進行方向に目を凝らせば、遠く、階段の方に曲がる後ろ姿が見えた。
「――先輩!」
慌てて駆けだす。昼休みらしく廊下は生徒であふれていて、隙間をどうにかすりぬけてその後ろ姿を追いかけた。教室からでたときはそんなに離れているとは思わなかったのだが、走っても距離が縮まらない。なかなか追いつけない。足を速める。息がきれてくる。昨日あまり寝ていないからだろうか、なんだか体が重たかった。
(廊下、こんなに、長かったっけ)
は、は、とだんだん息が切れる。酸欠みたいに頭がくらくらしてきた。なんだか視界の隅もくらいし、これは本格的におなかがすいているのか、血糖値がさがっているのか。どうにか廊下の端までたどり着いた。左に階段があるはず、と方向を変えて、階段の上に上履きが見えて、制服のズボンが、階段を上っていく後ろ姿が見えた。こんなところで、教室のある新棟で佐倉を見かけるなんてめずらしい。何か用事があるわけではなくて、でも、昨日見たものが――碧生によく似た、碧生ではない化け物の、変な言葉が、まだ胸にわだかまっているから――彼の隣にいれば、すこし、気持ちが落ち着く気がした。
(いつから、こんなに)
佐倉のことを頼りにしてしまっているのだろう。何の根拠もなく。
自分で自分が不可解になる。それでも、足を止められない。同級生の根来や福崎のことは好きだ。信頼している。けれど彼らとは違う。バイト先の人たちとも、施設の人たちとも違う。自分でもわからないくらい、佐倉のことを信頼してしまっていて、不安になるくらい。
あの匂い。あの声。視線。言葉。ひとつひとつが、すっかり、碧生のなかに根付いてしまっていて。
「先輩、まって」
呼びかけながら階段に足をかける。
こんなに近くで呼んでいるのに相手は全く気付いた風ではない。それともうまく声が出ていないのだろうか? は、は、と短く息をついて、胸がどきどきうるさいのを押さえつけるように片手でこぶしを作りシャツの上から押しあてた。
「佐倉、せんぱい」
階段は踊り場で折れ曲がり、彼の姿が見えなくなる。ぞっとして足を急がせ、追いかける。
「先輩っ」
なんで待ってくれないのだろう。振り向くくらいしてくれてもいいのに、と思いながら、でも、そうかあ、と思っている。自分のことを待ってくれる人なんて、だれもいないのだ。碧生が思うほどに相手が碧生のことを思ってくれることなんて、ない。
(みんな、おれのこと、捨てていくから)
実の両親にすら見捨てられた自分なんて、誰にも顧みられないのだ。当たり前じゃないか。
(ちょっとだけ、期待してしまったのかも)
先輩は、なぜかこちらをみてくれたから。追いつくのを待っていてくれたから。遊びに行っても拒んだりしなかったから。
学校でも数少ないけれど、根来や福崎みたいにお話できるひとができて、一年前よりずっといまのほうが楽しくて、今の生活がうれしくて。
期待、して、しまうから。
「せんぱい、」
は、と息をついた。なんだかもう、足が重たい。踏み出せない気がして、頭がぐらぐらと重たくて、しゃがみこんでしまう。がくりと膝を、床についた。
(おれのことなんて、)
だあれも、見てないから。
目蓋が重たい。貧血かもしれない。ずるりと力がぬけて、手すりを握っていた手がこぼれおちる。碧生は床に跪いてそのまま横に倒れ込んで――まるで昨日の再現だ、とかすかに白くなる意識の中で考えた、の、だったか。
遠くで水音がする。
(……あめ?)
ぴちゃん、と雫が地面に落ちる、かすかな音。ゆっくりと、不規則な速度で。音が、ひびく。
雨音の静けさは、嫌いではない。けれど時折淋しくなる。ひとりで膝を抱えていて、誰も迎えに来てくれないことを思い出すから。誰も帰ってこない部屋で小さく丸まって寝そべっていた。少しでも手足を伸ばしていたら変なものがかすめて、それが立ち上がってきそうだから。
こわくて、目を閉じて。自分の目蓋の上から手をおしつけて、なんにも見えないように。
(おれのことなんて、だあれも見てないから)
実の親ですら、碧生のことを見なかった。
施設の職員たちはやさしかった。でも、碧生はあくまでたくさんいるかわいそうな子の中の一人だった。碧生よりかわいそうな子はもっとたくさんいた。夜中に泣いていた弟たち。ぶたれた痕が腕や背中にくっきりのこっていた妹。ときおりお迎えがきて外泊に出かけて行って、でもうまくいかなくてやっぱり戻されている子たち。そんな妹や弟にすがりつかれて、ぎゅっとだきしめて、寂しさを寂しさで重ねて、こうやって生きていくしかないのだと思って。これが世界のすべてで、これ以上いいところになんていけないのだとあきらめて。
さみしくて。やるせなくて。
たくさん伸ばされた手が、視線が、くるしくて。
(……かみさま)
だから。
あの日、くるしくて。耐え切れなくて。叫びたくて、碧生はひとり、夜中にベッドを抜け出した。消灯時間以降の外出はもちろん禁止されているから靴を取りに行く暇もなく、けれど、どうしても、どうしようもなくて。洗濯を干すとき用の、縁側に出しっぱなしの職員のスニーカーに足をいれるとぶかぶかだった。そのままどうにか歩き出す。
なんでこんななんだろうって。碧生は、どうして、自分ばかりこんなにかわいそうなのだろう、こんなに、誰にも愛してもらえないのだろうと、ただそんな感情で支配されてうまく制御できなかった。いい子の顔をかぶれなかった。
くるしくて。
飛び出したまっくらなお外はこわくて、いろいろなものが手招きしていそうで、何も見ないよううつむいて無我夢中で走って、走って、ころんで、そうするともう一歩も動けなくなって。
うずくまって、でも手をついて、顔を起こして、なんだかごちゃごちゃしたところだった。ゴミ捨て場、と思った。なんだかいろんな木材のようなものが堆積していて、ひとつの塊になってこのまま飲み込まれそう。
ふと、顔をあげて、その暗闇の中にきらりと光るものがあった。
碧生はごしごし目をこすって、膝をついたまま近づく。ざりざりとむき出しの膝がこすれて、スニーカーが脱げそうだった。後ろから引っ張られそうな予感があって、ふりきって、足を動かす。手を伸ばす。
「ん……なんだろ、」
固い物にふれて、指先でそっとなでると面で、取っ手がある。ちいさな、両手で包み込めそうなくらいの大きさの扉だった。たぶん。思い切ってのひらでふれてみる。砂利と埃でざらりとして、でも、さっきまでの背後から感じた嫌な感じが薄らいだ気がして、碧生はその扉を撫でつづけた。
手で輪郭をぺたぺた触ると、どうやらそれは小さなおうちのような形をしていた。木造でとげがひっかかるかも、と後で気づいたが、運よくそういうことはなく、ただ屋根のあたりをなでていると、冷たい水が手を打った。
「わ、」
雨? と慌てて空を見上げる。けれどしばらくそうしていても顔に雨粒は降ってこない。
なんだったのだろう、気のせいかな、と思いながらその木でできたちいさなおうちに腕を回してみた。なんだかもたれかかるのにちょうどいい。冷たくも暖かくもない木の感触が、ささくれ立った心を少しだけ慰めてくれるようだった。
静かだった。
自分のことを呼ぶ人はだあれもいない。
そのことが、さみしくて、でもうっとうしくて、だから。
「……このまま」
しんじゃえばいいのかな、とするりと思った。けれど口に出す前に、また、今度は頬に水滴が落ちた。
ぱっと顔をあげる。真っ暗な空が、ふと、雲が動いて白い月の輪郭が、映った。まっしろい縁。見上げた顔を照らし出すその白さに、そこに、なにかがかすめた気がする。暗い中でぼんやりと鈍色の、はなびらみたいなうすっぺらいものがぺたりと落ちて、額にくっついた。
「……? あ、これ」
つまむと花びらよりは厚さがありこしがある。それにきらきらしていて、少しだけ強度がある。魚の鱗、みたいな。でもそれにしては大きい。
月の光に照らし出されて、ようやく碧生は自分が寄りかかっていたものが小さなお社だったことに気が付いた。まるでゴミ捨て場みたいに朽ち果てた木材たちに囲まれて、お社自体も粗末なものに扱われているようで、慌てて手を離す。一歩下がって、正面から扉に向きあって慌てて弁解してしまう。
「わ、あ、ごめんなさい、えっと、神さまのおうちだ……わあ、どうしよ、よしかかちゃった……」
おこられるかも、ばちがあたるかも。信心なんてちっともないくせにそう思ってしまって、けれどお供え物のひとつもない。
慌ててポケットを探ってみるが着の身着のままとびだしてきたので何も持っているはずもない。お賽銭だってあるはずがなく……と思ったところで、指先に固い感触が触れた。
「あ、」
おやつにもらってひとつ残しておいた飴玉が、ころりと出てきた。こんなもの代わりになるのだろうか、と申し訳ない気持ちになりながら、そうっとお社の前に置いてみる。
「んと、これしかなくて……あ、でもこの飴、おれのいちばんすきなやつで。赤くて、いちごの味するんだよ。おなかがすいたり、さみしくなると、あまいものたべるとちょっと、らくになるきがするから」
お社に向かって飴玉の説明を必死にしてみる。当たり前に返事はない。でも、ええと、と頭を必死に動かして、でも、でも、と考えている。
「おれ、なんにももってなくて……だからこれ、おれのもってるなかで、いま、いちばんいいもの、です。神さま、んと、勝手によりかかってごめんなさい。それから、えーっと、神さま、なんの神さまかわかんないけど……雨降ってきたら神さまも寒いよね。きっと。神さまにもいいことがありますように」
こういうときに何を考えればいいのかまったくわからなくて、碧生はひたすら自分の頭の悪さに辟易しながら、ええとええと、と思い浮かんだことをぽろぽろとしゃべり続けた。
暗闇の中で、月の光が射してお社の屋根の軒が白くうかびあがっている。新しくはないけれど、丁寧な作りに思えた。きっとこの神さま――神さま、でいいのかな?――のために誰かが心を込めて作ったのだろう。ハンカチの一つも持っていなくて埃をぬぐうこともできないので、せめて、と手のひらでそうっと撫でて、たまった砂利を払い落とした。手のひらがざりざりとこすれて、指先にとがったものが引っかかる。すこし指先が切れたかもしれないが、暗くてよくわからなかった。
「ひとりぼっちかなって思ったけど、こうして神さまと会えたから、まあ、いいかな。おれ、ひとりぼっちだけど、でも、神さまもこんなところでひとりぼっちかなあ。そっかあ、さみしいね」
しゃべりながら、先ほど飛び出してきた時の悲しさ、怒り、やるせなさ、言葉にならない様々な感情が少しずつ落ち着いてきたのが感じられた。口にすることで、走ることで、あるいは時間をおくことで消化できているのかも。碧生はとつとつとしゃべり続ける。
「ありがとう、神さま――おれ、またここ来る。また飴、持ってくる」
勝手にひとりぼっち仲間に認定して怒っているかもしれないが、お社は静かにたたずんでいて、なにも否定もしないし受け入れてくれるようでもない、その距離感が、心地よかった。
大人たちは、優しいけれどときどき気を使われすぎている気がする。あるいは、性格の合うとか合わないとかがあって難しかったりする。共同生活で互いに気を使うのは当たり前で、だから、たまに、しんどい。否定しても逃げ出しても、結局、碧生はあそこに帰るしかない。みんなのことは好きだけれど、たまに息苦しい。
「神さま……なんていう名前かなあ……どこかに書いてあるのかなぁ」
んん、と顔を近づけても暗くてまったくわからなかった。はあ、とため息をついて、それからもう一度飴をまっすぐ置きなおして、ゆっくり立ち上がった。擦りむいた膝と手のひらにようやく気が付いたけれど、帰って洗うしかないか、と当たり前のように思う。
帰るしかないのだ。たとえ歓迎されていなくとも。そこが、自分の唯一の場所じゃなくても。
「じゃあ、またね。神さま」
ぺこ、と頭をさげて踵を返す。暗闇の中を歩いていくのは先ほどと同じなのだが、どうしてか、きた道よりずっと気持ちが落ち着いている。勝手に神さま相手にしゃべっていたからかもしれない。ポケットの中に手を突っ込んで空っぽになっていることを確認して、ちょっとうれしくて振り向く。
「あ」
お社の前に、白い人影があった。
え、と思って瞬いて、手で目をこする。
そこには誰もいない。ただ静かに古びたお社があるだけで、気のせいかぁ、とあくびをしながらまた来た道をとぼとぼと歩いた。来るときに感じていた引きずり込まれるような気配はいつの間にか消えている。
お社の前に置いた飴玉も見えなくなっていたけれど、暗いし遠ざかったからだと思って碧生はあまり気にしなかった。
ぴしゃん、と雨が頬を打った。
は、と目を開ける。碧生はひとり、起き上がる。暗闇の中、地面についた手のひらがじゃりっと鈍く痛んだ。
「……かみさま?」
懐かしい夢を見ていた気がする。ずいぶん昔の話、施設にいたころの話だ。あのあと、どうにか迷いながらも施設に戻って、次の日から何度となくあのとき訪れたお社を探した。最初の数回はたどり着けた、気がする。けれど、そのうち道に迷ったのだろうか、それともなにか別のきっかけがあったのだろうか。どうしてもたどり着けなくなって、そのうちすっかり忘れていた。
どうしていまさら思い出したのだろう、とぐらぐらする頭を押さえながら瞬きをして、目を閉じても開けても、まったく視界が変わらないことに気が付いた。
真っ暗だった。
「……え?」
ここ、どこ、と自分の膝を触る。制服のズボンの感触がある。廊下を、走っていた。なるちゃんに心配されて、でも、廊下にあのひとを見かけて、追いかけた。そこまではなんとなく覚えている。
ぴちゃん、ぴちゃん、と水音がする。
ゆっくりと、気配が近づいてくる。
(ふりむいたら、だめ)
それはわかる。こういうことは何度となくある。その度、こわくても、不安でも、誰にも言えないままに、ただそれが過ぎ去るのをじっと待っていたけれど。
近づいてくるのが、わかる。雨音、ではない。濡れた、なにかを引きずる音がする。息を細く吸えばむっとする臭気がたちこめていて、思わず息を止めた。くるしい。こわい。手が震える。
なんで?
(なんで、おればっかり)
喉の奥から悲鳴がこぼれそうになるのをこらえて、徐々に水音が近づいてくる。後ろではない、上からだ。
そう気づいて、顔をあげた。
見上げた先は、まったくの虚無だった。
天井も黒に塗りつぶされていて遠近感が狂う。手を伸ばせば届くほど低いのか、あるいは果てしなく高いのか。
なんにもわからないのに、頬に、冷たい水滴がおちて、跳ねた。
耳鳴りがしそうなほどの静寂。だれもいない。何の生き物の気配もしない――自分の呼吸しか、聞こえない。
じっとりとまとわりつく湿気がある。肌全体をそうっと包み込むような、毛穴をふさがれていくような不快感。唾を飲み込んで、目蓋を一度閉じて、ひらいた。
そこに目があった。
「っ、ひ」
喉の奥で悲鳴がこぼれる。うなじがぞわっと震えて、一息遅れて心臓が弾かれたように走り出した。こめかみまで鼓動が走って、目尻が震える。
目がある。人間の目には思えない。黄色い、異質な瞳が二つ浮かんでいた。小さくて近いのか、大きいけれど遠いのか、それすらわからない。ただ目がある。
ぴちゃん、と額に水がおちる。
「な、なに、なにが、これ」
これ、どういうこと、と震えながら碧生は己の体をかき抱く。それでも指が、がたがたと悪寒のように震え続けている。あきらかに、異質だ。
たとえば、帰り道で追いかけられたとき。
遠くからのぞく着物の袖とその先の白い手をみたとき。
桜吹雪の中で立っていたとき。
異質さは現実のすぐとなりにあって、けれど決してなじむことはなかった。一歩足を踏み外せばもう戻れない。そう本能で感じていた。だから、でも、なんで?
「――その目」
ふと、声が聞こえた。
かすれて濁った、女の声だった。
目蓋のあたりに風がかすめて、咄嗟にかばうように腕をかざす。制服の袖が額にこすれる。ちゃんと感触は残っている。夢ではないのかもしれない。夢なはずがない。こんなにくっきりと肌で感じている。知っている。
このおぞましい気配がいつも、どこか、まとわりついていた。どこにいても。ふりむけばそこにある。誰かに見られている。なにかに呼ばれている。こわくて、でも、誰も信じてくれなくて。
誰にも助けを求められないまま。
「え……?」
震える指先に、ふとなにかが絡みついた。
細い糸のような、かすかな圧迫感だ。あつくもつめたくもない、つるりとなめらかな、温度を伴わないものが碧生の指に巻き付いている。振り払おうと手を動かそうとして、けれどいつのまにか自分の腕が動かせなくなっていることに気が付いて愕然とした。
「なに、これ」
手が動かない。
気が付けば、反対の手も同じように糸らしきものが巻き付いていた。足も、身体も、細いほそい糸状のもので締め付けられて、動かせない。目をあけても真っ暗闇で何も見えなくて、また目の近くを風がかすめたような気がして逃げるようにうつむいた。顔だけはまだ動かせるようだった。
「その瞳が目印だよ」
聞き覚えのない女の声だった。じわじわと湿度があがって、息苦しくなっている。百合の花に似た匂いがむせかえるように漂っている。首を振って身じろぎしようと試みていると、またその声が聞こえた。
「片方だけの黄色い瞳。ふふ、さぞかし、おいしいんだろうね」
存外近くからささやかれている。
そう気づいて、ぞっとする。ひきつった笑い声が頭上からしていた。ぴちゃん、ぴちゃん、と水が落ちてくる。俯いて、けれど、首にも細い糸の感触が絡んだ。きゅっとしめつけられて、息がしにくくなって。
「お、おれ、おいしくないと思うけど」
たどたどしく、言い返してしまった。これでは声が聞こえていると言っているようなものだ。無視すべきだったのだろうか――だが、ためらいながらそう答えた途端。
「あははははははは」
まるで花火が爆発するような大声が耳元で鳴った。
わっと心臓がとびはねて、耳をふさぎたいのに手がうごかない。片手は宙に吊られたまま、だんだん指先から血の気がなくなってきた。冷汗が首筋をつたう。
「ずっとずっと、手招かれていただろう? あの手この手でみんな欲しがっていたのに。ああ邪魔ばかりされて、でもようやく! あはははははは! みーんなその目を食べたいと思っていたんだよ、そのいびつな黄色い瞳! それが目印だよ!」
大きな声が耳の奥まで響いて頭の中をがんがんゆさぶっていく。こわい、何を言われているのかわからない。
食べる? 人間を? そもそもこれは、なに。
「なに、やめて――――こわい」
思わずそうこぼすと、さらにけたたましい声が響いた。どれだけの空間なのかわからないけれど、真っ暗ななかで、匂いと笑い声が充満していく。湿った空気で、喉が、つまる。頭の奥がぎゅっとつかまれて、なんにも考えられなくなっていく気がする。
「かわいいねえ、かわいい。ほら、目をあけて。おいしくたべてあげるから」
これがなんなのか、理解できない。見えないから、見えたとしても、いったいなにを言っているのか、これからなにをされるのかわからない。
怖くて、理解できなくて、ただひたすら目をつぶる。糸に逆らって顔を伏せる。
そんなこちらの抵抗をあざ笑うように、首に絡んだ糸が一際きつく締め付けられた。
あっさりと縊られて、せき込んでしまう。
息が、できない。
「静かになったね、いいこ、いいこ。どうせおまえなんて誰も必要としていないんだよ。みんなお前のことを気持ち悪いと思っているよ。ここで食べられてしまったら、もう、楽になれるよ」
さきほどまでの大声とは違い、急にやさしい、甘やかな声で女が囁く。べたべたとからみついてくる湿度は、濡れた感触をともなって頬を撫でた。はっきりと、先ほどとはちがう、濡れた粘膜をおしつけられているとわかって、細く息を呑む。
「もういいじゃないか、あきらめて。ねえ? いつもそうやってきただろう? お兄ちゃんだから、みんなにゆずってあげるんだろう?」
その声は、どこか施設のスタッフたちに似ていた。碧生くんはお兄ちゃんだから、大きいから。ほかの子はもっとかわいそうだから。だから。だから?
ぐらぐらと頭が揺れる。息が、くるしい。頭が働かない。最初から、おれなんて、どうでもよくて、まぬけで、考え事もうまくできなくて、だれにも必要とされていなくて。
指先の感覚がなくなってきた。しめつけられた喉もなんだか遠い。
まぶたが、重たい。
「ほら、いいこだから目をひらいて? そうだ、かあさんが頭をなでてあげようか」
百合の匂いが濃くなって、吐きそう。頭が割れそうに痛い。くるしい。考え続けることができない。ただ体の感覚に引っ張られて、ぼんやりとしている。
短く息を吐く。吸う。それすら、たどたどしくて、つかえてしまう。
「いいこだね、さあ、目を開けてごらん」
顎先に濡れた感触がふれて、顔を上向かされる。瞼の力が抜けて、ゆるりと目を、ひらいた。
黄色い異形の光がすぐ目の前にある。黄色。自分の右目とおなじ。いびつな。きもちわるい、色。
もう、いいのかな。
そう思って、目のふちがじわりと滲んだ気がした。
「それから離れろ」
凛とした鈴の音のような、涼やかな声がした。
不意に、顔を掴んでいたそれが消える。がくりと身体ごと前のめりに崩れ落ちて、地面に叩きつけられる、と予感したけれど、すんでのところで柔らかいものに抱き止められた。
(あ、)
馴染んだにおいに、瞬く。なんにも見えないけれど、真っ暗だけれど、この感触を、においを、かたちを、知っている気がして。
勘違いだとしても。
「先輩……?」
しゃら、と金属がこすれるようなささやかな音がした。支えてくれる腕の中で、ふと、彼がいつもの制服ではないことが頬に触れる布の感触でわかった。でも、たぶん。間違いない。見えないけれど。でも。
「先輩、佐倉先輩だ? なんで?」
「喧しい」
ぴしゃりと叱られて、その声はやっぱりこの人で、途端にほっとした。あちこちに絡んだままの糸の気配は残っているけれど、それでもさっきよりしっかり自分の意志で動く腕で、その胸に縋りつく。
「先輩だぁ……よかったぁ。さっきあんなにおいかけたのに、呼んだのに気づいてくれなくて……」
「この愚か者。君はいったい何を追いかけていたのか、わかっていないのか」
ぴしゃりと怒られて、え、と瞬く。だって佐倉先輩の背中、と思ったけれど、まだ頭がぼうっとしていて、うまく考えられなかった。まごついたこちらにむかって、はあ、と重たくため息を吐き出すと、一層強く抱きしめられる。あ、と驚いて身じろぎすると「逃げるな」と叱咤された。
(逃げようなんて思ってないのに)
困ってしまって碧生は顔をあげるけれど、やっぱり真っ暗で何も見えない。
ふと、さっきまでの百合の匂いもまとわりつくような湿度も、薄らいでいるのに気が付いた。その腕に促されるがまま碧生は立ち上がり、けれど彼の腕が力強く押さえつけてくるので佐倉の胸に顔を埋める格好になっている。
「いい加減にしろ。これは貴様らのような低俗な輩が触れていいものではない」
こちらの背中にいるなにか――さっきまでの、あの、黄色い目――に向かって話しかけているのだ、と気づいて、ぞっとした。まだ、そこに、いるのだ。さっきまでのは、夢でも、気のせいでもなくて。
「貧相な辰風情が」
女の声が恨めしそうに響く。タツ? なんのことだろう。その恐ろしい声を聴きながらじっと息をひそめていると、佐倉が高らかに笑った。
「はっ! 貴様のような下賤な蜘蛛如きに言われても片腹痛いね。速やかにこの場から退くのか、それとも骨の髄まで焼き尽くされるのか、好きな方を選ぶがいい」
身体越しに響く声がいつもよりずっと深く、頭の奥を揺さぶるようだった。同じ声のはずなのに。同じ、佐倉先輩のはずなのに?
(ほんとうに、?)
不安がよぎる。けれどりんと涼し気な、花の匂い。これは、彼のものだ。この手も、気配も、声も、佐倉のものだ。
(そう、信じたい)
目の前の体に頬をすりよせる。目をぎゅっとつぶると涙がこぼれそうな気がして慌てて唇を噛んだ。
「僕はいま、たいそう機嫌が悪い。手加減はできないのだが」
しがみついた身体が、ふいに、熱くなる。燃えるような風が頬の周りをかすめて、びっくりして顔を離すと頭を押さえつけられた。
「わ」
「おとなしくしていろ」
「……はぁい」
なにがなんだかわからないけれど、この人の言うことを信じたい。信じたい、と思うのは碧生の気持ちで、だから、信じる、と自分で決めた。
胸に顔をうずめると、褒めるように頭を撫でられた。ちょっとくすぐったくて、うれしくなって、鼻先をぐりぐりくっつける。さらりと肌触りの良い布にこすれて、彼のやわらかい花の匂いがして、ほっとする。
足元がざあっと熱で撫でられる。びっくりしてそちらを振り向こうとしても頭を押さえつけられてうまく見えない。どうにかうつむいた視界の隅が、赤く、染まっている。ちりちりと細かな音がして、背中の方がぼんやりと暖かい。
(――――火、)
花の匂いが濃い。いつもの、この人の匂いだ。ときおり爆ぜるような高い音がするが、いったい何が起きているのか見えない。ただ、彼がいる。それしかわからない。べたつくような視線はまだ途切れ途切れに残っていたが、そのうち、ふつりと消えた。
ふいに「つかまっていなさい」と短く囁かれる。
「え、……うわっ」
足元が急におぼつかなくなって、わっとわからないままにその胸に縋りつく。ぎゅうっと腕につかまって、目を閉じて、「もういいよ」と言われる。
さっきまでのおぼつかない浮遊感は消え、いまはしっかり地面に足がついているし、いつの間にか視界が戻ってきていて、階段の、踊り場だった。ぱちぱち瞬きをする。だれもいないけれど、でも、校舎だ。さっき走ってこの人をおいかけたところだ。
「……ええ?」
どういうこと、夢でも見てた? と戸惑いのまま視線をうろうろさせる。碧生の手が何かを掴んでいて、それは見上げれば佐倉の袖で、当たり前に制服姿のその人がこちらを見降ろしているので、「ひえ、」と高い声を上げてしまった。
「な、なに⁉」
「喧しい」
見慣れた格好の見慣れたその人の、その袖をしわがつくほど握りしめていることにようやく気が付いて慌てて手を離す。一歩さがるとくらりとめまいがして、そのまま崩れ落ちそうになった。
「わ、」
「チッ! 粗忽者め」
あぶなげなく背中に手を回され、すんでのところで背中から倒れるのは防げた。あわあわと瞬きをして、窓の外が気づけばすっかり夕暮れになっているのが見えて、わけがわからない。
昼休みだった気がする。気が、する? なんのことだっけ。
「両足に力をいれて、地面をかんじて。そう、立てるだろう」
言われるがままに足に意識をやって、しっかり、立ち直す。ちゃんと地面がある。自分の足がある。あ、だいじょうぶそう、と思ったところで佐倉の手がはなれていった。
「すみません……えっと、先輩、おれ……?」
なにかあった気がする。とても怖い思いをした、はずだ。
(その瞳が目印だよ)
黄色い目が暗闇の中で輝いていた。碧生の右眼よりもっと鮮やかな、黄色い色。変な、いびつな、人間じゃないみたいな。けれど、同じだと言っていた。同じだと言われた気がした。
思わず碧生は自分の右眼を手のひらで覆う。うつむきがちになって、喉の奥が苦しくなる。
やっぱり、これは、自分は、変なのか。みんなの仲間にいれてもらえないのか。
(だれも、おれのことなんて)
「日浦」
沈みがちになる思考に、ぴしゃりと名前を呼ばれることで現実に引き戻される。
顔をあげると、佐倉がまっすぐに碧生を見つめていた。目をそらさずに。
「おかしなことを考えるな。君は常々思考が後ろ向きだ、もっと自分に自信をもちたまえ」
「そ、んなこといわれても」
「まあ……そうなるように仕向けられているのだろうね。そのほうが捕まえやすいから」
はあ、とため息交じりで言われて、首を傾げるよりない。仕向けるって、なにが? つかまえやすい?
佐倉は軽く首を振ると、組んでいた腕を解きこちらに右手を伸ばしてきた。そのまま襟首をつかまれて、乱暴に相手の方に引き寄せられる。せっかくちゃんと立ったところだったのに、バランスはあっさりくずれて「わっ」と悲鳴じみた声をあげて相手の肩にぶつかりそうになった。
けれどそうはならない。佐倉の手がこちらの顔を支えるように撫で、かと思うと、ぐっとつかまれる。されるがまま顔を背けさせられ、さらけだした首に、彼の顔が近づいたのが気配でわかった。
「あ、」
首筋に、なにかぶつかった。撫でられるのとはちがう。
ふ、と柔らかく押されて、最初は指かと思った、でも、もっとやわらかくて、かるくて、確かめるように濡れた粘膜がすべって――舌だ。舐められている、とわかって目を見開いた。
ぞわっと肌がふるえる。こわい、ような、それだけじゃないような。
「せ、んぱ、い」
制止にもならない、ただの音だ。佐倉は当然構うことなくしたいように続ける。首のうすい皮膚を唇で食み、軽く舐めて、するどい痛みが走った。
「っ、あ」
噛まれた、と遅れて気づく。うなじがぞくぞくする。痛いだけじゃないなにかがある。くっついたところからじわりと熱くて、燃えそうな気がしてきた。彼に触れられた頬やいつの間にかつかまれている腰、足が絡んで、背中に固い感触があって、壁に押し付けられている。後頭部がざりっとこすれた。
「ふ、……っ、ぁ」
首筋を舐められている。あつい。へんなかんじ。見えないのに肌は鋭敏にその粘膜を感じて、じわじわと変な熱がこもっていく。
佐倉の舌が自分にふれている。
そう理解するだけで、見えないのにその姿を想像するだけで沸騰しそうな頭だ。何も考えられない。制服越しに腰を掴んだ手が大きくて、足の間に彼の膝が割り入って、壁に縫い付けられている。自分の吐息がばかみたいにこぼれて、鼓動がうるさい。耳の奥で鳴り響いている。
「……勝手にどこかに行くんじゃない」
ようやく唇が首筋から離れていって、耳元でそう囁かれた。ぼうっとした頭で、どうにか彼を見ようと首をひねる。顔をおさえつけていた手がはなれて、そのまま軽く、頭を撫でられた。
「印をつけておいたから。もうめったなことはないと思うけれど――日浦」
「あ……はい」
びりびりとあちこちがしびれている。うまく思考が働かないまま、ぼんやりと瞬きをして、碧生は目の前のひとを見つめ返す。
(先輩の、目、なんか、いつもとちがう)
瞳孔がずっと鋭くて、初めて見るような表情に見えた。なじみのない、けれど、知っているような。うっすらと赤く翳った瞳。
(あ、)
以前部室で。指を怪我した時に、それとも終業式のころだったか? あの時の顔に、似ている。
「黄昏時には気をつけたまえ。とはいえ今日のように昼間のこともあるだろうし、不可抗力のこともある。困ったら、きちんと僕を呼べ」
「先輩を?」
「そう」
囁くようにうなずいて、佐倉の大きな手が頬を包み込む。目が合う。吸い込まれそうな、夕暮れ時の瞳。昼と夜のはざまの色。
「名前を呼びたまえ。いつでも迎えにいってやろう」
こくりと、唾を飲み込んだ。
「先輩、って呼べばいいんですか」
「僕の名前を知らないのかい」
ふ、とからかうように言われて、困って視線を彷徨わせる。彼はそれ以上はなにも言わず、こちらの言葉を待っているようだ。
だって。すっかりなじんでしまった呼び名だから。いまさら名を呼べと言われても。
(おそれおおい、気がする)
それでも相手はじっとこちらを見ている。視線に促されるように、おそるおそる、乾いた唇をふるわせる。
「……佐倉、祥、さん」
はじめて、その名前を呼んだ。それだけで舌の付け根がしびれる・
「よろしい」
彼はうっすらと笑うと、ようやく足を離してくれた。そのまま床に座り込みそうになるけれど、彼がさっと踵を返して階段を降りようとするのであわてて追いかける。こんなところにおいていかれたくない。
「先輩、待って」
「帰るよ」
「あ! おれ、かばん、教室かも」
ぱたぱたと足音をたてて駆け寄った。彼は追いつくまで待っていてくれるつもりらしく、足を止めてこちらをふり仰ぐ。鋭い視線がちりっと肌を焼くようで咄嗟に首筋を――さきほど舐められていたあたりを押さえてしまうが、そんなのもちろん気のせいなのだった。
まとわりつく糸の残滓はもう、感じられなかった。
**
からんころん、と軽やかな音にふと首をひねる。
蒼から朱へじわりと空がにじみながら、隙間を縫うように黒い影がばさばさと飛び交っていった。黄昏時、という言葉を覚えた。それがどうやら、自分と相性がよくないらしいことも、なんとなく実感してきた。今更かい、と呆れるあの人の声が聞こえてきそうだ。
(そういえば昔から、そうかも)
下校時刻を過ぎて、ランドセルを背負いながらひとりでとぼとぼ歩いている時間帯。こういうときに、よく変なものを見た気がする。怖かったり不安だったり、けれど誰にも信じてもらえなくてそのうち自分の気のせいか、自分の頭がおかしくなったんだと余計にこわくなって。起きながら見ている夢みたいなものかと思ってやりすごすしかなかったけれど、でもどうやら碧生の気のせいというばかりではないらしい。
(たぶん、この間のあれは、先輩も同じものを見ていたのかな)
あるいは先輩をふくめてすべて碧生の空想かもしれない。そう思うときゅっと怖くなって、どこからどこまでが本当か自信がなくなってしまう。助けに来てくれた、覚えている限りの先輩の気配を、声を、けれどすべて碧生の都合のいい妄想だったら? そもそも、すべて、つくりものだったら。
(おれが、最初からぜんぶひとりで勘違いしとるだけで)
からんころん。
どこかからっとぼけた音がして、はっと物思いから覚めた。
下駄を鳴らす音みたいだ、と思った。いや、下駄を履いている人なんてそんなに見かけないけれど。石の階段を降りながら、なんとなく首筋をさする。
ぼんやりと、手の下の肌がうずく。
『印をつけておいたから』
そう囁く低い声が耳の奥によみがえって、触れられた感触まで一緒に思い出しそうになって、わっと慌てて足を速めた。やっぱり夢じゃ、ない。よね。あんなことまで碧生の脳内の産物だとしたらいよいよ精神の変調を疑ったほうがよさそうだ。
なんだったんだろう、あれ。いったい、どういう意味。その前にあった様々なことがすべて吹っ飛んでしまいそうなくらいの衝撃で、実際、気づけば授業が終わっていて廊下に立っていて、その間のことがもはやあいまいな部分はあるのだった。なんだかひどく恐ろしい夢を見ていた、気がする。そんなもの思い出したくもないからぶんぶん首を振って、そうして記憶の渕に追いやって、だから残っているのはあのときの、先輩の声と、目と。
からん。
軽い音が響く。なんだか空っぽのがらんどうみたいな音だと思った。前にそんなことを言われた気がする。ええと、そうだ、それこそ佐倉に。出会ったばかりの頃。がらんどうだとかなんとか。
からん。ころん。
それにしても何の音だろう? さっきから聞こえ続けている。ぺたぺた階段を降りているのに、ずっとかわらず響いている。ついてくる。
「あ」
ようやく、そこで、変なことに気づいた。だって、同じ場所で鳴っているならその音が遠ざかるなり近づくなりするはずだ。それなのに、こちらが動いているのにずっとおなじ距離感で、同じ響きで聞こえ続けていて。
それはつまり。
(……ついてきてる?)
唾を飲み込む。すこしだけ早足にしてみる。スニーカーの底がふいにとがった石を踏んづけたのか、鋭い痛みが走った。それでもこらえて、足を動かしつづけて。
からんころん。軽やかに、笑うように、音がついてくる。碧生は足を速める。からんころん。からん。ころん。音は止まない。階段はとっくに終わって路地に差し掛かっている。ここを抜けると、もうすぐアパートだ。
ふと、足がなにか丸いものを踏んだ。
「あ、」
バランスを崩して踏鞴を踏む。どうにか転ぶことは避けられたが、足を止めてしまった。今自分が踏んだものは何だろう、と、おそるおそるうつむく。
円柱状の、最初は枯れ木かと思った。それにしてはずいぶん太い枝だ。
いや。ちがう。
夕暮れ時の朱色に染まりながら、それは、どうにも木の枝にしては滑らかだった。両端は少し膨らんで、ちょうど握るのによさそうな太さだな、と感じて、思わず後ずさる。
「え? こ、これ、骨?」
腕の骨、じゃないだろうか。自信はないけれど、生物の授業で見た気がする。とたんに先ほど踏んだ足の裏の感触がよみがえり、うなじが冷えた。
カバンをぎゅっと抱きしめたままもう一歩下がる、いや、でも、下がっては帰れない。あとここを抜ければもうアパートは目の前だ、そう思って、意を決して、足を踏み出して――その瞬間。
からんころん。
すぐ後ろから、軽やかな音がした。
(だめなやつだ、これ)
体が凍り付く。うまく歩けない。唾をのみこむと、ひどく喉が痛んだ。
は、と息を吐く。それでもどうにか一歩、足を踏み出そうと、棒みたいな体に力をいれて、うつむいて。
足元の骨がそこになかった。
ぎょっとして振り向いてしまう。それが、たぶん、よくない。そうわかっているけれど。
そこに骨があった。
「わ、あっ、」
ひ、と息を呑む。骨だ。人体模型というのを理科室で見たことがある。
その骨は、碧生と同じくらいの大きさに見えた。一本一本どうやってつながっているのかわからないけれどとにかく瓦解せず、そこに一応の形を保っている。骨と骨の隙間から後ろの景色が見えている。からっぽの胸を守るように肋骨がまるく空間を作って、腹はなんにもないから背骨がそのまま覗いていた。骨盤も脚の骨もすかすかと白い。白い。オレンジ色の夕日を受けながら、まったくの白さ。
「ひ、」
からんころん。
骸骨が、からっぽの眼窩が、こちらを見ている。顎の骨が、歯が、そのまま風を通して震えた。
『君はがらんどうだから、さぞかし良い音が鳴るのだろうね』
そんなことを、言われたのをなぜか今思い出して、あは、と口が緩んだ。人間なんて結局骨になればこんなにすかすかで、じゃあ、碧生がいまからっぽでも、がらんどうでも、なにももっていなくても、結局変わらないじゃないか。
なんて。
思っていれば、まるで共鳴するように骸骨が。笑ったように見えた。顎がカタカタと揺れる。空いた隙間にからからと高い音が鳴る。からんころんと軽やかな音を立てていたのは骨と骨がぶつかる音だったのか。
こわいのに、なんだか、妙におかしかった。
「まったく」
ため息のような声が聞こえる。ごく自然に振り向く。
当たり前の顔をして、その人が立っていた。いつも通りきっちり首元までしめたシャツにジャケット姿。手には学生カバン。見慣れた格好で、それなのにどこか浮いている。この人はどこに居ても輪郭がくっきりして、世界になじめない姿に見える。なじむ必要を感じていないのかもしれない。碧生はいつだって、なじめなくて寂しい気分にもなるのに、佐倉はそんなのへっちゃらみたいに凛と立っている。
「先輩、だ」
「また変なのに絡まれて」
あきれたように言われて、その瞬間まで、ほんの束の間であっても恐怖を忘れていたことに気づいた。佐倉のそばいると妙に気持ちがすっとして、明瞭な思考が戻ってくる、ような気がする。
「え、あ! そうだ」
慌てて先ほどの場所を振り向いて、瞬く。
そこにはなんにもなかった。ただの見慣れた風景が赤く染まっているだけ。足元を見てももちろん骨なんて一つも落ちていない。
「え……あれ? い、いま、ほねが」
「骸骨は基本的に陽気だからね。別に害はない」
単に興味があったんだろう、とだけ言うと佐倉は歩き出してしまう。この人はいつも説明が少ない。言いたいことだけ言い終えると、こちらがしつこく聞いても面倒くさいのかちっともまともな答えが返ってこなくなる。
「え、先輩も、さっきの、見た? 見ました?」
「一瞬ね」
「うわ、わあ、じゃあそっか……さっきの骨、えっと、骸骨? おれと同じくらいの大きさに見えませんでした?」
そう尋ねると、彼はわずかに首をひねる。視線だけでこちらを射抜くと何かを確かめるみたいに目を眇めた。
「……まあ、そうだね」
「う」
やっぱり、と思った。でも、碧生の身長は平均くらいなので、そう珍しいことでもないのかもしれない。男か女かは骨格でわかると習った気がするが、さすがにそこまではわからなかった。
「さっきの、なんですか……ひょっとしておれの死んだあととかだったりするのかな……」
ああいうおかしなものに意味を求めることが正しいのかわからないけれど、でも、今までは碧生ひとりで見て怖くて目をそむけて終わっていたのにいまは一緒に同じものを見た人がいる、話題にできる。そう思うと、なんだか、つい、考えてしまう。
「だとしたらどうするのだね」
「えっ」
冗談のつもりで聞いたのに、案外普通に言われてどきっとする。
「あ、あれがおれだったら――さみしいなあ」
しどろもどろになりながらそう言えば、佐倉は「なにがだね」と重ねて問うた。どう答えていいのかむずかしくて、もやもやした形の輪郭をなぞるみたいに、両手をもちゃもちゃと胸の前でからめた。
「うん、と……死んでもひとりぽっちなんのかなって思って。もしかしてあのこ、おれをみかけて、なんとなくついてきただけなんですかね。ひとりがさみしいから、かまってほしかったのかなとか」
もっと遊んであげればよかったのか、などとしんみりしてしまったところで、ふいに名前を呼ばれる。
「日浦」
「ん、」
はい、と言おうとしたところで額に衝撃がはしった。
「ひぁっ」
ばちん、といい音を立てて、頭がぐらぐらする。
え、なに、とわけもわからず右手で額を抑えて相手を見れば、佐倉が静かに右手を降ろしたところだった。でこぴんされたのか、と理解する。すぐにわからなくなる。え、なんで?
「そうほいほい異形のものに気を許すな! そんな隙だらけだからすぐにつけこまれるのだ、この愚か者!」
「う、ごめんなさい」
「君は……いや、うん、あれは君じゃない」
「え、っと」
佐倉はふいっとまた前を向いてしまう。広い背中が夕日の陰りを帯びている。すっと伸びたきれいな後ろ姿。
「君をひとりにはさせないから、安心したまえ」
「……? うん」
まだ額は痛いけれど、手でさすっていれば緩和されてくる。ぽかんとしたままその背を見つめていると、相手はこちらに一瞥をくれ、どこか訝し気に問われる。
「わかっているのか?」
「先輩が一緒に帰ってくれるってこと、ですか?」
鞄を背負いなおしながら首をかしげると、佐倉はあからさまにため息をついたようだ。そしてそのままずんずん歩きだしてしまうので、足を速めないととてもじゃないが追いつけなかった。それでもがんばって大股で飛び出すように弾んで、その隣に並ぶ。見上げた横顔はすまして仏頂面で、しばらく何を聞いても答えてはくれないのだった。
**
空気の匂いが変わってきた。夏のうだるような暑さが遠のき、少しずつ緑の色が落ち着いてくる。じわりと葉の先から色が褪せていくような、もうすこしたてば紅葉が始まるのだろうか。
「紅葉ってきもちよさそう」
んんー、と伸びをしながら秋の空気をすいこんでいると隣を歩く佐倉が胡乱なまなざしを碧生に向けた。。
「……あいかわらず君の発言はよくわからないが?」
よくわからないといいながらもきちんと聞き取って返事をしてくれるのがやさしい、とひそりと思う。こういうやりとりのひとつひとつが碧生の胸に暖かなともしびを残していくことを、きっと佐倉は気が付いていないのだろう。
「なんかこう、自分を一枚脱ぎ捨てていくみたいな気がしません?」
「ああ、うん――どうだろうね?」
突拍子もないことを言ってしまったのかもしれない、だいたい碧生がなにか言いだすと変な顔をされることも多いのだが、この人は呆れたり冷めたことを言いつつ、決して無視はしないでくれる。彼なりに考えたようだが、結局納得できなかったらしく首を傾げたままだ。
「ふふ」
思わずその肩によりそうように距離をつめる。
「なんだね、急に。暑苦しい」
などと口では言いながらも彼は嫌がるそぶりはみせないのでそのまますこしだけひっついて歩いた。近づけば佐倉の匂いがする。もうすっかりなじんでしまったその匂いに安心しながら、碧生はつい本音をこぼしてしまった。
「先輩、おれの言ったことちゃんと聞いてくれてるんですね」
「はあ? そりゃこの距離だから聞こえないわけがないだろう。僕の耳がそこまで悪いとでも言いたいのかね」
「えっと、そういう意味じゃなくて。おれが変なこと言っても、変な物みてても、ちゃんと先輩なりに考えてお返事くれるって、うれしいなって」
「人間の会話とはそういうものではないのかね?」
逆に不可解そうに尋ねられて、瞬いた。佐倉の物言いはときどき不思議だ。まるで自分が人間じゃないみたいに、ほかの視線から見ているみたいにしゃべるのだ。まあたしかに高貴な雰囲気のある人なので、碧生みたいな庶民とは感覚が違うのかもしれない。
「――先輩のおうちってどんなかんじなんですか?」
「藪から棒だね」
「考えてみたら先輩の事なんにも知らないです、おれ」
もう一年半くらい一緒にいるのに、顔をあわせても交わすのは他愛のない会話ばかりだ。相手の顔を覗き込むように首を傾げると、逆に見下ろされる。
「――別に、知っても面白くないだろう」
「でも好きな人のことは何でも知りたいじゃないですか」
「……好き?」
変なものでも食べたみたいな顔をして佐倉が呟くので、んん、と口ごもる。
「おれ、先輩といっしょにいるとほっとするし、楽しいです。だから先輩のこともっと知って、先輩がどうしたらうれしいのかとか、どうしてほしいのかとか、そういうのわかったらいいなって」
言いながらなんだかこれは変なんじゃないか、と不安になってきた。一緒にいて嬉しい、だから何かお礼がしたい、飴は何度勧めてもいらないと言われるしじゃあなにか嬉しいことをしてあげられたら、と考えて喋って、喋っているうちにんん、と碧生自身も気恥ずかしくなってくる。なんだこれ。
(こどもが、お母さんのこと喜ばせたいみたいな、そういう……?)
あいにくお母さんとやらがいたことはないのであっているのか実感はとぼしいのだけれど。仲良しの友達のことを喜ばせたい、みたいなかんじだろうか。そうかもしれない。でも、それだけじゃなくて――
「――――生意気な」
「いたっ」
ぴん、と指先で額をはじかれた。びっくりして目を閉じ、立ち止まってしまう。彼もまた足を止めたらしい。人通りの少ない場所で、あたりには誰もいないので邪魔になることはないだろうけれど、でも。
「僕が君になにかを求めるだって? 勘違いするな、僕は誰かに施しを受けるようなつもりはない」
「施しって、そんなつもりじゃないんですけど……ただ先輩が喜ぶこと、できたらうれしいかなって」
額をさすりながら一応言い返す。この人はいちいち話の内容が大仰すぎる。佐倉は腕組みをしてこちらをじっと見ていたが、一歩、さらに距離を詰めてきた。
「それは君自身を差し出すという意味合いにもとれる」
「うーん、えっと、おれなにもできませんけど……おれみたいなのでよかったら……?」
いくらでも、と言いかけたところで、彼の顔がさらに近づいた。
驚いてすぐには反応できない。しんと静かな空気の中で、花の匂いが濃く香る。整った顔が、すぐ近くにある。きつい眼差しで肌がちりっと焦げそうに、感じた。
視線は合わない。伏せた瞳は碧生の首筋に落ち、そのまま顔を寄せるように、佐倉が俯いた。後ずさろうとするとまるで先回りするみたいに大きな手に肩を掴まれる。顔が近づいて、俯くように彼は囁く。
「――軽々しくそういうことを口にするものではない」
首筋に生暖かい息がかかった。
佐倉がここにいる。すぐ近くにいて、身体に触れている。
そう思って、そこまでようやく考えて――は、と息が詰まった。急に心臓が走り出す。さっきまでも近くにいたけれど、でも、ちがう。佐倉であるはずなのに、いつもとなにかが違う。匂い? 声音? 急に空気が一枚層を変えたように、ひやりとうなじが冷える。彼の指が、布越しに肩に鋭く食い込んでいる。
廊下で佐倉をおいかけて、佐倉ではなくて、真っ暗な場所で、けれど佐倉がむかえにきてくれて。だんだん記憶があやふやになっていく。黄色い目。それを思い出すと新鮮に恐怖が蘇ってくるからあわてて首をふって、そのあと――佐倉に、首筋を噛まれた。そのことを思い出す。根来にも一度、首について何か言われた気がする。なんだったっけ。
(しるしって、なんだろ)
あのとき、佐倉に首筋に歯をたてられてから。
昔よりも変なものに出会う回数が、頻度が減っている気がする。まあ骸骨みたいなよくわからないのに遭遇したり、いるはずもないところから手が出ていたり、そういうのはたまにあるけれど、それでも。引きずり込まれるような、直接的にこちらに触れてくるようなそういうこわいことは、減った。
(このまま、なんにもなくなればいいのに)
そうしたら――何も見えなくなれば、あるいは見ないふりをすることができるようになれば。碧生もみんなの仲間に入れるのだろうか。でもみんなってだれだろう。わからない。ずっと世界からつまはじきにされているような感覚がある。自分を産んだ親でさえ自分を拒否したのだから、他人なんていっそう、なおのこと。
「君は自分の価値を知らなすぎる」
「先輩?」
何か考えたくても距離が近くてそればかりに意識がいってしまう。奪われてしまう。少し俯けば佐倉の短い髪の毛が見えた。顔はうつむいて、碧生の首筋に吐息がかかる。まとまらない思考のままに、碧生はつばを飲み込んだ。
「――ほんとうに、君は」
耳元で舌打ちが響いて、はっとする。気づけば目を閉じていたらしい。慌てて目蓋を開くと佐倉がすっと体を離したところだった。
「え、あ、あの」
「チッ! さっさと帰るよ、身体が冷えてしまう」
「あ、は、はい」
さっきまでの濃密な空気は霧散し、碧生の頬をかすめる風が一段と冷たい。急に寒くなったわけではなく多分、自分の体が妙に火照っているのだろう。妙にどぎまぎしながらその背中を追いかけた。
**
ついこの間まですごく暑かったのに、寒くなると途端にあっという間だ。頬をなでていく冷たい風に肩をすくめ、息を吐く。寒い季節は苦手だった。でも暑いのも苦手だから、年中苦手ということになってしまう。中途半端な気温が一番過ごしやすい。
「先輩は、夏と冬どっちがすきですか?」
隣を歩く人にそう話しかけると、佐倉はしっかりと前を向いたまま「どちらも好きではない」と答えた。放課後、バイトがない日はそのまま部室で過ごすことが多いのだが、暮れるのがはやくなってきたこの頃は「もうしめるよ」と彼はさっさと席を立つことが増えた。
「夏は暑くて腹立たしいし、冬は日の光が足りない。どちらも極端すぎて不愉快だ。もっと平坦に穏やかにならないものかね?」
「そこまで季節に怒らなくとも」
穏やかになれだなんて、季節もこの人にはそんなこと言われたくないだろうなあ、とちょっとおかしかった。このひとはたまに妙にむきになったり、真面目な顔で変なことを言ったりする。今日もどうやらその類で、彼はむっとした顔のまま「不愉快なのだよ」と重ねた。
「そうですか~」
気持ちはわかるが、碧生は彼ほど真剣になにかに怒ることもまたないのだ。そういう自分がつまらない人間な気もして、シャツの袖を指で伸ばすように引っ張って手の甲を隠す。すこしでも外気に触れる面積を減らそうという試みだが、それでもすかすかした首元が寒かった。
(でも、)
去年の、二学期の終業式の日。そういえば、佐倉はなんだか調子が悪そうだったなと思い出す。暗い中で蹲るみたいな格好で――
(あれ以来、あんなに体調悪そうなのは見かけてないけど)
それでも冬の間はなんとなく体が重たそうにしていた気もするので、寒い方が苦手なのかもしれない。
「先輩ってずっと本読んでますけど、あの部屋の本読みつくせそうですね」
話しかけると、少し前を歩く人は「どうだろう」と呟く。
「思いのほか興味深い文化なども書いてあって面白いが、おおむね時間の流れに従い朽ちてしまうだろうね」
「えっと……本の話ですよね?」
たしかに古い本は日に焼けてかすかすになってしまったりすりきれてしまったりするが、生きている間にそんな朽ちるほどぼろぼろになるだろうか。たくさん読んだら、なるかも?
「万物はすべて流れ、生まれ栄えては衰え朽ちていく。有機物も無機物も大して変わりはない」
「先輩って話が結構壮大ですよね」
「どういう意味だ」
変な顔をされるので碧生は自分の感性がおかしいのだろうかと戸惑う。いや、でも。少なくとも友達と話していてこういう話題にはあまりならない。
「えっと……なんだか遠いところから俯瞰してるみたいな、長生きしてるおじいちゃんみたいな」
えへ、と笑って見せたがおじいちゃんはさすがに失礼だっただろうか。現に佐倉はなんとも形容しがたい不機嫌とも不満ともつかない表情で碧生をじろりと見返したが、それ以上なにもいわない。
「君、マフラーは。また忘れたのかい」
「忘れたって言うか、みつからなくて」
「……君ねえ」
うんざりしたようなため息を聞き流して、えへへと笑って見せる。だいたいこれでごまかせるのだが――みんなそこまで他人に興味がないのだ――、この人は眉を吊り上げたまま。
「人間なんて弱い生物なのだから、せめて自己管理くらいしたまえよ。体を冷やして風邪でもひいたら目も当てられない」
「はい、気をつけます」
へらりと笑っても彼はまだ許してくれない。
「新しいのを買え」
「う、はい」
そのうち、と笑って曖昧にしておいた。マフラーを買えないほどではないけれど、でも今月はすこし厳しい。冬になるといろいろ出費がかさんで困る、バイトをもうすこしいれようか、などとこっそり考えてしまう。
「重ねての忠告だが、あまり遅くに出歩かないように」
まるでこちらの思考を読んだように佐倉が忠告してくるので、どきりとした。まさか顔に出ていたのだろうか。思わずぺたぺた自分の頬を触ってしまうが、「愚か者」となぜかため息をつかれる。
「何も一生というわけではない――せめてこの冬は、早く帰りなさい」
なんだか不思議な言い回しだった。佐倉の顔を伺っても相手は前をまっすぐ見てそれ以上説明しようとする意思は感じられなかったので、はぁい、と、もごもご口の中で返事をしておく。
放課後、ぱたぱたと走っていけばちょうど部室の鍵を閉めている佐倉の姿があった。足音が聞こえたのか彼は振り向き、こちらを見ても特に驚きもしない。
「今日は天気が崩れるらしい。早めに帰りなさい」
「あ、じゃあおれも」
一緒に、と言いかけたところで彼が足早にこちらに歩みより、そのまま当然のように追い越していくので慌てて追いかける。拒否の言葉はないから、さっきのは一緒に帰ろうという意味合いだったのかもしれない。すこし背の高い人の顔を見上げながら、そっと寄り添うように足を動かす。
靴箱のところで一度別れ、靴を履きなおして玄関口に向かう。何度でも顔を見ればうれしくなるし隣に立つとほっとする。ぱたぱた駆け寄ってすぐ隣に行こうとして、ふいに何かに躓いた。
「わ、」
かくん、と膝が折れる。なにか道具でも出しっぱなしになっていたのだろうかと足元を見る。
天気が悪くなる、と彼が言っていた通り外はすでに薄暗くて、玄関も蛍光灯が届かない隅はやはり暗い。人の気配がしんとなくなっている。いくら放課後でも、こんなに静かなことがあるだろうか?
見下ろして、つま先がなににひっかかったのか確認する。こんなところに何が落ちているのだろう、木材のような固さに思えたけれど、でも。なんだか。違う。
白い。
ほそくて、指先?
「っ、あ」
右足首にしっかりからみつく細いものは、指だ。五本の指がきゅう、と足首を掴んで微動だにしない。
え、なに? 咄嗟に人かと思って、そんなわけないとすぐにわかる。なんで、こんな。いつも通る場所なのに。いつも通る場所だから? 土とほこりにまみれた床の上で、妙に白い手が。
玄関は暗く、物音が、しない。佐倉だって靴を履き替えに行って、だからすぐそこにいるはずなのに。
金と耳鳴りがする。足首に絡みつく指先は冷たい。ひやりと、氷みたいに。
「――なんであの辰がそばにいるかわかるかい」
どこから聞こえる声なのだろう。そこにあるのはしなやかな枝だ。ちがう、指だ。わからない。見間違いかもしれない。ただの気のせいかも。声だって、外の風の音かもしれない。そう思いたいけれどそうじゃないなんてわかっている。
「た、たつ?」
タツ――辰? なんのはなし、と呟くと、甲高い風の音が響いた。ふふ、と笑う男の声に聞こえた。
「みんなおなじだよ。君を食べたいんだ」
かっと頭上の蛍光灯が光った。指先の、爪までくっきりとみえて、すぐにまた薄暗くなる。
ぱ、ぱ、ぱ、と不規則に蛍光灯が点滅を繰り返す。暗闇が、ひきのばされて長くなる。風の音がうるさい。玄関のガラス戸が一斉にふるえて戦慄いた。そのままはじけ飛びそうなほどの振動で、おもわず両耳をふさぐ。
「――日浦」
ふいに、右の手首を掴まれる。
「あ、」
振り向けば、佐倉が立っていた。
唾を飲み込む。気づけば冷汗が流れていたらしく、ひどく寒かった。ぶるりと体を震わせて、寒かったことすらわからなかったのだと瞬いて。
(みんなおなじだよ)
その声が、耳にこびりついている。
「――帰るよ」
彼はそれ以上言葉を言わず手を引く。手首をつかんだ手がすべり、手のひらを掴みなおした。
うなずくことすらうまくできず、もつれた足を動かすとあちこち錆びついたみたいに固くて、ぎこちない歩みになった。足首にからみつく指の感触は消えたけれど、怖くて見ることもできない。佐倉につかまれた手を、わずかに握り返す。すぐにきつく握りしめられ、は、と息をついた。
玄関の扉を押し開くといっそう冷たい風が吹き込んでくる。
「つめた、」
突風に目をつむって、それからそうっと押し開く。佐倉がふいに手を離す。自由になった手のひらがひんやりと冷たい。はらはらと風に舞って白い花が見えた気がして、瞬くとたぶん、雪だった。
「あ、もう雪?」
びっくりして空を見上げる。暗くてよくわからない。けれど冷たい。頬にかすめて溶けてしまう、から、すくなくとも自分は雪よりは暖かいのだろう。ぼんやしていると、後ろからふわりとなにかかすめた。
「え、」
隣を振り向く。ふかふかとあたたかい毛糸が首元を覆ってくれて、彼の手が離れていくのが見えた。
「え?」
思わず自分の喉の前を触る。やわらかい毛糸の感触。目線を下げるとたっぷりとボリュームのあるマフラーが巻かれていて、ぱっと顔を上げる。
「巻いていなさい。寒々しいから」
彼はいつもどおりの不愛想な顔で一言そういうと、踵を返してしまう。先ほどまで彼の首元にあったはずのマフラーだ。
「あ、だめです、先輩が風邪ひくから……!」
「喧しい。見ている方が寒い」
ぴしゃりと言われ、マフラーを解こうとした手が止まってしまう。
しばし唖然とその背中を見て、それからじわじわとこみあげてきた感情が、足を動かした。
この人は基本的に言いたいことを言うだけで人の話など聞かない。けれど、追いかけるとちゃんと足を緩めてくれる。ぼうっとしていれば声をかけてくれる。躓いていると迎えに来てくれる――さっきのおかしな声は耳の奥にこびりついているけれど。でも。蹴飛ばすように、足を踏み出す。気のせいだ。気のせいでいい。誰が何を言っても聞く必要がない気がした――この人の声だけでいい。
その腕にまとわりつくように腕を絡める。彼はちらりとこちらを見て、鼻を鳴らした。
「いらないなら捨てたまえ」
「捨てないです! えっと、でも、これ返さないと」
「しばらく使っていてかまわない」
「それは申し訳ないので! できるだけはやく自分の買います、明日にでも買います!」
「いいから。そんなことより万が一僕のものを紛失したりしたら、どうなるかわかっているだろうね」
「なくしません! 約束します!」
「粗忽者の君の約束など、信用できるかどうか」
ふん、と馬鹿にしたように笑われたがさほど不機嫌そうには見えなかった。じわじわ嬉しさがこみあげてきて、鼻先をうずめるようにマフラーを引き上げて、ぎゅっと相手の腕にすがりつく。体重をかけても彼の体はびくともしないのだった。
次の日の昼休み、いつもどおり部室にいるその人に「今日こそマフラーを買いに行くから」と告げて借りていたマフラーを返そうとしたのだが、疑わしそうに見つめ返されるだけだった。曰く「きちんと買ってきてから返したまえ」とのこと。そんな理屈あるんだろうかと思うが、彼の優しさに甘えて結局その日も借りたままになってしまった。
約束は果たさねばなるまい、と放課後は部室に寄らずまっすぐバイトに向かい、帰りに閉店間際の量販店に駆け込んでシンプルなマフラーを購入した。ナイロン袋をがさがさいわせながら、帰り道を急ぐ。
「あれ」
違和感に、暗くなった空を見上げる。顔を上げると、頬にぱたりと冷たいものが触れた。
「雨――みぞれ?」
今日は一際寒かった。日の出ている時間がどんどん短くなっていて、そういえば冬至が近いのだったとぼんやり暦を思い出したりする。借りているマフラーをすこしきつめに巻きなおして、先を急いだ。あたたかい。残り香は薄らいでしまって、でも明日には返すのだから、もう少しだけでも身に着けていたかった。
「おなかすいたなぁ」
ポケットの中をさぐって飴玉を探す。しかし、今日に限って一つも見つからなかった。どうやら食べつくしてしまったらしく、ちょっとがっかりした。
ぱさぱさと降ってくるみぞれから逃げるように足を速める。空はいつもよりずっと暗いけれど、雲が流れきれぎれに月がもう覗いていた。細い細い爪でひっかいたような三日月。これから満ちていくのか減っていくのか、そんなこともわからない。あまり興味がない。マフラーをなんとなくいじって、鼻先を深くうずめた。まだわずかにのこっていたらしく、ほんのり花の匂いがして、うれしくなる。
寒々しいから、と言いながら彼が貸してくれたマフラーはたっぷりと長く、巻きつけるととても暖かかった。うれしい。
佐倉にとってはマフラーなんて大した親切じゃないのかもしれない。それでも、何度でも、新鮮にうれしかった。その優しさが形になっていま自分を守ってくれている。それがこんなにうれしいなんて。どんなに寒い帰り道でもこのマフラーがあれば平気な気がした。
足元が見えにくくて転びそうになったりしつつ、寒々しい夕暮れと夜のあわいをうつむきがちに走る。うなじにときおり冷たい風がすべりこむ。みぞれがつめたくて、うつむいて足を速めながら、碧生ははやく屋根の下に入りたかった。
と、そこでタイミング悪く信号が赤になり、足を止めざるを得ない。ほとんど車の通らない道だというのに律儀に信号は変わり、そしてここはなんだか長く感じるのだった。顔をあげると雲の切れ目からまた月が覗いていた。薄黄色のそれをただ眺める。
(でも先輩、最近、まだ元気ないな)
この間はそれでも幾分楽しそうだったが、その後部室で見かけてもどうにも調子が悪そうだ。今日だってなんとなく気だるそうで、おっくうそうに見えた。
去年のこの時期も――終業式の時も、いつもよりずっと調子が悪そうな、すこし、雰囲気の違う様子だったのを思い出して、心配になる。
急に抱きすくめられて、力いっぱいつかまれた腕の感触を思い出す。一年も前なのになぜかしっかりと思い出せてしまう。あの後、お風呂に入ったときに確認してみると、くっきり指の跡がついていた。それもいつのまにか消えてしまったけれど。さすがに言うのははばかられて、碧生だけの秘密にしておいた。
鈍い痛みが消えるのがすこしだけ寂しかった、だなんて、言ったらさすがにびっくりされるだろうから。
(ほんとうに、あのときは、どうしたんだろ)
あんまり具合が悪そうだったので、もしかしてなにか持病があるのだろうか、と心配になったが、その後しばらく鬱々としていたけれどあの日のような、突然の行動は見られなかった。
「おれに、なにか、できたらいいんだけど」
苦しい時に助けてあげられるほど頼りがいがある腕ではないけれど、でも。月をぼんやり見上げながら、だれも周りにいないから気が緩んで、ぽつりとつぶやいてしまった。
もっと、頼りにしてほしい。あのひとに、あてにされたい。
(烏滸がましいかもしれない)
佐倉はそんなことのぞんでいないのかも。期待していないのかも。
「先輩、元気かなあ」
「――さあ、どうだろうね」
突然、独り言に対して男の声が返ってきた。
とっさに左右を見渡す。信号待ちをしているのは碧生一人だ。歩道を歩く人もいない。車も、通っていない。
一瞬唾を吞み込み、それから意を決して後ろを振り向く。
やはり、だれもいなかった。
無機質な道と街路樹があって、ぽつぽつとアパートや住宅があって、人の気配が全くしない。明かりはついているのにそこに本当に人間がいるとは到底感じられない空気だった。
さっきまでいたのかもしれないけれど、ほんのわずかに層がずれてしまった。そんな感触。ぽっかりと落とし穴にはまって自分だけちがう高さから世界を見ているような。そんな。
唾を飲み込む。
「……だれ、」
ひそりと呟いて、こういうとき、話しかけるのがはたして正しいのかわからなくて途中で口を閉ざす。わからない。どくどくと耳の奥で血液の流れる音が響いている。車の音も、街の喧騒も、鳥の鳴き声も、なにもない。何も聞こえない。無音だった。自分の内側の音しか存在しない世界。信号はいつまでたっても赤のまま。空を見上げると、雲は、ゆっくりとだが動いていた。
隙間から、月が、のぞく。
「辰は東方の神、春の眷属だからね。おとなしく冬眠でもさせておけばいい」
しんとした中で、奇妙に声が大きく、くっきりと響く。聞きなれない声だった。うなじがぞわっと震える。
細い月のはずなのに、妙に大きく見えた。さっきはほんの爪の先みたいだったのに、いまは、なんだか。
にゅう、と虚空から手が伸びてくる。白い指先。
「っ、ひ」
男の手だ、と思った。それ以上はわからない。考えられない。色の白い、生気の乏しい手がのびて、思わず一歩後ずさる。けれど腕が、おいかけてくる。気づけば着物の袂のようなものが見えた。あ、と瞬けば、そこには、男がいる。
知らない男だ。
咄嗟に、マフラーの端っこを握りしめた。
(先輩、)
そう思った。唇の端がひくりと震える。
「きれいな瞳だね。今宵の月とおそろいの色だ」
男がにんまりと笑った。ようだった。
そこで全部暗くなる。頭がぽかんと暗くなる。視界の隅で黒猫がよぎった、のが最後に認識したもので、何も考えられない。自分の体がまるで糸が切れたように崩れ落ちていった気がするが、碧生にはもはやなにもわからないのだ。
Ⅲ
さらさらと、衣擦れの音がしている。
聞いたことのある音、知っている気配だった。匂いも音も、すべてひっくるめて既視感がある。ねぼけている夢のどこかで出会ったのかもしれない。全部気のせいで、思い込みかもしれない。
夢をよく見るほうだった。
他人と比べようがないところではあるけれど、寝ても覚めてもずっとふわふわと足元がおぼつかない感覚で、あ、これ、本当じゃないのか――夢なのか、と気付いたときにはひどく恐ろしい思いをしたことも、あったような気がする。夢は夢なので目が覚めると忘れてしまう。なにもかもなかったことになってしまう。ぼんやりといやな残滓がまとわりついて尾をひくような気はしても、でも、誰にも見えないのだ。
(だれも――おれの言うことなんて、信じてくれなかった)
幼い頃は本当に夢も現実も区別がなくて、こわくて、泣いていた。部屋の隅にいるなにかに。道すがら手招きするだれかに。ふりむいても顔がないひとに。さっきまでふつうだったのに急に聞きとれないことをしゃべりだす友達だったはずの子に。なにがなんだかわからなくて、こわくて、でもだれもかれも信じてくれなくて、最初は夢だよとなだめてくれても回数が重なると「きっと気を惹きたくてやっているんだ」「あの子は親がいないから」という声が耳に入って、それで、やめた。大人がおもうよりずっと子供はみんなの話を聞いている。聞こえている。なにもかも、見えている。
(……なつかしい、夢だ)
むかしのことを思い出している、らしい。ぼんやりとたゆたうように冷たい床の上で目がさめる。覚めた。はっと目をあけて、飛び起きる。
手のひらの下は硬い。いつからこの状態で寝ていたのだろう、すっかり身体がこわばっていた。
さっきまでの懐かしい気配はすでに遠のいて、ただの夢だったのかもしれない。現実との境目があいまいで、だからいつも、簡単に踏み外してしまう。
「なに、……ここ」
あたりを見渡す。何にも見えない。真っ暗だ。そして音がしない。碧生のしゃべった声もどこかに吸い込まれていくようで反響ひとつしなかった。部屋の中なのか外なのかもわからない。風の流れは感じられない。光が一つもないから、目をあけていてもつぶっていてもまったく変わらないのだった。
「……先輩」
心細くて、つい、あの人の名前を呼んでしまう。だからどうなるわけでもないとわかっていても、おまもりみたいに、かみしめるみたいに。口の中で、小さく、小さく呼ぶ。
返事なんてない。
わかっていたけれど、いつものことだけれど、でも、ひどく心細かった。呼ばなきゃよかった。そう思って、瞬時に後悔した。期待して応えてもらえなくて勝手に落ち込んで。そんなの、もう、やめたはずなのに。
(なんか、やばい)
なんだか思考が暗い方へ向かっている。視界が真っ暗だからだろうか? 首を振って、えいっと膝を立て、立ち上がってみた。見えない中で立つのは少し怖かったが、何にもぶつからなかった。手を思い切り伸ばしてみても横も上も、何にも触れない。壁も天井も近くにはない。いったいなんだろう、ここは。
冷え冷えと寒かった。それだけは確かだ。腕をかきあわせ、首元がすかすかしていることに気づく。
(マフラー、どこ)
さっきまであったはずの毛糸の感触がない。慌ててしゃがみこんで足元をさぐろうとして、バランスを崩して倒れ込んでしまった。膝をしたたかに打つ。じんと響く痛みを吞み込み、近くの地面を手でさする。
「えっどうしよ……約束したのに、」
うそ、どうしよう。途端におなかの底がひんやりとして、慌てて手を動かす。佐倉に貸してもらったマフラー。あったかくて、ちゃんと返すって、明日には返すと約束したのに。ざりざりと手のひらがこすれて皮膚が削れる感じがあるけれど構っていられない。
「どうしよ、あした、先輩に」
声がかすれる。震える。だって、約束したのに。ちゃんと、先輩と。なんだかぐらぐらしてくる。おちつけ。おちつかないと。そう思うのに。
「……どうしよう」
ふえ、と子供みたいに泣きそうになってしまった。ぐっと気持ちを抑えるように唾を吞み込み、目を凝らす。どうせ役立たずの目だ。暗闇の中ではなんにも見えない。
(なんで、みんな、おれの目がほしいっていうんだろ)
おいしそうだ、と言われた。ぞっとする声でささやかれ、何度となく足を、手をひっぱられて。
夢の中で、でも、本当は夢じゃないのかもしれない。あれが現実なのだろうか。信じられない。普段学校に通って福崎や根来とたあいのないことをしゃべったりバイトであくせく動き回っている方が本当は夢で、現実は、この真っ暗闇なのかもしれない。つめたくて、かたくて、だれもいない。碧生のことなんてだれも知らない。自分自身の輪郭すら、あやうい、闇の中。
「……おれ、なんて」
ほんとうはいないのかもしれない。
もうとっくの昔になにかよくわからないものに食べられて、それきり、ただ夢を見ているだけかも。ぐらぐらと不安になる。自分の指先すら見えない。手をもちあげ自分の頬をなぞる。たしかに肌はある。けれど、それすら錯覚かも。
ふと、この目は本当にあるのだろうか、と思った。実感がない、たとえば、触れられるのだろうか。
自分の目を触るなんて怖い、おそろしいことのはず。でも。今はそんなことすら考えられない。こわい。不安だ。何もかも信じられない。確かなものが何一つない。
こんな目なんて、ない方がましだ。
右の人差し指に力を入れる。頬をひっかく。かすかな痛みはある、気がする。わからない。信じられない。そのままゆっくりと指を上にずらしていく。
目蓋を開いて、目を凝らしてもなんにもみえない。自分の指先すら、わからない。
いまはなんのにおいもしない。物音も聞こえない。生きているのか死んでいるのかすらわからなくなりそう。
(先輩、佐倉先輩)
あの人が、手を握ってくれなければ。碧生なんて、もう、なんにも。
『みんなお前を食べたいと思っているよ』
あの男も――あの辰も。そんなふうに言っていた気がする。辰、という言葉が頭の中でひっかかっている。
(たぶん、それは)
どういう意味合いかわからないけれど、きっと、佐倉のことなのだ。何の符牒なのか、あるいは当たり前の呼称なのかすらわからないけれどたぶん。
(――――先輩も、おれのことを)
食べたいと思っている?
そう考えて、ざっとうなじが冷えた。怯えながら、その名前を口にしようとして――。
「まあ、待ちなさい」
けれど、ひんやりとした手に腕をつかまれる。言葉はあっけなく引っ込んで、心臓がひときわ大きく跳ねた。
暗い中で、手がぼうっと白く浮かんでいる。つられるように碧生は視線を揺らして、そこに、着物の袂が見えた。
気を失う直前に見えた腕が、脳裏をよぎる。
この手だ、と、直感でわかって、身体がひるむ。目の前にいる気配がゆっくりと輪郭を得ていく。いままでそこに居たけれど見えなかった、というよりは、いまここでゆっくりと実像を結び始めたように。こちらが見ているからその姿を作り上げたように、気づけば、腰から下もあって、白い足袋と雪駄が見えた。視線を巡らすと腰帯とゆったりとした袂、着物の合わせ目、そして――首がある。相手は立っているからだいぶ高い位置に顔があって、しゃがみこんだこちらの腕を掴んで、簡単に引っ張り上げた。
「あ、」
まるで童子でも相手にするような気楽さで立たされて、困惑したまま相手を見る。顔があるはずの場所は、なぜか翳ってよく見えなかった。生白い首ばかりぼんやりと明るい。喉仏が自分の目線位の高さなので、こちらより背の高い男だ、ということはわかった。男――なのだろうか?
(人間じゃ、ないよな)
変なことに直面した時はたいていそのときはそれをそのまま受け入れるしかなくて、だから夢の中で自分が夢を見ていると気づけない状態と同じなのだと思う。そのままそれを世界の枠組みだと思う。あとで思い返すととてもそんなこと正気の沙汰とは思えなくとも、そのときは、それが現実なのだ。
「あの、どなた、ですか」
その白い喉仏ばかり見つめてしまう。声は思ったよりきちんとでて、そのままなんにもない虚空に吸い込まれていくようだった。相手に届いているのかすら心配になるけれど、ごく自然な呼吸を置いて、返事がくる。
「君は何者なのかな」
「え?」
聞き返されて、びっくりした。碧生がここにいるのはこの人のせいだとばかり思っていたけれど、もしかして勘違いだったのだろうか。
「お、おれは、」
「こんなに近くにいても匂いが抑えられている――印をつけられた?」
急に手を放され、けれどすぐに相手の指先が碧生の首元にふれた。夜の底のようにひんやりとした感触で、生きている人間にはとてもじゃないが思えなかった。死体を触ったことがあるわけでもないので、判断もつかないが。そもそも死体なら動かないだろう。
(でも、)
両手は自由なはずなのに、振り払えない。冷たい指先が首の横をなぞり、耳の下をくすぐるように触った。思わず首をすくめてしまうけれど、相手は低く笑う気配がする。顔は見えないのに声ばかり妙に耳に響く。
「ずいぶん狭量な男だ」
「……? あの、」
日本語は通じているようなのに会話が成り立っていない。こちらの動きや声を理解しているだろうに返って来るのはまったく一方的なものばかり。なんだかすこしあの人に似ているやり方だ、と思うけれど、でも、こんなにあの人の指は冷たかっただろうか?
(……あ、)
昨年の冬のことを、急に思い出す。床に座り込んで唸っていた姿。あの時の彼の指はこのくらい冷たかったかもしれない。
「でも、」
く、と指先に力が込められた。思わず顔をしかめてしまう。息を吸い込みにくい。片手を首に添えるくらいの触りかたのはずなのに、指先からじわじわと絞められている。両手で彼の手を振りほどこうとするが、びくともしない。
こわい。この手は、容赦なく締め付けてくる。戯れではなく、本当に、このまま殺される。右手で、ついで左手もあげて、必死にその腕に爪を立てる。逃れようと抵抗して、ぬいぐるみが腕から零れ落ちている。
腕に爪をたてて必死に抗って、けれどまるで壁か石のようにつるりとした肌には、こちらの爪先すら食い込まない。
「、あっ……」
首がのけぞってしまう。目がかすんで、視界が白くなって、ちかちかした。
「っ、ぅ、あ」
絞めた時と同じくらい唐突に解放されて、かは、と息を吐く。膝が落ちて、床を打った。酸素を取り込むことしか考えられず、前かがみになって喉をおさえて、ひたすら息を吸おうとするのに、なんだかうまくいかない。視界が瞬いて白っぽくて、頭が急に痛くなった。何にも見えないのは変わらないのに――いや、うつむくと自分の膝すら見えないのに目の前の男の着物ははっきりと見えるのだった。
いったいどうなっているのだろう。
思考がかすむなかで、無意識のように床に手を這わせる。ぬいぐるみの感触をひっかけ、慌てて抱きしめた。なじんだものが確かにそこにあったことに、見えはしなくても少しだけほっとする。
視界に一筋の白がさしこむ。光ではなくそれは男の手で、ひるむ間もなく顔を掴まれ無理やり上向かされた。
「まあ、それでも。見つけてしまえば変わらないけれど」
たぶん、見られているのだろう。そこに男の顔は見えない。喉の辺りから下は見えている。指の力は強く、顔を背けようとしてもちっとも動かせなかった。
「あの辰もその程度ということだ」
その言葉を、何度か聞いた。たしか、あの、暗闇でも。足を掴まれたときにも。皆口々に、言っていた。なんのことかわからないままだけれど、ふいに、頭の中ではじける。考えるより先に言葉がこぼれる。
「――――先輩のこと?」
「君がなんと呼んでいるのかは知らないが、君に印をつけ独り占めしようとしている愚かななれ果てのことだよ。大事ならしまい込んでおけばいいのに。社は朽ち果て信仰を失い、ほとんど力もない。神格も失いかけているようじゃないか。すこしでも神力をつけるために君に目をつけているんだろうね、情けない恥知らずだ」
男の言葉はまったく意味がわからなかった。けれど、佐倉のことを馬鹿にして、嘲っているのは感じられる。それだけで、急に腹の奥がざわりとした。
不愉快だ。
そう思った。思えば、指先に力が戻ってくる。怒りというのは、なんだ、こんなふうに体を動かすことができるのか。抱きしめたぬいぐるみのなじんだ弾力が、背中を押してくれるような気がする。
「なに言ってるのかわからないけど……先輩のこと、そんなふうに言うな」
せめてもの抵抗で虚空を睨みつける。ぎゅっと目を眇める。なんにもないようにみえる暗闇に、けれどおそらく誰かの顔があるのだ。
「しるしとか、匂いとか、なんのことかわからないけど――そっちばっかり顔も見せないで、卑怯だ」
眦に力をいれるように、その輪郭をたどる。たどって、ふと。
そこに顔があった。
「えっ」
思わずびっくりして体が後ろに倒れそうになる。さっきまでなんにもなかった真っ暗闇に急に白い顔が出てきたのだ。彼の手からごく自然に逃れて、けれど動悸は一層ひどい。心臓がどきどきして、飛び出しそう。
首からごく自然につながっているその顔は、一言で言えば美形だった。白いつるりとした顔はどこか優し気で、目尻がやわらかく微笑んでいる。日本人とは思えない透き通った蒼い瞳と月のように白とも黄色ともつかない髪の毛が、長く頬の辺りまで垂れていた。
「へえ、すごいな」
彼は、ぱちりと瞬きをする。そのやり方はあどけなくて、表情は人形のように整っている。口が計算されつくしたかのようにうつくしく弧を描いて、そのやり方に、ぞっとした。
先ほどまでの、声だけだったときよりも不可解さは薄れるかと思ったが、そんなことはなかった。作り物めいた、人間に似せてみたような気配ばかり際立つ。外側だけ精巧に作って、内側はまるでぬかるみのように暗い。そんなふうに、二重写しにすらみえてしまう。
「君の瞳、やっぱり特別製だ。僕を自発的に『見る』なんて。ふつうは、僕が『見せて』あげているのに」
「な、にが」
男の声は軽やかで歌うように華やかだった。顔が見えて表情を伴うと途端におぞましさが際立つ。なんでこんなにこわいだのろう。夢で逢う様々な怪異たちはもっとあからさまに人間とはかけ離れていたのに――今まで出会った何よりも、この人間めいた男が、こわい。
「だから君に『見られる』ことで怪異たちは形をもつ。君が『見る』からそこにもう一つの世界が現れる。わかるかい? 君が『見る』世界の不安定さ、いびつさはそのまま君の内側だ。ああ、いいなあ。その琥珀の瞳――おいしそうだよね」
蒼い瞳がぐっと澄んでいく。瞳孔が大きくひろがり、吸い込まれそうな夜のような色がわっと視界に広がる。視線がそらせなくなる。その渕に落ちてしまいそうな錯覚。
「とろりと溶けた蜜のような色だね。ふふ、その歪な瞳に何が映っているんだろうね? 舐めたらどんな味がするのかな」
赤い唇がゆがむ。ひどく美しい男なのに、ひとつひとつの表情に寒気がする。
人間ではない。それだけは確かだ。
けれどまるで人間のように赤い舌が、見えた。
何をされるのかわからなくてとっさに目をつぶる。ふ、と生ぬるい息が目蓋にかかった。
「君、名前は?」
「……」
絶対に答えちゃいけない。それだけはわかるので目も口も閉じたまま、ぎゅっと力をいれる。縮こまる。どうしていいのかわからない。小さい子供のようにしゃがみこんで頭を抱えていればいいのだろうか。そんなことで、どうにかなるとも思えない。ただ、立ったまま身を固めているしかできなかった。腕の中のぬいぐるみが弾力を返してくれる。ここにたしかに現実がある。それだけで、どうにか正気を保つ。
「まあ、なんでもいいけど」
ふ、と耳元でささやく声がした。
「あ、」
すぐそばに男が立っている――頬に息がかかる。手が首筋をなで、そのまま顎先を掴まれる。目を閉じたまま首を振ろうとしても、うまくいかない。逃げられない。手が震えそうで、ぎゅうっと力をいれてにぎりしめる。息が、しにくい。頭がくらくらしてくる。緊張しているからだろうか、意識して息を吐こうとして、けれど唇がうまくうごかない。
(……?)
握りこぶしをほどこうとしてもちっとも指が動かなかった。目蓋も開かない。硬直したまま動けない、自分の体なのにちっともいうことをきかない。なんで? 急に、なぜ。
「名前などどうでもいいよ。僕を見なさい――僕のもとにおいで」
目蓋が、開いてしまう。そんなつもりはなかったのに、目を開けてしまって、目の前にいる男の顔を、見てしまう。
吸い込まれそうな青。蒼。夜空を思い出す。昼間は忘れているけれど、太陽が消えた瞬間に暗闇は顔を出す。
思い出す。自分たちは取り巻いている宇宙は本当は暗くて、深くて、吸い込まれそうに遠い。一歩踏み出せばそのまま放り出されてしまいそうな虚空につつまれて生きていることを。
「ほら――落ちておいで」
すとん、と、思考がとぎれた。
あの人の名前が、口の中でふるえて溶ける。
**
うとうととまどろみの中にいる。
何の音もしなく、匂いもしない。感触がない。すべてが失われて、たゆたう波のなかにいるようだった。温かくも寒くもない。なんにも感じない。自分の手足がどこにあるのかすらわからないまま。
(――なんにも聞こえない)
ここはどこなのだろう。夢の中かも。体は重たく、でも自分の体などどこにもないのかもしれなかった。
目が開いているのか閉じているのかわからない。なにもみえない。
(……おれ、なにしてるんだろ)
あの人の名前を呼びたい、のに。
口が、うごかない。瞬きもできない。
まるで人形になったみたいに、なにひとつ自分の意志で動かせなかった。
**
「――、日浦?」
呼ばれたような気がして、佐倉はふと顔を上げる。暇つぶしに人間たちの記した書物をめくっているところだった。この部室を埋めているのは主に郷土資料で、土着の言い伝えや史実、地形や陣地の移り変わりが記されているものがほとんどだ。時折目に付いたところを手に取ってめくって、そうして無聊を慰めていたのだが。
手を止めて、首を巡らせた。意識して耳を澄ませる。鼻を利かせる。気配を――追いかけていく。校内から飛び出し校外へ緩く細く、広く浅く。拾い上げる。すこしだけ速度が鈍る。日照時間が短く、夜が世界を支配する時間が長くなるとどうしても出力が落ちていく。足りない部分が露わになる。
冬は、苦手だ。冬至が近づくと一層。昼が一番短いこの日、この体はほとほと最低限のことしかできなくなる。
力の入りにくい指先をかすかに動かしながら意識を遠くへ飛ばす。日浦の普段の下校路から迂回している――どこか寄り道したらしい。あの子はまったく。
(早く帰るよう言ったのに)
独り言ちながら気配を辿って、這って、ふと。
「……?」
ふつりとそこで消えた。
しばらく目をこらすように眉を顰める。その地点に集中して、付近に意識を巡らせる。横断歩道の付近でじっと探って、匂いに異質さが混ざった。
ひやりと、雪よりもなお香る、麝香のような。
瞬時に立ち上がる。窓の外に目を向けて、人間の眼球の及ばない遠くとおくまで視線を飛ばす。指先から血の気が引いていく感覚。人間の体というのは不便だ、けれど、いまは輪郭がないと自分をうまく保てない。散漫になりそうな意識を集中させ、そのまま、窓を開き、佐倉は窓枠に片足をかける。
「――月がおりてきたようだな」
体を外に乗り出すと耳元で低い声がする。夜風のように鼓膜にしみこんでくる声の主を振り向いた。そこに姿は見えない。けれど夜の王の気配が漂っている。この旧い友は佐倉とは正反対に日の光が苦手で、日が落ちた途端、のびのびと活動し始める。
「久しぶりに姿を見かけたよ、あの優男」
まるで他愛のない世間話のように告げる声が、だが、そのおっとりした口調に秘められた牙をのぞかせている。やわらかい警告に、佐倉の眉がかすかに顰められた。
「月? どうりで――死の匂いが濃い」
「招かれると死者の仲間入りだ。お前とは相性が悪いぞ」
「情報に感謝する――どうせならそこで止めてくれればいいものを」
「思ってもないことを言うな――私はもうこの世に関わらない。永遠に」
軽薄な調子の中に秘められた忠告は親切なのだ。彼の複雑な胸中を知るからこそ、佐倉はそれ以上の会話を打ち切る。追いかけるのに意識を集中させても残滓がどんどん薄くなる。どこか遠くに引き離されている。
(印を、つけたのに)
チッ、と舌打ちをこぼし、影が窓から躍り出る。窓枠を踏み切って、重力に従うのであればそのまま真っ逆さまに地面へとたたきつけられたはずの体は、軽やかに夜空に浮いた。うすい腰布が暗闇に溶けて、浮かぶ。人間の輪郭を残しながら、髪の色が淡く夜空に透けていく。白に近い銀色がさらさらと揺れ、こめかみから桜色の角が覗く。ひらりと桜の花びらが闇夜に散る錯覚を起こさせ、だがそれは花びらではなくあわい鱗だ。その身長よりも長い桜色の尾が風になびくようにひときわ大きく揺れて、異形の神は月に届くほど高く飛んだ。
車通りの少ない道に音もなく降り立ったその影は、夜の闇に紛れてだれにも目撃されなかった。よしんば通行人の目に触れたとしても、その長い尾もきらびやかな角も認識はされなかっただろう。そういうふうにできている。だれしも自分の見たいものだけを見るのだ。
(だから、神など忘れ去られる)
思考を振り払うように首を巡らす。やわらかな腰布は夜風にそよぎ、むき出しの腕は冷気に晒されてもしなやかに白く輝いている。誰も見ていなくとも、常に完璧な存在であらねばならないという矜持だけが、ここまで衰えた自身を支えている。
(あの子が、あまりに美しい瞳を向けるから)
どうしてその期待に応えずにいられようか。
決して満たされて生きてきたわけではないだろう子供は、少し目を離した隙に美しく成長していた。そして身体の成長に伴い魂の精度は研ぎ澄まされ、かぐわしい匂いを隠し切れなくなっていた。
見た目の美しさだけの話ではなく――その、魂の、芳香。それに引き寄せられるように、異形の者たちがじわじわと集まり、あからさまに手を出してくるようになっている。
(――あとは、)
鼻を利かせるように佐倉はかるく空を仰ぐ。今宵の月はまだ満ちるには遠い。満月ではない月を見つめ続けていると手を招かれる、そういった逸話がある。月に住む男が招きに来るのだ。
(死者の匂いだ)
かすかに匂う不愉快なまざりものを振り払い、目を閉じる。意識を集中させる。冬至が近い。自分の指先が鈍っているのがわかる。気を抜くと眠り込みたくなるのは、余分な消耗を嫌うからだろう。この体にもあたりまえに生存本能がある。そのことに、時折うんざりする。必要とされないのであればもはや潔く消えるべきだと思う日もある。冬が長引くと特に、春が遠いとさらに。
それでも。
『先輩』
声に引っ張られるように、意識を狭く、細く、鋭く。感覚だけになっていきそうな、細い細い糸のような光のような、よじれて、拡散して。
ちり、と肌が焦げるような感触。
指先がひくりと震える。とっさにその気配を掴もうと手を伸ばし、だが宙を切った拳は当然何も掴んではいない。夜の風が冷え冷えと暗い。匂いが、霧散していく。
「あの、粗忽者め」
思わず舌打ちをしてしまう。道路はしんと静まり返り、車一台通らない。たださやさやと夜風が凪いで、葉を落としきった木々を揺らしていく。
「自分にどれほどの価値があるのか、いつになったら理解するのだ」
空っぽの拳を握りしめる。爪が食い込むほど、深く、きつく。苛立ちは、己に向けられたものだ。
印までつけたのに――むざむざと拐かされて。あの瞳が、色違いの双眸がこちらを見上げる、うれしそうに微笑む、駆け寄ってくる。そんな光景が、なんだか当たり前みたいになって、もしかしたら気が緩んでいたのかもしれない。あの純粋な魂が、なにものかに捕食されるかもしれない。そんなこと、許されない。
日浦が、あの子が、ほかのなにかに奪われるなど。
「僕が――許さない」
足を踏み出したところでつま先になにかひっかかる。拾い上げれば日浦に貸してやっていたマフラーだった。
あれが、寒そうだったから。
弱い生き物の癖にふらふらとだらしない恰好でまとわりついてくるから、だから、見るに見かねた。それだけだ。そのくせ、あの子はしばらくの間かたくなにマフラーを手放そうとしなくて、室内では暑苦しいからほどけと叱りつけて、しぶしぶ首から抜き取る姿が記憶に新しい。
拾い上げると、まだかすかにぬくもりがある。
「……チッ」
その場に跪く。地面に手を当て、じっと目を閉じた。街路樹は少なく、少し離れたところに小さな公園があってそこにもむき出しの枝を骨格のように晒した木々たちが言葉なく立ち尽くしている。目の奥の暗闇を見つめ、ゆっくりと体の奥から声を出す。響かせる。
(――――あれを見なかったか)
人間にはとうてい聞こえないだろう声を、けれど、同族たちはよく聞き取ってくれる。桜の樹は花を落とすと気づかれにくいが、春にそこにあるのだから本当は秋でも冬でもそこに立っているのだ。ただ花を咲かせ、葉をしげらせ、葉を落とし、枝として。幹として。静かにに、人間たちを見つめている。
応答がある。声にならない声で枝を、指を震わせ、その体が、幹が、揺れている。斎宮はただじっと耳を傾け、立ち上がる。
「ありがとう」
どこにむかうともなくそう声を残し、見えた道筋のなかに指先をさしいれる。もし誰かが見たのであれば、空中に腕を伸ばし、軽く手首をひねっているように見えたかもしれない。腕輪がしゃらりと揺れる。指先は白く、手の甲から腕までを覆う布は闇のように暗い。ぽっかりと五本の指先だけが白く浮かんでいる。
人差し指がなにかをひっかくようにかりかりと小刻みに動く。なにもみえないけれど、すこしずつすこしずつ、彼の指が深みへと入る。中指もそえ、そのうち親指を除いた四本の指が、なにかをひっかくようにしっかりと丸くなった。
ぐ、と手の甲に力が入る。その横顔はいたって平静だが、唇は静かに引き結ばれていた。
そのまま指先まで暗闇に染まる。腕が、身体が、ずるりと闇に溶けて行って、最後に長い尾が鈍い銀色の軌跡を残して、消えた。
それきりただの夜が戻ってくる。だれもその道を通るものは、ない。
ずるりと吐き出されるようにその闇の中に入り込んだ。
頭がすこしだけ重たい。いやな空気だ、と思う。すっかり鼻が利かなくなるほどの濃い腐臭に、思わず口元を扇で隠した。そのまま目線であたりを見渡す。
何ひとつ輪郭すらも確認できないほどの、とっぷりとした濃い泥のような闇。
「――――どこに隠した」
低く、そう尋ねる。答えが返って来るとは端から期待していなかったけれど、ただひたすらどろりとした闇に辟易しながら、ゆっくりと足を踏み出す。
手をのばし、どこからともなく取り出した桜色の扇をかるく回旋させる。金色の細かな粒子が浮かび、流れ、花の匂いがこぼれる。ささやかな抵抗じみた動きは相手の出方を見るためのものではあったが、暗闇はどこまでも無言のままだ。人間であれば圧迫感を覚えてしまうだろう、あるいは、すこしずつ正気を失っていくかもしれないほどの、漆黒。
(あの子は、)
こんなところに長くいたら泣き出してしまうのではないだろうか。心細くて膝を抱えてはいないか。懸念はいらだちに変わり、闇を斬るように足を踏み出す。扇を動かして、目の前の空間を少しずつ自分の支配下においていく。日浦の気配を探っているが、どうにもおぼつかない。
「チッ――まだるっこしい」
いっそすべて燃やしてしまおうか、と左手を握って、開いて、握る。
だがこの闇のどこかに日浦がいるかもしれないのだ。自身の神力は、たとえ衰えていようとも人間の肌などやすやすと焼き尽くしてしまうだろう。あの子にまで危害が及ぶのは避けたい。人質を取られている格好なのが気に食わない。気に入らない。まったくもって、不愉快だ!
「桂男!」
その名を高らかに呼ぶ。びりびりと空気が振動し、闇全体がひときわ大きく震えた。
佐倉はその場を動かない。軽く腕を組み、扇で口元を隠すようにしながらただ一点を睨んでいる。その先から、ゆらりと着物の袂が覗いた。着物の裾から足が覗く。襟元が見え、白い首が現れ、ぬうっと、そらおそろしいほど美しい顔が闇に浮かんでいた。
「やあ、久しいね」
薄青い瞳がにんまりと微笑している。月のように光輝く髪色も、簡素な着物も、ただこの男の美しさを際立てるだけだった。肌全体がうすく光っているようにつやつやと白い。
鮮烈な輝きではなく、けれど見つめていると気が狂いそうになる、白。
「知るか、貴様に会ったことなど記憶から抹消している」
短く吐き捨てると、男は軽やかに笑った。
「はは、辰は気が短い」
そんな戯言に付き合うつもりは毛頭なかった。扇から目だけをのぞかせ、相手を睨みつける。視線で人が殺せそうな鋭さではあるが、対峙する男は人間の形をしていても人間ではない。
「――――あれをどこにやった」
「あれって?」
まるで美しさの見本のように首を傾けるが、その緩慢なやり方はひたすらこちらを煽り苛立たせるための布石なのかもしれない。爪が手のひらに食い込む感触で、どうにか怒りを押し込める。
「あれは、僕のだ」
それでも常より低い声になる。ざわりと桜色の尾の鱗が逆立つのを止められず、ただ、目の前の男を睨んだ。
「はは、自分のおもちゃをとられた子供みたいに駄々をこねないでよ。あんなまずそうな人間、さっさと食べてしまえばいいのに。味はともかく栄養にはなるでしょ」
その言葉を聞いた瞬間。
佐倉の腕がまっすぐに伸びる。対峙するほの白い鼻先に鋭い爪の先がひたりと当たり、これ以上、あと数ミリでも動かせばその青い瞳を繰り出せそうな距離だった。
「あれを侮辱するのは許さない。傷一つつけずに、即刻ここにつれてきたまえ」
「侮辱? ただのみすぼらしい人間だろう? どうしてそこまでいれこんでいるのかな、いまさらひとつやふたつ傷がついたってかまわないだろうに。魂さえ無事なら――」
ざん、と風を切る音が残った。
はらりと数本の髪の毛が男の肩に落ち、闇に溶けていく。鋭い爪が薙ぎ払った先にはただぬめった暗闇があり、佐倉の腕はそこで止まった。
「辰神は気が短いようだ。これではお茶もできないね」
「貴様と話している暇はない」
「実際、君はあの人間に何を求めているんだい? 衰えてきた神力の足しにするためだろう? さっさと食べればいいのに。ある程度大きくなってからというのはわかるが、そろそろ食べごろじゃないかな。現にみんな、手を出し始めている」
滑らかに美しい声が耳にささくれを作っていく。闇がじわじわと外側から忍び寄って来る。その薄汚い言葉で内側まで侵食されていくようで、振り払うように低く唸った。
「貴様に何がわかる」
「わからないね。ただの食べ物じゃないか」
「――――日浦を、返せ」
怒気を含んだ声に合わせてゆらりと佐倉の尾が揺れる。その白い肌や輪郭が薄赤く発光し、すこしずつぶれていく。常人には感じ取ることのできない神の気配、怒りを、観測しているのは対峙する男だけだ。
彼はただ微笑みを絶やさない。まるで何も見えていないかのように、泰然と機嫌よさそうに笑っている。
「辰神が食べないなら僕が食べてもいいだろうさ」
「貴様、」
人ひとり殺せそうなほどの獰猛な視線を向けられて、月の男はただ涼し気に微笑む。
感情というものが欠落していてその表情しか作れないのかもしれない、そもそも人間社会に適応する必要がなければ他人のための表情など不要なのだ。
「まあ、老いぼれた辰に負ける気はしないけれど、君と争って悪戯に力を消耗するのもまた馬鹿馬鹿しい。僕はあの人間に執着はないからね。欲しかったら探してごらん。見つけられなかったらあとでゆっくり食べるだけだ――本当は生きている方がましだけれど、死んでいてもさほど変わりはない、どちらにせよ人間なんてひどい味だから」
桂男は言いながら一歩、二歩、まるで踊るように足を動かした。その残像をかすめるように切り裂く鋭い音がする。佐倉はただ、その虚空を睨みつけ高らかに舌打ちをした。
「そのまま動かずにいれば、生きたまま刺身にしてやったものを。最も、貴様など食えたものではないがな」
「はは、ほら本性がでてきた! 獰猛で恐ろしく、皆から慕われるよりも畏れられるほうを選んだ末路が君の今の姿だ!」
闇に溶けるように足先が見えなくなる。着物の袂が揺れて、溶ける。顔だけぽっかりと残って、半端な月のように白々と揺れていた。
「貴様に――なにがわかる」
「わからないね。もっとわかりやすく、上手に人間に取りいればよかったのに、ただただ孤高を貫いた結果がそれかい? 人間から忘れ去られた神は正史から消える。畏れられ噂にのぼり言霊で力を得た妖たちは、姿かたちを変遷させながらも生き延びていく」
「みじめな姿をさらし、相手に媚び諂いながら生き延びることがそんなに重要かね? それなら潔く桜のように散るべきだ」
「それなら美しく滅べばいいのに――でも君は、あの人間に執着している」
ふ、と耳元でささやかれた。佐倉は振り向きざま腕をしならせる。虚空を爪の軌跡が伸び、何の感触も得られないまま、軽やかな笑い声が遠ざかった。
「みっともないじゃないか! ああ、楽しいねえ、君みたいに気高く滅びていこうとする神のなれの果てが、人間如きに執着している! 滑稽じゃないか。さあさあ、探してごらん! この夜の中で見つけられるかな?」
「いい加減その口を閉じろ」
にらみつけた先に虚空を斬る鋭い音だけが残る。いっそ炎で辺り一面燃やし尽くしてしまいたい気持ちになるが、どこにあの子がいるのかわからないのだ、と自分で自分を戒めた。神気をまとう炎は、人間ひとりなど骨も残さず焼き尽くすだろう。
耳障りな笑い声が響きわたる。こうしている間にもあの子がどういう状況に陥っているのかわからない。桂男の言い方では、遠からずそのままでは死ぬのだろう――そう考えるだけで腹の底がぞっとした。
(あれが、死ぬ?)
手を握りしめる。笑い声は消えない。遠ざかり近づき、時折ささくれだつような言葉を囁いてくる。いちいち相手にしていられない。この男に関わっている間にも時間は過ぎ去る。先ほどの言だとこちらと正面切ってやりあうつもりはないようだから――佐倉はそこでひとつ、首を振る。
雑念を振り払うために、目を閉じる。暗闇の奥にさらにもうひとつ、暗い闇がある。深い深い闇。夜すらも足りない。なにもかも生まれ出る淵の、重ねられた黒の黒。
どろりと足元にまとわりついてくる気配を振り払う。探したいたったひとつの形が、まだ見えてこない。夜で断ち切られてそのままの気配は、匂いは、闇に塗りつぶされたまま。
(名前を呼べと、言ったのに)
呼んでさえくれたなら。唇を噛む。痛みが走り、感覚がひとつ深くなる。視覚は思ったよりも役に立たない。見えないところでは肌感覚がいっそう鋭くなる。爪の先。指の腹。触れずにただその感覚を伸ばすように。
角の付け根がちりちりと痛んだ。
(――――名前すら)
呼べない子だと、知っている。
ひとりで、社の前で笑っている子だった。
最初は迷い込んできただけだ。けれどその後も近くまでうろうろ探しに来ている様子だったので、それとなく道を開けてやった。ふだんからそこにあるけれど誰もみな気にも留めないこの社に、こんなに短期間で何度も足を運んだのは近年ではあの子くらいだった。
『あ、あった。神さまいるかなぁ』
いつもあちこち怪我をしていた。指先や膝に絆創膏ばかり。着古した服を、袖を伸ばすようにひっぱっていじりながら、ポケットから飴玉をとりだし、ひどく吟味して、ひとつ、お供えしていく。
『飴、どうぞ。おれのいちばんすきな味』
好きなものだからたくさんもっているのだろうか、と最初は思った。社に腰かけて見下ろした先で、彼はにこにこと笑ってしゃべっていた。
『おかしもだいたいきまってるんだけど、飴はあんまり人気ないんだ。だから最後に選んでもちゃんと残ってて』
小さな指先で飴の包みを置いて、そばに座り込む。夕暮れ時だった。あたりはだれもいない。子供たちももう帰る時間だろう。この子は、家に帰らなくていいのだろうか。
『いやなこととか悲しいことがあったとき、こっそり机から取り出して一個だけ口に入れて、ゆっくりゆっくり舐めるんだ』
言葉にしなくとも彼の感情がゆるやかに漂っている。すこしだけ鼻先を近づければ、ぱちんとはじけるようにこの子の鋭い悲しみが伝わってきた。
さびしい。
だれも自分を見てくれない。
かなしい。
だっこして。
言葉にならないそれらの思いをひとつひとつ感じて、それからその小さな頭を見下ろしている。
『甘いなあって思いながら、それだけ考えながらころころ舐めてたら、飴がなくなるころには結構忘れることができるから、すき。おれ、ばかだから』
膝を抱えて小さな尻を地面に載せて、そうやって丸くなると本当に小さい。手のひらで握りつぶしてしまえそう、と思いながら、気づけばその手を伸ばしていた。
髪先にふれる。
触っているけれど触っているのではない。身体ではなくその内側の、やわらかな輪郭を撫でている。小さくて、それでも曇らずにいる美しい魂をいつくしむ気持ちがこみあげてきて、少しだけ驚いた。
自分にも、そんな気持ちがあったのだろうか。残っていたのか。
(もっと昔は)
ずっとずっと昔、まだ人々がここに集い、参拝し、願いを託していたころは、まだときおりこういった人間に感化されたような記憶がある。けれどすっかりそれも錆びつき、摩耗してそのままぼんやりと座っているだけだった長い、あまりに長い時間があった。
ふいに、子供が顔をあげた。
目があう。佐倉はぎょっとする。人間に――子供などに、驚かされるなど、本来であれば恥のはずなのだが。
いまはただ、純粋に驚き、すこしだけ胸が湧き立った。
錆びついた扉をこじ開けられた。
子供はぼんやりと虚空を眺めているだけのようだった。彼にこちらは見えていないようだ。けれど、確かに自分を見つめている。いったいなにが映っているのだろう。
飴玉よりもっと透き通って美しい、片目だけ奇妙にあかるい琥珀の瞳。
(――これは、いけない)
あやうい瞳だ。見えないはずのものを見てしまう瞳だ。特別な人間だ――我々人間以外の、神や異形のものたちから、好まれる瞳だ。
いっそこのまま手を掴み抱きしめて攫ってしまえば、ひとつの神隠しとして幕を下ろすのだろう。この子は人間社会から消え去り、そのまま記憶も感情も摩耗していく。自分たちと同じ存在になっていく。
手が、震えた。誘惑がなかったと言えばうそになる。なにがそこまで惹かれたのか、いまの自分にはわからない。もうすっかり、そういうことは忘れてしまった。
「――――今日は寒いね、お月様もきれい」
ふんわりとした、子供の声がして、目が覚めた。
意識して腕組みをする。浮かせかけた腰を座りなおし、その顔を見降ろした。子供はにこにことして、それから立ち上がるとお尻のあたりを軽く払った。
「もう帰らないと。またね、神さま」
そう言って小さな背中を向ける姿をしばし眺めて、目を閉じた。少し眠ったほうがいい。この子はこの社のことを忘れたほうがいい。神力は衰えていく一方で、もはや、顧みられない自分にできることは限られてきた。
(それでも)
あれは、おそらく、狙われる。付きまとわれる。
二十歳になる前になんらかの手にかかるだろう。それは予測というより確信だった。異形のものに、あるいは、己のように力の衰えた神に。攫われる。拐される。そのままとけて、きえて、形を失う。
あの美しい瞳が。やさしい輪郭が。
(――それなら)
目を開く。すっかり季節は過ぎ去り、空は同じように狭く、高く、蒼い。子供の気配を探る。近くには、もう、なかった。ふん、と鼻を鳴らし、久しぶりに社から立ち上がる。すっかり眠りすぎたらしい。遠くまで出かけて行ったのかこの土地を離れたのか。どちらでも同じかもしれない。あの後ほかのだれにも起こされることのなかった――顧みられることのなかった社を振り向き、飛び立った。鈍くひかる銀の尾が濁った空気の中を泳ぐ。そうして、彼を探しに行く。探し出した。
そして、いまも、また同じだ。
(日浦)
名前を。呼べと言ったのに。
呼ばれている気がした。
何も聞こえないのに、どうしてそんな風に感じるのだろう。わからない。思考がうまくはたらかない。
目が開かない。指先もうごかせない。
停滞した時間が長く引き伸ばされて、自分がいったいいつからこんな状態なのかわからなかった。そもそも、自分がなにかわからなくなりそう。
(おれ、は)
自分の輪郭がわからない。さっきまで抱いていたはずのその存在すら、思い出せない。
『みすぼらしい――――』
男の声が耳の奥でよみがえる。なんといっていたかははっきり覚えていられない。思い出せない。ただ、蔑んだ瞳だけ青々と冴えていた。
(みんな、おんなじだ)
人間なんて大したものじゃない。ずっと知っていた。故郷にいる子供たちの生い立ちを知ると、人間って碌なもんじゃないとしか思えなかった。
やさしいひともいる。かわいそうなひともいる。いじわるなひともいる。
みんなおなじで、自分も同じだった。人間なんてつまらなくて、その中でも周りの人が気持ち悪いと遠巻きにする自分は、誰にも振り向いてもらえない自分はいちばんどうしようもなく、いらない存在なのだと感じた。
こんなことは思い出せるのに、と重たい頭がぐるぐるとまわる。壊れたフィルムみたいに、昔の記憶が飛び出しては入れ替わる。自分では制御できない。つまらなくて、ちっぽけで、だれにも顧みられない自分の姿を外側から見ている。
すかすかと首元がさみしくて、あ、と瞬いた。
(首、が)
毛糸のふわふわとしたあたたかさ。歯をたてられた感触。冷たい指がしめつけてくる恐怖。
すべてがないまぜになっていく。人体の急所、だと、わかってはいる。でも、どうしていいかわからない。
(べつに、おれの命なんて)
『君は自分の価値を知らなすぎる』
そうあきれたように言ったのは、誰の声だったか。
目を開くことも閉じることもできない。ガラス玉みたいになってしまった目で、人形のように動けない手足で、ただ、その声を思い出している。
「日浦!」
呼びかけた声は虚空に吸い込まれ反響すらしない。耳障りな笑い声は止んだと思えばまた急に湧き出てきて、不愉快極まりなかった。鬱陶しくて払いのけようと手を振ればさらに甲高く笑われる。
舌打ちをして、歩き続ける。気配をたどる。それでも濁った闇の中、うまく手が伸ばせない。角の辺りがちりちりと痛んでいる。力を使いすぎている。自分の体が軋むことで警告の声をあげているのだろう。だとしても、かまうものか。
おそらく、時間制限がある。
桂男の悪趣味にそうそうつきあってはいられない。いっそ相手をつかまえ吐き出すまで拷問でもするべきなのかもしれないが、相手が逃げに転じると厄介だ。その分時間が浪費される結果となる。その間に日浦にもしものことがあれば――間に合わないなんて、そんなこと、万が一にでも。
(許されない)
闇を睨みつける。どこまで続いているのかわからない、鼻の先すら見えないような漆黒を泳ぐように歩く。飛ぶ。尾を翻しまとわりつく粘性の視線を振り切る。きらきらと火の粉のように細かな粒子が舞い、消えた。神気は散ってもあたりを燃やすほどの勢いはない。
「日浦」
名前を呼んでくれたら。ほんのわずかな声でもこぼしてくれたのなら、見つけられるのに。
歯噛みしながら考えている。耳障りな声ばかりが不愉快で。時間の感覚がわからなくなる。もともと人間の時間にはなじみがない。ほんの一瞬のつもりでも人にとってはひどく長いこともある。人の命は瞬くほどに短い。あの子も――いつか、先に、消えてしまうのだろう。
「それならさっさと食べてしまえばいいのに」
耳元でそう囁かれ、扇を振った。切っ先から炎がうまれ暗闇を赤く染める。すぐには消さず、怒りの炎をそのままに足元を燃やし、ひたりとそちらに向かって歩み寄る。
着物の袂が見えた。火の粉の中で、悠々と立つ男は薄く微笑んでいる。
「人の子に情を移すなんて、気高き辰神とは思えないね」
「貴様のような薄汚い妖に言われる筋合いはない。消えろ」
「はは、僕が消えたらあの人間は一生見つからないんじゃないかな――そう、名前はヒウラというんだ? 聞いても教えてくれなかったんだ」
ヒウラ、とまるで飴でも転がすように楽しそうに呟くその姿に、怒気が抑えきれなくなる。
「その口を燃やし尽くせばさぞかし晴れやかな気分になるだろうよ。月に黒焦げの死体を送り返してやる」
いっそすべて燃やし尽くしてしまうか。いよいよそんな気分になってきた。明るくなった中であの子を見つけて救出するほうがいま闇雲に歩き続けているよりもまっとうで確実かもしれない。いらだちがうずく。この状況への不満が、焦りが――短絡的な行動を選びたがって、手を握って、ひらいた。
「おっと」
扇を向けた、その先で、ふいに男が両手を前に差し出した。その手の中のものを目にして、思わず息を呑む。
「……日浦!」
くたりと頭を下げ、抱き留められているのは探していたその子に違いなかった。
見慣れた制服姿で、体幹から力は抜けているのに不自然に腕が伸びている。手のひらはやわらかく丸まって、指先は力なく垂れていた。
制服の袖に、その手首に、指先に、きらきらと絡む細い糸が見える。
「貴様、その手を離せ」
声がどんどん低くなる。足元に爆ぜる火の粉が、瞬間、風をまとって大きくなびいた。尾が感情のままに立ち上がる。目の前の男は、相変わらず薄気味悪く微笑んだまま。
「おっと、そんなに火を強めて大丈夫かな。この糸、けっこう燃えやすいんだ――この人間にも燃え移るかも」
白い指先が日浦の頤にかかり、ゆっくりと見せつけるようにその顔を持ち上げる。
日浦は目を閉じて、眠っているようにも見えた。長いまつげはひくりとも動かない。
息を――していないようにすら、見える。静かな、人形めいた顔立ち。
「触るな」
ぐ、と喉の奥が熱かった。怒りで目の前が赤くなる。あの子がいる。そこにいる。糸はきらびやかで、細くて、嫌なにおいがした。
「本当に気が短いね。神も年をとると理性がなくなるのかな」
やれやれ、と小ばかにしたように肩をすくめる相手に掴みかかりたくなっている。手のひらを握って、開いて、握りしめる。
「それから離れろ」
「さあ、どうしようかな」
急につま先が重たくなる。闇の中から這い出たような細い指が虫のようにつま先や足首に忍び寄っていた。軽く視線で薙ぎ払うが、あとからあとから、闇の中から手が出てくる。目の前の男を睨みつけると、彼はふふ、と笑った。
「ねえ、どうしようかな。僕、自分が傷つかない範囲なら君と遊んでもいいよ」
「痴れ者め」
舌打ちを響かせる。日浦は俯いたまま微動だにしない。本当に人形になってしまったかのように――魂がうつろになってしまった? いや、かすかに感じる。けれど、弱い。ひどくかぼそい、頼りない鼓動だ。
「日浦!」
名前を呼ぶ。彼はひくりとも動かない。ふだんであれば声をかければすぐに顔をあげ、駆け寄って来るのに。うれしそうに笑っているのに。
「それになにをした」
「べつに? ちょっと背中を押しただけだよ――だって、この子、そもそも生きるのに向いてないじゃないか」
白い指が伸びて、日浦の小さな顔に無造作に触れた。頬に軽く爪を立てるのが見えて、考えるより先に扇をふるう。
ぱしん、と高い音が響く。
「あぶないなぁ」
男は軽やかに一歩下がった。日浦から手を離している、にもかかわらずその子は崩れ落ちることもなく、そのままの姿で取り残されている。
見えないほどの細い糸が、とぎれとぎれにきらりと光る。細い腕やズボン越しの足、腰、首や髪先に絡みつき、日浦はまるで縫い留められたようにその場に立っている。いや、浮かんでいた。つま先もだらりと垂れ、標本箱に留められた蝶々のようなありさまに、歯噛みしてしまう。
(あれを、)
白い手が足元から這い上って来る。蹴り落とし、扇を振るい、舞うように動きながらも相手の姿を目で追えば、優男の姿がふいに闇に溶けた。目を眇めて、見えない部分を追いかける。日浦の状態にも注意を配り、はやく駆け寄りたいのに足元の数多の手が邪魔だった。尾を無遠慮に撫でてくる手を――手、と便宜的に呼んではいるがいったいなにかわからないどろりとまつわりつく気配を、苛立ちのままに睨みつける。淡い存在はこちらの視線一つで蒸発する。すぐに視線を戻して、男の気配が口を閉ざしたように静かになってしまった。
「チッ! いい加減にしろ。それを離せ――その子を好きにしていいのは、僕だけだ」
見失ったことに舌打ちをする。大股で踏み出して、足元の気配を蹴散らす。踏みつぶす。伸びてきた手を払い落とし、日浦に近づいて――けれど、くん、と首がなにかにひっかかった。
「あはは、神の傲慢さは見ていて清々しいほどだね! こんなちっぽけな人間にこだわるのは解せないけれど」
「チッ」
自分の首元で扇をひらめかせる。角がちりちりと燃えている。笑い声が耳元で響く。指先が冷えて少しずつ、鈍くなっているのがわかった。
「冬至は苦手なんだろう? おとなしく巣ごもりしていればいいのに」
あざ笑う声の方向に鋭い爪を走らせる。ただ闇がまとわりついてくるだけで、何の手ごたえもなかった。前に向き直り、日浦の姿を見て、ふと。
その細い首が、ゆっくりともたげられる。
目を覚ましたのか、と気が緩みそうになるが、その魂の気配は、ちろちろと燃える炎は、まだか細いままだ。揺れながら、溺れながら、そのまま消えてしまいそうなほどの頼りなさ。透けそうなほど白い顔がもちあがり、その目蓋はしっかり閉ざされたまま。薄い皮膚の下の蒼い静脈すら浮いて見えてしまいそうな、白。
「これは、こんなに死に近しいのにね」
不愉快に笑う声とともに、細い首に絡む糸が後ろに動いた。あっさりと日浦の首がのけぞる。苦しげな様子はないけれど、あれでは――呼吸ができなくなる。
「貴様!」
足を踏み込む、踏み出す。一歩を大きく滑るように飛ぶ。手を伸ばして、その子の体はなぜか後ろに揺れた。後ろから数多の見えぬ糸にひっぱられて、人間では無理な動きで傾ぐ。ぐらぐらと、そのまま首だけもげてしまいそうな不安定さ。鼓動が早くなる。人間はひどくもろい。あんな、雑に扱っていいわけがない。
日浦を、あんな男にいいようにさせるなど。
「日浦! 起きろ――目覚めろ、日浦!」
糸を切るために爪を走らせる。暗くて遠近感が乏しいが、どうにも斬撃の感触が乏しい。きらきらと光って朝露をまとわせた蜘蛛の巣のような繊細さなのに手ごたえがない。彼の細い喉に巻き付いた糸が、その白い肌に食い込むのが見えた。肌に幾筋も赤い線がはしる。
真っ赤な血が滲みだす。
「っ、」
その匂いにたじろぎそうになる。日浦の匂い。あれのもつ、人間ならざるものたちをひきつけてやまない魅惑の匂い、気配。腕を伸ばしたよりもまだ遠い距離にいるのにまるで鼻先につきつけられたように濃く匂う。
すがるようにこちらの足にまとわりついていた白い指たちが、その匂いにつられ日浦のほうに流れていく。漣のようにゆれる足元を、振るった尾で薙ぎ払った。どろりとまとわりつく闇の滴を、先を震わせ払い落とす。
目の前がくらくらとした。理性をぐらぐらと揺さぶられる、頭を直接揺さぶるような血の甘く、かぐわし匂いがまとわりついてくる。
思うように動かない身体の重だるさに加えて、この強烈なにおい。手足がしびれそうだった。角の付け根が疼く。唾液が口の中に溜まってくるのを飲み込んで、眉間に力をいれる。
「ふふ、そんなに我慢する必要はあるのかな」
耳障りな声が、気味が悪いほど近くから聞こえた。
「僕はね、君の落ちぶれている姿なんて見たくないんだ。それならいっそ昔のように、そう、初めて邂逅したとき。君はひどく傲慢で、僕なんて目にも入らないように孤高に美しく立っていた。ねえ、あの人間を食べればそれなりに力は戻るんじゃないか? なにせあれは百年に一度、いやそれ以上かもしれないごちそうだ」
うそぶく男の声に、腹が燃える。目の前が燃える。怒りとは炎だ。日浦の今にも消えそうなたよりないろうそくの炎ごと包み込むように、燃え盛る。指をひらめかせる。
日差しが乏しく春が遠く、夜が世界を支配するこの時期は己の力ひとつ満足に使えなくなっているのが自覚させられる。
だが、それがなんだいうのだろう?
足元に這う魑魅魍魎を炎がひと息に舐めてゆく。一瞬にして足元が赤く染まる。
炎は呼吸に合わせて揺れる。見えない導火線をひた走るように、佐倉の立ち位置からその男の足元まで一直線に火の波が駆け抜けた。
桂男は、よろけたように足を動かした。着物の袂に火が燃え移る。そのまま燃え盛って焼き尽くしてしまえ、と睨みつけているけれど、想像したとおりの軌道は描かない。裾の途中で、勢いが弱まっていく。
「熱いなあ――悪くない勢いだけど持久力が足りないね。やっぱりおなかがすいてるんじゃない?」
「日浦――目を覚ませ、日浦」
男の挑発に乗る余裕は、なかった。言われなくともわかっている。力が足りない。こんな妖すら払いのけられないこの腕にうんざりしながらも、その名を呼び続ける。調整してはいるがあの子の足元にも炎は爆ぜている。音もなく揺れる呼吸の色が彼のつま先をかすめる。
「もしかしてまるごとだと食べにくい? 腕や足をちぎったほうが口にしやすいのかな。一番おいしそうなのはやっぱりこの眼球だけど、ねえ、君は好きなものは最初に食べるほう? それとも最後まで」
「黙れ、その口を縫い閉じてやる」
退避される間際の優男の、その首を捕まえる。もはや逃がしてはおけない。このまま首をひねり殺してやる。ざわりと総毛立つうなじは怒りのためで、目の前が狭くなる。
「あは」
けれどまるで予想していたように踏み込んだ右足が重だるくなる。鋭い痛みが走り、はっと俯けばそこに、歯があった。からっぽの闇の中に、目も鼻もないのに、口だけ大きくひらいて、歯が。白々と。足に食い込んでいる。反対の足や尾にもすがりつくような手のひらが、爪が、忍び寄る。食い込む。切り裂こうとしている。
「僕に、許可なく触れるな!」
吐き出した声に伴い火の粉が舞う。鱗粉のように吐息にあわせて熱気が頬を撫でる。己の燃やした炎で肌が焼けそうな気がした。角が鈍く頭を締め付けるように痛み始めている。
「迂闊だね。一定の距離を保っていればよかったのに」
つかんだ先の首が、顔が、口端をもちあげ大きく笑っている。微笑んでいる。指に力をいれて、たしかに手の中で締め付けているのにまるで体と顔が切り離されているように、男は笑みのままだ。
右足の痛みが強くなる。噛みちぎられる。
(こんな肉体くらい食わせておけ)
ぎり、と奥歯をかみしめ、にやにや笑っている男から目をそらす。すぐ隣にいたはずの日浦の姿が、また遠ざかっている。近づいた分後ろに遠ざかる。日浦が。細い糸が首にきつく絡んで、血が、流れている。炎が溺れるように消えかかっているのが見える。
「日浦――名を呼べ。僕を呼べ、日浦!」
何度鋭く呼びかけても、無理に顔を挙げさせられたその子は青白く目蓋を閉じたまま。薄く開いた唇はふしぎと赤々として見えた。
「日浦、僕を求めろ!」
どうにも、自分の欲しいものを言えない子だった。
二年に満たないほどの間そばにいて、結局、彼から要求らしい要求を聞いた覚えがない。
こちらがなにかすると喜ぶくせに、いざなにを欲しいのか聞いても戸惑ってばかりだった。周りにゆがめられ、押し込められて、ほしいものひとつ口に出せないくせに。声をかければ嬉しそうに顔を上げて。呼べばどこまでもついてきて。人懐っこくそばにまとわりついて。
一番好きなものですら躊躇いなく差し出してしまう、そんな、なりふりかまわずに、先のことなんてなんにも考えず、今しかないように生きている子だから。
「日浦!」
白い喉がのけぞる。食い込んだ糸が細く震えて、血がたらりと流れ落ちシャツの襟元にしみこんでいく。無数の手が、指が、そのつま先に、足元に群がろうとしている。腹が燃えるように熱い。苛立つ。あれに触れていいのは――僕だけだ。
「みっともないよ、あまり僕を失望させないで」
縊った先の男の顔が、すこしだけ不愉快そうに歪む。まるで苦痛などないようにその白い指先が――足元に食い込む歯が、目の前に迫る。男が口を開く。ぽっかりと広く、喉の奥が落ちていきそうに暗い。
「僕はきれいで気高い君が好きなんだけど――あんな、人間に執着するような姿は、見たくないね」
気づけば桂男の指には数多の糸がきらめいていた。まるであやとりでもするような気軽さで、彼が糸をひく。ぴんっと糸が震えて、その先の、華奢な体が大きく傾いだ。
「日浦!」
目の前が赤く染まる。脹脛に食い込んだ牙の冷たさも、しめつけるような頭重感も、目の前の男の戯言も、なにもかも、邪魔だった。
あれさえいれば、いい。
あの子だけ、――日浦だけ、いれば、それで。
指先がしびれる。感覚が乏しくなる。肉体が邪魔だった。けれどこの器がなければうまく形を保てないくらいに、もう、消えかけている。滅びかけている。
(それならいっそ)
目尻が焼け付くように痛んだ。
呼ばれている。
うすぼんやりと耳の奥が揺らされている。体のどこもかしこもまったく自分のものではないように動かせない。けれど視界がさらさらと流れていく。閉じた瞼の奥で暗闇が深くなる。
ひっぱられて、身体が、頭が傾ぐ。目をつぶっていてもそれくらいはわかるらしい。ぐらぐらと、思考が浮かんで消えていく。ひとりぼっちだ。いつだって。さみしい、と、口に出したらそれが本当になりそうで――だれも振り向いてくれないことを、思い知ってしまいそうで、何も言えないままに飴玉を口に放り込んで。
(あのひとは)
どうしてマフラーを巻いてくれたんだろう。
浮かんでは消えていく。一つのことを考え続けられない。何も思い出せない。あのひと。あのひとってだれ? マフラー、は。
くん、と首を後ろに引かれた。鼻先が上を向く。後頭部がうしろに下がるように、喉をさらけだすように、なって。息がしにくくなって、いる。さっきまでかろうじて呼吸をしていたらしいとわかる。
なくなってからその不在に気づく。空白が、その輪郭を浮かび上がらせる。
(――どうして、迎えに来てくれるんだろう)
細い鋭いものがじわりと肌に食い込んでくる。締め付けられて喉元がゆっくりと、確実に、窮屈になっていく。痛みは感じられない。ただ、目を閉じた先の目蓋の裏が、白くかすんでいく。
指先一つ思い通りに動かせない。
体が自分のものではなくなる感覚。こわいものに、目を背けたいのに目をそらせない。逃げ出したいのに吸い寄せられるように足が動かなくなる。こわい。こわいけれど、でも。
この目が悪いのだと、さっきの男が言っていた。
おれが見るから――おれが、認識するから。
この目が歪だから。
『おかしなことを考えるな』
凛と響く声が、よみがえる。外から聞こえたものではない。内側から――記憶の中から、ふいに、引っ張り出された声だ。
どうして、あのひとは、いつでも迎えに来てくれたんだろう。
一緒に帰ってくれたんだろう。
おれなんて――ちっぽけで、だれにとってもどうでもよくて、本当に、価値がない、のに。
『名前を呼びたまえ。いつでも迎えにいってやろう』
苦しい。息がしにくい。指先が凍り付いたように冷たくて、肘も肩も、足もどこもかしこもこわばっている。動かせない。人形になったみたい。喉が凍り付いて、声なんて、とても、だせなくて。
感覚なんてなにひとつなくなっているのに、ふいに、肌が焼けるように熱くなる。一瞬のことで、においが――なじんだ、花の匂いが濃く漂った。いつだったか、彼が迎えに来てくれたとき、抱き留めて、暗闇から連れ出してくれた瞬間がよぎる。頬をかすめた衣服の感触、清廉な花の匂い、きらめく桜色の鱗――うろこ? いったいどこから、このイメージはでてきたのだろう?
『日浦!』
だれかが名前を呼んでいる。名前――名前? だれの、名前。ちがう、自分の名前だ。
だれかが自分を呼んでいる。
鋭い声が耳朶を打つようだった。けれど指は動かない。体が動かせない。ちりちりと焦げている。重苦しく痛んでいる――自分、ではない。だれかの痛み、だ。だれ。誰の声。熱い。苦しい。息が、しづらくて、考えがまとまらない。ほどけてしまう。輪郭がとけてしまう。ばらばらになって、このまま闇に溶けて、
それでもいいのかなあ、と思うのに。
『名を呼べ。僕を呼べ』
耳鳴りのようにわんわんと声が響いて、頭の中で反響している。聞こえる。聞こえている。さっきまで何も聞こえなくて、なにも匂いもしなかったのに、気づけばこんなに。近くに。
(おれが見るから、おかしな世界になるっていうのなら)
『君の眼は君の選択だ――君の目が君の世界を変える』
その言葉の意味はわからなくて、そのまま仕舞い込んでいたけれど。
でも。いま。いまなら。
(おれが、見る)
この目が見るものを――自分が見たいものを、見てやる。
『僕を求めろ!』
声に。
目を、見開いた。
「――――祥さん!」
暗闇の中で、きらきらと光る火の粉がある。その向こうに、あの人がいる。
途端に感覚が戻ってくる。首がきりっと痛んで、食い込む細い無数の糸を感じる。前に動けばその分食い込んで皮膚が破れる、けれど、そんなことかまっていられない。
あの人がそこにいた。なにかに足をとられ、身体を傾けて。表情も苦しそうで。真っ暗な中で、あのひとだけくっきりと光って、浮かんでいる。輪郭がまばゆく発光するように揺らめいて、炎が――真っ赤に燃え盛る火の粉に、いま、ようやく気が付いた。熱い。頬を、手を、足を舐めていく炎がある。熱くて、けれど。
「祥さん、せ、んぱい!」
「はっ……ようやく僕の名前を覚えたのか」
彼が、ふっと唇を緩めた。眉を顰め決して楽しそうではないのに、あえてそこで笑って見せるやり方がなんだか佐倉らしくて、少しだけ気持ちが緩む。手を伸ばそうとして、歩み寄ろうとして――ちっとも手足が動かないことを気が付いた。
手足を確認しようとしても首すらうまく動かせない。どうにか無理にひねると、肌がひきつれて鋭い傷みが走った。肌に血が流れる感覚がある。
「愚か者、動くな」
短く叱り飛ばされて、でも、でも、どうしていいのかわからない。地面の感覚がない。二の腕や前腕、足、胸に食い込む細い糸みたいなものに体重が掛かって、きりきりと痛い。苦しい。息が、しにくい。
「先輩、怪我してる⁉ 大丈夫?」
「自分のことを心配したまえよ」
「うん、僕もそう思うよ」
ふいに、ざらっと耳障りな声が聞こえた。
「このままだと君、死ぬけど。悠長だね。鈍感なのかな」
ぴっ、と風が頬をすり抜ける。「日浦!」とお師さんが叫んで、少し後にじわりと頬が痛んだ。なにかで切れたのだろうが、別にかまわない。そんなことより――
「先輩、どうしたんですか。苦しそう……大丈夫!?」
「君の血の匂いに酔ってるんだよ――さっさと食べたらいいのにね。短気なくせに我慢強いふりをして」
あざ笑う声よりも、目の前の人の苦悶様の表情のほうが気がかりだった。はやくそのそばに行きたいのに、からみつくものが邪魔だ。先輩、と叫んでも彼は振り払うように手や足を揺らす。桜色の尾が後ろから身体の横までの広い空間をぶん、と揺らし、きらきらと鱗粉のようなきらめきが舞う。星空のよう。一瞬の幻想のよう。
「はやく食べてしまえばいいのに」
この変な暗闇に引き込んだ、あの着物の男の声だ。きれいな声のはずなのに妙にねばついて、じっとりと体が重たくなる。力が抜けてしまう。目蓋が落ちそうになるのをこらえて、一生懸命、目の前の人を見る。どうしてこんなに遠いんだろう。ぱちぱちと爆ぜる火の粉。何が燃えているのだろう。焚火のような、神社で見る大きな炎のような。熱が肌を撫でて痛みが遠ざかる。
「――祥さん」
そう呼べば、鋭い二つの瞳がこちらを射すくめた。
怖気づきそうになる。いつもの彼の目と、ちがう。もっと鋭くて、違うものが、二重写しの別のものが見えてきそう。
(だとしても)
手を伸ばしたいのに、指が動かない。だから、せめて目をそらさずに。
「祥さん、来て――おれを、食べて」
「……っ、ひ」
「はやく。祥さん、来て。おれのところに」
来て、と告げる言葉を飲み込む。足元でくすぶっていた炎が急に立ち上がる。男の甲高い笑い声が響く。
目が。
夕暮れと夜の合間のような、紫の瞳が、目の前にあった。きゅうっと瞳孔が絞られ、だから印象が違うのだ、と気づく。切れ長の目尻が赤く燃え、耳の上あたりから伸びる鈍色の角。大きな尾はなにかを振り払うようにぶるりと大きく揺れた。
このひとは――人間じゃない。
いまさらそう思った。今更だった。ずっと前から、そうわかっていた気がする。知っていた気がする。クラスの誰もお師さんのことを話題にしなかった。校内ですれ違うことはなかった。部室かこちらがひとりでいるときしか現れない人だった。あの部室には誰も近寄らなかった。終業式の日にうずくまっていた姿。気配。
『みんなお前を食べたいんだよ』
異形の声が真実だとして、だから。
だから何だというのだろう。
気づけば微笑んでいた。佐倉とは思えない荒っぽい、獣のような吐息が、顔にかかる。そのくらい近くにいる。覗き込まれている。
「祥さんがそうしたいなら、いいよ。食べて」
なにかがはじけるような乾いた音が断続的にしている。焦げた匂いはせず、花の匂いが濃い。
この人の匂いに包まれている。不愉快な男の声も聞こえない。ほかのすべてはどうでもいい。ただこの人がいれば――そう思って、目を、閉じた。
相手の呼吸が速くなる。浅く苦しそうな息が首元をかすめる。首から食べるのかなあ、とぼんやりと思って、せめて食べやすいよう、喉をすこしだけそらした。さらけ出した。おれ、おいしいんだろうか。
「――――この、ばか」
低く、詰られた。
その声に目を開ける。彼は至近距離でこちらを睨みつけている。ふ、ふ、と短く息をついて、苦しそう、なにかをこらえるように荒々しい呼吸で――その手が、鋭い爪が、首に絡んだ糸をぷつり、と断ち切った。
支えがなくなって首がぐらりと揺れる。自分でどうやって首を固定するんだっけ、と途方に暮れてしまいそうなくらいぐらぐらとして、困ったまま相手を見上げると、佐倉は舌打ちをして、こちらの顎先を掴んだ。
「わ、」
「どうしてそうやすやすと自分を差し出すのだ、僕が理性のない妖だったら一体どうなっていたと思う⁉」
「あ、あの」
なんだかいつもの佐倉らしくてうれしくなってしまう。表情に出たのだろう、彼はいっそう苛立ったように「喜ぶんじゃない!」と怒鳴った。至近距離なのでふっとばされそうに大きな声だ。
「やせ我慢は美しくないね」
はやし立てるようにひらひらと声が聞こえて、佐倉がぎっと虚空を睨みつけた。
手を放してもらったのでまだぐらぐらする頭を動かし、その声がどこからするのか――目をこらすと、うっすらと月が浮かんでいる。満月ではない。どこか一部欠けていて――前髪で欠けている顔だ、と気付いて声をこぼした。
「あ、あそこ」
思わずそう言うと、彼がこちらの視線の先を追いかける。空いた左手にいつの間にか扇を持ち、まるで舞うようにひらめかせた。すぐさま金色の髪がゆれて、遠のく。
「――見えるのか?」
「あ、う、うん。……でも消えた」
「こわいこわい。君の眼は本当に特別製だ。さぞかし食べ応えがあるだろうね」
「黙れ――日浦、」
佐倉の扇が動いて、腕に絡んでいた糸を断ち切ってくれる。片腕が楽になる、けれど自分で支えられずにそのまま崩れ落ちそうになって、もう片方の手も解放されてもひどく重たくてそのままだらりと下に落ちてしまった。
「う、わ」
「こら、しっかりしろ」
見かねた佐倉に抱き留めてられるが、ちっとも力が入らない。血が巡っていない、という表現が近いかもしれない。指先が冷たくて体も芯から冷えている。震えることすらできない。
「冷たい――チッ、はやくここから」
「う、うん――あ、」
ぴん、とまた後ろに引っ張られた。首、というか髪だ。たぶん糸のようなものが絡んでびっくりするくらい強い力で後ろにひっぱられる。首がもげてしまいそう。
「いたっ」
「チッ! きりがない!」
いらいらした調子で吐き捨て、佐倉は闇の中で扇を閃かせる。きらきらと金色の粉が舞う。火の粉みたいに。
「あの男はどこだ!」
「あ、あっち」
ぼんやりした月のようなものが視界の端をかすめる。慌てて指をさそうとしてもうまく腕があがらずどうにか目線で訴えて、すぐさま佐倉はその方向に扇を切る。彼の動きはとても俊敏なのに、軽やかな笑い声とともに青い瞳がまた消えていく。すり抜けていく。タイムラグある。佐倉はいらだちを隠さず手を、尾を振るっている。ふと見上げた彼の角が、翳っているようにみえて気になった。
「先輩、あたまの、それ、角? 色が……」
「ああ、――――まったく、僕としたことが」
忌々しそうに呟く顔に、じわりと汗が滲んでいるのが見えてぎょっとした。
「大丈夫ですか」
「喧しい、とにかく奴を追い払うか、とっつかまえてここから出ることが最優先だ」
「でも、先輩、」
「食べさせてあげたら」
合いの手みたいに耳障りな声が入る。桜色の尾が鈍く揺れるが、その動きもどこか緩慢だった。
「黙れ」
佐倉の唸り声に、あの男の笑い声が遠く近くにさざめいて、足元に気付けば白い曖昧模糊としたものがまとわりついていた。地面に足はついているがとてもひとりでは立てない。まして振り払うなどできず、ひっと息をのんで彼の胸に縋りつくしかできなくて。
「先輩、たべるって」
「黙れ、あれに耳を貸すんじゃない」
「でも」
「いいから」
その横顔が苦しげだった。あの日、冬至の部室で見た表情よりもっとつらそうで、角の輝きが鈍ってきているのがみえて。
弱っている。力が足りないのだ。
『食べさせてあげたら』
さっきから繰り返し響いているその言葉の意味を理解するより先に、は、と瞬く。考えるよりも体が動いて、彼の頬にそっと触れた。ひんやりと氷のように冷たい肌。
(これが、食べるってことなのかどうかわからないけど)
「たべ、て、いいから」
首を伸ばし、その顔に、唇に、唇を重ねた。かすかに押し付けるだけの、ぶつかるような口づけ。触れた瞬間、ぱちん、となにかがはじけるように胸の奥で鋭く痛む。その正体をわからないままに、碧生はゆっくりと顔を離した。怒られる、かも、と思ったけれど。
「祥さん」
すがるようにその名前を呼ぶ。彼は、かっと目を見開き碧生を睨みつけていた。ごく自然に大きな手が背中にまわり、抱きすくめられる。ぎゅっと体が近づいて、彼の匂いが濃く香織、赤い唇が暗闇の中で大きく開く。鋭くひかる白い歯が、うつくしかった。
「っ、ん」
彼の唇が開いた。食べられてしまう、と眼を閉じる。乾いた皮膚が触れ、濡れて熱い舌先が唇をこじ開けるように舐めた。びっくりして力が抜けた瞬間、口腔内に舌先が滑り込む。
「あ、」
ぞくりとうなじがふるえ、思わず顔を退いてしまう。口の中、舌が固まって震えた。咎めるようにすぐにおいかけられ、頬を片手で掴まれてもう一度深く、口づけを受ける。受け入れる。ぱちん、ぱちん。痛んだ場所が点になって繋がって、身体中、ぱちぱちと、はじけて。
「……あ、」
舌の上を舌が這う。舐められる。形を確認するみたいに熱く包まれ、軽く吸われて頭の奥がしびれた。
「う、」
ようやく解放されて、吐息がこぼれた。ぼんやりとする視界で瞬くと、ひどく近くに美しい顔があって、その瞳にじっと見つめられていることに気づいて心臓が飛び出しそうになる。
「あ、あの、先輩、その」
「――なるほど、君の視界は、このようなものか」
佐倉はそう頷くと尾を震わせた。
ざっと葉がこぼれる。大きな、緑色の葉――こんな暗闇の中なのになぜかその色がはっきりと見えた。
気づけばそこに立っているのは着物の裾ではなく大きな樹だった。幹が太く、隆々として天高く生い茂っている。緩い曲線を描き、先のとがったつやつやとした葉が塊となって揺れていた。いつの間にこんな、と思ったけれど、最初からそこにあったのかもしれない。
「目が晴れたみたいだね、その人間のおかげかな?」
葉がこすれる音がふいに言葉になる。さらさら。さらさら。葉擦れの音が言葉にかわる。
男の顔がぽっかりと浮かぶ。満月ではない。月に兎の姿が浮かぶというが、そこにある月のような顔は美しい男の目鼻立ちだ。ただただ美しく、人間味が薄い。ざらりと、異形の唇が笑う。
葉が舞う。真っ二つにわれた葉のかけらがはらりと落ちて地面に吸い込まれるように消えた。音はない。けれどいくつもの奇跡が――鈍色の粉が舞う。見上げた先、彼の輪郭がくっきりと輝いていた。角が鋭く、銀色に輝いている。
(あ、)
朝焼けの、白さ。
あかるい、すがすがしい春の色だった。
その横顔が透き通るほどに白い。鋭く、彼の目線がまっすぐ伸びていく。
手のひらがひらめいて、その先に金色の扇が翻る。閃いた花びらが、白い桜の花が目の前を過った。
「祥さん」
抱き寄せられた人のその顔を今一度見る。佐倉の顔色は白く、けれど美しく尖っている。先ほどよりもいっそう研ぎ澄まされ、切れ味の良い刃物のように美しかった。
「とはいえすぐに霞んでくるな――これが本体か」
「あは、見えちゃったかぁ」
さらさらと笑い声が降ってくる。見上げると、頭上の大きな大木に、ぽっかりと白い真昼の月が浮かんでいた。月、ではない。その男の顔が、ましろく、円なのにいびつな顔で。さらりと金色の髪が揺れる。
「まあいい。燃やし尽くせばいいのだな」
「好戦的だなあ、辰は」
睨みつけたその人の顔は美しく、燃え上がりそうに鋭い。足元の火の粉が大きくはじける。ゆるく波打つように、炎の漣があたりに広がったほの白い高低の雑草のような流れを舐めつくし――幹に至った。
ちり、と焦げ付いた匂いがする。幹からではなくひどく近くから――彼の顔から、頭の辺りからした気がして、思わずそちらを見た。
「先輩……からだ、大丈夫?」
「ふん、君に気遣われるいわれはないのだよ」
佐倉の鋭い瞳はらんらんと光っている。彼を見ているはずなのに目には樹の枝先が映っていた。おかしい、と瞬いて、目を擦って、けれど変わらない。前触れもなく、脹脛が鋭く痛んだ。
「っ」
びくっと肩が震えた。抱き留められているので当然彼の腕にも伝わったらしい、相手は素早くこちらを見た。
「――痛むか」
「え、なんだろ、」
慌てて首を振ろうとしたがじくりと足が痛んでいる。なにかに強く挟まれたように――するどく噛まれたように痛い。ずきずきと鼓動に合わせて痛みが点滅している。なに、なんで、こんな。
「君の目が同化されたように、君にも僕の破損が伝わってしまうのか――急がねばならないね」
舌打ちが響く。頬が熱く焦げる。んあ、と驚くと瞬くと彼がこちらを抱きしめなおした。
「――――つかまっていろ」
それだけ告げると、身体が揺れた。背中を熱風がすりぬけていく。碧生は自分の体の冷たさが相対的に自覚される。手足の隅々まで冷え切っていて、しびれて、感覚がとぼしくて――彼に触れられたところから輪郭が生まれる。その手が、指先が、いまの碧生を形作っていく。
「桂の葉を伐採するのが貴様の仕事だろう? 手伝ってやろう」
「はは、途端に威勢が良くなったね」
笑う声がけれど遠ざかる。彼の炎のほうが巡りが速い。
「ひと息に燃やし尽くしてやろう、這い蹲りその灰を搔き集めて月に差し出すがいいさ」
炎が一つの塊のように大きく揺れる。明滅するような桜色の角もその精悍な額も、どれも美しく輝いて――どこか、爆ぜる直前の炎のようなあやうさを感じる。
胸の奥がざわめく。痛みは去らずにずっと主張しつづけていて彼に支えてもらわなければくずれおちてしまいそう。頭も締め付けられるように痛い。指先一つ、動かすのがひどく億劫になる。
これは、きっと、佐倉のいまの状態なのだ。
「先輩、」
いてもたってもいられずその胸に縋りつき彼の名を呼ぶが、一瞥が返されるだけだった。何も言うな、という意志表示だとわかる。実際にそう聞こえた気もする。わからない。きゅう、と佐倉の服を掴むと軽く腰を抱き直された。
ちりちりと角が震えている。耳元で低くうなるような声が聞こえて、はっと振り向けば先ほどまで足元にゆれていた異形の影が、くっきりと牙を剝き出している。唸っている。声が聞こえる。背筋が震えそうになるのをどうにか我慢して、ぎゅうっと目をつぶって。
開いた。
大樹は天をつくほど大きく育ち揺れている。はらはらと葉が舞う。その中の――男の顔を、見つける。
「あそこ!」
彼はすぐに顔をあげ、まるで同じ目で見ているようにぶれずにまっすぐ、相手の姿を捉えた。扇が美しい軌道を描いて持ち上がる。
「――もう二度と会うことはないだろう」
「ふふ、どうかなあ」
それが最後の会話だった。
頬が燃える。焦げる。うなじがわっと熱くなって、とても目をあけていられなくて目蓋を閉じる。耳を通り過ぎる熱風も服越しに撫でていく風圧も、足の痛みも。すべて吐き出され包み込まれて感覚が遠くなる。耳障りな笑い声が吸い込まれるように遠ざかる。熱くて、目を閉じると暗いはずなのに妙に明るくて、燃えている。
ただ、顔を寄せた先にあるそのひとの身体の感触だけが、確かだった。
は、と目を開けると夜だった。
足を動かすと、じゃり、と小さな小石を踏んだようだった。スニーカー越しのアスファルトの感覚が伝わってきて、夜の冷たい空気に唇が冷やされていく。
制服姿で、呆然と道端に立っている。いつからここにいたのだったか、と瞬いて、無意識に首元を探るとすかすかと冷たくたよりない自分の肌があるだけ。
「あれ、マフラー、」
慌ててあたりを見渡そうとしたところで、目の前に手が突き出された。驚いて息を呑む。
佐倉が立っている。
「なくしたら承知しないと言っただろう」
低く、そうつぶやいて彼がマフラーを差し出してくれた。その人の顔は暗くてよく見えない。いつも通りの制服姿で――この寒い中、コートも羽織らず、マフラーもせずに立っている。色白の頬がいっそう白く、すきとおるように儚く見えた。
「あ、すみません」
差し出した手が彼の手にぶつかる。ひんやりと冷たく、氷のような温度で驚いて思わずその手を掴んでしまった。マフラーが零れ落ちる。
「先輩の手、冷たい! こんな、大丈夫ですか!?」
「いいから」
「なんにもよくないです! 具合悪いんですか」
両手で彼の手を包み込みそのまま一歩近寄る。佐倉は珍しくこちらを見ず、目をそらした。こんな弱気な態度は見たことがなくて不可解で、そんなことよりこの冷たさの方をどうにかすべきだろう。手の中でさすって、顔を近づけふうっと息を吐きかけてみた。
「先輩いったいいつから外にいたんですか、いったいなにして、」
言いながら、あれ、となにかがこぼれだす。
顔を上げる。彼の横顔を見る。美しい鼻筋、額の稜線。後頭部への丸み――なにか、なにかが。
ちりっと頭が痛んだ。
「先輩って――神さまなんやね」
ほろりとその言葉がこぼれて、こぼれたあとで自分でその意味を知覚する。彼がゆるりと振り向いて切れ長の瞳を細めた。目尻がふわりと明るく、朱に揺れる。瞳が――この暗闇の中でもくっきりと輝く瞳孔が、どこか人間離れしている。
「今頃気付いたのかい」
かすれた声で呟かれて、その声が熱を孕んで首筋を通り過ぎる。彼の視線がこちらの首に絡みついている。むき出しの肌の、そこにさっきまで絡んでいた細い糸を思い出して、咄嗟に指で探った。あたりまえに、いまはなにもない。けれど、触れたその奥に微かな凹凸があるような気がする。損なわれた部分があるような。欠損が、ある、ような。
佐倉の手が動く。静かに頬を撫でられ、びくっと震えてしまった。
彼がかすかに唇をゆがめる。
「僕が怖いかい」
ふるりと夜の闇を振り払うように、白く輝く尾が見えた。長くて、太く、花びらのように鱗がきらめいている。人間ではない。ふだん見てしまうこちらの世界ではないほうの――存在、だ。どうして神さまだと思ったのかは自分でもうまく説明できない。けれど、でも。
「こわくない」
頬に添えられた手のひらの、その上から碧生は自分の手を重ねた。
冷たい手の甲に体温をわけるべく、頬ずりする。佐倉の手がかすかに震えたのもすべて余さず伝わってくる。くっついているから。触れ合っているから。そばにいるから。
「こわくない――ねえ、先輩。おれのこと、食べますか?」
その瞬間、佐倉の表情が一気に強張る。
「――食べない。そんなことを口にするな」
「でも、先輩、すごく疲れてるんでしょう――おれ、いますごく手も足もだるいし、立ってるのもやっとみたいなかんじ。マラソンでたくさん走って心臓がばくばくして体が重たいみたいな、頭もこんな痛くて、あちこち傷だらけで――おれ食べたら、元気になるんですか」
「僕は君をそんなふうに扱うつもりはない!」
ぴしゃりと叱り飛ばされて、彼の手が離れていきそうになるので慌てて縋りついた。
「おれ、先輩の役に立てるなら、」
「僕は、」
消耗した顔の中、その瞳だけが変わらず爛々と燃えていた。もう人間のふりをすることをかなぐりすてた、異形の瞳が暗闇の中で赤く光って、碧生を貫く。
「そんなことのために、君のそばにいたわけではない!」
重だるい腕、身体の軋みを聞きながら、ああ、と碧生は瞬いた。このひとは、この神さまは、どうして自分の隣にいてくれたのか。
「……おれのこと、守ってて、くれた?」
「――――さあね」
「なんで」
「僕の気まぐれの理由を君に説明する義理はない」
「……じゃあ」
碧生は手を伸ばす。佐倉が体を退けようとするが、互いにどこか反響し合って動きがぎこちなくなっている。だから、碧生は、その冷たい手を掴んだ。
「おれが、先輩の役に立ちたいのも、おれの勝手ですけど、いいですよね。先輩がこのまま――苦しくて、つらくて、もし遠くに行ってしまうとかいなくなってしまうとかなら――そっちのほうがいやだ」
佐倉の手のひらがひくりと動く。
どうしてそう思ったのか確信はない。ただ、彼の不調や重苦しさ、儚い足元が伝わってきて、この手を離せばこのままいなくなってしまいそうな、そんな不安があるから。なんとしてでもひきとめたかった。この人のためと言いながら、結局は、のためなのかもしれない。
(どこにもいかないで)
「――おれのこと、食べていいですから」
そのまま手を強く、自分の胸元に押し付ける。彼の手が震えて、そのこわばりがゆっくりと抜けていくまで、夜の中で立ち尽くしている。
「――侮るな」
低く、ため息のように声がこぼれた。はらはらとみぞれはいつの間にか軽い淡雪にかわっていく。しんと暗く、星も月も見えない夜の最中。吐く息が白く、こごって消えてしまう。
「君はもっと自分の価値を知るべきだ、そして、」
氷のように冷たい手に、手を振り払われた。鈍い痛みは、どちらのものなのかわからない。絡まって、ほどけなくなっている意識。感覚。いま叫びだしたいくらいの衝動がこみあげているのは、碧生の方なのか佐倉の方なのか。
「慎重に判断しろ、感情に流されるな。もっと悪い想像をすべきだ。恐怖という感情がないわけじゃないのだろう? そこまで愚かなフリをする必要はない。危険なものからは距離を置くべきだ、二本の足があるなら逃げろ、その手があるなら突っぱねろ、君は――君の眼は、なにもかもを見てしまうのだから」
「でも、何を見るかはおれの自由だって――おれの選択だって、先輩が教えてくれたから」
「君にはいったい何が見えているのだ、この僕が、この老いぼれの、愚かな神がみじめに見えるのか」
吐き捨てるように、挑むように。その声が肌を切り裂くほどに冷たい。碧生はただ、じっと、その人を見た。神さまを見た。そこにいるのは――いつもの、凛とした、ひとりで佇んでいる佐倉祥だった。部室で、道端で、桜の木の下で。碧生が惑いそうになっても静かにつれもどしてくれる、やさしい手だ。
「――先輩は、先輩です。そっけないけど、おれのこと見捨てないでくれる。やさしいひと、やさしい神さま。あ、そっか――神さま、こんな姿をしてたんだ」
小さい頃に見つけたお社の形を、気配を、思い出す。飴玉しか上げられなかったあの頃と、今の自分はさほど変わりはなくて、ちっとも成長できなくて。
言葉は塵になって空中に溶けてしまう。何の形も残らない。
「おれ、だから、また会えてうれしい。まだお返しできてなくて、まだなんにもわからないから――これから、もっと、一緒にいて、たくさん先輩の事知りたいです」
冷たい雪が頬をかすめていく。冷えてしまった体を、指先を、すこしずつ、ほどけていく。はずれてしまう。離れていく。当たり前に遠退いていく感覚をつかまえられないまま、佐倉を見つめた。
沈黙が痛いほど耳に響く。互いの吐息がわずかに鼓膜をかすめていく。
は、と息をついたのは、佐倉だった。力をぬくように、肩が軽く動く。
「……君の眼にはいったい何が見えているんだろうね」
ひらりと淡い布がゆれるよう、彼の背後の空気がゆがんだ。暗い夜に一枚ベールがかかり、淡く、白く、春の匂いがこぼれる。つい、といったかんじで微笑むその顔が、いつもよりずっと柔らかくほどけて見えた。ぱちぱち瞬きをして、それから、彼の顔をじっと見つめる。相手は少し身構えたように表情を硬く仕立て直した。
「なんだね」
冷たい、すこしだけ呆れた調子で呟かれても碧生は口をもごもごさせるよりない。
(このおひとは、いったいなんなんだろ)
神さま、と思った。遠ざかった気がして、やっぱりこの人はこの人で、わかるような、でも、たぶん、なにもまだわかっていない。まだまだ知らないことの方が多い。
碧生はポケットをさぐり、いつもいれてある飴を取り出し、差し出してみる。
「飴なら、また、食べてくれます?」
あの夜お供えした飴玉が、すぐになくなってしまったのはこの人が食べてくれたのだろうか。手のひらに載せた赤い包み紙を、佐倉は目を眇めて見下ろす。ため息をひとつ。
「君は、本当に変な子だ」
きれいな指先が、飴をつまみ上げた。碧生はぱっと胸の内が暖かくなる。夜の暗闇の中で、彼の指先一つが花びらのようにあかるく、暖かく、やわらかく見えた。錯覚かもしれない。それでも。
(――おれの目は変だけど、でも、変なままでもいいのかもしれない)
春はまだ遠くて、けれど、必ず訪れるはずだ。既視感をなぞるように、果たされる約束のように、それだけは確かだった。
了
とろとろと夕日がおちて街の色を朱色に染めてあげていた。とっぷり暮れる前の、太陽はまだかろうじて引っかかっているけれど薄闇が忍び寄ってくる狭間の時間。どこか幻想的で、見慣れた風景が嘘みたいに白々しく映る瞬間がある。
誰しも同じ景色を見ている、というのは幻想だ。あるいは儚い願いなのかもしれない。だとしても、碧生は幼いころからずっとそう願っていた。みんなと同じものを見たい。みんなと同じになりたい。それができなければ、――せめて見えているふりを、して、そこにいさせてほしい。
(日が暮れるの、はやくなってきたなぁ)
大きな通りから一歩外れ、古びた空き家がぽつぽつ並ぶほかはなんにもない道だ。人が住んでいないから、もちろんだあれも通らない。ときおり散歩中の老人とすれ違うこともあるが今日はそれすらなく、さらにわき道にはいって何のお寺か神社か知らないがとにかくそういった古い建物がある横をすり抜け細い階段を降りていく。街灯が少ないので、暗くなる時期はここは通れないだろう。暗い道は、苦手だ。
ひとと同じものを見ているはずの自分の視界がたまにずれていることに気づいたのはいつだっただろう。
碧生の左目は髪の毛と同じ漆黒なのに、右目はなぜか色がうすく光の加減では黄色っぽくも見えてしまう。神さまが間違えて別のおかしな目玉をはめ込んでしまったのかもしれない。色白でやせっぽっちに平均身長、闇のように黒い髪、それだけみれば目立たない地味な風貌なのに、その目だけが異質で、碧生の顔を見た人は途端に訝しげな顔か嫌悪を浮かべる。遺伝? ときかれても親の顔なんて知らないから答えられない。物心ついたころには施設にいた。
(自分からは見えないけど、きっと、すごく変なんだろうな)
目の色がちがうから視界もぶれて、きっと二重写しになってしまうのだ。違うレイヤーが重なっているような、遠近感が狂う瞬間。
だから、変な物ばかり見てしまうのだろう。
右手側は急な斜面になっていて草がぼうぼうに生えている。反対側は古い塀だろうか、石の壁がずっと続いている。その向こう側にいったいなにがあるのかはうかがい知れない。時折頭上を烏が飛んでいくけれど、そのほかは葉擦れの音くらいしかしなかった。
たんたんたん、とリズムよく階段を下りる途中で、ふいに、ぬるい風が首元をすりぬけた。
「え?」
つい足をとめてしまった。ぺたん、と右手で自分の首を触る。拭う。気のせいかな、と首を傾げて、碧生はまだ残り半分以上ある階段を再び降り始めた。
その途端。
「 !」
奇妙な、大声が聞こえた。
「わっ」
びっくりして肩をすくめてしまう。そのままそろりと後ろを振り返りたくなって、けれど、生ぬるい風――吐息のようなそれがうなじをかすめて、背筋がぞっとした。
こわい。
なにか、はっきりしないけど、でも。気持ち悪い。その直感だけで、ぎゅっと肩ひもをにぎり、振り向くのをやめた。右目の奥がちりっと痛む。
やめておいたほうが、いい気がした。
ごくっと唾を飲み込み声もたてないようにして、さっきより一段と薄暗さを増した足元に注意しながら、駆け下りる。
気配が、ついてくる。
足を動かす。スニーカーの底がすべりそうになって気をはりながら、それでも慌てて駆け降りる。降りる。降りる。降りても降りても階段が終わらない。こんなに長かっただろうか? おかしい。たかだか二十段くらいの、階段のはずなのに。緩やかにカーブを描いていて一番下が見えてこない。
は、は、と自分の息の荒さが耳にうるさい。生ぬるい風がただよって少し伸びすぎた髪がうなじにまとわりつく。汗がにじんでいるのがわかる。だれも登ってこない。だれも降りてこない――いや、なにかがひたりと背中にひっついているような心地がする。唾を呑む。気のせいかもしれない。気のせいだといい。気にしすぎなのかもしれない。伸びすぎた葉っぱが目の前にでてきて、肩のみならず頬を打った。足を動かして、うごかして。はやく、降り切らないと。
追いつかれる。
「 !」
奇妙な大声がもう一度聞こえた。あまりにうるさくて、とっさに両手で耳をふさぐ。こちらの反応を見たからだろうか、さらに、もう一度、もう二度、くりかえし、すぐちかくで大声を出している。吠えている?
(……犬?)
犬の鳴き声にしては大きすぎる気がしたが、そしていったいどこから出てきたのか知らないが、犬、と思えば少しは気が楽になる気がした。でも犬であればあっという間に追いつかれてとびかかられてもおかしくない。ちりちりと目の奥が痛んでいる。いやな痛みだ。覚えのある、じっとりと湿度のある、痛み。
物心ついた時からそうだから、もはや、切っても切れないものなのだろう。それこそ目の玉をくりぬいて入れ替えるくらいしないとだめかもしれない。そんなことかなうはずもなく、だから、ただ、人といっしょにいながらすこしだけずれたものを見ていて、そのことが、ときおり、叫びだしたくなる。新しい土地で、学校で、不安もあったけれど、でも、考えてみればいつだって碧生は異物なのだ。どこにいても大して変わりはない。
「 !」
なんて言っているのか聞き取れない。吠えている。だが、その声は近くで聞こえる割に、一向に足音がしない。そう気づいてぞっとした。
(おれのうしろに居るの、なに)
がくん、と踏み出した右足がすべる。心臓がきゅっと縮まった。そのまま足が階段の縁から飛び出して、身体が前のめりに傾いだ。
「っ、」
落ちる。
大きな声が、後ろで、吠える。追い立てるように、獲物を追い詰めるように――
「うわん」
低い声が、前方から響いた。
そのまま石段に激突するかと思ったけれど、身体はすこし前のめりになっただけだ。ふ、と清潔な花の匂いが鼻を掠める。
気付けば目の前に人がいて、落下しそうだった体を抱き留められている。鼻先が布にふれ、その向こうにあるあたたかさとたしかさに、瞬いた。
「……あ、先輩?」
「なにをしている」
両手で軽々と支えられ、碧生は瞬いた。階段は気づけばもう終わりかけで、その先につづく古びた石畳に立っている人は、自分と同じ学校の制服を着ていた。もっとも彼は碧生との下手くそな結び方とは雲泥の差できっちりタイを締め、磨き込まれたローファーを履いている。短い前髪の下から鋭い視線がこちらを見つめ、軽く眉を寄せた。
「えと、おうち帰るところ、です」
その人が目の前にいる――ただそれだけで一瞬なぜ自分が階段を降りていたのかすら忘れてしまったけれど、はたと思い出しそう告げた。背負ったリュックも履きなれたスニーカーもいつも薄汚れたブレザーにスラックスも、いつもどおりだ。そうだ。
先輩は訝しそうにこちらを見て、けれどまだどこかおぼつかないスニーカーの歩みを見かねたのか、黙って肩を支えてくれた。よろよろと階段を降り切って、気づけば、生ぬるい風はどこかに去っていて、うなじがすっきりしている。眼の奥の鈍痛も薄らいでいた。
「なんでこんなとこにいるんですか?」
ほう、とため息をついて平らな地面に降りる。先輩の視線はこちらではなく階段の上へ向いたが、それも一瞬のことだった。
「先輩のおうちもこっちのほうでしたっけ」
こちらの質問はまるで聞こえていないようで、彼はため息をつくとさっさと歩きだしてしまう。さくさく歩いていく姿勢の良い背中を慌てて追いかけて、一歩後ろから彼を見上げた。
この人の近くにいると、少し息が楽になる気がする。
出会った時からそう感じているけれど、そういうあいまいな感覚を人に伝えるのは難しくて、また、そういうことを言おうとしても気持ち悪がられることが多かったので、もうずいぶんと口にすることをあきらめている。
歩くたびに揺れる彼の手をぼんやりと眺めていると、「この道は、通らないほうがいい」と低く言われた。
「え、」
「街灯が少ない。君は暗い道が苦手だろう、転んでけがをするのが関の山だ」
「あは、そうですね、違う道、通るようにします」
さっきなんだか気持ち悪いこともあったし。
素直にうなずくと、彼はちらりとこちらを見て、かすかに唇を曲げたようだった。
その人に初めて出会ったのは春だった。
入学式は翌日だったが、校門前の桜はとうに盛りを過ぎはらはらと散り始めていた。引っ越してきたばかりで慣れない土地が不安で、碧生は念のため下見のために訪れた学校の前に立ち尽くしている。いまは私服だから、いくら明日からここの学生と言ってもやはり気後れしてしまうのでどうにも落ち着かない。幸い、式の準備のためか制服姿の生徒は見かけなかった。校舎は大きくて、心細さに拍車がかかる。
ひとりで、ここまで来てしまった。
なにか強い目的があったわけではない。流されるがまま、押し出されるがまま、ここに。ひとりで。施設だって高校卒業までしかいられないのだから、だから、このタイミングで引き取り手がいてくれてよかった。そう思う。引き取られたはいいもののろくな挨拶も事情の説明もなく一人暮らし用のアパートを与えられ、それきり。いったいなんのために養子に迎えられたのだろう、と思うが、でも、しかたない。碧生に選択肢などはない。
(きっと、こんなふうなのかな)
自分の人生はもうずっと。まだ十五だが、もう十五だ、という気分にもなった。誰にも選ばれず、欲しがられず、ここにいてもいいのか、わからないまま。よるべない。
ただ、はらはらと桜の花が散っている。
どこにもとどまらず地面に落ちて、そのうち踏まれていく花びらの白さが、なんだか、自分みたいだと思った。何の力ももたず、ただ、流されるがまま。大人の間でやりとりされて。
ふ、と息をついた。
知らぬ土地で気を張っているのだろう。どうにも考えが散漫になる。
首を振って、もう帰ろうかと思った。校門から目をそらし、桜の樹から目をそらす。
その間際。
「え」
にゅ、と白い手が、見えた。あきらかに異質な、たしかにそこに人はいなかったのに。
(やばい)
慌てて目をそらそうとする。それなのに、うまくいかない。まるで見えない手に固定されているみたいに首が動かない、むしろ、先ほどみた樹のほうへと顔をむけるように、ゆっくりと促されている。
じわっと汗がわきでる。唾をのみこむと大きな塊みたいに喉につまった。
(……これ)
いままで、何度となくこういうことがあった。誰も気にしていないものに碧生だけ気が付いてしまう、みんな平気なところでひとりだけ躓く。ひとりだけ物がなくなる。裾をひっぱられる。理由も原因もわからない。対処法もわからなくて、だから、結局、そのままやりすごしてどうにかここまできたけれど。
(……こわい)
でも。
こわい。なにが起こるかわからない。どうなってしまうのだろう。心臓がうるさい。目を閉じればいいのだ、と気づいて慌てて目蓋を下ろした。けれど頭を押されている。肩を押されている。桜の樹のほうへ、吸い込まれるように、足が動く。喉がせまくなる、息が、しにくい。目蓋が何かに抵抗するようにひくひくと震えた。
でも、こわいけれど。
もう逃げるのにも、疲れてきた。呼ばれ続けて耳が、頭が麻痺している。考えるのも疲れる。抗って、明るい方にいきたいのに、身体はこんなに重たい。
(もう、いいのかなぁ)
あきらめてしまっても。手放してしまっても。
(どうせおれなんて、だれにも愛されない)
そんな自暴自棄な思考を遮るみたいに、頬を撫でる冷たい感触があった。
雨、にしては続かない。花びらだ、と直感で思った。見えてもいないのに、肌の感触でわかる。桜の花びら。けれどそれにしてはずいぶんとはっきりしすぎているような。
「目を開けたまえ」
凛と響く声で命令され、なぜか、懐かしい気持ちがした。
聞いたことがあるような、気がする。だれかはわからない。でも、なんだか。すがるような気持ちで、ゆっくりと瞼を押し開けた。
「……ほう」
ため息のように小さくつぶやく声が、目の前から聞こえた。気づけば本当に目の前、鼻先がぶつかりそうな距離に、見たことのない男の人の顔があった。
「え、あ、わあ⁉」
「チッ、喧しい」
華々しく舌打ちを響かせ、その顔が離れた。え、なに、と後ずさり、そこでようやく自分の思うとおりに体が動くようになったことに気が付く。拳を握って開いてみると、じっとりと嫌な汗で濡れていた。
「匂いはそのままのようだね――ふん、黙っていればそれなりに見栄えがするのに口をひらくと相変わらず台無しじゃないか。いっそ口を縫い付けてやろうか」
「え、ええ? こわいこと言わないで……そもそも、だれ、ですか?」
目の前の人は腕組みをして、不遜にこちらを見降ろしている。ブルーのジャケットにグレーのスラックスはこの学校指定の制服のはずだがまるで先生みたいな落ち着きがある。白い額がうつくしく、すっと立つと背が高い。
「佐倉祥」
「さくら、さん」
彼はひとつ頷く。じろりと見つめられ、いたたまれなくて碧生は口早に「あ、日浦碧生、です」と告げた。
「あの、四月から一年生で、」
つっかえながらとそう告げると、サクラショウと名乗った人は腕組みをしたまま「新入生、ふうん」とこちらをそれこそてっぺんからつま先までじろじろと見た。見下ろした。視線のあまりのぶしつけなやり方に、戸惑ってしまう。
奇妙な目で見られることはたくさん経験してきたのに、いつまでたっても慣れることがない。視線、というのはそれだけで不思議な力があって、目に見えないのに、あからさまにまとわりついてくる。見られる、ただそれだけでどこかが消耗していく。
(……変な目って、言われるんだろうな)
諦めがちにそう思っていれば、「顔をあげなさい」と厳しい声で言われた。
「え」
反射で言われたとおりにしてしまう。その人と目があって、彼がなぜか満足げに頷いた。さらさらと風に短い髪がなびいて揺れている。やわらかそうな、茶色とも赤ともつかない色。
「顔をまっすぐあげていたまえ。こんなに美しい目じゃないか、くりぬいて飾っておきたいくらいだ」
その人の瞳こそ、光の加減だろうか、夕暮れ時の朱とも水色ともつかない混とんとした空の色を映しこんだようで、つい見つめてしまう。それからのんびりと言葉の意味を咀嚼して、んん、と首を傾げざるを得ない。
「……誉め言葉ですか、それ」
怖いことを言われた気がする。思わず自分の右目――色の薄い方の眼を手のひらで隠す。
変な目。病気じゃないの。ふうん。気味わるい。こっち見ないで。
そう言われたことは数えきれないほどあったが、『美しい』などと言われたことが、あっただろうか? あとくりぬいて飾っておきたいは、絶対に今初めて言われた。
目の前の人は、まるでばかにするみたいに目を細めてこちらを見下ろした。
「それ以外どう聞こえるんだい。君の耳はなんのためについているんだね? 眼が節穴とはいうが耳も節穴といってやろうか――ふん、よく見れば、どこもかしこもがらんどうで、穴だらけじゃないか。息を吹き込めばさぞかしいい音がするのだろう」
とてもじゃないが褒められているようには思えない、のみならず、なんだかすごいことを言われている気がするのだが――どうにも人間というよりそのへんの観賞物に対しての言葉みたいな――、意味を理解するのに頭が追いついていかない。目の前のきれいな人の顔を、その鋭い瞳を、ただ、見つめ返すしかできなかった。
「日浦」
凛とした声で名前を呼ばれて、背筋が伸びる。
「あ、はい」
「日浦、ヒウラ、ね。覚えておこう。僕に覚えられるなんて光栄だと思いたまえ」
「は、はぁ」
そういうと彼はくるりと踵を返し桜の幹に近寄った。つられて自分の足もそちらにむいて、近づけばやはり大きさで圧倒されてしまう。降り注ぐ花びらの白が、顔をなでていく。
「女の人の手みたい」
碧生がそうつぶやくと、佐倉はちらりとこちらを見たようだった。視線を感じながらも、桜の樹に吸い寄せられる。
招かれている。やさしく受け止めてもらえそうな錯覚すら覚えて、くらりとした。
気づかず一歩踏み出した体を、だが肩をつかまれて立ち止まる。
瞬いて、緩慢に振り向けば隣の人にしっかりと肩をつかまれている。大きな手だった。桜の花びらとはちがう、輪郭のある、力強い、ゆびさき。
「これは、僕のだよ」
「え?」
これってなに? と意味がつかめないままその顔を見上げていると、またはらはらと桜の花びらが散った。風もないのに――そう気づいて、ぎょっとする。自然に散るにしても、あまりに、量が多い。ここにばかり固まって落ちてきていないか。
頬に髪に肩にまるでしつこくまとわりつくように降ってくる。
桜を見上げようとしたけれど、それを制するみたいに佐倉の手が肩から離れ、こちらの髪先にふれた。
きれいな指が、何度か髪を梳くように撫でていき、そこに花びらがつままれていることに気づいて落ち着かなくなる。別に頭を撫でてくれたわけじゃないのだ、と。でも、他人になでられるなんてそれこそびっくりしてしまうだろうに、なんだか、残念に思ってしまってそんな自分が恥ずかしかった。
「あきらめたまえ」
静かに、きっぱりとした口調で言われて首を傾げてしまった。
「なにを?」
相手は視線だけでこちらを見て、ふいっと目をそらす。
「君になど話していないよ」
さっきから思っていたが、この人、怖い人なんじゃないだろうか? 気遣いというものを一切感じない。ちょっと不安になりながらも、けれど彼の指先はひどく優しくて、髪や肩にくっついた花びらをひとつひとつ取り除いてくれると、最後に軽く手を打ち合わせた。
ぱあん、と高い音が静かな一帯に響き渡る。
瞬間、強く風が吹き荒れた。突風にパーカーの裾がもちあがる。驚いて目をとじて、それから、おそるおそるひらく。
先ほどの人は、いつの間にか目の前から消えていた。
「え⁉」
振り返ると、校門のところに制服を着た後ろ姿がある。茶色がかった短い髪の毛は、まちがいなく、先ほどの彼だ。あっという間にあんなところまで?
彼は軽く振り向くと「行くよ」と呟き、こちらの返事も待たず歩き出す。
「え、あ、ま、待って!」
咄嗟に足を踏み出した。なぜ佐倉がこちらに声をかけたのか、どこに行くのか、何もわからない。けれど。
(呼ばれたから)
撫でてもらった髪が走るたびに揺れる。地面に落ちた桜の花を靴底で踏んでも感触なんてわからない。
ただそこに、よごれた白い指があまた落ちている気がして、そう見えてしまう自分の目がいやで、碧生は振り向けなかった。ただ一心に、彼を呼んでくれた人のところに駆けていく。
そうしておれは、その先輩に出会った。桜の樹の下で。
**
チャイムとともにざわめきが溢れ出す。話し声、椅子から立ち上がる音、机を動かす軋み、浮足立った空気。授業中の気だるさを押し殺したような沈黙がやぶられ、休み時間になったとたんあちこちから膨れ上がったにぎやかさがはじける。まだ入学して間もないというのに皆あっという間に人とのつながりを作り立ち上げ、いくつかの塊が生まれているようだった。
碧生はつい、うつむいたまま立ち上がり、教室の賑やかさから逃げるように廊下に出た。
昼休みに入り途端にあふれ出した生徒たちの間を縫うようにくぐりぬけ、よろよろと、屋上へ向かう階段へ足を動かす。通りすがりの人と肩がぶつかり、慌てて壁際によける。相手は気にもしていない。見えてもいないのかも。
(……ひと、多いなあ)
人気のない方へ、人気のない方へ。屋上はふだん解放されておらず、そこへと続く階段は薄暗い。まだ履きなれない上靴をぺたぺたと引きずって、どうにか最上階の手前までたどり着き、階段のてっぺんにぼんやりと腰を下ろした。見下ろせば階段がまっすぐ続いていて、踊り場でくるりとその先は折れ曲がっている。薄暗くて、ほこりっぽかった。あまり人の出入りがないところ特有の気配がする。
静かだった。
喧騒は遠くて、教室にいるとみんなはちきれそうに楽しそうで、圧倒される。にぎやかなのは嫌いではないけれど、そこに自分がいていいのかわからなくて、大勢の中でのひとりはいっそう心細くて、碧生はうつむいてしまう。それならさっさとすみっこに逃げたほうが楽だった。
まだ真新しい制服のズボン、ジャケットの袖をなんとなくながめて、はあ、とため息をついた。
遠い親戚に引き取られたものの一緒に暮らすわけでもなく――じゃあなんで引き取ったのだろう? 大人の事情は複雑そうで、上手に聞き出せなかった。彼らはこちらを見もしなかった――、ひとりで暮らすだけの最低限のサポートはしてもらえているのだからまだ僥倖だと思うことにした。それにあのまま施設にいても、高校を出た後は自活しなければならない。高校の三年間は、だから、できるだけ貯蓄をしなさいと言われていた。バイトをして、お金をためて、就職先を探して、それから先、一人で生きていくための。
(……ひとりで、なぁ)
それなら、どこでもいっしょだなあ。
そう思えばいまなんてぜんぜん、まったく、悪くない。はずだ。そう思うことにする。自分もまた施設にいた子供たちと同じように、この三年間で自分で生きていくためのお金をためてそうして、それで。それで?
「……どうしたらいいんだろう。ぜんっぜん、わかんない」
はあ、とため息をつき、そこで思考は途切れた。自分の進むべき道がわからない。道しるべがない。碧生はため息を吞み込み、ポケットをまさぐると硬い飴玉の感触と、その奥に糸がひっかかった。摩擦ですりきれてすべらかになった糸はちょうど腕の長さ位で、もう何年も使っている。指先に引っ掛け反転してひとつの弧を描いていて、両指にかるくひっかけ、組みなおす。
ひとりあやとりは得意だった。いつでもどこでもできるし、単調に手を動かすのは気がまぎれる。一つの形ができるとそれなりに達成感があるし、すぐに崩してもそんなに後悔はない。どうせその一瞬なのだ、なにもかも。人と出会うのも別れるのも、叱られて下を向いているのも誰かがこちらを見て笑ってくれるのも。まるで一瞬の、花びらが散るくらいの、あっけなさで。
(そういえば)
あの人。
入学前に、下見に訪れた学校で出会ったあの人。明るい色の髪の、凛とした雰囲気の人を思い出す。あんなに目立つ人なのに、そういえばまだ校内で見かけていなかった。
「えっと……」
なんていったっけなぁ、とぼんやり手を動かす。考えなくても指先は動く。知っている道を歩くように、指を動かしている間はとりとめもない考え事が浮かんでは消えていく。
「サクラ、って言ってたな。漢字どんなふうだろ。桜? さくら、さくら……」
「佐倉祥。人偏にひだり、倉庫のクラで佐倉。吉祥天のショウ。わかるかね?」
「ひえ⁉」
びくっと思わず数センチくらい尻が浮いた気がする。慌てて階段の下を見る。そこに、人影があった。
「こんな汚れた場所でなにをしている」
「よ、よごれたって、いちおう学校のなかだし」
確かに掃除も行き届いてなさそうな隅っこの砂利だかほこりだかを見て、それから、もう一度彼を見下ろす。
そこにいるのは、入学式前に出会った彼だ。
両腕を組み、階段の下からこちらを見上げているのにまるで見下ろされているかのような威圧感を覚える。座っていたら失礼だろうか、ええ、でも、と、戸惑いながら、両手をそのままの形にひとまず立った。あやとりの糸が指に絡まったままもたもたとくずれる。
「隅が好きなのかい」
「え、あ、うん、落ち着くから、」
もそもそ答えている間も相手は黙ってこちらを見上げている。薄暗い室内で見ると、鋭い瞳はやはり暮れかけのあいまいな夕空の色よりも夜に近い色合いだった。引き寄せられるように、階段を降りる。彼の視線に、言葉はないのに、従ってしまう。
ようやく踊り場まで降り切ると、今度は見下ろされる格好になった。相手の方がすこし背が高い。細身に思っていたけれど、そして実際痩せているけれど、こうしてみるとしっかり背も高くて手も足も長くて、自分よりずっと大人の男の人に見える。何年生なのだろう。三年生かな。
「え、えっと、日浦です」
ぺこっと頭を下げる、上げる。彼は不可解そうにこちらの手元を見ていた。
「それは知っている。それはなんだね」
「これ? 東京タワー」
ほら、とまだ糸が絡んだままだった両手を動かし、ぴんと糸を張りつめさせる。位置を上下に変え、上をつまんでそれっぽく形を作ってみると、きれいな顔がかすかに動いた。
「……なに?」
不可解そうにいわれて、え、と瞬く。
「え? 知らないです? おっかしいなあ、これ定番かと……」
いったん解いて、それからちゃちゃっと簡単なものを作って見せた。
「ゴム」
怪訝そうな顔に、もう一度解く。ささっと指先を動かす。どこをどう、というのを考えることはなく体が勝手に動く。考えなくてもできる暇つぶしだ。お金もかからないし。
「あさがお」
そう宣言してから、最後に糸の中央を口でくわえて形を作って見せた。
その間も彼はじっとこちらを見ている。くだらないと吐き捨てられるかな、と身構えながらそっと口から糸を吐き出すと、佐倉は手を伸ばして、糸に触れた。
「ん、やりたい、です?」
「いや、結構だ」
興味を持ってもらえたのかなとうれしくなって聞いてしまったけれど、つれなく断られる。糸を撫でた手もあっさり離れてしまうので、まあ見ていても楽しくないかなあ、実際にやる方が他のいいのにとポケットに糸をしまった。その際に指先に飴玉がふれて、あ、と取り出す。
「それなら、飴食べます?」
彼は今度こそぎゅうっと眉を寄せた。きれいな人なのでそういう表情をすると大変迫力がある。ありていにいうと、こわい。こわいけれど、なんだか、こちらを厭っているようには思えなくて、だからこんななれなれしく話しかけてしまうのかもしれなかった。
(だれかとこんなしゃべったの、久しぶりかも)
教室の同級生とはまだ仲良くなれなくて、始めたばかりのアルバイトもまだぜんぜんうまくいかなくて、ひとりぼっちの部屋で寝て起きて、日々を送るのに精いっぱいだったから。
彼のそっけない返事でも、なんだか嬉しかった。せめてお礼をしたかったのだが、相手の返事はにべもない。
「いらない」
「えっと、これ、あまくておいしいですよ。おれの好きな味で」
「……なぜ一番気に入っているものを他人に差し出すのだね」
ますます眉を寄せられて、え? と差し出した手のやり場に困った。受け取ってもらえないのだろうか。
「え? だっておいしいですし」
「それなら自分で食べたらいい」
「でもおいしいやつ食べてもらえたらうれしいような……その、おしゃべりしてもらえて、嬉しくて」
「意味が分からない。君が食べたいのなら食べなさい」
なんだか同年代というより先生と喋っているような気がしてきた。いや、先生ならもう少しこちらに寄り添った返事をしてくれる気がする。もっとはるか、年の離れた大人と会話しているような。
「お礼、したいんです! あ、でも、これだと足りないかな、え、ごめんなさい、おれこれしかもってないし……」
慌ててもう片方のポケットを探してみるも、そちらにはなにも入っていなかった。ええと、ええと、ときょろきょろしても当たり前に不愛想な階段や壁や埃っぽい床があるだけだ。
「ど、どうしよう、先輩!」
「どうもしなくていいのだけれど」
「でも、その、入学式前に会ったっきり見かけなかったからどうしてるかなって思ってたとこで、また会えてうれしくて、ええとおれのはなし、わかりにくいですよね、ごめんなさいよく言われるんです、ちゃんと整理して喋りなさいって、えっと、だから」
とにかく、なにか言わなければ、と必死に口を開いて動かしていると、ふと、佐倉が腕組みを解いた。軽く首をかしげて碧生をまじまじと、なんだか変なものを見るように観察している。
「僕に会いたかったのか?」
「え? うん、えっと、たぶん?」
「僕に聞くな」
呆れたようにそう言われて、戸惑っているうちに彼はくるりと踵を返す。とっさにその背中に呼びかける。
「え、もう行くの」
「こんな埃っぽいところにいつまでもいられるか」
「あ、ああ、ですね……」
どうやって話を続けたらいいのかすら、わからなかった。引き留めたい気もするが、相手に嫌な思いをさせたいわけでもない。そもそも、他人と話すのが不得意な碧生だ。なにをどうしていいのかさっぱりだった。
「僕は図書研究会の部室にいる」
「え?」
彼は背中を向けたまま、静かに告げた。後ろを向いていても声はくっきり聴きとりやすい。
「君がもし興味があるなら訪れたまえ」
「と、図書? 図書室ってこと?」
「ちがう。旧館東棟の三階一番奥だ」
なにそれ。旧館といえばクラブの部室や選択授業の一部の教室があるところで、教室は新館で一年生の授業はだいたいそのあたりで事足りるからいまだに足を踏み入れたことがない。碧生がぽかんとしているうちに彼はどんどん下に降りて行ってしまう。踊り場からそのきれいな後頭部が一番下まで降りるのを見守っていると、佐倉はそこで足を止めた。首をひねるように、こちらを仰ぎ見る。
「――来ないのかい」
「え」
きょとんとして聞き返すと、彼はふいっと顔をそむけた。
「あ、そう。別にかまわないけど」
「え、い、行く! 行きます!」
慌てて階段を駆け下りる。上靴がばたばたと騒がしい音をたて、それがまるで碧生の心臓そのものの音みたいに喧しかった。誰かに誘われるなんて、久しぶりだ。薄暗い中であと数段、といったところでふいに慣れない上履きの底がずるりと滑る。
「あ、」
落ちる、と、思った。実際に落ちた。とっさに受け身をとろうと手を伸ばした先で。床よりもはやくなにかにぶつかる。
衝撃はない。
硬い床ではなく、けれどしっかりとした弾力に抱き留められた。あわい花の匂い、どこか土と雨の匂いに似た春先の気配を吸い込んで、ふ、とつめていた息を吐く。
地面が、まだ遠い。
「……なにをしているんだ、一体」
はあ、と深いため息がこぼれる。あ、と顔をあげると、彼を見下ろしている。ただしさっきよりもずっと距離が近い。両腕に抱き留められて、足が浮いたままだ。小さい子みたいに抱っこされている。そのことに気づいて、遅れて、身体が緊張した。
「わ、あっ、あああ、あのぉ」
「怪我をしないよう気を付けたまえ」
口調は厳しく冷たいが仕草は丁寧で、ゆっくりと足を下ろしてくれてようやく床に両足がついた。まだちょっとぐらぐらして、どうにか立つまで背中を支えてくれている。佐倉はじっとこちらを見守っていたが、碧生がしっかりバランスをとって立ったのを確認するとそっと手が離れていった。
「――――行くよ」
そう告げる声に、慌てて頷く。凛とした背筋はまっすぐ美しく、ほれぼれするように堂々と佐倉は歩いた。部活の事とか、ほかにどんな人がいるのかとか、そういった詳しい説明はなにもせず、傲岸不遜に黙ったまま、けれど碧生の歩く速さにあわせて歩いてくれる。
(こわそうだけど、優しい人だ)
碧生は素直にその背中を追いかけていく。
「こんにちは」
「また来たのかね」
あきれたような声に出迎えられながら、碧生はへへっと笑い後ろ手に戸を閉めた。図書研究会の部員は彼以外見たことがない。旧棟の端っこにあって誰も寄り付かないうえに、戸を開けた途端びっしり古い本が詰まった本棚が両面に設置されていて威圧感がすごいのだ。
気のない顔をして本をめくっていた佐倉は、ふと顔をあげる。
大きく開いた窓から差し込む夕日が、世界を焼きそうなほど赤かった。その中で、彼の陰影が暗く、くっきりと浮かぶ。短い前髪の下、形の良い眉と切れ長の瞳が凛々しい印象を与えていた。
(……きれいなひとだ)
何度見てもそう思う。人の顔の美醜などあまり気にしたことがなかったのに、彼については、どうにも、見つめてしまう。気になってしまう。どうしてだろう。
「どうした」
「え? いえ、その、いっつも先輩って本読んでるけど何の本かなって」
適当に誤魔化そうとしたところで、彼はぴしゃりと言葉を遮った。
「そうではなく――血の匂いがする」
ひやりとするような冷たい声に、思わず背中が伸びた。血?
(さっき、技術の授業で手を切ったけど)
ぷくりと浮かんだ血の玉を適当に指で押さえ、そのままにしていたのだったか。左手を慌てて後ろにまわすと、彼は不機嫌そうに眉を跳ね上げる。
「日浦」
まるで叱られた子供みたいな気分で、目をそらす。口をむぐむぐさせていると、もう一度「日浦」と名前を呼ばれた。佐倉は自分の声を、言葉の力をよくわかっている。
「こちらに来なさい」
この体はすでに彼の言葉に反応し落ち着きなく揺れ始めている。持ち主の制止なんてちっとも聞きやしない。
「あ、えっと」
「僕の命令だよ――日浦、ここに立て」
低い声でそう言われて、もう、自分の体のはずなのに、その声にこそ従順になっている。抗いたいのに、気づけば立ち上がって、よろよろと机のまわりを歩き、気づけば彼の椅子のすぐ隣まで歩み寄っていた。
佐倉はこちらの顔をみて、それから背中に隠した手をまるで透視するみたいに目をぎゅっと細めて睨んだ。
「左手を出しなさい」
「……はい」
もはや逆らう元気もない。おずおずと左手をだす。薄いかさぶたが何かの拍子に剥がれてしまったらしい、じわりと新鮮な血がにじんでいた。
「不注意だね」
佐倉の長い指が碧生の左の手の甲をつつみ、すくいあげるようにする。碧生は立ったままぼんやりと、自分の手の動きをなんだか自分のものではないような心地で眺める。なんだか、夢でもみているみたい気分だった。自分の体のはずなのにちがうなにかにされるがまま。起きていながら夢を見る、というのは、よくある。世界が二重に見えているような、隣を歩いていた子と急に、角度がほんの少しずれたような世界に取り残されるような。
(このひとは、)
いったいなんなのだろう、と、いまふと思った。
導かれるままに彼の顔の前に碧生の指先がある。たとえば外国の映画で紳士が女性の手を取り口づけをするような仕草が重なる。そんな風に感じてしまうことを恥じて、でも少しでも変な動きをしたら碧生の指が彼の鼻先や頬に触れてしまいそうなほどの距離で、そう気づくと指がこわばった。佐倉はただじっと、碧生の指先を見つめている。血がにじんだ左手の人差し指を。
薄く、彼の唇が開いた。
赤い舌がちらりとのぞく。色白の人なので、その赤が妙に目について、離れない。彼の切れ長で涼し気な目元もどこか色づいているように感じられた。
(……あれ、先輩の、瞳)
いつもと見る角度が違うからだろうか。彼の瞳の印象がいつもと違って見えた。どうしてだろう。どこが違うのだろう。もっとよく見ようと目を凝らしたところで、彼がじろりとこちらを見上げた。
目があう。見つめていた気まずさと、彼の視線の鋭さにうなじがぞくっとした。
いつもの先輩じゃない。
どうしてそう思ったのかわからない。けれど、握られた手にじわりと冷汗が浮かぶ。
くん、とゆっくり唾を飲み込む。その目に見られていると、本当に、どうしていいのかわからない。息すらうまくできない。瞬きも、彼のゆるしがないとできないような、追い詰められたような心地になって。
ふいに、飽きたように佐倉が手を離した。
「――よく洗っておいで。深い傷ではないけれど、感染がつくといけない。人間の体は脆弱なのだからね」
「う、はい」
急に解放されて、緊張からの弛緩でめまいがしそう。よろけそうになりながらも碧生は一歩後ずさり、そのままじりじりと部屋のドアにたどり着く。佐倉はもうすっかりこちらには興味がないようで、うつむいて読書に戻っていた。音を立てて邪魔をしないようにそうっとドアをあけて、閉める。
廊下にでて、深くため息。
(……あのひと、なんなんだろう)
あの瞳に見つめられるとなんにもごまかせない気がしてしまう。なにもかも見通すような黒とも茶色とも赤ともつかない瞳の色。あのひとといるとどきどきするし緊張するけれど、どこか安心もする。
考えても答えがでない。そもそも難しく考えるのは不得手なのだ。首をふって、碧生は誰もいない廊下を歩きだす。手洗い場はすぐそこで、並んだ蛇口の一番端を使ってざあざあ手をゆすいだ。
新しく建て増しした校舎は教室が入り、今いる部室棟は以前まで使っていた校舎をそのまま利用しているらしい。学校というのは大人数が同時に使うことを想定されているからか、洗い場も横に長く、すこしだけ低い位置についた鏡も同様だ。後ろの壁が映り込んで、ところどころくすんでとれない汚れがこびりついていた。蛇口も錆ついて、トイレ周りも古い雰囲気が否めない。年月は圧倒的で人間の力ではどうしようもないのだ。
もういいかな、と水を止めて、ぱぱっと手を振り、指先でそろっとハンカチを引っ張り出す。先に出しておけばいいのに、というのをもう何度やっても忘れてしまう。
いったんうつむいて、手を拭って、ふと顔をあげて。
鏡に映った自分の顔が、妙にくすんで見えた。
「……ん?」
薄暗いところだとどうにも見えにくい。鳥目というらしい、と小学校の時に学んで、それからは暗くなってからは出歩かないように気を付けてはいる。いるのだが、なにせ生きていると暗くなってから出歩くことくらいある。結果としてあちこちぶつかったりケガをしたり、まあそれでもいままで生き延びているわけだからさほど大したことでもないのだろうと思っていた。
鏡が急に曇ったのだろうか。なぜ? 古い鏡だからってまさかそんなことはない。
変だな、と顔を少し近づける。それでもなんだかぼんやりと輪郭が怪しい。目が急に悪くなったのだろうか。疲れ目というやつだろうか? それともまた、起きたまま見る夢の続きかもしれない。
まだ見えない。おかしい。体を前に倒し、いよいよ鏡に鼻先がぶつかりそう、そんなところまで近づいていく。なんだかもっと、きちんと見たほうがいい気がしている。見なければならない気がしている。
両目の色が違う、ということが、周りの人にひどく不安な印象を与えるということはいつから気が付いていたのだったか。
自分からは見えないのだからそんなことどうでもいいのに、周りの人からは自分の顔がよく見えるから。
いっそ自分のことなんて誰も見えなくなればいいのに、と思ったことだって何度となくある。ぎゅうっと眉を寄せる。それでも焦点がうまくあわない。ぼやけたままの輪郭に吸い込まれるように、顔を傾けて。
鼻先が鏡に触れた。ひんやりと固い、はずなのに、なぜか水の中につっこんだみたいにぬるりと包まれる。
途端、うなじに悪寒が走る。
「あ、」
これ、だめなやつだ、と根拠もなくただ直感だ。この予感は今までだって何度も経験しているけれど、でも、こんな、こんなに直前まで気づかないなんて。足が棒立ちになっている。両手はうまく動かない。体をひこうとしてもまるで全身押さえつけられているみたいにそのまま前のめりになる。鏡にぶつかる。ぶつかっているはずなのに、抵抗がない。そのまま引きずり込まれ、
「――こら」
ぐい、と襟首をつかまれ、後ろに引っ張られた。
は、と息をつく。途端に心臓がばくばく走り始める。さっきまでもしかして心臓も呼吸も止まっていたのかもしれなかった。おそるおそる振り向く。誰がそこに居るのかなんて、もう、わかっている。
「せ、んぱ、い」
「何を道草ばかり食っているのだね。まっすぐ帰ってくるくらいできないのか、この愚か者」
「あ……」
へなへなと膝から力がぬける。洗い場の台に手をのせて、ステンレスのひんやりした感触が指に伝わってきた。これは、現実だ。肌がそう教えてくれて、だから、ほっとしてどうにか顔を上げる。彼は不愉快そうに眉を顰めたまま「行くよ」とだけ言うとさっさと歩き出してしまう。
「あ、ま、待って」
慌てて一歩、二歩、と足を踏み出す。駆け足のようにしないととてもじゃないが、滑べるようにさらさらと歩くこの人には追い付けない。大股で頑張って踏み出してどうにか佐倉の隣に並んで、ちらちら相手を伺う。
「おれが遅いから、その、迎えにきてくれたんですか?」
「まさかこんな近場で迷い子になっているとは思いもしなかったがね」
「ご、ごめんなさい、先輩、なんだかお父さんみたい」
「はあ?」
急に険悪な表情になるので、戸惑って、急いで言葉を探した。
「え? あ、おこった? それなら先生? 先輩いっつも先生っぽいことしゃべるし……でも先生ってわけでもなくて、あ、あといっしょに居るとなんだろう、息がしやすいんです。先輩のまわりって空気がきれいな気がする」
そんなことをいっているうちにあっというまに部室だ。「僕は空気清浄機ではないのだけれど」と嫌みっぽく言いながら佐倉はドアを開ける。
「そういう意味じゃないんですけど……でもだから、えっと」
「何が言いたいか頭の中でまとめて整理してから口に出したまえ」
扉を閉めて、彼がいつもの定位置に座るのを眺めながら碧生もうろうろと部室を歩く。物が多くて、カーテンはいつも締め切られ、圧迫感のある部屋だった。閉じ込められてしまいそうな錯覚を覚える。閉所恐怖症ではないし物が多い方が落ち着くタイプだと自覚しているけれど、それでも、なんだか。
「なんか、先輩って、ちがうような」
「なにが」
そう真正面から問われて戸惑ってしまう。きれいなひとだ。大人びた、冷たそうに見えるけれどこうして迎えに来てくれたり隣にいることをいとわないでくれたり、やさしいひとで、けれど。
(だって、さっきの)
怪我した指先を見つめていた瞳。表情の冷ややかさ。この人はいったいなんなのだろう、と一度浮かんだ疑問はなかなか押しつぶせない。部活の先輩。それは、そうだけれど、でも。
「ちょっと、人間離れしてるみたいな」
「……は?」
ぴりっと空気がしびれた。すこし首周りが冷えた気がする。なにか、冷たいもので撫でられたような感覚。ぱちぱち瞬くと鈍色の鈍い光が通りすぎて、消えた。
(鱗?)
彼は腕を組み、座ったままこちらを見つめている。切れ長の瞳がどこか赤みがかって見えた。
「なんか、一個上の先輩にはとても思えない、です」
「……ふん」
ひやりとした声音で言われて機嫌を損ねただろうかと不安になるが、彼はひとつため息をつくと「血はとまったようだね」とつぶやいた。
「え、あ、うん。ほんとちいさい傷だしどうってことなくて」
見てもいないのに、と瞬くが、放っておいても血は止まる程度の傷だった。それを見越しての発言だろう。
「気を付けたほうがいい」
そっけなくそれだけ言うと、先ほどまで読んでいたのだろう本を取り上げ、めくり始めた。その動きは丁寧で、もうこちらに興味はないと言っているようでもあった。
「先輩ってほんとに一つ上ですか? 鯖読んでたりします?」
「さあね」
今度こそ怒られるかも、と思ったが彼は呆れたように告げるだけでそのままだ。
(こわいところもあるけど、でも、やさしい)
ひそりとそう思って、それから笑っているのがばれてまた叱られるかもしれないのでうつむいた。
烏が遠くで鳴いている。その声に背中を押されるように碧生はひとりとぼとぼと歩いていた。午前で終わった授業の後、その足でバイト先に向かい立ち仕事をこなした後なのでぼんやりと疲れがまとわりついている。今日は普段とは別の単発の仕事で、大変だけど割はよかったはずだ。
「ふあ」
歩きながらあくびがこぼれた。新しい環境に適応するのは苦手だけれど、短期バイトのほうが割が良いこともあり、また自分が要領がよくないからなのかもしれないが長くいるとなんだかよくわからないトラブルに巻き込まれることが続いた。
それが二、三回。ほんの数か月の間にさすがに多くて、結果として、単発の仕事であちこち根無し草のように転々とする方へシフトしつつある。どこに行ってもまあやることはあるしお給料も貰えるので、へらへらしながらその場その場でできることをするだけだ。
ポケットに手をつっこむと、指先に固いものがふれた。いついれたのか忘れてしまった飴玉がふたつ。とりだして、うーん、と眺めて、悩んで、やっぱりポケットに戻した。またあとで食べよう。
歩いていると夕飯時の食事の匂いがどこからともなく流れてくる。くたびれたスニーカーでふらふらと道を歩き、自分の部屋に戻っても当たり前に誰もいないしなんにもないのだ、と思って、首を傾げた。
寂しい、とか。誰かに受け入れてもらいたいとか。
(そういうの、もう、諦めないとなあ)
施設にいるときはそれなりに誰かがいたが一人暮らしもさほど悪いものではなかった。家賃の安さで選んだアパートは町はずれもいいところで、あたりにはなんにもない。狭い路地を歩きながら、もしこのまま誰もいない世界に迷い込んだとしても気づかないかもしれない、と眠たい目蓋をしぱしぱさせて空想した。だれもいなくても、かまわないのかもしれない。
(誰にとっても、おれなんて、見えてないようなものだろうし)
腫れ物みたいに扱われて、嫌がられて、そのうち存在も無視される。その繰り返しだ。施設の弟や妹たちはこんな自分でも慕ってくれた。彼らのことは大切だけれど、でも、ずっと一緒にいることもできない。
(佐倉先輩は、)
高校に入ってから、なんとなく一緒に居ることの多い先輩のことを思い出す。隣に居てもさほどかまってくれないし優しいことをいうわけでもない。好きにしろと放っておいてくれる、バイトが続いて顔を出さないと「学生の本分を忘れていないか?」などとすこしだけ嫌みっぽいことを言われるが、「仕事など寝食を忘れてまでするものではないよ。ちゃんと食事くらいとれ」と叱られるのは、たぶん彼なりの優しさだ。
(おかしいの)
くすぐったい気持ちで、ふふ、と唇を緩める。出会ってほんの数か月なのに、思い出すだけでほっとする存在になってしまっている。こんなに心を預けて――大丈夫だろうか。
(でも、佐倉先輩もきっとトラブルが続いたら嫌になるだろうし、うん、大丈夫)
碧生のことが面倒になったらさっと切り捨ててくれるだろう。頭のよさそうな人だし。でも意外と情がある人な気もするから、かえって面倒なことをさせてしまうだろうか。それはいやだ。嫌がられていそうと気づいたら、碧生の方からさっさと出ていこう。
ひとりでそう確認しながら歩いているところで、ふと、はたはたとはためくものが見えた。
白、いや、あわく黄色味がかっているような。そう、アイボリーだ。
もうだいぶ夜にちかい、けれどなかなか暮れ切らない昼と夜の境目みたいなあやふやな色合いの空の下で、その布が、しずかに、ゆらめいていた。
洗濯ものでもとんできたのかな、と思った。あるいは、交通安全の旗みたいな、そういう系。けれど、よくみると無地ではない。どこか古めかしい花が描かれていて、四角いけれど旗でもなさそうで――そう、着物だ。と気づく。
(でも、どこから?)
気づけば遠くに見えていたはずのその着物はもう腕を伸ばせば触れられそうな距離にあった。はたはたと重たくゆらめく着物の袖は、路地の曲がり角の向こうから見えているのだろうか。そこにだれかがいる? それにしても着物ってあんなに揺れるのだろうか。もっとずしりと重たい生地だと思っていた。碧生はぼんやりと考えながら、疲れた足を動かし続けている。
白っぽい袖の先から、にゅ、と細長く華奢な手首と手のひらが、見えた。
「え」
さっきまで、なかった気がする。いや、見えていなかっただけ? 思わず足を止める。
その手が、軽く揺れた。細いたおやかな指先が薄暗い闇を背負い、いっそう白く、くっきりと浮かぶ。
おいでおいで、というように、手招きをしている。
立ち止まってその手を凝視する。飲み込んだつばがなにか重い塊のようにせまい喉を通り過ぎていく。
あれは、なんだろう。誰だろう。
(なんか、やばい)
うなじにどっと汗が噴き出す。その袖は、手は、碧生の目の高さくらいにあった。手の形から女の人だと思うがその位置から逆算するとものすごく背が高いことになる。高い台にのっているだけかもしれないが、それでも、なんでそんなことをするのかという答えはでてこない。
おかしい、ということはわかる。近寄ってはいけない気もする。
「……っ、」
回れ右して今歩いてきた方向に戻ろうと思うのに、なぜか、足が動かない。むしろ後ろから何かに押し出されるように、じりじりと足の裏が滑って前に動いている。自分の足なのに、となじんだスニーカーを見下ろして、顔をあげて、その手がさっきよりずっと――もう目の前にあることに気づいて、とっさに、目をつぶった。
「――――なにをしている」
ふと、肩に手が載せられている。軽く後ろに引っ張られて、あぅ、と小さく声が出た。
こわばっていた首をどうにかひねり、背後に立つ人を振り向く。
「……先輩」
さっきまでぼんやりと考えていた佐倉そのひとが、そこに居た。幻覚かとも不安になるが掴まれた肩にはしっかりと感触がある。すっきりした花の匂いが遅れて漂った。
いつからいたのか、全然気が付かなかった。物音も気配もしなかったのに。夕方だというのに乱れ一つない短い髪から肩にぴったりそったジャケットに袖、スラックスに革靴に至るまで一部の隙もなくきっちり整えられていて、いつ見ても威圧感というか物言わぬ迫力のある人だ。
「粗忽者め、危ないからきちんと目を開けて歩きたまえ」
「あ、うん、ごめんなさい」
叱られてなんだかほっとしてしまった。それから、もう一度前を向く。
先ほど見えていた袖も、小さな手のひらも、どこかに行ってしまっている。瞬きをして、目をこすっても、当たり前になんにもない。
「ほら、行くよ――君の眼は、どうにも見すぎてしまうようだ」
軽く背中を押され、促されるがままに歩き出した。どきどきしながらさっきまで袖が揺れていたあたりを通りすぎ、曲がり角を過ぎて、でもどこにも、なんにもなかった。ただいつもの見慣れた道が広がっているだけ。
「はは……おれの目、なんか、おかしいんです。こんなものいらないのに」
怖さが去って、現実が戻って来る。ざわざわとした名残はあるけれどそれを押し潰すよう握りこぶしをつくり、ぐっと力を込めた。
碧生だけがいつだっておかしなものを見て、他人から取り残されていく。誰も信じてくれない。けれど、いまは、この人が迎えに来てくれた。たまたまかもしれない、それでも、隣に、いてくれる。ここが現実だ。
(先輩がいるところが、現実だ)
相信じることで碧生はどうにか、まだ、歩いていられる。帰ってこられる。そう気づいて、心臓が跳ねた。
(……こんな、信用しすぎて、いいんだろうか)
信じすぎて、いいのかな。信じることは、なにかひとつを信じて疑うのをやめるのはとても楽だ。でも、そうやって、信じた先に手のひらを返されることだってあるのに。
ぎゅっと手のひらを握りしめたまま見上げた先、佐倉もまた碧生を見つめていた。夕焼けの色を反射してその切れ長の瞳が薄暗く、赤く、閃く。
「君の眼は君の選択だ――与えられたものだとしても、君が望んでいないとしても、もはやそれは君のものだよ。君の眼が君の世界を変える」
「……え?」
まだ指は強張っているし鼓動も速い。佐倉が何を言っているかわからない。
それでも、この人が、自分を否定していないことだけがわかる。背中に添えられた手がたしかにあたたかくて、ほっと息をついた。
気持ちがゆるんだままに、先ほどのポケットの中身を思い出す。
「……先輩、飴食べます?」
そう尋ねると佐倉は不可解そうな顔をしたあと、きっぱりと答えた。
「いらない」
「おれ、なんか安心したら急に甘い物食べたくなって」
彼はちらりとこちらを見て、勝手にしろ、というように眉を上げて見せた。ごそごそ飴玉を取り出し、ふたつとも手のひらにのせて差し出してみる。
「一緒に食べませんか? 先に一個、どうぞ」
「いらないけど」
返事はにべもない。この人のこういう潔いところはすごく好きだ。でも。
「うう、そ、そうですか……」
さっき見たものがなんなのか、わからない。碧生の、いつもの錯覚なのかもしれない。小さい頃は見るたびに驚いて怯えていろいろな人に訴えたけれどだれも本気にしてくれなかったし、気を引きたいがための嘘をついているとさえ言われて、そのうちいうのをやめてしまった。
碧生自身だって自信がない。気のせいなのかもしれない。さびしくて、大人の気を引きたくて、自分の中で勝手に物語をこしらえてそれを見た気になっているだけなのかもしれないと不安になる。本当にいるとしても本当にいないのだとしても、どちらでも、こわい。
「先輩がいっしょにいてくれるて、嬉しくて」
この人に碧生が見えているようなものを伝えたことはないけれど。わかりあえなくても、同じものを見ていないとしても、ただ否定しないで、変に思わないで変わらず底にいてくれることがこんなにうれしい。
佐倉はかすかに眉を顰め、それからため息をつくと飴玉をひとつだけつまみあげた。ぱっとうれしくなってしまって、それだけで、不安が、怖さが、少しずつ薄れていく。
「あ、いちご。それ、おれのおすすめです」
「ふうん」
かさりと包み紙をほどく指先をじっと見つめてしまう。白くて、たおやかな指だった。
(この手に招かれたら)
ふらふらと、近づいてしまいそう。かも。
見つめていることに気づいたのか、佐倉がちらりと視線をよこす。そのまま飴玉をつまんだ指が近づいてきて、こちらの唇に軽く触れた。反射でゆるく口をひらくと、飴玉を押し込まれる。
「ん、」
びっくりして口を閉じると、飴玉だけでなく、彼の指先をかすかに含んでしまった。飴玉の人工的な甘さが舌の上にひろがって、佐倉の指先がなんでもないことのように離れていくのをスローモーションみたいに見送る。
「それなら、君が食べたらいい」
「……おれ、先輩にお礼したかったんですけど」
「はっ、飴なんていらないよ」
ばかにしたように言い捨て、腰に回った大きな手が歩き出すように促す。止まっていた足を慌てて動かして、もうすっかり暗くなってしまう帰り道をたどった。
この人は、いつも、急に現れる。最初に出会った時から。なんだか寄る辺なくて、どこにいけばいいのかわからないときに、こちらだよ、と手を掴んでくれるようなタイミングで。
(おれの気のせいなんだろうけれど)
「佐倉先輩って、神さまみたい」
照れとも願いともつかないようなことを笑いでごまかしながらつぶやけば、隣の人は鋭い視線をよこして「さあね」とどこかかみあわない返事をよこした。
夏が過ぎ秋が過ぎ去り、どんどん日が暮れるのが早くなって夜が明けるのも遅くなる。それでも碧生の日々は変わらない。授業にどうにかついていける程度の勉強をこなし、暇な時間にはバイトをつめこみ、一か所ではやはり居心地が悪くなり短期バイトの繰り返しに戻って、クラスでは相変わらずあまり居場所がなく、暇な時間があれば図書研究会の部室に顔を出した。幸い、佐倉は何も言わずにただそこにいる。追い返すこともないしなにか特別気をまわすこともない。その距離感が心地よくて、野良猫がどこかの家にいつくのってこんなかんじなんだろうな、と碧生は非そりと考えている。
年の暮れが近づくにつれ街中は慌ただしくなり臨時バイトも増えて、ばたばたと走り回っているうちにすっかり二学期の終業式だ。すっかり冷えた空気に首をすくめ、かじかんだ手をこすり合わせた。
はあ、と息を吐くと、白く濁る。冬だなあ、と当たり前のことを思いながら薄暗い校門をくぐった。終業式なので午前中で終わったのに、バイトの後に忘れ物に気づいたという有様である。
「校門、開いててよかった」
独り言ちながらぺたぺたと階段を上っていく。上靴の裏はゴム素材で廊下を歩くとどうにも間抜けな音が鳴る。
でも佐倉が歩くときはこんな変な音は鳴らないから、もしかしたら靴云々ではなく碧生の歩き方のせいかもしれない、と考えながら廊下を進んだ。薄暗くて、教室棟はしんとしている。部活動をしている生徒はいるはずだし先生方もいるだろうに、ここだけどうにも暗くて、静かで、淀んでいた。
そろっと教室のドアをあける。椅子と机だけが整列して、教壇にもロッカーにも人の気配は残っていない。ほんの数時間前までここに数十人の学生があふれてざわめいていたのを考えると、なんだかパラレルワールドに足を踏み込んでしまったような不安な心地になった。
「……えっと」
なんとなくこわくて、ひとりでぼそぼそとしゃべってしまう。当たり前に返事はない。あったら怖い。おそるおそる机の隙間を縫って、自分の席にたどり着く。中を覗き込んで、提出用のプリントを取り出した。
「……進路希望、かあ」
はあ、とため息。
進路、とか、将来、とか。
碧生は何にも思いつかない。自分がいま生きていることもおぼつかない。ふらふらとして、たぶん、今日このままいなくなってもだれも気付かないし気にも留めないだろうなと思う。最近仲良くしてくれる相山くんはちょっと心配してくれるかも。それもなんだか申し訳なかった。
(きっと、どこにもいけないなあ)
施設を出て、でも、新しい土地でも結局誰とも馴染めない。小さい頃からいじめられていたのは、みんなが見えているものと自分だけが見えているものの区別がついておらず、ついすべて口に出してしまっていたから、というのも原因だろうと思った。中学校に上がったときはそのくらいの分別はついていたが、小学校からの知り合いばかりだったからすでにあいつは変なやつだと噂されていたし、黙って隅っこで小さくなって、いないものみたいにふるまうフリばかりうまくなって。
(高校に入ったら、違う場所に来たら、変われるかもってちょっとだけ思ってたけど)
結局元来の人付き合いの悪さというわけだ。はあ、とため息を吞み込み、カバンに適当にプリントをつっこんで顔をあげた。
「日浦、なにしてるの」
「んひゃ!」
突然話しかけられて慌ててそちらを振り向けば、黒髪の子がいた。自分の机から三つほど離れたところ、教室の奥の机だ。あれ、さっき見た時誰もいないと思ったのに。
「んあ、ね、根来くん。まだ帰ってなかったんだ?」
どきどきする心臓を押さえつけて、入ってきた時に無視してしまったのかもしれない気まずさからどうにもごまかすような早口になる。一方の根来は気にした様子もなく、ふああ、とあくびをしながら机に顔を預けた。
「ちょっと野暮用。日浦が忘れ物してるなあって気づいちゃったし」
「え、あ、おれ?」
彼は机に両手を預け、その上に頭を乗せて気だるそうにつぶやいた。彼のんびりした言葉で気が緩む。
「ひとりで暗いとこ歩くのは気を付けなよ」
「それいうなら根来くんも、帰り道気をつけないと……一緒に帰る?」
勇気を振り絞ってそう聞いてみた。だが、彼はゆるゆる首を振った。机に額をこすりつけるだけになっているが。
「今日はまだ用事があるから。そっちこそ、迎えに来てもらったら?」
「ええと、おれ一人暮らしだから。じゃあまた新学期に」
「家族って意味じゃないけどさ。まあいいや、良いお年を」
ひらひらと根来の手のひらが揺れるのを眺めながら教室を出た。こんな時間から用事? いったいなんだろう。部活とかだろうか。
(根来くんって何部だっけ)
考えてみたけれどまったく思い出せなかった。そもそも根来くんがふだんなにをしているかすら思い出せない。こんなに覚えていないとは……三学期はもう少し周りに気を配ってみよう、と反省しながらとぼとぼと廊下を歩く。
片面が窓になっている廊下は、夕暮れを過ぎぼんやりと薄暗い。遠目にぽつりぽつり、街灯が点き始めた。早く帰ろう、と、そう思って碧生はふと旧館を見る。
「あれ、」
いつも通りすがるときに無意識のうちに確認してしまう東棟の三階の奥の部室の、窓が開いていた。こんな寒い時期に? けれどたしかに半分ほど空いた窓とその奥にはためくカーテンが見える。灯りは、ついていない。
なんだか気になって、足早に階段を降りる。渡り廊下を通り、再び階段を上って。旧館に足を踏み入れてもやはりしんと静かで、みんな今日は早々と帰ったのか。それとも一斉下校するよう連絡がきていた? ちっとも覚えていない。
廊下に差し掛かり、まっすぐ奥まで碧生は走った。ばたばた、みっともない足音が無人の空間に響いて吸い込まれていく。窓の外は薄暗く、廊下の蛍光灯はもうそろそろ切れそうなのか、一部、ちかちかと点滅していた。
部室の前で足を止める。思ったより息が切れていて、まだどきどきしている心臓をぐっと押さえつけるように胸の前でこぶしをつくって、ドアをノックした。
「……先輩、います?」
返事はない。けれど、窓が開いていたのは多分この部屋のはずだ、と碧生はどきどきしながらそのドアを見つめる。
日も落ちて気温もぐっと冷え込む時間だ、もし、単に開けたまま忘れて帰っただけならいいのだが、万が一、中で眠り込んでいて開けっ放しになっていたりしたら大変だ。あの人がそんなことはしないと思うけれど、でも、もし。
目をとじて、すん、と息を吸う。なにか変わった匂いがするわけでは、ない。でも。閉じた目蓋の向こう、くらりと影が揺らめいた。
(先輩、部屋にいるがする)
なんとなくざわめく胸がある。待ちきれず、もう一度ノックをする。
やはり、返事はない。
「先輩、はいります、よ」
そうっとドアを開ける。ぎい、と古びた軋む音が響き、その奥もやはり薄暗い。暗いところでは視界がきかない碧生なので、それでも目をこらしてみるが、どうにもよく見えない。白いカーテンがはためいている。部屋の中はひんやりと寒かった。廊下より、ずっと寒い。冷え込んでいる。思わず身震いしてしまった。
「佐倉先輩?」
ふくらんだカーテンがまた重力に従うようにしぼむ。その隙間に――窓際の下に、座り込んだ影があった。それが人影だと認識した瞬間、弾かれたように飛び込む。
「先輩? だいじょうぶですか!?」
ひらひらと白い裾が揺れている。その下で顔が隠れてよく見えない。片膝を立て、もう片足は伸ばした格好で壁にもたれ顔は俯いているのは、佐倉に見えた。いつもの制服姿だ。ただでさえ冷えた部屋で、床に座り込んで、窓の下で、寒いに決まっている。それなのに彼は返事すらしない。
本棚に取り囲まれた部屋の奥、長机の横を回って慌てて奥へ駆け寄る。勢いのまま、佐倉のそばにしゃがみこんだ。
「先輩、先輩ってば、寝たらだめですよ、冷えてしまうから。起きてください、体調悪いですか? あ、窓」
閉めないと。碧生はいったん床に膝をついたけれど、すぐに思い直して立ち上がろうとした。
けれど、ぐっと足に力をいれたタイミングで、腕をつかまれる。
「――――先輩?」
先ほどまでだらりと垂れていた佐倉の手が、いまはしっかりとこちらの腕を掴んでいる。痛いほど握りしめられて、思わず顔を顰めてしまった。
「先輩、起きたんです? あの、窓、閉めていいですか? 風邪をひいてしまいます」
「……ら」
「え、なんですか?」
よく聞き取れなくて、体を傾ける。前かがみになって佐倉の顔に耳を寄せるように膝でにじり寄って、少しだけ不安定な姿勢になった。その隙をつくように強く腕をひっぱられて、あ、と受け身をとることもできず前のめりに倒れてしまう
「……っ、先輩」
肩が、思い切り彼の体にぶつかる。どこか痛くしたんじゃないか、と慌てて起き上がろうとするのに、腕はしっかりつかまれたままで、反対の手もこちらの背中を捕まえている。真正面から抱きしめられるような格好で、制服越しに佐倉の指が碧生の腕に食い込んだ。
「っ、ちょっと、いたいかも」
大きな手が絡みつくよう握りしめてくる。碧生の控えめな抗議にも佐倉は何も言わない。ただ、細く、荒っぽい息を吐いている。動物が唸るみたいに、低く、苦し気な声。
「佐倉先輩?」
その声に導かれるように、佐倉は、うっそりと顔をあげた。
薄暗い部屋の中で、その瞳が鈍く光る。
「……っ、」
思わず碧生は体をひいてしまう。けれどがっしりつかまれ、抱き込まれているのでわずかに背中が震えただけにとどまった。ふーっ、ふーっ、と長く低く吐きだされた相手の息が、碧生の冷えた頬をかすめる。身じろぎもできない。呼吸の音が近い。荒々しい気配。捕食される前の動物にでもなった心地で、ただ、身体をこわばらせてしまう。
(……先輩じゃ、ない?)
その瞳の輝きはどこか人間離れしている。たとえば――夕暮れ時に目を合わせてしまった、なにか、ここではない別の次元の存在と遭遇してしまったときの寒気に近い。鳥肌がたつ。恐ろしさと、怯え。けれど、でも。
息が上手く吸えない。それでも、捉えられてこれだけ近くにいて――匂いが。
(先輩の、におい)
すっとした花の匂い。冬で、どこにも花なんて咲いていないのに、彼からはいつもこのにおいがする。
だから、これは、佐倉だ。先輩だ。このひとだ。荒っぽい息が頬に、碧生の首にかかる。抱きすくめられたなかでどうにか腕を動かす。まるでこちらの肩口に顔をうずめるみたいに俯くその頭を、そっとなでた。
相手が息を止めたのが伝わってくる。見えないけれど肌で感じられる。
そのまま、やさしく撫でた。片手で、窮屈な中で動かして。軽く頭をひきよせるように――碧生の首筋に、相手の鼻先がぶつかるのがわかる。短い髪の毛は手のひらの中でふわふわと動いた。
「先輩、身体が冷えちゃいますよ――ほら、風邪ひいたら大変ですから」
見えないだろうけれど微笑んで見せて。かるく頭を引き寄せるようにすると彼の息が鋭く、浅くなる。
かすかに、首筋に痛みが走った。
「っ、あ」
驚きで目を見開く。
爪。いや、吐息がかかっているので、たぶん、歯。いたい、でも、我慢できないほどじゃない。
食いちぎる強さではない。けれどあきらかに、異物が、触れている。動物の甘噛みのような、戯れにも似たむず痒さだった。息は荒っぽいままで、獰猛なほどの鋭さなのに、苦しそうに響く。
(……噛まれて、る)
こわい。急所をさらしている。緊張で肌がこわばる。けれどその牙は食い込んでこない。そのまま触れて、押されて、なにかを必死に抑え込んでいるような。
(……ちっちゃいこが、癇癪おこしたときみたい)
施設に入ったばかりで馴染めていない子が感情を爆発させることがある。わけもわからず自分でもなにに怒っているのかわからないくらいに大声を挙げたり泣いたり。ちょっとちがうけれど、でも、その時の感情の熱量の高さに似たものを感じて、だから、碧生はその頭をそっとなでた。抱きしめられるなら抱きしめ返してあげたかった。
「先輩、」
手をぎこちなく動かし、なだめる様に、安心させるようにその頭を撫でる。
彼の体が震える。自分より大きな人で、こちらを抑え込んでいる力もとても強くてかなわないと思うのに、どうして抱きしめてあげたいと思うのだろう。
「いいんですよ――好きにして」
さっきまでの怯えは完全にはなくなっていない。けれど、それよりも、この人が何かを求めているのであれば――食い込むほどの力で碧生の腕を掴んでいるのであれば――なにかをあげられるなら、なんでも与えてあげたかった。
しばらくそのまま頭を撫でている。この人の髪に触れるのは初めてだったけれど、短くて、手触りが良くて、柔らかい髪だった。ひんやりとつめたくて、はなびらみたいな温度。その後頭部の形の良さを確かめるみたいに、何度も撫でる。
徐々に、一つ一つの呼吸の間が伸びてきた。獣っぽい音がやわらいで、少しずつ小さくなり、ため息に変わったのを聞いて、そっと手を止めた。
「……先輩、おちついた?」
そうっとその顔を覗き込もうとすると、途端に手を離される。
「……君は、どうして、こんな時間に」
佐倉の声は、それでもまだ辛そうだった。表情は翳ってみえない。すっかり日がおちて暗くなってしまった部屋の中で、気づけばカーテンは揺れなくなっていた。そもそも、風なんてそんなに吹いていたのだろうか?
教室棟からこちらを見た時。
カーテンが揺れていた。ここだけ揺れていた。木々の枝もどこも、揺れてなんていなかった。外はただしんと寒くて、それだけだ。どこで風が吹いていたのか。
「日浦」
名前を低く呼ばれるから、すぐに思考がそれる。
「――もう、帰りなさい」
かすれた声は疲労がにじんでいた。彼に握りしめられていた腕がまだしびれている。
「でも、先輩、」
「僕は、いいから」
「具合悪いんですよね、おれ送ってくから」
きょろきょろあたりを見渡して彼のカバンを見つける。立ち上がって窓をしめ、鍵を下ろし、それからカバンをもってきて佐倉の前に再び膝をついた。
「おれ、一緒に帰るから。ぜったい送ってくから!」
「……僕が」
佐倉は、気だるそうに顔をあげる。その瞬間、少しだけ身構えてしまう。
(先輩の、目)
さっきは見間違いだったのかもしれない。あんなふうに、暗い中でくっきり光って見えるなんて――
彼はいつもどおり、うんざりした、不機嫌そうな顔だった。顔色が悪くみえるのは部屋が暗いせいだろうか。瞳もどんよりと黒く、暗い。それでも苛立ちよりどこか虚勢を張っているようにも見えて、心配になる。
「君といま、一緒に居られない――居たくない」
はっきりそう言われて、言葉より見えない何かが鋭く碧生の胸の奥を刺す。針がかすめた指先を思い出す。それよりももっともっと、深く。じわりと、血が滲んだ気がした。
咄嗟に拳を握り、痛みをごまかす。
「……は、い」
「すまない」
今まで彼に謝られたことなんてなかったからびっくりしてしまう。本当に嫌――なのだ。そう気づいて、慌てて立ち上がって、座ったままの佐倉から一歩、離れた。
「ごめんなさい、おれ、先輩に……そんなつもりじゃ……」
頭を撫でたこと? 部屋に勝手に入ってきたこと? 窓を閉めたこと? それともいままで、図々しく近づいていたこと?
どれが引き金なのかわからなくてぐらぐらする。けれど、そんなこと聞けない。彼はひどくおっくうそうに首を振った。
「ちがう――君の、問題じゃない」
「あの、おれ、だから……その」
「日浦」
先輩の声にかぶせるように「あの!」と、碧生にしては大きな声を出した。
ぎゅっと拳を握る。爪を手のひらに立てる。痛みは、別の痛みで上書きしてしまえば。じくじく血がにじんでいるのはどこなのかわからないように。きつく、爪を立て。俯けば上履きが目に入って、それだけだ。
「――また、新学期になったら……遊びに来ても、いい? それもだめですか?」
先輩は何も言わなかった。その答えを聞く前に、碧生はばたばたと部屋を飛び出してしまったから。
II
年明けから三月まで、まるで瞬きのように短い冬を駆け抜けた。季節というのはただそこにあるもののようで実際は常に過ぎ去っていく現象でしかないのかもしれない。碧生はただそこに居続けるため、懸命に勉強をしバイトに励み、あまり人とぶつからないようできるだけ気配を殺して過ごしていた。相変わらずバイト先ではしばしばトラブルに巻き込まれ、誰かに嫌われたり逆にものすごく好かれたり、人間関係のひびわれがきっかけで居続けることが難しかった。
(おれ、どうしてこうひととうまくやれないんだろうなあ)
ため息をつく間もない。奨学金だけでは賄えない部分はお金を稼がなければならないし、ちゃんと試験に通らないと進級できない。どうにか試験は潜り抜け、二年生に進級できるらしいと分かってほっとした。
短い春休みは単発のバイトが増える。時給も悪くないのでどんどんいれて、そうするとあっという間に四月になっていた。当然のように親戚からは何の音さたもない。こちらからもどう連絡を入れていいのかわからず、バイト帰りに通り過ぎる学校の門の前から桜の木を見上げる。白い花びらをたっぷりとまとわせ揺れている桜の大木はそれだけでひとつのいきもののようだ。
「……先輩、どうしてるかな」
一年前、彼と桜の下で出会った。あの時の凛とした佇まいと、終業式の日に蹲っていた彼の姿が、重なってぶれていく。
(あんな先輩、見たことなかった)
いつもしゃんとしてほとんど表情を変えずに立っている人だ。時折口元をゆがめるように微笑んだり、なにかに驚いたような顔をすることはあっても、あんな。あんなふうに苦し気な――それだけではなく。
(体調が悪かったのかな? でもなんか、ちがう、かも)
なにかを必死に抑え込むような、険しい表情と、抑えきれずに獰猛な光を湛えていたあの瞳の色を、どうにも忘れられない。爆発しそうな衝動を秘めた暗さ。碧生の首筋にあたった歯のかたさ。腕をつかむ力の強さ。
頭の奥に引っかかっていて、こうしてぼうっとしているとあのやりとりが思い出されてしまう。あの後、三学期が始まってから部室に行っても常に鍵が下ろされ中に人の気配は感じられなかった。校内のほかの場所で佐倉を見かけることもなく、もしかして二年の教室を片っ端から調べたりしたらわかることもあったのかもしれないが、そこまでする勇気はなかった。
(もし、そうして、見つからなかったら)
全部、全部が碧生の妄想だったのかもしれない。気のせいだったのかも。それを突き付けられるのが怖くて、ふわふわと、遠回りして。バイトをたくさん詰め込んで忙しくしてほかのことを考えて、でも、ぽっと浮かんでしまうその顔に、慌てて首を振る。その向こう、視界の奥でさわさわと桜がゆれ、枝が垂れている。春休みで人気のない校庭になんとなく踏み入り、そのまま木の下まで歩いて行った。こまかな白い花びらが、風にゆさぶられ舞う。
(きれい)
毎年見ているのにどうして毎年のようにきれいだと、新鮮に思うのだろう。何度見てもつい見に行ってしまう。何度でも会いに来てしまう。サクラという響きが先輩の名前を思い起こさせ、彼に出会ったことを想起させ、だから、きっと、もう碧生にとって桜の木は特別なものになってしまった。
(先輩)
「あまり近づかないように」
ひんやりとした声に、息が止まるかと思った。
はっとふりむく。桜の枝が届かないあたり、制服姿の人が静かに佇んでいる。
「……先輩?」
「なんだね、幽霊でも見たような顔で」
幽霊ではない証拠のように、佐倉は聞きなれた声で返事をした。まだでも、夢かもしれないと碧生は半ば疑いながら、尋ねてしまう。
「桜は拐すのがうまい。君みたいに呆けた顔をしていればあっという間に攫われてしまうよ」
「え、えっと、おれ、先輩以外についていきません」
そう答えながらもまだ呆然としている。さっきまで考えていたその人がそこにいる。けれど、本当に、いるのだろうか。
「その、なんでここに」
「別に。散歩だよ」
「学校やすみなのに」
「君だって」
同じじゃないか、と肩をすくめるやり方も声の調子も佐倉だ。いつもどおりのこの人だ。そうわかって、わっと嬉しくなって、思わず大股でそちらまで近づいた。うれしさのまま、飛びついてしまった。
「先輩!」
「なんだね急に、犬か!」
「せんぱい、先輩、ちゃんといますよね?」
ぎょっとしたように体をひくが、かまわず碧生はその肩や胸にべたべたと触れる。確かに固さがあり、そこにいる。実感がある。夢、では、ないはず。よかった、と思わずためいきをついたところで、ようやく最後にあった日――終業式の日、彼は、何と言っていたかが頭をよぎった。
『君と一緒に居たくない』
そんなことを言われた、はずだ。さっと血の気が引く。だきついた腕をばっとはなして、そのまま一歩後ずさる、のだがなぜか佐倉が一歩近寄ってきた。
「なんだね」
「あ、あの、ご、ごめんなさい」
「何を謝る」
「その……おれと、会いたくなかったかもって」
思いだして、と、もそもそ喋っても佐倉は変わらずじっとこちらを睨むように見つめ、距離を詰めてきた。ひえええ、と碧生が下がろうとして、踵が何かにつんのめる。
「あっ」
そのまま後ろにひっくり返りそうになるところで、彼の手がぱしっとこちらの腕を掴んだ。
「落ち着きなさい」
重心が若干後ろの状態で、それでも彼の腕は揺るがない。花びらがちらちらと舞い、暮れかけた青とも朱色ともつかない空があり、そこに精悍な顔立ちが浮かび上がっていた。切れ長の瞳は、深い藍色にも紫にも見える。こんな色だっただろうか、この人の瞳は。
「……は、はい」
「先日は失礼した――もう、あんな醜態はさらさないよう気を付ける」
そう呟いて、佐倉は少し首を傾ける。眉を寄せ、まるで困ったように、苦く微笑むような表情をうかべて。
「……僕が、怖いかい」
その声は、静かに、耳を打った。
意味を考えるより先に、口が開く。声がでる。自分で考えるよりも碧生の身体の方がずっとはやい。
「こわくないです」
佐倉は掴んだ手をひるんだように緩ませた。碧生は足を一歩踏み出す。その顔を睨むように見上げて、今度こそはっきりと、自分の意志で、告げた。
「こわくない、です――先輩がいてくれて、ほっとしました。だから」
目を合わせる。この間の表情がまるで嘘みたいに、いまはいつもどおりの佐倉の表情で、瞳で、気配だった。あの獣めいた、なにかを必死に抑え込んでいるような空気はない。今度は碧生から、彼の腕に手を伸ばす。彼は立ったまま、拒むことはなかった。
「……変な子だね」
「あ、そうだ。あけましておめでとうございます」
「今それを言うのか」
「だって、言いそびれて。先輩どこ探してもいないし。先輩、今年もよろしくおねがいします」
それでも、いいのかなと思いながら頭を下げる。相手はしばし無言だったが、小さく吐息をつくと、「うむ」と小さく返事をしてくれた。
んん、と背伸びをひとつ。暮れ行く空を見上げながら碧生は早足で歩いている。カバンの紐をぎゅっと握りしめて、アルバイトの帰り道だった。スタジオの設営バイトは力仕事だから大変だけれどその分お給料もいい。
(もうちょっと筋肉つけたほうがいいのかな)
一緒にバイトに入っていた人に「本当にこれ運べる? 君、華奢だから心配になるな」と笑われてしまった。なんとなく自分の腕を握ってみて、たしかに筋肉はついていないかも……と若干がっかりしながら、くたびれたスニーカーで緩い坂道を下る。もうすぐ梅雨があけるだろう空はようやく暮れなずみ始めた。朝も早くから明るいのでいい季節だ。
陽が落ちる間際の、昼間のふりそそぐような日差しではない。けれどまだ日が落ち切らないぼんやりと青い空はなんだか不思議だった。
そういえば、今日は夏至だと誰かが教えてくれた気がする。一年で昼間が一番長い日。今日を折り返して、明日からは少しずつ日が短くなっていくのだと。はふ、と額ににじんだ汗を碧生は手の甲で拭う。それから、あ、と思い出してハンカチをひっぱりだし、ごまかすようにもう一度同じところを拭いた。
(先輩、こういうのうるさいから)
彼の声、姿を思い出せば、すぐに胸の中があたたかくなる。佐倉は、今まで見てきた人たちとは全く違った。だれかに阿るということを知らないらしい態度で、堂々として、自分の正しさを疑うことのないゆるぎない視線はまぶしく、憧れてしまう。あんな人に会えるなんて、故郷を出て、高校に入ってよかったのかもしれないとようやく思い始めている。たまにはいいこともあるのかもしれない、と碧生はひとり唇をゆるめてしまう。自分なんかの人生でも、たまには。
ハンカチをポケットに戻し、袖がたるんでいるシャツを手の甲にひっかけるようにいじくりながら、いつも通りの道を何も考えず歩いて、角を曲がった。
その先に、誰かが立っていた。
「……ん?」
思わず、足を止める。
ぶつかりそうなほど近くはない。二、三メートル、数歩あるけばたどり着けるくらいの距離に、それは――いた。
黒い髪が頬やうなじを隠すように垂れ、前髪も長い。頭の上に小さなかざりみたいなのがふたつ、くっついている。映画とか絵本に出てきそうな、とにかく、現代にそぐわない雰囲気だ。和服の、着流しというやつだろうか。帯が細く腰のあたりに結ばれているし、背格好も男性のように見えた。
つられるように足元をみて、そこになにか紐が垂れているのが見える。
その人が――いや、ひとなのか? 人影に見える。けれど、頭の上についている飾りはやわらかそうに垂れ、なんだか、動物の耳みたいに見えた。
背筋がぞっとする。いつものやつだ、と思う。名前を付けることはできない。けれど、何度も、形を変え場所を変え、こうしてなにか、よくわからないものに遭遇することが、ある。こっちに来てからも一定の間隔を置いて、急に、目の前に差し出される。ここ最近はだいぶ、減っていたのに。
(逃げなきゃ)
それだけ思って、碧生は唾を飲み込む。スニーカーの底がじゃりを踏んで、かすかな悲鳴のように響いた。
目の前のそれが、顔をうっそりとあげた。
「え」
逃げ出そうとそう思っていたのに、突然全身に冷たい水をぶっかけられたように驚いて、碧生の足が止まった。
それは静かにこちらを見ている。
二つの目の色は不ぞろいで、黒々とした前髪の下からこちらをひたりと見据えている。鼻も口も当たり前についていて、不健康に痩せていた。長い袖をまとわせた腕がよろよろと持ち上がり、こちらに、手を伸ばすように、動く。
自分とまったく同じ顔をした、耳と尾――そうだ、それは、黒い耳と尻尾だ、なにかの動物の、そういったものをつけて、どう見てもこの世のものではない気配を漂わせながら、それが、口を開く。
おぞけが走る。はやく、逃げ出さなければ。
そうわかっているのに、ちっとも動けなくて。
それが、口を、開いた。
「おまえは かみに くわれる」
その声は、聴いたことがあった。友達がふざけて動画を撮って、それをあとでみんなで覗き込むとき。ちょうど、こんな、すこし間延びした、声が。
(おれの、顔して)
碧生と同じ顔と声をもった、それが。
「な、なに」
確かに日本語ではあったが、意味がわからなくて聞き返してしまった。かみ? 神? 上? なんのこと、くわれるって、食べられるってこと?
途端、目の前のそれがぐらりと揺れる。そのまま真横に地面に倒れ伏して、あ、と思ったままに惚けてその動きを見守るしかできない。生き物の重さをまるで感じさせない動きでくずれおちた、と、瞬きをした。
もうすでに、そこにそれの姿はなかった。
「……なに、いったい」
喉がからからに乾いて、声がはりついている。咳込んで、けれどちっともまともに動かない声帯や、手足を持て余して、ただ、それが倒れただろうところにすぐ近くの建物の影が長く射していて、それだけだった。
(なんだったんだろ)
机に頬杖をつきながら、ぼうっと外を見ている。
昨日は、結局しばらくあの場所に立ち尽くしていたがどうしようもできなくて困惑と不安を抱えたまま碧生は家に帰った。眠ろうとしても目を閉じた途端、あの変な現象の――自分と同じ顔をして、耳と尾をつけた変な格好をした存在――姿が思い浮かんでうまく眠れず、結果として寝不足だ。おかげでずいぶん寝坊したし、朝食も食べる気が起きずそのまま来てしまった。
「寝不足? 顔色悪いけど」
ひらり手のひらが目の前に突き出され、は、と顔を上げると根来がこちらを覗き込んでいる。慌てて笑顔をつくり、首をかしげて見せる。
「昨日ちょっと眠れなくて。じめじめしてるからかな」
「そりゃかわいそう。でもそろそろお昼たべたら?」
「え? もうお昼休み?」
ぽかんとしてそう聞き返すと根来はからかうように笑った。
「まったく……なにかもってきてる? 購買でも一緒に行く?」
「う、でもお昼時って混雑するから苦手なんだよ……」
「そんなこと言ったって、腹減ったら午後ばてちゃうよ」
平気平気、と手を軽く振って、でもまさか昨日あったことを正直に言うわけにもいかず、どうしたものかと視線をうろうろさせているところで、ちょうど、廊下を見知った人影が通り過ぎるのが見えた。
「あ」
がたん、と唐突に立ち上がる。福崎がびっくりしたように「どうした?」と呟く。
「あ、その、ごめん、おれ、用事思い出した!」
「日浦、そっち、やめたほうが」
「根来くん、ありがと」
なにか言いかけている彼を遮り、廊下に向かって歩き出す。本当は走っていきたいけれど人や机やいすや障害物がたくさんあってうまく進めない。廊下に出て、たしか、と彼の進行方向に目を凝らせば、遠く、階段の方に曲がる後ろ姿が見えた。
「――先輩!」
慌てて駆けだす。昼休みらしく廊下は生徒であふれていて、隙間をどうにかすりぬけてその後ろ姿を追いかけた。教室からでたときはそんなに離れているとは思わなかったのだが、走っても距離が縮まらない。なかなか追いつけない。足を速める。息がきれてくる。昨日あまり寝ていないからだろうか、なんだか体が重たかった。
(廊下、こんなに、長かったっけ)
は、は、とだんだん息が切れる。酸欠みたいに頭がくらくらしてきた。なんだか視界の隅もくらいし、これは本格的におなかがすいているのか、血糖値がさがっているのか。どうにか廊下の端までたどり着いた。左に階段があるはず、と方向を変えて、階段の上に上履きが見えて、制服のズボンが、階段を上っていく後ろ姿が見えた。こんなところで、教室のある新棟で佐倉を見かけるなんてめずらしい。何か用事があるわけではなくて、でも、昨日見たものが――碧生によく似た、碧生ではない化け物の、変な言葉が、まだ胸にわだかまっているから――彼の隣にいれば、すこし、気持ちが落ち着く気がした。
(いつから、こんなに)
佐倉のことを頼りにしてしまっているのだろう。何の根拠もなく。
自分で自分が不可解になる。それでも、足を止められない。同級生の根来や福崎のことは好きだ。信頼している。けれど彼らとは違う。バイト先の人たちとも、施設の人たちとも違う。自分でもわからないくらい、佐倉のことを信頼してしまっていて、不安になるくらい。
あの匂い。あの声。視線。言葉。ひとつひとつが、すっかり、碧生のなかに根付いてしまっていて。
「先輩、まって」
呼びかけながら階段に足をかける。
こんなに近くで呼んでいるのに相手は全く気付いた風ではない。それともうまく声が出ていないのだろうか? は、は、と短く息をついて、胸がどきどきうるさいのを押さえつけるように片手でこぶしを作りシャツの上から押しあてた。
「佐倉、せんぱい」
階段は踊り場で折れ曲がり、彼の姿が見えなくなる。ぞっとして足を急がせ、追いかける。
「先輩っ」
なんで待ってくれないのだろう。振り向くくらいしてくれてもいいのに、と思いながら、でも、そうかあ、と思っている。自分のことを待ってくれる人なんて、だれもいないのだ。碧生が思うほどに相手が碧生のことを思ってくれることなんて、ない。
(みんな、おれのこと、捨てていくから)
実の両親にすら見捨てられた自分なんて、誰にも顧みられないのだ。当たり前じゃないか。
(ちょっとだけ、期待してしまったのかも)
先輩は、なぜかこちらをみてくれたから。追いつくのを待っていてくれたから。遊びに行っても拒んだりしなかったから。
学校でも数少ないけれど、根来や福崎みたいにお話できるひとができて、一年前よりずっといまのほうが楽しくて、今の生活がうれしくて。
期待、して、しまうから。
「せんぱい、」
は、と息をついた。なんだかもう、足が重たい。踏み出せない気がして、頭がぐらぐらと重たくて、しゃがみこんでしまう。がくりと膝を、床についた。
(おれのことなんて、)
だあれも、見てないから。
目蓋が重たい。貧血かもしれない。ずるりと力がぬけて、手すりを握っていた手がこぼれおちる。碧生は床に跪いてそのまま横に倒れ込んで――まるで昨日の再現だ、とかすかに白くなる意識の中で考えた、の、だったか。
遠くで水音がする。
(……あめ?)
ぴちゃん、と雫が地面に落ちる、かすかな音。ゆっくりと、不規則な速度で。音が、ひびく。
雨音の静けさは、嫌いではない。けれど時折淋しくなる。ひとりで膝を抱えていて、誰も迎えに来てくれないことを思い出すから。誰も帰ってこない部屋で小さく丸まって寝そべっていた。少しでも手足を伸ばしていたら変なものがかすめて、それが立ち上がってきそうだから。
こわくて、目を閉じて。自分の目蓋の上から手をおしつけて、なんにも見えないように。
(おれのことなんて、だあれも見てないから)
実の親ですら、碧生のことを見なかった。
施設の職員たちはやさしかった。でも、碧生はあくまでたくさんいるかわいそうな子の中の一人だった。碧生よりかわいそうな子はもっとたくさんいた。夜中に泣いていた弟たち。ぶたれた痕が腕や背中にくっきりのこっていた妹。ときおりお迎えがきて外泊に出かけて行って、でもうまくいかなくてやっぱり戻されている子たち。そんな妹や弟にすがりつかれて、ぎゅっとだきしめて、寂しさを寂しさで重ねて、こうやって生きていくしかないのだと思って。これが世界のすべてで、これ以上いいところになんていけないのだとあきらめて。
さみしくて。やるせなくて。
たくさん伸ばされた手が、視線が、くるしくて。
(……かみさま)
だから。
あの日、くるしくて。耐え切れなくて。叫びたくて、碧生はひとり、夜中にベッドを抜け出した。消灯時間以降の外出はもちろん禁止されているから靴を取りに行く暇もなく、けれど、どうしても、どうしようもなくて。洗濯を干すとき用の、縁側に出しっぱなしの職員のスニーカーに足をいれるとぶかぶかだった。そのままどうにか歩き出す。
なんでこんななんだろうって。碧生は、どうして、自分ばかりこんなにかわいそうなのだろう、こんなに、誰にも愛してもらえないのだろうと、ただそんな感情で支配されてうまく制御できなかった。いい子の顔をかぶれなかった。
くるしくて。
飛び出したまっくらなお外はこわくて、いろいろなものが手招きしていそうで、何も見ないよううつむいて無我夢中で走って、走って、ころんで、そうするともう一歩も動けなくなって。
うずくまって、でも手をついて、顔を起こして、なんだかごちゃごちゃしたところだった。ゴミ捨て場、と思った。なんだかいろんな木材のようなものが堆積していて、ひとつの塊になってこのまま飲み込まれそう。
ふと、顔をあげて、その暗闇の中にきらりと光るものがあった。
碧生はごしごし目をこすって、膝をついたまま近づく。ざりざりとむき出しの膝がこすれて、スニーカーが脱げそうだった。後ろから引っ張られそうな予感があって、ふりきって、足を動かす。手を伸ばす。
「ん……なんだろ、」
固い物にふれて、指先でそっとなでると面で、取っ手がある。ちいさな、両手で包み込めそうなくらいの大きさの扉だった。たぶん。思い切ってのひらでふれてみる。砂利と埃でざらりとして、でも、さっきまでの背後から感じた嫌な感じが薄らいだ気がして、碧生はその扉を撫でつづけた。
手で輪郭をぺたぺた触ると、どうやらそれは小さなおうちのような形をしていた。木造でとげがひっかかるかも、と後で気づいたが、運よくそういうことはなく、ただ屋根のあたりをなでていると、冷たい水が手を打った。
「わ、」
雨? と慌てて空を見上げる。けれどしばらくそうしていても顔に雨粒は降ってこない。
なんだったのだろう、気のせいかな、と思いながらその木でできたちいさなおうちに腕を回してみた。なんだかもたれかかるのにちょうどいい。冷たくも暖かくもない木の感触が、ささくれ立った心を少しだけ慰めてくれるようだった。
静かだった。
自分のことを呼ぶ人はだあれもいない。
そのことが、さみしくて、でもうっとうしくて、だから。
「……このまま」
しんじゃえばいいのかな、とするりと思った。けれど口に出す前に、また、今度は頬に水滴が落ちた。
ぱっと顔をあげる。真っ暗な空が、ふと、雲が動いて白い月の輪郭が、映った。まっしろい縁。見上げた顔を照らし出すその白さに、そこに、なにかがかすめた気がする。暗い中でぼんやりと鈍色の、はなびらみたいなうすっぺらいものがぺたりと落ちて、額にくっついた。
「……? あ、これ」
つまむと花びらよりは厚さがありこしがある。それにきらきらしていて、少しだけ強度がある。魚の鱗、みたいな。でもそれにしては大きい。
月の光に照らし出されて、ようやく碧生は自分が寄りかかっていたものが小さなお社だったことに気が付いた。まるでゴミ捨て場みたいに朽ち果てた木材たちに囲まれて、お社自体も粗末なものに扱われているようで、慌てて手を離す。一歩下がって、正面から扉に向きあって慌てて弁解してしまう。
「わ、あ、ごめんなさい、えっと、神さまのおうちだ……わあ、どうしよ、よしかかちゃった……」
おこられるかも、ばちがあたるかも。信心なんてちっともないくせにそう思ってしまって、けれどお供え物のひとつもない。
慌ててポケットを探ってみるが着の身着のままとびだしてきたので何も持っているはずもない。お賽銭だってあるはずがなく……と思ったところで、指先に固い感触が触れた。
「あ、」
おやつにもらってひとつ残しておいた飴玉が、ころりと出てきた。こんなもの代わりになるのだろうか、と申し訳ない気持ちになりながら、そうっとお社の前に置いてみる。
「んと、これしかなくて……あ、でもこの飴、おれのいちばんすきなやつで。赤くて、いちごの味するんだよ。おなかがすいたり、さみしくなると、あまいものたべるとちょっと、らくになるきがするから」
お社に向かって飴玉の説明を必死にしてみる。当たり前に返事はない。でも、ええと、と頭を必死に動かして、でも、でも、と考えている。
「おれ、なんにももってなくて……だからこれ、おれのもってるなかで、いま、いちばんいいもの、です。神さま、んと、勝手によりかかってごめんなさい。それから、えーっと、神さま、なんの神さまかわかんないけど……雨降ってきたら神さまも寒いよね。きっと。神さまにもいいことがありますように」
こういうときに何を考えればいいのかまったくわからなくて、碧生はひたすら自分の頭の悪さに辟易しながら、ええとええと、と思い浮かんだことをぽろぽろとしゃべり続けた。
暗闇の中で、月の光が射してお社の屋根の軒が白くうかびあがっている。新しくはないけれど、丁寧な作りに思えた。きっとこの神さま――神さま、でいいのかな?――のために誰かが心を込めて作ったのだろう。ハンカチの一つも持っていなくて埃をぬぐうこともできないので、せめて、と手のひらでそうっと撫でて、たまった砂利を払い落とした。手のひらがざりざりとこすれて、指先にとがったものが引っかかる。すこし指先が切れたかもしれないが、暗くてよくわからなかった。
「ひとりぼっちかなって思ったけど、こうして神さまと会えたから、まあ、いいかな。おれ、ひとりぼっちだけど、でも、神さまもこんなところでひとりぼっちかなあ。そっかあ、さみしいね」
しゃべりながら、先ほど飛び出してきた時の悲しさ、怒り、やるせなさ、言葉にならない様々な感情が少しずつ落ち着いてきたのが感じられた。口にすることで、走ることで、あるいは時間をおくことで消化できているのかも。碧生はとつとつとしゃべり続ける。
「ありがとう、神さま――おれ、またここ来る。また飴、持ってくる」
勝手にひとりぼっち仲間に認定して怒っているかもしれないが、お社は静かにたたずんでいて、なにも否定もしないし受け入れてくれるようでもない、その距離感が、心地よかった。
大人たちは、優しいけれどときどき気を使われすぎている気がする。あるいは、性格の合うとか合わないとかがあって難しかったりする。共同生活で互いに気を使うのは当たり前で、だから、たまに、しんどい。否定しても逃げ出しても、結局、碧生はあそこに帰るしかない。みんなのことは好きだけれど、たまに息苦しい。
「神さま……なんていう名前かなあ……どこかに書いてあるのかなぁ」
んん、と顔を近づけても暗くてまったくわからなかった。はあ、とため息をついて、それからもう一度飴をまっすぐ置きなおして、ゆっくり立ち上がった。擦りむいた膝と手のひらにようやく気が付いたけれど、帰って洗うしかないか、と当たり前のように思う。
帰るしかないのだ。たとえ歓迎されていなくとも。そこが、自分の唯一の場所じゃなくても。
「じゃあ、またね。神さま」
ぺこ、と頭をさげて踵を返す。暗闇の中を歩いていくのは先ほどと同じなのだが、どうしてか、きた道よりずっと気持ちが落ち着いている。勝手に神さま相手にしゃべっていたからかもしれない。ポケットの中に手を突っ込んで空っぽになっていることを確認して、ちょっとうれしくて振り向く。
「あ」
お社の前に、白い人影があった。
え、と思って瞬いて、手で目をこする。
そこには誰もいない。ただ静かに古びたお社があるだけで、気のせいかぁ、とあくびをしながらまた来た道をとぼとぼと歩いた。来るときに感じていた引きずり込まれるような気配はいつの間にか消えている。
お社の前に置いた飴玉も見えなくなっていたけれど、暗いし遠ざかったからだと思って碧生はあまり気にしなかった。
ぴしゃん、と雨が頬を打った。
は、と目を開ける。碧生はひとり、起き上がる。暗闇の中、地面についた手のひらがじゃりっと鈍く痛んだ。
「……かみさま?」
懐かしい夢を見ていた気がする。ずいぶん昔の話、施設にいたころの話だ。あのあと、どうにか迷いながらも施設に戻って、次の日から何度となくあのとき訪れたお社を探した。最初の数回はたどり着けた、気がする。けれど、そのうち道に迷ったのだろうか、それともなにか別のきっかけがあったのだろうか。どうしてもたどり着けなくなって、そのうちすっかり忘れていた。
どうしていまさら思い出したのだろう、とぐらぐらする頭を押さえながら瞬きをして、目を閉じても開けても、まったく視界が変わらないことに気が付いた。
真っ暗だった。
「……え?」
ここ、どこ、と自分の膝を触る。制服のズボンの感触がある。廊下を、走っていた。なるちゃんに心配されて、でも、廊下にあのひとを見かけて、追いかけた。そこまではなんとなく覚えている。
ぴちゃん、ぴちゃん、と水音がする。
ゆっくりと、気配が近づいてくる。
(ふりむいたら、だめ)
それはわかる。こういうことは何度となくある。その度、こわくても、不安でも、誰にも言えないままに、ただそれが過ぎ去るのをじっと待っていたけれど。
近づいてくるのが、わかる。雨音、ではない。濡れた、なにかを引きずる音がする。息を細く吸えばむっとする臭気がたちこめていて、思わず息を止めた。くるしい。こわい。手が震える。
なんで?
(なんで、おればっかり)
喉の奥から悲鳴がこぼれそうになるのをこらえて、徐々に水音が近づいてくる。後ろではない、上からだ。
そう気づいて、顔をあげた。
見上げた先は、まったくの虚無だった。
天井も黒に塗りつぶされていて遠近感が狂う。手を伸ばせば届くほど低いのか、あるいは果てしなく高いのか。
なんにもわからないのに、頬に、冷たい水滴がおちて、跳ねた。
耳鳴りがしそうなほどの静寂。だれもいない。何の生き物の気配もしない――自分の呼吸しか、聞こえない。
じっとりとまとわりつく湿気がある。肌全体をそうっと包み込むような、毛穴をふさがれていくような不快感。唾を飲み込んで、目蓋を一度閉じて、ひらいた。
そこに目があった。
「っ、ひ」
喉の奥で悲鳴がこぼれる。うなじがぞわっと震えて、一息遅れて心臓が弾かれたように走り出した。こめかみまで鼓動が走って、目尻が震える。
目がある。人間の目には思えない。黄色い、異質な瞳が二つ浮かんでいた。小さくて近いのか、大きいけれど遠いのか、それすらわからない。ただ目がある。
ぴちゃん、と額に水がおちる。
「な、なに、なにが、これ」
これ、どういうこと、と震えながら碧生は己の体をかき抱く。それでも指が、がたがたと悪寒のように震え続けている。あきらかに、異質だ。
たとえば、帰り道で追いかけられたとき。
遠くからのぞく着物の袖とその先の白い手をみたとき。
桜吹雪の中で立っていたとき。
異質さは現実のすぐとなりにあって、けれど決してなじむことはなかった。一歩足を踏み外せばもう戻れない。そう本能で感じていた。だから、でも、なんで?
「――その目」
ふと、声が聞こえた。
かすれて濁った、女の声だった。
目蓋のあたりに風がかすめて、咄嗟にかばうように腕をかざす。制服の袖が額にこすれる。ちゃんと感触は残っている。夢ではないのかもしれない。夢なはずがない。こんなにくっきりと肌で感じている。知っている。
このおぞましい気配がいつも、どこか、まとわりついていた。どこにいても。ふりむけばそこにある。誰かに見られている。なにかに呼ばれている。こわくて、でも、誰も信じてくれなくて。
誰にも助けを求められないまま。
「え……?」
震える指先に、ふとなにかが絡みついた。
細い糸のような、かすかな圧迫感だ。あつくもつめたくもない、つるりとなめらかな、温度を伴わないものが碧生の指に巻き付いている。振り払おうと手を動かそうとして、けれどいつのまにか自分の腕が動かせなくなっていることに気が付いて愕然とした。
「なに、これ」
手が動かない。
気が付けば、反対の手も同じように糸らしきものが巻き付いていた。足も、身体も、細いほそい糸状のもので締め付けられて、動かせない。目をあけても真っ暗闇で何も見えなくて、また目の近くを風がかすめたような気がして逃げるようにうつむいた。顔だけはまだ動かせるようだった。
「その瞳が目印だよ」
聞き覚えのない女の声だった。じわじわと湿度があがって、息苦しくなっている。百合の花に似た匂いがむせかえるように漂っている。首を振って身じろぎしようと試みていると、またその声が聞こえた。
「片方だけの黄色い瞳。ふふ、さぞかし、おいしいんだろうね」
存外近くからささやかれている。
そう気づいて、ぞっとする。ひきつった笑い声が頭上からしていた。ぴちゃん、ぴちゃん、と水が落ちてくる。俯いて、けれど、首にも細い糸の感触が絡んだ。きゅっとしめつけられて、息がしにくくなって。
「お、おれ、おいしくないと思うけど」
たどたどしく、言い返してしまった。これでは声が聞こえていると言っているようなものだ。無視すべきだったのだろうか――だが、ためらいながらそう答えた途端。
「あははははははは」
まるで花火が爆発するような大声が耳元で鳴った。
わっと心臓がとびはねて、耳をふさぎたいのに手がうごかない。片手は宙に吊られたまま、だんだん指先から血の気がなくなってきた。冷汗が首筋をつたう。
「ずっとずっと、手招かれていただろう? あの手この手でみんな欲しがっていたのに。ああ邪魔ばかりされて、でもようやく! あはははははは! みーんなその目を食べたいと思っていたんだよ、そのいびつな黄色い瞳! それが目印だよ!」
大きな声が耳の奥まで響いて頭の中をがんがんゆさぶっていく。こわい、何を言われているのかわからない。
食べる? 人間を? そもそもこれは、なに。
「なに、やめて――――こわい」
思わずそうこぼすと、さらにけたたましい声が響いた。どれだけの空間なのかわからないけれど、真っ暗ななかで、匂いと笑い声が充満していく。湿った空気で、喉が、つまる。頭の奥がぎゅっとつかまれて、なんにも考えられなくなっていく気がする。
「かわいいねえ、かわいい。ほら、目をあけて。おいしくたべてあげるから」
これがなんなのか、理解できない。見えないから、見えたとしても、いったいなにを言っているのか、これからなにをされるのかわからない。
怖くて、理解できなくて、ただひたすら目をつぶる。糸に逆らって顔を伏せる。
そんなこちらの抵抗をあざ笑うように、首に絡んだ糸が一際きつく締め付けられた。
あっさりと縊られて、せき込んでしまう。
息が、できない。
「静かになったね、いいこ、いいこ。どうせおまえなんて誰も必要としていないんだよ。みんなお前のことを気持ち悪いと思っているよ。ここで食べられてしまったら、もう、楽になれるよ」
さきほどまでの大声とは違い、急にやさしい、甘やかな声で女が囁く。べたべたとからみついてくる湿度は、濡れた感触をともなって頬を撫でた。はっきりと、先ほどとはちがう、濡れた粘膜をおしつけられているとわかって、細く息を呑む。
「もういいじゃないか、あきらめて。ねえ? いつもそうやってきただろう? お兄ちゃんだから、みんなにゆずってあげるんだろう?」
その声は、どこか施設のスタッフたちに似ていた。碧生くんはお兄ちゃんだから、大きいから。ほかの子はもっとかわいそうだから。だから。だから?
ぐらぐらと頭が揺れる。息が、くるしい。頭が働かない。最初から、おれなんて、どうでもよくて、まぬけで、考え事もうまくできなくて、だれにも必要とされていなくて。
指先の感覚がなくなってきた。しめつけられた喉もなんだか遠い。
まぶたが、重たい。
「ほら、いいこだから目をひらいて? そうだ、かあさんが頭をなでてあげようか」
百合の匂いが濃くなって、吐きそう。頭が割れそうに痛い。くるしい。考え続けることができない。ただ体の感覚に引っ張られて、ぼんやりとしている。
短く息を吐く。吸う。それすら、たどたどしくて、つかえてしまう。
「いいこだね、さあ、目を開けてごらん」
顎先に濡れた感触がふれて、顔を上向かされる。瞼の力が抜けて、ゆるりと目を、ひらいた。
黄色い異形の光がすぐ目の前にある。黄色。自分の右目とおなじ。いびつな。きもちわるい、色。
もう、いいのかな。
そう思って、目のふちがじわりと滲んだ気がした。
「それから離れろ」
凛とした鈴の音のような、涼やかな声がした。
不意に、顔を掴んでいたそれが消える。がくりと身体ごと前のめりに崩れ落ちて、地面に叩きつけられる、と予感したけれど、すんでのところで柔らかいものに抱き止められた。
(あ、)
馴染んだにおいに、瞬く。なんにも見えないけれど、真っ暗だけれど、この感触を、においを、かたちを、知っている気がして。
勘違いだとしても。
「先輩……?」
しゃら、と金属がこすれるようなささやかな音がした。支えてくれる腕の中で、ふと、彼がいつもの制服ではないことが頬に触れる布の感触でわかった。でも、たぶん。間違いない。見えないけれど。でも。
「先輩、佐倉先輩だ? なんで?」
「喧しい」
ぴしゃりと叱られて、その声はやっぱりこの人で、途端にほっとした。あちこちに絡んだままの糸の気配は残っているけれど、それでもさっきよりしっかり自分の意志で動く腕で、その胸に縋りつく。
「先輩だぁ……よかったぁ。さっきあんなにおいかけたのに、呼んだのに気づいてくれなくて……」
「この愚か者。君はいったい何を追いかけていたのか、わかっていないのか」
ぴしゃりと怒られて、え、と瞬く。だって佐倉先輩の背中、と思ったけれど、まだ頭がぼうっとしていて、うまく考えられなかった。まごついたこちらにむかって、はあ、と重たくため息を吐き出すと、一層強く抱きしめられる。あ、と驚いて身じろぎすると「逃げるな」と叱咤された。
(逃げようなんて思ってないのに)
困ってしまって碧生は顔をあげるけれど、やっぱり真っ暗で何も見えない。
ふと、さっきまでの百合の匂いもまとわりつくような湿度も、薄らいでいるのに気が付いた。その腕に促されるがまま碧生は立ち上がり、けれど彼の腕が力強く押さえつけてくるので佐倉の胸に顔を埋める格好になっている。
「いい加減にしろ。これは貴様らのような低俗な輩が触れていいものではない」
こちらの背中にいるなにか――さっきまでの、あの、黄色い目――に向かって話しかけているのだ、と気づいて、ぞっとした。まだ、そこに、いるのだ。さっきまでのは、夢でも、気のせいでもなくて。
「貧相な辰風情が」
女の声が恨めしそうに響く。タツ? なんのことだろう。その恐ろしい声を聴きながらじっと息をひそめていると、佐倉が高らかに笑った。
「はっ! 貴様のような下賤な蜘蛛如きに言われても片腹痛いね。速やかにこの場から退くのか、それとも骨の髄まで焼き尽くされるのか、好きな方を選ぶがいい」
身体越しに響く声がいつもよりずっと深く、頭の奥を揺さぶるようだった。同じ声のはずなのに。同じ、佐倉先輩のはずなのに?
(ほんとうに、?)
不安がよぎる。けれどりんと涼し気な、花の匂い。これは、彼のものだ。この手も、気配も、声も、佐倉のものだ。
(そう、信じたい)
目の前の体に頬をすりよせる。目をぎゅっとつぶると涙がこぼれそうな気がして慌てて唇を噛んだ。
「僕はいま、たいそう機嫌が悪い。手加減はできないのだが」
しがみついた身体が、ふいに、熱くなる。燃えるような風が頬の周りをかすめて、びっくりして顔を離すと頭を押さえつけられた。
「わ」
「おとなしくしていろ」
「……はぁい」
なにがなんだかわからないけれど、この人の言うことを信じたい。信じたい、と思うのは碧生の気持ちで、だから、信じる、と自分で決めた。
胸に顔をうずめると、褒めるように頭を撫でられた。ちょっとくすぐったくて、うれしくなって、鼻先をぐりぐりくっつける。さらりと肌触りの良い布にこすれて、彼のやわらかい花の匂いがして、ほっとする。
足元がざあっと熱で撫でられる。びっくりしてそちらを振り向こうとしても頭を押さえつけられてうまく見えない。どうにかうつむいた視界の隅が、赤く、染まっている。ちりちりと細かな音がして、背中の方がぼんやりと暖かい。
(――――火、)
花の匂いが濃い。いつもの、この人の匂いだ。ときおり爆ぜるような高い音がするが、いったい何が起きているのか見えない。ただ、彼がいる。それしかわからない。べたつくような視線はまだ途切れ途切れに残っていたが、そのうち、ふつりと消えた。
ふいに「つかまっていなさい」と短く囁かれる。
「え、……うわっ」
足元が急におぼつかなくなって、わっとわからないままにその胸に縋りつく。ぎゅうっと腕につかまって、目を閉じて、「もういいよ」と言われる。
さっきまでのおぼつかない浮遊感は消え、いまはしっかり地面に足がついているし、いつの間にか視界が戻ってきていて、階段の、踊り場だった。ぱちぱち瞬きをする。だれもいないけれど、でも、校舎だ。さっき走ってこの人をおいかけたところだ。
「……ええ?」
どういうこと、夢でも見てた? と戸惑いのまま視線をうろうろさせる。碧生の手が何かを掴んでいて、それは見上げれば佐倉の袖で、当たり前に制服姿のその人がこちらを見降ろしているので、「ひえ、」と高い声を上げてしまった。
「な、なに⁉」
「喧しい」
見慣れた格好の見慣れたその人の、その袖をしわがつくほど握りしめていることにようやく気が付いて慌てて手を離す。一歩さがるとくらりとめまいがして、そのまま崩れ落ちそうになった。
「わ、」
「チッ! 粗忽者め」
あぶなげなく背中に手を回され、すんでのところで背中から倒れるのは防げた。あわあわと瞬きをして、窓の外が気づけばすっかり夕暮れになっているのが見えて、わけがわからない。
昼休みだった気がする。気が、する? なんのことだっけ。
「両足に力をいれて、地面をかんじて。そう、立てるだろう」
言われるがままに足に意識をやって、しっかり、立ち直す。ちゃんと地面がある。自分の足がある。あ、だいじょうぶそう、と思ったところで佐倉の手がはなれていった。
「すみません……えっと、先輩、おれ……?」
なにかあった気がする。とても怖い思いをした、はずだ。
(その瞳が目印だよ)
黄色い目が暗闇の中で輝いていた。碧生の右眼よりもっと鮮やかな、黄色い色。変な、いびつな、人間じゃないみたいな。けれど、同じだと言っていた。同じだと言われた気がした。
思わず碧生は自分の右眼を手のひらで覆う。うつむきがちになって、喉の奥が苦しくなる。
やっぱり、これは、自分は、変なのか。みんなの仲間にいれてもらえないのか。
(だれも、おれのことなんて)
「日浦」
沈みがちになる思考に、ぴしゃりと名前を呼ばれることで現実に引き戻される。
顔をあげると、佐倉がまっすぐに碧生を見つめていた。目をそらさずに。
「おかしなことを考えるな。君は常々思考が後ろ向きだ、もっと自分に自信をもちたまえ」
「そ、んなこといわれても」
「まあ……そうなるように仕向けられているのだろうね。そのほうが捕まえやすいから」
はあ、とため息交じりで言われて、首を傾げるよりない。仕向けるって、なにが? つかまえやすい?
佐倉は軽く首を振ると、組んでいた腕を解きこちらに右手を伸ばしてきた。そのまま襟首をつかまれて、乱暴に相手の方に引き寄せられる。せっかくちゃんと立ったところだったのに、バランスはあっさりくずれて「わっ」と悲鳴じみた声をあげて相手の肩にぶつかりそうになった。
けれどそうはならない。佐倉の手がこちらの顔を支えるように撫で、かと思うと、ぐっとつかまれる。されるがまま顔を背けさせられ、さらけだした首に、彼の顔が近づいたのが気配でわかった。
「あ、」
首筋に、なにかぶつかった。撫でられるのとはちがう。
ふ、と柔らかく押されて、最初は指かと思った、でも、もっとやわらかくて、かるくて、確かめるように濡れた粘膜がすべって――舌だ。舐められている、とわかって目を見開いた。
ぞわっと肌がふるえる。こわい、ような、それだけじゃないような。
「せ、んぱ、い」
制止にもならない、ただの音だ。佐倉は当然構うことなくしたいように続ける。首のうすい皮膚を唇で食み、軽く舐めて、するどい痛みが走った。
「っ、あ」
噛まれた、と遅れて気づく。うなじがぞくぞくする。痛いだけじゃないなにかがある。くっついたところからじわりと熱くて、燃えそうな気がしてきた。彼に触れられた頬やいつの間にかつかまれている腰、足が絡んで、背中に固い感触があって、壁に押し付けられている。後頭部がざりっとこすれた。
「ふ、……っ、ぁ」
首筋を舐められている。あつい。へんなかんじ。見えないのに肌は鋭敏にその粘膜を感じて、じわじわと変な熱がこもっていく。
佐倉の舌が自分にふれている。
そう理解するだけで、見えないのにその姿を想像するだけで沸騰しそうな頭だ。何も考えられない。制服越しに腰を掴んだ手が大きくて、足の間に彼の膝が割り入って、壁に縫い付けられている。自分の吐息がばかみたいにこぼれて、鼓動がうるさい。耳の奥で鳴り響いている。
「……勝手にどこかに行くんじゃない」
ようやく唇が首筋から離れていって、耳元でそう囁かれた。ぼうっとした頭で、どうにか彼を見ようと首をひねる。顔をおさえつけていた手がはなれて、そのまま軽く、頭を撫でられた。
「印をつけておいたから。もうめったなことはないと思うけれど――日浦」
「あ……はい」
びりびりとあちこちがしびれている。うまく思考が働かないまま、ぼんやりと瞬きをして、碧生は目の前のひとを見つめ返す。
(先輩の、目、なんか、いつもとちがう)
瞳孔がずっと鋭くて、初めて見るような表情に見えた。なじみのない、けれど、知っているような。うっすらと赤く翳った瞳。
(あ、)
以前部室で。指を怪我した時に、それとも終業式のころだったか? あの時の顔に、似ている。
「黄昏時には気をつけたまえ。とはいえ今日のように昼間のこともあるだろうし、不可抗力のこともある。困ったら、きちんと僕を呼べ」
「先輩を?」
「そう」
囁くようにうなずいて、佐倉の大きな手が頬を包み込む。目が合う。吸い込まれそうな、夕暮れ時の瞳。昼と夜のはざまの色。
「名前を呼びたまえ。いつでも迎えにいってやろう」
こくりと、唾を飲み込んだ。
「先輩、って呼べばいいんですか」
「僕の名前を知らないのかい」
ふ、とからかうように言われて、困って視線を彷徨わせる。彼はそれ以上はなにも言わず、こちらの言葉を待っているようだ。
だって。すっかりなじんでしまった呼び名だから。いまさら名を呼べと言われても。
(おそれおおい、気がする)
それでも相手はじっとこちらを見ている。視線に促されるように、おそるおそる、乾いた唇をふるわせる。
「……佐倉、祥、さん」
はじめて、その名前を呼んだ。それだけで舌の付け根がしびれる・
「よろしい」
彼はうっすらと笑うと、ようやく足を離してくれた。そのまま床に座り込みそうになるけれど、彼がさっと踵を返して階段を降りようとするのであわてて追いかける。こんなところにおいていかれたくない。
「先輩、待って」
「帰るよ」
「あ! おれ、かばん、教室かも」
ぱたぱたと足音をたてて駆け寄った。彼は追いつくまで待っていてくれるつもりらしく、足を止めてこちらをふり仰ぐ。鋭い視線がちりっと肌を焼くようで咄嗟に首筋を――さきほど舐められていたあたりを押さえてしまうが、そんなのもちろん気のせいなのだった。
まとわりつく糸の残滓はもう、感じられなかった。
**
からんころん、と軽やかな音にふと首をひねる。
蒼から朱へじわりと空がにじみながら、隙間を縫うように黒い影がばさばさと飛び交っていった。黄昏時、という言葉を覚えた。それがどうやら、自分と相性がよくないらしいことも、なんとなく実感してきた。今更かい、と呆れるあの人の声が聞こえてきそうだ。
(そういえば昔から、そうかも)
下校時刻を過ぎて、ランドセルを背負いながらひとりでとぼとぼ歩いている時間帯。こういうときに、よく変なものを見た気がする。怖かったり不安だったり、けれど誰にも信じてもらえなくてそのうち自分の気のせいか、自分の頭がおかしくなったんだと余計にこわくなって。起きながら見ている夢みたいなものかと思ってやりすごすしかなかったけれど、でもどうやら碧生の気のせいというばかりではないらしい。
(たぶん、この間のあれは、先輩も同じものを見ていたのかな)
あるいは先輩をふくめてすべて碧生の空想かもしれない。そう思うときゅっと怖くなって、どこからどこまでが本当か自信がなくなってしまう。助けに来てくれた、覚えている限りの先輩の気配を、声を、けれどすべて碧生の都合のいい妄想だったら? そもそも、すべて、つくりものだったら。
(おれが、最初からぜんぶひとりで勘違いしとるだけで)
からんころん。
どこかからっとぼけた音がして、はっと物思いから覚めた。
下駄を鳴らす音みたいだ、と思った。いや、下駄を履いている人なんてそんなに見かけないけれど。石の階段を降りながら、なんとなく首筋をさする。
ぼんやりと、手の下の肌がうずく。
『印をつけておいたから』
そう囁く低い声が耳の奥によみがえって、触れられた感触まで一緒に思い出しそうになって、わっと慌てて足を速めた。やっぱり夢じゃ、ない。よね。あんなことまで碧生の脳内の産物だとしたらいよいよ精神の変調を疑ったほうがよさそうだ。
なんだったんだろう、あれ。いったい、どういう意味。その前にあった様々なことがすべて吹っ飛んでしまいそうなくらいの衝撃で、実際、気づけば授業が終わっていて廊下に立っていて、その間のことがもはやあいまいな部分はあるのだった。なんだかひどく恐ろしい夢を見ていた、気がする。そんなもの思い出したくもないからぶんぶん首を振って、そうして記憶の渕に追いやって、だから残っているのはあのときの、先輩の声と、目と。
からん。
軽い音が響く。なんだか空っぽのがらんどうみたいな音だと思った。前にそんなことを言われた気がする。ええと、そうだ、それこそ佐倉に。出会ったばかりの頃。がらんどうだとかなんとか。
からん。ころん。
それにしても何の音だろう? さっきから聞こえ続けている。ぺたぺた階段を降りているのに、ずっとかわらず響いている。ついてくる。
「あ」
ようやく、そこで、変なことに気づいた。だって、同じ場所で鳴っているならその音が遠ざかるなり近づくなりするはずだ。それなのに、こちらが動いているのにずっとおなじ距離感で、同じ響きで聞こえ続けていて。
それはつまり。
(……ついてきてる?)
唾を飲み込む。すこしだけ早足にしてみる。スニーカーの底がふいにとがった石を踏んづけたのか、鋭い痛みが走った。それでもこらえて、足を動かしつづけて。
からんころん。軽やかに、笑うように、音がついてくる。碧生は足を速める。からんころん。からん。ころん。音は止まない。階段はとっくに終わって路地に差し掛かっている。ここを抜けると、もうすぐアパートだ。
ふと、足がなにか丸いものを踏んだ。
「あ、」
バランスを崩して踏鞴を踏む。どうにか転ぶことは避けられたが、足を止めてしまった。今自分が踏んだものは何だろう、と、おそるおそるうつむく。
円柱状の、最初は枯れ木かと思った。それにしてはずいぶん太い枝だ。
いや。ちがう。
夕暮れ時の朱色に染まりながら、それは、どうにも木の枝にしては滑らかだった。両端は少し膨らんで、ちょうど握るのによさそうな太さだな、と感じて、思わず後ずさる。
「え? こ、これ、骨?」
腕の骨、じゃないだろうか。自信はないけれど、生物の授業で見た気がする。とたんに先ほど踏んだ足の裏の感触がよみがえり、うなじが冷えた。
カバンをぎゅっと抱きしめたままもう一歩下がる、いや、でも、下がっては帰れない。あとここを抜ければもうアパートは目の前だ、そう思って、意を決して、足を踏み出して――その瞬間。
からんころん。
すぐ後ろから、軽やかな音がした。
(だめなやつだ、これ)
体が凍り付く。うまく歩けない。唾をのみこむと、ひどく喉が痛んだ。
は、と息を吐く。それでもどうにか一歩、足を踏み出そうと、棒みたいな体に力をいれて、うつむいて。
足元の骨がそこになかった。
ぎょっとして振り向いてしまう。それが、たぶん、よくない。そうわかっているけれど。
そこに骨があった。
「わ、あっ、」
ひ、と息を呑む。骨だ。人体模型というのを理科室で見たことがある。
その骨は、碧生と同じくらいの大きさに見えた。一本一本どうやってつながっているのかわからないけれどとにかく瓦解せず、そこに一応の形を保っている。骨と骨の隙間から後ろの景色が見えている。からっぽの胸を守るように肋骨がまるく空間を作って、腹はなんにもないから背骨がそのまま覗いていた。骨盤も脚の骨もすかすかと白い。白い。オレンジ色の夕日を受けながら、まったくの白さ。
「ひ、」
からんころん。
骸骨が、からっぽの眼窩が、こちらを見ている。顎の骨が、歯が、そのまま風を通して震えた。
『君はがらんどうだから、さぞかし良い音が鳴るのだろうね』
そんなことを、言われたのをなぜか今思い出して、あは、と口が緩んだ。人間なんて結局骨になればこんなにすかすかで、じゃあ、碧生がいまからっぽでも、がらんどうでも、なにももっていなくても、結局変わらないじゃないか。
なんて。
思っていれば、まるで共鳴するように骸骨が。笑ったように見えた。顎がカタカタと揺れる。空いた隙間にからからと高い音が鳴る。からんころんと軽やかな音を立てていたのは骨と骨がぶつかる音だったのか。
こわいのに、なんだか、妙におかしかった。
「まったく」
ため息のような声が聞こえる。ごく自然に振り向く。
当たり前の顔をして、その人が立っていた。いつも通りきっちり首元までしめたシャツにジャケット姿。手には学生カバン。見慣れた格好で、それなのにどこか浮いている。この人はどこに居ても輪郭がくっきりして、世界になじめない姿に見える。なじむ必要を感じていないのかもしれない。碧生はいつだって、なじめなくて寂しい気分にもなるのに、佐倉はそんなのへっちゃらみたいに凛と立っている。
「先輩、だ」
「また変なのに絡まれて」
あきれたように言われて、その瞬間まで、ほんの束の間であっても恐怖を忘れていたことに気づいた。佐倉のそばいると妙に気持ちがすっとして、明瞭な思考が戻ってくる、ような気がする。
「え、あ! そうだ」
慌てて先ほどの場所を振り向いて、瞬く。
そこにはなんにもなかった。ただの見慣れた風景が赤く染まっているだけ。足元を見てももちろん骨なんて一つも落ちていない。
「え……あれ? い、いま、ほねが」
「骸骨は基本的に陽気だからね。別に害はない」
単に興味があったんだろう、とだけ言うと佐倉は歩き出してしまう。この人はいつも説明が少ない。言いたいことだけ言い終えると、こちらがしつこく聞いても面倒くさいのかちっともまともな答えが返ってこなくなる。
「え、先輩も、さっきの、見た? 見ました?」
「一瞬ね」
「うわ、わあ、じゃあそっか……さっきの骨、えっと、骸骨? おれと同じくらいの大きさに見えませんでした?」
そう尋ねると、彼はわずかに首をひねる。視線だけでこちらを射抜くと何かを確かめるみたいに目を眇めた。
「……まあ、そうだね」
「う」
やっぱり、と思った。でも、碧生の身長は平均くらいなので、そう珍しいことでもないのかもしれない。男か女かは骨格でわかると習った気がするが、さすがにそこまではわからなかった。
「さっきの、なんですか……ひょっとしておれの死んだあととかだったりするのかな……」
ああいうおかしなものに意味を求めることが正しいのかわからないけれど、でも、今までは碧生ひとりで見て怖くて目をそむけて終わっていたのにいまは一緒に同じものを見た人がいる、話題にできる。そう思うと、なんだか、つい、考えてしまう。
「だとしたらどうするのだね」
「えっ」
冗談のつもりで聞いたのに、案外普通に言われてどきっとする。
「あ、あれがおれだったら――さみしいなあ」
しどろもどろになりながらそう言えば、佐倉は「なにがだね」と重ねて問うた。どう答えていいのかむずかしくて、もやもやした形の輪郭をなぞるみたいに、両手をもちゃもちゃと胸の前でからめた。
「うん、と……死んでもひとりぽっちなんのかなって思って。もしかしてあのこ、おれをみかけて、なんとなくついてきただけなんですかね。ひとりがさみしいから、かまってほしかったのかなとか」
もっと遊んであげればよかったのか、などとしんみりしてしまったところで、ふいに名前を呼ばれる。
「日浦」
「ん、」
はい、と言おうとしたところで額に衝撃がはしった。
「ひぁっ」
ばちん、といい音を立てて、頭がぐらぐらする。
え、なに、とわけもわからず右手で額を抑えて相手を見れば、佐倉が静かに右手を降ろしたところだった。でこぴんされたのか、と理解する。すぐにわからなくなる。え、なんで?
「そうほいほい異形のものに気を許すな! そんな隙だらけだからすぐにつけこまれるのだ、この愚か者!」
「う、ごめんなさい」
「君は……いや、うん、あれは君じゃない」
「え、っと」
佐倉はふいっとまた前を向いてしまう。広い背中が夕日の陰りを帯びている。すっと伸びたきれいな後ろ姿。
「君をひとりにはさせないから、安心したまえ」
「……? うん」
まだ額は痛いけれど、手でさすっていれば緩和されてくる。ぽかんとしたままその背を見つめていると、相手はこちらに一瞥をくれ、どこか訝し気に問われる。
「わかっているのか?」
「先輩が一緒に帰ってくれるってこと、ですか?」
鞄を背負いなおしながら首をかしげると、佐倉はあからさまにため息をついたようだ。そしてそのままずんずん歩きだしてしまうので、足を速めないととてもじゃないが追いつけなかった。それでもがんばって大股で飛び出すように弾んで、その隣に並ぶ。見上げた横顔はすまして仏頂面で、しばらく何を聞いても答えてはくれないのだった。
**
空気の匂いが変わってきた。夏のうだるような暑さが遠のき、少しずつ緑の色が落ち着いてくる。じわりと葉の先から色が褪せていくような、もうすこしたてば紅葉が始まるのだろうか。
「紅葉ってきもちよさそう」
んんー、と伸びをしながら秋の空気をすいこんでいると隣を歩く佐倉が胡乱なまなざしを碧生に向けた。。
「……あいかわらず君の発言はよくわからないが?」
よくわからないといいながらもきちんと聞き取って返事をしてくれるのがやさしい、とひそりと思う。こういうやりとりのひとつひとつが碧生の胸に暖かなともしびを残していくことを、きっと佐倉は気が付いていないのだろう。
「なんかこう、自分を一枚脱ぎ捨てていくみたいな気がしません?」
「ああ、うん――どうだろうね?」
突拍子もないことを言ってしまったのかもしれない、だいたい碧生がなにか言いだすと変な顔をされることも多いのだが、この人は呆れたり冷めたことを言いつつ、決して無視はしないでくれる。彼なりに考えたようだが、結局納得できなかったらしく首を傾げたままだ。
「ふふ」
思わずその肩によりそうように距離をつめる。
「なんだね、急に。暑苦しい」
などと口では言いながらも彼は嫌がるそぶりはみせないのでそのまますこしだけひっついて歩いた。近づけば佐倉の匂いがする。もうすっかりなじんでしまったその匂いに安心しながら、碧生はつい本音をこぼしてしまった。
「先輩、おれの言ったことちゃんと聞いてくれてるんですね」
「はあ? そりゃこの距離だから聞こえないわけがないだろう。僕の耳がそこまで悪いとでも言いたいのかね」
「えっと、そういう意味じゃなくて。おれが変なこと言っても、変な物みてても、ちゃんと先輩なりに考えてお返事くれるって、うれしいなって」
「人間の会話とはそういうものではないのかね?」
逆に不可解そうに尋ねられて、瞬いた。佐倉の物言いはときどき不思議だ。まるで自分が人間じゃないみたいに、ほかの視線から見ているみたいにしゃべるのだ。まあたしかに高貴な雰囲気のある人なので、碧生みたいな庶民とは感覚が違うのかもしれない。
「――先輩のおうちってどんなかんじなんですか?」
「藪から棒だね」
「考えてみたら先輩の事なんにも知らないです、おれ」
もう一年半くらい一緒にいるのに、顔をあわせても交わすのは他愛のない会話ばかりだ。相手の顔を覗き込むように首を傾げると、逆に見下ろされる。
「――別に、知っても面白くないだろう」
「でも好きな人のことは何でも知りたいじゃないですか」
「……好き?」
変なものでも食べたみたいな顔をして佐倉が呟くので、んん、と口ごもる。
「おれ、先輩といっしょにいるとほっとするし、楽しいです。だから先輩のこともっと知って、先輩がどうしたらうれしいのかとか、どうしてほしいのかとか、そういうのわかったらいいなって」
言いながらなんだかこれは変なんじゃないか、と不安になってきた。一緒にいて嬉しい、だから何かお礼がしたい、飴は何度勧めてもいらないと言われるしじゃあなにか嬉しいことをしてあげられたら、と考えて喋って、喋っているうちにんん、と碧生自身も気恥ずかしくなってくる。なんだこれ。
(こどもが、お母さんのこと喜ばせたいみたいな、そういう……?)
あいにくお母さんとやらがいたことはないのであっているのか実感はとぼしいのだけれど。仲良しの友達のことを喜ばせたい、みたいなかんじだろうか。そうかもしれない。でも、それだけじゃなくて――
「――――生意気な」
「いたっ」
ぴん、と指先で額をはじかれた。びっくりして目を閉じ、立ち止まってしまう。彼もまた足を止めたらしい。人通りの少ない場所で、あたりには誰もいないので邪魔になることはないだろうけれど、でも。
「僕が君になにかを求めるだって? 勘違いするな、僕は誰かに施しを受けるようなつもりはない」
「施しって、そんなつもりじゃないんですけど……ただ先輩が喜ぶこと、できたらうれしいかなって」
額をさすりながら一応言い返す。この人はいちいち話の内容が大仰すぎる。佐倉は腕組みをしてこちらをじっと見ていたが、一歩、さらに距離を詰めてきた。
「それは君自身を差し出すという意味合いにもとれる」
「うーん、えっと、おれなにもできませんけど……おれみたいなのでよかったら……?」
いくらでも、と言いかけたところで、彼の顔がさらに近づいた。
驚いてすぐには反応できない。しんと静かな空気の中で、花の匂いが濃く香る。整った顔が、すぐ近くにある。きつい眼差しで肌がちりっと焦げそうに、感じた。
視線は合わない。伏せた瞳は碧生の首筋に落ち、そのまま顔を寄せるように、佐倉が俯いた。後ずさろうとするとまるで先回りするみたいに大きな手に肩を掴まれる。顔が近づいて、俯くように彼は囁く。
「――軽々しくそういうことを口にするものではない」
首筋に生暖かい息がかかった。
佐倉がここにいる。すぐ近くにいて、身体に触れている。
そう思って、そこまでようやく考えて――は、と息が詰まった。急に心臓が走り出す。さっきまでも近くにいたけれど、でも、ちがう。佐倉であるはずなのに、いつもとなにかが違う。匂い? 声音? 急に空気が一枚層を変えたように、ひやりとうなじが冷える。彼の指が、布越しに肩に鋭く食い込んでいる。
廊下で佐倉をおいかけて、佐倉ではなくて、真っ暗な場所で、けれど佐倉がむかえにきてくれて。だんだん記憶があやふやになっていく。黄色い目。それを思い出すと新鮮に恐怖が蘇ってくるからあわてて首をふって、そのあと――佐倉に、首筋を噛まれた。そのことを思い出す。根来にも一度、首について何か言われた気がする。なんだったっけ。
(しるしって、なんだろ)
あのとき、佐倉に首筋に歯をたてられてから。
昔よりも変なものに出会う回数が、頻度が減っている気がする。まあ骸骨みたいなよくわからないのに遭遇したり、いるはずもないところから手が出ていたり、そういうのはたまにあるけれど、それでも。引きずり込まれるような、直接的にこちらに触れてくるようなそういうこわいことは、減った。
(このまま、なんにもなくなればいいのに)
そうしたら――何も見えなくなれば、あるいは見ないふりをすることができるようになれば。碧生もみんなの仲間に入れるのだろうか。でもみんなってだれだろう。わからない。ずっと世界からつまはじきにされているような感覚がある。自分を産んだ親でさえ自分を拒否したのだから、他人なんていっそう、なおのこと。
「君は自分の価値を知らなすぎる」
「先輩?」
何か考えたくても距離が近くてそればかりに意識がいってしまう。奪われてしまう。少し俯けば佐倉の短い髪の毛が見えた。顔はうつむいて、碧生の首筋に吐息がかかる。まとまらない思考のままに、碧生はつばを飲み込んだ。
「――ほんとうに、君は」
耳元で舌打ちが響いて、はっとする。気づけば目を閉じていたらしい。慌てて目蓋を開くと佐倉がすっと体を離したところだった。
「え、あ、あの」
「チッ! さっさと帰るよ、身体が冷えてしまう」
「あ、は、はい」
さっきまでの濃密な空気は霧散し、碧生の頬をかすめる風が一段と冷たい。急に寒くなったわけではなく多分、自分の体が妙に火照っているのだろう。妙にどぎまぎしながらその背中を追いかけた。
**
ついこの間まですごく暑かったのに、寒くなると途端にあっという間だ。頬をなでていく冷たい風に肩をすくめ、息を吐く。寒い季節は苦手だった。でも暑いのも苦手だから、年中苦手ということになってしまう。中途半端な気温が一番過ごしやすい。
「先輩は、夏と冬どっちがすきですか?」
隣を歩く人にそう話しかけると、佐倉はしっかりと前を向いたまま「どちらも好きではない」と答えた。放課後、バイトがない日はそのまま部室で過ごすことが多いのだが、暮れるのがはやくなってきたこの頃は「もうしめるよ」と彼はさっさと席を立つことが増えた。
「夏は暑くて腹立たしいし、冬は日の光が足りない。どちらも極端すぎて不愉快だ。もっと平坦に穏やかにならないものかね?」
「そこまで季節に怒らなくとも」
穏やかになれだなんて、季節もこの人にはそんなこと言われたくないだろうなあ、とちょっとおかしかった。このひとはたまに妙にむきになったり、真面目な顔で変なことを言ったりする。今日もどうやらその類で、彼はむっとした顔のまま「不愉快なのだよ」と重ねた。
「そうですか~」
気持ちはわかるが、碧生は彼ほど真剣になにかに怒ることもまたないのだ。そういう自分がつまらない人間な気もして、シャツの袖を指で伸ばすように引っ張って手の甲を隠す。すこしでも外気に触れる面積を減らそうという試みだが、それでもすかすかした首元が寒かった。
(でも、)
去年の、二学期の終業式の日。そういえば、佐倉はなんだか調子が悪そうだったなと思い出す。暗い中で蹲るみたいな格好で――
(あれ以来、あんなに体調悪そうなのは見かけてないけど)
それでも冬の間はなんとなく体が重たそうにしていた気もするので、寒い方が苦手なのかもしれない。
「先輩ってずっと本読んでますけど、あの部屋の本読みつくせそうですね」
話しかけると、少し前を歩く人は「どうだろう」と呟く。
「思いのほか興味深い文化なども書いてあって面白いが、おおむね時間の流れに従い朽ちてしまうだろうね」
「えっと……本の話ですよね?」
たしかに古い本は日に焼けてかすかすになってしまったりすりきれてしまったりするが、生きている間にそんな朽ちるほどぼろぼろになるだろうか。たくさん読んだら、なるかも?
「万物はすべて流れ、生まれ栄えては衰え朽ちていく。有機物も無機物も大して変わりはない」
「先輩って話が結構壮大ですよね」
「どういう意味だ」
変な顔をされるので碧生は自分の感性がおかしいのだろうかと戸惑う。いや、でも。少なくとも友達と話していてこういう話題にはあまりならない。
「えっと……なんだか遠いところから俯瞰してるみたいな、長生きしてるおじいちゃんみたいな」
えへ、と笑って見せたがおじいちゃんはさすがに失礼だっただろうか。現に佐倉はなんとも形容しがたい不機嫌とも不満ともつかない表情で碧生をじろりと見返したが、それ以上なにもいわない。
「君、マフラーは。また忘れたのかい」
「忘れたって言うか、みつからなくて」
「……君ねえ」
うんざりしたようなため息を聞き流して、えへへと笑って見せる。だいたいこれでごまかせるのだが――みんなそこまで他人に興味がないのだ――、この人は眉を吊り上げたまま。
「人間なんて弱い生物なのだから、せめて自己管理くらいしたまえよ。体を冷やして風邪でもひいたら目も当てられない」
「はい、気をつけます」
へらりと笑っても彼はまだ許してくれない。
「新しいのを買え」
「う、はい」
そのうち、と笑って曖昧にしておいた。マフラーを買えないほどではないけれど、でも今月はすこし厳しい。冬になるといろいろ出費がかさんで困る、バイトをもうすこしいれようか、などとこっそり考えてしまう。
「重ねての忠告だが、あまり遅くに出歩かないように」
まるでこちらの思考を読んだように佐倉が忠告してくるので、どきりとした。まさか顔に出ていたのだろうか。思わずぺたぺた自分の頬を触ってしまうが、「愚か者」となぜかため息をつかれる。
「何も一生というわけではない――せめてこの冬は、早く帰りなさい」
なんだか不思議な言い回しだった。佐倉の顔を伺っても相手は前をまっすぐ見てそれ以上説明しようとする意思は感じられなかったので、はぁい、と、もごもご口の中で返事をしておく。
放課後、ぱたぱたと走っていけばちょうど部室の鍵を閉めている佐倉の姿があった。足音が聞こえたのか彼は振り向き、こちらを見ても特に驚きもしない。
「今日は天気が崩れるらしい。早めに帰りなさい」
「あ、じゃあおれも」
一緒に、と言いかけたところで彼が足早にこちらに歩みより、そのまま当然のように追い越していくので慌てて追いかける。拒否の言葉はないから、さっきのは一緒に帰ろうという意味合いだったのかもしれない。すこし背の高い人の顔を見上げながら、そっと寄り添うように足を動かす。
靴箱のところで一度別れ、靴を履きなおして玄関口に向かう。何度でも顔を見ればうれしくなるし隣に立つとほっとする。ぱたぱた駆け寄ってすぐ隣に行こうとして、ふいに何かに躓いた。
「わ、」
かくん、と膝が折れる。なにか道具でも出しっぱなしになっていたのだろうかと足元を見る。
天気が悪くなる、と彼が言っていた通り外はすでに薄暗くて、玄関も蛍光灯が届かない隅はやはり暗い。人の気配がしんとなくなっている。いくら放課後でも、こんなに静かなことがあるだろうか?
見下ろして、つま先がなににひっかかったのか確認する。こんなところに何が落ちているのだろう、木材のような固さに思えたけれど、でも。なんだか。違う。
白い。
ほそくて、指先?
「っ、あ」
右足首にしっかりからみつく細いものは、指だ。五本の指がきゅう、と足首を掴んで微動だにしない。
え、なに? 咄嗟に人かと思って、そんなわけないとすぐにわかる。なんで、こんな。いつも通る場所なのに。いつも通る場所だから? 土とほこりにまみれた床の上で、妙に白い手が。
玄関は暗く、物音が、しない。佐倉だって靴を履き替えに行って、だからすぐそこにいるはずなのに。
金と耳鳴りがする。足首に絡みつく指先は冷たい。ひやりと、氷みたいに。
「――なんであの辰がそばにいるかわかるかい」
どこから聞こえる声なのだろう。そこにあるのはしなやかな枝だ。ちがう、指だ。わからない。見間違いかもしれない。ただの気のせいかも。声だって、外の風の音かもしれない。そう思いたいけれどそうじゃないなんてわかっている。
「た、たつ?」
タツ――辰? なんのはなし、と呟くと、甲高い風の音が響いた。ふふ、と笑う男の声に聞こえた。
「みんなおなじだよ。君を食べたいんだ」
かっと頭上の蛍光灯が光った。指先の、爪までくっきりとみえて、すぐにまた薄暗くなる。
ぱ、ぱ、ぱ、と不規則に蛍光灯が点滅を繰り返す。暗闇が、ひきのばされて長くなる。風の音がうるさい。玄関のガラス戸が一斉にふるえて戦慄いた。そのままはじけ飛びそうなほどの振動で、おもわず両耳をふさぐ。
「――日浦」
ふいに、右の手首を掴まれる。
「あ、」
振り向けば、佐倉が立っていた。
唾を飲み込む。気づけば冷汗が流れていたらしく、ひどく寒かった。ぶるりと体を震わせて、寒かったことすらわからなかったのだと瞬いて。
(みんなおなじだよ)
その声が、耳にこびりついている。
「――帰るよ」
彼はそれ以上言葉を言わず手を引く。手首をつかんだ手がすべり、手のひらを掴みなおした。
うなずくことすらうまくできず、もつれた足を動かすとあちこち錆びついたみたいに固くて、ぎこちない歩みになった。足首にからみつく指の感触は消えたけれど、怖くて見ることもできない。佐倉につかまれた手を、わずかに握り返す。すぐにきつく握りしめられ、は、と息をついた。
玄関の扉を押し開くといっそう冷たい風が吹き込んでくる。
「つめた、」
突風に目をつむって、それからそうっと押し開く。佐倉がふいに手を離す。自由になった手のひらがひんやりと冷たい。はらはらと風に舞って白い花が見えた気がして、瞬くとたぶん、雪だった。
「あ、もう雪?」
びっくりして空を見上げる。暗くてよくわからない。けれど冷たい。頬にかすめて溶けてしまう、から、すくなくとも自分は雪よりは暖かいのだろう。ぼんやしていると、後ろからふわりとなにかかすめた。
「え、」
隣を振り向く。ふかふかとあたたかい毛糸が首元を覆ってくれて、彼の手が離れていくのが見えた。
「え?」
思わず自分の喉の前を触る。やわらかい毛糸の感触。目線を下げるとたっぷりとボリュームのあるマフラーが巻かれていて、ぱっと顔を上げる。
「巻いていなさい。寒々しいから」
彼はいつもどおりの不愛想な顔で一言そういうと、踵を返してしまう。先ほどまで彼の首元にあったはずのマフラーだ。
「あ、だめです、先輩が風邪ひくから……!」
「喧しい。見ている方が寒い」
ぴしゃりと言われ、マフラーを解こうとした手が止まってしまう。
しばし唖然とその背中を見て、それからじわじわとこみあげてきた感情が、足を動かした。
この人は基本的に言いたいことを言うだけで人の話など聞かない。けれど、追いかけるとちゃんと足を緩めてくれる。ぼうっとしていれば声をかけてくれる。躓いていると迎えに来てくれる――さっきのおかしな声は耳の奥にこびりついているけれど。でも。蹴飛ばすように、足を踏み出す。気のせいだ。気のせいでいい。誰が何を言っても聞く必要がない気がした――この人の声だけでいい。
その腕にまとわりつくように腕を絡める。彼はちらりとこちらを見て、鼻を鳴らした。
「いらないなら捨てたまえ」
「捨てないです! えっと、でも、これ返さないと」
「しばらく使っていてかまわない」
「それは申し訳ないので! できるだけはやく自分の買います、明日にでも買います!」
「いいから。そんなことより万が一僕のものを紛失したりしたら、どうなるかわかっているだろうね」
「なくしません! 約束します!」
「粗忽者の君の約束など、信用できるかどうか」
ふん、と馬鹿にしたように笑われたがさほど不機嫌そうには見えなかった。じわじわ嬉しさがこみあげてきて、鼻先をうずめるようにマフラーを引き上げて、ぎゅっと相手の腕にすがりつく。体重をかけても彼の体はびくともしないのだった。
次の日の昼休み、いつもどおり部室にいるその人に「今日こそマフラーを買いに行くから」と告げて借りていたマフラーを返そうとしたのだが、疑わしそうに見つめ返されるだけだった。曰く「きちんと買ってきてから返したまえ」とのこと。そんな理屈あるんだろうかと思うが、彼の優しさに甘えて結局その日も借りたままになってしまった。
約束は果たさねばなるまい、と放課後は部室に寄らずまっすぐバイトに向かい、帰りに閉店間際の量販店に駆け込んでシンプルなマフラーを購入した。ナイロン袋をがさがさいわせながら、帰り道を急ぐ。
「あれ」
違和感に、暗くなった空を見上げる。顔を上げると、頬にぱたりと冷たいものが触れた。
「雨――みぞれ?」
今日は一際寒かった。日の出ている時間がどんどん短くなっていて、そういえば冬至が近いのだったとぼんやり暦を思い出したりする。借りているマフラーをすこしきつめに巻きなおして、先を急いだ。あたたかい。残り香は薄らいでしまって、でも明日には返すのだから、もう少しだけでも身に着けていたかった。
「おなかすいたなぁ」
ポケットの中をさぐって飴玉を探す。しかし、今日に限って一つも見つからなかった。どうやら食べつくしてしまったらしく、ちょっとがっかりした。
ぱさぱさと降ってくるみぞれから逃げるように足を速める。空はいつもよりずっと暗いけれど、雲が流れきれぎれに月がもう覗いていた。細い細い爪でひっかいたような三日月。これから満ちていくのか減っていくのか、そんなこともわからない。あまり興味がない。マフラーをなんとなくいじって、鼻先を深くうずめた。まだわずかにのこっていたらしく、ほんのり花の匂いがして、うれしくなる。
寒々しいから、と言いながら彼が貸してくれたマフラーはたっぷりと長く、巻きつけるととても暖かかった。うれしい。
佐倉にとってはマフラーなんて大した親切じゃないのかもしれない。それでも、何度でも、新鮮にうれしかった。その優しさが形になっていま自分を守ってくれている。それがこんなにうれしいなんて。どんなに寒い帰り道でもこのマフラーがあれば平気な気がした。
足元が見えにくくて転びそうになったりしつつ、寒々しい夕暮れと夜のあわいをうつむきがちに走る。うなじにときおり冷たい風がすべりこむ。みぞれがつめたくて、うつむいて足を速めながら、碧生ははやく屋根の下に入りたかった。
と、そこでタイミング悪く信号が赤になり、足を止めざるを得ない。ほとんど車の通らない道だというのに律儀に信号は変わり、そしてここはなんだか長く感じるのだった。顔をあげると雲の切れ目からまた月が覗いていた。薄黄色のそれをただ眺める。
(でも先輩、最近、まだ元気ないな)
この間はそれでも幾分楽しそうだったが、その後部室で見かけてもどうにも調子が悪そうだ。今日だってなんとなく気だるそうで、おっくうそうに見えた。
去年のこの時期も――終業式の時も、いつもよりずっと調子が悪そうな、すこし、雰囲気の違う様子だったのを思い出して、心配になる。
急に抱きすくめられて、力いっぱいつかまれた腕の感触を思い出す。一年も前なのになぜかしっかりと思い出せてしまう。あの後、お風呂に入ったときに確認してみると、くっきり指の跡がついていた。それもいつのまにか消えてしまったけれど。さすがに言うのははばかられて、碧生だけの秘密にしておいた。
鈍い痛みが消えるのがすこしだけ寂しかった、だなんて、言ったらさすがにびっくりされるだろうから。
(ほんとうに、あのときは、どうしたんだろ)
あんまり具合が悪そうだったので、もしかしてなにか持病があるのだろうか、と心配になったが、その後しばらく鬱々としていたけれどあの日のような、突然の行動は見られなかった。
「おれに、なにか、できたらいいんだけど」
苦しい時に助けてあげられるほど頼りがいがある腕ではないけれど、でも。月をぼんやり見上げながら、だれも周りにいないから気が緩んで、ぽつりとつぶやいてしまった。
もっと、頼りにしてほしい。あのひとに、あてにされたい。
(烏滸がましいかもしれない)
佐倉はそんなことのぞんでいないのかも。期待していないのかも。
「先輩、元気かなあ」
「――さあ、どうだろうね」
突然、独り言に対して男の声が返ってきた。
とっさに左右を見渡す。信号待ちをしているのは碧生一人だ。歩道を歩く人もいない。車も、通っていない。
一瞬唾を吞み込み、それから意を決して後ろを振り向く。
やはり、だれもいなかった。
無機質な道と街路樹があって、ぽつぽつとアパートや住宅があって、人の気配が全くしない。明かりはついているのにそこに本当に人間がいるとは到底感じられない空気だった。
さっきまでいたのかもしれないけれど、ほんのわずかに層がずれてしまった。そんな感触。ぽっかりと落とし穴にはまって自分だけちがう高さから世界を見ているような。そんな。
唾を飲み込む。
「……だれ、」
ひそりと呟いて、こういうとき、話しかけるのがはたして正しいのかわからなくて途中で口を閉ざす。わからない。どくどくと耳の奥で血液の流れる音が響いている。車の音も、街の喧騒も、鳥の鳴き声も、なにもない。何も聞こえない。無音だった。自分の内側の音しか存在しない世界。信号はいつまでたっても赤のまま。空を見上げると、雲は、ゆっくりとだが動いていた。
隙間から、月が、のぞく。
「辰は東方の神、春の眷属だからね。おとなしく冬眠でもさせておけばいい」
しんとした中で、奇妙に声が大きく、くっきりと響く。聞きなれない声だった。うなじがぞわっと震える。
細い月のはずなのに、妙に大きく見えた。さっきはほんの爪の先みたいだったのに、いまは、なんだか。
にゅう、と虚空から手が伸びてくる。白い指先。
「っ、ひ」
男の手だ、と思った。それ以上はわからない。考えられない。色の白い、生気の乏しい手がのびて、思わず一歩後ずさる。けれど腕が、おいかけてくる。気づけば着物の袂のようなものが見えた。あ、と瞬けば、そこには、男がいる。
知らない男だ。
咄嗟に、マフラーの端っこを握りしめた。
(先輩、)
そう思った。唇の端がひくりと震える。
「きれいな瞳だね。今宵の月とおそろいの色だ」
男がにんまりと笑った。ようだった。
そこで全部暗くなる。頭がぽかんと暗くなる。視界の隅で黒猫がよぎった、のが最後に認識したもので、何も考えられない。自分の体がまるで糸が切れたように崩れ落ちていった気がするが、碧生にはもはやなにもわからないのだ。
Ⅲ
さらさらと、衣擦れの音がしている。
聞いたことのある音、知っている気配だった。匂いも音も、すべてひっくるめて既視感がある。ねぼけている夢のどこかで出会ったのかもしれない。全部気のせいで、思い込みかもしれない。
夢をよく見るほうだった。
他人と比べようがないところではあるけれど、寝ても覚めてもずっとふわふわと足元がおぼつかない感覚で、あ、これ、本当じゃないのか――夢なのか、と気付いたときにはひどく恐ろしい思いをしたことも、あったような気がする。夢は夢なので目が覚めると忘れてしまう。なにもかもなかったことになってしまう。ぼんやりといやな残滓がまとわりついて尾をひくような気はしても、でも、誰にも見えないのだ。
(だれも――おれの言うことなんて、信じてくれなかった)
幼い頃は本当に夢も現実も区別がなくて、こわくて、泣いていた。部屋の隅にいるなにかに。道すがら手招きするだれかに。ふりむいても顔がないひとに。さっきまでふつうだったのに急に聞きとれないことをしゃべりだす友達だったはずの子に。なにがなんだかわからなくて、こわくて、でもだれもかれも信じてくれなくて、最初は夢だよとなだめてくれても回数が重なると「きっと気を惹きたくてやっているんだ」「あの子は親がいないから」という声が耳に入って、それで、やめた。大人がおもうよりずっと子供はみんなの話を聞いている。聞こえている。なにもかも、見えている。
(……なつかしい、夢だ)
むかしのことを思い出している、らしい。ぼんやりとたゆたうように冷たい床の上で目がさめる。覚めた。はっと目をあけて、飛び起きる。
手のひらの下は硬い。いつからこの状態で寝ていたのだろう、すっかり身体がこわばっていた。
さっきまでの懐かしい気配はすでに遠のいて、ただの夢だったのかもしれない。現実との境目があいまいで、だからいつも、簡単に踏み外してしまう。
「なに、……ここ」
あたりを見渡す。何にも見えない。真っ暗だ。そして音がしない。碧生のしゃべった声もどこかに吸い込まれていくようで反響ひとつしなかった。部屋の中なのか外なのかもわからない。風の流れは感じられない。光が一つもないから、目をあけていてもつぶっていてもまったく変わらないのだった。
「……先輩」
心細くて、つい、あの人の名前を呼んでしまう。だからどうなるわけでもないとわかっていても、おまもりみたいに、かみしめるみたいに。口の中で、小さく、小さく呼ぶ。
返事なんてない。
わかっていたけれど、いつものことだけれど、でも、ひどく心細かった。呼ばなきゃよかった。そう思って、瞬時に後悔した。期待して応えてもらえなくて勝手に落ち込んで。そんなの、もう、やめたはずなのに。
(なんか、やばい)
なんだか思考が暗い方へ向かっている。視界が真っ暗だからだろうか? 首を振って、えいっと膝を立て、立ち上がってみた。見えない中で立つのは少し怖かったが、何にもぶつからなかった。手を思い切り伸ばしてみても横も上も、何にも触れない。壁も天井も近くにはない。いったいなんだろう、ここは。
冷え冷えと寒かった。それだけは確かだ。腕をかきあわせ、首元がすかすかしていることに気づく。
(マフラー、どこ)
さっきまであったはずの毛糸の感触がない。慌ててしゃがみこんで足元をさぐろうとして、バランスを崩して倒れ込んでしまった。膝をしたたかに打つ。じんと響く痛みを吞み込み、近くの地面を手でさする。
「えっどうしよ……約束したのに、」
うそ、どうしよう。途端におなかの底がひんやりとして、慌てて手を動かす。佐倉に貸してもらったマフラー。あったかくて、ちゃんと返すって、明日には返すと約束したのに。ざりざりと手のひらがこすれて皮膚が削れる感じがあるけれど構っていられない。
「どうしよ、あした、先輩に」
声がかすれる。震える。だって、約束したのに。ちゃんと、先輩と。なんだかぐらぐらしてくる。おちつけ。おちつかないと。そう思うのに。
「……どうしよう」
ふえ、と子供みたいに泣きそうになってしまった。ぐっと気持ちを抑えるように唾を吞み込み、目を凝らす。どうせ役立たずの目だ。暗闇の中ではなんにも見えない。
(なんで、みんな、おれの目がほしいっていうんだろ)
おいしそうだ、と言われた。ぞっとする声でささやかれ、何度となく足を、手をひっぱられて。
夢の中で、でも、本当は夢じゃないのかもしれない。あれが現実なのだろうか。信じられない。普段学校に通って福崎や根来とたあいのないことをしゃべったりバイトであくせく動き回っている方が本当は夢で、現実は、この真っ暗闇なのかもしれない。つめたくて、かたくて、だれもいない。碧生のことなんてだれも知らない。自分自身の輪郭すら、あやうい、闇の中。
「……おれ、なんて」
ほんとうはいないのかもしれない。
もうとっくの昔になにかよくわからないものに食べられて、それきり、ただ夢を見ているだけかも。ぐらぐらと不安になる。自分の指先すら見えない。手をもちあげ自分の頬をなぞる。たしかに肌はある。けれど、それすら錯覚かも。
ふと、この目は本当にあるのだろうか、と思った。実感がない、たとえば、触れられるのだろうか。
自分の目を触るなんて怖い、おそろしいことのはず。でも。今はそんなことすら考えられない。こわい。不安だ。何もかも信じられない。確かなものが何一つない。
こんな目なんて、ない方がましだ。
右の人差し指に力を入れる。頬をひっかく。かすかな痛みはある、気がする。わからない。信じられない。そのままゆっくりと指を上にずらしていく。
目蓋を開いて、目を凝らしてもなんにもみえない。自分の指先すら、わからない。
いまはなんのにおいもしない。物音も聞こえない。生きているのか死んでいるのかすらわからなくなりそう。
(先輩、佐倉先輩)
あの人が、手を握ってくれなければ。碧生なんて、もう、なんにも。
『みんなお前を食べたいと思っているよ』
あの男も――あの辰も。そんなふうに言っていた気がする。辰、という言葉が頭の中でひっかかっている。
(たぶん、それは)
どういう意味合いかわからないけれど、きっと、佐倉のことなのだ。何の符牒なのか、あるいは当たり前の呼称なのかすらわからないけれどたぶん。
(――――先輩も、おれのことを)
食べたいと思っている?
そう考えて、ざっとうなじが冷えた。怯えながら、その名前を口にしようとして――。
「まあ、待ちなさい」
けれど、ひんやりとした手に腕をつかまれる。言葉はあっけなく引っ込んで、心臓がひときわ大きく跳ねた。
暗い中で、手がぼうっと白く浮かんでいる。つられるように碧生は視線を揺らして、そこに、着物の袂が見えた。
気を失う直前に見えた腕が、脳裏をよぎる。
この手だ、と、直感でわかって、身体がひるむ。目の前にいる気配がゆっくりと輪郭を得ていく。いままでそこに居たけれど見えなかった、というよりは、いまここでゆっくりと実像を結び始めたように。こちらが見ているからその姿を作り上げたように、気づけば、腰から下もあって、白い足袋と雪駄が見えた。視線を巡らすと腰帯とゆったりとした袂、着物の合わせ目、そして――首がある。相手は立っているからだいぶ高い位置に顔があって、しゃがみこんだこちらの腕を掴んで、簡単に引っ張り上げた。
「あ、」
まるで童子でも相手にするような気楽さで立たされて、困惑したまま相手を見る。顔があるはずの場所は、なぜか翳ってよく見えなかった。生白い首ばかりぼんやりと明るい。喉仏が自分の目線位の高さなので、こちらより背の高い男だ、ということはわかった。男――なのだろうか?
(人間じゃ、ないよな)
変なことに直面した時はたいていそのときはそれをそのまま受け入れるしかなくて、だから夢の中で自分が夢を見ていると気づけない状態と同じなのだと思う。そのままそれを世界の枠組みだと思う。あとで思い返すととてもそんなこと正気の沙汰とは思えなくとも、そのときは、それが現実なのだ。
「あの、どなた、ですか」
その白い喉仏ばかり見つめてしまう。声は思ったよりきちんとでて、そのままなんにもない虚空に吸い込まれていくようだった。相手に届いているのかすら心配になるけれど、ごく自然な呼吸を置いて、返事がくる。
「君は何者なのかな」
「え?」
聞き返されて、びっくりした。碧生がここにいるのはこの人のせいだとばかり思っていたけれど、もしかして勘違いだったのだろうか。
「お、おれは、」
「こんなに近くにいても匂いが抑えられている――印をつけられた?」
急に手を放され、けれどすぐに相手の指先が碧生の首元にふれた。夜の底のようにひんやりとした感触で、生きている人間にはとてもじゃないが思えなかった。死体を触ったことがあるわけでもないので、判断もつかないが。そもそも死体なら動かないだろう。
(でも、)
両手は自由なはずなのに、振り払えない。冷たい指先が首の横をなぞり、耳の下をくすぐるように触った。思わず首をすくめてしまうけれど、相手は低く笑う気配がする。顔は見えないのに声ばかり妙に耳に響く。
「ずいぶん狭量な男だ」
「……? あの、」
日本語は通じているようなのに会話が成り立っていない。こちらの動きや声を理解しているだろうに返って来るのはまったく一方的なものばかり。なんだかすこしあの人に似ているやり方だ、と思うけれど、でも、こんなにあの人の指は冷たかっただろうか?
(……あ、)
昨年の冬のことを、急に思い出す。床に座り込んで唸っていた姿。あの時の彼の指はこのくらい冷たかったかもしれない。
「でも、」
く、と指先に力が込められた。思わず顔をしかめてしまう。息を吸い込みにくい。片手を首に添えるくらいの触りかたのはずなのに、指先からじわじわと絞められている。両手で彼の手を振りほどこうとするが、びくともしない。
こわい。この手は、容赦なく締め付けてくる。戯れではなく、本当に、このまま殺される。右手で、ついで左手もあげて、必死にその腕に爪を立てる。逃れようと抵抗して、ぬいぐるみが腕から零れ落ちている。
腕に爪をたてて必死に抗って、けれどまるで壁か石のようにつるりとした肌には、こちらの爪先すら食い込まない。
「、あっ……」
首がのけぞってしまう。目がかすんで、視界が白くなって、ちかちかした。
「っ、ぅ、あ」
絞めた時と同じくらい唐突に解放されて、かは、と息を吐く。膝が落ちて、床を打った。酸素を取り込むことしか考えられず、前かがみになって喉をおさえて、ひたすら息を吸おうとするのに、なんだかうまくいかない。視界が瞬いて白っぽくて、頭が急に痛くなった。何にも見えないのは変わらないのに――いや、うつむくと自分の膝すら見えないのに目の前の男の着物ははっきりと見えるのだった。
いったいどうなっているのだろう。
思考がかすむなかで、無意識のように床に手を這わせる。ぬいぐるみの感触をひっかけ、慌てて抱きしめた。なじんだものが確かにそこにあったことに、見えはしなくても少しだけほっとする。
視界に一筋の白がさしこむ。光ではなくそれは男の手で、ひるむ間もなく顔を掴まれ無理やり上向かされた。
「まあ、それでも。見つけてしまえば変わらないけれど」
たぶん、見られているのだろう。そこに男の顔は見えない。喉の辺りから下は見えている。指の力は強く、顔を背けようとしてもちっとも動かせなかった。
「あの辰もその程度ということだ」
その言葉を、何度か聞いた。たしか、あの、暗闇でも。足を掴まれたときにも。皆口々に、言っていた。なんのことかわからないままだけれど、ふいに、頭の中ではじける。考えるより先に言葉がこぼれる。
「――――先輩のこと?」
「君がなんと呼んでいるのかは知らないが、君に印をつけ独り占めしようとしている愚かななれ果てのことだよ。大事ならしまい込んでおけばいいのに。社は朽ち果て信仰を失い、ほとんど力もない。神格も失いかけているようじゃないか。すこしでも神力をつけるために君に目をつけているんだろうね、情けない恥知らずだ」
男の言葉はまったく意味がわからなかった。けれど、佐倉のことを馬鹿にして、嘲っているのは感じられる。それだけで、急に腹の奥がざわりとした。
不愉快だ。
そう思った。思えば、指先に力が戻ってくる。怒りというのは、なんだ、こんなふうに体を動かすことができるのか。抱きしめたぬいぐるみのなじんだ弾力が、背中を押してくれるような気がする。
「なに言ってるのかわからないけど……先輩のこと、そんなふうに言うな」
せめてもの抵抗で虚空を睨みつける。ぎゅっと目を眇める。なんにもないようにみえる暗闇に、けれどおそらく誰かの顔があるのだ。
「しるしとか、匂いとか、なんのことかわからないけど――そっちばっかり顔も見せないで、卑怯だ」
眦に力をいれるように、その輪郭をたどる。たどって、ふと。
そこに顔があった。
「えっ」
思わずびっくりして体が後ろに倒れそうになる。さっきまでなんにもなかった真っ暗闇に急に白い顔が出てきたのだ。彼の手からごく自然に逃れて、けれど動悸は一層ひどい。心臓がどきどきして、飛び出しそう。
首からごく自然につながっているその顔は、一言で言えば美形だった。白いつるりとした顔はどこか優し気で、目尻がやわらかく微笑んでいる。日本人とは思えない透き通った蒼い瞳と月のように白とも黄色ともつかない髪の毛が、長く頬の辺りまで垂れていた。
「へえ、すごいな」
彼は、ぱちりと瞬きをする。そのやり方はあどけなくて、表情は人形のように整っている。口が計算されつくしたかのようにうつくしく弧を描いて、そのやり方に、ぞっとした。
先ほどまでの、声だけだったときよりも不可解さは薄れるかと思ったが、そんなことはなかった。作り物めいた、人間に似せてみたような気配ばかり際立つ。外側だけ精巧に作って、内側はまるでぬかるみのように暗い。そんなふうに、二重写しにすらみえてしまう。
「君の瞳、やっぱり特別製だ。僕を自発的に『見る』なんて。ふつうは、僕が『見せて』あげているのに」
「な、にが」
男の声は軽やかで歌うように華やかだった。顔が見えて表情を伴うと途端におぞましさが際立つ。なんでこんなにこわいだのろう。夢で逢う様々な怪異たちはもっとあからさまに人間とはかけ離れていたのに――今まで出会った何よりも、この人間めいた男が、こわい。
「だから君に『見られる』ことで怪異たちは形をもつ。君が『見る』からそこにもう一つの世界が現れる。わかるかい? 君が『見る』世界の不安定さ、いびつさはそのまま君の内側だ。ああ、いいなあ。その琥珀の瞳――おいしそうだよね」
蒼い瞳がぐっと澄んでいく。瞳孔が大きくひろがり、吸い込まれそうな夜のような色がわっと視界に広がる。視線がそらせなくなる。その渕に落ちてしまいそうな錯覚。
「とろりと溶けた蜜のような色だね。ふふ、その歪な瞳に何が映っているんだろうね? 舐めたらどんな味がするのかな」
赤い唇がゆがむ。ひどく美しい男なのに、ひとつひとつの表情に寒気がする。
人間ではない。それだけは確かだ。
けれどまるで人間のように赤い舌が、見えた。
何をされるのかわからなくてとっさに目をつぶる。ふ、と生ぬるい息が目蓋にかかった。
「君、名前は?」
「……」
絶対に答えちゃいけない。それだけはわかるので目も口も閉じたまま、ぎゅっと力をいれる。縮こまる。どうしていいのかわからない。小さい子供のようにしゃがみこんで頭を抱えていればいいのだろうか。そんなことで、どうにかなるとも思えない。ただ、立ったまま身を固めているしかできなかった。腕の中のぬいぐるみが弾力を返してくれる。ここにたしかに現実がある。それだけで、どうにか正気を保つ。
「まあ、なんでもいいけど」
ふ、と耳元でささやく声がした。
「あ、」
すぐそばに男が立っている――頬に息がかかる。手が首筋をなで、そのまま顎先を掴まれる。目を閉じたまま首を振ろうとしても、うまくいかない。逃げられない。手が震えそうで、ぎゅうっと力をいれてにぎりしめる。息が、しにくい。頭がくらくらしてくる。緊張しているからだろうか、意識して息を吐こうとして、けれど唇がうまくうごかない。
(……?)
握りこぶしをほどこうとしてもちっとも指が動かなかった。目蓋も開かない。硬直したまま動けない、自分の体なのにちっともいうことをきかない。なんで? 急に、なぜ。
「名前などどうでもいいよ。僕を見なさい――僕のもとにおいで」
目蓋が、開いてしまう。そんなつもりはなかったのに、目を開けてしまって、目の前にいる男の顔を、見てしまう。
吸い込まれそうな青。蒼。夜空を思い出す。昼間は忘れているけれど、太陽が消えた瞬間に暗闇は顔を出す。
思い出す。自分たちは取り巻いている宇宙は本当は暗くて、深くて、吸い込まれそうに遠い。一歩踏み出せばそのまま放り出されてしまいそうな虚空につつまれて生きていることを。
「ほら――落ちておいで」
すとん、と、思考がとぎれた。
あの人の名前が、口の中でふるえて溶ける。
**
うとうととまどろみの中にいる。
何の音もしなく、匂いもしない。感触がない。すべてが失われて、たゆたう波のなかにいるようだった。温かくも寒くもない。なんにも感じない。自分の手足がどこにあるのかすらわからないまま。
(――なんにも聞こえない)
ここはどこなのだろう。夢の中かも。体は重たく、でも自分の体などどこにもないのかもしれなかった。
目が開いているのか閉じているのかわからない。なにもみえない。
(……おれ、なにしてるんだろ)
あの人の名前を呼びたい、のに。
口が、うごかない。瞬きもできない。
まるで人形になったみたいに、なにひとつ自分の意志で動かせなかった。
**
「――、日浦?」
呼ばれたような気がして、佐倉はふと顔を上げる。暇つぶしに人間たちの記した書物をめくっているところだった。この部室を埋めているのは主に郷土資料で、土着の言い伝えや史実、地形や陣地の移り変わりが記されているものがほとんどだ。時折目に付いたところを手に取ってめくって、そうして無聊を慰めていたのだが。
手を止めて、首を巡らせた。意識して耳を澄ませる。鼻を利かせる。気配を――追いかけていく。校内から飛び出し校外へ緩く細く、広く浅く。拾い上げる。すこしだけ速度が鈍る。日照時間が短く、夜が世界を支配する時間が長くなるとどうしても出力が落ちていく。足りない部分が露わになる。
冬は、苦手だ。冬至が近づくと一層。昼が一番短いこの日、この体はほとほと最低限のことしかできなくなる。
力の入りにくい指先をかすかに動かしながら意識を遠くへ飛ばす。日浦の普段の下校路から迂回している――どこか寄り道したらしい。あの子はまったく。
(早く帰るよう言ったのに)
独り言ちながら気配を辿って、這って、ふと。
「……?」
ふつりとそこで消えた。
しばらく目をこらすように眉を顰める。その地点に集中して、付近に意識を巡らせる。横断歩道の付近でじっと探って、匂いに異質さが混ざった。
ひやりと、雪よりもなお香る、麝香のような。
瞬時に立ち上がる。窓の外に目を向けて、人間の眼球の及ばない遠くとおくまで視線を飛ばす。指先から血の気が引いていく感覚。人間の体というのは不便だ、けれど、いまは輪郭がないと自分をうまく保てない。散漫になりそうな意識を集中させ、そのまま、窓を開き、佐倉は窓枠に片足をかける。
「――月がおりてきたようだな」
体を外に乗り出すと耳元で低い声がする。夜風のように鼓膜にしみこんでくる声の主を振り向いた。そこに姿は見えない。けれど夜の王の気配が漂っている。この旧い友は佐倉とは正反対に日の光が苦手で、日が落ちた途端、のびのびと活動し始める。
「久しぶりに姿を見かけたよ、あの優男」
まるで他愛のない世間話のように告げる声が、だが、そのおっとりした口調に秘められた牙をのぞかせている。やわらかい警告に、佐倉の眉がかすかに顰められた。
「月? どうりで――死の匂いが濃い」
「招かれると死者の仲間入りだ。お前とは相性が悪いぞ」
「情報に感謝する――どうせならそこで止めてくれればいいものを」
「思ってもないことを言うな――私はもうこの世に関わらない。永遠に」
軽薄な調子の中に秘められた忠告は親切なのだ。彼の複雑な胸中を知るからこそ、佐倉はそれ以上の会話を打ち切る。追いかけるのに意識を集中させても残滓がどんどん薄くなる。どこか遠くに引き離されている。
(印を、つけたのに)
チッ、と舌打ちをこぼし、影が窓から躍り出る。窓枠を踏み切って、重力に従うのであればそのまま真っ逆さまに地面へとたたきつけられたはずの体は、軽やかに夜空に浮いた。うすい腰布が暗闇に溶けて、浮かぶ。人間の輪郭を残しながら、髪の色が淡く夜空に透けていく。白に近い銀色がさらさらと揺れ、こめかみから桜色の角が覗く。ひらりと桜の花びらが闇夜に散る錯覚を起こさせ、だがそれは花びらではなくあわい鱗だ。その身長よりも長い桜色の尾が風になびくようにひときわ大きく揺れて、異形の神は月に届くほど高く飛んだ。
車通りの少ない道に音もなく降り立ったその影は、夜の闇に紛れてだれにも目撃されなかった。よしんば通行人の目に触れたとしても、その長い尾もきらびやかな角も認識はされなかっただろう。そういうふうにできている。だれしも自分の見たいものだけを見るのだ。
(だから、神など忘れ去られる)
思考を振り払うように首を巡らす。やわらかな腰布は夜風にそよぎ、むき出しの腕は冷気に晒されてもしなやかに白く輝いている。誰も見ていなくとも、常に完璧な存在であらねばならないという矜持だけが、ここまで衰えた自身を支えている。
(あの子が、あまりに美しい瞳を向けるから)
どうしてその期待に応えずにいられようか。
決して満たされて生きてきたわけではないだろう子供は、少し目を離した隙に美しく成長していた。そして身体の成長に伴い魂の精度は研ぎ澄まされ、かぐわしい匂いを隠し切れなくなっていた。
見た目の美しさだけの話ではなく――その、魂の、芳香。それに引き寄せられるように、異形の者たちがじわじわと集まり、あからさまに手を出してくるようになっている。
(――あとは、)
鼻を利かせるように佐倉はかるく空を仰ぐ。今宵の月はまだ満ちるには遠い。満月ではない月を見つめ続けていると手を招かれる、そういった逸話がある。月に住む男が招きに来るのだ。
(死者の匂いだ)
かすかに匂う不愉快なまざりものを振り払い、目を閉じる。意識を集中させる。冬至が近い。自分の指先が鈍っているのがわかる。気を抜くと眠り込みたくなるのは、余分な消耗を嫌うからだろう。この体にもあたりまえに生存本能がある。そのことに、時折うんざりする。必要とされないのであればもはや潔く消えるべきだと思う日もある。冬が長引くと特に、春が遠いとさらに。
それでも。
『先輩』
声に引っ張られるように、意識を狭く、細く、鋭く。感覚だけになっていきそうな、細い細い糸のような光のような、よじれて、拡散して。
ちり、と肌が焦げるような感触。
指先がひくりと震える。とっさにその気配を掴もうと手を伸ばし、だが宙を切った拳は当然何も掴んではいない。夜の風が冷え冷えと暗い。匂いが、霧散していく。
「あの、粗忽者め」
思わず舌打ちをしてしまう。道路はしんと静まり返り、車一台通らない。たださやさやと夜風が凪いで、葉を落としきった木々を揺らしていく。
「自分にどれほどの価値があるのか、いつになったら理解するのだ」
空っぽの拳を握りしめる。爪が食い込むほど、深く、きつく。苛立ちは、己に向けられたものだ。
印までつけたのに――むざむざと拐かされて。あの瞳が、色違いの双眸がこちらを見上げる、うれしそうに微笑む、駆け寄ってくる。そんな光景が、なんだか当たり前みたいになって、もしかしたら気が緩んでいたのかもしれない。あの純粋な魂が、なにものかに捕食されるかもしれない。そんなこと、許されない。
日浦が、あの子が、ほかのなにかに奪われるなど。
「僕が――許さない」
足を踏み出したところでつま先になにかひっかかる。拾い上げれば日浦に貸してやっていたマフラーだった。
あれが、寒そうだったから。
弱い生き物の癖にふらふらとだらしない恰好でまとわりついてくるから、だから、見るに見かねた。それだけだ。そのくせ、あの子はしばらくの間かたくなにマフラーを手放そうとしなくて、室内では暑苦しいからほどけと叱りつけて、しぶしぶ首から抜き取る姿が記憶に新しい。
拾い上げると、まだかすかにぬくもりがある。
「……チッ」
その場に跪く。地面に手を当て、じっと目を閉じた。街路樹は少なく、少し離れたところに小さな公園があってそこにもむき出しの枝を骨格のように晒した木々たちが言葉なく立ち尽くしている。目の奥の暗闇を見つめ、ゆっくりと体の奥から声を出す。響かせる。
(――――あれを見なかったか)
人間にはとうてい聞こえないだろう声を、けれど、同族たちはよく聞き取ってくれる。桜の樹は花を落とすと気づかれにくいが、春にそこにあるのだから本当は秋でも冬でもそこに立っているのだ。ただ花を咲かせ、葉をしげらせ、葉を落とし、枝として。幹として。静かにに、人間たちを見つめている。
応答がある。声にならない声で枝を、指を震わせ、その体が、幹が、揺れている。斎宮はただじっと耳を傾け、立ち上がる。
「ありがとう」
どこにむかうともなくそう声を残し、見えた道筋のなかに指先をさしいれる。もし誰かが見たのであれば、空中に腕を伸ばし、軽く手首をひねっているように見えたかもしれない。腕輪がしゃらりと揺れる。指先は白く、手の甲から腕までを覆う布は闇のように暗い。ぽっかりと五本の指先だけが白く浮かんでいる。
人差し指がなにかをひっかくようにかりかりと小刻みに動く。なにもみえないけれど、すこしずつすこしずつ、彼の指が深みへと入る。中指もそえ、そのうち親指を除いた四本の指が、なにかをひっかくようにしっかりと丸くなった。
ぐ、と手の甲に力が入る。その横顔はいたって平静だが、唇は静かに引き結ばれていた。
そのまま指先まで暗闇に染まる。腕が、身体が、ずるりと闇に溶けて行って、最後に長い尾が鈍い銀色の軌跡を残して、消えた。
それきりただの夜が戻ってくる。だれもその道を通るものは、ない。
ずるりと吐き出されるようにその闇の中に入り込んだ。
頭がすこしだけ重たい。いやな空気だ、と思う。すっかり鼻が利かなくなるほどの濃い腐臭に、思わず口元を扇で隠した。そのまま目線であたりを見渡す。
何ひとつ輪郭すらも確認できないほどの、とっぷりとした濃い泥のような闇。
「――――どこに隠した」
低く、そう尋ねる。答えが返って来るとは端から期待していなかったけれど、ただひたすらどろりとした闇に辟易しながら、ゆっくりと足を踏み出す。
手をのばし、どこからともなく取り出した桜色の扇をかるく回旋させる。金色の細かな粒子が浮かび、流れ、花の匂いがこぼれる。ささやかな抵抗じみた動きは相手の出方を見るためのものではあったが、暗闇はどこまでも無言のままだ。人間であれば圧迫感を覚えてしまうだろう、あるいは、すこしずつ正気を失っていくかもしれないほどの、漆黒。
(あの子は、)
こんなところに長くいたら泣き出してしまうのではないだろうか。心細くて膝を抱えてはいないか。懸念はいらだちに変わり、闇を斬るように足を踏み出す。扇を動かして、目の前の空間を少しずつ自分の支配下においていく。日浦の気配を探っているが、どうにもおぼつかない。
「チッ――まだるっこしい」
いっそすべて燃やしてしまおうか、と左手を握って、開いて、握る。
だがこの闇のどこかに日浦がいるかもしれないのだ。自身の神力は、たとえ衰えていようとも人間の肌などやすやすと焼き尽くしてしまうだろう。あの子にまで危害が及ぶのは避けたい。人質を取られている格好なのが気に食わない。気に入らない。まったくもって、不愉快だ!
「桂男!」
その名を高らかに呼ぶ。びりびりと空気が振動し、闇全体がひときわ大きく震えた。
佐倉はその場を動かない。軽く腕を組み、扇で口元を隠すようにしながらただ一点を睨んでいる。その先から、ゆらりと着物の袂が覗いた。着物の裾から足が覗く。襟元が見え、白い首が現れ、ぬうっと、そらおそろしいほど美しい顔が闇に浮かんでいた。
「やあ、久しいね」
薄青い瞳がにんまりと微笑している。月のように光輝く髪色も、簡素な着物も、ただこの男の美しさを際立てるだけだった。肌全体がうすく光っているようにつやつやと白い。
鮮烈な輝きではなく、けれど見つめていると気が狂いそうになる、白。
「知るか、貴様に会ったことなど記憶から抹消している」
短く吐き捨てると、男は軽やかに笑った。
「はは、辰は気が短い」
そんな戯言に付き合うつもりは毛頭なかった。扇から目だけをのぞかせ、相手を睨みつける。視線で人が殺せそうな鋭さではあるが、対峙する男は人間の形をしていても人間ではない。
「――――あれをどこにやった」
「あれって?」
まるで美しさの見本のように首を傾けるが、その緩慢なやり方はひたすらこちらを煽り苛立たせるための布石なのかもしれない。爪が手のひらに食い込む感触で、どうにか怒りを押し込める。
「あれは、僕のだ」
それでも常より低い声になる。ざわりと桜色の尾の鱗が逆立つのを止められず、ただ、目の前の男を睨んだ。
「はは、自分のおもちゃをとられた子供みたいに駄々をこねないでよ。あんなまずそうな人間、さっさと食べてしまえばいいのに。味はともかく栄養にはなるでしょ」
その言葉を聞いた瞬間。
佐倉の腕がまっすぐに伸びる。対峙するほの白い鼻先に鋭い爪の先がひたりと当たり、これ以上、あと数ミリでも動かせばその青い瞳を繰り出せそうな距離だった。
「あれを侮辱するのは許さない。傷一つつけずに、即刻ここにつれてきたまえ」
「侮辱? ただのみすぼらしい人間だろう? どうしてそこまでいれこんでいるのかな、いまさらひとつやふたつ傷がついたってかまわないだろうに。魂さえ無事なら――」
ざん、と風を切る音が残った。
はらりと数本の髪の毛が男の肩に落ち、闇に溶けていく。鋭い爪が薙ぎ払った先にはただぬめった暗闇があり、佐倉の腕はそこで止まった。
「辰神は気が短いようだ。これではお茶もできないね」
「貴様と話している暇はない」
「実際、君はあの人間に何を求めているんだい? 衰えてきた神力の足しにするためだろう? さっさと食べればいいのに。ある程度大きくなってからというのはわかるが、そろそろ食べごろじゃないかな。現にみんな、手を出し始めている」
滑らかに美しい声が耳にささくれを作っていく。闇がじわじわと外側から忍び寄って来る。その薄汚い言葉で内側まで侵食されていくようで、振り払うように低く唸った。
「貴様に何がわかる」
「わからないね。ただの食べ物じゃないか」
「――――日浦を、返せ」
怒気を含んだ声に合わせてゆらりと佐倉の尾が揺れる。その白い肌や輪郭が薄赤く発光し、すこしずつぶれていく。常人には感じ取ることのできない神の気配、怒りを、観測しているのは対峙する男だけだ。
彼はただ微笑みを絶やさない。まるで何も見えていないかのように、泰然と機嫌よさそうに笑っている。
「辰神が食べないなら僕が食べてもいいだろうさ」
「貴様、」
人ひとり殺せそうなほどの獰猛な視線を向けられて、月の男はただ涼し気に微笑む。
感情というものが欠落していてその表情しか作れないのかもしれない、そもそも人間社会に適応する必要がなければ他人のための表情など不要なのだ。
「まあ、老いぼれた辰に負ける気はしないけれど、君と争って悪戯に力を消耗するのもまた馬鹿馬鹿しい。僕はあの人間に執着はないからね。欲しかったら探してごらん。見つけられなかったらあとでゆっくり食べるだけだ――本当は生きている方がましだけれど、死んでいてもさほど変わりはない、どちらにせよ人間なんてひどい味だから」
桂男は言いながら一歩、二歩、まるで踊るように足を動かした。その残像をかすめるように切り裂く鋭い音がする。佐倉はただ、その虚空を睨みつけ高らかに舌打ちをした。
「そのまま動かずにいれば、生きたまま刺身にしてやったものを。最も、貴様など食えたものではないがな」
「はは、ほら本性がでてきた! 獰猛で恐ろしく、皆から慕われるよりも畏れられるほうを選んだ末路が君の今の姿だ!」
闇に溶けるように足先が見えなくなる。着物の袂が揺れて、溶ける。顔だけぽっかりと残って、半端な月のように白々と揺れていた。
「貴様に――なにがわかる」
「わからないね。もっとわかりやすく、上手に人間に取りいればよかったのに、ただただ孤高を貫いた結果がそれかい? 人間から忘れ去られた神は正史から消える。畏れられ噂にのぼり言霊で力を得た妖たちは、姿かたちを変遷させながらも生き延びていく」
「みじめな姿をさらし、相手に媚び諂いながら生き延びることがそんなに重要かね? それなら潔く桜のように散るべきだ」
「それなら美しく滅べばいいのに――でも君は、あの人間に執着している」
ふ、と耳元でささやかれた。佐倉は振り向きざま腕をしならせる。虚空を爪の軌跡が伸び、何の感触も得られないまま、軽やかな笑い声が遠ざかった。
「みっともないじゃないか! ああ、楽しいねえ、君みたいに気高く滅びていこうとする神のなれの果てが、人間如きに執着している! 滑稽じゃないか。さあさあ、探してごらん! この夜の中で見つけられるかな?」
「いい加減その口を閉じろ」
にらみつけた先に虚空を斬る鋭い音だけが残る。いっそ炎で辺り一面燃やし尽くしてしまいたい気持ちになるが、どこにあの子がいるのかわからないのだ、と自分で自分を戒めた。神気をまとう炎は、人間ひとりなど骨も残さず焼き尽くすだろう。
耳障りな笑い声が響きわたる。こうしている間にもあの子がどういう状況に陥っているのかわからない。桂男の言い方では、遠からずそのままでは死ぬのだろう――そう考えるだけで腹の底がぞっとした。
(あれが、死ぬ?)
手を握りしめる。笑い声は消えない。遠ざかり近づき、時折ささくれだつような言葉を囁いてくる。いちいち相手にしていられない。この男に関わっている間にも時間は過ぎ去る。先ほどの言だとこちらと正面切ってやりあうつもりはないようだから――佐倉はそこでひとつ、首を振る。
雑念を振り払うために、目を閉じる。暗闇の奥にさらにもうひとつ、暗い闇がある。深い深い闇。夜すらも足りない。なにもかも生まれ出る淵の、重ねられた黒の黒。
どろりと足元にまとわりついてくる気配を振り払う。探したいたったひとつの形が、まだ見えてこない。夜で断ち切られてそのままの気配は、匂いは、闇に塗りつぶされたまま。
(名前を呼べと、言ったのに)
呼んでさえくれたなら。唇を噛む。痛みが走り、感覚がひとつ深くなる。視覚は思ったよりも役に立たない。見えないところでは肌感覚がいっそう鋭くなる。爪の先。指の腹。触れずにただその感覚を伸ばすように。
角の付け根がちりちりと痛んだ。
(――――名前すら)
呼べない子だと、知っている。
ひとりで、社の前で笑っている子だった。
最初は迷い込んできただけだ。けれどその後も近くまでうろうろ探しに来ている様子だったので、それとなく道を開けてやった。ふだんからそこにあるけれど誰もみな気にも留めないこの社に、こんなに短期間で何度も足を運んだのは近年ではあの子くらいだった。
『あ、あった。神さまいるかなぁ』
いつもあちこち怪我をしていた。指先や膝に絆創膏ばかり。着古した服を、袖を伸ばすようにひっぱっていじりながら、ポケットから飴玉をとりだし、ひどく吟味して、ひとつ、お供えしていく。
『飴、どうぞ。おれのいちばんすきな味』
好きなものだからたくさんもっているのだろうか、と最初は思った。社に腰かけて見下ろした先で、彼はにこにこと笑ってしゃべっていた。
『おかしもだいたいきまってるんだけど、飴はあんまり人気ないんだ。だから最後に選んでもちゃんと残ってて』
小さな指先で飴の包みを置いて、そばに座り込む。夕暮れ時だった。あたりはだれもいない。子供たちももう帰る時間だろう。この子は、家に帰らなくていいのだろうか。
『いやなこととか悲しいことがあったとき、こっそり机から取り出して一個だけ口に入れて、ゆっくりゆっくり舐めるんだ』
言葉にしなくとも彼の感情がゆるやかに漂っている。すこしだけ鼻先を近づければ、ぱちんとはじけるようにこの子の鋭い悲しみが伝わってきた。
さびしい。
だれも自分を見てくれない。
かなしい。
だっこして。
言葉にならないそれらの思いをひとつひとつ感じて、それからその小さな頭を見下ろしている。
『甘いなあって思いながら、それだけ考えながらころころ舐めてたら、飴がなくなるころには結構忘れることができるから、すき。おれ、ばかだから』
膝を抱えて小さな尻を地面に載せて、そうやって丸くなると本当に小さい。手のひらで握りつぶしてしまえそう、と思いながら、気づけばその手を伸ばしていた。
髪先にふれる。
触っているけれど触っているのではない。身体ではなくその内側の、やわらかな輪郭を撫でている。小さくて、それでも曇らずにいる美しい魂をいつくしむ気持ちがこみあげてきて、少しだけ驚いた。
自分にも、そんな気持ちがあったのだろうか。残っていたのか。
(もっと昔は)
ずっとずっと昔、まだ人々がここに集い、参拝し、願いを託していたころは、まだときおりこういった人間に感化されたような記憶がある。けれどすっかりそれも錆びつき、摩耗してそのままぼんやりと座っているだけだった長い、あまりに長い時間があった。
ふいに、子供が顔をあげた。
目があう。佐倉はぎょっとする。人間に――子供などに、驚かされるなど、本来であれば恥のはずなのだが。
いまはただ、純粋に驚き、すこしだけ胸が湧き立った。
錆びついた扉をこじ開けられた。
子供はぼんやりと虚空を眺めているだけのようだった。彼にこちらは見えていないようだ。けれど、確かに自分を見つめている。いったいなにが映っているのだろう。
飴玉よりもっと透き通って美しい、片目だけ奇妙にあかるい琥珀の瞳。
(――これは、いけない)
あやうい瞳だ。見えないはずのものを見てしまう瞳だ。特別な人間だ――我々人間以外の、神や異形のものたちから、好まれる瞳だ。
いっそこのまま手を掴み抱きしめて攫ってしまえば、ひとつの神隠しとして幕を下ろすのだろう。この子は人間社会から消え去り、そのまま記憶も感情も摩耗していく。自分たちと同じ存在になっていく。
手が、震えた。誘惑がなかったと言えばうそになる。なにがそこまで惹かれたのか、いまの自分にはわからない。もうすっかり、そういうことは忘れてしまった。
「――――今日は寒いね、お月様もきれい」
ふんわりとした、子供の声がして、目が覚めた。
意識して腕組みをする。浮かせかけた腰を座りなおし、その顔を見降ろした。子供はにこにことして、それから立ち上がるとお尻のあたりを軽く払った。
「もう帰らないと。またね、神さま」
そう言って小さな背中を向ける姿をしばし眺めて、目を閉じた。少し眠ったほうがいい。この子はこの社のことを忘れたほうがいい。神力は衰えていく一方で、もはや、顧みられない自分にできることは限られてきた。
(それでも)
あれは、おそらく、狙われる。付きまとわれる。
二十歳になる前になんらかの手にかかるだろう。それは予測というより確信だった。異形のものに、あるいは、己のように力の衰えた神に。攫われる。拐される。そのままとけて、きえて、形を失う。
あの美しい瞳が。やさしい輪郭が。
(――それなら)
目を開く。すっかり季節は過ぎ去り、空は同じように狭く、高く、蒼い。子供の気配を探る。近くには、もう、なかった。ふん、と鼻を鳴らし、久しぶりに社から立ち上がる。すっかり眠りすぎたらしい。遠くまで出かけて行ったのかこの土地を離れたのか。どちらでも同じかもしれない。あの後ほかのだれにも起こされることのなかった――顧みられることのなかった社を振り向き、飛び立った。鈍くひかる銀の尾が濁った空気の中を泳ぐ。そうして、彼を探しに行く。探し出した。
そして、いまも、また同じだ。
(日浦)
名前を。呼べと言ったのに。
呼ばれている気がした。
何も聞こえないのに、どうしてそんな風に感じるのだろう。わからない。思考がうまくはたらかない。
目が開かない。指先もうごかせない。
停滞した時間が長く引き伸ばされて、自分がいったいいつからこんな状態なのかわからなかった。そもそも、自分がなにかわからなくなりそう。
(おれ、は)
自分の輪郭がわからない。さっきまで抱いていたはずのその存在すら、思い出せない。
『みすぼらしい――――』
男の声が耳の奥でよみがえる。なんといっていたかははっきり覚えていられない。思い出せない。ただ、蔑んだ瞳だけ青々と冴えていた。
(みんな、おんなじだ)
人間なんて大したものじゃない。ずっと知っていた。故郷にいる子供たちの生い立ちを知ると、人間って碌なもんじゃないとしか思えなかった。
やさしいひともいる。かわいそうなひともいる。いじわるなひともいる。
みんなおなじで、自分も同じだった。人間なんてつまらなくて、その中でも周りの人が気持ち悪いと遠巻きにする自分は、誰にも振り向いてもらえない自分はいちばんどうしようもなく、いらない存在なのだと感じた。
こんなことは思い出せるのに、と重たい頭がぐるぐるとまわる。壊れたフィルムみたいに、昔の記憶が飛び出しては入れ替わる。自分では制御できない。つまらなくて、ちっぽけで、だれにも顧みられない自分の姿を外側から見ている。
すかすかと首元がさみしくて、あ、と瞬いた。
(首、が)
毛糸のふわふわとしたあたたかさ。歯をたてられた感触。冷たい指がしめつけてくる恐怖。
すべてがないまぜになっていく。人体の急所、だと、わかってはいる。でも、どうしていいかわからない。
(べつに、おれの命なんて)
『君は自分の価値を知らなすぎる』
そうあきれたように言ったのは、誰の声だったか。
目を開くことも閉じることもできない。ガラス玉みたいになってしまった目で、人形のように動けない手足で、ただ、その声を思い出している。
「日浦!」
呼びかけた声は虚空に吸い込まれ反響すらしない。耳障りな笑い声は止んだと思えばまた急に湧き出てきて、不愉快極まりなかった。鬱陶しくて払いのけようと手を振ればさらに甲高く笑われる。
舌打ちをして、歩き続ける。気配をたどる。それでも濁った闇の中、うまく手が伸ばせない。角の辺りがちりちりと痛んでいる。力を使いすぎている。自分の体が軋むことで警告の声をあげているのだろう。だとしても、かまうものか。
おそらく、時間制限がある。
桂男の悪趣味にそうそうつきあってはいられない。いっそ相手をつかまえ吐き出すまで拷問でもするべきなのかもしれないが、相手が逃げに転じると厄介だ。その分時間が浪費される結果となる。その間に日浦にもしものことがあれば――間に合わないなんて、そんなこと、万が一にでも。
(許されない)
闇を睨みつける。どこまで続いているのかわからない、鼻の先すら見えないような漆黒を泳ぐように歩く。飛ぶ。尾を翻しまとわりつく粘性の視線を振り切る。きらきらと火の粉のように細かな粒子が舞い、消えた。神気は散ってもあたりを燃やすほどの勢いはない。
「日浦」
名前を呼んでくれたら。ほんのわずかな声でもこぼしてくれたのなら、見つけられるのに。
歯噛みしながら考えている。耳障りな声ばかりが不愉快で。時間の感覚がわからなくなる。もともと人間の時間にはなじみがない。ほんの一瞬のつもりでも人にとってはひどく長いこともある。人の命は瞬くほどに短い。あの子も――いつか、先に、消えてしまうのだろう。
「それならさっさと食べてしまえばいいのに」
耳元でそう囁かれ、扇を振った。切っ先から炎がうまれ暗闇を赤く染める。すぐには消さず、怒りの炎をそのままに足元を燃やし、ひたりとそちらに向かって歩み寄る。
着物の袂が見えた。火の粉の中で、悠々と立つ男は薄く微笑んでいる。
「人の子に情を移すなんて、気高き辰神とは思えないね」
「貴様のような薄汚い妖に言われる筋合いはない。消えろ」
「はは、僕が消えたらあの人間は一生見つからないんじゃないかな――そう、名前はヒウラというんだ? 聞いても教えてくれなかったんだ」
ヒウラ、とまるで飴でも転がすように楽しそうに呟くその姿に、怒気が抑えきれなくなる。
「その口を燃やし尽くせばさぞかし晴れやかな気分になるだろうよ。月に黒焦げの死体を送り返してやる」
いっそすべて燃やし尽くしてしまうか。いよいよそんな気分になってきた。明るくなった中であの子を見つけて救出するほうがいま闇雲に歩き続けているよりもまっとうで確実かもしれない。いらだちがうずく。この状況への不満が、焦りが――短絡的な行動を選びたがって、手を握って、ひらいた。
「おっと」
扇を向けた、その先で、ふいに男が両手を前に差し出した。その手の中のものを目にして、思わず息を呑む。
「……日浦!」
くたりと頭を下げ、抱き留められているのは探していたその子に違いなかった。
見慣れた制服姿で、体幹から力は抜けているのに不自然に腕が伸びている。手のひらはやわらかく丸まって、指先は力なく垂れていた。
制服の袖に、その手首に、指先に、きらきらと絡む細い糸が見える。
「貴様、その手を離せ」
声がどんどん低くなる。足元に爆ぜる火の粉が、瞬間、風をまとって大きくなびいた。尾が感情のままに立ち上がる。目の前の男は、相変わらず薄気味悪く微笑んだまま。
「おっと、そんなに火を強めて大丈夫かな。この糸、けっこう燃えやすいんだ――この人間にも燃え移るかも」
白い指先が日浦の頤にかかり、ゆっくりと見せつけるようにその顔を持ち上げる。
日浦は目を閉じて、眠っているようにも見えた。長いまつげはひくりとも動かない。
息を――していないようにすら、見える。静かな、人形めいた顔立ち。
「触るな」
ぐ、と喉の奥が熱かった。怒りで目の前が赤くなる。あの子がいる。そこにいる。糸はきらびやかで、細くて、嫌なにおいがした。
「本当に気が短いね。神も年をとると理性がなくなるのかな」
やれやれ、と小ばかにしたように肩をすくめる相手に掴みかかりたくなっている。手のひらを握って、開いて、握りしめる。
「それから離れろ」
「さあ、どうしようかな」
急につま先が重たくなる。闇の中から這い出たような細い指が虫のようにつま先や足首に忍び寄っていた。軽く視線で薙ぎ払うが、あとからあとから、闇の中から手が出てくる。目の前の男を睨みつけると、彼はふふ、と笑った。
「ねえ、どうしようかな。僕、自分が傷つかない範囲なら君と遊んでもいいよ」
「痴れ者め」
舌打ちを響かせる。日浦は俯いたまま微動だにしない。本当に人形になってしまったかのように――魂がうつろになってしまった? いや、かすかに感じる。けれど、弱い。ひどくかぼそい、頼りない鼓動だ。
「日浦!」
名前を呼ぶ。彼はひくりとも動かない。ふだんであれば声をかければすぐに顔をあげ、駆け寄って来るのに。うれしそうに笑っているのに。
「それになにをした」
「べつに? ちょっと背中を押しただけだよ――だって、この子、そもそも生きるのに向いてないじゃないか」
白い指が伸びて、日浦の小さな顔に無造作に触れた。頬に軽く爪を立てるのが見えて、考えるより先に扇をふるう。
ぱしん、と高い音が響く。
「あぶないなぁ」
男は軽やかに一歩下がった。日浦から手を離している、にもかかわらずその子は崩れ落ちることもなく、そのままの姿で取り残されている。
見えないほどの細い糸が、とぎれとぎれにきらりと光る。細い腕やズボン越しの足、腰、首や髪先に絡みつき、日浦はまるで縫い留められたようにその場に立っている。いや、浮かんでいた。つま先もだらりと垂れ、標本箱に留められた蝶々のようなありさまに、歯噛みしてしまう。
(あれを、)
白い手が足元から這い上って来る。蹴り落とし、扇を振るい、舞うように動きながらも相手の姿を目で追えば、優男の姿がふいに闇に溶けた。目を眇めて、見えない部分を追いかける。日浦の状態にも注意を配り、はやく駆け寄りたいのに足元の数多の手が邪魔だった。尾を無遠慮に撫でてくる手を――手、と便宜的に呼んではいるがいったいなにかわからないどろりとまつわりつく気配を、苛立ちのままに睨みつける。淡い存在はこちらの視線一つで蒸発する。すぐに視線を戻して、男の気配が口を閉ざしたように静かになってしまった。
「チッ! いい加減にしろ。それを離せ――その子を好きにしていいのは、僕だけだ」
見失ったことに舌打ちをする。大股で踏み出して、足元の気配を蹴散らす。踏みつぶす。伸びてきた手を払い落とし、日浦に近づいて――けれど、くん、と首がなにかにひっかかった。
「あはは、神の傲慢さは見ていて清々しいほどだね! こんなちっぽけな人間にこだわるのは解せないけれど」
「チッ」
自分の首元で扇をひらめかせる。角がちりちりと燃えている。笑い声が耳元で響く。指先が冷えて少しずつ、鈍くなっているのがわかった。
「冬至は苦手なんだろう? おとなしく巣ごもりしていればいいのに」
あざ笑う声の方向に鋭い爪を走らせる。ただ闇がまとわりついてくるだけで、何の手ごたえもなかった。前に向き直り、日浦の姿を見て、ふと。
その細い首が、ゆっくりともたげられる。
目を覚ましたのか、と気が緩みそうになるが、その魂の気配は、ちろちろと燃える炎は、まだか細いままだ。揺れながら、溺れながら、そのまま消えてしまいそうなほどの頼りなさ。透けそうなほど白い顔がもちあがり、その目蓋はしっかり閉ざされたまま。薄い皮膚の下の蒼い静脈すら浮いて見えてしまいそうな、白。
「これは、こんなに死に近しいのにね」
不愉快に笑う声とともに、細い首に絡む糸が後ろに動いた。あっさりと日浦の首がのけぞる。苦しげな様子はないけれど、あれでは――呼吸ができなくなる。
「貴様!」
足を踏み込む、踏み出す。一歩を大きく滑るように飛ぶ。手を伸ばして、その子の体はなぜか後ろに揺れた。後ろから数多の見えぬ糸にひっぱられて、人間では無理な動きで傾ぐ。ぐらぐらと、そのまま首だけもげてしまいそうな不安定さ。鼓動が早くなる。人間はひどくもろい。あんな、雑に扱っていいわけがない。
日浦を、あんな男にいいようにさせるなど。
「日浦! 起きろ――目覚めろ、日浦!」
糸を切るために爪を走らせる。暗くて遠近感が乏しいが、どうにも斬撃の感触が乏しい。きらきらと光って朝露をまとわせた蜘蛛の巣のような繊細さなのに手ごたえがない。彼の細い喉に巻き付いた糸が、その白い肌に食い込むのが見えた。肌に幾筋も赤い線がはしる。
真っ赤な血が滲みだす。
「っ、」
その匂いにたじろぎそうになる。日浦の匂い。あれのもつ、人間ならざるものたちをひきつけてやまない魅惑の匂い、気配。腕を伸ばしたよりもまだ遠い距離にいるのにまるで鼻先につきつけられたように濃く匂う。
すがるようにこちらの足にまとわりついていた白い指たちが、その匂いにつられ日浦のほうに流れていく。漣のようにゆれる足元を、振るった尾で薙ぎ払った。どろりとまとわりつく闇の滴を、先を震わせ払い落とす。
目の前がくらくらとした。理性をぐらぐらと揺さぶられる、頭を直接揺さぶるような血の甘く、かぐわし匂いがまとわりついてくる。
思うように動かない身体の重だるさに加えて、この強烈なにおい。手足がしびれそうだった。角の付け根が疼く。唾液が口の中に溜まってくるのを飲み込んで、眉間に力をいれる。
「ふふ、そんなに我慢する必要はあるのかな」
耳障りな声が、気味が悪いほど近くから聞こえた。
「僕はね、君の落ちぶれている姿なんて見たくないんだ。それならいっそ昔のように、そう、初めて邂逅したとき。君はひどく傲慢で、僕なんて目にも入らないように孤高に美しく立っていた。ねえ、あの人間を食べればそれなりに力は戻るんじゃないか? なにせあれは百年に一度、いやそれ以上かもしれないごちそうだ」
うそぶく男の声に、腹が燃える。目の前が燃える。怒りとは炎だ。日浦の今にも消えそうなたよりないろうそくの炎ごと包み込むように、燃え盛る。指をひらめかせる。
日差しが乏しく春が遠く、夜が世界を支配するこの時期は己の力ひとつ満足に使えなくなっているのが自覚させられる。
だが、それがなんだいうのだろう?
足元に這う魑魅魍魎を炎がひと息に舐めてゆく。一瞬にして足元が赤く染まる。
炎は呼吸に合わせて揺れる。見えない導火線をひた走るように、佐倉の立ち位置からその男の足元まで一直線に火の波が駆け抜けた。
桂男は、よろけたように足を動かした。着物の袂に火が燃え移る。そのまま燃え盛って焼き尽くしてしまえ、と睨みつけているけれど、想像したとおりの軌道は描かない。裾の途中で、勢いが弱まっていく。
「熱いなあ――悪くない勢いだけど持久力が足りないね。やっぱりおなかがすいてるんじゃない?」
「日浦――目を覚ませ、日浦」
男の挑発に乗る余裕は、なかった。言われなくともわかっている。力が足りない。こんな妖すら払いのけられないこの腕にうんざりしながらも、その名を呼び続ける。調整してはいるがあの子の足元にも炎は爆ぜている。音もなく揺れる呼吸の色が彼のつま先をかすめる。
「もしかしてまるごとだと食べにくい? 腕や足をちぎったほうが口にしやすいのかな。一番おいしそうなのはやっぱりこの眼球だけど、ねえ、君は好きなものは最初に食べるほう? それとも最後まで」
「黙れ、その口を縫い閉じてやる」
退避される間際の優男の、その首を捕まえる。もはや逃がしてはおけない。このまま首をひねり殺してやる。ざわりと総毛立つうなじは怒りのためで、目の前が狭くなる。
「あは」
けれどまるで予想していたように踏み込んだ右足が重だるくなる。鋭い痛みが走り、はっと俯けばそこに、歯があった。からっぽの闇の中に、目も鼻もないのに、口だけ大きくひらいて、歯が。白々と。足に食い込んでいる。反対の足や尾にもすがりつくような手のひらが、爪が、忍び寄る。食い込む。切り裂こうとしている。
「僕に、許可なく触れるな!」
吐き出した声に伴い火の粉が舞う。鱗粉のように吐息にあわせて熱気が頬を撫でる。己の燃やした炎で肌が焼けそうな気がした。角が鈍く頭を締め付けるように痛み始めている。
「迂闊だね。一定の距離を保っていればよかったのに」
つかんだ先の首が、顔が、口端をもちあげ大きく笑っている。微笑んでいる。指に力をいれて、たしかに手の中で締め付けているのにまるで体と顔が切り離されているように、男は笑みのままだ。
右足の痛みが強くなる。噛みちぎられる。
(こんな肉体くらい食わせておけ)
ぎり、と奥歯をかみしめ、にやにや笑っている男から目をそらす。すぐ隣にいたはずの日浦の姿が、また遠ざかっている。近づいた分後ろに遠ざかる。日浦が。細い糸が首にきつく絡んで、血が、流れている。炎が溺れるように消えかかっているのが見える。
「日浦――名を呼べ。僕を呼べ、日浦!」
何度鋭く呼びかけても、無理に顔を挙げさせられたその子は青白く目蓋を閉じたまま。薄く開いた唇はふしぎと赤々として見えた。
「日浦、僕を求めろ!」
どうにも、自分の欲しいものを言えない子だった。
二年に満たないほどの間そばにいて、結局、彼から要求らしい要求を聞いた覚えがない。
こちらがなにかすると喜ぶくせに、いざなにを欲しいのか聞いても戸惑ってばかりだった。周りにゆがめられ、押し込められて、ほしいものひとつ口に出せないくせに。声をかければ嬉しそうに顔を上げて。呼べばどこまでもついてきて。人懐っこくそばにまとわりついて。
一番好きなものですら躊躇いなく差し出してしまう、そんな、なりふりかまわずに、先のことなんてなんにも考えず、今しかないように生きている子だから。
「日浦!」
白い喉がのけぞる。食い込んだ糸が細く震えて、血がたらりと流れ落ちシャツの襟元にしみこんでいく。無数の手が、指が、そのつま先に、足元に群がろうとしている。腹が燃えるように熱い。苛立つ。あれに触れていいのは――僕だけだ。
「みっともないよ、あまり僕を失望させないで」
縊った先の男の顔が、すこしだけ不愉快そうに歪む。まるで苦痛などないようにその白い指先が――足元に食い込む歯が、目の前に迫る。男が口を開く。ぽっかりと広く、喉の奥が落ちていきそうに暗い。
「僕はきれいで気高い君が好きなんだけど――あんな、人間に執着するような姿は、見たくないね」
気づけば桂男の指には数多の糸がきらめいていた。まるであやとりでもするような気軽さで、彼が糸をひく。ぴんっと糸が震えて、その先の、華奢な体が大きく傾いだ。
「日浦!」
目の前が赤く染まる。脹脛に食い込んだ牙の冷たさも、しめつけるような頭重感も、目の前の男の戯言も、なにもかも、邪魔だった。
あれさえいれば、いい。
あの子だけ、――日浦だけ、いれば、それで。
指先がしびれる。感覚が乏しくなる。肉体が邪魔だった。けれどこの器がなければうまく形を保てないくらいに、もう、消えかけている。滅びかけている。
(それならいっそ)
目尻が焼け付くように痛んだ。
呼ばれている。
うすぼんやりと耳の奥が揺らされている。体のどこもかしこもまったく自分のものではないように動かせない。けれど視界がさらさらと流れていく。閉じた瞼の奥で暗闇が深くなる。
ひっぱられて、身体が、頭が傾ぐ。目をつぶっていてもそれくらいはわかるらしい。ぐらぐらと、思考が浮かんで消えていく。ひとりぼっちだ。いつだって。さみしい、と、口に出したらそれが本当になりそうで――だれも振り向いてくれないことを、思い知ってしまいそうで、何も言えないままに飴玉を口に放り込んで。
(あのひとは)
どうしてマフラーを巻いてくれたんだろう。
浮かんでは消えていく。一つのことを考え続けられない。何も思い出せない。あのひと。あのひとってだれ? マフラー、は。
くん、と首を後ろに引かれた。鼻先が上を向く。後頭部がうしろに下がるように、喉をさらけだすように、なって。息がしにくくなって、いる。さっきまでかろうじて呼吸をしていたらしいとわかる。
なくなってからその不在に気づく。空白が、その輪郭を浮かび上がらせる。
(――どうして、迎えに来てくれるんだろう)
細い鋭いものがじわりと肌に食い込んでくる。締め付けられて喉元がゆっくりと、確実に、窮屈になっていく。痛みは感じられない。ただ、目を閉じた先の目蓋の裏が、白くかすんでいく。
指先一つ思い通りに動かせない。
体が自分のものではなくなる感覚。こわいものに、目を背けたいのに目をそらせない。逃げ出したいのに吸い寄せられるように足が動かなくなる。こわい。こわいけれど、でも。
この目が悪いのだと、さっきの男が言っていた。
おれが見るから――おれが、認識するから。
この目が歪だから。
『おかしなことを考えるな』
凛と響く声が、よみがえる。外から聞こえたものではない。内側から――記憶の中から、ふいに、引っ張り出された声だ。
どうして、あのひとは、いつでも迎えに来てくれたんだろう。
一緒に帰ってくれたんだろう。
おれなんて――ちっぽけで、だれにとってもどうでもよくて、本当に、価値がない、のに。
『名前を呼びたまえ。いつでも迎えにいってやろう』
苦しい。息がしにくい。指先が凍り付いたように冷たくて、肘も肩も、足もどこもかしこもこわばっている。動かせない。人形になったみたい。喉が凍り付いて、声なんて、とても、だせなくて。
感覚なんてなにひとつなくなっているのに、ふいに、肌が焼けるように熱くなる。一瞬のことで、においが――なじんだ、花の匂いが濃く漂った。いつだったか、彼が迎えに来てくれたとき、抱き留めて、暗闇から連れ出してくれた瞬間がよぎる。頬をかすめた衣服の感触、清廉な花の匂い、きらめく桜色の鱗――うろこ? いったいどこから、このイメージはでてきたのだろう?
『日浦!』
だれかが名前を呼んでいる。名前――名前? だれの、名前。ちがう、自分の名前だ。
だれかが自分を呼んでいる。
鋭い声が耳朶を打つようだった。けれど指は動かない。体が動かせない。ちりちりと焦げている。重苦しく痛んでいる――自分、ではない。だれかの痛み、だ。だれ。誰の声。熱い。苦しい。息が、しづらくて、考えがまとまらない。ほどけてしまう。輪郭がとけてしまう。ばらばらになって、このまま闇に溶けて、
それでもいいのかなあ、と思うのに。
『名を呼べ。僕を呼べ』
耳鳴りのようにわんわんと声が響いて、頭の中で反響している。聞こえる。聞こえている。さっきまで何も聞こえなくて、なにも匂いもしなかったのに、気づけばこんなに。近くに。
(おれが見るから、おかしな世界になるっていうのなら)
『君の眼は君の選択だ――君の目が君の世界を変える』
その言葉の意味はわからなくて、そのまま仕舞い込んでいたけれど。
でも。いま。いまなら。
(おれが、見る)
この目が見るものを――自分が見たいものを、見てやる。
『僕を求めろ!』
声に。
目を、見開いた。
「――――祥さん!」
暗闇の中で、きらきらと光る火の粉がある。その向こうに、あの人がいる。
途端に感覚が戻ってくる。首がきりっと痛んで、食い込む細い無数の糸を感じる。前に動けばその分食い込んで皮膚が破れる、けれど、そんなことかまっていられない。
あの人がそこにいた。なにかに足をとられ、身体を傾けて。表情も苦しそうで。真っ暗な中で、あのひとだけくっきりと光って、浮かんでいる。輪郭がまばゆく発光するように揺らめいて、炎が――真っ赤に燃え盛る火の粉に、いま、ようやく気が付いた。熱い。頬を、手を、足を舐めていく炎がある。熱くて、けれど。
「祥さん、せ、んぱい!」
「はっ……ようやく僕の名前を覚えたのか」
彼が、ふっと唇を緩めた。眉を顰め決して楽しそうではないのに、あえてそこで笑って見せるやり方がなんだか佐倉らしくて、少しだけ気持ちが緩む。手を伸ばそうとして、歩み寄ろうとして――ちっとも手足が動かないことを気が付いた。
手足を確認しようとしても首すらうまく動かせない。どうにか無理にひねると、肌がひきつれて鋭い傷みが走った。肌に血が流れる感覚がある。
「愚か者、動くな」
短く叱り飛ばされて、でも、でも、どうしていいのかわからない。地面の感覚がない。二の腕や前腕、足、胸に食い込む細い糸みたいなものに体重が掛かって、きりきりと痛い。苦しい。息が、しにくい。
「先輩、怪我してる⁉ 大丈夫?」
「自分のことを心配したまえよ」
「うん、僕もそう思うよ」
ふいに、ざらっと耳障りな声が聞こえた。
「このままだと君、死ぬけど。悠長だね。鈍感なのかな」
ぴっ、と風が頬をすり抜ける。「日浦!」とお師さんが叫んで、少し後にじわりと頬が痛んだ。なにかで切れたのだろうが、別にかまわない。そんなことより――
「先輩、どうしたんですか。苦しそう……大丈夫!?」
「君の血の匂いに酔ってるんだよ――さっさと食べたらいいのにね。短気なくせに我慢強いふりをして」
あざ笑う声よりも、目の前の人の苦悶様の表情のほうが気がかりだった。はやくそのそばに行きたいのに、からみつくものが邪魔だ。先輩、と叫んでも彼は振り払うように手や足を揺らす。桜色の尾が後ろから身体の横までの広い空間をぶん、と揺らし、きらきらと鱗粉のようなきらめきが舞う。星空のよう。一瞬の幻想のよう。
「はやく食べてしまえばいいのに」
この変な暗闇に引き込んだ、あの着物の男の声だ。きれいな声のはずなのに妙にねばついて、じっとりと体が重たくなる。力が抜けてしまう。目蓋が落ちそうになるのをこらえて、一生懸命、目の前の人を見る。どうしてこんなに遠いんだろう。ぱちぱちと爆ぜる火の粉。何が燃えているのだろう。焚火のような、神社で見る大きな炎のような。熱が肌を撫でて痛みが遠ざかる。
「――祥さん」
そう呼べば、鋭い二つの瞳がこちらを射すくめた。
怖気づきそうになる。いつもの彼の目と、ちがう。もっと鋭くて、違うものが、二重写しの別のものが見えてきそう。
(だとしても)
手を伸ばしたいのに、指が動かない。だから、せめて目をそらさずに。
「祥さん、来て――おれを、食べて」
「……っ、ひ」
「はやく。祥さん、来て。おれのところに」
来て、と告げる言葉を飲み込む。足元でくすぶっていた炎が急に立ち上がる。男の甲高い笑い声が響く。
目が。
夕暮れと夜の合間のような、紫の瞳が、目の前にあった。きゅうっと瞳孔が絞られ、だから印象が違うのだ、と気づく。切れ長の目尻が赤く燃え、耳の上あたりから伸びる鈍色の角。大きな尾はなにかを振り払うようにぶるりと大きく揺れた。
このひとは――人間じゃない。
いまさらそう思った。今更だった。ずっと前から、そうわかっていた気がする。知っていた気がする。クラスの誰もお師さんのことを話題にしなかった。校内ですれ違うことはなかった。部室かこちらがひとりでいるときしか現れない人だった。あの部室には誰も近寄らなかった。終業式の日にうずくまっていた姿。気配。
『みんなお前を食べたいんだよ』
異形の声が真実だとして、だから。
だから何だというのだろう。
気づけば微笑んでいた。佐倉とは思えない荒っぽい、獣のような吐息が、顔にかかる。そのくらい近くにいる。覗き込まれている。
「祥さんがそうしたいなら、いいよ。食べて」
なにかがはじけるような乾いた音が断続的にしている。焦げた匂いはせず、花の匂いが濃い。
この人の匂いに包まれている。不愉快な男の声も聞こえない。ほかのすべてはどうでもいい。ただこの人がいれば――そう思って、目を、閉じた。
相手の呼吸が速くなる。浅く苦しそうな息が首元をかすめる。首から食べるのかなあ、とぼんやりと思って、せめて食べやすいよう、喉をすこしだけそらした。さらけ出した。おれ、おいしいんだろうか。
「――――この、ばか」
低く、詰られた。
その声に目を開ける。彼は至近距離でこちらを睨みつけている。ふ、ふ、と短く息をついて、苦しそう、なにかをこらえるように荒々しい呼吸で――その手が、鋭い爪が、首に絡んだ糸をぷつり、と断ち切った。
支えがなくなって首がぐらりと揺れる。自分でどうやって首を固定するんだっけ、と途方に暮れてしまいそうなくらいぐらぐらとして、困ったまま相手を見上げると、佐倉は舌打ちをして、こちらの顎先を掴んだ。
「わ、」
「どうしてそうやすやすと自分を差し出すのだ、僕が理性のない妖だったら一体どうなっていたと思う⁉」
「あ、あの」
なんだかいつもの佐倉らしくてうれしくなってしまう。表情に出たのだろう、彼はいっそう苛立ったように「喜ぶんじゃない!」と怒鳴った。至近距離なのでふっとばされそうに大きな声だ。
「やせ我慢は美しくないね」
はやし立てるようにひらひらと声が聞こえて、佐倉がぎっと虚空を睨みつけた。
手を放してもらったのでまだぐらぐらする頭を動かし、その声がどこからするのか――目をこらすと、うっすらと月が浮かんでいる。満月ではない。どこか一部欠けていて――前髪で欠けている顔だ、と気付いて声をこぼした。
「あ、あそこ」
思わずそう言うと、彼がこちらの視線の先を追いかける。空いた左手にいつの間にか扇を持ち、まるで舞うようにひらめかせた。すぐさま金色の髪がゆれて、遠のく。
「――見えるのか?」
「あ、う、うん。……でも消えた」
「こわいこわい。君の眼は本当に特別製だ。さぞかし食べ応えがあるだろうね」
「黙れ――日浦、」
佐倉の扇が動いて、腕に絡んでいた糸を断ち切ってくれる。片腕が楽になる、けれど自分で支えられずにそのまま崩れ落ちそうになって、もう片方の手も解放されてもひどく重たくてそのままだらりと下に落ちてしまった。
「う、わ」
「こら、しっかりしろ」
見かねた佐倉に抱き留めてられるが、ちっとも力が入らない。血が巡っていない、という表現が近いかもしれない。指先が冷たくて体も芯から冷えている。震えることすらできない。
「冷たい――チッ、はやくここから」
「う、うん――あ、」
ぴん、とまた後ろに引っ張られた。首、というか髪だ。たぶん糸のようなものが絡んでびっくりするくらい強い力で後ろにひっぱられる。首がもげてしまいそう。
「いたっ」
「チッ! きりがない!」
いらいらした調子で吐き捨て、佐倉は闇の中で扇を閃かせる。きらきらと金色の粉が舞う。火の粉みたいに。
「あの男はどこだ!」
「あ、あっち」
ぼんやりした月のようなものが視界の端をかすめる。慌てて指をさそうとしてもうまく腕があがらずどうにか目線で訴えて、すぐさま佐倉はその方向に扇を切る。彼の動きはとても俊敏なのに、軽やかな笑い声とともに青い瞳がまた消えていく。すり抜けていく。タイムラグある。佐倉はいらだちを隠さず手を、尾を振るっている。ふと見上げた彼の角が、翳っているようにみえて気になった。
「先輩、あたまの、それ、角? 色が……」
「ああ、――――まったく、僕としたことが」
忌々しそうに呟く顔に、じわりと汗が滲んでいるのが見えてぎょっとした。
「大丈夫ですか」
「喧しい、とにかく奴を追い払うか、とっつかまえてここから出ることが最優先だ」
「でも、先輩、」
「食べさせてあげたら」
合いの手みたいに耳障りな声が入る。桜色の尾が鈍く揺れるが、その動きもどこか緩慢だった。
「黙れ」
佐倉の唸り声に、あの男の笑い声が遠く近くにさざめいて、足元に気付けば白い曖昧模糊としたものがまとわりついていた。地面に足はついているがとてもひとりでは立てない。まして振り払うなどできず、ひっと息をのんで彼の胸に縋りつくしかできなくて。
「先輩、たべるって」
「黙れ、あれに耳を貸すんじゃない」
「でも」
「いいから」
その横顔が苦しげだった。あの日、冬至の部室で見た表情よりもっとつらそうで、角の輝きが鈍ってきているのがみえて。
弱っている。力が足りないのだ。
『食べさせてあげたら』
さっきから繰り返し響いているその言葉の意味を理解するより先に、は、と瞬く。考えるよりも体が動いて、彼の頬にそっと触れた。ひんやりと氷のように冷たい肌。
(これが、食べるってことなのかどうかわからないけど)
「たべ、て、いいから」
首を伸ばし、その顔に、唇に、唇を重ねた。かすかに押し付けるだけの、ぶつかるような口づけ。触れた瞬間、ぱちん、となにかがはじけるように胸の奥で鋭く痛む。その正体をわからないままに、碧生はゆっくりと顔を離した。怒られる、かも、と思ったけれど。
「祥さん」
すがるようにその名前を呼ぶ。彼は、かっと目を見開き碧生を睨みつけていた。ごく自然に大きな手が背中にまわり、抱きすくめられる。ぎゅっと体が近づいて、彼の匂いが濃く香織、赤い唇が暗闇の中で大きく開く。鋭くひかる白い歯が、うつくしかった。
「っ、ん」
彼の唇が開いた。食べられてしまう、と眼を閉じる。乾いた皮膚が触れ、濡れて熱い舌先が唇をこじ開けるように舐めた。びっくりして力が抜けた瞬間、口腔内に舌先が滑り込む。
「あ、」
ぞくりとうなじがふるえ、思わず顔を退いてしまう。口の中、舌が固まって震えた。咎めるようにすぐにおいかけられ、頬を片手で掴まれてもう一度深く、口づけを受ける。受け入れる。ぱちん、ぱちん。痛んだ場所が点になって繋がって、身体中、ぱちぱちと、はじけて。
「……あ、」
舌の上を舌が這う。舐められる。形を確認するみたいに熱く包まれ、軽く吸われて頭の奥がしびれた。
「う、」
ようやく解放されて、吐息がこぼれた。ぼんやりとする視界で瞬くと、ひどく近くに美しい顔があって、その瞳にじっと見つめられていることに気づいて心臓が飛び出しそうになる。
「あ、あの、先輩、その」
「――なるほど、君の視界は、このようなものか」
佐倉はそう頷くと尾を震わせた。
ざっと葉がこぼれる。大きな、緑色の葉――こんな暗闇の中なのになぜかその色がはっきりと見えた。
気づけばそこに立っているのは着物の裾ではなく大きな樹だった。幹が太く、隆々として天高く生い茂っている。緩い曲線を描き、先のとがったつやつやとした葉が塊となって揺れていた。いつの間にこんな、と思ったけれど、最初からそこにあったのかもしれない。
「目が晴れたみたいだね、その人間のおかげかな?」
葉がこすれる音がふいに言葉になる。さらさら。さらさら。葉擦れの音が言葉にかわる。
男の顔がぽっかりと浮かぶ。満月ではない。月に兎の姿が浮かぶというが、そこにある月のような顔は美しい男の目鼻立ちだ。ただただ美しく、人間味が薄い。ざらりと、異形の唇が笑う。
葉が舞う。真っ二つにわれた葉のかけらがはらりと落ちて地面に吸い込まれるように消えた。音はない。けれどいくつもの奇跡が――鈍色の粉が舞う。見上げた先、彼の輪郭がくっきりと輝いていた。角が鋭く、銀色に輝いている。
(あ、)
朝焼けの、白さ。
あかるい、すがすがしい春の色だった。
その横顔が透き通るほどに白い。鋭く、彼の目線がまっすぐ伸びていく。
手のひらがひらめいて、その先に金色の扇が翻る。閃いた花びらが、白い桜の花が目の前を過った。
「祥さん」
抱き寄せられた人のその顔を今一度見る。佐倉の顔色は白く、けれど美しく尖っている。先ほどよりもいっそう研ぎ澄まされ、切れ味の良い刃物のように美しかった。
「とはいえすぐに霞んでくるな――これが本体か」
「あは、見えちゃったかぁ」
さらさらと笑い声が降ってくる。見上げると、頭上の大きな大木に、ぽっかりと白い真昼の月が浮かんでいた。月、ではない。その男の顔が、ましろく、円なのにいびつな顔で。さらりと金色の髪が揺れる。
「まあいい。燃やし尽くせばいいのだな」
「好戦的だなあ、辰は」
睨みつけたその人の顔は美しく、燃え上がりそうに鋭い。足元の火の粉が大きくはじける。ゆるく波打つように、炎の漣があたりに広がったほの白い高低の雑草のような流れを舐めつくし――幹に至った。
ちり、と焦げ付いた匂いがする。幹からではなくひどく近くから――彼の顔から、頭の辺りからした気がして、思わずそちらを見た。
「先輩……からだ、大丈夫?」
「ふん、君に気遣われるいわれはないのだよ」
佐倉の鋭い瞳はらんらんと光っている。彼を見ているはずなのに目には樹の枝先が映っていた。おかしい、と瞬いて、目を擦って、けれど変わらない。前触れもなく、脹脛が鋭く痛んだ。
「っ」
びくっと肩が震えた。抱き留められているので当然彼の腕にも伝わったらしい、相手は素早くこちらを見た。
「――痛むか」
「え、なんだろ、」
慌てて首を振ろうとしたがじくりと足が痛んでいる。なにかに強く挟まれたように――するどく噛まれたように痛い。ずきずきと鼓動に合わせて痛みが点滅している。なに、なんで、こんな。
「君の目が同化されたように、君にも僕の破損が伝わってしまうのか――急がねばならないね」
舌打ちが響く。頬が熱く焦げる。んあ、と驚くと瞬くと彼がこちらを抱きしめなおした。
「――――つかまっていろ」
それだけ告げると、身体が揺れた。背中を熱風がすりぬけていく。碧生は自分の体の冷たさが相対的に自覚される。手足の隅々まで冷え切っていて、しびれて、感覚がとぼしくて――彼に触れられたところから輪郭が生まれる。その手が、指先が、いまの碧生を形作っていく。
「桂の葉を伐採するのが貴様の仕事だろう? 手伝ってやろう」
「はは、途端に威勢が良くなったね」
笑う声がけれど遠ざかる。彼の炎のほうが巡りが速い。
「ひと息に燃やし尽くしてやろう、這い蹲りその灰を搔き集めて月に差し出すがいいさ」
炎が一つの塊のように大きく揺れる。明滅するような桜色の角もその精悍な額も、どれも美しく輝いて――どこか、爆ぜる直前の炎のようなあやうさを感じる。
胸の奥がざわめく。痛みは去らずにずっと主張しつづけていて彼に支えてもらわなければくずれおちてしまいそう。頭も締め付けられるように痛い。指先一つ、動かすのがひどく億劫になる。
これは、きっと、佐倉のいまの状態なのだ。
「先輩、」
いてもたってもいられずその胸に縋りつき彼の名を呼ぶが、一瞥が返されるだけだった。何も言うな、という意志表示だとわかる。実際にそう聞こえた気もする。わからない。きゅう、と佐倉の服を掴むと軽く腰を抱き直された。
ちりちりと角が震えている。耳元で低くうなるような声が聞こえて、はっと振り向けば先ほどまで足元にゆれていた異形の影が、くっきりと牙を剝き出している。唸っている。声が聞こえる。背筋が震えそうになるのをどうにか我慢して、ぎゅうっと目をつぶって。
開いた。
大樹は天をつくほど大きく育ち揺れている。はらはらと葉が舞う。その中の――男の顔を、見つける。
「あそこ!」
彼はすぐに顔をあげ、まるで同じ目で見ているようにぶれずにまっすぐ、相手の姿を捉えた。扇が美しい軌道を描いて持ち上がる。
「――もう二度と会うことはないだろう」
「ふふ、どうかなあ」
それが最後の会話だった。
頬が燃える。焦げる。うなじがわっと熱くなって、とても目をあけていられなくて目蓋を閉じる。耳を通り過ぎる熱風も服越しに撫でていく風圧も、足の痛みも。すべて吐き出され包み込まれて感覚が遠くなる。耳障りな笑い声が吸い込まれるように遠ざかる。熱くて、目を閉じると暗いはずなのに妙に明るくて、燃えている。
ただ、顔を寄せた先にあるそのひとの身体の感触だけが、確かだった。
は、と目を開けると夜だった。
足を動かすと、じゃり、と小さな小石を踏んだようだった。スニーカー越しのアスファルトの感覚が伝わってきて、夜の冷たい空気に唇が冷やされていく。
制服姿で、呆然と道端に立っている。いつからここにいたのだったか、と瞬いて、無意識に首元を探るとすかすかと冷たくたよりない自分の肌があるだけ。
「あれ、マフラー、」
慌ててあたりを見渡そうとしたところで、目の前に手が突き出された。驚いて息を呑む。
佐倉が立っている。
「なくしたら承知しないと言っただろう」
低く、そうつぶやいて彼がマフラーを差し出してくれた。その人の顔は暗くてよく見えない。いつも通りの制服姿で――この寒い中、コートも羽織らず、マフラーもせずに立っている。色白の頬がいっそう白く、すきとおるように儚く見えた。
「あ、すみません」
差し出した手が彼の手にぶつかる。ひんやりと冷たく、氷のような温度で驚いて思わずその手を掴んでしまった。マフラーが零れ落ちる。
「先輩の手、冷たい! こんな、大丈夫ですか!?」
「いいから」
「なんにもよくないです! 具合悪いんですか」
両手で彼の手を包み込みそのまま一歩近寄る。佐倉は珍しくこちらを見ず、目をそらした。こんな弱気な態度は見たことがなくて不可解で、そんなことよりこの冷たさの方をどうにかすべきだろう。手の中でさすって、顔を近づけふうっと息を吐きかけてみた。
「先輩いったいいつから外にいたんですか、いったいなにして、」
言いながら、あれ、となにかがこぼれだす。
顔を上げる。彼の横顔を見る。美しい鼻筋、額の稜線。後頭部への丸み――なにか、なにかが。
ちりっと頭が痛んだ。
「先輩って――神さまなんやね」
ほろりとその言葉がこぼれて、こぼれたあとで自分でその意味を知覚する。彼がゆるりと振り向いて切れ長の瞳を細めた。目尻がふわりと明るく、朱に揺れる。瞳が――この暗闇の中でもくっきりと輝く瞳孔が、どこか人間離れしている。
「今頃気付いたのかい」
かすれた声で呟かれて、その声が熱を孕んで首筋を通り過ぎる。彼の視線がこちらの首に絡みついている。むき出しの肌の、そこにさっきまで絡んでいた細い糸を思い出して、咄嗟に指で探った。あたりまえに、いまはなにもない。けれど、触れたその奥に微かな凹凸があるような気がする。損なわれた部分があるような。欠損が、ある、ような。
佐倉の手が動く。静かに頬を撫でられ、びくっと震えてしまった。
彼がかすかに唇をゆがめる。
「僕が怖いかい」
ふるりと夜の闇を振り払うように、白く輝く尾が見えた。長くて、太く、花びらのように鱗がきらめいている。人間ではない。ふだん見てしまうこちらの世界ではないほうの――存在、だ。どうして神さまだと思ったのかは自分でもうまく説明できない。けれど、でも。
「こわくない」
頬に添えられた手のひらの、その上から碧生は自分の手を重ねた。
冷たい手の甲に体温をわけるべく、頬ずりする。佐倉の手がかすかに震えたのもすべて余さず伝わってくる。くっついているから。触れ合っているから。そばにいるから。
「こわくない――ねえ、先輩。おれのこと、食べますか?」
その瞬間、佐倉の表情が一気に強張る。
「――食べない。そんなことを口にするな」
「でも、先輩、すごく疲れてるんでしょう――おれ、いますごく手も足もだるいし、立ってるのもやっとみたいなかんじ。マラソンでたくさん走って心臓がばくばくして体が重たいみたいな、頭もこんな痛くて、あちこち傷だらけで――おれ食べたら、元気になるんですか」
「僕は君をそんなふうに扱うつもりはない!」
ぴしゃりと叱り飛ばされて、彼の手が離れていきそうになるので慌てて縋りついた。
「おれ、先輩の役に立てるなら、」
「僕は、」
消耗した顔の中、その瞳だけが変わらず爛々と燃えていた。もう人間のふりをすることをかなぐりすてた、異形の瞳が暗闇の中で赤く光って、碧生を貫く。
「そんなことのために、君のそばにいたわけではない!」
重だるい腕、身体の軋みを聞きながら、ああ、と碧生は瞬いた。このひとは、この神さまは、どうして自分の隣にいてくれたのか。
「……おれのこと、守ってて、くれた?」
「――――さあね」
「なんで」
「僕の気まぐれの理由を君に説明する義理はない」
「……じゃあ」
碧生は手を伸ばす。佐倉が体を退けようとするが、互いにどこか反響し合って動きがぎこちなくなっている。だから、碧生は、その冷たい手を掴んだ。
「おれが、先輩の役に立ちたいのも、おれの勝手ですけど、いいですよね。先輩がこのまま――苦しくて、つらくて、もし遠くに行ってしまうとかいなくなってしまうとかなら――そっちのほうがいやだ」
佐倉の手のひらがひくりと動く。
どうしてそう思ったのか確信はない。ただ、彼の不調や重苦しさ、儚い足元が伝わってきて、この手を離せばこのままいなくなってしまいそうな、そんな不安があるから。なんとしてでもひきとめたかった。この人のためと言いながら、結局は、のためなのかもしれない。
(どこにもいかないで)
「――おれのこと、食べていいですから」
そのまま手を強く、自分の胸元に押し付ける。彼の手が震えて、そのこわばりがゆっくりと抜けていくまで、夜の中で立ち尽くしている。
「――侮るな」
低く、ため息のように声がこぼれた。はらはらとみぞれはいつの間にか軽い淡雪にかわっていく。しんと暗く、星も月も見えない夜の最中。吐く息が白く、こごって消えてしまう。
「君はもっと自分の価値を知るべきだ、そして、」
氷のように冷たい手に、手を振り払われた。鈍い痛みは、どちらのものなのかわからない。絡まって、ほどけなくなっている意識。感覚。いま叫びだしたいくらいの衝動がこみあげているのは、碧生の方なのか佐倉の方なのか。
「慎重に判断しろ、感情に流されるな。もっと悪い想像をすべきだ。恐怖という感情がないわけじゃないのだろう? そこまで愚かなフリをする必要はない。危険なものからは距離を置くべきだ、二本の足があるなら逃げろ、その手があるなら突っぱねろ、君は――君の眼は、なにもかもを見てしまうのだから」
「でも、何を見るかはおれの自由だって――おれの選択だって、先輩が教えてくれたから」
「君にはいったい何が見えているのだ、この僕が、この老いぼれの、愚かな神がみじめに見えるのか」
吐き捨てるように、挑むように。その声が肌を切り裂くほどに冷たい。碧生はただ、じっと、その人を見た。神さまを見た。そこにいるのは――いつもの、凛とした、ひとりで佇んでいる佐倉祥だった。部室で、道端で、桜の木の下で。碧生が惑いそうになっても静かにつれもどしてくれる、やさしい手だ。
「――先輩は、先輩です。そっけないけど、おれのこと見捨てないでくれる。やさしいひと、やさしい神さま。あ、そっか――神さま、こんな姿をしてたんだ」
小さい頃に見つけたお社の形を、気配を、思い出す。飴玉しか上げられなかったあの頃と、今の自分はさほど変わりはなくて、ちっとも成長できなくて。
言葉は塵になって空中に溶けてしまう。何の形も残らない。
「おれ、だから、また会えてうれしい。まだお返しできてなくて、まだなんにもわからないから――これから、もっと、一緒にいて、たくさん先輩の事知りたいです」
冷たい雪が頬をかすめていく。冷えてしまった体を、指先を、すこしずつ、ほどけていく。はずれてしまう。離れていく。当たり前に遠退いていく感覚をつかまえられないまま、佐倉を見つめた。
沈黙が痛いほど耳に響く。互いの吐息がわずかに鼓膜をかすめていく。
は、と息をついたのは、佐倉だった。力をぬくように、肩が軽く動く。
「……君の眼にはいったい何が見えているんだろうね」
ひらりと淡い布がゆれるよう、彼の背後の空気がゆがんだ。暗い夜に一枚ベールがかかり、淡く、白く、春の匂いがこぼれる。つい、といったかんじで微笑むその顔が、いつもよりずっと柔らかくほどけて見えた。ぱちぱち瞬きをして、それから、彼の顔をじっと見つめる。相手は少し身構えたように表情を硬く仕立て直した。
「なんだね」
冷たい、すこしだけ呆れた調子で呟かれても碧生は口をもごもごさせるよりない。
(このおひとは、いったいなんなんだろ)
神さま、と思った。遠ざかった気がして、やっぱりこの人はこの人で、わかるような、でも、たぶん、なにもまだわかっていない。まだまだ知らないことの方が多い。
碧生はポケットをさぐり、いつもいれてある飴を取り出し、差し出してみる。
「飴なら、また、食べてくれます?」
あの夜お供えした飴玉が、すぐになくなってしまったのはこの人が食べてくれたのだろうか。手のひらに載せた赤い包み紙を、佐倉は目を眇めて見下ろす。ため息をひとつ。
「君は、本当に変な子だ」
きれいな指先が、飴をつまみ上げた。碧生はぱっと胸の内が暖かくなる。夜の暗闇の中で、彼の指先一つが花びらのようにあかるく、暖かく、やわらかく見えた。錯覚かもしれない。それでも。
(――おれの目は変だけど、でも、変なままでもいいのかもしれない)
春はまだ遠くて、けれど、必ず訪れるはずだ。既視感をなぞるように、果たされる約束のように、それだけは確かだった。
了
