5月14日
ゴールデンウイークが明け1週間が経った。昼休みの旧校舎裏のテラスで、葉月は毎日昼を1人で過ごした。動画でギターのテクニックを見たり、気になる曲の譜面をチェックする。誰にも邪魔されず、ギターのことだけを考えたかった。
一度今日は昼に行けるかもと烏丸からラインが来たが、結局姿を見せなかった。部活中も、音楽室の窓から下を見下ろせばそこに陸上部がいるのは分かっていたが、見ないようにした。友人同士ではない。陸上部の入部を断った立場で自分から関わりに行く気分にはなれない。
部活が終わり葉月は1人駅までの道を歩いた。後ろから肩に腕を回され、ほのかな土と汗の香りを感じる。足立だ。
「御池、このあいだ薙と試合を観てただろ」
「はい。後半のフリーキックさすがです」
「今週末は公式戦があるから、それまでに入部しろ」
「次は勝ってください」
「相変わらずプレッシャーかけるんだな」
「プレッシャーかけられるの好きですよね」
「薙にもプレッシャーかけたか?」
「全然。ここ2週間くらい会ってないッス」
「今日は壮行会が校長室であって、俺と薙も呼ばれたんだよ。校長が来るのが遅れて20分くらい待たされてさ、薙は明後日から県大会が不安だって弱音吐いてた。ここまで来たら願掛けだろって話になって、御池のイエローカードの話したら腹を抱えて笑ってた」
「あー、俺の黒歴史」
中1の出場する初めての練習試合が、入部して一ヶ月足らずであった。サッカーを全く知らない御池に試合を経験させようとコーチが言って、フォワードとして出場した。葉月がファールを受けて、フリーキックを打つのも、葉月がやることになった。直接ゴールを狙える距離で、監督からは「直接狙え!」と無理目の指示が飛ぶ。
「無理だって顔してんじゃねえよ。願かけてキスしろ」ボールを持った葉月の隣でボランチの足立が言った。直接ゴールを狙う前に、ボールにキスするのはサッカーでは定番の願掛けだ。葉月はそれを知らず、隣にいた足立の口の端にキスして、イエローカードをもらったのだ。
「この話はこすり倒す」
19時58分
『話せる?』烏丸からラインが来た。葉月は来てすぐコールした。
「はーい」のんびりした烏丸の声。広い場所にいるような響きだった。
「お疲れさまです、葉月です。いま外っすか」
「丘の森公園にいる」市立丘の森公園は二キロのジョギングコースやテニスコートなどもある大きな公園だ。
葉月は通話をしながらスマホ片手に部屋から出て、靴を履き、外に出た。「烏丸先輩の家から丘の森公園って近いんですか」
「駐車場がある方の出口わかる?そこを出てすぐ」烏丸の話を聞きながら公園へ急ぐ。
「俺の家、管理棟がある方の出口を出てすぐです。俺たち意外と近くに住んでる。丘の森公園で調整すか」
「落ち着かなくて、歩きながら考えてただけ。明日は移動日なんだ。明後日に県立競技場で試合」
「前泊するなら、風呂デカいといいですね」
「そうだね。大浴場があればいいな」
「何か、俺に話がありますか?」
「そうだ、聞きたいことがあって、校庭で葉月のエレキギターの音が聞こえるんだけど、曲名がずっと思い出せなくて、教えてほしい」
「そういうときは音楽室に向かって、葉月!!って叫んでください。先輩、いま公園のどこ?」
「丘の上」公園の真ん中の方だ。葉月は通話を切り、丘まで走った。
丘の上にひょろ長い人影が見える。
「烏丸先輩!」辺りは暗く葉月は大声で叫んだ。人影が近づいてきた。烏丸だ。ジャージ姿で髪は縛ってはいなかった。
「急に葉月の通話が切れたから、かけ直すか迷ってた」
「すぐ近くだから、直接話したくて走ってきました。先輩、俺が練習してる曲は『CALL MY NAME』。ほんとにそれが聞きたかった事ですか?大会の話じゃなくて?」烏丸は何も言わず、暗い丘の上で傍らの葉月を見下ろした。
「怖いですか」
「そうだね、怖い」
「俺のサッカーの初試合の話を足立先輩から聞きましたよね。あれより最悪な試合は多分ない。烏丸先輩、プレッシャーで怖くなったら、思い出して。ボランチにキスするよりはマシ」
烏丸は笑おうとしたように見えた。だが失敗し、表情がわずかにゆがみ、葉月から顔をそらした。思ったより深刻だ。
「先輩。こっち見て」烏丸は胡乱な目を、葉月に向けた。
「県大会で優勝してください」葉月は烏丸を励ますよりも、追い込む事にした。
7月25日の文化部発表会のライブに向けて葉月は死に物狂いで練習し、大きな失敗なく終えた。そしてライブ後も夏休み中に毎日学校に通った。
本番のステージでの音量や客が沸く快感を知り、もっとうまくなりたかった。ギグバッグを背負い、背中が汗だくになりながら登校して、一日中、第二音楽室でエレキギターを弾く日々。
周りはバイトをしたり恋をしていて、葉月もそうするべきだという気はしていた。告白してきた女の子はどちらも可愛くて、でも断った。この夏、世界はどんどんシンプルになり、葉月にはギターと走る事、それだけになった。
5月の半ばに公園の丘で会ってから、烏丸と葉月は、学校ですれ違ったくらいで、連絡を取り合ってもいなかった。
ランチは別館裏のテラスで葉月は相変わらず1人で過ごしていたが、ある時からたまにヨンアがやってくるようになり、2人で過ごすことが増えた。
烏丸は県大会で2位に入り、インターハイ出場を決めた。学校ではヒーロー的な扱いだ。その後のインターハイで予選落ちしたが、出場しただけでもすごいことだった。
8月25日
夏休みも終わりかけの第二音楽室には東野と葉月だけだった。先週から石田と山科は海外研修に行っていて、あさって帰ってくる。
東野が窓のそばに行き校庭を眺めた。
「インターハイ効果すげえな。新入部員が入ったから陸上は廃部にはならないらしい。俺たちは文化部発表会のあとも、新入部員ゼロ。ライブ盛り上がったよなぁ?」
「新入部員は来ないけど山科先輩が女子から大人気になったから、ライブ効果があったと思います。動画の再生回数もすごいし……ヨンア先輩は今のところ3人、俺は2人に告られました。東野先輩は?」
「黙れ。練習する」
「ハーイ」
部活帰りに昇降口から出ると、烏丸が女子と向こうから歩いてくるのが見えた。避けに避けて、もう3カ月、話すどころか目を合わせてもいない。
すれ違うのも嫌で、葉月はとっさに体育倉庫に隠れた。二分待って、倉庫から出ると目の前に烏丸がいた。さっき一緒だった女の子はいない。
「またここに隠れてる。熱中症になるよ。葉月が入っていくのが見えた。髪の毛のこのあたり。跳ねてる」烏丸の指が葉月の頭のてっぺんの髪を摘んだ。いい機会だ。今謝るしかないと葉月は思った。
「烏丸先輩、今さら覚えてないかもですけど、県大会前に生意気言ってすみませんでした」
烏丸は葉月の頭のてっぺんの髪を直して、これでよしというようにニコリとわらった。
「謝るのは僕のほうだ。陸上の試合に葉月は何も関係ないのに『話したい』って言ったら会いに来てくれたり、励ましてくれた。県大会で優勝しろって言われた時に目が覚めた。弱音を吐いた自分を捨てなきゃいけない、一区切りつくまで、葉月と距離を置こうと思ったんだ。葉月のおかげでインターハイまで行けたと思う。すごく励まされた」
「俺は何もしてないです」
「『優勝しろ』だけじゃない。エレキギターの『CALL MY NAME』が毎日、窓から聞こえた。棒高跳びで4メートルを超えるとよく聞こえるんだ。高く跳べば跳ぶほど、励まされている気持ちになった」
「……」
「『鴨川デルタ』のライブの動画を見たよ。葉月がギター弾きながら楽しそうに笑って、演奏もすごく良かった。それも伝えたかったけど、タイミングを逃してた」
「烏丸先輩は色々気にし過ぎッス。試合のあと連絡来ないのは、女でも出来たのかなと思ってました」
「彼女はいないよ。でも好きな人がいるんだ。インターハイが終わったら、告白しようと思って、まだしてない」
「すればいいのに。相手に付き合ってる人いるんですか」
「分からないんだ。いないといいな。ずっと前から好きで、その子も陸上をやってた。振られるのが怖くてグズグズしてる」
「4メートルから落ちて平気なら振られても平気。今日告白してください」
体育倉庫を出ると烏丸は一緒に帰るから待っていてと言って部活棟の方へ戻って行った。手足が余っているような、背の高い後ろ姿。
葉月も第二音楽室に、充電中のタブレットを置き忘れたことに気が付き、取りに戻る。階段をおりたところで、背が高い制服姿のシルエットが目の前にいた。さっき、体育倉庫にはいる前に一緒にいた女子とまた一緒だ。烏丸が好きなのは、あの子なのかもしれなかった。
邪魔をしたくはない。そそくさとその場を離れる。逃げるが勝ちだ。
「葉月!」呼ばれるが無視する。走りたかったがギグバッグを背負っていた。
「待って、葉月。一緒に……」肩をつかまれ、仕方なく葉月は立ち止まり烏丸の耳元で囁いた。
「女の子優先して。告白の結果はあとで聞かせてください」
家に着く。部屋に入り、ギグバッグからギターを出す。シャワーを浴びてから、ランニング用のジャージとTシャツに着替えて、丘の森公園に走りに行った。
家にスマホは置き去りにする。たまには身軽に走るのもいい。人がいない公園で足は滑るように前へ進み、最後、小高い丘に登った。もう真っ暗で、星が見えた。
家に帰ると、葉月のマンションの前のガードレールに人影があった。
「何してるんですか」
「葉月の家を足立に聞いたんだ。話がある」
「あがってください」
葉月は家に烏丸を連れて帰り、親の仕事部屋に声をかけた。
「ただいま。友達が来てるから!」
「はーい」母親の返事があった。
キッチンで手を洗い、大ぶりなタンブラーを2つ出す。氷と水を入れ一つを烏丸に出し、自分の分は一気飲みした。汗を拭く。烏丸もグラスに口をつけた。
「何キロ走った?」
「8キロです」
烏丸を自分の部屋で待たせた。水がお湯に変わるのを待たずにシャワーを浴びて、サッカー部時代のハーフパンツに上半身裸で髪を拭きながら部屋に戻る。
「待たせてすみません」
烏丸は部屋の隅にまとめて置いてある、トロフィーとメダルをみていた。
「この大会に僕も出たんだ。緑区小学生陸上記録会。1位が四条北小5年の御池葉月で、2位が僕、四条東6年の烏丸薙」烏丸はトロフィーを指の背でそっと撫ぜた。
「『速いね』って僕が言ったら、『誰かの後を走るのは嫌いだから』って葉月は言った」
「生意気すぎません?俺」
「僕には、その言葉が刺さった。言葉だけじゃなくて、葉月の走りも、周りを全く気にしないで集中しているところも、顔つきも、体のバランスが取れてる感じも、何もかもが強烈だった。次の年も葉月を観に小学生の関東大会まで行ったんだ。四条北のサッカー部に葉月が入ったって聞いた時は、サッカーの試合も見に行った」
葉月はタオルで髪を拭いていた手を止めた。
「気持ち悪いよな。ごめん、分かってる。サッカーの試合で得点に絡んで笑っているのをみたときに、陸上には戻らないだろうと思った。でも東西高校に来るのを足立に聞いたときに、何としてでも一緒に陸上がやりたいと思った。誘って、迷惑をかけてるのはわかってて、それでも同じチームで走ってる葉月をみたかった」
「期待を裏切って、すみません」
「勝手に葉月に期待して、自分のことだけを考えていた。地区大会の後に、走って会いに来てくれた時にそれに気が付いたんだ。走ってるところは、昔と変わらなかった。葉月は今でも僕の憧れのスプリンターだ」
「陸上は選手としては好きになれなかったけど、先輩を見てると陸上も悪くないと思えるんです。だからあの日は会いに行きました。先輩、今日俺に何か用でしたか」
「葉月が『今日告白しろ』って言ったから」
「あー、そっちすか。やっぱ俺、生意気ですよね。人に告白しろとか……。あの子にオッケーもらえました?」
「これから告白する」
「これから?好きな相手って一緒に帰った陸上部の二年生じゃないんですか」
烏丸は少し笑い、窓のほうを見て葉月から目をそらした。
「僕の好きな子は陸上を辞めたよ。今は音楽の道を選んで、エレキギターに夢中になってる。彼の演奏する曲を聴いて同じ曲が好きになった。僕、顔に出るから自分のことわかりやすいと思ってた。結構バレてないね」
部屋の空気が止まったような感覚が葉月はあった。烏丸は暗い窓のほうを向いたままだ。
「烏丸先輩、俺?」
「ごめん」
「なんで謝んの。なんで今まで言わなかった?」
「僕から好かれるなんて嫌だろ。振ってもらっていいかな」
「告白される前に返事するやつはいない。振ってほしいなら、告白してください」烏丸の顔を葉月は正面から見た。目をそらしたくはなかった。
烏丸は一度深呼吸をして、床にあぐらをかいて座ったまま、顔を少し傾け葉月を見つめた。
「僕は今まで誰とも付き合ったことがない。葉月の事が小6のときから好きで、高校で話すようになってもっと好きになった。僕と付き合って」
まつ毛の長いおっとりとした烏丸の優しそうな顔。思い出したかった。全力で思い出そうとしたが、まるで思い出せないと葉月は思った。
「返事は保留します。考えたい」
「保留……?」烏丸は大きな両手で、自分の顔を隠した。
「ビビり過ぎです、先輩。顔見せて。顔をみて考えたい。昔会ったときのことも思い出したい」
顔を隠す大きな両手を掴んで剥がし、烏丸の身長の割に、小さな顔を覗き込む。葉月は烏丸の前髪を手でよけて、じっと目を見つめた。
「葉月」一瞬の躊躇いのあと、大きな手が葉月の頬に添えられ、烏丸の唇が間近にあった葉月の唇に触れた。
ほんの1秒。陸上競技での1秒は、永遠と同じ長さだ。
烏丸の唇はわずかな温かみを葉月に残して離れた。
「烏丸先輩、今まで付き合った事無いって言ってませんでしたか」
「無い。今が初めて。付き合ってないのにキスしたら、失礼だよね。僕もうだめだ」再び顔を隠した烏丸の手を剥がした。真っ赤だ。
「見せる顔がもう無い」
「今さらです。告白の返事は明日学校でします。先輩、大丈夫?」
烏丸はよろめきながら帰って行った。
1人部屋に戻り、トロフィーの奥の棚にあるアルバムを出す。表彰された時の写真は親がここにしまっていた。
小6で陸上クラブをやめてからは開けたことのなかったアルバム。小5の自分を探す。金メダルを下げてカメラを見ている葉月の隣に、銀メダルの細身の男の子がいた。
今と変わらない笑顔。5年間の片思い。背が伸びて、何もかもが変わり、それでも烏丸は葉月を覚えていた。このときからずっと葉月を好きだったのだ。
『棒高跳びで4メートルを超えるとよく聞こえるんだ』
烏丸の声が耳の奥に蘇る。棒高跳びで空に勢いよく舞い上がり、そこでギターの音を聞く男。優しいテノール、繊細に動く大きな手、笑った顔は写真の中の小6の時と変わらない。
人の後ろを走りたくないと思った傲慢な自分の、どこが好きだったのだろうと葉月は思った。勝ちたかったに違いない。銀メダルが悔しかったに違いなかった。それでも烏丸が見せる笑顔には今も昔もウソがなく、心からの笑顔だった。
明日まで待つ必要はない。結論は出た。葉月はラインを送った。
『烏丸先輩と付き合います』
『ありがとう。今から会いに戻っていい?』
『はい』
葉月は部屋を飛び出して、エレベーターを待てず階段を駆け下りた。マンションの前に出て左右を見回す。烏丸はすぐそこにいた。
「先輩、走って来た?」
「うん。葉月の気が変わる前に会いたかった」
「俺も早く会いたかった。もう逃げない」
烏丸の顔に笑顔が浮かんだ。嘘のない笑顔。御池の好きな顔だった。好きな人の顔だった。
ゴールデンウイークが明け1週間が経った。昼休みの旧校舎裏のテラスで、葉月は毎日昼を1人で過ごした。動画でギターのテクニックを見たり、気になる曲の譜面をチェックする。誰にも邪魔されず、ギターのことだけを考えたかった。
一度今日は昼に行けるかもと烏丸からラインが来たが、結局姿を見せなかった。部活中も、音楽室の窓から下を見下ろせばそこに陸上部がいるのは分かっていたが、見ないようにした。友人同士ではない。陸上部の入部を断った立場で自分から関わりに行く気分にはなれない。
部活が終わり葉月は1人駅までの道を歩いた。後ろから肩に腕を回され、ほのかな土と汗の香りを感じる。足立だ。
「御池、このあいだ薙と試合を観てただろ」
「はい。後半のフリーキックさすがです」
「今週末は公式戦があるから、それまでに入部しろ」
「次は勝ってください」
「相変わらずプレッシャーかけるんだな」
「プレッシャーかけられるの好きですよね」
「薙にもプレッシャーかけたか?」
「全然。ここ2週間くらい会ってないッス」
「今日は壮行会が校長室であって、俺と薙も呼ばれたんだよ。校長が来るのが遅れて20分くらい待たされてさ、薙は明後日から県大会が不安だって弱音吐いてた。ここまで来たら願掛けだろって話になって、御池のイエローカードの話したら腹を抱えて笑ってた」
「あー、俺の黒歴史」
中1の出場する初めての練習試合が、入部して一ヶ月足らずであった。サッカーを全く知らない御池に試合を経験させようとコーチが言って、フォワードとして出場した。葉月がファールを受けて、フリーキックを打つのも、葉月がやることになった。直接ゴールを狙える距離で、監督からは「直接狙え!」と無理目の指示が飛ぶ。
「無理だって顔してんじゃねえよ。願かけてキスしろ」ボールを持った葉月の隣でボランチの足立が言った。直接ゴールを狙う前に、ボールにキスするのはサッカーでは定番の願掛けだ。葉月はそれを知らず、隣にいた足立の口の端にキスして、イエローカードをもらったのだ。
「この話はこすり倒す」
19時58分
『話せる?』烏丸からラインが来た。葉月は来てすぐコールした。
「はーい」のんびりした烏丸の声。広い場所にいるような響きだった。
「お疲れさまです、葉月です。いま外っすか」
「丘の森公園にいる」市立丘の森公園は二キロのジョギングコースやテニスコートなどもある大きな公園だ。
葉月は通話をしながらスマホ片手に部屋から出て、靴を履き、外に出た。「烏丸先輩の家から丘の森公園って近いんですか」
「駐車場がある方の出口わかる?そこを出てすぐ」烏丸の話を聞きながら公園へ急ぐ。
「俺の家、管理棟がある方の出口を出てすぐです。俺たち意外と近くに住んでる。丘の森公園で調整すか」
「落ち着かなくて、歩きながら考えてただけ。明日は移動日なんだ。明後日に県立競技場で試合」
「前泊するなら、風呂デカいといいですね」
「そうだね。大浴場があればいいな」
「何か、俺に話がありますか?」
「そうだ、聞きたいことがあって、校庭で葉月のエレキギターの音が聞こえるんだけど、曲名がずっと思い出せなくて、教えてほしい」
「そういうときは音楽室に向かって、葉月!!って叫んでください。先輩、いま公園のどこ?」
「丘の上」公園の真ん中の方だ。葉月は通話を切り、丘まで走った。
丘の上にひょろ長い人影が見える。
「烏丸先輩!」辺りは暗く葉月は大声で叫んだ。人影が近づいてきた。烏丸だ。ジャージ姿で髪は縛ってはいなかった。
「急に葉月の通話が切れたから、かけ直すか迷ってた」
「すぐ近くだから、直接話したくて走ってきました。先輩、俺が練習してる曲は『CALL MY NAME』。ほんとにそれが聞きたかった事ですか?大会の話じゃなくて?」烏丸は何も言わず、暗い丘の上で傍らの葉月を見下ろした。
「怖いですか」
「そうだね、怖い」
「俺のサッカーの初試合の話を足立先輩から聞きましたよね。あれより最悪な試合は多分ない。烏丸先輩、プレッシャーで怖くなったら、思い出して。ボランチにキスするよりはマシ」
烏丸は笑おうとしたように見えた。だが失敗し、表情がわずかにゆがみ、葉月から顔をそらした。思ったより深刻だ。
「先輩。こっち見て」烏丸は胡乱な目を、葉月に向けた。
「県大会で優勝してください」葉月は烏丸を励ますよりも、追い込む事にした。
7月25日の文化部発表会のライブに向けて葉月は死に物狂いで練習し、大きな失敗なく終えた。そしてライブ後も夏休み中に毎日学校に通った。
本番のステージでの音量や客が沸く快感を知り、もっとうまくなりたかった。ギグバッグを背負い、背中が汗だくになりながら登校して、一日中、第二音楽室でエレキギターを弾く日々。
周りはバイトをしたり恋をしていて、葉月もそうするべきだという気はしていた。告白してきた女の子はどちらも可愛くて、でも断った。この夏、世界はどんどんシンプルになり、葉月にはギターと走る事、それだけになった。
5月の半ばに公園の丘で会ってから、烏丸と葉月は、学校ですれ違ったくらいで、連絡を取り合ってもいなかった。
ランチは別館裏のテラスで葉月は相変わらず1人で過ごしていたが、ある時からたまにヨンアがやってくるようになり、2人で過ごすことが増えた。
烏丸は県大会で2位に入り、インターハイ出場を決めた。学校ではヒーロー的な扱いだ。その後のインターハイで予選落ちしたが、出場しただけでもすごいことだった。
8月25日
夏休みも終わりかけの第二音楽室には東野と葉月だけだった。先週から石田と山科は海外研修に行っていて、あさって帰ってくる。
東野が窓のそばに行き校庭を眺めた。
「インターハイ効果すげえな。新入部員が入ったから陸上は廃部にはならないらしい。俺たちは文化部発表会のあとも、新入部員ゼロ。ライブ盛り上がったよなぁ?」
「新入部員は来ないけど山科先輩が女子から大人気になったから、ライブ効果があったと思います。動画の再生回数もすごいし……ヨンア先輩は今のところ3人、俺は2人に告られました。東野先輩は?」
「黙れ。練習する」
「ハーイ」
部活帰りに昇降口から出ると、烏丸が女子と向こうから歩いてくるのが見えた。避けに避けて、もう3カ月、話すどころか目を合わせてもいない。
すれ違うのも嫌で、葉月はとっさに体育倉庫に隠れた。二分待って、倉庫から出ると目の前に烏丸がいた。さっき一緒だった女の子はいない。
「またここに隠れてる。熱中症になるよ。葉月が入っていくのが見えた。髪の毛のこのあたり。跳ねてる」烏丸の指が葉月の頭のてっぺんの髪を摘んだ。いい機会だ。今謝るしかないと葉月は思った。
「烏丸先輩、今さら覚えてないかもですけど、県大会前に生意気言ってすみませんでした」
烏丸は葉月の頭のてっぺんの髪を直して、これでよしというようにニコリとわらった。
「謝るのは僕のほうだ。陸上の試合に葉月は何も関係ないのに『話したい』って言ったら会いに来てくれたり、励ましてくれた。県大会で優勝しろって言われた時に目が覚めた。弱音を吐いた自分を捨てなきゃいけない、一区切りつくまで、葉月と距離を置こうと思ったんだ。葉月のおかげでインターハイまで行けたと思う。すごく励まされた」
「俺は何もしてないです」
「『優勝しろ』だけじゃない。エレキギターの『CALL MY NAME』が毎日、窓から聞こえた。棒高跳びで4メートルを超えるとよく聞こえるんだ。高く跳べば跳ぶほど、励まされている気持ちになった」
「……」
「『鴨川デルタ』のライブの動画を見たよ。葉月がギター弾きながら楽しそうに笑って、演奏もすごく良かった。それも伝えたかったけど、タイミングを逃してた」
「烏丸先輩は色々気にし過ぎッス。試合のあと連絡来ないのは、女でも出来たのかなと思ってました」
「彼女はいないよ。でも好きな人がいるんだ。インターハイが終わったら、告白しようと思って、まだしてない」
「すればいいのに。相手に付き合ってる人いるんですか」
「分からないんだ。いないといいな。ずっと前から好きで、その子も陸上をやってた。振られるのが怖くてグズグズしてる」
「4メートルから落ちて平気なら振られても平気。今日告白してください」
体育倉庫を出ると烏丸は一緒に帰るから待っていてと言って部活棟の方へ戻って行った。手足が余っているような、背の高い後ろ姿。
葉月も第二音楽室に、充電中のタブレットを置き忘れたことに気が付き、取りに戻る。階段をおりたところで、背が高い制服姿のシルエットが目の前にいた。さっき、体育倉庫にはいる前に一緒にいた女子とまた一緒だ。烏丸が好きなのは、あの子なのかもしれなかった。
邪魔をしたくはない。そそくさとその場を離れる。逃げるが勝ちだ。
「葉月!」呼ばれるが無視する。走りたかったがギグバッグを背負っていた。
「待って、葉月。一緒に……」肩をつかまれ、仕方なく葉月は立ち止まり烏丸の耳元で囁いた。
「女の子優先して。告白の結果はあとで聞かせてください」
家に着く。部屋に入り、ギグバッグからギターを出す。シャワーを浴びてから、ランニング用のジャージとTシャツに着替えて、丘の森公園に走りに行った。
家にスマホは置き去りにする。たまには身軽に走るのもいい。人がいない公園で足は滑るように前へ進み、最後、小高い丘に登った。もう真っ暗で、星が見えた。
家に帰ると、葉月のマンションの前のガードレールに人影があった。
「何してるんですか」
「葉月の家を足立に聞いたんだ。話がある」
「あがってください」
葉月は家に烏丸を連れて帰り、親の仕事部屋に声をかけた。
「ただいま。友達が来てるから!」
「はーい」母親の返事があった。
キッチンで手を洗い、大ぶりなタンブラーを2つ出す。氷と水を入れ一つを烏丸に出し、自分の分は一気飲みした。汗を拭く。烏丸もグラスに口をつけた。
「何キロ走った?」
「8キロです」
烏丸を自分の部屋で待たせた。水がお湯に変わるのを待たずにシャワーを浴びて、サッカー部時代のハーフパンツに上半身裸で髪を拭きながら部屋に戻る。
「待たせてすみません」
烏丸は部屋の隅にまとめて置いてある、トロフィーとメダルをみていた。
「この大会に僕も出たんだ。緑区小学生陸上記録会。1位が四条北小5年の御池葉月で、2位が僕、四条東6年の烏丸薙」烏丸はトロフィーを指の背でそっと撫ぜた。
「『速いね』って僕が言ったら、『誰かの後を走るのは嫌いだから』って葉月は言った」
「生意気すぎません?俺」
「僕には、その言葉が刺さった。言葉だけじゃなくて、葉月の走りも、周りを全く気にしないで集中しているところも、顔つきも、体のバランスが取れてる感じも、何もかもが強烈だった。次の年も葉月を観に小学生の関東大会まで行ったんだ。四条北のサッカー部に葉月が入ったって聞いた時は、サッカーの試合も見に行った」
葉月はタオルで髪を拭いていた手を止めた。
「気持ち悪いよな。ごめん、分かってる。サッカーの試合で得点に絡んで笑っているのをみたときに、陸上には戻らないだろうと思った。でも東西高校に来るのを足立に聞いたときに、何としてでも一緒に陸上がやりたいと思った。誘って、迷惑をかけてるのはわかってて、それでも同じチームで走ってる葉月をみたかった」
「期待を裏切って、すみません」
「勝手に葉月に期待して、自分のことだけを考えていた。地区大会の後に、走って会いに来てくれた時にそれに気が付いたんだ。走ってるところは、昔と変わらなかった。葉月は今でも僕の憧れのスプリンターだ」
「陸上は選手としては好きになれなかったけど、先輩を見てると陸上も悪くないと思えるんです。だからあの日は会いに行きました。先輩、今日俺に何か用でしたか」
「葉月が『今日告白しろ』って言ったから」
「あー、そっちすか。やっぱ俺、生意気ですよね。人に告白しろとか……。あの子にオッケーもらえました?」
「これから告白する」
「これから?好きな相手って一緒に帰った陸上部の二年生じゃないんですか」
烏丸は少し笑い、窓のほうを見て葉月から目をそらした。
「僕の好きな子は陸上を辞めたよ。今は音楽の道を選んで、エレキギターに夢中になってる。彼の演奏する曲を聴いて同じ曲が好きになった。僕、顔に出るから自分のことわかりやすいと思ってた。結構バレてないね」
部屋の空気が止まったような感覚が葉月はあった。烏丸は暗い窓のほうを向いたままだ。
「烏丸先輩、俺?」
「ごめん」
「なんで謝んの。なんで今まで言わなかった?」
「僕から好かれるなんて嫌だろ。振ってもらっていいかな」
「告白される前に返事するやつはいない。振ってほしいなら、告白してください」烏丸の顔を葉月は正面から見た。目をそらしたくはなかった。
烏丸は一度深呼吸をして、床にあぐらをかいて座ったまま、顔を少し傾け葉月を見つめた。
「僕は今まで誰とも付き合ったことがない。葉月の事が小6のときから好きで、高校で話すようになってもっと好きになった。僕と付き合って」
まつ毛の長いおっとりとした烏丸の優しそうな顔。思い出したかった。全力で思い出そうとしたが、まるで思い出せないと葉月は思った。
「返事は保留します。考えたい」
「保留……?」烏丸は大きな両手で、自分の顔を隠した。
「ビビり過ぎです、先輩。顔見せて。顔をみて考えたい。昔会ったときのことも思い出したい」
顔を隠す大きな両手を掴んで剥がし、烏丸の身長の割に、小さな顔を覗き込む。葉月は烏丸の前髪を手でよけて、じっと目を見つめた。
「葉月」一瞬の躊躇いのあと、大きな手が葉月の頬に添えられ、烏丸の唇が間近にあった葉月の唇に触れた。
ほんの1秒。陸上競技での1秒は、永遠と同じ長さだ。
烏丸の唇はわずかな温かみを葉月に残して離れた。
「烏丸先輩、今まで付き合った事無いって言ってませんでしたか」
「無い。今が初めて。付き合ってないのにキスしたら、失礼だよね。僕もうだめだ」再び顔を隠した烏丸の手を剥がした。真っ赤だ。
「見せる顔がもう無い」
「今さらです。告白の返事は明日学校でします。先輩、大丈夫?」
烏丸はよろめきながら帰って行った。
1人部屋に戻り、トロフィーの奥の棚にあるアルバムを出す。表彰された時の写真は親がここにしまっていた。
小6で陸上クラブをやめてからは開けたことのなかったアルバム。小5の自分を探す。金メダルを下げてカメラを見ている葉月の隣に、銀メダルの細身の男の子がいた。
今と変わらない笑顔。5年間の片思い。背が伸びて、何もかもが変わり、それでも烏丸は葉月を覚えていた。このときからずっと葉月を好きだったのだ。
『棒高跳びで4メートルを超えるとよく聞こえるんだ』
烏丸の声が耳の奥に蘇る。棒高跳びで空に勢いよく舞い上がり、そこでギターの音を聞く男。優しいテノール、繊細に動く大きな手、笑った顔は写真の中の小6の時と変わらない。
人の後ろを走りたくないと思った傲慢な自分の、どこが好きだったのだろうと葉月は思った。勝ちたかったに違いない。銀メダルが悔しかったに違いなかった。それでも烏丸が見せる笑顔には今も昔もウソがなく、心からの笑顔だった。
明日まで待つ必要はない。結論は出た。葉月はラインを送った。
『烏丸先輩と付き合います』
『ありがとう。今から会いに戻っていい?』
『はい』
葉月は部屋を飛び出して、エレベーターを待てず階段を駆け下りた。マンションの前に出て左右を見回す。烏丸はすぐそこにいた。
「先輩、走って来た?」
「うん。葉月の気が変わる前に会いたかった」
「俺も早く会いたかった。もう逃げない」
烏丸の顔に笑顔が浮かんだ。嘘のない笑顔。御池の好きな顔だった。好きな人の顔だった。

