上空4メートルで君に会えたら

部活が始まり、葉月の日々は忙しくなった。初日は一人でしていた朝練も、東野が付き合ってくれるようになった。東野のブレないドラムは頼もしく、到底文化部発表会までには間に合わないと思っていたが、何とかなりそうだった。
 
「恋の歌か。御池は彼女いる?」東野がつぶやいた。
「卒業前に振られました」葉月は彼女と3ヶ月付き合って、受験勉強の合間にキスから始まり一通りの事は済ませた。自然消滅するより別れようと言って振られた時も、特に感慨はなく、それなりの感謝と虚しさが残った。
「軽音は全員恋人無しか」
東野は半笑いをしながらカウントし、練習に戻った。
 
 歌の練習も始まった。葉月はバンドの練習が終わってから、毎日1時間居残りしてヨンアから習った。
「歌は心配しなくても平気。緊張する?」
「緊張はしないッス」
「しなさそうだよね。研吾は御池はカッコいいって言うけど、クソガキの顔してる」
「ひでー。俺、ヨンア先輩に何かしました?」
「フフ、してない」ヨンアが笑い、笑うと可愛いと知る。
毎日ヨンアと駅まで帰り、別方向の電車に乗る。海外のバンドの話を延々として、留学経験のあるヨンアが英語で歌って、軽音部でフェスに行こうと約束する。
 葉月は初めて言葉の通じる世界に来たような、新鮮な気分を味わっていた。東野とヨンアと山科を、葉月は自分と同じ種類の人間だと感じた。音楽を聴き、この手から音を生み出して喜びを感じる。
「御池、また明日」ヨンアが無表情でフィストバンプし、小走りに上りホームの方へ消えた。スカートと茶色のロングヘアが揺れる。
 
「彼女?」振り返るとジャージにTシャツ姿の足立とポロシャツとチノパン姿の烏丸、ほかにもサッカー部らしき何人かがいた
「軽音部の先輩です。彼女と間違われたらヨンア先輩から殺されます」
下りホームへきて、電車を待つ。
「御池のギターの音が、サッカーの練習中にグランドで聞こえる」
「足立先輩の声も音楽室まで聞こえます。たまに返事しそうになる。『最終ライン見とけ!』」
「ギターなんか背負ってないで、今からでもサッカー部に来い。ボールの蹴り方も知らなかった御池を育てたの誰だよ」
「足立先輩です」
「平太、御池はどんな選手だった?」烏丸が聞いた。
「御池はサッカーを観たこともなくて、ルールを知らなかった。足はバケモノレベルで速い。フィジカルも強い。スタミナもある。ボールコントロールは普通。試合中、言うこと聞かないで監督から引くほど怒られたりしてたな」
「俺が戻れるって言っても、下がり過ぎるなってすげーうるさかった」
「お前、まだ反省してねえのかよ。あの状況では、監督は間違ってねえからな。今からでも反省しとけ」足立は苦笑し、葉月にヘッドロックをかけた。
「ワッ、あ、アイシングスプレーのにおいがする。ケガすか、大丈夫?」
「打撲しただけ。犬かよ」

土曜日の午前8時半。葉月が学校に着いた頃には、サッカー部が校庭で試合の準備をしていた。目の前を通る蛍光オレンジのビブス姿の部員に声をかける。
「キックオフは何時ですか」
「9時半」
「どーも」
軽音部の練習は午後からで、葉月は午前中は自主練をしにきた。9時半にホイッスルが聞こえ、試合の様子が窓から見えた。後半が始まり、だいぶ経った頃、葉月は衝動的に音楽室を出て校庭へと行った。久しぶりに観るサッカーの試合。得点板の横に担当の生徒が立っているが、まだどちらも決めてはいないようだった。足立もディフェンダーとして出ている。
「おはよう、葉月。うちの学校勝ってる?」ハーフパンツにTシャツ姿の烏丸が、花壇の縁に腰掛けていた葉月の隣に座った。片手にスクイーズボトル。汗だくの顔。投げ出される鍛えられた長い脚。スパイクシューズのサイズはたぶん30センチ。
「おはようございます。まだ点は入ってません」烏丸がスクィーズボトルから水を飲んで、わずかにこぼれた。
「平太と仲いいね」
「足立先輩はチームのみんなと仲がいいんです。すげーいい先輩だった。ディフェンダーでキャプテンで、試合でも、どこにいても、足立先輩がいたら安心でした」
足立が相手のフォワードをライン際で振り返らせず、ボールが出た。ホイッスルが長く3度鳴り、試合は両チーム無得点のまま終わった。
「引き分け」葉月は立ち上がり、烏丸に軽く礼をして第二音楽室へ戻った。ふと思い出し、窓を開けて下を見ると、烏丸が跳ぶところだった。
ポールを構え、助走、ポールの先をボックスという凹みに引っ掛けて舞い上がる。烏丸がバーをクリアした、と思ったがわずかに触れ、マットに沈んだ。マットに仰向けになった烏丸と目が合い、一呼吸置いて、烏丸が立ち上がり、日差しを避けて手をかざした。
「葉月?」
「ハイ。先輩、明日試合ですよね」
「うん。9時から」
「明日は絶対上手くいく!さっき言い忘れたんで!」
「ありがとう」烏丸は笑って葉月に手を振った。
 
 月曜日。
 葉月は昼休みに旧校舎裏のテラスに行ったが、相変わらず誰もいない。烏丸は今日は来ない気がした。音楽を聴きながら1人でさっさとパンを食べ、ギター演奏の動画を見る。お手本のようには行きそうもないと思いつつ、手は動いた。
予鈴がなり、教室に引き上げる。
 
「明日の夜は暇?ライブに来ない?」渡り廊下で葉月は後ろから抱きつかれた。
「ヨンア先輩?」
「ヨンアー!御池が嫌がってるから離せ!」東野がヨンアを葉月から引きはがした。
「ライブって何ですか」
「ヨンアちゃんのライブが明日あるんだ。御池にもラインで送る」山科が答えた。
「ウッス。見ときます」
「じゃーね、部活で」
 東野とヨンアのあとに、烏丸も来たが女子を連れていたので無視する。教室で一緒だった生徒会長ではなく、派手な雰囲気の別の女子で、親しげな様子で烏丸の腕を触っている。
 葉月は棒高跳には詳しくなく、烏丸がどのくらいのレベルの選手なのかは知らなかった。だが、昨日の地区大会止まりの選手のようには思えなかった。

 ライブの準備があるヨンアは、その日は部活には来なかった。六時半まで部活をやり、ドラムセットの片付けを手伝ってから、山科と東野に挨拶をした。
「お先です」
「お疲れ」
ギグバッグの重さにも慣れた。昇降口から出て、校庭に目をやる。サッカー部はまだ走り回っていて、あの中に足立もいるのだと思うと、葉月は今すぐ校庭に行って一緒に練習をしなければならないような気持ちになった。未練ではなく、刷り込みのような何か。確かに、サッカーを好きだった瞬間はあったのだ。
 
 家に帰り、食事をしてからまたギターの練習をした。いい加減煮詰まった、と思い部屋を出る。
「お母さん、走ってくる」
「車に気をつけて」
ランニングシューズを履いて、玄関から出てすぐに葉月は走り出した。近くの公園まで行く。広くてランニングコースもあるが、夜は照明の届かないところが多く薄暗い。イヌの散歩をしている人と、ランナーがわずかにいるだけだった。
 スポーツ仕様のオープンイヤーイヤホンをつけ、走り始める。タイムは測らない。イヤホンから聞こえるメッセージの着信音を無視して、葉月は走り続けた。今すぐ対応しなければならない事などきっと何もない。1周走り終わったところでスマホをみた。
『話せる?』まるで彼女のようなメッセージを送って来たのは、意外にも烏丸だった。通話ボタンを押す。
「こんばんは。今走ってました」
「どこで走ってる?」
「丘の森公園です。まだ二キロなんで、このあとどのくらい走ろうかな。六キロ以上は」
「俺も行っていい?」
「全然いいっす。一緒に走りますか」
「うん」
「来たら合流してください」
通話を切り、一呼吸してまた走り出す。
一周走って管理棟の前まで来ると、背の高い人影がストレッチしていた。烏丸だ。
烏丸はゆるく先行して走り始め、葉月が追いつくとスピードを上げ併走した。
会話は無い。音楽だけが、イヤホンから葉月の脳内に流れ込む。ペースは一定で走り続ける。
葉月はわずかに烏丸より先行して走り、途中からペースを上げた。ピタリと烏丸がつけているのを感じる。一周二キロ、薄暗い照明が照らす公園の道をひたすらに走り、一周が終わったところで葉月はペースを落として烏丸と並んだ。
「俺は次の周回ラストなんで、終わったら待ってます」
 イヤホンの音量を上げ、ペースを上げる。あと一周。これが終わったら死んでもいい。ラスト周回はいつもそんな気持ちになった。なぜだろう。陸上に対して白けていた時期、たった一人で走って、タイムなど取っていない時でさえ、ラスト1周になると毎回葉月はそう思った。
公園の管理棟が見え、ラストスパートをかけて見えないフィニッシュラインを越えた。
 呼吸音と心臓の音がイヤホンの音を超えて響き、リストバンドで額を拭う。振り返るともうそこに烏丸が来た。烏丸の身体が傾ぎ、芝生に転がった。
「速い!」
「待ってるって言いましたよね」烏丸が倒れた横に座った。
「葉月、正直に言って。週に何回走ってる?」
「毎日。サッカーやってた時も走ってました。走るのが好きなんで」烏丸の黒い瞳が葉月を見上げ、顔は汗だくだ。葉月は自分のリストバンドで、烏丸の額の汗を拭った。
「烏丸先輩、話したい事ってなんですか」
「地区予選を通過して、県大会に行く」
「1位通過?」
「YES」ハイタッチする。
「次が本番ですか」
「そう。3週間後」
「応援してます」
「葉月、今日の昼休みに別館裏のテラスにいたかな。行くつもりだったんだ。行けなかった」
「約束してるわけじゃねえし、別に……あと今日みたいな話がある時はラインしてください。ランから帰ったら連絡します。俺のペースに合わせてケガされたりしたら困るから」
「そうする。会ってくれてありがとう」
葉月は立ち上がり、烏丸に片手を差し出し引き起こし、立ち上がった烏丸に片腕で軽くハグした。
「棒高跳び地区予選通過おめでとうございます。1位通過かっこいい」
「ありがとう。次も結果を出す」烏丸が両腕で包むように葉月をハグした。烏丸の胸に顔が当たり、Tシャツ越しに汗と体温と無駄のないアスリートの肉体の感触が伝わる。ハグから解放され、暗い公園の白白しい光の中、烏丸の顔を見あげた。赤いような気がしたが、走ったあとだからかもしれなかった。