夢見鳥は爛漫を飛ぶ


 小さい頃から、可愛いものが好きだった。
 というか、俺が、可愛かった。かなり。
 ピンク、フリル、リボンの三拍子が揃った洋服は、華奢で小柄な俺に本当によく似合っていたと思う。ぱっちりとした二重、何もせずともくるんと上向きにカールしたまつ毛。柔らかく艶のある、真っ直ぐなロングヘアは自慢だった。
 それを自慢にすると、母親がしあわせそうにしてくれるので、それがうれしかった。

 母親は、ことあるごとに、姉の話をした。俺は会ったことのない、俺の姉。結局生まれてこれたんだか、その前にダメだったんだかもよくわからずじまいだが、母親の中で、どうやら俺は、姉の生まれ変わりということになっているようだった。
 生まれた時から、俺は、俺に関わらず、運命的な「おんなのこ」だった。
 好きな色はピンク。好きな果物はいちご。好きな遊びはお人形とおままごと。将来の夢は、ケーキ屋さんとプリンセス。
 呆れたようにこちらを見る父親よりも、突然泣き出して怒鳴る母親の方が何倍も可哀想だったので、俺は一生懸命に母親の言うことを覚え、母親の言う通りに答えたが、そういう屈折した親子関係ゆえか、はたまた単純に俺の生まれもったものなのか、俺はあまりにやんちゃな暴れん坊だったし、性格も最悪だったので、いつもひとりで泥だらけになって外を駆け回っていた。大人しくおしとやかに、なんて不可能だったし、さらに孤立しては、また母親を怒らせ悲しませた。
 ヤバい大人がいる家の、哀れな子供にはみんな関わりたがらない。それは当然のことで、やはり俺にわざわざ話しかけてくるような人は誰もおらず──そんな中、桜太郎は、突然俺の目の前に現れて、一緒に遊ぼうと誘ってきた。
 弱っちそうで、ちょっと鈍臭いやつだった。腕はちょっともちもちしていて、いかにも栄養が足りていそうだ。品のいい私立幼稚園の制服は、いつ見ても少しのシミもシワもなかった。寝癖がついているのも見たことがないし、爪も綺麗に切り揃えられて、土が入り込んで薄汚れる余地すらなさそうだった。
 多分、桜太郎のお母さんだって、俺や俺の家族に関する噂話を聞いたことがないわけがなかったと思う。きっと警戒もしていただろうに、桜太郎と俺の交友関係に、ついぞ口を出してきたことなど一度もなく、俺はそこで初めて、世の中の母親というやつは必ずしも、思い通りにならない我が子をヒステリックに殴るわけではないらしい、と知った。

 桜太郎は、とにかく優しかった。
 俺が何を言っても、どんなに理不尽な八つ当たりをしても、いつも笑っていた。喧嘩をしたことがないわけではないが、翌日になればまたいつもの調子で、いや、ちょっとだけ気まずそうにしながらも、遊びたそうに俺に近づき、話しかけてきた。
 俺が、気まぐれににこっと笑いかけると、桜太郎は、ほっとしたような、照れたようなむず痒い表情をして、頬をピンクにしながら俺に駆け寄ってきた。
 俺は、そんな、恵まれた、お育ちのいい、出来た性格の桜太郎が、憎らしくて仕方なかった。

 小学校に上がるときも、本当は紺色のかっこいいランドセルが欲しかったが、母親に言われるがままにピンクパールのいちばんかわいいものを選んだ。その頃には父親も気の狂った母親が手に負えなくなったのか、俺ごと家庭を見捨てて出て行った。社会との関わりがなかったので、自分のフルネームを意識する機会は当時なかったが、おそらくここで初めて苗字が変わったはずだ。「清水碧羽」として小学校に通う頃には、母親の俺に対する執着は、ますます激しくなっていた。同時に、自分の若さとか、美とか、運命とか、そういう色々にも狂い出して、家はどんどん荒れ果てて、明日の食事も怪しくなって、子供ながらに、この人は俺が目を離したら死んでしまうのではないかと思うと学校になんてとてもじゃないが行けなかった。
 一緒にいたって何も出来ないのだけど。
 朝の、俺を呼ぶひと声が優しい日は当たり。蜂蜜をたっぷりかけた甘ったるいパンケーキを焼いて、笑顔で起こしてくれる日はいい日。長い黒髪を振り乱して、泣きながら手当り次第のものを壁に投げつけている日はハズレ。俺の自慢の髪は母親譲りなんだと思い知る。引き千切れそうな力でよく引っ張られた。多分姉の象徴でもあった。たまに学校に行く。学校に行ったって、男のくせにこんなカッコしてるヤツなんて格好の的で、一部のヤツらからは、からかわれたり、突き飛ばされたり、散々だった。俺も大人しくなかったからその度にやり返していたら、一部どころか誰も俺になんか寄りつかなくなった。
 ──桜太郎を除いて。

 桜太郎は、多分、ちょっとバカだ。バカというか、素直というか。俺が男だって気付いているのかもよくわからないが、あーちゃん、あーちゃん、とずっと俺にまとわりついてひっついてくる。
「おーたろうって、アオバのこと、スキなんでしょ」
 小学校。授業中、むしゃくしゃして、桜太郎を誘って一緒に抜け出した体育館の裏の草むらで、手慰みに、雑草と落ちた花びらを石ですり潰しながらそうやって言ってみたら、桜太郎は爆発するのかと思うくらい真っ赤になって、閉口した。その後、今度は目を白黒させて、ぷしゅうう、と空気が抜けるみたいに肩が落ちて、すごく時間をかけて、ようやく絞り出したみたいに、ウン、と小さく呟いた。
 ──なぁんて面白いヤツなんだろ!
 面白いおもちゃ。そう思いながら、心のどこかでは、──オカシイ俺に構ってくれる唯一だということもわかっていて、俺の中身はもうめちゃくちゃだった。

 桜太郎は、やさしい。性格がいい。自分が持っているものも、屈託なく人に譲ってあげられる。だから友達もたくさんいるみたいだ。それって、ママがやさしいから? パパがいるから? うまれたばかりの妹がいて、ひとりじゃないからなの? 俺は何も持ってない。桜太郎が持っているもの何もない。幼稚園にも、保育園にも行ったことない。友達はいない。自分が遊んでいる姿を笑顔で見守ってくれる人がいたこともない。お手紙をもらったことない。お菓子買ってもらったことない。好きな夕食の献立を聞かれたこともない。流行りのゲームを買ってもらったことない。スポーツでメダルを取ったことない。欲しいおもちゃで遊べたことない。好きな服着れない。髪の毛を短く切れない。あたま撫でてもらえない。名前、最後に呼ばれたのいつだっけ。話聞いてくれない。どうして? ウザイ。ムカつく。なんでだよ。
 ある日、久々に小学校に行ったら、自分の下駄箱の中にカサっと揺れるものがあった。周りをキョロキョロ伺ってみたが、少し遅刻の時間だから、廊下には誰もいなかった。全然履いていないから、新品と遜色ない上履きの上に、被せるように何かが放り込まれている。取り出した紙片を開いてみると、かわいいキャラクターが印刷された小さな便箋に、なにやら鉛筆で文字が書いてあった。人生初の、人からもらう手紙だった。当時の俺は、ひらがなも十分に読めなくて、かろうじてわかったのは自分の名前、あーちゃん、と書かれた部分と、一緒になって入っていたキラキラのシールだけ。

 ──おーたろうだ、絶対そうだ!

 わかった瞬間、頭が沸騰するかと思った。その場でちょっと泣いた。身体中が熱くて震えた。ぐつぐつ煮えた。
 気持ち悪い、吐きそう。喉の奥がぐるぐる鳴った。心臓の辺りに、なにかがねっとりとまとわりつくみたい。唾を飲み込んで押し戻す。
 みんなが持っている流行りのシール。持ってないとそもそも仲間に入れてもらえないし、母親に一応ねだってみたことはあったが、男の子の好きなものでしょ、と笑われ一蹴されて買ってもらうことすら叶わなかった、それ。光っていて派手なヤツがイイヤツだって、そのくらいはわかっていた。レアなんだって。ランダムだから、欲しくてもなかなか出てこないんだって。桜太郎は、そういう特別なものも、掃いて捨てるほど持っていて、俺なんかにもこうやって、簡単にあげてしまえる。
 ムカつく。ムカつく、ムカつく! ムカつくのに、うれしくて、キライなのに、会いたくて、呼んでほしくて、スキって言わせたくて、そんなに恵まれたヤツが俺なんかに夢中なのはたまらなくて、暗い気持ち、眩しい気持ち、あたたかい気持ち、全部ぜんぶ、ぐちゃぐちゃにまぜこぜで、苦しい。

 下駄箱の近くには、まだ長い削りたての鉛筆が落ちていた。表面には、かっこいい戦隊モノのキャラクターがプリントされている。端の方に丁寧に貼り付けられた小さいお名前シールがあって、部分的に読めたひらがなの並びから、多分、桜太郎のだろうと思った。
 あいつどんくさいし。ランドセルからこの手紙を出す拍子に、引っかかって鉛筆も飛び出たのだろう。落としものだとわかっていたのに、こっそり自分のランドセルに回収した。かっこいい鉛筆が欲しかった。──桜太郎の持ち物が欲しかった。

 転校することになったのは、たしか小学二年生に上がる頃か、その前かくらいだったと思う。理由はわからなかったが、今思えば、父親の収入を頼りにしていたマンションに、家賃の関係で住み続けられなくなったのだろう。母親の実家にはあまり行ったことがなかった。流石に会ったことはあったと思うが、当時の俺は祖父母の顔も覚えていなかった。聞こえる言葉のイントネーションすら違うような遠くの土地で、俺は、祖父母と母と一緒に暮らすことになった。

 祖父母は、男のくせに女の格好をした俺を気味悪がっていた。母親のこともかなり強い言葉で避難していて、毎晩、家の中では、リモコンやら食器やらが飛ぶほどの大喧嘩だった。一族の恥とされた母親と俺は、少しでも普通じゃなければ悪目立ち必須の片田舎で、ほとんど外に出されず、人目につかないよう匿われた。鬱憤の溜まったらしい母親は、夜な夜な繁華街に出ては酒を飲んで遊び歩いて、数人の男と代わる代わる会わされたこともあった。苗字は数回変わったが、母親も大方気が狂っていたし、そんな女になびくような男も大概だったので、いずれも長くは続かなかった。
 母親の気まぐれでお古のスマホを与えられたのは、俺が小学校の高学年くらいの頃だっただろうか。確か、祖母経由で父親の連絡先を聞いてからは、ちょくちょくメッセージのやり取りをするようになった。
 父親は、俺の親権を取れなかったことを悔いているようだった。幼い頃の俺を母親から守れなかった、ということについて謝罪も受けたが、ピンとこなかった。それよりも、大人が自分のような子供に謝ってくるなんて、変な感じがした。父親は、いつでも俺のことを引き取る気でいるようだ。母親からは、父親は他所に女を作った、だから男はダメなんだ、と聞いていたので、意外には思った。父親が女と別れたのか、母親が嘘をついていたのかは分からないが、とにかくそういうつもりらしい。祖母が父親の連絡先を俺に教えたのも、さっさと他人の男に厄介者を引き取ってほしかったかもしれないと、俺は賢かったので察しがついた。

 ただ、そんなことを切り出した日には、母親がどうなるか──。

 きっと発狂するだろう。暴れるとしたら、誰かの命も危ないかも。有り得ないことだと思いつつも、可能性がゼロとは言い切れないくらいには、母親に翻弄される毎日だった。
 何より、俺はこの生まれきっての生活を抜け出そうと思えるほど無謀でもなかったし、気力もなかった。学校にも行かず、友達もおらず、ぼんやり毎日を過ごしているうちに、いつの間にか年齢は中学生になった。

 最初こそ朝に起きて食事を取り、多少の勉強をして眠る生活をしていたものの、次第にそれも馬鹿らしくなって、あてがわれた自室の布団で、ただ横になって過ごすだけの毎日だった。
 中学校の制服は、買わなかった。母親は女子生徒の制服を買う気満々だったようだが、祖父母が必死の形相で止めていたし、多分学校側も許さなかったのだと思う。最終的には、癇癪を起こした母親が、騒ぎを起こすすんでのところで、もうこんな学校なんか通わせない! と啖呵を切って帰宅したらしいことだけは知っている。ママはあーちゃんのために言っているのに、と愚痴る母親に、形だけのありがとうとごめんねを伝える。それで平和が保たれるなら、安いものだ。
 カーテンを開けると、現実世界の時間の流れが飛び込んでくるから、それが嫌で開けなかった。隙間や布地から透けて、少しだけ部屋が明るくなるのもうんざりだった。ぼんやりした頭で、今頃同級生の人たちは、制服を着て学校に登校して、友達と笑いあったりして、やるべきことをこなしているんだと思うと、かなり、キツかった。ずっと頭は痛いし。眠くないのに起きられない。いや、起きたくない? 怠け癖のような感じで。なんか俺ってやっぱダメなヤツだーって思ったし。どこから失敗してたんだろうなー、とか。性格終わってるからいけない? みんなから嫌われる。上手く人と付き合えない。そもそも親が終わってるから? なにがいけないのか。結局俺がダメなんじゃん。母親は俺がいなかったらここまで狂わなかったのか? 俺じゃなくて、女の子が生まれてたらよかった? 顔も知らぬ姉が、死ななければよかった? そうすれば俺も生まれずに済んだ? フツーに生きられそうにない。今後、どうすんだ。大人になれんのかな。俺って。生まれたときからフツーじゃないんだもん。野垂れ死ぬのか? 仕事、そう、仕事とかして、金を稼いでとか、そういうことってできそうにない。学校だってまともに行けないのに。

 目の前が真っ暗になって、ぐずついた頭で、ふと思い出すのはいつも、桜太郎のことだった。
 桜太郎のくれた、ひらがなばかりの手紙も、その頃には問題なく読めるようになっていた。落としものの鉛筆と一緒に、机の引き出しの一番上に入れて、たまに取り出しては眺めていた。俺の、唯一の、俺が生きることを許してくれる唯一が、そこにはあった。

 一度、聞いたことがある。桜太郎は、俺なんかと遊んでてよかったのか。
 桜太郎は、なんの屈託もなく言った。
 ──なんで?
 ──みんな、アオバに近付いてこないし。おーたろうも本当は嫌なんじゃないの。
 俺の、渾身の悩みは、桜太郎にとってはなんてことない問題みたいだった。
 ──ぼくがあーちゃんと一緒にいたいんだもん、関係ないよ。
 そんな風に、俺自身が存在することを肯定してくれる人間なんて、生まれてこの方ひとりもいなかったので、俺はもう、眩しいヒーローに夢中だった。

 どこでもいいから高校にはいくもんだ、と入学金と学費を出してくれた頑固者の祖父は、俺が高一の夏休みに、心臓を悪くしてあっという間に死んだ。厳しいことはたくさん言われたし、たまに部屋から引きずり出されてぶん殴られはしたけど、なんの利もない俺のことを家に置いてくれていたので、悪い人ではなかったのだと思う。通院や葬儀周りのことを一人でこなした祖母は、その辺りからめっきり体調を崩し、ほぼ寝たきりになった挙句、ボケ始めた。母親はいよいよ救えないほど様子がおかしくなって、どこかで警察の世話になったようだ。暴れたのか知らないが、俺は俺で、その頃には自分の食べるものくらいは自力で用意できたので、自分には関係ないと思っていた。
 母親のことや、祖母のことがあって、家に、定期的に、他所の人間が出入りするようになった。よく知らなかったが、多分、介護の人とか、病院関係の人とかだったと思う。市の人とかもいたのかもしれない。俺はできるだけ自室で過ごしたが、たまにうっかり鉢合わせてしまうときがあって、そういうときは一応テキトーな挨拶だけはしていた。
 学校は? と尋ねられ、通信です、とか言いながら。生活はどうしてるのかとか色々聞かれた。小柄とはいえ体格で分かるだろう、明らかに男なのに結構な長髪だったから、相手も俺の異様さにビビっていたかもしれない。
 裏で、大人たちがどんな話をしたのかはよくわからない。興味もなかったし。気が付けば、祖母は施設に、母親は精神病院に入院することになっていて、俺は、父親の元に引き取られることになった。それが、高校三年生になる春のことだ。



 久し振りに会った父親は、当然だけど記憶の中よりもおっさんだった。メッセージのやり取りはしていたものの、実際に顔を合わせるのは数年、いや、十年振りくらいで、流石にお互い少し気まずくて、他人より他人行儀な感じだった。俺が十八歳、成人年齢に達していれば父親もこんな面倒事背負わずに済んだだろうに、三月生まれの自分を悔いた。
 在籍していたのが通信高校だったから、転校は必須ではなかったのだが、父親は俺に、全日制の高校への編入を勧めてきた。本気かよ、と思ったが、同時に、クソみたいな人生、心機一転、やり直せるチャンスかもしれない、とも思った。幸いにして、高校生になってからは、勉強だけは真面目にやっていた。なんの娯楽も取り上げられて、他にやることがないからではあったが、結果的に見ればそれはかなりのアドだったと思う。
 学費、生活費含め、かかる金は全て父親が負担すると言った。そもそも、養育費もずっと支払っていたらしい。高校の金は祖父が出したと言うと驚いていた。今思えば、無職の母親があそこまで遊び歩けていたのは、父親の援助によるものだったのだろうと分かった。色々と申し訳なかったので、せめてと思い、家から通える範囲の、バイト可の学校で絞った。長すぎる髪の毛を、人生で一番短く切り揃えて、ズボンにネクタイの制服に、人生で初めて袖を通した。
 父親は、そんな俺の姿を見て、静かに、似合うな、と呟いた。恥ずかしくて、返事ができなかった。編入試験は決して簡単ではなかったが、何とかパスして、晴れて一般的な男子高校生の肩書きと姿を手に入れた。入学祝いに、新品のスマホと革製のサイフをプレゼントされた。いずれも黒や紺色の、無骨な男物だった。



 どうせ上手くなんかいかない、と思っていた、新しい生活。綺麗なレールを辿ってきたであろう、呑気な同級生たち。奇しくも俺は、生まれた時と同じ父親の姓を名乗り、素知らぬ顔をして普通の男子高校生になった。
 久々の教室は、騒がしくて、刺激がとにかく多かった。人の多さも、声のうるささもそうだし。校庭から響く音、机と椅子がぶつかる音、チョークの埃っぽいにおい、眩しい蛍光灯。ああそうか、教室ってこんな感じだったっけ。みんな生き生きとしている。情報量にクラクラした。
 自己紹介が終わると寄ってきたクラスメイト。捲し立てるような女の高い声に、身の毛がよだった。脳裏に母親がよぎる。一刻も早く解放されたくて、藻掻くように漏れ出た言葉は煽りになって、多分反感を買った。後から、ズキ、と胸が痛んだ。相手は悪くない。俺が悪い。
 友達なんかは、作ろうとは思わない。元々いないし。そういうのは苦手だったし、恵まれたヤツらとはつるめない気持ちもあった。怖かったのだ。
 授業に集中していれば、この教室内で俺だけが異端なことを意識せずに済む。朝から起きて、丸一日活動すること自体慣れていなくて、体力的にはかなりキツかったが、それでもそんなスケジュールをちゃんとこなせている自分に高揚感もあった。あっという間に昼休みになる。

 授業中もそうだったが、無遠慮な視線をかなり感じる。大抵が好奇の目。たまに揶揄る囁き声も聞こえたが、ヒステリックに怒鳴りつけられるよりは、はるかにマシだったので、そう気にならなかった。昼食には菓子パンを一応持ってきてはいたが、腹は減っていなくて、食う気にならなかった。

「どーせ勉強してんだよコイツは。なぁ、原ぁ?」

 びく、と、肩が揺れた。
 騒がしい教室の中で、俺の耳は、何故かその言葉、いや、その名前だけを、選び取ったように拾った。

 ──はら?

 お守りに、ペンケースに忍ばせてきた、かつて拾ったキャラクターものの鉛筆。その側面に貼られたお名前シールが脳裏に浮かぶ。目眩。ドキリ、と響いた心音が身体中に広がった。まさかそんな訳がない、確率的に考えてもありえない、と思いつつ、教室中を軽く見回した。
 なにか名前の確認できるもの──後方にロッカーがあって、フルネームが印字されたラベルが貼り付けられている。はやる気持ちを抑えつつ、それをひとつずつ目視で確認する。五十音順であれば、ハ行の名前のロッカーは、俺の座る窓側に近い位置にあるはず。
 それは、探すまでもなくすぐに見つかった。「原桜太郎」と書かれたラベルが。頭を殴られたみたいに、心臓が跳ねる。
 はらおうたろう。そういえばどういう漢字を書くのか知らなかったが、そうか、桜の字で「おう」と読ませるのか。確か四月生まれだったから、ぴったりな名前だと思った。ランドセルを背負う直前に、誕生日プレゼントでもらったという、当時最新の電池式玩具を嬉しそうに抱えていたから、知っている。
 席は、どこだ。さっき声が聞こえてきた辺り。
 教室の中央に目をやると、頭痛のするような喧騒の隙間から、約束された運命みたいに、──バチ、と、強い磁石が遠くから引き合うみたいに、強い衝撃と共に、目が、合った。

 あいつだ、と思った。
 間違いない。

 桜太郎は、すぐに、慌てた様子で目を逸らした。俺は、目を逸らせずに、しばらく固まった。
 髪型。ツーブロックとかいうしゃれついた見た目は過去と違えど、少し茶けた明るめの髪色は変わらない。身長も伸びて、体格もよく成長して、チビだった昔とは大違いだけど、やや垂れた形の優しげな目元に面影がある。
 ──今、俺のこと、見てたよね。嘘、俺のこと覚えてる?
 俺にとっておーたろうは唯一だったけど。おーたろうにはたくさんたくさん友達がいたのに、俺のこと、まだ、覚えてるの?

 ドキドキした。こんなに心臓が動いたのは久し振りだと思う。ずっと止まっていた時が、また、世界の流れに乗っかって動き出したみたいに。どうしても確かめたくて席を立った。原桜太郎のいる席へ進む。

「桜太郎」

 名前を呼ぶ。緊張で震えて、声の代わりに臓器とかが口から飛び出るかと思った。
 俺の目の前で、桜太郎は、顔を上げなかった。ガチ、と固まって、ただ、机の上にある自分の弁当を見つめていた。中にはきれいに巻かれた卵焼きとか、手作りとわかるアスパラの肉巻きとかが入っていて、おぼろげに優しそうなおーたろうのお母さんを思い出した。

「え、なに、原、知り合い?」
「え、いや……」

 隣にいた友達らしい男から尋ねられて、桜太郎は、気まずそうにそう絞り出した。

 それを聞いた瞬間、頭の奥でなにかがプツッと千切れたみたいになって、景色は見えていたけれど、目の前が暗く沈んだ。

「いやって」

 ──バカバカしい期待をした自分が情けなくて、哀れで、笑えてくる。そりゃ当然。あんな思い出を大事に取っておいてるのなんて、俺だけ。
 もう一人隣にいた、桜太郎の友達が──憎たらしい──ヘラヘラしながら西島と呼んでくるから、ムカついて、苛立って、最悪で、むちゃくちゃで、消えたくて、わざとらしく吐き捨ててやる。
「あー、西島じゃなくてアオバって呼んでくれる? 苗字変わりすぎて呼ばれても反応できないんだよね」
 桜太郎は、そこでようやく顔を上げた。視線が合う。ぼーっとした間抜け顔は相変わらずで、無性にむしゃくしゃした。 
「髪の毛が短くなっただけで、初恋の婚約者の顔も忘れちゃうワケぇ?」
 最早当てつけだ。
「お前のカクゴってそんなもんだったんだぁ?」
 この世で一番、意地の悪い顔をしていたと思う。

「──やっぱ、あーちゃん、だったんだ……」

 桜太郎は、たっぷりの間を取って、そう呟いた。
 覚えてたのかよ、と思い、舞い上がる気持ちと。分かっていて知らぬフリをしたんだと、時の流れの残酷さに目が眩む今。

「久し振りだね、桜太郎」

 せめてもの負け惜しみに、精一杯の可愛い笑顔で、桜太郎の目を真っ直ぐに見つめた。



 ──お前は俺だけ見てればよかったはずなのに!



 しかし、家に帰って、風呂を浴びて、熱もおりて冷静になる頃には、今日のあまりに挑発的で品のない振る舞いを、かなり後悔していた。
 俺ときたら。いつもこう。
 カッとなると勢いで思ってもない言葉が口から漏れ出て、煽る、喧嘩を売る、憎まれ口を叩くから、だから人と仲良くできない。昔からそう。誰とでもそう。
 桜太郎が俺のことを覚えていたのかどうかはおいておいても、あんな振る舞いをして、教室中の視線を集めておいて、確実に完璧に迷惑をかけたに違いない。大体、あの前にクラスメイトに相当不躾な対応をしていたわけで、関わり合いになりたくないと思われるには十分すぎる。
 謝るのは癪だからできないけど、せめて、邪魔をしないように、接点はもたずに卒業まで漕ぎつけよう。
 だってそもそも、元よりそのつもりだった。別に俺は、友達を作る気なんてさらさらなかったのだから。まさかの人物がたまたま同じクラスにいてしまったから、動揺して、つい変な真似をしでかしてしまっただけだ。気の迷い。別に明日から、何食わぬ顔で、誰とも関わらずにただ教室の隅で過ごしたらいい。
 それは、あの片田舎の自分の部屋で、布団を敷きっぱなしに、カーテンも開けなかった日々と何も変わらない。
 俺はそういうのにはかなり慣れているから、全然やれると、そう思っていた。

 なのに。

 すごく、見てくる。あの男。

 自覚あるのか? 分からないけれど。とにかく見てくる。

 探るような視線だったり、熱烈な視線だったりする。何?
 バイト終わりに財布がないことに気がついて、学校まで探しに行ったとき。俺の大事なお守りとその女々しさがバレたのはかなり大誤算ではあったものの、キモがられると思っていたら、桜太郎は意外にも満更でもなさそうな様子で拍子抜けした。またしても、桜太郎の謎の申し出から連絡先を交換してからは、俺が学校を休んだ日に授業内容が送られてくるようにもなった。
 字、きれいだな、とは思ったけど。実際ありがたいけど。でも、何?
 どういうつもりなのか全く分からなかったが、桜太郎は、俺から完全に距離を取りたがっている訳ではなさそうで、付かず離れずのところで、静かに、手を貸してくれていた。あの頃と同じように。
 未だに。たまに襲い来る、逃れようもない恐怖、絶望、無力感。涙も出ず呆然と、眠れぬ夜の続きの朝を、見つめるだけの日があった。それは、波乱万丈な日々の後遺症みたいなもので、ヤケになって、学校なんか人生ごと棄ててしまいたくなるようなときでも、桜太郎は、やっぱり、俺の存在を静かに肯定し続けてくれる。
 こんなにも素晴らしく、ありがたいことなど、他にないだろうと思った。同時に、本当にマジで意味がわからなかった。なんなん、コイツは?



 世話になる手前食費くらいは稼ぎたいのと、一人暮らし資金のために始めたコンビニバイトは、覚えることも多くて大変ではあったが、それなりに軌道に乗ってなんだかんだやれていたと思う。少し大きめの作りの制服に身を包んで、簡単な事務作業をこなしながら客を待つ。
 土曜の午後。この時間、この店はあまり混雑しない。もうひとりのバイトは、バックヤードで商品発注の諸々を片付けている。多少気を抜きながらいると、店内をひとり物色していたらしい客がやってきて、レジ台にドサドサと菓子パンを置いた。
 いらっしゃいませ、と小声で言いつつ、ピ、ピ、とレジを通していると、目の前の客から急に名前を呼ばれた。

「あ、アオバくん?」

 名札には苗字しか書いていないはずだ。驚いて顔をあげる。目の前の客は、私服を着ていたが、俺と同じ歳くらいの男で──
「……戸塚、?」
 ──桜太郎といつも一緒にいるクラスメイトのうちの片割れだった。
 戸塚は、おれの名前覚えてたんだ、と人懐こそうに笑った。さすがにクラスメイトだし、と思いつつ、でも確かに俺の態度は、同級生の名前を覚えているようには見えなかっただろう、と小さな反省をした。
「バイトしてんだね。すごい」
 え、世間話始めちゃう感じ? 俺と?
 別に空いているからいいのだが、驚く。俺と会話を続けることに、なんのメリットがあるというのか。そんなに仲がいいわけでも当然ないのに。動揺もありつつ、間を持たせるために、気持ちゆっくりめに作業する。
 戸塚は、大きなリュックを背負っていた。重たそうに、ショルダー部分が引っ張られて沈んでいる。こちらの予想通り、今から塾で自習をするのだと言った。
「姉ちゃんがうるさくてさ。自分が使ってた参考書とか押し付けてくるから……、アオバくんよかったら使う? 問題集とかって結構高いよね」
 そう、戸塚には姉がいるのか。
 自分の中の何かが刺激されて、仄暗い気持ちになる。
 でも、それを戸塚に怒るのも違うとわかっている。そっと息を吐いて、気持ちを置いておく。小さく首を横に振って、今は要らない考えを振り切った。
「いや、俺は受験しとかないから」
「あ、そうなんだ。就職?」
 あまり驚かれなかったことに、少し驚いた。あの高校は、ほとんどの人間が大学を目指して受験勉強をするから。進路希望調査を提出した担任にも、気怠そうに、就職よりも大学を目指したらどうだと言われた。進学実績とかが教員の評価にも関わるのだろうか。
「いいね、大変そうだけど。いやぁ、おれも本当は就職したかったんだけどさぁ」
 戸塚は、やれやれ、という感じに肩をすくめる。そのくらいのタイミングで、ようやく大量の菓子パンをレジに通し終わった。計、十一点。買いすぎじゃないか。これ全部一人で食うのかな。
 てか、恵まれた文句を。就職したいならすりゃいいだろ、と喉まで出かけたが、戸塚が続けたので俺の言葉は飲み込まれた。
「うち父さんいなくて、男一人だからかなあ、母さんと姉ちゃんが男なんだから大学くらい出ないと駄目だってうるさいんだよ」
 困り笑いで言う。そういうのもあるのか、と、素直に思った。
「勉強嫌いだし、やりたいこととかも特にないのに。奨学金借りてまで行く大学ってなにー? って思うけどね。だったら早々に仕事してお金稼ぎたい」
「……わかる」
「だよねぇ」
 そんなこと言っても仕方ないんだけどさあ、と戸塚はリュックを揺らした。
「姉ちゃんこそ大学行ったらよかったのに。そんな風におれを優先されても困るよ」
 アオバくんは強いね、と、戸塚は言った。そんなことを言われたのは初めてだった。スマホを取り出して、支払いはキャッシュレス決済だった。
 デカいリュックのポケットから、折りたたまれたエコバッグを取り出して、大量のパンをいそいそと詰めている。俺は、その様子を眺めながら、ずっと考えていたことを尋ねてみた。

「俺と話すの嫌じゃないの?」
「なんで?」

 戸塚は、本当にわかっていない様子で聞き返した。

「別に普通だよ。クラスメイトだし。仲良くなれるもんならなりたいなーと思うけど」
 へへ、と笑う。このふにゃふにゃした笑い方は、こいつのクセなのかもしれないなと思った。
「多分檜垣もそんな感じじゃない? あいつ、結構色々ハッキリ言うけどさ、悪い奴じゃないんだよ」
 檜垣──、ああ、もう片方の方か。いつもムッとして、目付きも鋭いし無表情だから近寄り難い雰囲気を感じる。
「原もさ、ちょっとズルいとこあるけど……、まあ、優しいし、さ。あ、原のことはアオバくんの方が知ってるか」
 いや、全然わかんない、と、言いたかった。あまりにもわからなすぎるから、言えなかった。
 あいつなに考えてんだろ。なんか、ありとあらゆる行動原理が謎、なんだよな。めっちゃ見てきたり。朝と帰りも、謎の挨拶が恒例になってるし。急に電話かけてきて、自分のことどう思ってるかみたいな謎の質問してくるし。全然謎すぎる。
 多分、戸塚や檜垣の方があいつのことを知っていると思う。でもそれはそれで、負けたような気がしてムカついた。

「でもさ、原、アオバくんが来てからちょっと変わったと思うんだよなー。前はさ、割と、……無気力っていうか。無難で、楽しくなさそうっていうか」
 戸塚は、左手にメロンパンを持ったまま、大量のパンが入ったエコバッグをガサッと揺らす。店を出たら早々に食うつもりなのかもしれない。
「ちょっと大人びてるふうに見えてたけど、最近の原って、なんか、意外とそういうとこあるんだって感じだよ」
 戸塚は、じゃあバイト頑張ってね、と手を振って、自動ドアから出て行った。思った通り、ガラス窓の向こうですぐに袋を破ってデカイメロンパンにかじりつくのが見えた。あんなクソ暑い中、よく食べ物を食べる気になるな、と、冷えきった冷房の空気に息をついた。

 夏休みが始まる頃には、やっぱり理解不能な桜太郎、そしてその御一行に謎に引き入れられ、超、トモダチみたいなことをしてビビってるうちに、──過去、特別なお城を建てた思い出の公園での、デートの予定が整ったのだった。