夢見鳥は爛漫を飛ぶ


 その公園は、あの日訪れたときと同じように、当たり前の顔をしてそこにあった。以前訪れたときと比べると時間が少し早いので、放課後から集まってまだ帰っていない子供たちが数人、きゃーきゃー言いながら遊んでいる姿が目に入った。辺りは少し薄暗くなり始めていたが、まだ危なくはない、そんなくらいの時間だ。
 公園の入口には、無造作に停められた子供用自転車が数台置いてあった。カゴには、不用心にバッグや遊び道具が突っ込まれたままだ。子供の年齢なんて見てもよく分からないが、多分小学四、五年生くらいだろうか。思い返してみれば、あのくらいの年齢の頃の自分は自信満々にオトナなつもりで一丁前にいたけれど、今見るとかなり幼いなと感じた。
 まだ光っていない街灯のふもとのベンチに腰掛けて、碧羽を待つ。もしかしたら来ないかもしれない、と、根拠のない不安に苛まれながら。

 夏休み前、終業式のあった日。あれ以来、英語の課題の件もあって、学校がなくても──つまり、碧羽が欠席をしなくても、ちょこちょこと連絡を取り合うようになった。内容のほとんどが業務連絡的な必要事項ではあったものの、着実に距離が縮まったように感じていた。あの日の別れ際、デートのお誘いをお互い反故にする気はなかったようで、少しの雑談から派生して、出掛けの予定がトントン拍子に決まることとなった。それが、今日だ。
 碧羽が梅雨空の中、俺の日常に舞い降りたあの瞬間から。再会直後からしばらくずっと感じていた緊張感は、メッセージの往復分だけかなり軽快して、取るに足らないやり取りもできるような間柄を取り戻した。予定を決めるまでの流れの中で、また新しく分かったことがいくつもあった。
 趣味はバンドの音楽を聴くことだとか、おでんが大好物らしいこととか。とある小説原作の映画への文句とか、猫が苦手なこととか、目玉焼きには塩派なことを聞いて。
 就職先はアパレル販売を考えていることと、一人暮らし資金のために、放課後や土日にはコンビニでアルバイトしているらしいことを知った。

 碧羽は、俺とは、全く異なる生活をしている。そう思い知る。
 見てきたものも、好きなものも全然違う。
 経験も、環境も、人生も丸ごと。
 それは考えてみれば当然のことだったが、なんだか視界のひらけたような心地がした。

 夏休みもコマを進めて、いっそ嫌になるような暑苦しさに、毎日じわじわと体力を蝕まれている。太陽が見えなくなっても、吹きつける風さえ熱いこの季節では、何も回復しないことを分かりつつも、その熱を呼吸に乗せて、はーっと息をつくほかない。幼い頃も、こんなに夏は、重苦しかったんだっけ。
 たまに小さな羽虫が、何匹か群れになって顔の辺りに近づいてくるのが鬱陶しくて、数回、ぶん、と手で追い払った。空を切った手のひらに、湿度の高い空気がかき分けられて質量を感じた。ベンチの下をとぼとぼ歩いている怖いもの知らずの鳩は、右足を引き摺るようにしていて、よく見ると爪先に怪我をしていた。



「おーたろう」

 呼びかけるような声が聞こえた。顔をあげる。
 見ると、よ、と、軽いテンションで右手を上げながら、碧羽が近付いてきた。紺色の半袖Tシャツ。下は動きやすそうな黒のスウェットに、ラフなスポーツサンダルを引っ掛けている。今日は日中アルバイトがあると聞いていたが、一度家に帰って着替えてきたのだろうか。左手には、指先に引っ掛けるようにして炭酸のジュースのペットボトルを携えていた。表面には結露がびっしり水滴をつけていた。多分、まだ冷たい。
 呼び掛けに答えるように、こちらも手を軽く上げると、碧羽はそのまま近づいてきて、遠慮なく俺の左隣に腰掛けた。向かい合うよりも距離が近いから、空気を伝播した体温が、こちらまで伝わってくるかと思った。
「待った?」
「いや、そうでも」
 そう、と言いながら、碧羽は公園の中を見渡している。俺も、なんとなく、碧羽の見ていそうな辺りに視線を彷徨わせる。
 目の前の景色では、小学生の男女の集団が、いっそもみくちゃになりそうなくらい全力で、鬼ごっこをしている。足が慌ただしく地面を蹴ると、砂埃が煙のように舞う。半ズボンを履いた男の子が、走る途中で、ズべ、と勢いよく転んだのが見えて、ああ、と思わず声が漏れた。

「ホントだ」
 碧羽は、小さく呟いた。
「あの辺とか、全然変わっちゃったんだ」

 そう、なんだ。そうなんだよ。
 それは当然なのかもしれないが、寂しいことだと、俺は思った。

 碧羽は、なにかを噛み締めるように一呼吸おいて、ふと気がついたように左手のペットボトルを俺に差し出した。
「飲む?」
 キャップとペットボトルを繋ぐくびれた部分を、一指と中指で挟むようにして引っ掛けて、軽く揺らす。
「え、いいの?」
 正直かなりありがたい。この暑さはそれだけで、身体中の水分を奪っていく。前々から喉が乾いたと思っていたのだが、自販機に飲み物を買いに行っている最中に碧羽が来て、すれ違ってしまったらどうしようかと思うと、ベンチから離れられずにいたのだ。
 受け取ってキャップを捻る。プシュ、と威勢のいい音が鳴るのを聞いて、未開封だったのかと気がつく。そういえば、入っている量もいくらも減っていなかった、かもしれない。
 もらっちゃっていいのかな。碧羽から言ったんだから、いいのか。
 蓋を開けようとボトルを掴んだ左手は、その表面に張り付いた結露でびしゃびしゃに濡れた。それすら心地いいほど、手のひらも熱を持っている。少し上を向き傾けるようにして中の液体を流し込むと、まだ冷たい甘い炭酸が、口の中でしゅわっと弾けた。パチパチと喉を通り過ぎるのが分かって、胸の辺りまですっきり冷たくなった。
 二口ほど飲んで、残った炭酸が抜けきらないように、キャップを固めに閉めておく。今は用の済んだペットボトルを自分の右手側に置くと、木目に伝った水が滲んで、ベンチの一部が濃い色に変わった。
 碧羽は、相変わらず公園の中を眺めていて、多分何かをずっと考えている。陽が落ち始めると早いもので、いつの間にか公園の中はさっきよりも暗くなって、街灯が点滅しながら順番にと点灯する。

「懐かしい。俺、シーソー好きだった」

 碧羽が言う。
 不思議と、それを聞いたら、俺の中の奥底に眠っていた記憶がずるずると引き出された。
 シーソーの向かいに座って、ぎったんばったん、楽しげに笑うお姫様が。白くてふわふわのスカートを、座面についた泥で汚して、大笑いしていたこととか。

「たしかに、よく一緒にやったかもしんない」
 碧羽は、カラフルになったシーソーを指さしながら言う。
「あんなウサギとかついてなかったよね?」
「うん、もっと木製で、シンプルな」
 あー、そうそう、と、碧羽は懐かしむように目を閉じた。俺も、それに連動するように、その情景を思い浮かべる。ベンチの座面が、シーソーのように揺れた気がした。
「──でも、あーちゃんなんも言わないで降りるから、俺いつもおしり打って痛かったよ」
 アハ、と、碧羽は吹き出すように笑った。
「だって、シーソーって二人じゃないとできないんだもん。先におーたろうが降りちゃったら悲しくて、俺の方が先に降りてやるって思ってた」

 思わず隣を見る。

 街灯に照らされた碧羽の横顔。筋の通った鼻筋。伏し目がちに陰る目元。白い頬、さらさらの黒髪、薄い桜色のくちびる。
 悲しそうな、切なそうな? いや、泣きそうな。なんだろう、複雑な表情で笑う表情が、誤解を恐れずにいえば、ひどく、──色っぽく見えた。
 あの懐かしい日々からたくさんの時間が経ったからか。それとも、もう二度と戻らない景色を実感したからか。身体はそのままに、想いだけが過去に戻ったようになって、素直になる魔法にでもかかったみたいに、碧羽はその弱さを俺にさらけ出す。俺も、同じ空気を吸って、くらくらときてしまうような、たまらない気持ちになる。

「ブランコでぶっ飛んだり」
「あれ今思うとマジで危なかったよ……。碧羽が大怪我しなくてよかった」
「しねぇよ。あとは? 砂場で川を開拓」
「……花の石鹸屋さんとか」
「うわ! なつかし。やったなーそんなの」

 アハハ、と笑うその声を、いつまでも聞いていたいと思った。ぬるい風が吹く。半袖から覗いた腕を、そろ、と撫でる。
 碧羽は、うーん、と伸びをするように両腕を上げて、ベンチの背もたれに体重を預けた。少し上を見上げるような姿勢になる。俺も、同じようにもたれかかる。視界に入る空はいつの間にかもっと暗くなって、よく光る星なら目視できるくらいになっていた。そういえば、あれだけ騒がしかった子供の声も、いつからか聞こえなくなった。みんな家に帰ったのだろう。

「俺あの頃プリンセスだったからさあ」
 自虐的な響き。
「お城の間取りとか描いたな。家ヤバかったから、あの頃ホントにあのお城に住みたかった」

 憐れむのも、違うとは思った。
 俺には、何も出来ないのだ。過去の碧羽には。
 思い出の中では、おさげをうさぎのようにぴょこぴょこ揺らす初恋が、苦しさも悲しさも感じさせない明るい笑顔で、俺のことを撃ち抜いては、眩しく照らしている。

「キッチンにはシェフがいて、大きいお風呂があって?」
「そうそう。好きなモン食えて、好きな服着れて……」

 それでも、それでもあのお城は、あの頃の俺にとって、とてつもなく素敵で、素晴らしいもので。
 そこが、たとえ空想上の避難場所に過ぎないとしても、碧羽のことを守れるならば、なんだっていいと思いたかった。
 
「……俺と、いつでも会えて?」

 祈るように言った言葉に、碧羽は一瞬動きを止めた。

「──、うーん……」

 一瞬にも、永遠にも感じる時間が経って。

「そうだね」

 碧羽は、静かに、でも深い響きをもって、肯定した。
 なんだかすごく息が詰まって苦しかったけど、その理由は、複雑にごちゃまぜで、うまく言葉にはできそうになかった。

「──桜太郎だって、わざわざ夏休み中お呼び出しするほど、俺に会いたいくせにね?」

 少し間を置いて、わざと挑発するように碧羽が言う。

「……そうだよ」

 俺の肯定は、ちゃんと碧羽のこころに届いただろうか。

 二人揃って、しばらく無言で、ただその場にいる時間を過ごした。たまに犬の散歩で通りがかる人や、帰宅途中のサラリーマンが革靴をコツコツ鳴らしながら歩く以外には、俺たち以外に誰もいない静かな空間で、俺たちはただ、同じ時間を刻んでいた。
 羽虫は街灯の明かりに吸い寄せられていった。本能といってしまえばそれまでなのだが、真っ暗で頼りない夜の中で、光の近くは安心するのだろうと思った。
 同じ姿勢でいることにむず痒さを感じて、少し姿勢を変える。連動して動いた靴の下で、ザリ、と、粒の大きな砂が擦れる。
 碧羽が、なんの脈絡もなく──あるいは、碧羽の脳内で続いた思考回路の続きを──そっと、俺に聞こえるように、呟いた。

「おーたろうがくれた手紙、お守りだったんだ」

 財布に大事に取っておいてくれた、俺の想い。
 俺が近くにいないときも、全く別の人生を歩んでいた間も、それは、碧羽のことをちゃんと守れていただろうか。

「ちゃんと力になってたんなら、当時の俺も報われるよ」

 なんせ、かつての精一杯だ。何も力を持たなかった小学生になりたての俺が、必死に考えた一手。
 俺は、あーちゃんのことが、だいすきで仕方なかった。笑顔があまりにもかわいかったから、いつだって笑っていてほしいと思っていた。
 怒っていたらひやひやしたし、泣いていたら俺まで悲しかった。
 姿が見えなければ、すごく心配だった。
 一緒にいたら楽しかったし、しあわせで、こころのなかがいろんな気持ちでいっぱいになって、ドキドキして、わくわくして、──それは、この公園のように、多少形を変えたかもしれないけれど、今も、同じだ。

「もうさぁ、桜太郎は忘れちゃってたと思うけど」
 どうしてかは分からないけど、泣きそうにも聞こえる、切羽詰まったような声で、碧羽は言った。
「俺に、スキって言ったあとさ、めっちゃ真っ赤になってて……」
 俺は、あえてそちらを見なかった。
 覚えている、あーちゃんが、俺のことをからかうように、そんなことを聞いてきた小学校の校舎裏を。
 アオバのことスキなんでしょ? と、わかっていて小首を傾げるお姫様に、いっぱいいっぱいになった俺が、気の利いたことも言えずただ頷くだけだったことも。

 ──ぼく、もっと強くならなきゃ。絶対ぜったい守るからね。
 ──あーちゃんが悲しいときは、ぼくが、……えーっと。

 そのあと、よくよく考えて。お姫様に見合う男ってどんなだろうって真剣に悩んで。
 俺は、どうにかしてあーちゃんを、しあわせにするんだって思ったんだ。

「命を賭けて、なんとかするから──」

 そういえば、中学から剣道を始めたのも、ただ流行りの漫画の影響だと片付けていたが。思い起こせば、そもそもその漫画にハマったのは、大事な人を守れるような、強い男に憧れていたからだ。

 ──だから、お城で一緒にずっと暮らそうね。

 笑っちゃうほど真っ直ぐで、素直で、なんの飾り気もない誓い。未来永劫の約束。
「覚えてたんだ……」
 碧羽は、驚きを孕んだ声で、でもほっとして力の抜けたように、言った。
「……転校してきた碧羽を見たら、急に思い出した」
 少し迷ったが、嘘をついても仕方がないので正直に告げた。あの日、あの時から、俺の日常も、人生も、なんだか大きく変わったような気がする。今まで見えていた景色がガラガラ崩れ落ちて、その奥に、もっと綺麗で、残酷な、本当の世界がどっしりと構えていたみたいな、そんな感じだ。
 俺の正直な告白に、碧羽は、ええ? と目を細めたが、すぐに、ふう、と息をついて、穏やかに言った。
「んー、まあ、許してやるよ」
 碧羽は、俺の不誠実な事実と、誠実な態度を天秤にかけ、結局咎めることもからかうこともせず、右手でぽんと俺の肩を小突いた。触れられた箇所がまろやかな熱をもって、心臓まで伝った痛みがじくじくと響いた。



「もし、碧羽が、就職して家出る気ならさ、俺とルームシェアしようよ」



 それは、今日の会話に触発された、思いつきのアイディアだったかもしれない。それでも、それは我ながら感心してしまうほどに、とてもいい考えに感じられた。

 そうだ、今の俺なら、俺たちなら。窮屈な牢獄からお姫様を連れ出して、逃げ出して、自由なお城で好きに暮らすことだってできる。

「ハア?」
 碧羽は、かなり素頓狂な声をあげた。そんなに驚かなくたっていいと思うのだが。
「俺もバイト、するつもりだし……。お金のことも、折半だったら何とかならないかな」
「本気ぃ?」
 碧羽は、笑いながら俺を見た。目が合う。と、同時に、碧羽の瞳が少し揺れた。多分俺が、碧羽が思っていたよりも余程真剣な顔をしていたからだろう。すぐ、ちょっと照れたように目線を逸らした。碧羽のそんな反応を見て、釣られてこちらまで恥ずかしい気がしてきてしまう。顔が熱いのは、気温の高さのせいだけじゃないだろう。もしかして俺、今、相当に思い切ったことを言ってしまったのかもしれないと気づく。
 元々、志望している大学は家から通える範囲で、実家を出る必要性は俺にはない。そうは言っても多少距離はあるのと、経験のために一人暮らしをしてもいいんじゃないか、と家族とは話してもいたが、大きな決断に内心踏ん切りもつかないし、今すぐではなくていいかなと思っていたはずだったのに。

 それでも。
 全てが未知だけど、碧羽となら、ひとりではできそうにないことも、できるようになる気がしたんだ。

 碧羽が財布を落としても、俺がお守りの代わりになるし。
 碧羽が体調を崩して学校──いや、その頃には仕事か──を休むことになったとしても、はやくよくなるように看病する。
 ひとりでは難しそうな課題があれば、協力して一緒にやりたいし。
 やったことなくてわからないなにかがあるなら、俺にわかることなら、教えるし、支えたい。

 碧羽が、ピンクにリボンのお姫様じゃなくたって。紺色に無地のシンプルなTシャツを着て、たとえこの先、短い髪を金髪にしたって、それでもいい。碧羽がそうしたいなら、それがいい。



 隣を見れない。今見てしまったら、なんかが、ヤバい気がする。
 自分の鼓動が、喉の近くまで響くほど、大きく脈打っているのがわかる。
 息を吸うのも慎重になる。苦しいのと近い、詰まる感じがする。
 脳みその裏が火傷したみたいに、ヒリヒリする。



「俺も飲む」

 唐突に、碧羽がそう言った。ハッと現実に引き戻される。
 碧羽は、ん、と手を差し出している。最初、なにを言っているのか分からなかったが、どうやら会った時に渡された炭酸飲料のことだと、遅れて理解した。
 え。

「えっ」
「いや、俺が買ったんだから俺のでしょ」

 なんだか貰った気になっていたけど、理屈で言えば、そりゃそうだ。
 碧羽の、目の端が少し赤く見えた気がするのは、気のせいだろうか。ベンチに水たまりを作っていたペットボトルを持ち上げる。受け渡すまでの間、表面から垂れた水滴が俺のデニムにしみを作った。蓋を開けた時から比べれば、もうだいぶぬるくなっただろうそれを受け取り、碧羽は、力を込めてキャップをひねった。
 途中でふと気がついたように手を止めて、わざとらしく俺に微笑みかける。

「ふふ、関節キスになっちゃうねぇ?」
「……」

 また碧羽はそうやって、俺のことを動揺させる。どう言ったら、俺が揺さぶられて、ドキドキして、ぎゅうっとなるのか、全部わかっているに違いないんだ、昔から。
 狭い容器の中、行き場もなく開放されることを望んでいたらしい炭酸は、パンパンに破裂しそうなペットボトルを許すように、大袈裟な音を立てて空気を外へと逃がした。途端に、中の液体はしゅわっと、無数の泡を空気中へ飽和させた。

 碧羽は、なんの躊躇いもなく、飲み口にそっと口を近付ける。
 俺が、さっき飲んだ炭酸飲料を、碧羽も同じように、今、飲もうとしている。
 関節キス、という、碧羽のいたずらな声色が、頭の中で反響してくらくらする。なにかすごくよくないものを、今から目の当たりにするように感じて、こめかみに血が巡り、背中には汗が垂れて、飢えたのと同じように、唾液をごくりと飲み込む。

 傾けられたペットボトルから、透明の甘い液体が弾けながら、碧羽の口元へ、喉奥へ流れ込んでいく。ラベルの貼られていない透明な部分から、奥の街灯が透けて反射し、やけにきらめいている。
 少し上を向いた碧羽の、髪の毛が、さら、と首筋に這う。汗ばんでいるから、そこにも、額にも、張り付いた髪の毛が一房、二房ある。当たり前なのに、碧羽も汗をかくんだな、と、改めて知る。
 だって、いつも涼やかな姿で立っているから。
 しっとりとした、艶やかな黒髪。喉に、つう、と伝う汗のしずく。豪快に飲み込む度に、上下する目立ちにくい喉仏。ごきゅ、と大きな音が聞こえてきそうなほど、遠慮のない嚥下。
 その一回いっかいを、俺は、目に焼き付ける。いや、釘付けになって離れられない、という方が正しい。
 その情景を、食い入るように見つめた。その視線に、碧羽が気がついていたかは分からない。目がジンジンする。実際喉が乾いていたのだろう。連続してゴクゴクと喉を潤した碧羽は、ようやくペットボトルを口から離して、片手に保っていたキャップをくるくると戻した。
 ──名残惜しい。そう思った。

 薄いくちびるには、残った水滴が少しだけついていて、真っ赤に濡れて艶やかに光った。

 飲んでいる最中、呼吸が止まっていたのか。碧羽は、満足そうに、はーっと、息をついた。その、呼気の熱。

 薄く開いた隙間から覗く、白い、きれいに並んだ、歯。

 あの奥には、熱っぽく蠢く真っ赤な舌があって、それが俺をいつも翻弄してよく回るのだと思うと。
 考えるよりも先に、思考が巡るよりも先に。
 なによりも先に、身体が動いていた。

 俺よりもかなり華奢な肩に、左手を置いて。
 もう片方、右手は、碧羽を近付けるように、その頬をこちらへ引き寄せた。
 肌に触れた瞬間の指先は、電流が走ったように、軽く痺れていた。

 距離が近付くと、碧羽の大きな瞳は、今までの人生で見たなによりも、きらきらと、ひかりかがやいて見えた。
 本物なんかちゃんと見たことないけど、宝石の輝きって、きっとこういうものなんじゃないかと思った。

 こんなにかわいい人ならば、その涙すら、甘い味がするのではないだろうか。

 碧羽の長い髪が、俺の鼻先にぶつかって、くすぐったかった。
 夏だからとかじゃなさそうな、熱い空気が、二人の間に燻った。
 ド、ド、と、花火みたいな大きな音が、自分の心音だと気づくまでには、少し時間がかかった。

 触れたくちびるは、なによりも、どんなものよりも、やわらかくて、ふわふわしていて、いっそ、触れたことにすら気がつかないくらいに、無抵抗だった。

 あ。

 身体が離れて、元の姿勢に戻ってから、遅れて思考が巡ってくる。

「──し、ちゃった」

 キス、しちゃった。

 碧羽は、ただでさえ大きな目をもっと見開いて、くちびるをわなわなと震わせた。ぶわ、と、涙が一瞬のうちに瞳を満たした。

「バッ──」

 そのまま、耳どころか、顔面全て真っ赤にしながら、俺のことを凝視した。

「バカ!!」

 耳がキーンとなるくらい大きな、本当に大きな声でそう叫んだと思うと、碧羽はベンチから勢いよく立ち上がり、ダッと公園内に駆け出した。バシャン、と破裂したみたいな音を立てて、まだ少し中身のあるペットボトルが、砂の地面に落下する。慌てて腕を掴もうとしたが、タイミングが一歩足らず、逃げ出す碧羽を追い掛けるように、俺もベンチから思い切り立ち上がった。