夢見鳥は爛漫を飛ぶ


 煩い蝉の声は、窓ガラスを一枚隔てるだけで、まるで液晶の向こうのことみたいに膜の張った音になっていた。眩しい青色はくっきりと濃い色をしていて、輪郭線の色濃い入道雲と相まって、むしろ窮屈な感じだった。灼熱にゆらめく夏空。教室の中は、クーラーがガンガンに効いているお陰で快適だし、女子生徒の数名は持ち込んだ薄手の毛布を、短いスカートの上に丁寧に掛けていた。
 夏休み前、最後のホームルームでは、もう何べん聴いたかわからない進路についての話を、また担任が同じトーンで垂れ流していた。今までは部活があったからそれなりに忙しい夏休みではあったものの、早々に引退をしてしまったので例にないほど予定が空いている。代わりに塾の夏期講習がみっちり入っているが、最初から未分相応なレベルの大学を目指していたし、このままのペースで着実に積み上げれば、第一志望にも手が届きそうな範囲にあるので大きな焦りもなかった。
 聞きなれたチャイムが放課後の、つまり夏休みの開始を告げると同時に、周囲はざわざわと喧しくなる。椅子を引く、床の擦れる音。机の脚の金属に鞄の金具がぶつかる音。あちこちからガチャガチャ聞こえるたくさんの話し声の中に混ざって、聞きなれた声に俺の名前も呼ばれる。
「原ぁ」
 見ると、長袖のワイシャツを腕まくりした檜垣が、夏休みの課題一覧が記されたプリントを片手に、気怠そうに近付いてくる。目が合うと、俺の返事も待たずに話し始めた。
「英語の課題、一緒にやらね? 戸塚も誘ってさ」
 英語の課題。
「あー、洋書一冊訳す? やつだっけ?」
「そ!」
 檜垣は、舌打ちでもしそうな勢いで悪態をつく。
「三年のこんな時期にバカみたいなコストの課題出すなんて気ィ狂ってんだろ!」
「たしかになあ」
 他の教科のほとんどは、受験勉強に専念するように、と、課題はなし、あるいは提出する必要のない自学自習のみの指示だったが、英語だけは、夏休み明け提出必須の、しかもそこそこ労力の必要な課題が提示されている。それが発表された時には、当然に、そこかしこから愚痴と文句が聞こえてきていた。英語担当の坂本先生は、年齢相応に、友情とか根性論とかが大好物のあまりイマドキではない女性教師で、多分、高校生最後の夏休みに友達と協力して課題をこなす、というテーマを、本当によかれと思って持ってきたのだろう。そんなようなことを、その精神性と同じように前時代的なパーマをあてた風貌を思い描きながら考えた。
 檜垣は、席で荷物をまとめている途中の戸塚を呼び止める。戸塚は、いつもの柔和な笑顔で、俺たちの提案にすぐ乗っかってきた。相変わらず口の悪い檜垣の、とめどない文句に笑いながら。
「いっそペラい絵本でもやったろかな、エーゴで書かれてんならいいだろ」
「いやぁ、そんな屁理屈こねて。坂本先生、キレると面倒だよ。まだ児童書とかならいいかもだけどさ」
「ヒスババア」
 あはは、と、戸塚が笑う。こらこら、と一応注意はしているが、内心、同じように思っているのだろう。
 檜垣は、色々ハッキリ言う方だから誤解されがちだと思うのだが、こう見えて根は真面目なので、課題をサボる方向にはいかないし、なんだかんだ手を抜かずにしっかりやるのだと思う。戸塚は、いつものように、ヒートアップしそうな檜垣を穏やかに宥めている。そんな様子を見ながら、ふと思いつく。

「あー、あのさ」
「ん?」
「碧羽も、誘っていい?」

 視界の端に捉えた席には人影がなかったが、まだ鞄が机の横に下がったままだ。今までの様子を思い返すに、トイレに席を立っているのか、図書室に本を返しに行っているかのどちらかだろう。
 檜垣は、俺の申し出に対して、さも面白そうに笑いながら言う。
「へえぇ、そう? ふぅん?」
「ウザイって」
「あの原クンが? 波風立てない代表の?」
「ねえ」
 完全にからかう気満々の、檜垣のニヤニヤ顔が鬱陶しい。戸塚はそれすら、まあまあ、と宥めながら言った。
「僕は全然いいよ、人手は多い方がいいし」
 ちょうどそのくらいのタイミングで、碧羽が教室の後ろ扉から戻ってきた。タオルハンカチで手を拭いながら歩いていたので、トイレの方だったかもしれない。いつも通りのムスッとした顔をして、少し猫背になりながらまっすぐ自分の席に向かっていくところに、なんの躊躇いもなく檜垣が声をかける。
「アオバ? ちょっといい?」
「──え」
 まさか話し掛けられるとは思っていなかったようで、碧羽は一瞬反応に詰まり、足を止め、訝しげに檜垣の顔を伺った。その後、戸塚を見て、隣にいた俺の方に視線を留めると、まるで犯人を見つけたとでも言うように、ス、と目を細め睨むようにした。
 檜垣は、そんな碧羽の様子にはお構いなしで、なんの前置きもなくさっさと本題に入る。
「英語の坂本のクソ課題! 手分けしてやろうって話」
 一緒にどう? と訊ねられ、碧羽は目を白黒させた。露骨に動揺する碧羽を見るのは、記憶の中でも結構レアかもしれない。多分初めて見る表情だ。
 碧羽は、意外にも、少しも迷わずに返事をした。
「あ、うん……、いいの?」
「よくないなら誘わなくね?」
 檜垣はしれっとしている。こういうところが憎めないよなあと思う。気を遣わないストレートなところが、いいところだ。戸塚も、よろしく、と碧羽を受け入れた。もちろん俺も、頷くように会釈をする。碧羽は、相変わらずの表情で斜め下に視線を逸らした。その拍子に、黒髪から透ける耳が真っ赤になっているのが見える。どき、とした。無愛想に見えて、照れているのか、と気がついたら、なんだか、無性に──
「今日この後暇なら作戦会議する? 近場の店でついでになんか食べよ」
 ──戸塚の声で、思考は中断される。
 たしかに、今日は終業式だけで早帰り。弁当の時間もなかったので腹は減っている。檜垣も同じだったようで、二つ返事で了承した。
「そうするか。二人は?」
 尋ねられて、即答。
「行ける」
「お、俺も」
 碧羽は、少しだけ上擦ったような声でそう言った。相談とも言えぬ相談によって、場所は、駅前のファストフード店ということになった。檜垣は自転車通学だ。駐輪場は校舎裏の、少し奥まったところにあるので、現地で合流ということにして先に昇降口へ降りていく。戸塚はバス、碧羽と俺は電車通学だが、戸塚は職員室に提出するプリントがあるとかで、一時別行動。道案内がてら、先に俺と碧羽が店に向かうことになった。



 廊下もなかなかに蒸し暑かったが、外に出た瞬間、ギラつく太陽、むわっと重量のある熱気、湿度──目眩のするような夏に圧倒された。朝からうんざりするほど暑いが、その朝よりも暑い。本番のさらに本番みたいな、真昼間の灼熱にそれだけで息切れしそうだ。
 ミーンミンミンミン、ジー、と、けたたましい蝉の声が、交互に、あるいは混ざり合って耳に突き刺さってくる。青空も、白い入道雲も、わさわさした濃い緑の葉も、乾燥した木の幹まで、全ての色が濃くて、眩しくて、元気だった。
「あっつー……」
 思わず呟く。碧羽も、横でワイシャツの襟元を前後に動かして、申し訳程度の風を起こし、身体に送り込んでいる。
「早く行こ。涼みたい」
「だなぁ」
 太陽が真上にあるから、日陰も全然ない。
 汗がすぐ、こめかみから頬に伝う。ベタつく。

 なんとなく、碧羽に来年以降の話をするのが怖かった。心のどこかで、過去にそうだったように、碧羽がまたいつの間にか、俺の前から消えて無くなってしまうのではないか。そう思っていたのかもしれない。頭の片隅では気になりつつも、なんとなくその話題を避け続けていたのだが、暑さにぼうっとする思考を利用して、勢いに任せて振ってみる。
「碧羽は、どうすんの」
 進路とか、と言った声が、喉に引っかかって掠れていて、自分のビビり加減に少し笑ってしまった。
「あー」
 碧羽は、気怠そうに斜め上を見上げた。忘れられたアスファルトの上を、熱が揺らめいた。男にしては少し長めの髪の毛が、耳元とうなじをサラリと撫でた。あまり汗をかいていないように見えて、なんだか、俺とは違う生き物のように、感じた。
「まあ、フツーに就職かなあ」
「え」
 想定外の返事に固まってしまう。
 まさか志望校が同じだなんて奇跡は信じていなかったが、てっきり大学進学するものとばかり思っていた。そんな、虚をつかれたようにする俺を横目で見て、碧羽は、またいつものように、ハ、と笑った。
「なにぃ? そのカオ。高卒で就職するヤツなんてこの世に存在しないと思ってた?」
「い、いや、そういう訳じゃないけど」
 でも、たしかに、うちの高校はほとんどが四年制大学に進学するやつらばかりで、確かに周りで就職する話は聞かない。そもそも碧羽は、いつも熱心に勉強をしていたから、なにか目標があるものかとばかり思い込んでいた。
 しどろもどろになる俺に、碧羽は、また意地悪く、そして眩しく笑う。意思の強い瞳は大きくて、上がる口角の端から覗く八重歯が、いたずらっぽく転がった。
「そりゃそうでしょ。ただでさえ金食い虫の面倒事なのに、大学行く金なんて父親にせびれないもん」
 ざわ、と、こころの奥が疼く。軽いトーンで自嘲する碧羽の、この話し方が俺は好きではないな、と、気がついた。聞いていて胸が苦しくなる。碧羽は、そんな奴じゃないのに。だって、あんなにちゃんと勉強していたし。親、親は普通、それをして当然なのではないか、でも、碧羽は。わかんないけど、そんな酷いことを言わないでくれ、って。
 と、いうか。
「今、お父さんと住んでるんだ」
「え? うん」
 あ、と、碧羽はなにかに気がついたように、俺の顔を覗き込んだ。
「さては、なぁんか変な噂でも聞いた?」
「えーと……」
 奈央との会話を思い出しひとり気まずくなる。碧羽は、そんな俺の様子など気にする素振りもなく、いーけどね、と、いつもの調子で続けた。
「母親たちと──、母親と祖父母と住んでる間も、父親とは定期的に連絡取り合ってたし」
 そう、か。そういうこともあるのか。
「……いつでも面倒見るとは言われてたんだけどね」
 俺もそんな体力はなかったんだよね、と、碧羽は少しだけ悲しそうに言った。
 体力、というのとか、状況とか。俺にはよくわからなくて、うまく想像もできなかったが、碧羽が苦労をして、なにか俺には分からない色んなものを乗り越えたりして今ここで生活しているらしいことは、伝わってきた。
 多分、俺には知る由もないような人生を送っている人は、思ったよりもたくさんいて、それは遠くの話じゃなくて、俺は今も今までも、すごく狭い『ふつう』の中で生きてきた。そういうことをぼんやりと感じて、また微かに、世界の姿が変わった気がした。

「──学生と社会人だと、やっぱ休みとか合いづらくて、会いにくいかな」

「えっ」
 ぽつりと漏れ出た俺の言葉に、今度は、碧羽の方が固まる番だった。
「どうした?」
 なにがそんなに、と尋ねると、碧羽は我に返ったようにはたとし、大きな目を猫みたいにまん丸にしながら俺のことを見た。
「……高校卒業したら、もう会わないかと思ってた」
「えっなんで!」
 確かに毎日教室で顔を合わせる今と比べれば、頻度はかなり落ちるだろうが、それは会わない理由にはならないと思う、けど。
 碧羽の思考回路がまるでわからず、首を傾げ続けていると、碧羽は、物分りの悪い俺に、突飛な答えを教えてくれる。
「俺なんかに会わずに済むようになって、せいせいするのかと」
「なにそれ、めっちゃ性格悪い奴じゃん……」
 碧羽の中の俺ってそんななの? と尋ねると、碧羽はふいと向こうを向いてしまった。

 見慣れたチェーンのハンバーガーショップ。店内は学生含め様々な属性の人で賑わっていて、中には俺らと同じ制服を着た集団もちらほら見受けられた。ざっと見た感じ、知っている顔は無さそうで、別学年のやつかもしれないなと思った。
 スマホを見ると、戸塚から、昇降口でたまたま檜垣と合流したので今から向かう、という内容のメッセージが届いていた。受信時間は、三分前。いくらも経たないうちにあいつらもこの店に到着するだろう。
 混雑の中、店内に目を凝らしていると、ちょうど席を立つ女性三人組がいたので、近づきすぎないようそっとそちらに寄った。席は、ギリギリ四人でも座れそうな広さをしていて、女性客が鞄を持って退いた瞬間に、自分のリュックを椅子に置いた。
 席空いてたから取ってある、と、戸塚に返事を送る。碧羽は、そんな俺を少しだけ遠巻きに見ながら、様子を伺って、寄ってきて、おずおずと俺の向かいの席に自分の鞄を置いた。
 レジには、おそらくテイクアウトの人も合わせて数人の客が並んでいたが、そもそもファストフード店なので回転率はそう悪くないだろう。このまま戸塚たちを待ってもよかったが、何も頼まないまま席だけ確保しているのはやや居心地が悪く、先に注文してきてしまおうか、と思う。
「碧羽、何にする?」
 よかったら俺が注文してきちゃうけど、と言うと、碧羽は言葉に詰まるみたいにぐっと動きを止めた。
「え、ひとりにすんの?」
 身長差が少しあるからか、立って向かい合うと、碧羽はちょうど上目遣いみたいになって俺を見上げた。下まつげが長い。少し心臓がドキッとするのを誤魔化して、目が上方向に泳いだ。
「や、あのー、一応荷物見といた方がいいかな、みたいな……」
「いーじゃん、誰も取らないよ、日本だもんここ」
 そう言いつつ、碧羽は、やたらそわそわしている。
「取られて困るもんも、ないし……」
「いや、あるだろ」
 学生証とか、と言うと、碧羽は何故か不貞腐れた。本当に、なぜ。
 どうしたらいいのか分からずに困惑していると、檜垣と戸塚が現れたので、よっと手を挙げて呼び寄せる。
 ほっとする。助かった。これでどうにかなりそうだ。先に注文してくるから荷物を見ていてほしい、と頼むと、当たり前に了承される。
「二人も決まってるなら代わりに買ってこようか?」
 さっき碧羽に尋ねたのと同じように伺うと、メニューを見て決めたいから自分で行く、と断られた。さっきの俺、やっぱ変なこと聞いてないよな? 自然なやり取りに安心しつつ、まだ少し不貞腐れたままの碧羽と連れ立って、一緒にレジの方に向かう。やや気まずい。
 レジは二列。それぞれに三人ずつくらい並んでいたが、商品受け取りのためにそこに留まる人もいたから、実際よりも混雑して感じた。掲示されているメニューを見ながら、新商品に目移りしつつも、結局いつも頼むものにしようと決めた。こういうときにあまり冒険できないタイプだ。
「俺は、ダブルバーガーとポテトドリンクセットにしようかなー……」
 独り言にしては大きく、会話にしては小さい声で、宙に向かって言ってみる。隣を盗み見ると、碧羽は、聞いているのかいないのか、メニュー表を少し強ばった表情で見つめていた。周りはガヤガヤしていたが、この絶妙な沈黙が落ち着かなくて、ついベラベラと喋ってしまう。
「テリヤキ系って結構人気だけど、俺、ハンバーガーだとあんまりなんだよな」
 碧羽の返事はない。
「期間限定とか、美味そうって思うけど頼まないまま終わるんだよなあ」
 無言。
 えーと。
「ドリンクはついオレンジジュースにしちゃうんだけど、やっぱ、お決まりみたいなのあるよね」
 目も合わない。
「あー、碧羽は、そういうの、ある?」
 我ながらつまらない質問だなと思ったが、そう振ってみると、碧羽は俺の方をすごい勢いで向いて、ギッと睨みつけながら小声で怒鳴った。

「──っ、ねぇよ!」

「お、おぉ」
 勢いに一瞬気圧されてしまうが、なるほど、さっきまでの挙動不審な様子はそういうことか、と合点がいった。
「ハ、ハンバーガーなんて滅多に食ったことないしっ、友達とこんな店来たこともない……」
 ごにょごにょ小声で続ける語尾が、消え入りそうになっている。碧羽は、自分が状況にそぐわない反応をしたことに遅れて気がついたようで、俺からスっと目を逸らした。
 ふと、過去にもあーちゃんが突然怒り出すことがあったことを思い出した。今思えば、あれはあーちゃんのなにかコンプレックス的なものを刺激してしまったときの、癇癪みたいなものだったのかな、と今更わかった。家庭環境に依ることで、思うところもあるのだろう。不用意なことを言ってしまったかもしれない。ごめんごめん、と宥めつつ、落ち着かせるために背中を軽くぽんと叩いた。
「ただ注文言うだけだし大丈夫だって。決められなかったら俺と同じのにしよう」
 碧羽が気まずそうに、ウン、と呟いた声は、意地っ張りに小さくて、いっそ聞こえないくらいだった。
 先に俺の番が来て、ダブルバーガーとポテトMサイズ、オレンジジュースのセットを注文する。会計を済ませて商品受け取りのためにカウンター横にズレると、次は碧羽の番だ。
 碧羽は、おずおずとした感じで、一番プレーンなハンバーガーと、セットにメロンソーダをくっつけた。何かあったら助けに入れるよう近くで聞いていたが、碧羽は少し緊張しているようで、身が固くなり、オーダーを告げる声もいつもより少し高く透き通って感じた。支払いのときにはあの財布を取り出していて、──そこにはまだ俺の手紙とシールが入っているのかな、と思った。
 いくらも待たずに注文の品は完成する。トレイを受け取り、一緒に友人の待つ席に戻る。
「なんてことないだろ?」
「……」
 席の近くに着くと、檜垣と戸塚が、居場所を知らせるみたいに手をひらひら振った。俺らと入れ違いになるように、財布やスマホだけ持って、荷物は置いたままレジの方に向かう。俺は、この後やってくる二つのトレイ分を考えて、狭いテーブルのギリギリにそれらを置いて、椅子に座る。碧羽も同じようにした。

 何を言うでもなく、雑踏の中、ぼんやりした時間が過ぎる。

 碧羽は、相変わらずの──かわいい顔で、机の中心、あるいはトレイの上をじっと見つめていた。
 きゅっと閉じたくちびるが、たまに、唾を飲み込んでいるのか、きゅむ、と動くのが。
 肌荒れひとつないすべすべの頬に、耳にかけたところからこぼれ落ちた髪の毛が、かかっているのが。
 長いまつ毛の伏せられた影が、目の下におりているのが。

「ポテト食べたい、ちょーだい、それ」

 碧羽の唐突な一言で、我に返った。
 見ると、碧羽は、んあ、と口を開けて、俺のトレイに乗ったポテトを、その細い指でさした。お行儀よく並んだ歯、赤い舌がちらと覗いた。
「……自分でも頼めばよかったじゃん」
 つい浮かんでしまった邪念を振り払うようにたしなめると、碧羽は悪びれる様子もなく呟いた。
「ひとくちとかでいいんだもん」
 あ、と口を開いて、ポテトを待ち構える。
 俺は、唾を飲み込んで、迷い、ポテトをつまんで碧羽の口元に持っていく。碧羽は、ふれあいコーナーのうさぎのように、俺の手からポテトを奪い去った。
「ん、うま」
 もぐもぐと咀嚼する。そのあと、メロンソーダを一口啜った。
 俺の親指と人差し指に、油のぬるつきと塩の粒が残った。紙ナプキンで拭こうかと思ったが、もったいなく感じる。かといって、自分が舐めとるのはなにか、いけない気がした。同時に、碧羽がこの指を舐めとる様をありありと想像してしまって、本当によくなかった。
 よこしまな気持ちを押し込めるように、ガサガサと紙の包みを剥がし、無言でハンバーガーにかぶりつく。肉の味がする。濃い味のバーベキューソースでひたひたになったキャベツとパンが、包みごと掴んだ親指に触れた。
 遅れて注文をしに行った二人がトレイを持って席に帰ってくる。檜垣に、先食ってんのかよ、腹減りすぎだろ、と笑われた。確かに、そうだよな、待っててもよかった。



「でも、こんな中途半端な時期に転校なんて大変だったんじゃない? 制服とか新しく揃え直しでしょ?」
 まずは腹ごしらえ、と各々ハンバーガーに齧り付きながら、戸塚がそんなことを言った。俺はまだ半分くらいしか食べていなかったが、戸塚は二個目のハンバーガーの包みを開け始めている。弁当を見ていても思うが、意外と大食いなんだよな。
 碧羽は、突然話を振られたことに少し驚きつつ、メロンソーダのストローをくわえたながら返答した。
「あ、俺、元々通信だから、制服とかなかったし」
 へえ、という戸塚の反応の続きを待たずに、続ける。
「まああんたらは通信高校とか知らないと思うけど? そんなもん知る必要もないもんね?」
 いつもの、小馬鹿にしたような笑い方。
 実際よく知らなかった、けど。だから、碧羽の言うことは正しいんだけど。
 言い返せないながら、心がちくりとザワついた。これは、別に碧羽の物言いに傷付いたのではなくて、見下すような視線にムカついたのでもなくて──そう、碧羽は、誰かをバカにするようなフリをして、いつもそうやって自分のことを貶めるから、それが、嫌で。いやだった。
 嫌なのに。でも、俺には何も言えないで黙っていると、檜垣が、溜まりかねたように言った。
「お前さあ、そのとりあえず煽って喧嘩売るクセマジでやめろよ! だから友達できねぇんだろ」
「なっ」
 碧羽は、耳をカッと赤くした。檜垣は、本気で怒っているわけではなさそうだったが、かなりハッキリと碧羽を非難した。ちょっと、と思う。これからグループで協力して課題をやりましょうと言っているのに、どうして、そうやって喧嘩みたいな真似するんだ。
 その空気を和ませるように、戸塚が、ボソッとおちゃめに呟く。
「檜垣だってすぐ煽って喧嘩売るじゃん」
「うるせっ」
「痛っ」
 檜垣が、机の下で戸塚の靴を蹴った拍子に、ファストフード店の小さいチープな机が、誰かの足に当たってガタンと揺れた。少し、場の雰囲気に区切りがつく。気を取り直して、という具合に、檜垣は真っ直ぐに碧羽の目を見て言う。
「あんな、卑屈なのは勝手だけど、人のことバカにすんのヤメロ」
 碧羽は、その言葉を受けて、露骨に嫌な顔をしながら檜垣を睨みつけた。取っ組み合いでも始まるんじゃないかと思って、俺は内心気が気でなかったが、戸塚だけが困ったように笑いながら、まあまあ、と二人を宥めている。碧羽が負けじと言い返した。
「ハア? あんたに何がわかんの? そう見えて熱血系?」
 檜垣は、その煽りには乗らなかった。はあ、とひとつだけため息をついて、やはり、碧羽のことを真っ直ぐ視界に捉え続けた。
「俺は弟が通信通ってるからわかる。全日に編入なんて相当勉強頑張ってたんだろうなとも思う。そういうところはエライしスゴイ」
「な、そ、そう」
 突然の褒め言葉に、碧羽は拍子抜けした様子で、動揺している。てか、そうなんだ。檜垣の弟って通信高校なんだ。初めて知った。
「かといって俺のことバカにするのは許さん。お前だけが苦労してんじゃなくて、人にも人の事情があんだよ。謝れ」
 やや上から目線にも感じるが、檜垣のあまりに堂々とした態度に、さすがの碧羽も少しトーンダウンをしたようだった。興奮して血気盛んになっていたところから少し落ち着いて、少しだけ気まずそうに小声で言った。
「……ご、ごめん」
「よし」
 檜垣は、うん、と頷いた。頑固オヤジみたいに。
 もうその話は終わったと言わんばかりに、話題は英語の課題の話に流れた。決着がつけば引き摺らないのは、檜垣のいいところでもあると思うのだが、俺のように切り替えるのが苦手なタイプの人間からすると、少しドギマギしてしまうところはある。
 戸塚はいつものことだとさして気にしていなさそうだったが、碧羽の方は、しばらく檜垣の表情をちらちら伺っている様子だった。やがて、どうやら本当に檜垣がもう気にしていなさそうなことがわかると、少しずつ話し合いに参加し始めた。
 スマホで検索し情報を集めつつ、どの本を選ぶかはすぐに決まった。いかにも坂本先生が好きそうな、あたたかい友情のえがかれた児童書だ。分量もちょうどいいし、子供向けであればそこまで難解な文法や単語は使われていないだろう、という打算もあった。訳すときの表記ズレを防ぐために、同じ出版社から出ている本を、買うなり借りるなりでやっていこう、ということで、話は無事にまとまった。

「じゃあ、ひとまずページで分担して……、各自わかんないとこあったら教え合う感じでいいか」
「うん、いいと思う」
 最終決定が共有される頃には、ハンバーガーもポテトも空になっていた。ドリンクの細かい氷も半分以上溶けて、薄味の水がストローをズズと鳴らした。
「じゃ、グループ作ろう。アオバ」
「え? あ」
 連絡取れないと不便だろ、と、檜垣がスマホを差し出す。碧羽は、先程の一件で懲りたのか、少し気まずそうにしながらも、特に言い返すこともなく素直に従った。戸塚もそこに続く。
 一緒に課題をやるのだから、連絡先を交換しないとそりゃあ不便だ。頭ではわかっていたが、碧羽のスマホに俺以外のクラスメイトの連絡先が登録されることに、少しモヤモヤした。俺だけが、碧羽の連絡先を知っていて、俺だけが、碧羽が学校を欠席したときに力になれる。そんな状況に、多少の優越感を感じていたらしいことを自覚して、その薄汚さみたいなものに、また少し嫌気がさした。

 時間もいい時間だ。各自トレイを返却して、帰路に着く。碧羽は、俺の動きを見よう見まねで、ゴミをゴミ箱に分別して捨てた。
 檜垣は自転車なので、店前で別れた。バス停と駅は方向が同じなので、途中までは戸塚も一緒に帰ることになった。檜垣の姿が見えなくなってから、蒸し暑い中をだらだら歩き始める中で、戸塚は言った。
「アオバくん、ごめんね? 檜垣ってやっぱああいう奴なんだよ」
 眉根を下げて、へら、と困ったように笑うのは、多分戸塚のクセなのだと思う。碧羽は、そんな戸塚のことを見て、また目を逸らしながら、ボソッとぶっきらぼうに言った。
「……わかってるよ」

 他愛のない話をしながら少し歩いて、分かれ道で戸塚はバス停の方に進んでいった。碧羽と二人きりになる。今は少しだけ陽が傾いていて、直射日光が肌をじりじりと灼くような痛さは感じないものの、やはり真夏の暑苦しさを含んだ空気と高い湿度に、蒸発する行き場を失った汗が体内と表面にこもっていた。

「えっと……」

 無言が少し気まずくて、声をかける。碧羽は、視線をこちらに向け、それだけで呼びかけへの応答を表現した。
「なんか、ごめん。無理やり誘うみたいになっちゃったかな」
 転校初日のことを思っても、碧羽はあまり誰かとつるみたいタイプではないのだろうと思っていたし、自分の都合で、断る暇も与えずに誘ってしまったことに罪悪感を感じる。
「や、そんなことない」
 碧羽は、少しだけいつもより小さな声で言った。
「俺も、一人でやるの大変だなと思ってたし」
 そう付け足す。
 そうか、迷惑にはなってなかったのか。
 安心すると、少し気が抜けて、同時に思い出したことがあった。
 いくらも経たずに駅に到着すると、退屈な灰色の階段を一段飛ばしで上っていく。混雑という程でもないが、人影がちらちらある改札を抜けて、今度はホームに降りるために、さっきとよく似た風貌の階段を下っていった。
 碧羽とは、路線は同じだが、逆方向の電車に乗ることになりそうだった。同じホーム。向かいの線路。どちらに寄るでもなく、中央にある駅名の書かれた看板の辺りに佇んでいる。ちかちか光っている電光掲示板を見ると、お互いの電車は数分差でやってくるようだ。俺の方が早く乗車することになる。

「そういや、この前、すごい久し振りに、あの公園を見に行ってさ……」

 何を話すでもなくただ黙っていた中で、先程思いついた話題を放り投げた。碧羽は、ぼんやりただ線路を見ているようにして、耳だけでそれを聞いている。俺も、碧羽が見ている辺りを一緒になって眺めながら、また独り言のような会話を続けた。

「なんか、色々変わっちゃったなって思って。あーあって感じだったけど」

 あの、郷愁を。寂しさを。
 碧羽となら、分かち合えるのだろうか。

「でも、変わんない場所もあってさ」

 あの、たまらなかった日々は、碧羽には、どう見えていたのだろう。

「今度、一緒に行こうよ」

 決定的なお誘いの言葉と同時に、ホーム上には電子音のメロディが響き、続いて男性の音声で電車の到着が案内された。
 碧羽は、俺のことを、どこかきょとんとした表情で見つめた。

「……デート?」
「デっ」

 デート? なのか? この場合?
 あー、と、ひとまず唸る。

「碧羽が、デートって思うなら、それで」

 おずおずと申し出ると、碧羽は少し眉を寄せて、その後、ふっと吹き出すように微笑んだ。
「……ズルいヤツってこーいうことか」
「なにそれ、誰かに言われた?」
「別にぃ?」
 アハハ! と笑いながら、謎に背中をどんと叩かれる。思いのほか勢いがあったので、バランスを崩して少し前につんのめってしまう。ちょうどそのくらいのタイミングで、アナウンス通りに電車が到着した。ホームには、ゴーッと線路が軋む音と同時に、それなりの強風が吹きつけた。

「いいよ。行こ」
 碧羽の笑顔は、かわいかった。

 電車に乗って、空いていた椅子に座る。パラパラと鳴り響く発着ベル。扉はすぐに、プシューっと大きな音を立てて閉まった。窓から、既に向こうを向いて、自身が乗る電車を待っている碧羽の後ろ姿が見えた。じきに動き出す電車。慣性で身体が少し傾く。そうやって一人になって、ゴトゴト電車に揺られようとも、いつまでもこの混乱は落ち着きそうになかった。