塾の自習室を解放している、そのめいっぱいの時間まで居座って、今日進める予定だった単元までの問題集を解き終えた。同じ部屋にいた数人の仲間、あるいはライバルたちも、机の上に拡げていた参考書をバサバサと鞄に投げ入れて、帰る準備をしているのが気配でわかった。駅前のビルの四階。窓には、生徒の気を散らさないためか常にブラインドがかかっていて、その近くの席に座ると長年こびりついたような細かい埃が見えた。エレベーターの混雑を避けるように、みんなが少しずつ譲り合って外へ出る。いや、譲り合っているともいえるし、動向を伺って警戒しているようにもいえる──。
もう夜の九時をとうに回っているというのに、外はまだ若干蒸し暑く、昼間に熱され続けたアスファルトがその温度を発散できる場所を見つけられないまま、べったりとした熱気を携えていた。名前も知らない虫の声が、そこかしこから聞こえる。冷房で冷えていたはずのワイシャツが、すぐにぬるくなって汗ばんだ肌にはりついた。背負っていたリュックの、背中に当たる部分は通気性のいいメッシュ素材なのに、逃れようのない熱がこもっている。年々、夏の訪れはどんどん早くなっているように感じる。燻った熱を抑えきれないみたいに。
なにか特別に感じる出来事を自分が体験したときに、その日眠りにつくまでは世界が変わったみたいな高揚感があるのに。朝起きるとそれが夢だったみたいにぼやけてしまうのって、どうしてなんだろう。はやる気持ちだけが取り残されて、少しの気まずさともの寂しさを覚えながら、結局ただ、息をしている。
あれ以来──碧羽の財布を拾ったあの一件以来。
特段距離が縮まったとかそういうことはなく──、俺と碧羽は、一定の距離感を保ちながら、教室の、あくまでその一員として過ごしていた。転校当初こそ珍しいニュースとゴシップに躍起になっていたクラスメイトも、流石に自分の人生の方が重要なのか、あるいは、流れの早い現代で話題も早々に飽きられて、むしろ埋もれるくらいだった。
碧羽は、大抵、かなり早い時間に登校していたみたいだった。俺が教室に着く頃には、いつも自分の席にいて、何をするでもなく窓から外を眺めているか、机に伏せて眠るようにしていた。俺は、ある程度人がいて賑やかな教室に入ると、まずリュックを下ろし、自席の椅子を引きながらそちらを横目で見て、たまに目が合う日には、おはよ、と小声で挨拶しながら頷くように首を傾げた。碧羽は、斜め下に視線を下げながら、口の動きだけで、オハヨ、と返した。
それだけ。
碧羽が学校を休んだ日には、いつもよりもノートを真面目に取った。人に見せても恥ずかしくない文字で書く。普段は使わない赤ボールペンとかも使って、熱心な勉強家のノートには遠く及ばないだろうが、俺なりに、教師の話も注意して聞いた。目標も定まらない今、勉強にもなんとなく身は入らず、タスクをこなしたところで頭に定着しないから成績も伸び悩んでいたが、誰かのためと思うと少しやる気が出た。不思議なものだ。その日のうちに、ノートの写真を撮って、それだけを無言で碧羽に送り付けた。碧羽からは、いつも、ありがとう、と一言だけ律儀なお礼が送られてきた。
それだけ。
体育のペアは、相変わらず檜垣と組んだ。碧羽はいつも余っていて、ひとりでその場をやり過ごしていた。昼休みは、ふらっとどこかに行くことが多かった。でも、俺は、教室で檜垣と戸塚と食べることがいつもだったから、別に追いかけなかった。放課後、早々に荷物をまとめてすぐ教室を出ていく碧羽に、じゃ、と小さく右手を挙げると、碧羽は一応左手を小さく振って、でも足も止めずにスタスタ歩いていった。
それだけ。
たったそれだけの小さな変化が、何故か日常をいつもと違うものに作り変えていく。
不特定多数、膨大な365が、集団からひとつひとつ、色と温度をもっていく。
久々に訪れた例の公園は、夜遅い時間だからというのを差し引いても、記憶よりも小さく、閑散としていた。数本立った街灯に照らされて、ちらちら羽ばたく小さな蛾が数匹見えた。
幼稚園生の頃よく遊んでいた公園。毎日のように通った場所。
碧羽が、何も言わずにいなくなってしまってから、なんとなく足を踏み入れる気になれず、存在すら忘れていた、ここ。
おぼろげな記憶の中では木製だったはずのシーソーは、カラフルなプラスチック製のものに取り替えられていた。座る場所にはうさぎの形をした飾りがあしらわれていて、色合いも相まってかなりポップな仕上がりだ。ブランコに至っては、撤去されて跡形もなかった。事故でもあったのだろうか。鉄棒は多分そのまま。でも、支柱の部分はペンキを塗り直しされたようで、かなり目を惹く鮮やかさが異質だった。ちょうど街灯の下にあって、照らされているからテカっていて、余計にそう見えたのかもしれない。滑り台は、変わらない。階段を上った踊り場みたいなところの三角屋根に見覚えがあるし、滑る場所の金属も、ところどころへこんで傷ついて、鈍い風合いになっているからきっとそうだろう。他が変に新しいから、やけに古ぼけて感じた。
砂場の場所は変わっていなかったが、本当に、思ったよりも小さく狭かった。砂場からは遠くにあると思っていた水飲み場付きの水道は、今の俺なら大股三歩で辿り着きそうなくらい近かった。
外周を囲むように生えている木は、伐採されて切り株になっているものもあったが、未だ大きく元気に生い茂るものもあった。生垣に咲いている名も無き白い花に見覚えがあって、言いようもないほど懐かしかった。石ですり潰すと白い泡が出るから、石鹸を作れるんだってあーちゃんが言っていて、俺も一緒になって石鹸工場ごっこをしたんだった。
木製のベンチに腰かける。木目はでこぼこに小さな穴が空いていたが、摩耗してか手触りはスベスベだった。リュックを背負ったまま、どさっと腰掛ける。温度はなかった。あるいは、体温と同じだから、感じなかっただけかもしれない。
ぼうっと空を見上げる。しかし、こんな住宅地では星など見えなかった。すっかり暗くなった空が、上から押し込めるように景色に重たく蓋をして、閉塞感があった。夜空よりも近い位置にある街灯が眩しくて、ふう、と目を閉じる。自然と人口。
ジー、とか、シャシャシャ、みたいな、謎の虫の声がずっと鳴っている。たまに、よその家から微かなテレビの音とか、しゃぼんと給湯器の風呂っぽいにおいとか、突然ニンニクの美味そうなにおいとかが、する。
あんなに一緒にいたのに、碧羽のことを何も知らない。だから、知りたい。そう思ったあの日から、考えて、まずは手がかりのありそうなこの場所を訪ねてみようと思った。
かつて、碧羽と毎日のように遊んでいたこの場所にくれば、何かを思い出せるかもしれない、何かがわかるのかもしれない、と、意を決してやってきたのだ。こんなただのちっぽけな公園に入るだけでごちゃごちゃ考えているのは、ちょっとバカバカしい。入ってしまえばなんてことはない、ただの公園なのに。
ああ。
色々、考えることが多くて疲れる。
答え、無いし。ほとんど。
なんか色んなことがわからなくてもやもやする。
そんなことを考えながら、どのくらいここでそうしていたのだろうか。
「もしかして、……桜太郎?」
突然名前を呼ばれて、ハッと目を開ける。
透き通るような、芯のある高い声。記憶の中の少女が笑う。
──あーちゃん?
いや、そんなわけない。碧羽のことをずっと考えていたからか、バカな勘違いをしてしまった。
声のした方を見ると、暗がりから制服を着た女子高生が近づいてくるところだった。ショートカット。あのリボンはうちの高校じゃないな、そもそも同じ高校に俺のことを桜太郎と呼ぶ人はいないし、いや、今はいるか、碧羽だけ、でも今は碧羽は関係ないし。
自分にこんな親しげに話しかけてくる女子高生の知り合いなど心当たりがなかった。しかも他校。他校の女子高生は塾で数人見かけるけど、会話があるほど面識もない。名前も当然知らないような仲だ。不審に思いつつ顔を見る。ざらつく脳みそ。引っ張り出す風景。街灯に照らされたその表情──記憶の奥底に、見覚えがあった。
「……奈央?」
奈央──岩田奈央は、あの頃よりも少し大人びた顔をして、手をひらひらと振りながら、あの頃と同じように笑った。
「めっちゃ久し振り! え、中学ぶりくらい?」
奈央は、小学校の同級生だ。確か、四年と六年で同じクラスになったこともある。スポーツ万能で、女子なのに徒競走でも毎回一位を取っていたのが印象に残っている。多分、当時はまだ男女混合だったと思うんだけど。休み時間にドッジボールをやるとなると、敵チームの男子総出で狙いに行くような、かなりの戦力であり、強敵だった。
中学も、お互い受験もしなかったので同じ学校に進学したのだが、その頃はちょうど、男子と女子が話しているだけでからかわれるような、かなり色めきだったしょうもない時代で、一年の頃は同じクラスだったのに、結局ほとんど喋らなかった。そのまま疎遠になってその後は、全校集会で、バスケ部の表彰のためステージに登壇したのを見たくらいしか、記憶がない。
奈央は、そういう長い時間とか、気まずさの心残りを一足飛びに飛び越えて、昨日も喋ったみたいなテンションでラフに話しかけてくる。なんだか俺も、その明るさにつられてしまう。
「桜太郎、いまどこ高?」
「桑北」
「へえ、桑北かあ。知り合いいないなー。あそこ駅近でいいよね。あたしも一瞬迷ったけどちょっと偏差値足りなくて諦めちゃった」
「正直駅近で選んだよ。……奈央は?」
「松川!」
松川高校? どこかで聞いたことがある。あ、そうか──
「吹部強いところだ」
「なんで知ってんの?」
「友達が吹部で」
へえ? とにやにや笑われたのを見て、これは友達を女友達か彼女かなにかと勘違いされているなと察しがついた。なんだか居心地が悪いので、きっちりと男だということを強調しておく。奈央は、ええ、と、少し驚いたような大袈裟なリアクションをした。
「男子で吹奏楽って結構珍しくない?」
「そうかな……」
考えたこともなかった。でも言われてみれば確かに、部活の男女比は圧倒的に女子が多い、か? 戸塚も実は肩身の狭い思い出もしていたのだろうか。あまりそういう風には見えなかったが。
奈央は、自転車を引いてこの公園の前を通りがかったらしい。背中には大きなラケットが、カバーをかけられ背負われていた。テニス部なのかもしれない。奈央も、俺と同じように、塾の帰りなのだと言った。英語が苦手でかなり苦戦していること、大学はスポーツ推薦を取りたかったけど逃してしまったこと等、奈央は俺が何も聞かなくともペラペラと自分の近況を話した。
かつての知り合いと、しかも、お互いに成長してから会うというのは、なんだか変な感じがした。今の自分を知らない人。自分も覚えていないような頃の自分を見ている人。
ふと、気がつく。
──奈央に聞いたら、碧羽のこと、もっと分かるんじゃないか?
俺の覚えていない碧羽のことを、奈央は覚えているかもしれない。当時、どうだったか。転校したあたりのこととか、俺の中でかなりあやふやになった記憶を補完できるかもしれない。
「あのさ、西島碧羽って覚えてる? 小学校同じの。途中で転校しちゃったと思うんだけど……」
細かく考えるよりも先に、口をついて尋ねる。唐突な問いにも関わらず、奈央はそのまま考えを巡らせるように頭を捻った。
「西島ぁ? 覚えてないなあ。うーん。男? 女?」
「男」
言った後に、はたとする。
「あ、いや、どうだろう、女……?」
「え、なにそれ」
碧羽は間違いなく男ではあると思うが、当時の格好が格好なので、奈央がどのように認識していたかわからず、曖昧な返答になってしまった。奈央は、そのくらい覚えときなよ、と、また少し勘違いをして、謎に引いている。冤罪だ。
「いや、あんまり学校来てなかったから覚えてないのかも」
しばらく思い出そうと奮闘してくれた奈央に、そう伝える。無理もない。俺だって、つい最近再会するまで忘れていたのだから。たかだか小学校の、しかも低学年くらいの記憶なんて、余程印象に残っていない限りは、思い出そうとしても思い出せないものだろう。
仕方ない──と思ったところで、また思い当たることがあった。転校初日の碧羽の言葉だ。
「あ、そうだ、もしかしたら苗字も違ったかもしれないんだけど」
苗字変わりすぎて、みたいなことを言っていたはず。親の離婚とか再婚とかで、当時の苗字と今の苗字が違うのかもしれない。変わりすぎて、ってことは何回が変わったのだろうけど、それがどういうことなのか、俺には上手く想像ができない。
奈央は、またひとつ少なくなった手掛かりに文句を言いながらも、さらに集中して、何かぶつぶつ呟きながら思い出そうと試みている。そんなに必死になってくれるなんて悪いな、と思いつつ、なんだか推理ゲームを楽しんでいるようにも感じられて、黙っていた。
「アオバ……、アオバねえ、うーん」
知らないなら大丈夫、と断りを入れようとしたところで、奈央は、ハッとしたように目を見開いた。
「清水? 清水碧羽じゃない? 思い出した!」
清水、という苗字に覚えはなかったが、奈央が言うならそうなのかもしれない。
「めっちゃフリフリのかわいいカッコしてた子だよね? 男の子なのに」
「──そっ、そう! それ」
クイズの正解を閃いたみたいに、脳が急にパッとひらけた感覚がした。電気回路が接続するように。うずうずしていた電球がちらつくように。同時に、俺以外の記憶の中にも、ちゃんと碧羽が生きていたことが、嬉しくも不思議だった。そう感じたときに、始めて、俺は幼い頃の碧羽が、俺の記憶の中だけにいるまぼろしだったかもしれないと、──そんなことを考えていたらしいと自覚した。
「男、か、そっか」
「あー、でも見た目が超女の子だったし、男の子だとは同じクラスじゃないと分かんなかったかも」
ランドセルも確かピンクか赤か、そんな感じだったし、と続けた。そうか、奈央は碧羽と同じクラスだったのか。
奈央も、呼び起こされた刺激に触発されたみたいに、連なって色々思い出してきたようだった。しみじみと呟くように言う。
「いたねえ、そんな子。懐かしいなー」
そのあと、そっと声を潜めた。
「いやなんか大変だったみたいだよ? お家がさー」
碧羽が、家がヤバイ、母親がオカシイ、と冗談めかして言っていたことが、目前に過ぎった。
女子って、すごく噂好きだ。教室でも思う、何をそんなに話すことがあるんだろって。なんだか、とにかくずっと盛り上がっている気がする。キャーとかワーとか言いながら、いっそ恐怖を覚えるようなネットワークでは、ありとあらゆる噂話が横行、あっという間に伝播していく。
奈央も例外ではないようで、俺の知らない、知る由もない情報を、そのままペラペラと語った。ドッジボールで騒いでいた頃よりも、かなり、女子だった。
「うちのママが言ってたけど。ほら、桜太郎覚えてるかな、うちって兄がいるからさ。清水さんとこも本当はお姉ちゃんがいたらしくて。うちとご近所だったから、ママ結構児童館とかで話してたみたいなんだよね」
胸の辺りが、じわ、と熱をもった。自分が知りたくて聞いたはずなのに、このまま聞いていいのか、今からでも奈央にストップをかけた方がいいのではないか、と、変な焦りを感じたが、結局、その流れてくるおとぎ話みたいな現実を、そのまま聞き続ける。あまりにフィクションのような大それたエピソードに、テレビドラマかラジオの話を聞いているみたいな、壁越しの心地がする。
「そんで、そのお姉ちゃんは赤ちゃんのうちに亡くなっちゃって」
奈央は、ここが注目ポイントだとでも言うように、少し勿体ぶった声のトーンでそう言った。
「すんごいお母さん体調崩しちゃったみたい。そこから全然見かけなくなってたらしいんだけど……」
姉が、いたのか。
「まだ赤ちゃんだったアオバくん? 連れてるとこにさ、ママが、かわいいですね女の子ですかーって声かけたら、なんも言わずに笑ってるんだって。ドレスみたいなフリフリ着てるからそりゃ女の子と思うよね。怖! あとでなんかで男の子ってわかったときゾッとしたーって言ってたよ、そりゃそうだよね」
それは、碧羽本人は、どう──
「男の子なのに女の子のカッコさせて育てるって、ギャクタイ? になるのかな? 本人が嫌がってないならいいのかなあ」
──重たい言葉にドキッとした。
俺にはなにも言えない。わからないから。
「ママが言うにはねー、清水さんちのお母さんは、本当に本当に女の子が欲しかったんじゃないかってさ。お父さんもよそに女の人作って出てっちゃったらしいけど、でも奥さんが狂っちゃったらしょうがないのかな。えー、でも浮気はあたし的には許せないけどさあ」
今どうしてんだろうねえ、と、奈央は他人事のように言った。
俺は、最近碧羽と再会したということを、奈央には言えなかった。俺らの事情もよく知らない人に、興味本位で根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だったのもあるし、碧羽という人をゴシップのネタとして消費させたくなかったのもあるのかもしれない。奈央だって、過去の珍しい思い出として距離を取って語るからそれができるのであって、本人が今の生活の近くにいると知ったら、多少の気まずさから、流石にそうはなれないだろう。
俺が頭の中で、まとまらない考えをごちゃごちゃ捏ねている間に、奈央の方はいつの間にかひと段落ついたみたいだった。
「そういや大輝と美優莉付き合ってるんだって! 知ってる?」
別のゴシップへの移り変わりが、激しくてまるで着いていけない。それは、俺が男だからかもしれないし、もう会わないだろう過去の級友たちに、さして興味を惹かれないからかもしれなかった。
色んなことが、かなり想像と過程でしかなくて、俺は、自分がどうしたいのか、余計によくわからなくなった。ただ、今、なぜかイライラしていることだけがわかった。イライラ? いや、むしゃくしゃ? とにかく、大きくて不快に寄った感情が、腹の奥の方で蠢いていた。何かに対してこんなにもやりきれない気持ちになるのは、ここ数年間の間でも、多分初めてのことだったと思う。
奈央とは、なんとなく話題の尽きたところで別れた。一応連絡先は交換したが、それは社交辞令のようなもので、余程のことがない限りメッセージを送ることはしないだろうと、たぶんお互い暗黙のうちにわかっていた。
手持ち無沙汰にスマホを見る。色々なアプリを開いたり閉じたりするうちに、メッセージのログを眺め、──ふと、近くに表示された目を惹く名前を見つめるけど、何か言うことがあるでもなく、結局閉じた。
ため息。
碧羽の知らないところで、勝手に碧羽の家庭の事情みたいなものを知ってしまった罪悪感と、その取り返しのつかなさに胸が痛んだ。
それらしいことを考えつつも、結局は俺もただの好奇心の言いなりになって、薄ら引いていたやつらと同じことをしている。そういう、自分への仄かな嫌悪には、あまり気が付きたくなかった。
翌日、登校すると、碧羽は学校を休んでいた。どんな顔をして挨拶したらいいのか、変にどきまぎしてしまいそうだったから、自分でも酷いとは思うが正直安心した。
自分は、こんなにも性格の悪い人間だっただろうか? 言い訳のように、碧羽のことを思って、ノートを一生懸命にとる。いつもの通り、部活動をこなして、塾に行って自習して、家に帰って風呂に入って、ラップのかけられた夕食をチンして食べて、自室のベッドにダイブ──する前に、リュックからノートを取り出して、机の上にひろげ、ライトが反射しないように調整しながら数枚写真を撮り、碧羽とのトークルームに貼り付けた。
少しも待たずに、すぐに返事が来た。画面に表示されたのは、いつもと全く同じ五文字だけだった。
【ありがとう】
見て、少し迷う。
ここから続けたら、また何かが変わるのか?
変わるのか。変えたいのか? わかんないけど。
【体調大丈夫?】
右手をすいと動かして、文字を打ち込んだ。
不自然ではないと思う。クラスメイトなら普通。
深く考えるとまたわからなくなりそうだったから、先に送信ボタンを押した。自分の元を離れて電波の海に放流されたメッセージは、すぐに碧羽のところに届いたようだった。
【あ、うん】
すぐ返事が来る。どきりとする。
碧羽も、いま、俺と同じように、自分の部屋のベッドで横になりながら、気怠さと少しの眠気をもって、スマホを弄っているのだろうか。やること、やらねばならぬことに追いかけられた忙しさの中で、暇と言えない暇を、だらけているのだろうか。
メッセージは、細切れに続く。俺の返事を待たずに。
【いま大丈夫になった】
【桜太郎から連絡きたから】
──な、んだ、それは。
意味を理解するよりも前に、想定外すぎる文字列に頭が停止する。俺から連絡きたら体調不良が大丈夫になる? どういうこと?
この場合、返事ってどうしたらいいんだろう。『よかった!』? なんか違くないか? 『OK』のスタンプ? 笑顔の絵文字? スルーするのはそれはそれで不自然だよな?
迷っていると、碧羽の方から続けてメッセージが届いた。
【え、本気にしたの?】
嘘、なのか、じゃあ。嘘ってか、冗談か。
いやでもなんか、確かに、あーちゃんってそういうとこあった気がするな。
こっちは一生懸命やってるのに、なんかいっつもキャッキャ笑いながら、からかうようなこと言ってさ。俺がすぐ真っ赤になるのとか、見つけると指さして笑ってた。
──アオバのこと、スキなの?
びっくりするほど鮮明に、当時聞いた声が、脳内で反響した。
天使みたいに、悪魔みたいに笑うあの子に、俺は。
ピ、とメッセージがまた表示される。画面表示が動くのを見て、一時的なタイムスリップからハッと我に返る。
【ちょっと、なんか言いなよ】
【無視すんな】
確かになにか返さないと。でも、なんて?
何も思いつかない。何か言わなきゃ。何も。言いたいことはたくさんあるはずなのに、多分ありすぎて、しかも全部がぐにゃぐにゃと曖昧な形をしていて、全然まとまらない。掴めない。そのうちにも時間は過ぎる。
迷って、迷って、なんかしなきゃと思って、また、考えるよりも先にとりあえず、通話ボタンを押した。間もなくスピーカーから鳴り始める呼出音が、遠巻きに、控えめに耳に刺さる。メッセージよりも会話の方がもう少しやりようがあるのでは、と思いつつも、やっぱり何を言うのかは思いつかないままだった。
心臓がドキドキする。ここ最近だけで、人生の鼓動を前借りしすぎて、寿命が縮んだんじゃないかって思う。自分からかけたのに、少し、出てほしくないような気持ちもあった。なぜかはわからない。話したくない訳じゃない。声を聞きたいような、でも怖いような、なんかもう、自分でも自分の行動の全てが意味不明だった。自分が自分じゃないみたいだ。説明できない感情や衝動が渦巻いて、俺の手足を乗っ取ったみたい。少し冷えた指先でスマホを引っ掛けながら、碧羽を呼び出し続ける画面を祈るように眺めた。多分そう長くない時間だったのだろうが、胸の辺りは冷たくなって、凍える寸前のような心地だった。
画面中央に表示された「呼出中」の文字がパッと消え、代わりに通話時間のゼロが表示されカウントアップを始めたとき、目眩がするほど熱が上がって、慌ててスマホを耳に当てた。
『ちょ、なに急に。電話?』
困惑した声。
「ご、ごめん」
咄嗟に出たのは謝罪だった。
碧羽の声は、いつもより鼻声に聞こえた。体調を崩しているせいかもしれないし、チープなスピーカーを通した音声だからかもしれない。わかるのは、どうやら今すぐ電話を切られることはなさそうってこと、だった。
『別にいーけど。なんか用?』
碧羽は続けた。
「あ、いや、そういうわけでもないんだけど」
『へえ、あーちゃんの声が聞きたくなっちゃったんだ』
なんの気ない声だ。
「いや、そ」
そうじゃない、と言うとそこに嘘が混ざる感じがして、言い切れない。
かといって、そうだよ、と肯定しても真実じゃなさそうだった。
『黙んなよ。なに、おーたろうってコミュ障?』
「……そうかも」
今までの人生で、そんなこと感じたことないけど。
でも、碧羽を相手にすると、何を言ったらいいのかわからなくなって、頭の中がぐるぐる混ざって、喉には言葉じゃない別のものが詰まって、言葉が出てこない。
ふうん、と碧羽は言った。
『ちっちゃい頃はまとわりついてきて、ずーっと喋っててウザかったのに』
人って変わるもんだねえ、と言う声は、通話越しでも分かるくらい皮肉っぽく聞こえる。心臓がきゅうと絞られて、唾が、苦い。
みんな、地続きだ。子供の頃から。俺は、何も。変わっちゃったのかな。なんか、どんどんダメになる感じがする。
「子供の頃の俺って、どんなだった?」
つい口をついて出た、弱音とも似た形の問いかけを、碧羽は笑わなかった。
『え、なにそれ』
急に? と戸惑いつつも、碧羽は、うーん、と言いながら思い出そうとするポーズをとった。
『……素直?』
「すなお」
そうなんだ、と言うと、うん、と碧羽は頷いた。
「どんなとこが?」
『欲しがるなあ』
よくばりさんめ、と笑われる。碧羽は、いつも軽やかな笑い方をする。
『素直で、真っ直ぐで、優しいやつだったんじゃない?』
「事なかれ主義ではなく?」
『事なかれ主義ぃ? そんなヤツ、俺みたいな厄介者に近づかないでしょ!』
違うよ、と続く静かな碧羽の声が、なんだか救いのように聞こえた。不思議と。別に気にしていなかったのに、肩に掛かった重りがひとつ、静かにほどけ落ちたような心地だった。
「俺って、そんなに碧羽に……」
言いかけて、辞める。
「くっついて回ってたよな、確かに」
細かいところは正直覚えていないし、多分こぼれ落ちて、もう掬い取れないものもあるのだろうが、きっと当時の俺が感じていたような気持ちが、ふわふわと形なく漂った。
うれしい、かわいい、いっしょにいたい。
たのしい、とか、すき、とか。
『まあ、桜太郎は今も優しいよ』
「ええ?」
『困ったときの顔とか、変わんないし』
アハッと笑う。胸の奥が、じんわり、なる。
「さっきは、変わるもんだねとか言ってたのに」
『冗談じゃん』
そういえば、いつからか、冷え切っていた指先は暖かくなって、スマホを持つ手首も軋まなくなった。なんか、普通に喋れてる。
改めて考えてみると、スピーカーから耳に直接届く碧羽の声は、今までに聞いたどの声とも違って、柔らかく響いていた。眠さを携えて、甘く、まろやかに。たまに、ゴソっと、布団の衣擦れをマイクが拾った。
一度それに気が付いてしまうと、なんだかドギマギしてしまって、誤魔化すように会話を続ける。黙ると、右耳に集中してしまいそうだったから。ああ、なにかいい話題。いつもどちらかというと聞き役だから、ちょうどいい雑談ができない。
「そういや、あの、部活。あ、俺、剣道部なんだけど。うちの部って普通に弱いから、大会でも全然上の方いけなくて」
そもそも顧問とかも活動に積極的じゃないし、とつけ足す。
「最後の大会、勝ち進めたらって感じだったんだけど、普通に初戦敗退してさ、引退は秋前かと思ってたけど、続ける理由もあんま無いのかなって」
実際、同級生の出席率はかなり悪くなっている。目指すところも特にないので、無理もないと思う。
「なんか、呆気ないなって」
終わり、みたいな大きな区切りがなくて。
話してて、俺ってそう思ってたんだなと知った。
「って、ごめん、なんか俺ばっか喋っちゃった。こんなん興味ないよな」
『あるよ』
静かだけど、強い、凛とした響きをもって聞こえたのは、今が夜の遅い落ち着いた時間だからだろうか。
『桜太郎の話だから、キョーミあるよ』
最終的な通話時間を表示して電話が切れたあと。身体に入っていたらしい力がどっと抜けて、深い呼吸が大きく漏れた。ベッドにドカッと身を投げ出し、五体投地で天井を見つめる。
タイムカプセルよろしく、埋められていた初恋は、瞬く間に俺を巣食い、支配して、脳とかなにかをいじくったのかも。
うまく言葉にはできなさそうだったけど、息が詰まるほどの苦しいそれは、気まぐれな蝶が羽ばたくように、──どこに行くかはわからないけど、しあわせに笑ってくれたらいいなと思ったし、その笑顔を見られたらいいなと、この枝にとまってくれたらいいなと、──やっぱり全然上手く言えないけど、そう思った。
