夢見鳥は爛漫を飛ぶ


「だから、何度も言ってるけど! 女の子だと思ってたんだってば!」
 面白がって何度もからかってくる友人の檜垣に、もう何度目か分からない弁解をする。お決まりの流れに、アハハ、と、さもおかしそうな笑い声が鳴る。大概にしてくれ。
 梅雨空のあの日、教室中の注目を我がものにしたあの出来事は、半ば伝説じみて、他クラス、そして学校中へと瞬く間に広まったようだった。地味というほどでもないながら、そこまで目立つ生徒ではなかったはずの俺も、あの竜巻の中心部にいたとなれば、流石に顔と名が知れたらしい。全てが嘲笑というわけではなかったものの、廊下を歩いているときに視線を感じたり、「あの」「例の」と囁く声が聞こえるような気がした。もう、本当に!
 正直、勘弁してくれよと思った。頭を抱えたくなる。突然現れた初恋の相手が、実は男だったというだけでも俺としてはかなりショックだったのに、その相手が派手な啖呵をきったものだから、余計に悪目立ち、俺まで巻き込まれてコソコソと笑いものにされる始末。今まで忘れかけていたとはいえ、怒涛に溢れ出した美しく甘酸っぱいはずの思い出は、その感傷に浸る前からガラガラ崩れ落ちるような仕打ちを受けて──、西島碧羽が転校してきてからというもの、俺は、様々な角度から心を掻き乱され、取るに足らない平穏だった日常は、あっという間に慌ただしいものになった。
「その割に、お前、ずっと『アオバちゃん』のこと見てんじゃん」
 体育の授業を終え、使っていた土まみれのサッカーボールを、外の倉庫に片付けている途中。同じくボールを両手に抱えた檜垣が、ニヤニヤと性根の悪い笑顔を向ける。
「やめてよ、そんなわけない」
「そうかね」
 いや、あながち否定もできないのか。
 体育委員の仕事として、最後のグラウンドの整備と後片付け。大体の生徒は一箇所にボールをまとめてくれていたものの、一部いい加減な奴らは適当に蹴飛ばしてそのまま教室にダッシュで帰っていったので、余計な仕事が増えた。今更注意する気にもならないが、同じく体育委員の檜垣は、カス! と、デカイ声で文句を言いながら、陸上部仕込みの脚力でボールを追いかけていた。次の時間はもう放課後、帰りのホームルームになら、少しくらい遅れても今更文句など言われまい。俺ら遅れるかも、と戸塚に伝言を頼み、ダラダラと仕事をこなす。
 檜垣は、少し離れたところからボールを大きな鉄カゴに投げ入れようとして、それが既に中に入っているボールにぶつかって跳ね返り、あさっての方向に飛んだのを見て、チ、と舌打ちをした。
 そんな様子を見て、変な博打を打つから、と思いつつ、それとは関係のない場所で喉の奥の辺りにずっと突っかかっている何かは、やっぱりずっと気になり続けている。

 ──あの日。
 俺は、あの後、しばらくは、心臓が破裂したから、そのくらいの衝撃だったから、とにかく、痛くて、しばらく動けなかった。惚けたまま帰宅、朝起きてもその人は教室に存在していて、それだけでいつも吸っている空気が炭酸水みたいにピリついて、溺れて、息もできずにまた帰宅して、──それを繰り返している。ネジを巻いて。
 最初こそ、いつ彼がまたおかしなことを言い出して俺のことをトラブルに巻き込んでくるのではないかと、その一挙一動に警戒するような気持ちもあったのだが、期待──否、期待ではなく、なんだ──想定を裏切るように、そんな素振りもなさそうだった。
 いいんだけど。いや、いいのだが。じゃあ、あれはなんだったんだ。なんだったんだよ。わかんないよ。

 同い年なのだから考えたら当たり前のことなのだが、記憶の中の可憐な少女が、突然男子高校生となって目の前に現れたものだから、その姿のいたるところに当時の面影を見つけるたびに、なんともいえない心持ちになって、絶妙な、いやなような、うれしいような、気まずいような、心苦しいような、切ないような、めちゃくちゃ、よくわからない、とにかく絶妙な感情に包まれることに、取り憑かれて仕方がない。呪いか? 毒か? なにかの罰?
 そもそも、転校初日にあれだけ派手に絡んできておきながら、あれ以来、西島碧羽は、取り立てて俺に近付いてくるでも、構ってくるでもなく。ただ一定の距離を保って、なんならいちクラスメイトとして、むしろ遠ざかってまったく壁の向こうですんとしているのだ。どういうつもりなんだ。
 本当に、一体、どういうつもり。なに。なんなんだ。

 教室での授業中。彼は、いつも熱心に黒板を見ては、その細い指でシンプルな銀色のシャーペンを揺らして、マメにノートを取っていた。
 たまに目を閉じるときがある。彼は、教師の気怠い説明にあくびをするでもなく、居眠りをするでもない、まるで品のいい音楽に耳を傾けるようにしばらくそうしていて、少しするとまたこの教室に戻ってくる。課題の提出は期日前に必ず終わらせていたし、休み時間になると大抵何か文庫本を取り出して、席でひとりで読んでいた。邪魔そうな前髪をたまに、つう、と中指で掬いとって、耳端に掛ける。逃げた少しがさらりと揺れる。座席の位置もあるのかもしれないが、彼のいる場所は教室の中で切り抜かれた異世界のように見えて、窓の外の景色すら、彼のことを演出するための背景に過ぎないような感じがした。
 身体が少し弱いのか知らないが、彼は、一週間、あるいは二週間に一回くらい、学校を休んだ。大抵翌日には登校してきて、またいつものように授業を受けていた。誰かにノートを貸してとか頼んでいるところは見たことがなかったが、大丈夫なのだろうか。普段あれだけ真面目に勉強しているのに。気になるが、俺からは声をかけられない。彼の周りには、いつも、誰もいない。あの頃と同じだ。また、今も。
 さっきの体育の時間だって、パスの練習のために二人組を作るように指示されたとき、まず彼と組みたがるようなモノ好きなんかおらず、彼もそれをわかっているのか、早々にひとりで壁当てを始めていて、──そういう姿が。いちいち。みんな好き勝手騒ぐうるさい公園の中で、砂場でひとりぼっち、ひたすら穴を掘っていたあーちゃんの姿と重なった。

 やっぱり、相当見ていたかもしれないな。

「……見てたかも」

 少し時間が経ってからの返答に、檜垣は一瞬、俺がなんのことを言っているのか分からなかったようだが、一秒も経たずすぐに直前の話題を思い出したようで、ちょっと引いたようにして言った。
「自覚ない方がガチ感出るって」
 やれやれ、と、首を竦めながら、最後のボールを投げ入れている。今度こそそれは、すぽっと、ちゃんとそのカゴの中に収まった。ようやく片付けを終え、ガラガラと倉庫の扉を閉めながら、檜垣は続けた。
「んなに気になるなら普通に声掛ければいいのに。よく知らんけど、昔の友達? いや、知り合い? ではあるんだろ?」
「うーん……」
 俺らの関係性って、なんて言ったらよいのだろうか。友達、というのはあまりしっくりこない、気はする。
 うんうん唸る俺に、檜垣はもはや呆れ顔すらせず、呟くように言った。
「原って結構、事なかれ主義だもんなあ」
 事なかれ主義、か。
「それ、戸塚にも前言われたことある」
「そりゃそうでしょ」
 いい奴ではあるんだけどね、と皮肉っぽく言っているが、そういうのって普通、本人を目の前にして言うことじゃないんじゃないかな。
 校庭を突っ切って歩いている途中で、帰りのホームルーム開始を伝えるチャイムが鳴った。校舎に反響してワンワン響くのを聞ききってから、檜垣は急ぐ様子もなく、またぽつりと呟く。
「まあ、元カノだとしたら、流石に気まずいか」
「マジで! やめてって!」
 咄嗟に手が出て、バシッと背中を叩いてしまうが、檜垣はお構いなしだ。この場合元カノで合っているのか? 元カレ? と、どうでもいい軽口を叩き続けるのを放っておいて、早々に昇降口から階段を上がる。体操着が土埃と汗を吸って、煙たいようなにおいをさせている。
 多少長くも感じた長雨の季節はいつの間にか終わり、ひと呼吸おく時間もないまま7月になった。まだじめじめした湿度を残して、眩暈がするほど暑い夏が、すぐそこまできていた。



 高校三年生の毎日は忙しい。
 朝起きて学校に登校。日直の仕事があれば、多少早く学校に到着する必要があった。退屈だったり、難しかったりする授業を六時間目、長い時には七時間目まで受ける。昼休み以外にも、合間があればエネルギー補給にパンとかお菓子を食べないと、身体がもたない。放課後にはすぐに部活動。中学から始めた剣道も、じきに納めどきだろう。元々、別に特段興味があったわけではなく、当時流行っていた少年漫画に影響されて始めたものだった。やるからにはちゃんと真面目に稽古していたが、大学生、また、社会人になってまで続けようとはあまり思えなかった。
 夏休みになれば部活も引退だ。今は、部活終わりの夜から二時間ほど塾で勉強をするのが週に三日程。この日数も、時間も、大幅に増えて、いよいよ受験へと一直線に進んでいく。今は眠い目を擦りながら、短い夜の自由時間と睡眠時間を使ってなんとか授業の課題をこなす日々だが、これにもう少し余裕が生まれるといいなと思いつつ、そうもいかないのだろう、という気もする。
 檜垣は、陸上部の最後の大会があると言っていたっけ。ああ見えて持久力と根性があるから、遠距離も向いているのだろう。戸塚の方は、秋の定期演奏会に向けて、夏期講習の合間をぬって部活にも顔を出さなきゃいけないと愚痴っていた。吹奏楽部はそれはそれで忙しいみたいだ。

 みんな、変わっていく。日常に終わりが近付いている。
 嫌でも将来について考えなくてはいけない時期が、憂鬱さを携えてやってくる。やりたいことを尋ねられても、今の俺には何も分からなかった。
 みんなは何かを見つけている、一生懸命になっている、なんだか軸があるし、その人があるし、いいところもたくさんある。
 事なかれ主義、という悪気ない友人たちの言葉を、耳の中が勝手に反芻する。

 ふと、あーちゃんは、どうするのだろうかと、そう思った。
 西島碧羽は、どうするのだろう。

 白いレースのスカート。揺れるとちらちら覗く膝小僧は、いつ見ても青アザや擦りむいた傷痕があった。ワンポイントにラインがひかれたハイソックス。つやつやひかるエナメル素材の靴は、白と、ピンクと、薄いむらさき色がデザインされていて、星とかハートの透明なビーズがどういう理屈かくっついていたのが、駆け回る度にちゃらちゃらいって、それすらかわいかった。
 ──ここが、アオバの部屋ね。いちばん高いところにあるから、ぜんぶ見渡せるんだよ。
 公園の地面を、拾ったおおきな木の枝でぐりぐり削って、あーちゃんは少しよれた線を引いた。
 ──ここが台所で、美味しい料理を食べたいだけ、コックさんが作ってくれるし、お菓子も食べ放題ってことね。
 あーちゃんが一生懸命にお城をかたどる度に、つやつやの長い黒髪が揺れた。髪を括るゴムには飾りがついていて、透明の丸いカプセルみたいな中に、キラキラのラメがしゃかしゃか鳴った。
 ──それで、ここは、おーたろうの部屋。
 ──えっ!
 あーちゃんの大きな部屋の隣に、丸く作られた新しいスペースに、俺はびっくりして、隣にいるだいすきな子を見つめた。
 ──ぼくの部屋もあるの?
 ──あたりまえ!
 あーちゃんは、キラキラかがやく瞳で、一生懸命に地面に線を引き続ける。
 ──ここがつながってて、いつでも行き来できるんだよ。いつでも遊べるし、いっしょにご飯も食べられるし。
 だから、いつも、いつまでもいっしょだよ、と言ったあーちゃんの言葉を、嘘だったなんて思いたくなくて、俺は、あーちゃんがいなくなってからしばらくの間は毎晩泣いて、それ以来あの公園は俺にとって嫌な場所になって、一度だって立ち寄ることができなかった。



 部活を終えた後、午後の七時近くにはもう外もだいぶ薄暗くなって、まばらに電気がついている校舎の一部がぽつぽつと、まるで居場所を伝えるように外に明かりを漏らしていた。
 今日はなんだか疲れていて、自習室には寄らずまっすぐ家に帰るつもりが、昇降口まで行ったところで、この土日にやろうと思っていた数学の課題プリントを机の中に入れっぱなしだったことを思い出して、面倒に思いつつも教室のある三階まで上がってきたところだった。提出は週明け。今日持ち帰らないと結構面倒臭い。
 当然に、誰もいない教室。毎日ここで過ごしているはずなのに、不特定多数によるあのざわめきと、窓の外を照らす太陽がいないだけで、どことなく全く別の場所に見えるから不思議だなと思う。
 すぐに用は済むから、と電気もつけず、ぼやけた暗さの中、ひとまず自分の机の中を確認する。右手だけで少し探れば、すぐに指にプリントが引っかかったので、それをそのまま引っ張り出した。よし、これで安心、と椅子と机を整えて、適当に折り畳んでリュックのドリンクホルダーに突っ込み、ふと教室の後ろにあるロッカーの辺りを見ると、並ぶ机の脚たちの隙間から覗く床に、なにか黒い影が落ちているのが見えた。
 落としもの、か?
 近づいていって、ワックスのはげかけた木目タイルの床から、そっと拾い上げる。この明るさだから細かいところまではよく見えないが、ぼんやりとしたシルエットと、手触り的に、これは──財布だろう、と分かった。誰かがロッカーの辺りで荷物を整理した拍子に、鞄から転げ落ちたのかもしれない。
 面倒なことになった。これが教科書とか筆箱とかであれば、別に放置だってできたものを。財布なんて貴重品だと、なんだかそういうわけにもいかなそうだ。
 今ならまだギリギリ、職員室にも先生が数人いるだろう。確か、裏の方にまだ車も数台停まっていたはずだ。吹奏楽部の練習の音もついさっきまで聞こえていたし、顧問は居残り好きだと戸塚が言っていたから、まだ残っている可能性が高い。
 よし、やや手間ではあるが、落としものとして届けよう。そう思った後に、今日が金曜日だったことを思い出す。ため息。職員室に届けたら、落とし主は、この週末を財布なしで過ごすことになるばかりか、どこで落としたのかも不明なままになってしまうということだ。流石に気の毒か。
 落ちていた場所から考えても、おそらくこのクラスの誰かのものだろう。見た目的に、男物だと思う。その時点でだいぶ候補は絞られるし。誰のものか分かったら、あとはクラスメイトの連絡先一覧からからそいつの名前を探して、一報入れたらいい。緊急事態だ、持ち主を確認するために中身を見ても、それは許されたい。
 ふたつ折りの、コンパクトな革財布。表面はつややかで、割と真新しそうな感じがした。現金もそこそこ入っていそうだ。何かカードとか、保険証とか、名前のわかるものがないか探ってみる。いつの間にか外はすっかり夜になって、教室の中の明かりは、廊下を一列に照らす蛍光灯の反射だけになっていた。微かな明かりを頼りに目視することが難しくなって、いい加減電気をつけようと教室の前扉の方に向かう。
 その時。視界の端に、キラッと反射する何かが見えた。

「ん?」

 気になって、咄嗟に声が漏れ出る。改めて見ると、財布のカードを仕舞えるようになっている部分に、正方形のなにかホログラムのカード? ──いや、シールか? ──が、差し込まれていた。そういえば子どもの頃に、こういうキラシールとか、レアな食玩を集めるのが流行っていたっけ、と思い出しつつ、ついそれを指でつまんで引き出す。同時に、引っかかって、同じ場所に詰め込まれていたメモ帳の切れ端らしきものも飛び出してきた。
 それらをひとまず片手に掴んで、もっとよく見ようと電気をつける。パチ、と無機な音を立ててスイッチを押すと、教室内は蛍光灯に照らされて、急に眩しくなった。目が慣れるまで少し時間がかかり、ぱしぱしと瞬きを数回した。
 ようやくはっきりと見えるようになった、左手に掴んだそのシールとメモ帳に、胸騒ぎのするような見覚えがあって、心臓が揺れた。

『あーちゃんへ。またいっしょに、おしろつくろうね。あそぼうね』

 数回書き直したらしい、鉛筆の消しあと。濃い筆圧。
 不格好にひん曲がったバランスの悪いひらがな。
 折り畳まれた線は、何度も開いて閉じてを繰り返したのか、紙が弱くなって端の方は千切れかけていた。触ると紙の繊維なのか、やや粉っぽくすら感じる。
 いつからか失くしたと思っていた、俺が持っていた中で一番レアのホログラムシール。宝物。
 そうだ、あげたんだ。失くしたんじゃなかった。
 自分が持っている中で、いちばんいいものを、全然学校に来ないあの子にプレゼントしようと思ったのだ。

 ガタ、と扉から音がした。慌てて顔をあげると、そこにはいつもよりも少し目を見開いた、西島碧羽がいた。
 いっときの、静寂。いつもの教室とは違う、今度こそはっきりと目が合う。彼のことを考えていたから、急に本物が現れて、混乱して考えが追いつかない。こめかみの辺りに血流を感じて、頭が熱くぼーっとした。耳が痛い気もした。指先は反対に冷たい。固唾を飲む。なにか言おうとしたが、また、声は出ない。
 いつもその気まずさを蹴破ってくれるのは、あーちゃんの方だった。

「え、なに。ドロボウ?」
「ち、が、……落ちてた、から」

 変にぎこちない言い訳。余程怪しまれる素振りだとは思うが、向こうも端から疑っていたわけでもないようで、ただ軽口を投げかけただけのようだった。ちゃんと声が出た、と思うと、張り詰めた緊張が少し解れる。ふ、と、少しだけ身体が楽になって、肩や首の辺りにかなりの力が入っていたことに今更気がついた。頭の中と身体の動きが、やっとつながって、自分を取り戻せそうだ。

「これ──」
 あーちゃんの? と尋ねようとして、口篭る。この場合、呼び名は、あーちゃんでいいのだろうか。ブランクも長くあるのに、過去の親しげなあだ名で呼ぶのって馴れ馴れしい気がする、けど。あ、そもそも、男にちゃん付けって適さない、の、か? でも、あーちゃんはあーちゃんだし、ううん、でも。かといって、苗字で呼ばれるのは本人が嫌がっていたし、急に下の名前で呼ぶのも、それはそれで昔はそんな呼び方してなかったじゃん、みたいな感じに──

「それ、俺の。サイフ。そう」
 俺の、誰にともない言い訳と長い葛藤は、彼のキッパリした声で遮られた。相変わらずの、飾り気のない物言い。細い指で、気怠げに俺の手元を指さす。不機嫌そうに眉根を寄せる、そんな表情すらきれいだったから、また脳味噌の真ん中が振動した。
「てか、中身勝手に漁らないでよ」
「あ、ご、ごめん、誰のか確かめたくて」
「あーあ。何枚か抜いた? 金。現行犯」
「そんなことしないって!」
 アハ、と笑っている。わかってるよ、と言った声は少し甘かった。そんなことにすらいちいち。俺は。

「桜太郎はそんなことしないもんね」

 そう言う彼の黒髪が揺れることに。俺は。また。

「なんでもいーけどぉ」
 鼻歌でも歌いそうなくらい、俺のことなんてどうでもよさそうな彼は、独り言のようにそう呟いた。やっぱりここで落としてたかぁ、と、彼は肩にかけていたスクールバッグを、手近な誰かの机の上にドサッと置いた。外が暗いから、窓ガラスは鏡のようになって、俺たちふたりの姿が透明に映った。
 彼はどうやら、帰宅途中に忘れ物に気がついて、そのまま学校まで引き返してきたらしい。でも、こんな時間に? 部活にも委員会にも所属せず、帰りのホームルームが終わってからすぐに帰宅すれば、こんなに遅くにならないはずだ。何か用事でもあったのだろうか。あれだけ熱心に授業を受けている彼だ、塾かなにかで勉強でもしていたのだろうか。
 彼は、俺から財布を受け取ろうとして、ハイ、と左手を差し出した。そこで、俺が財布から取り出していたものに気が付いたようで、露骨に目を留めるが、しかし何も言おうとしない。
 ──流す気なんだな、と、思った。虫あみでは捕まえられないちょうちょのように。隙間をすり抜けてふわふわ飛んでいく。ひらめいたドレスを揺らして。これを逃したら、多分、手を伸ばしても永遠に届かないんじゃないか。いや、それでいい。それでいいだろう。捕まえる必要なんてない。図鑑で眺めたらいい。でも? この距離で次にいつ見られるんだろう。触れられるだろうか。すれ違うことすらできなかったら? だったらなんだ、いつも通りだ。

 手元に、当時の俺の、宝物が光った。

 全てあげてしまえるほどの初恋。

 一生懸命で、全力の、幼い自分。

 意を決して、俺は、自分からそれを話題に上げた。

 そんなことは、俺らしくもないことだった。

「──これ、俺が昔あげたやつ、だよね」
 一瞬、彼が動きを止めたのを、見逃さない。いや、見逃せないほど、じっと見つめていたのかもしれない。
「……ええ? さあ」
 彼は一度、素知らぬふりをしようとしたらしい。しかし、俺が譲らないのをみてか、あるいは、誤魔化しは効かないと観念したのか、ふん、と小さく息を吐いてから、意地悪く笑うように口を開いた。八重歯が覗く。舌が赤い。
「その手紙ね。確か下駄箱に突っ込まれてたんだったかなー。多分ラブレターだと思うんだけど。差出人不明だからさ」
「あ、あれ?」
 だからくれたのが桜太郎だとは知らなかったなぁ、とわざとらしくため息をつく。
「そうかぁ、桜太郎だったんだぁ。そーかそーか」
 けらけら笑う声を聞きながら改めて手元の紙切れを確認すると、確かにそこには差出人──自分の名前が書いていなかった。手紙なんて出し慣れない、ひらがなだって、ようやく何も見ずに書けるようになった頃だったはずだ。いつかお返事が来るんじゃないか、と薄ら期待していた幼い頃の自分に、教えに帰ってやりたかった。バカか。
 なんだかがっくしきてしまった俺を見て、その手紙の宛先はアハハと笑った。少しして、なにか大切なものを慈しむみたいに、目を伏せてしみじみ言う。
「でもまあ、俺のことあーちゃんって呼ぶのって、母親か桜太郎しかいなかったし。桜太郎が書いたんだろうなってちゃんと分かってたよ」
「な、なんだ」
 そんな様子の彼を見たことがなかったから、なにかよくないものを見てしまったような感じがして、ドキッとする。あの日の俺の気持ちは届いていたんだ、という安心から遅れて、じゃあ意図的にあーちゃんは返事をくれなかったんだ、と寂しい気持ちもじんわり広がった。
 わら半紙に、どこかで跳ねた油染みが吸い付くように。少し。でも、取れない。目立つ。気になるくらい。
 でも、と思う。
「めちゃくちゃ昔のやつなのに、取っておいてくれてたんだ」
 わざわざ、毎日持ち歩く財布に入れて。まるでお守りみたいに大事に持ち歩いていたのか。
 見たところ、財布は割と新そうだったし、もしかしたら高校入学とか、あるいは転校の何かで家族からプレゼントされたものかもしれない。財布が新調される度、鞄を持ち替える度、この手紙とシールはセットになって、俺の知らない時代の彼と共に過ごしていたのだろうか。
 ごちゃっとした強そうなキャラクターの描かれた、キラキラしたシール。多分当時はもっとチープに光っていたと思う。今はもうちょっと色褪せて、きっと裏の台紙を剥がしたところで粘着力もいくらもないのだろうが、でも確かな特別感を讃えてそこにある。小学校に上がったばかりの小さい子どもが、今思えば笑っちゃうほど非力だけど、だいすきなあーちゃんを元気づけようと、一生懸命考えた末に思いついたおまじないの手紙。
 高校生になったあーちゃんは、俺に向かって、あの時よりもさらに捻くれた声色で、ハァ? と聞き返した。
「んなワケないじゃん。入れっぱなしになってただけだよ。てか、存在すら忘れてたし」
 小馬鹿にしたような物言い。でもそれは、あーちゃんが図星を突かれたときとか、照れ隠しする時の癖だということを、俺は知っていた。昔と変わっていないのならば。
「入れっぱなしって。この財布、小学生の頃から使ってるの?」
 割と新しそうなんだけど、と言うと、彼は、目の端をやや赤く染めて、不貞腐れたように押し黙った。やっぱり、あーちゃんだ、この人は。変わらないんだ、と思う。記憶の中の初恋が、またぶわっと広がる。噎せ返るような花びらが突風に吹き上がる。
 息が。つまる。
 目の前にいるのは、俺と同じブレザーを着た男子高校生なのに、何故だかあの日のお姫様が重なって見える。
 本人なのだから、当然なのかもしれないが。
「……なに、悪い?」
「いや、悪くないけど……」
 よぅく見ると、顔立ちだって全然変わっていない。まつ毛が長くて目元に少し影を落とすのも、口角が不機嫌そうにずっと下がってネコみたいな口も同じ。鼻筋はいくらか骨ばって、頬の丸みはすっとしても、耳から繋がる輪郭線は同じ。左目尻にあるほくろも。
 ん、と、彼は、また手を差し出す。不機嫌そうなまま。財布を返せ、ということだろう。その意図に気がついてはいたが、わざと見ないふりをして言葉を続けた。返したら、彼はそれを受け取ってすぐに、俺の言葉など聞いてくれなくなるだろうと思ったから。
「あの頃、全然、学校来なかったから……」
 あわよくば理由を知りたくて向けた視線は、真っ直ぐに彼の元に届いたようで、大きくてまあるい瞳とまっすぐ線がつながった。頭の中まで全て見透かされそうな瞳。それも、昔と同じ。でもすぐにふいと逸らされる。斜め下に何があるのか。机の足に引っかかったワタボコリしかないんじゃないか。それは、俺との会話よりも大事なのか。
「あー、家が、ちょっと、ヤバかったから」
 彼らしくない、歯切れの悪い物言いだった。いつもなら、周りの方が逆に気まずくなるような内容でも、なにも気にせず大きな声で、きっぱりと堂々と言うくせに。口の中でごにょごにょしてる。
 ──本当なら、なんで女の子の格好をしていたのか、ということも尋ねたかったのだが、それをはっきりと口に出すのは憚られた。なんて反応したらいいのかも分からないまま口籠る俺をよそに──、いや、どちらかといえば俺の疑問を読んでいたからかもしれないが、『あーちゃん』よりも余程、同い年にしたって不相応に大人びた自嘲を携えて、彼は吐き捨てるように笑って言った。

「うち、ちょっと母親がオカシイ感じだったから。ご家庭の方針ってヤツだよ」

 確かに、当時も噂話で聞いた。あの家のお母さんはちょっと具合が悪いみたい、と、母親同士の会話とか、女子のひそひそ話で。当時は、風邪とか、俺のおじいちゃんが死んじゃった、癌、ってやつとか、なんかそういうものを想像していたが、今思えば、精神的に不安定だったりしたのだろうか。

 幼い頃のあーちゃんは、それだけ過酷な中を、ひとりで生き抜いていたのだろうか。
 俺の渡した手紙とシールが、そんなあーちゃんのお守りに、ちゃんとなったのだろうか。
 ──少し考え込んでしまう。今更、色々、知らなかったことが多すぎた。

 黙りこくったままの俺を、彼は不審げに見つめる。眉を少し寄せて、訝しげな表情をした。それもそうだ。拾った財布を握ったまま、一向に返そうとしないクラスメイトに対して、それも突然不躾な質問をしておいて、答えを聞いてもろくに反応を返さずにいるわけで、不審に思うのは至極当然のことだった。
 西島碧羽は、少し苛立ったように俺を見た。意志の強い表情は、顔立ちが整っていることもあってか、有無を言わせぬような迫力があった。ねえ、と吐き捨てるように呼びかけられる。
「なに? まだ何か聞きたいことあんの?」
 もう十分でしょ? とでも言いたげな、余白のない声。好奇心を満たすための餌はもう与えたでしょう、という、見下しているようでいて、自らが見世物になっている、悲しさを含んだ声。
 その声を聞いたら、聞いてしまったら、俺は、もう、色々を無かったことにもできないし、色々を考えることをしないのは、無理なことなんじゃないかな、って、そう思った。
 仕方ないことだった。これは、俺にとって、なにか重要で重大な、そういうものなんじゃないかって理屈のない直感が、魂に響く。命じる。
 聞きたいことなんて、当然ある。たくさんある。何から始めたらいいのかわからないくらい。
 でも、一番は。

「な、なんて呼んだらいい?」

 喉を支えていた塊が、激しいくしゃみの勢いにかまけてようやく飛び出すように。俺の情けない声は、裏返るかギリギリのところで、ちゃんと目の前の人物にぶつかった。
「ハア?」
 唐突で脈絡のない俺の問いに面食らったのか、目をぱちぱち数回瞬きをして、おそらく我に返る前に彼は言った。

「フツーに、アオバでいいよ……」

 そうか、それで、いいのか。

「碧羽」

 呼んでみると、口が、喉が、変な感じになった。むず痒いような、自分の声じゃないような。照れ臭いのかな、そういえば、あーちゃん、と毎日のように呼んでいたあの日から、俺だって成長して、声変わりもして、高校生といえど、大人になったんだって、なんだかようやく気がついた。
 たくさん漢字も書けるようになったし、微積分も捻りない問題なら割と解けるし、自力で電車に乗って隣の県に行くこともできる。会いたい人に会えなかったとき、自分から誘うこともできるし、その手紙に差出人の名前を書き忘れたりもしない。

 碧羽は、決まり悪そうに耳の後ろを搔いた。俺が突然トンチンカンな質問をしたからかもしれないし、まだ俺が、財布を渡さなかったからかもしれない。
「……まだあんの? もう暗いし帰りたいんだけど」
 てかサイフ返せ、と、碧羽が近付いてくる。
 あの日みたいに、碧羽を誘いたくても、声をかける手段すらないのは嫌だった。大切なものが落ちていても、碧羽の方から飛んできてくれないと、身動き取れない根付いた花ではいたくなかった。

「あ、碧羽の、連絡先、教えてほしい」
「……ふうん?」

 碧羽は、よくわからなそうな顔をして、戸惑うような手つきで鞄からスマホを取り出した。連絡先を表示させて、ハイ、と差し出す。透明のケースがついた、紺色で無骨なスマートホン。記憶の中のあーちゃんの、ピンク色でツヤツヤしたランドセルとのギャップに、なんの涙かまるで分からないが、なぜだか泣きそうになった。
 碧羽は、ひっそりとした声で、普通にしていたら気が付かなかったかもしれないくらい小さく、ぽつ、と呟いた。

「桜太郎は、もう俺には関わり合いになりたくないのかと思ってた」

 こんなにも不器用でか弱い人を、俺はどうしたらいいんだろう。
 それが、かつて、たしかに好きだった人なら、尚更。

「いや、なんか上手くは言えないんだけど」

 踏み切った声は、さっきよりも芯をもって、はっきりと届くといいと思う。
 ぐるぐるする。もやもやする。そのままにしておくには、あまりに目立ちすぎるぬかるみを、俺は、無視できないと思った。
 埋め立てるのか、踏み込んで泥んこになるのかは、今すぐ決める必要のないことだ。
 教室の中が人工的に明るいから、外の夜は吸い込まれそうなほど暗かった。星も何も見えないけど、宇宙みたいだった。
 さっきから香るこの独特のにおいは、チョークの粉のにおいか、と、今更気がついた。
 自分の思考や態度がなんだか恥ずかしく感じられて、その至らなさに何かが揺らいでいた。

「俺、碧羽のこと、なんも知らないなって思ったんだ」