──時が、止まったのかと思った。
気怠げな中年の担任が、手癖のように無精髭を擦りながら転校生の存在を告げたとき、教室の中は少しの歓声に包まれた。高三の六月。卒業まであと一年を切った、こんな中途半端な時期にクラスメイトがひとり増えるとは。様々な事情は知らないなりに、物珍しさへ浮き足立つ教室では、早速ヒソヒソと噂話を始める女子生徒たちと、大きな声で無遠慮に、可愛い子がいいと叫ぶ男。好き勝手にお祭り騒ぎが勃発した。何せこんな時期だ。やれ受験だ進路だなんだと気の重くなることばかり言い聞かせられる縛られた同級生たちは、突然に飛び込んできた目新しく面白そうなニュースに少々大袈裟に盛り上がった。
少しも経たず、教室の前扉から、当の転校生が登場した。やや小柄な男子生徒だ。男どもからは失礼な落胆の息が洩れた。転校生のその姿を見て、最初は、頭の奥の方に、なにか引っかかる小骨のような煩わしさを感じて──その後。黒板にチョークでカツカツ刻まれた名前と、凛とした視線を真っ直ぐ正面に向ける彼を見て、俺は、まず、こめかみのあたりを血液がどっと流れるのを感じた。
そう、時が、止まったのかと思った。
朝。厚い雲に覆われた空は白い。
湿っぽい空気、じとっとした粒の細かい霧吹きみたいな雨。エアコンを入れるほど気温が高いわけではないものの、湿度が高いせいで空気全体がベタついて、教室内にも重量をもった不快な雰囲気が漂っていた。袖を通したときには乾いていたはずのワイシャツは、心做しか空気中の水気を吸って、しっとりと柔らかくなっている。梅雨入りしたとなにかのアプリの通知で見た気がするが、張り付くようなこの息苦しさもその長雨の所為なのだろうか。そんな今日だった。
「西島碧羽です。よろしくおねがいします」
突然訪れたフィクションのような非日常に、浮かれた気分を隠さない教室の中に響いた声は、飾らない、でも意志を感じる、不思議な響きをしていた。
男にしては少し長めの黒髪は、少しの癖もなく、彼の動きに合わせて可憐にさらりと揺れた。耳に被って、毛先は柔らかく遊んでいる。うちの学校の制服、何の変哲もない、紺色のブレザーに地味なネクタイ。三年生にもなればみんなある程度くたびれて薄汚れて、寸足らずな奴だっているくらいだが、彼の着たそれは、しゃんとして綺麗な新品で、彼の身体には少し大きく不格好に感じられたが、不思議とそれすらも似合っていた。
碧い羽、で、アオバ。珍しい名前だ。字面から、あの青い蝶を思い浮かべた。名前はなんていうんだっけ、──モルフォ蝶、だったか。
ん、蝶?
朴訥として、人を寄せつけないような、そんな声。ただ顔を上げて、背筋を伸ばした先に後ろの黒板を見据えているらしい瞳には、クラスメイトのことなんか少しも映っていないように見えた。教室のちょうど中央、少し後ろ寄りの俺の席から見える、距離が近くなくてもわかるほど吸い込まれそうな黒い瞳からは、人、そして新しい環境に対する興味が、微塵も感じられない。小柄で華奢な体躯とは対照的に、やけに不遜で尊大な態度。はじめましてのご挨拶だというのに、少しも会釈をしない生意気さには、自分でも驚くほどの既視感があった。見れば見るほどあの子に似ている気がして、気が遠くなる。目の奥の方が熱を持って、爆ぜそうな程に揺れる。黒髪、ぱっちりした目、濃い二重、下まつげ。人形のように細い顎、小さいのにすっと通った鼻筋、薄く、桜色のくちびる──。
みんな色々教えてあげるように、と、心のこもらない声で定型文のように指示する担任のシャツと比べても、彼──西島碧羽の姿はどう見ても眩しくて目が眩んだ。
遅れてきたように、ぎゅう、と、頭痛がした。なにか硬いものに、脳天を、ガツンとぶつけられたみたいな。後を引く、響く。そういう痛み。まばたき。
何が起きたのか分かった瞬間に、有り得ないほど心拍数が上昇した。この音が近い席のやつらに聞こえてしまうんじゃないかと思った。そんなわけないのに。喉元が締まる。何かがつっかえる。背筋がぞくと伸びて、いっそ震えだしそうだった。
初恋の、女の子と、同じ名前の男が現れて、そしておそらく、彼は、あの子本人だろうと直感した。
──いや、そんな訳ない。
首を振る。いや、正確にいうと、振りたかったが振れなかった。身体が緊張して硬くなっていて、ギ、と音がしそうだった。
視点が定まらない。目が泳ぐって、こういうことを言うのか。景色がちょっと回ってる。
アオバ、という名前に覚えがある。と、いうことを、今の今まで忘れていた。
忘れていたことすら忘れていたし、忘れていたことが不思議なほど、忘れられるわけのない名前だったはずだった。
何の変哲もない、ただの平日なはずだった今日。高校生らしく、もうじき訪れる部活の引退や、受験と進路のことだけ考えて、友達としょうもないことで駄弁ってのらりくらりやっていくはずだった今年。無理やり扉を閉めていたクローゼットの中身が、絶妙に保っていたバランスをつき崩されて倒壊するように、あるいは、煮え滾るマグマが転げた石ころをキッカケに火口を突き抜けるように、あの日が、あの子が、脳裏に溢れかえって、俺を掻き乱した。
あーちゃんとの出会いは、多分、まだ物心のつく前。年齢にしたらおそらく、3歳とか4歳とかそのくらいなはずだが、気が付けば一緒に遊ぶ、所謂幼馴染というものだったと思う。
俺が幼稚園生の頃、母が園まで迎えに来たあと、まだ遊び足りない俺を連れて、公園に寄り道してから帰ることが日課になっていたのだが、あーちゃんはいつも、そこで、一人で遊んでいた。
その子は、アオバと名乗った。幼い頃の俺には意味がよくわからなかったが、ちょうちょの生まれ変わりなんだ、とその子は言っていた。でも確かに、あーちゃんは、ちょうちょみたいにかわいくて、捉えどころのないふわふわした子だったから、当時の俺はそれを本気で信じていた。一本一本の細いさらさらの黒髪を背中まで伸ばして、大抵それを、耳の少し下くらいの高さでふたつにくくっていた。いつもピンク色か白い服を着ていて、そこにはふりふりやリボンがたっぷりついているから、あーちゃんが動き回る度にふわふわ揺れるのがより一層目を惹いた。風になびくきれいな髪、スカート、リボン、どこから漂うのか、なんだかいい香り。その全てが、あーちゃんのかわいい顔立ちによく似合っていた。俺は思った。
──お姫様みたい。
あーちゃんは、お姫様だった。かわいいドレスを着て、かわいく笑って、なんだか不思議な雰囲気を漂わせる。
おーたろう、と俺に呼びかける声は、軽やかで、いたずらっぽく弾んで、俺はその声を聞く度にどきどきして仕方がなかった。
その割に、いつも砂場に飛び込んで泥んこになって遊ぶものだから、子供ながらに、いつかあーちゃんのママに怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしたものだった。見た目とは裏腹に、やんちゃで、わんぱくで、目の離せない笑顔のかわいいおんなのこ。
小学校に入学する頃。あーちゃんも同じ学校に通うことになるとわかったときには本当にうれしくて、毎日一緒に登校しようねと約束したのに、学校では滅多にその姿を見かけることがなかった。クラスは一緒になれなかった。まだ慣れない休み時間、どきどきしながら隣の教室に行ったところで、いつもあーちゃんの席には誰もいなかった。学校にはあまり来ていないようだった。
学校で会えないなら家に迎えに行こう、と思ったものの、あーちゃんの家がどこにあるのか知らないことに、そこでようやく気がついた。友達の誰に聞いても、あーちゃんと同じ幼稚園の子も、保育園の子もいなかった。いつも遊んでいた公園に行っても、あの日のように砂場で黙々と砂を掘り続ける姿を見ることはなくて、ふたりで作ったトクベツなお山も、いつの間にか誰かに壊されてなくなっていた。
たまに、ごくたまに、あーちゃんが学校に来る日があって、そうすると俺はめちゃくちゃうれしくて、休み時間の度にあーちゃんと話しに廊下へ出た。あーちゃんは、持ち前の無鉄砲さでトラブルを起こしまくるので、公園でもそうだったように、学校でもいつもひとりだった。あーちゃんのことを悪く言うやつもいたが、何も知らないくせによく言うよと思っていた。だって俺は、あーちゃんのステキなところをたくさん知っていたから。
一緒に授業抜け出して遊んじゃおうよ、と誘われて、体育館から聞こえる賑やかな声を後ろに、裏の雑草が生えた広場でふたりきり過ごした日には、心臓が甘く苦しくなって、その後何度も何度も夢にみた。ドレスみたいな服をいつも汚して、お転婆でワガママなお姫様は、紛うことなき俺の初恋であり、──俺の知らないうちにいつの間にか遠くの街に引っ越していってしまったようだった。
もう少し大きくなってから、ご近所さんやクラスメイトの、どこからともなく流れてきた曖昧な共通認識から、あーちゃんのお母さんの具合がずっと悪かったらしいことと、お父さんがずっと前に家を出て行ったらしいことを、やんわりと知った。
朝のホームルームが終わると、気怠い一時間目の開始時刻までに、慌ただしいながら多少の猶予が生まれる。何せ突然のことで、噂話よりも先にやってきた転校生の周りには、数人の生徒が彼を取り囲むようにしてたむろしていた。それを遠巻きに見る他のクラスメイトたち。教室の外には、早速騒ぎを聞きつけたらしい他クラスのやつらまで、こそこそと様子を伺いにくる始末だった。
声が大きいので、聞き耳を立てずとも騒がしい会話がこちらまで聞こえてくる。
「この時期に転校? 引っ越し?」
「どこから来たの?」
「てか、アオバ、って珍しい名前だね」
クラスの中でもお調子者な男たち。そこと仲良くしているゴシップ好きの女子グループ。代わる代わるに質問をされても、西島碧羽はただ席についたまま、スンとした表情でそちらを一瞥するのみで、笑顔のひとつも作ろうとしなかった。
窓側の一番後ろの席で、彼は頬杖をついて、外の雨を見ていた。丈の余ったブレザーの袖でその手は隠れていたが、だらしないようには見えない。ちょうど教室の真ん中くらいにある自分の席からは、近くも遠くもない距離感であるはずだったが、目にかかる長さの前髪が、艶っぽくさらりと流れるのがありありと分かった。
見れば見るほど、似ている。今朝、彼を見た時に走った直感が、自分の中だけでどんどん膨らんでいく。
そちらを気にかけていると誰かにバレるのも気まずくて、できるだけ素知らぬふりをして、窓の方に視線をやらないよう気にかけてはいたが、あまりにも彼の存在感が強いから、ほとんど意識を離せない。そんな俺の挙動不審な様子は、見る人が見たらバレていたかもしれないが、そうはいっても、俺の動向をいちいち気にする人間が、この教室にいるとも思えなかった。
ひとり静かに動揺している俺をよそに、教室の中は転校生に不躾な好奇を向け続けている。問いかけにひとつも答えない、愛想の悪い様子をだしにして、仲間内ではしゃいでいる。
「ねえ、西島くん困ってんじゃん! 質問しすぎ!」
「ごめんね? こいつらマジでうるさいよね」
キャハハ、と高く笑う声。やめろよ、とじゃれる生徒。
当の自分が答えを返さずともなお止まない無遠慮な質問に、ついに痺れを切らしたのか、あるとき彼は、はああ、とわざとらしい大きなため息をついて、透明な声で言った。
「それってホントに知りたくて聞いてんの? それとも野次馬根性? ダルいしめんどいからやめてほしいんだけど」
ピシ、と空気が凍ったのが、俺にも分かった。先程まで言葉を投げかけ続けていた集団は、息を飲むように一瞬はたと黙り、遠巻きに見ていた集団のどこかから、ヤバ、と小さく漏れる声が聞こえた。
「俺別に、お前らとワケもなく仲良くする気ないから」
ほっといてくんない、と冷たく言い放つ彼に、幾人かの頬が引き攣った。あまりに失礼な物言いをする転校生に、呆気にとられた取り巻きたちも、一呼吸置いてから苛立ちが追いついたようだった。無理もない。からかいの言葉、詰る言葉に勢いがつく前に、一時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴り、その場は強制的に解散され、ハキハキした数学教師の号令と同時に、日常がまた顔を覗かせた。
俺は、何故かそのチャイムにほっと胸を撫で下ろしながら、不機嫌そうに口を歪ませ、冷めた目で外の雨粒に目をやるその人物から、目を離せずにいた。多分それは、クラスメイトのほとんども同じだったと思う。
授業中も、当然のように、集中なんかできず──、俺の意識は、勝手に、奥底に封じられていたはずのあーちゃんとの思い出の箱を、際限なく解き続けていた。
公園で、世界で一番大きな砂山を作ったこと。それを、意地悪な年上のお兄さんたちに踏みつけられて壊されて、あーちゃんが向かっていってボコボコにしたこと。鉄棒に座りながら、最近知って食べてみたいと思っている伝説のお菓子の話を聞いたこと。滑り台を逆走したり、ブランコを一周させたり、とにかくあーちゃんはパワフルで、他にそんなにも元気な女の子を知らなかった。
当時の俺の世界は、あーちゃん一色だった。あんなに夢中になった、初恋のきっかけは何だったか。そこには、モヤがかかったようになってまだ思い出せない。あーちゃんのことが好き、というそれは、地球が丸いのと同じくらい、俺にとって当然のことだったのだ。
黒板と、先生と、教科書と、その合間に彼のことを盗み見る。あれだけ常識知らずなことをしておいて、意外と真面目なところもあるようで、彼はずっと熱心に集中して授業を受けている様子だった。ノートを写すための、シャーペンを持つ指が細い。一生懸命に動かして、邪魔そうな前髪をたまに左手で耳に撫でつける。窓の外はどんよりとした雨模様なのに、曇り空の白さに反射した光がやけに明るくて、彼にぱっと差し込んで、かなり絵になった。
もしも、彼が、本当にあの、あーちゃんであるなら。
あーちゃんは、男、だったことになる。首を傾げる。
記憶の中のあーちゃんは、どう見ても女の子だった。敢えて女装していた? でも、なんで?
逆に、今、敢えて男子生徒の格好をしているのだろうか。本当は女の子で。
いや、それはないか。
どちらにせよ、どう考えてもワケありだった。
子供の頃は、そういう様々な事情とか変に考えずに、無邪気に仲良くできたのに。年齢相応に打算を獲得した自分が、ちょっと切なかった。あれだけ初日から啖呵を切って、教室内でも悪い意味で目立つ存在になった西島碧羽に、何か事情があると察しながらも近づくにはあまりにリスクが高すぎる。
勉強、受験、部活、人間関係。色んな事情と思惑が渦巻く教室という箱庭で、何事もなく、平穏に残り数ヶ月を過ごし切るには、面倒ごとには近寄らないことが一番だ。
第一、彼があのあーちゃんだと決まったわけでもなければ──なんだかそうである確信めいたものがちらついて離れないが──仮にそうだとしても、俺なんかのことを覚えている保証もない。そもそも、子供の頃のなにかって、こんな歳になってまで、引きずるものでもないでしょう。
初恋だからってなんだ。世の中の他の人間だって、お遊びみたいに甘い子供の恋心を、永遠に引き連れて大人になる訳でもないだろう。あのきらめいた日々から、もう数年、いや、十年くらい経っている。人生の半分以上だ。過ごしてきた環境も違うわけで、俺も当時の俺とは多少変わっただろうし、それはあーちゃんもそうだろう。昔仲良くしていたからといって、今も変わらず仲良くできるわけでもない。それは、中学高校と実際に経験してきた、時が経てば必然的に起こりうる、寂しくも当然の変化だ。
よし、決めた。関わらない。忘れる。
俺がそう自分のなかで結論づけたのは、三時間目の日本史の授業が終わるタイミングだった。今日の授業の内容なんて、頭の中に何一つ残っていないことを察して、どこかのタイミングで友達にノートを見せてもらおう、とそちらに意識を意図的に逸らした。
昼休みが訪れる頃には、西島碧羽はすっかり浮いた存在になり、物珍しげな視線こそ注がれるものの、彼の周りにはぽっかりと穴が空いたように誰も寄りつかなくなっていた。変な奴、失礼な奴、生意気な奴、と揶揄するような囁き声がたまに聞こえたが、当の本人はどこ吹く風で、何も気にしていない様子なのがまた、高校生らしくない異質な雰囲気を作っていた。
内心気になって仕方がない。けれど、話しかけるだけの勇気も理由もなく、見ないふりをする以外に為す術もない。長すぎる自分会議の中で、彼とは関わり合いにならない方がよいと結論が出たばかりである。それなのに、脳裏には、かつての初恋の女の子の笑顔が、張り付いて離れなかった。
「おつおつー」
友人の檜垣が、コンビニの菓子パンを3個携えて、近くの椅子を引きずりながら、俺の近くに座る。周りも椅子を適当に引き摺るものだから、昼休みに入りたての教室はドタバタとうるさかった。机の上に投げ出されるのは、焼きそばパン、チョコチップのメロンパン、そして薄皮あんぱん。学校近くのコンビニの品揃えではこれが一番コスパいいんだ、というのがこいつの持論だった。
「眠かったー、持田のお経、四時間目はヤバすぎ」
現文ってただでさえ眠いのに、と愚痴りながら、檜垣は早速メロンパンの包みをガサガサ開けている。俺も、リュックから保冷バッグに入った弁当箱を取り出そうとしていると、もうひとりの友人が遅れてやってきた。
「今日漢字小テストなの忘れててマジでやばかったよ」
あはは、と笑いながら、戸塚は席に着いて弁当箱を開ける。ずり落ちた眼鏡のふちを持ち上げるように、右手の人差し指を引っ掛けるのは、戸塚の癖だった。中には、大量の米と、その上に炒めた肉の茶色いおかずが、無骨にドカンと乗っかっている。いつからだろう、なんとなく仲良くなって、弁当を食べるときやグループワークのときには、集合するのがお決まりになっていた。
午後からの授業に対する愚痴と、ハードスケジュールな小テストの確認をしつつ、流行りのドラマがどうとか、ソシャゲのイベントがどうとか、いつものようにほぼ中身のない馬鹿話をしているところで、檜垣がニヤついた声でそっと声を潜めた。
「てか、ヤバいな、転校生」
どき、と心臓がまた撃ち抜かれた。平然を装ってその場にいるが、いつ正体を暴かれるのだろうと冷や汗をかくスパイのような気持ちだ。
ああ、ねえ、と戸塚が眉根を下げる。
「なかなか珍しいタイプだよね、怖いもの知らずっていうか」
「怖いもの知らずぅ? あれは常識知らずな方だろ」
「ちょ、聞こえるって」
面白がって揶揄る檜垣にストップをかける。檜垣は、ふたつめの薄皮あんぱんに手をかけながら続けた。
「いや、いっそイタイってあれは。なんかに影響受けちゃってる系?」
既に浮いてるし、と目線でそちらを指し示すのにつられて、つい、うっかり、窓際に目をやってしまう。
これだけ人のごった返したカオスな配置の教室で、何故だかその瞬間、俺と西島碧羽の間を遮る人もモノもなにもなく。
──バチ、と、強い磁石が遠くから引き合うみたいに、強い衝撃と共に、目が、合った。
慌てて逸らす。底知れぬ深さのある瞳。捉えて離さない魔法。
目、合った? 合ったか? 今。
いや、勘違いかもしれない。そんなわけがない。あれだけ人に興味無いとか言っておいて、教室の真ん中にいる俺を見るか? そう、たまたま? 向こうも気まずいかもしれない。いや、気まずいとか思わなそうだ。色々と全てが怖いが確かめようもない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、おかしくなりそうだ。教室の喧騒がどこか遠く聞こえた。
その時のことだ。
西島碧羽が、席を立った。そして、教室の中に足を一歩踏み出している。
それだけのことで、教室の中は少しざわめいた。異質な転校生が、自分からなにか行動を起こしたことに関する、警戒なのか、興味なのか、ひそひそと囁かれるなんだか嫌な言葉たちも、そこかしこから聞こえてくる。
そこに意識を向けない方が不自然だ。檜垣と戸塚も、飯を食いながら関心は完全に動きのあった窓際に寄せていた。西島碧羽は、自分の席から、教室を突っ切るようにドア側の方へと向かってくる。購買にパンでも買いに行くのかと思ったが、ゆっくり堂々と歩いたその足は、俺の席の真横で止まった。新品の上履きの端が、まだほとんど手をつけていない弁当箱を見下ろした、自分の視界に引っかかった。
「桜太郎」
風を揺らして耳に届いた鈴の音が、肌に触れたその瞬間に鋭くなって脳の奥を突き刺したような心地だった。
微かな掠れをもって声変わりを終えたらしいそれは、確かに記憶の中よりも落ち着いた響きをしていたけど、それでもあのワガママなお姫様と同じ音色をしていた。動揺。
「え、なに、原、知り合い?」
檜垣が、ヤバいやつに絡まれたときの緊張感を漂わせながら、不審な表情で俺に尋ねてくる。俺は、手のひらにじっとりと汗をかく。目を見れない。誰の目も。
喉が渇く。焦る。
気が付けば、教室中の人間が、今、西島碧羽と俺の動向に注目していた。あれだけ打っても響かない、まるで違う次元に過ごしているような振る舞いをする礼儀知らずが、わざわざ自分から声を掛けに、俺に、近付いてきた異様さに。
「え、いや……」
なんとかしなきゃ、なにか反応しなきゃ、と絞り出した無難な相槌は、即座に切り捨てられた。
「いやって」
西島碧羽は、俺に対して、ハ、と見下すように笑う。
ただならぬ俺らの雰囲気を取り持とうとしてくれたのか、今度は戸塚が、横から彼を伺った。
「に、西島、くん? 原と知り合いだったの?」
なんだ、言ってよー、とわざとおちゃらける戸塚の声を遮るように、というか、そもそも聞こうとせず、人を小馬鹿にしたような言い方で被せる。
「あー、西島じゃなくてアオバって呼んでくれる? 苗字変わりすぎて呼ばれても反応できないんだよね」
あっけらかんとそう言ってのける姿に面食らったのは、俺だけではないと思う。もはや、教室中が今俺たちのやり取りに注目して、いっそ授業中よりも静かで集中した空間が作り上げられていた。
意を決して顔を上げる。同級生、クラスメイトを無視するのもまた、不自然かつ心象が悪いと思ったからだ。バチっと、電気が走ったように、目が合った。近くで見る西島碧羽その人は、やはり、明らかに、綺麗な顔をしていた。
彼は、大きくてくっきりとした二重の目を、スっと細めた。挑発するように、俺に笑いかける。今まであまり開かれなかった口の中には八重歯が覗いて、猫か、あるいは吸血鬼のようだと思う。それか、魔女? ケモノ?
その顔を、その表情を、俺は知っていた。どうしようもなく。
「髪の毛が短くなっただけで、初恋の婚約者の顔も忘れちゃうワケぇ?」
心臓がまた跳ねて、冷たい汗が頭から目の横、頬骨と耳の間に伝った。
ザワつくな。見るな。
「お前のカクゴってそんなもんだったんだぁ?」
なあ、と煽るように呼びかけながら、左手を俺の目の前にわざとらしく差し出した。指が細い、肌が白い。爪もなんだかピカピカで、女の子の手みたいなのに、骨は節ばっていて不思議だった。
「──やっぱ、あーちゃん、だったんだ……」
やっとのことで絞り出したはずの音は、心の声なんだか、本当の言葉なんだかわからなかった。喉が渇く。目の前の景色が本当なのかも、もはや分からない。
「久し振りだね、桜太郎」
俺が過去に、命をかけて守ると誓ったお姫様は、あの時と変わらない可憐で危険な笑顔で、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
