「これ、君の?」
秋の陽気が差し込む放課後。知らない男子生徒、同級生だろうか。
差し出されたキーホルダーを見つめて、少しの間、時が止まったような感覚がした。
自分で作ったうさぎのモチーフ、母に渡せなかったプレゼント。全て無かったことにしたくて、一度はゴミ箱に捨てた。だけど、捨てられなかった。それが、母親と自分をつなぐ唯一のものだと思っていたからだった。いつか渡したくて、ずっと鞄の奥底にしまっていた。
「え、」
返す言葉に詰まる。
「お前何つけてんの。女みてぇ、おかまじゃん」
中学生の時に言われた言葉がフラッシュバックする。何年も前のことなのに頭にこびりついて離れない嫌な記憶。思わず握る拳にグッと力が入った。
返事をしない俺を気にする様子もなく、男子生徒は続けた。
「可愛いね、どこで買ったの?」
ドクンと心臓が大きく波打った。
「…自分で、作った」
言葉がスッと出てきたことに、自分でも驚いた。
「そうなの!すご!めっちゃ器用なんだね!」
「え、あ、ありがとう」
そう言うと、男子生徒はキーホルダーを丁寧に俺の手のひらに乗せた。呆気に取られる俺をよそに、彼はうさぎの頬をちょんとつついて、にこりと微笑んだ。
「あの」
「瑞季!!置いてくぞ〜!!」
廊下から誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「今行く!!」
目の前の男子生徒が、その声に向かって返事をした。どうやら彼は「みずき」というらしい。
「じゃあね!」
みずきは俺に向かって手を振ると、いそいそと教室を出て行った。
「可愛い…か」
手のひらに乗ったうさぎ頭を指で撫でた。
あの日、俺もそう素直に言えていれば…。後悔が、じわじわと胸を支配していく。
一方で、足元を縛り付けていた錘が、すっと軽くなった気がした。
「みずき…」
彼が去ったあとの教室で一人、しばらく動けないままでいた。
その日、俺はバイト先の喫茶店へ向かった。昼は喫茶店、夜はバーとして営業している店で、俺はそこで喫茶店の手伝いをしている。
初めてこの店を訪れたのは、高校に入ってすぐのことだった。二十歳だと偽ってバーに入ったものの、嘘はすぐに見抜かれた。追い出されるだけだと思っていた俺に、マスターは事情を聞き、親身になって接してくれた。そして、今はマスターの好意でこうして働かせてもらっている。
「紫苑」
喫茶店に着いて店に出る準備をしていると、マスターから声がかかった。
「お前、今日休み」
「は?」
突然のことに、作業している手が止まった。
「お袋さんとちゃんと話せ」
「なんで、いきなり」
「意地張るのもいいけど、大事なもん見失うなよ」
それから、マスターは教えてくれた。
俺がこの店で働くようになってすぐ、母がマスターに挨拶に来ていたこと。
「何かあったらすぐに連絡して欲しい」と連絡先を渡されていたこと。
「お前はよく働いてくれてるし、助かってる。話ならいつでも聞いてやるし、少ねえ額だがバイト代も渡せる」
穏やかだった声色が、そこでわずかに沈んだ。
「だけど、俺はお前の親じゃねぇ」
その言葉に、返事ができなかった。
突き放されたわけじゃない。むしろ、俺に「向き合え」とそう伝えてくれているのだとわかった。
「大事な人は側にいるうちに大事にしとけ。いなくなってからじゃ遅えんだから」
いつも通りの優しい声。けれど、そこには少しの後悔が滲んでいるようにも感じた。マスターは首にかけたロケットの中身を開き、その縁を大切そうに撫でた。そして、こちらに向き直り、俺の前に厚みのある封筒を差し出してきた。
「いらねえって言ってんのに毎月もってくるんだ。これ、お袋さんに返しな」
風を開くと、息を呑んだ。中には思っていたよりずっと厚い札束がが入っていた。
封筒を握る手に、自然と力がこもる。
母さん。
ずっと、俺のこと見ててくれたのか。守ってくれてたのか。
それなのに、俺は……。
「ごめん、マスター。ありがとうございます」
俺はマスターに頭を下げた。頭上からふっと笑った声が聞こえたかと思えば、背中にドンと衝撃が走った。
「いって」
「ほら、行ってきな」
マスターからの厚い応援を受け取り、俺は店を飛び出した。
喫茶店から家までは歩いて20分程度の距離だ。走れば10分程で着く。俺は見慣れた道を全力で走った。これほど家までが遠いと感じた日は無かった。
休むことなく走り続け、ようやく家に到着した。荒くなった呼吸を整え、鍵を開けてドアノブに手をかける。バクバクと脈打つ心臓の音はいつまで経っても収まらない。意を決して玄関のドアを開いた。
「……紫苑」
そこには驚いた表情の母が立っていた。鍵が空いた音を聞いた母が、玄関まで様子を見にきていたようだった。
「これ」
あの時渡せなかったうさぎのキーホルダーを差し出す。母のものとは比べ物にならないほど不恰好だ。母はそれを黙って受け取った。
「母さんが作るのより下手くそだけど…」
震える声で続ける。止まってしまっては、一生伝えられない気がした。
「あの時、酷いこと言ってごめん。俺、今も母さんが作る編み物好きなんだ。ずっと謝りたかった」
母は俺の腕を引き、優しく抱きしめてくれた。俺の胸におさまる背中を、ぎこちなく抱きしめ返す。わかっていたはずだけど、母の身長を追い越していたことを実感した。
「いいのよ。わたしの方こそごめんね、紫苑の気持ちわかってあげられなかった。伝えてくれて、ありがとう。世界一可愛いうさぎさん、大事にするね」
母は泣いていた。それが最初に見た母の涙だった。
その日、この数年間を埋めるように母とたくさん話をした。編み物を続けていること、マスターによくしてもらったこと、成績を落とさないように勉強を続けていること。そして…
「母さん。俺、弁護士になりたい。傷ついた人の味方になりたいんだ」
ずっと秘めていた思いをやっと口に出すことができた。少しキザなセリフになってしまい、思わず目が泳ぐ。母さんはそんな俺の手を優しく握って言った。
「きっとなれるわ。だって、わたしの自慢の息子だもの」
そう言って、母は満面の笑みを見せてくれた。
その後、キーホルダーを拾ってくれたあの男子生徒は、隣のクラスの瑞季菖蒲だとわかった。
感情が顔に出やすくて、表情がくるくると変わる。周りをよく見ていて、誰にでも優しい。瑞季の第一印象はそれだった。
彼は知らないだろう。あのたった一言に、俺がどれほど救われたか。勇気をもらえたか。
そこから、気がつけば瑞季を目で追ってた。
あいつの視線の先に楓がいることにも自然と気がついた。瑞季の気持ちを見透かしているような楓の態度には腹が立ったが、こいつは元々こういうやつだ。
二年生の新学期。瑞季同じクラスになれたのは、チャンスだと思った。
少しでも近づきたくて、瑞季が立候補した緑化委員に俺も手を挙げていた。
最初の委員会での会話は、正直なんであんなことを言ってしまったのだろうと後から後悔した。何話せばいいかわからずテンパった。花以外の共通の話題が、楓の話なんて最悪だと思った。でも、照れながら楓の話をする瑞季も、可愛いと思う自分がいた。
楓じゃなくて、俺を見てほしい。
最初は瑞季のことを知りたいだけだったのに、気づいたらそんな感情まで出てきていた。
「俺にしたらいいじゃん」
自分の口から出た言葉に、一番驚いたのは俺だったと思う。
そこから一緒に花を育てたり、出かけたり、瑞季と過ごす時間はいつでも楽しかった。
最初は警戒していた瑞季がどんどん表情豊かになっていくのを見ると嬉しかった。
俺の気持ちを伝えたい。そして、あの時のお礼も。
「紫苑!」
廊下を歩く俺に、楓が突然肩を組んできた。
「…」
「え?無反応?寂しいじゃーん。俺うさぎだから死んじゃうよお」
「楓、うざい」
組まれた腕を振りほどこうとすると、楓はますます力を込め、耳元でにやにやと囁いた。
「最近あの子と仲いいじゃん、、告白しねえの?」
「……そのうち」
苦し紛れにそう返すと、楓はわかりやすく吹き出した。
「そのうち、ねぇ?」
顔を見なくてもわかる。絶対、こいつは今嫌な顔で笑っている。そう考えて、耳の奥までじわっと熱くなった。
「ま、頑張れよ!」
「いって!」
バンッ、と背中を思いきり叩かれる。そのままひらひら手を振りながら、楓は去っていった。
「…余計なお世話だよ」
その背中に向かって小さく吐き捨てた。
でも、あいつの言う通りかもしれない。
いつか、じゃ駄目だ。ちゃんと伝えたい。
そう思った時、パタパタと後ろから走り去る足音が聞こえた。
振り返れば、見慣れた後ろ姿。
瑞季だ。
心臓が跳ねたのがわかった。
「……ッ」
考えるより先に、足が動いていた。俺は走り去る影を追って走り出した。
秋の陽気が差し込む放課後。知らない男子生徒、同級生だろうか。
差し出されたキーホルダーを見つめて、少しの間、時が止まったような感覚がした。
自分で作ったうさぎのモチーフ、母に渡せなかったプレゼント。全て無かったことにしたくて、一度はゴミ箱に捨てた。だけど、捨てられなかった。それが、母親と自分をつなぐ唯一のものだと思っていたからだった。いつか渡したくて、ずっと鞄の奥底にしまっていた。
「え、」
返す言葉に詰まる。
「お前何つけてんの。女みてぇ、おかまじゃん」
中学生の時に言われた言葉がフラッシュバックする。何年も前のことなのに頭にこびりついて離れない嫌な記憶。思わず握る拳にグッと力が入った。
返事をしない俺を気にする様子もなく、男子生徒は続けた。
「可愛いね、どこで買ったの?」
ドクンと心臓が大きく波打った。
「…自分で、作った」
言葉がスッと出てきたことに、自分でも驚いた。
「そうなの!すご!めっちゃ器用なんだね!」
「え、あ、ありがとう」
そう言うと、男子生徒はキーホルダーを丁寧に俺の手のひらに乗せた。呆気に取られる俺をよそに、彼はうさぎの頬をちょんとつついて、にこりと微笑んだ。
「あの」
「瑞季!!置いてくぞ〜!!」
廊下から誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「今行く!!」
目の前の男子生徒が、その声に向かって返事をした。どうやら彼は「みずき」というらしい。
「じゃあね!」
みずきは俺に向かって手を振ると、いそいそと教室を出て行った。
「可愛い…か」
手のひらに乗ったうさぎ頭を指で撫でた。
あの日、俺もそう素直に言えていれば…。後悔が、じわじわと胸を支配していく。
一方で、足元を縛り付けていた錘が、すっと軽くなった気がした。
「みずき…」
彼が去ったあとの教室で一人、しばらく動けないままでいた。
その日、俺はバイト先の喫茶店へ向かった。昼は喫茶店、夜はバーとして営業している店で、俺はそこで喫茶店の手伝いをしている。
初めてこの店を訪れたのは、高校に入ってすぐのことだった。二十歳だと偽ってバーに入ったものの、嘘はすぐに見抜かれた。追い出されるだけだと思っていた俺に、マスターは事情を聞き、親身になって接してくれた。そして、今はマスターの好意でこうして働かせてもらっている。
「紫苑」
喫茶店に着いて店に出る準備をしていると、マスターから声がかかった。
「お前、今日休み」
「は?」
突然のことに、作業している手が止まった。
「お袋さんとちゃんと話せ」
「なんで、いきなり」
「意地張るのもいいけど、大事なもん見失うなよ」
それから、マスターは教えてくれた。
俺がこの店で働くようになってすぐ、母がマスターに挨拶に来ていたこと。
「何かあったらすぐに連絡して欲しい」と連絡先を渡されていたこと。
「お前はよく働いてくれてるし、助かってる。話ならいつでも聞いてやるし、少ねえ額だがバイト代も渡せる」
穏やかだった声色が、そこでわずかに沈んだ。
「だけど、俺はお前の親じゃねぇ」
その言葉に、返事ができなかった。
突き放されたわけじゃない。むしろ、俺に「向き合え」とそう伝えてくれているのだとわかった。
「大事な人は側にいるうちに大事にしとけ。いなくなってからじゃ遅えんだから」
いつも通りの優しい声。けれど、そこには少しの後悔が滲んでいるようにも感じた。マスターは首にかけたロケットの中身を開き、その縁を大切そうに撫でた。そして、こちらに向き直り、俺の前に厚みのある封筒を差し出してきた。
「いらねえって言ってんのに毎月もってくるんだ。これ、お袋さんに返しな」
風を開くと、息を呑んだ。中には思っていたよりずっと厚い札束がが入っていた。
封筒を握る手に、自然と力がこもる。
母さん。
ずっと、俺のこと見ててくれたのか。守ってくれてたのか。
それなのに、俺は……。
「ごめん、マスター。ありがとうございます」
俺はマスターに頭を下げた。頭上からふっと笑った声が聞こえたかと思えば、背中にドンと衝撃が走った。
「いって」
「ほら、行ってきな」
マスターからの厚い応援を受け取り、俺は店を飛び出した。
喫茶店から家までは歩いて20分程度の距離だ。走れば10分程で着く。俺は見慣れた道を全力で走った。これほど家までが遠いと感じた日は無かった。
休むことなく走り続け、ようやく家に到着した。荒くなった呼吸を整え、鍵を開けてドアノブに手をかける。バクバクと脈打つ心臓の音はいつまで経っても収まらない。意を決して玄関のドアを開いた。
「……紫苑」
そこには驚いた表情の母が立っていた。鍵が空いた音を聞いた母が、玄関まで様子を見にきていたようだった。
「これ」
あの時渡せなかったうさぎのキーホルダーを差し出す。母のものとは比べ物にならないほど不恰好だ。母はそれを黙って受け取った。
「母さんが作るのより下手くそだけど…」
震える声で続ける。止まってしまっては、一生伝えられない気がした。
「あの時、酷いこと言ってごめん。俺、今も母さんが作る編み物好きなんだ。ずっと謝りたかった」
母は俺の腕を引き、優しく抱きしめてくれた。俺の胸におさまる背中を、ぎこちなく抱きしめ返す。わかっていたはずだけど、母の身長を追い越していたことを実感した。
「いいのよ。わたしの方こそごめんね、紫苑の気持ちわかってあげられなかった。伝えてくれて、ありがとう。世界一可愛いうさぎさん、大事にするね」
母は泣いていた。それが最初に見た母の涙だった。
その日、この数年間を埋めるように母とたくさん話をした。編み物を続けていること、マスターによくしてもらったこと、成績を落とさないように勉強を続けていること。そして…
「母さん。俺、弁護士になりたい。傷ついた人の味方になりたいんだ」
ずっと秘めていた思いをやっと口に出すことができた。少しキザなセリフになってしまい、思わず目が泳ぐ。母さんはそんな俺の手を優しく握って言った。
「きっとなれるわ。だって、わたしの自慢の息子だもの」
そう言って、母は満面の笑みを見せてくれた。
その後、キーホルダーを拾ってくれたあの男子生徒は、隣のクラスの瑞季菖蒲だとわかった。
感情が顔に出やすくて、表情がくるくると変わる。周りをよく見ていて、誰にでも優しい。瑞季の第一印象はそれだった。
彼は知らないだろう。あのたった一言に、俺がどれほど救われたか。勇気をもらえたか。
そこから、気がつけば瑞季を目で追ってた。
あいつの視線の先に楓がいることにも自然と気がついた。瑞季の気持ちを見透かしているような楓の態度には腹が立ったが、こいつは元々こういうやつだ。
二年生の新学期。瑞季同じクラスになれたのは、チャンスだと思った。
少しでも近づきたくて、瑞季が立候補した緑化委員に俺も手を挙げていた。
最初の委員会での会話は、正直なんであんなことを言ってしまったのだろうと後から後悔した。何話せばいいかわからずテンパった。花以外の共通の話題が、楓の話なんて最悪だと思った。でも、照れながら楓の話をする瑞季も、可愛いと思う自分がいた。
楓じゃなくて、俺を見てほしい。
最初は瑞季のことを知りたいだけだったのに、気づいたらそんな感情まで出てきていた。
「俺にしたらいいじゃん」
自分の口から出た言葉に、一番驚いたのは俺だったと思う。
そこから一緒に花を育てたり、出かけたり、瑞季と過ごす時間はいつでも楽しかった。
最初は警戒していた瑞季がどんどん表情豊かになっていくのを見ると嬉しかった。
俺の気持ちを伝えたい。そして、あの時のお礼も。
「紫苑!」
廊下を歩く俺に、楓が突然肩を組んできた。
「…」
「え?無反応?寂しいじゃーん。俺うさぎだから死んじゃうよお」
「楓、うざい」
組まれた腕を振りほどこうとすると、楓はますます力を込め、耳元でにやにやと囁いた。
「最近あの子と仲いいじゃん、、告白しねえの?」
「……そのうち」
苦し紛れにそう返すと、楓はわかりやすく吹き出した。
「そのうち、ねぇ?」
顔を見なくてもわかる。絶対、こいつは今嫌な顔で笑っている。そう考えて、耳の奥までじわっと熱くなった。
「ま、頑張れよ!」
「いって!」
バンッ、と背中を思いきり叩かれる。そのままひらひら手を振りながら、楓は去っていった。
「…余計なお世話だよ」
その背中に向かって小さく吐き捨てた。
でも、あいつの言う通りかもしれない。
いつか、じゃ駄目だ。ちゃんと伝えたい。
そう思った時、パタパタと後ろから走り去る足音が聞こえた。
振り返れば、見慣れた後ろ姿。
瑞季だ。
心臓が跳ねたのがわかった。
「……ッ」
考えるより先に、足が動いていた。俺は走り去る影を追って走り出した。
