ふたりぼっちの帰宅部員

「なんで」
 ぼくは頭が混乱してしまい、妙に素直に千晴に言葉を投げた。
「帰り道だし」
 千晴が平然と答えた。
 たしかに。同じ町で暮らしてんだから、そりゃそうだ。なんだか自分が間抜けなことをぬかしたみたいになっている。
 千晴はずっと立っているし、ぼくのほうも家に入るきっかけがなく、佇んでいる。いや、さっさと入ればいいだけなんだけど、こうなってしまったら、なにか一言二言交わさないと妙だ。
 どうしよう、と思っているとき、玄関のドアが開いた。
「なあに?」
 母だった。
「こんにちは」
 千晴は母に挨拶をして丁寧に頭を下げた。
「もしかして、高木くん!?」
 母が素っ頓狂な声をあげた。まるで推しの芸能人に道端で遭遇したみたいだ。
「わーっ、大きくなって! テレビで見たわよ、朝の、ほら、日本一足が早いって」
 家の前で大騒ぎをする母。恥ずかしい。近所のみなさんが出てくるかもしれない。
「あれは盛りすぎです」
 千晴が答えると、
「でもテレビが言ってるんだから、すごいわあ。え? 千晴と高校同じだったの? なんで言わなかったのよ」
 とぼくを咎めた。
「だって聞かれなかったし」
「ビッグニュースでしょ、これだからあんたは」
 母がぼくを叩き、「せっかくなんだからおあがりなさいよ。カステラあるわよ、つい最近お父さんが出張で買ってきたの、長崎の!」
 母が千晴を手で招く。
「じゃあ、いただきます」
 千晴が、項垂れているぼくの横を通っていく。
「ほら、あんたもさっさと入りなさいよ。そんなふうに家の前でしゃがんで、恥ずかしいったら」
 さっさと母は千晴を家に入れ、ドアをばたんと閉めた。
 なんだこれは。
 ちょっと立ち話をしてさよならすればこんなことにならなかったのに。
 家に入ると玄関に、きちんと千晴の革靴が置かれている。ぼくよりもサイズが大きい。足、でかいんだな、とぼんやり思った。テレビのある居間のほうに向かうと誰もいない。
「あれ? お母さん?」
 ぼくは台所のほうに向かって呼んだ。
「なによあんた、うるさいわねえ」
 包丁を手にした母がやってきた。
「なんでいないの?」
 千晴が、とぼくは訊ねた。
「あんたの部屋に通したわよ」
「は?」
「だっていつもあんたたち、部屋で遊んでいたじゃない」
 という母の言葉を聞き終える間もなく、ぼくは階段を駆け上がり、勢いよく部屋のドアをあけた。
「おう」
 千晴がぼくの汚部屋にあぐらをかいて、本棚の漫画を物色していた。
 ぼくは頭を抱えた。
「まじかよ」
 寝乱れたベッド、床に散らかったゴミやら丸まった服に漫画本のなかにいる千晴は、なんだか異物だった。
「あ、まだ集めてたんだこれ」
 千晴が本棚から、漫画を一冊抜き取り、ぱらぱらとめくった。「どこまで読んだかなあ」
 なんて呑気なことを言っている。
 まるで自分の部屋にいるみたいにくつろいでいるが、違和感しかない。
 昔は馴染んでいたのに。
 ぼくは観念してバックパックを床に落とし、窓を開けた。籠った空気を入れ替えたかった。まだまだ夕暮れはやってきていない。風が部屋に入ってくる。埃が舞ってきらきらしている。
 お前、埃まみれになるぞ、とぼくは千晴を見た。
「ん?」
 千晴が漫画から顔を上げた。
「……なんでもない」
 一瞬言葉に詰まった。ぼくはベッドに腰掛けた。
 部屋に千晴がいるのはひさしぶりだ。まだその頃は、制服も着ていなかったし、こんなに背丈も伸びていなかった。
 三年は、人をこんなにも別人にさせる。
 千晴は、べつにすごく顔はいいというわけでもない。むしろ普通だ。けれど、昔からよくモテた。バレンタインデーにはチョコレートを抱えて帰った。なにももらえなかったぼくに、分けようとしてくれた。もちろん断ったけど。
 好きな人にあげたものを、よそに回されたら、ショックだろう。なにも考えずに受け取って、がさつに食べるくらいのメンタルだったら、自分ももう少し面白おかしく生きることができたろうな、なんて、いま漫画を読んでいる千晴の横顔を見ながら思い出した。
「なに?」
 ふたたび漫画から顔をあげて、千晴がぼくを見た。少しだけ、くちびるを柔らかくあげた。漫画が面白いのか、目もいつもの生真面目さが抜けて、やさしい。
「ん、なんでもないよ」
 ひさしぶり、も、元気? なんて挨拶もなく、まるで昨日も会っていたみたいに、当たり前のようにぼくの部屋でくつろいでいる姿を見て、よけいに、再会したことによる余計なやりとりはできなくなった。
 それに、ぼくは千晴がぼくと会わなくなってからの日々の活躍を知っていたから。
 千晴はぼくがどんな暮らしをしてきたかは知らない。けれど「中学どんなだった?」なんて訊こうともしない。
 そういうところは、まったく変わっていない。
 自分から話さない限り、決して質問をしようとはしない。
 なんとなく、しずかに千晴があぐらをかいて漫画を読んでいる姿を眺めていたら、安心してきた。
 なんだか謎に、「守られている」ような気がした。
 誰にだろう。
 千晴になのだろうか。ちょっと違う。
 自分たちのことを眺めているなにか。
 決して口出ししない。興味があるわけでもない。ただ、見ている。優しくも厳しくもない視線。
 神様っぽいなにかだった。
「カステラ食べにおいでー」
 階下から母の声がした。
 結局カステラと紅茶(なんて日頃うちで出されたことはなかった!)を食べながら、母の質問責めに千晴は嫌な顔をせず、答えた。ぼくだったら適当にごまかして、そのまま退散するところだ。なんなら反抗の一つも見せてやる。千晴は人間ができている。
「でも、中学、私立に入ったのに、高校は公立なんてねえ。あの学校、中高一貫で、そのまま大学もエスカレーターで行けたじゃない。もったいない。代われるなら充をぶちこんでやりたいところよ。この子、成績も普通だし、なんていうかハングリー精神みたいなものがなくって、心配で……」
 質問と羨ましさと息子へのディスを詰め込み、母がぺらぺらとしゃべっている。
 結局このひと、言いたいだけじゃん、と思いながらぼくはカステラを口に運んだ。
「ちょっと通学が遠くて、それに毎日満員電車に乗るもきつくて。俺、堪え性がないんで」
 千晴は、ぼくには短くしか言わないくせに、まるで与えられた模範解答を話すように言った。照れ笑いを浮かべて。
「そうなの。でもたしかにねえ、このあたり、東京まで特急ですぐなんて言われているけど、そんなふうにやってきた人たちがたくさんいるから余計に大混雑よねえ。最近土地開発とかいっちゃって、やたらと高いマンションも建っちゃって。元からいた住民の方がなんとなく居心地悪いったら」
 母は住んでいる町の変化に対して、ワイドショーレベル以下のコメントをくどくどと述べたが、千晴はそれを楽しそうに聞いていた。
 すごい忍耐力だ。
 カステラを食べ終わった後も母は千晴を引き留めた。
「せっかくだから晩御飯食べていきなさいよ」
「いや、それは迷惑じゃ」
 ぼくが止めると、
「ぜんぜん。いいんですか?」
 と千晴が言った。
「もちろんよ。お父さんに早く帰ってくるように伝えとかなくちゃ」
 母がスマホを出した。「そうだ、帰りにスーパーでお肉買ってきてもらう。焼肉でもしましょうか」
 ぼくはあっけにとられた。焼肉なんて提案、ここしばらく聞いたことがなかった。スペシャルゲストに対するおもてなしってやつだろうか。
「だったらどっか店の焼肉が食べたいな」
 ぼくは、息子への対応との違いに抗議をこめつつ、「だったらたまには外食させろ」という願いを乗せて言った。
「あんたがバイトしてわたしたちに奢る、くらいのことしてみなさいよ。いまどき焼肉屋なんていくらかかると思ってるの」
 母がスマホを操作しながら言った。
「ご迷惑なら」
 千晴がソファから腰をあげると、
「違うの違うの! 全然迷惑じゃないから! まったく、充はほんとうに場の空気を壊すっていうか、自分勝手でねえ」
 と、再び息子に対する愚痴を言い始めた。なんだか肉を食う気も失せてくる。
「いや、充はなんにも変わってないですよ。昔からいいやつ」
 千晴はぼくを見ずに言った。
 どきりとした。性格の捻くれているぼくは、「だったらなんで」と口にしかけて、慌てて唇を結んだ。
 千晴の横顔。
 嘘は言っていないのがわかる。そんな顔で、平気で人を褒めたりでもするなら、こいつはとんでもない悪人だ。
「そんなこと言ってくれるのは高木くんだけよー」
 母が大笑いして、「ずっと友達でいてやってね」
 と続けた。
 父は肉を抱えて帰ってきて、そのまま焼肉大会となった。
 母がさっきした質問の簡略バージョンを父は訊いて、それにも決して嫌な顔をせず千晴は答えた。
 そしてわりと良い時間になったところで、
「そろそろ帰ります」
 と千晴は言った。
「また遊びに来てね。学校もまた同じになったし」
 母が名残惜しそうに良い、千晴は頭を掻いた。
「ちょっと、途中まで送る」
 ぼくもサンダルをつっかけて、千晴と一緒に家を出た。
 すっかりあたりは暗くなり、ぽつぽつと電灯がついている。あちこちの家の窓から灯りが漏れていて、ときおりテレビの音や笑い声が聞こえていた。
 ぼくたちはとくに話すこともなかった。
 というか、二人きりでいるとき、お互い話題を振るようなことがなかった。
 昔はどうだったろう。一緒にいるとき、ずっとなにか喋っていたような気がする。
 三年前のマインドなんて、すっかり忘れてしまった。三年といったら、わりと長い時間だったし、あっという間のようにも思える。喉元過ぎれば暑さも忘れる。そんな言葉が思い浮かんだ。正確な表現かはわからなかったけれど。千晴のいない三年間で、ぼくはずいぶん変わってしまったように感じた。
 変わってしまったから、千晴を目の前にして、以前のように接することができない。千晴はどう思っているんだろうか。
「相変わらずだったな」
 ちょうど信号を待っているとき、千晴が言った。
「相変わらずって、なにが?」
「お母さん、いつも元気でさ。小学校の頃体育祭で親子ペアの競技のとき、一番張り切ってたよな、そういえば」
「ああ、障害物競走一位になったこと、いまだに自慢してるよ。こっちからしたら恥ずかしいだけなのに」
「めちゃめちゃいいじゃん。そういうの」
 ちゃんと会話ができたことにほっとした。なにか言おうとしたとき、信号が青になり、ぼくたちは歩きだした。
 歩いていると、会話がなくなる。
「じゃあ、このへんでいいよ」
 大通りにさしかかったとき、千晴が言った。
「そういや、千晴のお母さんはいつも静かな人だったね、元気?」
 なんとなく、名残惜しくて、もう少しだけちゃんと話をしたいと思って、ぼくは言った。
 千晴のお母さんはいつも身体が弱いと、学校に顔を出さなかった。いつだったか、日傘をさして千晴と歩いているのに出くわしたくらいだ。上品な人だった。こんなに印象が薄い人もめずらしい、くらいに無個性に思えた。白い日傘、白いワンピース、そして突き出た細い腕。顔は、さっぱりしていて、思い出せない。
「ああ」
 千晴はちょっと困った顔をした。なにか地雷を踏んでしまったのだろうか。もしかして、いまそんなに仲がよくない、とか。そもそも高校生になって母親とべったりなんてのも、おかしい話か。
「あ、ごめん」
「どこに行ったんだか、行方不明だし。どっかで生きているのかな」
 千晴がぽつりと言った。
 ぼくは息を呑んだ。
 そのときの千晴の表情が、厳しくて。
 憎んでいるわけでも怒っているわけでもないような。ただ、理不尽さを見据えているような、そんな表情だった。
 なんとなく、ぼくと千晴は同い年なのに、とても年上に思えた。
 見覚えがある。
 いつかも、千晴はこんな顔をしていた気がする。でも、いつだったろう。ぼくは、自分のことばかり考えていて、もしかして一番の友達だった千晴の気持ちなんて何一つ考えたことはなかったのではないだろうか。
 だったら、ぼくが千晴に感じているわだかまりのようなもの、ひけめも、自分を卑下するためだけに拵えたものなのかもしれない。
 ぼくは、千晴になにか言わなくちゃいけないと焦りながら、何も言えず、千晴は、
「また明日」
 と言って背中を見せた。