君だけは、どうかお元気で



郷土資料館は、鬼山村の歴史的資料が展示されている村の博物館だ。とはいっても、そんな大層なものが飾られているわけではなく、その殆どが鬼神様と鬼窟神社に関する書物や写真で、「鬼神資料館」と名乗っても全く問題ないほどだ。
資料館の建物は、鬼山家と名乗るようになった時代の先祖の生家といわれており、当時の間取りのまま、耐震補強や外壁の塗り替えをして維持しているそうだ。鬼山村を統べる者と言っても過言ではないほどの存在でありながら、その生家は想像よりもずっと質素で、正直、間取りというほどに部屋はない。屋根裏部屋の他は、一階の土間と、そこに炊事場だったであろう釜戸があり、あとは6畳ほどの畳部屋が一つあるのみ。真ん中に置かれた当時使われていたとされるちゃぶ台には、現存する食器が数点展示されていて、それを四方囲むようにガラス張りの展示ケースが設置されている。当時から今に至るまでの村の畑の様子や、鬼山を中心においた風景の写真、そして、達筆な文字で書き綴られた手記が飾られていた。
大して興味がなければ、1分で回り終わるほどの手狭なスペースと展示物。それでも、れいじは食い入るように一つ一つを見ていた。横には怜司が貼り付く様に続き、一緒に眺めている。
俺は昔に一度訪れて以来だが、特に見たいと思うものもなく、既に欠伸が止まらなくなっていた。わざと薄暗くされた空間に、展示物を照らすほのかな光。これが眠気を誘ってどうしようもない。博物館という場所は、見せたいのやら、寝かせたいのやら。
「起源とやらは、どれを見れば分かるんだい?」
「この手記に書いてあるよ」
怜司が指差した先には、分厚く積み上げられた紙の束と、その一部を抜粋したコピーとされる数枚が並び立てかけられていた。
「鬼神様と契約したとされる女性の日記なんだって」
「日記?」
「この女性は生まれつき体が弱くて、殆ど家で過ごしていてね。することが無いから、家で何をしたとか、何を考えていたとか、そういうのを細かく書いていたんだって。で、その日記の後半に、鬼の話が出てくるんだ」
抜粋された日記の内容をまとめるとこうだ。
その昔、この地域一帯は鬼と称される悪霊に呪われていたそうだ。荒天が続き、田畑を荒らされ、職も食事もまともにありつけず、治安も悪くなる一方だった。
その地域に、一人の女性がいた。農家の長女だったその女性は美しい容姿をしていたそうだが、虚弱体質で、田畑を耕したり、家事をしたり、そういう力仕事ができなかった。そのせいで、家族の一員として役に立たないからと、なかなか嫁の貰い手がつかなかった。両親や兄弟からは愛情を受け、大切にされていたようだが、作物が満足に育たずいつも困窮していたために、自分は役立たずの穀潰しだと己の生を悔やみ、せめて邪魔はしないようにと実家の屋根裏部屋に布団を敷いて引きこもっていたそうだ。
17歳を過ぎても、彼女は実家にいた。当時女性の結婚年齢は平均で14歳とされており、18歳で独身は行き遅れとされていた。女性は、18歳になったら身投げすることを決めていたようだ。
ある夏の日、悪霊の仕業により日照りが続き、土の水が干上がってしまっていた。悪霊は愉快そうにその様を眺めていたが、そこでふと、家屋の屋根裏にある小窓から顔を覗かせる女性に目が留まった。鬼は、その女性に近づいて言った。一目惚れした。お前が気に入った、と。
鬼は霊であるから、霊感のある者でないと姿を見ることはできない。女性は強い霊力を持っていたようで、鬼の存在を認識することができた。鬼は自分が気に入った女性が、自分を見えていることに上機嫌になり、二人は語らった。
女性は鬼に言った。自分はこの村が好きだ。緑深い山々に囲まれた豊かな自然があり、大好きな家族の住むこの村のために役に立ちたいのに、それが叶わない。だから、せめて迷惑にならない様に死にたいと思っていると。
それを聞いた鬼はこう提案する。ならばお前が18になり命を絶った時、その魂を自分の伴侶として頂く。その代わりに、この地域の安寧を約束しようと。
鬼は、美しく強い霊力を持つ彼女の魂が欲しかったようだ。もはや生に執着の無かった彼女はその提案を快諾し、その日のことを、「鬼と契約をした」と日記に書き留めている。
そして18歳の誕生日とされる日、彼女の日記には「さようなら」とだけ書かれてあった。翌日以降の記述はない。おそらく「契約」どおり、女性は自らの命を絶ったのだろう。
鬼も「契約」どおりその女性の魂を貰い受けたのか、以降この地域に鬼が現れることはなくなり、代わりに今の鬼山村のように、穏やかな気候と作物に恵まれた、長閑な村となったそうだ。
残された家族は彼女の日記を読んで事の顛末を知ったのか、村民とともに、その鬼を村の守り神として崇めることとした。鬼が現れたとされる山を鬼山と呼び、信仰の対象とした。そして女性の家族は、以降鬼山姓を名乗り、村の代表として、鬼山と守り神を祀る神職を担うこととなった。
それは現在に至るまで受け継がれ、鬼が女性とともに、末永くこの村を守ってくれることを祈り続けている。それが怜司の生まれた、鬼山家だ。
この歴史があるから、鬼山家は村長や町長よりも敬意を払われているわけだ。
れいじは静かに、怜司の解説を聞いていた。
「まあ、こんな日記があるよって言われているものの、どこまで本当かは分からないけどね」
「嘘ってこと?」
「全部が嘘とは言わないけど。歴史ってそういうものじゃない?脚色されたり、大袈裟に書かれたり。伝説って捉えたほうが面白くていいかもね」
俺は手記の解説文を読んでみた。本当にそのような女性がいたのか、鬼がいたのか、契約が交わされたのかは、この日記以外からは探せないそうだ。大体、肝心な女性の名前すら不明とされている。悪い言い方をすれば、神社を建てた後から歴史をでっち上げた可能性も否定できないわけだ。
怜司の言うとおり、起源とされているこの話は、伝説に近いのかもしれない。歴史なんてそんなものだろう。フィクション小説と違いない。
しかし気になる文もある。解説文には、過去、鬼山家の者で、18歳を迎えた後突然死した事例が残されているとも記されていた。
「これ、親父さんから聞いたことあるか?」
「…そうだね。でもかなり昔に言われたことらしくて、父さんも、都市伝説として聞かされたって言ってたよ」
鬼に気に入られた者は、18歳の誕生日に魂を奪われる代わりに、願いを叶えてもらえる。そういう都市伝説だそうだ。
「へえ。いいね、何でも叶えてくれるんだろう?」
「神様だからね」
「僕なら何をお願いしようかなー。無難に世界平和?」
「何言ってんだお前、命引き換えにすんだぞ」
「雄大はもう18歳だから関係ないじゃん」
今年の7月に誕生日を迎え、18歳となった。今の時代では立派な成人らしい。俺を見ても周りを見ても、どう考えても大人とは思えない。そもそも何をもって大人というのだろうか。紙に残されたこの時代では、何歳で成人とされたのか。14歳くらいだろうか。俺の愚かさが爆発していたあの暗黒時代で成人だとしたら、俺は相当頭のおかしい大人に思われただろう。
それからたったの4年後に自分の人生を、未来を捨てる決断をするなんて。願いは自分の力で叶えたいし、叶えた未来をこの目で見たい。
「怜司君はまだ18歳になっていないの?」
「うん。僕の誕生日1月1日なんだ」
「へえ。めでたいね。もし鬼に会えたら、何をお願いしたい?」
「…、大事な人を守ってほしい、かな」
怜司は俺の方を見ない。この男に詳しく問いただされない様に、ここにはいない無関係な人間の話をしている体でいるようだ。
「その人は、なにか大変な目に合っているのかい?」
「そうだね。僕では力不足だから。だから、神頼みだね」
力不足。その言葉に胸がチリチリと痛む。決して力不足ではない。むしろ十二分だ。それなのに自分の体質に目を向けすぎて、自分は役に立っていないと嘆いている。本当に力不足なのは、俺の方なのに。
男と楽しげに話す、怜司の横顔をちらと見る。
美しく力がありながら体が弱く、役立たずを嘆いて、鬼に魂を捧げる覚悟を決めた女性。自立すらままならない代わりに、持っている力を最大限に利用して、自身の愛する村を守りたいという願いを叶えようとした。
その境遇と自己犠牲の精神が、怜司に被る気がした。
「なあ、次行こうぜ」
どうせ所詮は作り話のはずなのに、突然に血の気が引いて、鳥肌が立った。これ以上この場で考え事をしたくなくて、俺は外に出るよう二人を促した。

次とは言っても、行っておく観光先といえば、ここで最後だろう。
「資料館入り口」から再びバスに乗り20分弱、「やすらぎの丘」で降りた。
ここは本当に何もない野原だったが、鬼山を一望できるフォトスポットとして活用しようと、2年前にちょっとした施設が建てられた。20m程の大廻りな螺旋状を描くスロープで作られた丘を登っていくと、木の柵が立てつけてある見晴台があり、そこで鬼山の絶景が撮れるというものだ。
スロープは少々急なために、半分あたりで踊り場が設けられており、設置されているベンチで休憩できるようになっている。踊り場はかなり広めに作られていて、車椅子3台並んでも余裕で人がうろつけるほどだ。ベンチも複数置かれている。正直、ここからの眺めでも十分景色は堪能できてしまう。体の不自由な人なんかは、写真撮影が目当てでなければ、見晴台まで登る必要はあまりないかもしれない。
丘の隣には、隣町から援助を貰って役場が建てた2階建ての村民会館がある。1階には、年に1度開催しているフォトコンテストで応募のあった写真を展示するスペースがあるほか、小規模ながら地元の農家が農作物を持ち寄る直売所も設けられている。2階は社会福祉法人が営業する喫茶店「鬼の洗濯」が入っているほか、展望エリアという名の余剰スペースがあり、雨の日なんかはここから鬼山を眺めることができる。
喫茶店といえば、俺たち村民の憩いの場、喫茶店があるが、実はあの喫茶店の店主が法人と協力して運営している店で、店主はメニューやレシピの提供をしているそうだ。以前、この施設が建てられた直後に喫茶店を訪れた際、店主から教えてもらった。
提供されたメニューは喫茶店でも飲食できるものだから、地元の人間は結局、いつもの喫茶店に行ってしまう。ここはあくまで観光客向けの場所で、平日はお休み、土日や長期休みに入った頃に開店している。今日は日曜日だから、店の明かりはついていた。
俺たちはまず見晴台まで登ることにした。怜司は10mいかないところで息が上がってしまったので、俺が背負って残りを登り切った。年齢でいえば同級生だが、体格差だけみればまるで年の離れた兄弟だ。怜司を負ぶさって涼しい顔をしながら登る俺を見て、どういうわけか男のツボに入ったのか、腹を抱えながらケラケラ笑っていた。
「ちょ…、ちょっと大きい子どもじゃないか」
「言いすぎだよ!」
膨れっ面の怜司は、しかし見晴台から望む鬼山の景色を見て、途端に目を輝かせた。
男も風で飛ばされない様に帽子を押さえながら、「おお」と感嘆の声をもらした。
雲一つない快晴の空に映える青々とした木々を従えて、厳かに立つその姿は、神の住む山として相応しい風格を感じる。脇に控える小さな連山も、鬼山の威厳を際立たせる仕掛けのように見えた。
「これは凄いね」
「こりゃあ富士山にだって負けないね!」
「富士山と張り合うのは厚かましいだろ。あっちの方が全然高いし」
「似たようなもんだろー。図体でかいだけですー」
「はは!さすが贔屓するね」
鬼山は確か、600mあるかないかで、日本に数ある霊山の中でも低山に分類される。3700mを超える富士山には負けるだろう。それは事実だが、景色が良いことは間違いない。
「この地域一帯からすれば鬼山は十分高いね。あんな高いところから鬼が降りてきたら怖そうだ。鬼はどれくらい大きいんだろうね」
「鬼山くらい大きいよ」
「へえ。…え、なんで分かんだよ。見たのか?」
しれっと答える怜司に、男と俺は同時に怜司に視線を送った。視線に気がついた怜司はあからさまにビクッと肩を揺らし、慌てて言葉を探している。
「え、あ、ほ、ほら!小さい頃にさ!だから僕、絵が描けたんだよ」
「絵?」
「怜司は鬼の絵が描けるんだよ。まあ、めっちゃ下手だけど」
「下手なの?」
「真面目に聞き返さないでよ…」
「はは!ごめんよ。でも鬼って神様でしょ?見たことあるなんて凄いね。どこで?」
「どこって、んー、夢の中っていうのかな。すっごい大きなお姿でさ。小さい頃に見たから、山くらい大きいって記憶に残ってたのかも」
そう言って、怜司は思いっきり両手を広げて「すっごい大きなお姿」を表現してみせた。怜司の体では、すっごい大きいがすっごい大きいに見えないが、きっとすっごい大きかったのだろう。同じことを思っていたらしい男と目を見やって、思わず吹き出してしまった。その二人に、怜司の膨れっ面が戻ってきてしまった。
あまり長くいると体が冷えてしまう。俺たちは丘を降りて、会館の2階で休憩することにした。2組ほどの子連れ家族が既に来店している。行きつけの方の喫茶店は静かな大人の空間って感じだから、子どもを連れてくるならこっちなのだろう。自分たち以外に客がいないのを良いことに、子どもたちを自由にさせているようで、店内を縦横無尽に走り回っても放っておいているようだった。あまりゆっくりできそうもないからと、テイクアウトをすることにした。俺は昼を過ぎて腹が減ったので、ホットドックとホットコーヒー。怜司はいつも通りのホットココア。男は何も注文しなかった。本当に良いのか念押ししたら、「お金ないから」と。確かにそうだった。あまり腹も減っていないようだったし、それ以上のお節介はやめておいた。
お盆に乗せられた注文の品を受け取って、展望エリアにある階段のようになっている椅子に腰掛けた。
怜司は少し冷えたうえに疲れが出てきたのか、ホットココアを両手で持ったまま、ガラス張りに映る景色を見ながら黙ってしまっていた。先ほどまでの元気がみえなくなって、男も気にかかる様子をみせている。
「怜司君、大丈夫?」
「あ…、うん。大丈夫だよ」
あまり話すのもしんどそうだったので、代わりに俺が喋る。
「こいつ体が弱いんだ。悪いけど、ちょっと休ませてやってくれ」
「もちろんさ。そういえば、ここから神社まで時間かかりそうだよね。もう今日はお開きでもいいかもしれないね」
「そうか?悪いな」
この会館から神社までは1時間弱といったところだが、なにせバスの本数が少ない。スマホで撮っておいた時刻表を確認してみる。今はちょうど13時になったところだ。神社に向かうバスが次に来るのは、13時10分。もうすぐ来る。これを逃したら、あと5時間は来ない。確認しておいて良かった。
二人に時間を教えると、早く行こうと席を立った。
怜司は申し訳なさそうに小さな声で、ごめんと男に謝った。
「気にしないで。今日はすごく楽しかったね。この村を楽しめたよ」
「本当?へへ、良かったな」
男の言葉に、心底嬉しそうな顔を俺に向けてきた。役に立てたのが嬉しくて仕方ないのだろう。こいつの行動の根底には常に、誰かの役に立ちたいという願いがある。しかしその願いが、自分に対する冷酷さに繋がってしまう。誰かの為になるのなら、自分がどうなろうと出来ることをやるだけという、自分への無慈悲さ。俺が制止しなければ、男が次行こうと言えば無理してでもついていこうとしたに違いない。俺がいるからといって、自分の体が丈夫になるわけではないことは分かっているはずなのに。自分のことを知らない人間に、気を遣わせたくない気持ちが勝ってしまうのだろう。
俺はまだ残っていたホットドックを口に押しやって、コーヒーを流し込んだ。まだ湯気が立っている液体を飲み切った俺を見てか、男が感心したように言った。
「雄大君は、…分かりやすく丈夫そうだね」
「まあな。元気なのが取り柄だ」
「良いことだよ。君もきっと、日本縦断の旅なんかできるかもしれないね」
このやりとりを、怜司が静かに聞いている。
「しねえよ。興味ねえ」
今の返答に、怜司はどう思っただろうか。どんなに本心だと説明しても、きっと信じてはくれないだろう。自分がいるからできないことを、分かっていてそう返事をしたと。
それが全くの勘違いではないという事実のせいで、余計に厄介なわけだけれど。

時刻表より2分程遅れてバスが到着した。どうせ誰も乗らないだろうからと、のんびり走らせていたのか、バス停に男が3人並んでいる姿を見てか、運転手が一瞬驚いた顔をしたところは見逃さなかった。とはいえ、バケモノを見たかような引き攣った顔をする程ではないと思うが。休日にここから誰かが乗り入れることがそんなに珍しいのだろうか。
車内に乗り込むと、確かに、見事に誰も乗っていなかった。貸切状態だ。どこでも好きな席を選べたが、今日これが最後の旅路だ。行きと同じように最後列のロングシートに横並びで座った。変わらず真ん中に座る怜司は、バスが発進してしばらく経たないうちに、寝息を立て始めた。バスの揺れに合わせて怜司の体も揺れ、ついに男の肩に寄り掛かった。
「あ、悪ぃ」
離そうと怜司の肩に手をかけたが、男が制止した。
「起きちゃうと可哀想だろ」
「…おお」
男の言葉に甘えて、怜司をそのままにしておいた。肩に乗った怜司の表情が、どことなく安心しているように見える。甘えるように、自然とそっちに体が倒れたような気さえした。
俺の顔を横目で見た男が、ふっと笑った。
「やきもちかい?」
「は?なんでそうなる」
「不貞腐れていたようだけど」
そう言われて、急に恥ずかしくなって咄嗟に両手を顔に当てた。俺は男が重くないかと気を遣っただけで、気に入らないから引き剝がしてやろうなんてそんなこと思ったわけないじゃないか。勘違いを正してやろうとして、しかしなんだか馬鹿らしくなって、気持ちを切り替えるために自分の頬を強めに叩いた。
「…してねえ」
「はは。冗談だよ」
「どっちかっていうと、お前の弟みたいにみえるな。なんかお前ら、雰囲気似てるし」
俺にそう言われた男は、今度は怜司の顔を覗く。しばらく黙って見つめると、また、ふっと笑ってみせた。
「そうかもしれないね」
それからから男は、肩に怜司を寄りかからせたまま、窓の外を静かに眺めていた。特に話しかける話題も見つからないから、俺は反対側の窓に映る景色を見ていた。行きと違って会話がないせいか、やけに遠く感じる。
何度かバウンドするように車体が揺れると、怜司の体が前のめりに動いた。前の席に額をぶつけないように、そっと背もたれに戻す。ついでに、また男に寄りかからないよう、俺の肩に寄りかからせておいた。
「ふふっ」
一連の流れをしっかり見ていたらしい男が、おかしそうに笑う。
「俺の気遣いになにか?」
「感謝するよ。それに、どうやらそこが怜司君の正位置のようだ」
「え?」
「君は自由の身となったら、どこに行きたい?」
一瞬で鳥肌が立った。なぜ今の俺が、不自由であることを前提として、そんなことを聞くのか。
「何を言ってる」
「折角怜司君が寝ているんだ。本音で喋ってもいいだろう?」
「……なぜ怜司が寝ている必要があるんだ?」
「必要があるのは君のほうだろ?」
こいつはもしかして、俺たちの関係に気づいているのか。怜司の体が弱いこと以外、細かい話などしていないはずなのに。急に心臓を鷲摑みにされたような緊張が、体中を駆け巡っていく。
「…答えは同じだ。そもそも興味ねえ」
「もしかして君は、自分が自由になる未来を想像できないでいるのかな。何故だろう。未来なんて分からないのに」
呼吸を整えるのに必死で、言葉が浮かばない。なんと言えば、この質問に対する最適解となるのか。男の鋭く、しかし余裕をみせる視線が、俺の思考にまで絡みついてくるようで、不快感と焦りが止まらない。
「そんな未来、…あるはずない」
「ま、そう思い込むことは勝手だけどね」
「なんでお前がそこまで言えるんだ。何を知ってるって言うんだ!」
思わず大きな声が出てしまった。ハッとして怜司を見たが、幸いにも目を瞑ったままだ。フロントミラー越しにこちらを確認する運転手と目が合った。他に乗客などいないし、声を出したところで誰に迷惑もかけないが、意識がこちらに向けられていることがいたたまれなくなり、その場で居直した。
「…悪い、失礼だったね。でも、どうしたら自由になれるのか、考えてみるのもいいと思ってさ」
「そんなんで答えが出るなら、とっくにそうしてる」
「まあ、それもそうか。それが、想像の限界なんだろうね」
「さっきから何が言いたいんだ」
「僕は君と会話がしたかっただけさ」
喋っている間、こいつはずっと笑顔のままだった。今までずっと柔らかで、怜司に似ていると思っていた笑顔が、今は気味が悪く、寒気すら覚える。バスの中は汗をかくほどに暖房が効いているというのに、体の芯から冷気を感じる。初めての感覚に、手の震えが止まらない。
バスはまだ走る。最寄りのバス停まであと3本。
隣の怜司が眠っているとしても、こいつと俺の間にいてくれることが、こんなに心強いと思ったことはなかった。

息が詰まるような旅路を耐え、バスはようやく目的のバス停「神社前」に到着した。
直前に怜司の肩を揺すると、思ったよりもすんなり目を覚ました。
「うわ、ずっと寝てた。れいじさんごめんね、お客様を差し置いて…」
「いいんだよ。疲れはとれたかい?」
「うん」
怜司に向ける笑顔は、先ほど俺に向けたそれではなく、出会った頃にみせたあの柔らかく、温かみを感じるものだった。怜司には随分と甘い。ただの優男ではない、二面性を孕んだその笑顔に警戒心が増す。
まだ3時には届かないというのに、あたりはすっかり西日の光に包まれていた。冬の日没は早い。早めに帰ってきて正解だった。
「れいじさんはこれからどうするの?」
降りたバスを見送って、怜司が男に尋ねる。俺たちにとってはもう帰宅時間だが、普通この時間なら、まだまだ遊び回る余裕がある。
「んー、元気ではあるけれど、足がないからね。山に戻るとするよ。今日はありがとう、楽しかったね」
「こちらこそ!山は早めに引き上げてね。あ、そうだ。折角だから僕の家に遊びに来ない?すぐそこだから」
怜司はそう言うと、鳥居の奥を指差した。拝殿の右横に構える、簡素な二階建ての社務所だ。キラキラと目を輝かせて、肯定の言葉を今か今かと待っている…というわけでもなく、笑顔を見せながらも、じっと男の反応を窺っているようだ。
首を縦に振られたらたまったものじゃない。体良くこの話をなかったことにしようと言葉を考えたが、男が困った顔をしながら口を開いた。
「あー、…有難い話だけど、やめておくよ。こんな身なりだし、申し訳ない」
「なんならウチの風呂使ってもいいのに。れいじさん、神社仏閣巡りが趣味なんでしょ?父も喜んで会ってくれるよ」
「なおさら神様や宮司様に失礼じゃないか。また改めさせてもらうよ」
「…そう」
「ああそうそう、明日にはココから引き上げるから。安心してね」
そう言うと男は、「じゃあ」と手を振ると、鳥居を突っ切ることなく、境内の石垣をぐるりと回り込むように歩いて行った。
神社仏閣巡りが趣味だという男が、神社の息子に境内を案内してもらえるチャンスをあっさりと断るなんて。意外にも思ったが、思い出してみれば、あいつはずっと、この神社に入ってこようとしなかった。
今日を振り返ってみれば、怜司が自己紹介で鬼山姓を名乗った時も、郷土資料館でその鬼山姓が鬼窟神社の守り人であると知った時も、こいつは驚くどころか、何の感情も見せないでいた。神社の歴史が好きなのに、資料館に展示されるような家の子孫が目の前にいて、一切触れないなんてことあるのだろうか。
不可思議な男だった。しかし、明日にはいなくなるというのだから、安心か。鬼山も落ち着くことだろう。最後に思い出を作ることができて、あいつにとっても、怜司にとっても良かったのではないか。あの時村の案内を引き受けて、しまったと思ったが、怪我の功名だったと言っていいだろう。