君だけは、どうかお元気で



俺は怜司を守るという役割を果たしたくて、でもうまくいかなくて、そのもやもやを自分で解決すればいいだけの話だった。俺の問題なのだ。それなのに、怜司がそれを許さない。俺の苦悩は自分のせいと、必ず割って入ってくる。俺の心を読んで、的確なタイミングで釘を刺してくるのだ。
怜司の加害者意識の強さは、あの時、3年前の事故からだ。
高校に上がる直前の中3。俺がちょうど思春期で、何もかもに反抗心を燃やしていた、最も愚かな時代だ。
10歳の頃にこの村を訪れ、今と同様、怜司と行動を共にしていた。当時はそのことに何の疑問も持っていなかった。怜司の傍にいれば、自分は守られるし、自分が怜司の傍にいれば、怜司を守ることができる。それだけを理解して、言いつけ通り、お互い傍から離れなかった。それで何も不便はなかった。充分に自分の暮らしは恵まれていると思っていた。
その思いが崩れ始めたのが、小学校6年の後半あたりからだった。
この村や自分の生活環境に慣れてきた頃。当時は玄哉のように分け隔てなく声をかけてくれる同級生も何人かいた。分け隔てなくというより、小学生だったからか、大人が何か入れ知恵をしても分かっていなかったのだろう。特に男子は、楽しければそれでいいという単純な思考だった。俺はこの通り体力もあり、スポーツも一通りこなせた。だからサッカーや野球、バスケなど昼休みに皆とやっては、まるでヒーローのように扱われた。すごく気持ち良かったし、皆とそうやって騒いで体を動かすのが楽しかった。
そしてそれは、怜司とは味わえない体験だった。俺が皆と遊んでいる時、怜司は決まって目立たないところに座って、俺たちを眺めていた。体育館なら部屋の隅、校庭ならボールの飛んでこなさそうな木陰で、動かずじっとしていた。今よりもずっと体が小さかった当時は、今以上に心臓が弱く、必要最低限の動きのみで、ギリギリ生活していた。文字通り俺から離れられなくて、でも俺は他の友達と遊びたくてあっちこっち移動するもんだから、俺についていくだけで一苦労だったと思う。だから放課後には疲れ切っていて、早く帰ろうと、友達と喋る俺の袖を一生懸命引っ張っていた。その度に、放課後残って遊ぶ話を断り続けなければならなかった。
他の友達のように遊べないだけでなく、他の友達との遊びを邪魔し、ただ俺にくっついてくる怜司。俺は、そんな怜司を疎ましく思うようになっていた。
霊に絡まれるなんて毎日起きるわけではないし、怜司のお守りのおかげで下級霊からは未然に守られていた。そんな恵まれた環境のおかげで、俺の中では余計に、怜司の存在の有難さが薄れていってしまったのだ。
その時は、よく怜司と喧嘩をしていた。怜司は俺と違って、二人で行動することの意味をちゃんと理解していたから、その通りに動かない俺に怒っていた。でも、怜司の怒り方は静かだった。今と同じように、大声を出すわけでもなく、淡々と、何故離れてはいけないのか、早く帰らなければならないのか、それを繰り返し伝えてくる。まるで小さい子どもに教え諭すような態度で、俺の小さなくだらない自尊心はぐちゃぐちゃになり、感情的に反論した。それで喧嘩に発展していたのだ。もしかしたら、怜司には喧嘩ではなく、俺が一方的に言いたい事をぶつけてきただけと思っているかもしれない。それくらい、俺の論はハチャメチャだった。それも、今思い返せばの話だが。
中学に上がった時には、もはや俺の中で、怜司は荷物だった。ずっと背負って行かなければならない、下ろせない荷物。自分の体質も気に入らないし、それによって課せられた縛りも気に入らない。どうすることも出来ない何もかもが、自分の思い通りを阻んできて、心が荒んでいた。今振り返れば、誰かがいなければ生きていけないことへの恥と不自由さばかりに目がいって、自立できないことへの焦りと不安を感じていたのだと思う。仕方ないと、現実として受け入れるには、持っている器が小さすぎた。
俺はその頃から、夜に出歩くようになった。日の沈んだ時間が、当然だが霊の活発化する時間帯。俺みたいな人間が夜中うろつくなど、カモがネギを背負って歩いているような、愚かな行為だ。頭では分かっていたはずだが、止められなかった。別に用事があるわけではない。とにかく荷物を下ろしたくて、一人になりたくて。それを叶えられる時間が、夜しかなかったのだ。
当然親父さんには怒られた。お袋さんにも心配された。俺に何かがあっては困ると、俺を心配してのことだったのに、当時の俺は素直に聞き入れなかった。俺の心配は建前で、本当は自分の息子の体調が気がかりだからだ、お前は荷物を背負っていろと、強要されているようにしか受け取れなかった。
怜司の体調はもちろん本当のことで、俺が家に帰ると症状が出始めていることが多かった。苦しそうに肩を上下に揺らして、俺のことを玄関口で待ち構えていた。
中学になってからの怜司は、俺に何も言わなくなっていた。散々俺に言いたい事をぶつけられ、平行線を辿りすぎて、もうかける言葉がなくなってしまったのだろう。ただ帰ってきてくれればいいと、冷静なのか、諦観なのか、とにかく静かだった。それでも、玄関の引き戸が開くと、汗ばんだ顔に、あからさまにホッとした表情が浮かぶ。結局自分の体が大事なのだろうと、俺は冷めた目で、そんな怜司を見下ろしていた。
夜うろつくようになって、しばらくして、俺は幽霊ではなく、不良に絡まれるようになった。同じように用があるわけでもなく、かといって家に居場所があるわけでもなく、街灯も乏しい暗闇を彷徨う哀れな奴ら。常日頃から抱えるモヤモヤした思いを発散させたくてうずうずしていて、そこを、血の気の多いオーラを振りまくっている俺が通りかかれば、何が起こるか先は見えるだろう。
中学で既に180㎝を超える体格が目に見えていながら、何度口から血を流そうが、突進してくる奴らと俺が重なった。こいつらも、自分ではどうしようもない何かから抜け出したいと足掻いているように見えた。正直なところ、力任せにぶん殴る瞬間が、何かから解放されたような爽快感に酷似していて、俺自身も病みつきになっていたところはある。こいつらもきっとそう。両者承知の上でやる殴り合いほど、清々しいものはなかった。だから、いくらでも避けられるくだらない売り喧嘩でも、あえて買いにいくようになった。
その頃から、俺の素行不良が地域中に広まり、特に同級生に避けられるようになるわけだが。もはやそんなことはどうでもよかった。どうせ最初から、この村に訪れた時から、俺は余所者で、浮いていたのだから。
帰りがますます遅くなり、帰ってくれば顔を腫らしている姿に、怜司の両親もヒートアップし始めていた。玄関口で何度親父さんと口論になったことか。その度に、隅で息をあげながら困った顔を見せる怜司が、健気ないい子ちゃんぶっているように見えて、気に入らなくて仕方なかった。
そんな地獄のような日々が続いた、ある日の夜。季節は冬を迎えた。空気が一段と冷たくなる時期。俺はいつも通り殴り合いの喧嘩をして帰宅した。絡んでくる不良の人数が日に日に増えて、一人で相手にするのもキツく、怪我の数も増えていた。
相変わらず扉を開けると苦しそうな怜司が座り込んでいた。扉の隙間から夜風が入り込んでくるのか、お袋さんの膝掛けを羽織って身を縮こませながら、俺の帰りを今か今かと待っていたようだった。
「…おかえり」
俺の姿を見るなり安堵の表情を見せ、少し大きめの深呼吸をする。すると、徐々に呼吸が穏やかになっていく。
怜司は、俺がいないと生きていけない。
「…うぜえんだよ」
「え、」
そのぼやきは本当に小さかった。だが、俺を出迎えに玄関に来ていたお袋さんが聞き取ってしまった。実の息子に対する物言いに、いつも温和なお袋さんがとうとう、俺に手をあげた。空を切る音と同時に、頬に走る衝撃。いつも殴られる程の強さはないものの、傷の上塗りで、皮膚に熱を感じた。
「なんのためにここにいると思っているんだい!」
初めて見るお袋さんの剣幕に、怜司も俺も目を見開いて、そのまま固まってしまった。お袋さんはそれ以上何も言わない。俺の反応を待っているようだった。これで俺が謝れば、きっと許してもらえたはずだ。今度から気をつけなさいといって、またいつもの優しい笑顔に戻って、夕飯を温め直してくれる。そして、律儀に俺が帰るまで夕飯を待っている怜司と一緒に、食卓につくのだろう。
だが、その時の俺はダメだった。口の中に広がる鉄の味が、俺を暴走させた。
「好きでここにいるわけじゃねえ!俺は頼んでねえんだよ!」
言ってはいけない言葉。分かってはいたけれど、心の奥底でいつも渦巻いていた言葉。それをついに、口から吐き出してしまった。一瞬で空気が張り詰めた。俺の理性が突如戻ってきて、冷や汗が止まらなかった。お袋さんと怜司の、俺を見る目に耐えられなくなり、俺は飛び出した。鳥居も抜けて、宛てもなく、とにかく走った。
もうどうしたらいいか分からなかった。一度口から出た言葉は、取り消すことができない。俺が今までそんな恩知らずな考えを持っていたことを、明るみに出してしまった。
でも本当の気持ちだった。ずっと抱え込んでいた気持ち。それを分かってほしいという切実な思いもまた、なかったことにはできないし、したくなかった。そんな相容れない気持ちに腹の中がごちゃごちゃして、それを消したくて、でも、走っても走っても逃げ切ることはできなかった。
とうとう息切れを起こして立ち止まった時には、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。相変わらず街灯もなく、その夜は、月が分厚い雲に隠れてしまっていて、遠くの民家から漏れる小さな明かりだけが、点のように光っているだけだった。鬼山の木々がざわつき、何か得体の知れない者の唸り声のように聞こえて、不気味に感じた。
汗で滲む肌に夜風が当たり、熱が引いていく。
―――大丈夫?
背後から声がした。突然聞こえて驚いたが、優しく気遣うような声に、肩の力が少し緩んだ。夜中に突っ立っている少年を見つけて、おばさんか誰かが気にかけてくれたのだろうか。
「大丈夫です」
振り返ると、想像した通り、中年の女性だった。目尻に薄っすらと入った皺、肩まで伸びている白髪の混じった髪。グレーのワンピースに、くすんだピンク色のカーディガンを羽織っていた。袖を引っ張るくせがあるのか、随分伸びしてしまっていて、手が見えない。
寒空の下を歩くには、薄すぎる格好。カーディガン一枚で寒くないのだろうか。
「すんません、帰ります」
そういっておばさんの横を通ろうとしたとき、足元が見えた。いや、正確に言うと、足があるはずの場所を見た。
足が無い。浮いている。
《大丈夫?》
ハッとして俺が再度おばさんの顔を見ると、目が合った。鼻先が当たるくらい近い。
《こんな時間に、大丈夫じゃないね》
そう言い、俺に手の平を向けた。直後、体が吹っ飛ばされた。手で押されたというよりは、風圧で押し出されたと言った方がいいだろうか。息も出来ないほどの圧で体勢を崩され、十数メートルほど先に倒れ込んだ。地面に頭を打った衝撃で、気持ちが悪かった。視界もぐらついてしまうために、満足に目が開けられない。頭を押さえながら片目だけ無理やりこじ開け、何とか起き上がる。その時、違和感を覚えた。
何も見えない。いたはずのおばさんが見えない。目元に手をやる。ない。かけていたはずの眼鏡がない。地面に倒れ込んだ時に外れてしまったのかもしれない。足元を探すが、暗くてうまく見つけ出せない。
眼鏡があるおかげで、幽霊を見ることができる。見えることで存在を認識し、初めて声も聞こえる。そういう仕組みらしい。だからこの時俺は、おばさんが見えないために、存在を認識し、声を聞くことも出来なかった。敵の居場所が分からないのは致命的だ。目隠しをされ耳を塞がれたに近い状態なら、無防備に殴られ放題となってしまう。
きっと何か仕掛けてくるはずだ。何か起きる前に、眼鏡を見つけなければならない。なるべく体を折り曲げ低姿勢を保ち、頭を右手で守りながら、もう片方の手で必死に地面を撫でた。こつんと、小指に何かが当たった。触ってみると細い棒のようなものがある。目を凝らしてみると、探していた眼鏡だった。
「あっ」
それを拾おうとした瞬間、骨の軋む音が耳に鈍く響いた。間違いなく殴られた。顔が90度回る。気を抜いていたら首が捻じり切れてしまうほどの力に、またもや視界がぐらついた。頭を振って意識を戻して、もう一度眼鏡を取ろうとする。すると今度は反対の頬に同じだけの力が加わり、また首が捻じれた。首の筋に痛みが走る。これ以上こんな馬鹿力で殴られ続けたら、本当に首が捻じり切られてしまう。下を向いて顔を守ろうとした。
その時、がら空きだった脇腹に一発入った。
「がはっ…」
あまりの痛みに、堪らず蹲った。明らかに物理を感じる。さっきは拳、今のはおそらく足だ。踵がめり込んで、内臓を圧迫される痛み。
幽霊の他に、人間がいる。
人間なら見える。切れそうな意識を気合で引き戻して、いるであろう方向に視線を配った。
デニム生地のパンツが見えた。裾からスニーカーが見える。そのまま目線を上げて、黒っぽいTシャツの上、胸から上を見て、息をのんだ。
確かに人間だった。しかしそれは、暗い中でも分かるほどに肌色がくすんでいて、白目をむいていた。焦点が合わない。確実に見えていないはず。それなのに、その人間は顔をこちらに向け、今度は俺の顔を蹴り上げた。見たところ、あまり体格がいいとは言えないはずなのに、拳も蹴りも半端なく重かった。これだけの力を込めているのに、常に口が半開き。気味が悪くて仕方なかったが、蹴られ続けてやり返せない。やっと起き上がれるかと思いきや、謎の風圧で体を地面に抑えつけられてしまう。その時の俺は、床に転がったサンドバック同然だった。止まない痛みに、とうとう抵抗する力も失ってしまった。かろうじて呼吸だけしているような状態。それに気が付いたのか、急に暴力が止んだ。自分の嗚咽以外何も聞こえない、不気味な静寂。ふと、自分の体がひっくり返された。無抵抗な俺の体は、仰向けになり、文字通り大の字に転がされた。
この状態で腹に入ったら、それは確実に止めの一発となる。終わったと思った。でも、その時の俺は、少しばかり落ち着いていた。これで死んでしまうとしても、それで良いと思えた。親父さんやお袋さんに迷惑をかけて、自分を守ってくれていたはずの怜司に酷い態度を取り続けた。そして、自分の身勝手な主張で自分を危険な状態に晒して、今このザマだ。当然の報いに、抗う気も失せてしまった。
このまま俺なんて、消えてしまえばいい。そうすれば、自分の中にある苦しみも、周りへの迷惑も、全部なくなる。きっと楽になる。全てがうまくいく。
俺は静かに目を閉じて、事の成り行きに身を預けた。

「雄大!」
その声は、かすれていた。ほとんど力が入っていなくて、喉を潰しながら無理やり叫んでいるように聞こえた。
声が聞こえて、そして、俺の腹の上で、別の風圧を感じた。しかしそれは、俺の腹に直撃するわけではなく、体の上を突風が吹き通ったようだった。直後、時が止まったかのように世界の全ての音が消えて、そしてまた、鬼山の木々が揺れる音が聞こえてきた。
頭の上の方で、何かが倒れるような、ドサッという音がした。何が起きているのか分からないまま、体が動かせない代わりに辺りを見回してみる。相変わらず暗くて何も見えない。
鼻先に、ポツンと何かが当たった。それは頬や額、手の平にも当たったかと思うと、一気に大量に、頭上から振ってきた。雨だ。そんな予報は聞いていなかったのに、俄雨だろうか、運が悪い。
「はは…最悪」
しかし、おかげで体に籠った熱が冷まされた。遠くにいきそうだった意識もはっきりして、力を振り絞って上体を起き上がらせた。
視界に映ったのは、両の膝をついて、今にも地面に崩れ落ちそうな怜司の姿だった。
「れいじ…、怜司!」
ようやく状況を掴めた。焦った俺は四つん這いになって怜司に走り寄った。怜司に触れると、服越しでも分かるほどに体が熱く、高熱を出していることは明らかだった。
荒い呼吸を繰り返しながら、怜司は俺の顔を見た。雨でへばりつく前髪の隙間から覗く目は、優しく細められ、場違いなほど柔らかく微笑んだ。
「よかった…」
そしてそのまま、力が抜けて倒れ込んだ。地面に着く寸でのところで体を抱え込み、仰向けにしてやる。とうに限界を迎えていた中で、俺を助けるために力を使ったのか。苦しみながらも、その口元に笑みを浮かべて、そして、怜司の腕が力なく垂れ下がった。
雨は次第に激しさをみせた。冬の雨は余計に冷たい。なんとか凌げるように、怜司の体を俺の上半身で覆い隠そうとした。それでも無情に空から叩きつけてくる。怜司も俺もずぶ濡れになりながらも、しばらくその場から動けないでいた。
それから程なく、親父さんが駐在さんを引き連れ、駆けつけてくれた。駐在さんは意識を失った怜司をもらい受け、近くに呼びつけていた救急車に乗せて、隣町の病院に向かった。幼少期の頃から怜司が世話になっている病院で、事情を理解している医者がいるので安心らしい。
俺はその場で親父さんからとりあえず一発殴られた。俺がボロボロなのは目に見えていただろうが、仕方ない。これは貰ってしかるべき一発だと避けずに食らい、そして土下座し謝罪した。
何故場所が分かったのか親父さんに尋ねると、怜司が力を使った際に発せられる、残り香のように漂う気を辿って、ここまで来たそうだ。親父さん曰く、自分にはもともと霊力があまりないそうで、怜司のように霊の存在を感知する力に乏しいらしい。だから怜司のように、霊の気配を察して俺の居場所を当てることはできず、幸か不幸か、怜司が霊力を使ったおかげで俺と怜司の居場所が分かったそうだ。勘の弱い親父さんでも感じ取れるくらい、怜司の気というのは強いようだ。
そういえばと思い、俺は人間に殴られていたことを親父さんに話した。すると親父さんは、少し離れたところで仰向けに倒れている人間を指差した。
「あれだろう。ご遺体だ」
「は、…遺体?」
「力のある霊が取り憑いて、魂を食らい、空っぽになった体に憑依するんだ。多少霊感のある者には人間のように見えてしまうのだが、霊感がないか、もしくは強い力を持っていると、生きた人間と区別がつく」
眼鏡が外れてしまった俺には、霊を見る力がない。くすんだ肌に、白目をむいた力のない顔。それは霊感が無いからこそ気づけた、生きた人間との違いだったわけだ。
あの時俺は、2体の霊に暴力を振るわれていたということだ。とはいえ、中身が霊だとしても、人間のガワで襲ってくるなら俺でも対応ができる。今度キョンシーみたいな奴が現れたら絶対にぶん殴ると心に誓った。
肝心の怜司だが、怜司は俺が飛び出した後、俺のことが心配だからと、引き止めるお袋さんを振り切って家を出ていったらしい。怜司の方が体力もなく、足も遅いから、俺に追いつくどころか、どこに行ったかすら分からないまま、走り回ったに違いない。
昔、境内の中でかくれんぼをしていた時のことを思い出した。なかなか俺を見つけられない怜司に、霊は分かるのになんで俺の場所は分からないのか聞いたところ、「雄大は力が全くないから、探せない」と言っていた。今回も、幸か不幸か、俺が幽霊と遭遇しなければ、ずっと見つけられなかっただろう。
途中で力尽きていてもおかしくなかっただろうに、それでも怜司は俺を見つけて、2体の霊から守ってくれた。酷い言葉を吐き捨てて、身勝手に出ていった俺を。

それから俺は、未だ意識の戻らない怜司の見舞いに行くため、毎日自転車を走らせた。
カンカンに怒っていたお袋さんに、来るなと散々断られたが、土下座し何度も頭を下げて、なんとか許してもらったのだ。お袋さんの気持ちも分かる。というか、当然だろう。息子が病院送りになった元凶に、息子の傍にいて欲しいなどとは思わない。それでも、俺は怜司の傍にいるべきだと思った。意識が戻って一番最初に、俺の口から直接謝ろうと決めていた。
点滴と酸素マスクで命を繋いでいる怜司の体は、いつにも増して細くなっていた。強大だと言われている霊力が、本当にこんな小さくて細い体に宿っているのかと、疑問に思うほどだ。それでも、そんな小さくて細く弱い体で、肉体だけは強靭で無力な俺を必死に守ろうとしてくれている。それがどんなに大変なことか、今更ながら、改めて思い知らされた。こんなボロボロにしてからでは遅いのに、いつだって、どうしようもなく周りを傷つけてから、ようやく事の大きさに気づくのだ。何歳になっても学べない俺の愚かさに反吐が出る。
でも、俺の気持ちをなかったことにすることもできなかった。力のない俺自身ではどうしようもできない、守られていることの有難さと、しかしそれと引き換えで強いられる不自由さは、どうしても無視できないでいた。
この矛盾を、どう自分の中で処理すればいいのか。きっとこの先、一生悩み、いずれ解決すべき課題となるのだろう。大人になれば腑に落とせるのだろうか。気が遠くなりそうだが、これは俺自身の問題。これ以上、俺の問題で怜司を振り回してはいけない。それだけは、愚かな俺でも真に理解できたことだった。
その日も俺は怜司の病室に足を運び、ベッドの横にパイプ椅子を寄せて座っていた。もう一週間は経った。寝息は以前に比べて随分と落ち着いてきた気がする。目を覚ます頃だろうか。
「怜司、そろそろ起きようぜ」
そわそわして、声をかけてみた。恥ずかしい気もしたが、それよりも、目を覚まして返事をして欲しい気持ちが勝った。
「俺、お前に早く謝りたいんだ。この前のこと」
謝りたい。謝って、どうか俺を許してほしい。
親父さんやお袋さんは、俺のことを許してくれた。きっと心の中に何か思うことはあるだろうけれど、それでも俺のことを、今までと同じように、もう一人の息子として接してくれている。本当に有難いと思った。
でも、俺は二人以上に、怜司に許してほしい。俺の今までの傲慢さ、身勝手さ、全て飲み込んで見守ってくれていた怜司に、俺は全部気づいて、心を改めたんだと、早く伝えたかった。
面会開始の時間からいて、そろそろ陽がてっぺんに到達しただろうか。病院の庭から伸びる木々の隙間から、陽の光が漏れて、病室に差し込んできた。怜司の顔を照らす。長いまつ毛に当たって、キラキラして見えた。
…なんで光っているんだ?顔を覗き込んでみると、わずかに目元が濡れていた。
「怜司、泣いてんのか?」
その言葉に、静かにゆっくりと、瞼が開かれた。天井をぼおっと見つめた後、顔を左に倒して、俺の目と目が合った。
「……生きてる、のか」
あの時のように、柔らかく微笑んだ。涙が一つ頬を伝ったのを見て、俺の涙腺も緩くなった。決壊したようにボロボロと流れて止まらなくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて、堪らず怜司を抱きしめた。
急に抱きつかれてびっくりしたのか最初は慌てた様子を見せたが、俺の無様な泣き声に呆れたのか、俺の背中にそっと手を回してくれた。優しく撫でてくれる温かさが、また涙を誘う。早く言葉にして伝えたいのに、泣くのに忙しくて言葉にならない。
さっきから、おえおえ唸っているばかりの俺に、怜司が小さく吹き出した。
「はは。雄大、落ち着いてよ」
俺の頭を小突いたり、叩いたり、普段見せない俺の醜態に面白がって好き勝手やり始めた。そんな他愛のないじゃれ合いが、なんだか懐かしくて心に沁みた。俺を気遣うのではなく、本当におかしそうに笑う怜司を見るのは、久しぶりだった。
それも全部、俺のせいなのだが。
ようやく落ち着きを取り戻した俺は、怜司から体を離し、パイプ椅子に戻って怜司と向かった。
「悪かった。本当に」
「え?」
「ずっとお前に嫌な態度とって、ツラい思いさせて、しかも今回は、こんな大変な目に合わせてしまって…。全部俺の我儘のせいだ。申し訳ない」
首がもげるぐらいに、深く深く頭を下げた。
やっと怜司に伝えることができた。それだけで、少しだけ心が軽くなった。怜司は許してくれるだろうか。仮に許されなくても、それは仕方がない。許されなくても、これからずっと俺ができる形で、今回の償いをしていこうと決めていた。
それなのに…
「謝るのは僕の方だ」
「…へ?」
全く想定していなかった言葉に、素っ頓狂な声が出た。
「なんで、お前が謝るんだ」
「ずっと、言おうと思っていたことだよ。言うタイミングというか、勇気がなくて、言えなかったんだけど」
全方位に迷惑をかけまくっていた俺に対して、何を謝罪すると言うのだろうか。しかし怜司の顔は至って真面目で、真っ直ぐな眼差しを俺に向けてきた。得体のしれない恐怖を感じて、手が震えた。
「雄大の負担になっていたこと、気づいていたのに、どうしようもできなくて」
「え、…負担、は?」
「ツラかったよな。自由になりたいのに、そう言えない、我儘を言えない環境に君が縛りつけられていることは分かっていたのに。でも僕には、君が縛られていないと困るから…僕の身勝手で、君を苦しめてしまっていた。僕が役に立つときなんて、限られているのにね」
力なく笑いながら、そう続ける怜司に、俺は言葉を失った。怜司には、俺の全てがお見通しだったのだ。これから俺が自分の問題として処理すべきことを、怜司はいとも簡単に見抜き、言語化した。それだけでなく、俺が抱えていた問題が、自分のせいなどと。
怜司の体質は、怜司が選び取ったものではない。俺もそうであるように、生まれて死ぬまで勝手に課せられたものだ。それでツラい思いをしても、誰のせいでもない。誰のことも責められない。だから俺みたいに、そんな枷から解放されたいと我儘に叫びたい思いがあったって、仕方のない、当然のことだ。
それはお互いにそうだと思っていた。怜司だって、俺がいなくても人並みの生活を送りたい、友人と思い切り走り回って、息を切らしながら笑い合いたいという叫びがあるはずだ。校庭で友人とボールを追いかける俺を、目だけで追いかける怜司のやりきれない顔を何度も見てきたから分かる。でもできないならせめて、普通に生きていけるように傍から離れないでほしいと、ただそれだけなのに。
お前は、そんな我儘で俺を縛りつけることを、それによって俺が我儘を言えなくなっていることを、罰だと思っているのか。
「でも大丈夫、僕がきっと守るから」
「え、何言って」
「雄大には少し不便をかけちゃうけど、きっと、大丈夫だから」
何がどう大丈夫なのか問い詰めたかったが、目が覚めたばかりの怜司は疲れを感じたのか、「休ませて」と、俺を背にして横になった。それ以上は何も言えず、俺はナースコールを押した。
駆けつけた看護師と医者に外すよう言われたので、その日はもう病院を出た。
家路の途中で、親父さんたちの乗る車とすれ違った。おそらく病院から呼び出しを受けたのだろう。安堵しているであろうお袋さんのことを思うと、俺もひとまずは安心して、一足先に家に戻った。自室のベッドに身を投げて、何の変哲もない、白い天井を眺めた。
あの時も、俺は仰向けになっていた。もう抵抗するのに指一本も動かせなくて、とうとう死ぬんだと思った。それでも良いかと、思ってしまった。この救われない状況から解放されるなら、それでも良いと思った。
でも、救われた命だ。怜司がそれこそ必死に、こちらに繋ぎ留めてくれた命。
怜司は自分のせいでこうなったと思っていた。誰が考えてもそうはならないだろうに。しかし、そう思うに至らせたのは間違いなく俺だ。結局、何もかも、俺の浅はかさ、愚かさが原因なのだ。
いつか、怜司が自分に非があると責め続けなくなればいいと思った。俺の中にあるもやもやは、宥めすかしながら、共存していくほかない。そしてそれは俺自身がすべきことであって、怜司が気に病むことではない。
それを分かってもらうには、あいつが安心して、自分らしく胸張って生きていけるように、今度こそ俺があいつを守らなければならない。
村に来たあの日以来、俺に与えられた平穏と、そして役割を改めて思い出す。怜司は俺を守り、そして、俺は怜司を守る。

そう、あの時誓ったはずなのに…。
どうしてか怜司は、あれから俺を守ることに躍起になっている気がしてならない。俺に不自由をさせることは、自分に問題があると、俺に何も考えさせないようにしているのではないか。そしてあわよくば、俺を鬼窟神社の跡取りとして矢面に立たせ、自分の存在は裏に隠れると。
お前よりも目立って、この村で力を揮いたいわけじゃない。お前を無視してまで、自由を謳歌したいなんてもう思わない。
ただ、怜司が健康で、安全にいてくれればそれでいいのに。そのためにお前を守りたいだけなのに。その願いを阻んでいるのが、何よりも俺の存在だなんて…。
「くそっ」
どうしたらいいのか分からない。もう言い訳のしようがない。少なくとも今日は出来ることなどなくて、仕方なく自室に戻った。いつもは危険の代名詞みたいな夜なんて、早く過ぎればいいと思っていた。しかし今日に限っては、明日が来るのが怖かった。朝日など昇らず、この暗い静寂が明けずに、ずっと続いて欲しいと願った。