君だけは、どうかお元気で



気が遠くなるような夜をやり過ごし、ようやく朝日を迎えた。
怜司の呼吸も落ち着き、深い睡眠がとれているようだ。もう一日休めば、体も楽になってくるだろう。
俺は少しだけ外に出て、境内の掃き掃除をやることにした。親父さんが寝不足のせいか立ち眩みがすると言って、中で休憩していたから、ちょうどいい。お袋さんはいつも通りの朝食と、怜司用におかゆを作っているようで、柔らかなお米の甘い匂いが、台所の網戸から漂ってくる。その匂いにつられてか、腹が何か入れてくれと、うるさく唸った。
あまり時間をかけると怜司が心配だ。12月も下旬に差し掛かり、境内に生える木から落ちる葉はもうそんなにない。どこからか風で飛んできたゴミを拾い、土埃を払って、とりあえずお終いにすることにした。
昨日もそうだったが、今日も朝から快晴らしく、雲一つない綺麗な青空が広がっている。目からは爽やかさを感じるが、さすがにこの時期になると俺でも寒い。吐く息もちゃんと白い。ついに今朝は、いつもの部屋着にショート丈のダウンを羽織った。でも、この村の澄んだ空気は冬が特に気持ち良くて、ついつい思い切り、胸いっぱいに吸い込んで堪能してしまう。軌道が一気に冷えて、大体咽るのがオチなのだが。
掃除道具をしまいに、家の裏手にある倉庫に移動した。今日の鬼山は、冬の澄んだ外気もあってか、一層輪郭が鮮やかに、威厳ある佇まいをしている気がした。鬼神様とやらは、怜司の体調を見守ってくれているだろうか。鬼窟神社に住む家族は、自身の生活を犠牲にして常に神を信じ、祀っている。いくら神だからって、礼の一つや二つしたっていいだろうに。例えば怜司の体を健康にしてあげるとか、俺にちょっとした霊能力を授けるとか。神は万能とかいいながら、祈りを捧げる人間にその力を使わないし、そもそも姿すら見せやしない。
いるかいないかも不確かで、何かをしてくれるわけでもない存在に、金を払うなんて…という小津の気持ちも、分からなくはない。
「神が一番無礼なんじゃねえか」
「…君、なかなか言うね」
「?!」
人がいる。その声は少し遠くから、風に乗って俺のところまで運ばれたように感じた。
参拝客なら、賽銭箱の置かれた拝殿にしか足を向けないはず。鈴の音は聞いていない。
不審者なら大問題だ。俺の姿と声を認識できる少し離れた場所を探して、辺りを見回す。箒の柄を握る手に力が入る。
「おい、誰だ!」
「こっちだよ」
声のした方、鬼山に通じる林の少し進んだ先に、その姿を捉えた。
のほほんとした笑みを浮かべながら、こちらに手を振ってみせる。その無防備さに、顎が外れそうになった。
「何考えてんだ。そっちは神サマの住む山だぞ。勝手に入んな」
「え、散歩ダメなの?!」
「さんぽぉ?」
俺は箒を握ったまま初めて見る男に近づいた。男は警戒する素振りも見せず、こちらに近づいてくる俺の様子を突っ立ったまま眺めている。
見た目は何の変哲もなさそうな青年だ。黒のキャップに、俺と同じショート丈の黒のダウン、インディゴブルーのデニムパンツに、有名なスポーツブランドのスニーカーを身に着けている。スニーカーは白地に黒のストライプの入った定番デザインと見えるが、かなり履き倒したのか汚れが酷くて分かりにくい。帽子からチラと覗く頬にも、汚れがこびりついているように見えた。
帽子を深く被っているものだから、顔は良く見えないが、どこかで見たことあるような気がした。しかし俺の交友範囲なんざ、学校と村と、それもごく一部の人間だから、見たことあれば覚えているはずだ。他人の空似かもしれない。
「お前、地元の人間じゃねえよな?」
「初対面の人間に随分乱暴な言葉を使うんだね」
「不審人物に敬語が使えるかよ」
「んー。一理あるかもね」
はは、と笑う姿は余裕そのもので、自分が不審人物扱いを受けているとまるで思っていない様子だ。その証拠に、この場から全く離れようとしない。
「出ていかないのか?俺は忠告したぞ。大人に見つかる前にどっか行け」
「と、言われてもな…。ここから離れることはできるけど、宛てがなくて」
「宛て?」
「僕、今ここで野宿させてもらっていて」
「…の?」
俺がこの村に来て約8年。「鬼山付近で野宿」なんて聞いたことが無い。パワーワード過ぎて理解が追いつかない。頭の上を風のように通り過ぎていくようだ。
「な、え、…のじゅく?」
「僕ずっと旅をしているんだけど、お金が無いから色々な場所で野宿させてもらっているんだ。この山も素敵だな~と思って登ってたら、道に迷っちゃってね。今さっきやっと降りてこられて、人間を見つけたってわけ!」
声も聞こえて、だから嬉しくてつい声をかけてしまった。という可愛らしいエピソードで纏めようとはさせない。鬼山で迷子。その間ずっと野宿。汚れが目立つ理由は分かったが、もう一つ引っかかることがある。
「ということはお前、ずっと山の中をうろうろしてたのか?」
「そういうことになるね」
「…山の異変って、お前のこと?」
「え?異変?」
玄哉の父親が言っていた、山の中で感じた気配とは、こいつのことだったかもしれない。正真正銘の人間じゃないか。さすが霊感の弱い玄哉の父親。俺と同じで気配を感じたとして、それが生きているのか死んでいるのかまでは分からなかったようだ。
山がざわつく理由も、これで説明ができるだろうか。神の山に余所者が侵入していて、神サマが少し怒っていた、とか。
俺の零す独り言に「?」を浮かべながら、黙って立っている。逃げるわけでも隠れるわけでもないこの不審な旅人を、どうするべきか。
「とりあえず、折角出られたんだ。山から離れて、バスか何か使って、旅を続けたらどうだ?」
「え、それってここに滞在しちゃいけないってこと?」
「いや、そういうわけでは…」
「僕、神社仏閣とか、その歴史とかにも興味あるんだ。それこそ折角君と会えたんだ。この村を案内してよ」
「…いや、俺は…」
その時、玄関のドアを開ける音が聞こえた。少々乱暴気味なその音から、急いでいることが分かった。
「雄大、どこにいる」
親父さんの声だ。まずい。離れすぎていて怜司に何かあったのかもしれない。裏手に回ってきたら、こいつの存在に気づいてしまう。いやむしろ、大人に知らせた方がいいのか。不審人物に変わりないのだから、追い払ってもらうなり何なり、対応してもらえば楽だ。
それなのに俺は何故か、こいつを匿おうと焦っていた。俺だけ表に戻って顔を出せばいい、もしくは親父さんに来てもらえばいいのに、どうやって隠そうか頭の中が慌ただしい。
「おい、人が来るから隠れ…」
振り返ると、俺の焦りも虚しく、そこから姿が消えていた。どこに隠れたのか分からないくらい、影もない。
「なにをしている」
「す、すんません。掃除に手間取って」
「冬なのにか?まあいい。いくらお前でも体が冷える。怜司のためにも早く戻ってくれ」
「はい」
生きるエネルギーが強いせいなのか、昔から風邪を引いた記憶が無い。外気の寒さを感じるから厚着をしているだけで、体の芯まで冷えるという経験がない。おそらくこの冬空の下、全裸で寝そべっていても熱を出さない自信がある。体の奥で火が焚かれ続けているような、絶対に消えない熱が常に体内にあるような感覚だ。
そんな生命力の強さを知っていてもなお、親父さんは俺のことも心配してくれる。怜司と同じ息子の一人として、気をかけてくれている。それが嬉しくて、でもだからこそ、本当の息子である怜司を俺が守り切れていないことに罪悪感を覚えてしまう。
早く戻るはずだったのに。あいつのせいと、恨みがましく背に一瞥をくれてやったが、やはり影も形もそこにはなかった。

あれから窓の外を何度か確認したが、例の不審な旅人は同じ場所に姿を見せなかった。俺の言った通りに、どこかへ移動したのかもしれない。少し残念、と思う自分が不思議だった。顔も喋り方も全然似ていないのに、どこか怜司に似た雰囲気を感じた。全くの赤の他人と言い切れなかった、そのせいだろうか。とはいえ、ドッペルゲンガーでさえ自身を含めてこの世に3人いると言われているくらいだ、雰囲気が似ている人間など星の数ほどいるだろう。
怜司といえば、その日の夜には熱が下がり、食欲も少しばかり回復した。朝にお袋さんが作ったおかゆを3食に分けて食べきり、夜はデザートにと、親父さんの買ってきたヨーグルトを頬張っていた。すっかりいつもの笑顔が戻ってきて、俺もホッとした。
「俺こそ悪かった」
風呂上りの怜司を呼び止めると、怜司が部屋に上げてくれた。改めて、あの時言えなかった言葉を怜司にかけた。
「疲れてたのにな、連れ回しちまった」
「何言ってんだよ。君のせいじゃない。僕の問題なんだから」
「それを分かった上で俺が立ち回らなきゃならなかった、それを謝ってんだ」
相変わらず俺が不思議なことを言っているというような表情を見せてくる。そのうえ、あくまでも自分に非があるという立場を変えない様子に、思わず言い返した。でも間違ったことは言っていないはずだ。それが俺の役割だから。
「…立ち回らなきゃと思わせていることに、僕は謝ってるんだ」
「な、」
「僕だって喫茶店に行きたかったし、それに、昨日は本当に楽しかったんだ。雄大もそう思ってくれているはず。なのに、謝らなきゃいけないって思わせてしまった。雄大だって本当はもっと、楽しい思いができるはずなのに…」
まただ。俺のぼやきが、抱えている不満が、怜司に見抜かれ、怜司なりの言葉に変換されて俺を突き刺してくる。俺の、言い訳をして逃げ出そうとする弱い部分が徒に刺激されて、今にも理性の殻を蹴破って飛び出してきそうだ。
なんだか今日は、うまく飲み込めない。
「俺が被害者面から抜け出せないのは、お前が加害者面を続けるからだ」
「え、なに…」
「あの時からそうだ。どうしていつもお前が謝るんだ!お前は俺がうざいのか?!」
「あの時…?違うよ、だから」
「そうだよ俺が不自由なのはお前のせいだ!」
息が上がる。溢れてしまったものは抑えが効かない。喉から出た言葉を矢継ぎ早に投げつけて、脱力した。怜司の部屋のドアに寄り掛かって、息を整える。
興奮が冷めて怜司を見ると、目を丸くしたまま固まっていた。しまったと思っても遅い。何か話を逸らす言葉を考えたが、もう頭は空っぽになってしまった。それに、必死になればなるほど、俺の言葉を補強してしまう気がした。謝罪すらも、本心だとバラしているようなものだ。いや、とっくにバレていたのか。
俺は諦めて、沈黙を選んだ。殴られてもどうなっても、もう仕方ないと身を委ねるつもりだったが、怜司は何もしてこない。ただ俺の顔をじっと見つめて、そして、ふっと微笑んだ。いつものように穏やかで、でも、その目は潤んでいた。
「うん。知ってた」
静かに告げられたその言葉に、俺は終わりを覚った。これはもう、もとに戻すことができない。完全に俺の失態だ。
ドアを開けて、部屋を出た。出てしまえばそれこそ終わりなのだが、中で粘ってもなにも生まれない。閉める前にもう一度怜司を見たが、怜司はもう俺を見てはいなかった。