あれから怜司は、身の凍るような話を持ち掛けてくることはなく、毎日俺の部屋で演習本と睨めっこしていた。俺も復習を兼ねて怜司に教えて、二人でかつてないほどの勉強三昧な日々を送った。陽があるうちに学校から帰宅し部屋に引きこもっているせいか、しばらく霊に襲われることもなかった。怜司も無茶をする必要がなく、俺の傍で大人しくしていて、時々玄哉とくだらない雑談をして笑い合う。調子の狂うほどに平穏で、まるで普通の人の送る学校生活を過ごしているようだった。
「そいやさ、最近、鬼山変らしいな」
昼休み。弁当終わりに自販機で買った紙パックの牛乳をストローで吸い込みながら、玄哉が話題を振ってきた。
「変ってどういう意味?」
鬼山は、鬼窟神社が祀っている鬼神様の眠るとされている山だ。原則、村民でも立入りが禁止されているが、山林を管理する林業従事者は例外的に山に立ち入る。数は少ないが、そのうちの一人が玄哉の父親で、神社でもよく親父さんと挨拶している姿を見かける。
その父親が昨夜、仕事終わりに手酌で煽りながらそんな話をしてきたという。怜司も神社の人間として、一村民の意見が気になるようだ。
「いや~具体的にどうってわけじゃないらしいんだけど、野生動物とは違う気配がするらしいんだよ」
「オバケじゃねえのか?俺以外みーんな感じるんだろ?」
「ソレ系だとしても、おかしいじゃん。確か鬼山は神様の力が強くて、オバケは引き寄せても近寄れないんだろ?」
「確かに、鳥居の内側と同じで結界みたいなのがあるから、入り込むことはできないはず」
「でも、なんか感じたんだって。まあオヤジは霊感弱い方だから、気のせいかもしれないけどな」
親父さんの言葉を再び思い出す。怜司も、村が変だと言っていた。この村は鬼山のお膝元だ。山が変なら村にも影響は及ぶだろう。ざわついているのは、やはり鬼山に異変が起きているからなのだろうか。
眼鏡をかけていれば霊を見ることができても、そもそも感度のない俺では、見えているもの全てが人間だと思ってしまう。何かを感じたとしても、それが何を意味しているのか考えもつかない。例えば寒気を感じたとして、それが霊的なものなのか、単なる風邪なのか、区別がつかない。仮に俺が山に入ったところで、何も分からないまま、異変の元凶に取り憑かれて終わりだろうな。
「そういう玄哉はどうなんだよ」
「俺?俺も霊感あるとは思うけど、気にしないで生きてるからな~。目に入った人類は皆友達って感じ!」
「よくそれで無事だったな」
「人間になら誰でも取り憑くわけじゃないんだよ。メリットがないと」
「俺にはメリットが無いってこと?!」
「え、いや、良いことだよ?!」
「なんか無価値な奴みたいじゃん!」
「無価値でいいだろ」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。5分後にもう一度鳴ると、授業が始まる。机にふっ散らかしたままだった弁当箱を片づけながら、玄哉が突然叫び出した。
「やべえ!次英単語の小テストじゃね?!」
「ああ!確認するの忘れてた!」
「諦めろ」
泣きわめく怜司と玄哉を横目に、英語の教科書を取りに行く。黒板と対面の壁に棚が設置されており、2×5に区切られた枠は、生徒が自由に使っていいことになっている。俺はベランダに一番近い、左上の枠に私物を入れている。そこに近づこうと、机を避けて窓辺に近づいた。
「雄大!伏せて!」
ビービー泣いていたはずの怜司から鋭い声が飛んできた。こういう時の怜司の指示は絶対だ。長年の調教のおかげか、脊髄反射の如く咄嗟に床に伏せた。その同時か直後、頭上でパリンと音が鳴り、軽い何かがパラパラと頭に降りかかってきた。教室内にいた女子生徒の悲鳴が響く。
頭にかかっている何かを払おうとして、チクりと一瞬熱を感じた。見てみると、指から血が細く流れている。見上げると、窓ガラスが割れていた。ガラス破片が指に刺さってしまったようだ。
「大丈夫だったか!?」
駆け付けた玄哉が、少々乱暴ながらもガラス片を払い落としてくれた。その後ろから怜司が姿を見せた。
「何が起きた?」
「石が飛んできた」
「は?」
怜司が右手の拳を開くとそれは、そこら辺に転がっていそうな、何の変哲もない小さな石ころだった。
「怜司凄いんだぜ!飛んできた石、キャッチしたんだ!」
「えっへへ~」
玄哉に褒められて、怜司が嬉しいやら恥ずかしいやらで、鼻の下を指で擦っている。
「でもい、なんで石が飛んでくるって分かったんだよ」
「いや、石だとは思わなかったよ。ただ、何かが外から飛び込んでくる気配はしたんだ」
そう言いながら、窓から外を見下ろす。
ここは2階だ。高層ではないにしても、教室にいる俺を狙って投げられるものなのだろうか。しかも高い精度で。
怜司と同じように、窓を見下ろした。相変わらず、校門前の道を通る人影は見当たらなかった。
それから、生徒の誰かが呼んできたのか、先生が教室にすっ飛んできて、俺たちから状況を詳しく聞き出していった。先生たちも学校周辺を見回ったが、犯人らしき人はおらず、しかし、再び石が飛んでこないとは言い切れない。生徒の大事を優先し、午後は休校とすることが決まった。急かされるように帰り支度をし、追い出されるように教室を出た。
校門前には、駐在さんが立っていた。一応安全確認のためだろうが、この村にお巡りさんはこの駐在さん一人だけ。全校生徒の数は少ないとはいえ、それで生徒の安全を確保していると言えるのか。普段平和ボケしている村の対応に、仕方ないとはいえ、ため息が漏れた。
帰り道、自転車を転がす俺の腰を、怜司は黙って掴んでいた。鼻歌も歌わず、ただ沈黙が流れる。車輪のカラカラ回る音が後を追いかけるように響く。いつぞやの、幽霊に追いかけられた時を思い出した。
「さっきの石、まさかオバケが投げたってことあるか?」
腰を掴む指が微かに震えた。アタリだろう。
「オバケがねぇ」
「自分から攻めてくるなんて、なかなか見ないよ」
「そもそも、石掴めるのな」
「掴むっていうと、ちょっと違うかな。念みたいな力で、浮き上がらせたり、抑え込んだり、そんな感じ」
確かに、今までに出会った体のない幽霊からは、物理攻撃を受けるとか、直接体に触れられるようなことはなかった。
「でも、2階にいる雄大を狙って投げるなんて、よほどの霊力がいるはずだよ。それならもっと早く気配に気づけたはずなのに…」
怜司の手に、より力が込められる。責任を感じているのだろうか。もっと早く気づければ、そもそも石なんか投げさせなかった。そう言いたいように感じた。
「いいじゃねえか。お前のおかげで大事にはならなかったわけだし」
「ダメだよ!」
平時に聞くことのない大声に、思わずブレーキをかけてしまった。キッと詰まる音と共に、体が前のめりになる。背にあった温もりが離れたのを感じて振り向くと、また頭を垂れて、何かを堪えるように自分の両手を握っている。
「こんなんじゃ、意味がない。僕の意味が」
「それはやめろって」
「君と生きることを現実的に考えたとして、結果役立たずなら意味がないだろ」
「なんでそんな…」
そんな風にしか考えられないんだ。お前以上に力があって、俺を守れるやつなんて、他にいないだろうに。全ての危険を未然に防ぐことは不可能だと言ったのは、いつぞやの怜司だ。だから僕が傍にいるって。
「お前、なんか焦ってないか?」
「……」
「鬼山の異変と関係あるのか?」
「…大丈夫、もう少し経てば…」
小さく呟かれた言葉は、俺に向けたものか、はたまた独り言か。聞き返そうとして、しかし直前に、怜司が俺に顔を向け直した。
「そうだな、考えすぎだったかも」
「え?」
「とにかくあれだ、高校生の僕らは、試験に向けて勉強しないとだよな!ゴメン、早く帰ろう!」
そう言って、俺にペダルを漕ぐよう促してくる。何が何だか分からないまま、俺は催促されるまま自転車を動かすために大きく蹴り出した。
あの投石事件以降、学校で不審なことは起こらなかった。休校となったのは当時だけで、滞りなく日常が進んでいく。事件により試験期間も潰れると見込んでいた玄哉は、その予想が外れたことに慌て、大人しく毎日勉強していた。
怜司も、あれから真面目に勉強をしている。朝起きると部屋着に着替え、顔を洗った足で俺の部屋に入ってきて、俺を叩き起こして勝手に始めるのだ。一人で机に向かっていたら、あっという間に体調を崩してしまうおそれがある。俺もそれを分かっていたから、しばらくは怜司の侵入を許すことにした。
その間は試験についてしか喋らなくて、雑談らしい雑談といえば食事時くらい。本当に、将来のことを考え始めたのだろうか。偏差値を見る限り、あと一年、怜司が本気で受験対策を取れば、大学に合格できる可能性は十分にある。
今まで頑張っていなかったわけではないが、その時その時やらねばならないことをとりあえずこなしているだけで、自分が宮司になることを自覚しているようにはみえなかった。それは親父さんも感じていたのか、最近の怜司の様子に驚いている様子だった。
「何かあったのか?」
「…さあ」
「ま、お前が傍にいる限り大丈夫だとは思うが、時々気にしてやってくれ」
「はい」
とはいえ、怜司は文字通り、朝から晩まで俺の部屋にいて、細かく休憩を挟みながらも机に向かい続けていた。俺の出番といえば、分からない箇所を教えてやるくらい。あと、気絶したように寝入ってしまった怜司を自室に運ぶことだろうか。運ばれることを分かっていて、あえて突っ伏していたような気もするが、お互い、知らないふりを決め込んでいた。
俺も、普段よりは真面目に取り組んでみた。万が一に、怜司に点数を越されたなんてことがあっては堪らない。
そうして迎えた期末試験。月曜から始まり、あっという間に最終日、金曜日の放課後。
「終わった、…終わったー」
椅子の背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。しなだれる様はまるで洗濯機から出したての、よれよりのシャツのようだ。
「お疲れー」
「雄大…、僕頑張ったと思わない?!」
「そうな。お袋さんが胃痛を感じるくらいには」
「えっ、どういうこと?」
「冗談だよ」
お袋さんが心配しすぎて、胃が痛くなりそうだとボヤいていたのは本当だけど。でも確かに、体調を崩すことなくここまでこれて、俺もホッとしている。正直、どこかでぶっ倒れるんじゃないかと、ヒヤヒヤしていた。
「折角解放されたんだ。喫茶店行こうぜ。祝勝会だ」
「結果も分からないのに?」
「こういうのは気持ちの問題なんだよ。ほら、混む前に行こうぜ」
「じゃあ玄哉も誘おう!」
「いらねえよ」
玄哉は俺たちとは違って友人かたくさんいる。今日もこれから、何人か引き連れて友人の家に転がり込んで、商店で買い占めたお菓子やジュースで慰労会でもやるつもりだろう。試験終わりの、いつものパターンだ。
大分前に一度誘われたことがあるが、当然断った。どうしたって帰りが遅くなるから、怜司や親父さんに迷惑をかけてしまう。あの時はまだ中坊で、そういうバカ騒ぎがしたくて仕方なかった。断らなければならなかった自分の境遇を恨んでいたが、今はどうだろう。あの喫茶店で、怜司と静かに語らうのも悪くない。それでも、目を背けられない程度の小さなモヤモヤは、胸の奥に巣くっているように感じていた。
自転車を走らせ、風を切る心地良さを全身に浴びる。別に追い込んでいたわけではないが、それでも試験が終わったという開放感は、誰にとっても格別なものだろう。
試験最終日の金曜は午前で終わったため、喫茶店に着いたのは昼過ぎ。昼食も兼ねてオムライスにホットサンドも注文した。シンプルなハムチーズ。初めて手を出したが、程良い塩気にハマりそうだ。オムライスの次に気に入った。
怜司はいつも通りホットココアに、今日はナポリタンを選んだ。
「合わねえ…」
「いいだろ!好きなもの注文するのが祝勝会なんだろ?」
そう言って少し厚めに切られているブロックベーコンにフォークを突き刺して、なぜか誇らしげに口に放り込んだ。
楽しそうだ。俺は素直にそう思った。今まで、試験期間と言ったって、日常の学校生活以上に何か意味を見出してはいなかっただろうに。一つの大きなイベントを乗り越えたような達成感と充足感に、怜司は興奮を覚えているように見えた。かく言う俺も、そんな怜司につられて、学生らしく、仲間と泥臭い努力みたいなものを、まともに体験できた気がした。これを、切磋琢磨というのだろうか。共有した時間が長く濃いほど、目の前の笑顔に自分の気持ちが重なる。今日のコーヒーには、深いコクと爽やかな余韻を感じた。こんな後味をずっと堪能していたいと思った。
夜。怜司は顔を真っ赤にして、布団にこもってしまった。
体温計は38度台を示した。それを確認した怜司の両親は、慌てることなく、まるで特訓を受けた兵士のように、それぞれのすべきことに粛々と取りかかった。お袋さんは氷枕と、額に乗せるタオルを氷水の入ったボウルに漬けて、怜司の部屋を訪れた。スポーツドリンクも忘れずに、ベッドのサイドチェストに用意していく。親父さんは買い物に出かけた。既に商店の閉まった時刻であったが、店主も慣れているらしく、いつも勝手口に行けば特別に売ってくれるそうだ。スポーツドリンクに、氷に、3個一パックのブルーベリーヨーグルト。発熱時の定番だ。
俺はといえば、言わずもがな、怜司のお守りだ。ここで俺が離れたら間違いなく悪化してしまう。とはいえ、傍にいる以外にやることはない。フローリングに胡座をかいて、部屋から持ち出した漫画を積み上げて片っ端から読んでいた。その合間に、額に乗せているタオルを替えてやる。熱のせいであっという間にタオルが温くなってしまうため、漫画は集中して読むというより、単なる時間潰しの道具にすぎない。
「ごめん…」
タオルを替えようと顔を覗き込むと、ちょうど目が覚めたタイミングだったようで目が合った。苦しそうに繰り返される浅い呼吸の隙間から、怜司のか細い声が聞こえた。
「なにが?」
「折角、楽しかったのに」
「仕方ねえだろ」
ただでさえ、試験勉強で体に負担をかけていたのに、早く帰って休むわけでなく、寄り道をしてしまった。楽しいことだって体にはストレスがかかる。緊張、興奮から、一気に気が抜けて。そんな気持ちの高低差に、体が耐えられなかったのだろう。
「僕だって、楽しいままで、終わりたかったんだ」
「…、俺が」
「ごめん、なさい」
そう言うと、怜司は目を閉じて、眠りについた。変わらず呼吸は浅くて、布団の中で縮こまっているように見える。寒気がするのだろう。熱が下がるにはまだ時間がかかりそうだった。
謝るべきは、俺のほうなのに。
俺は怜司の傍にいて、何でもない日常を過ごせるように守る。それが俺の役割なのに。うまくいかない。
いや、うまくいかない理由は分かっている。怜司の為と思いながら、その実、俺の欲求に応えていただけなのだ。今日だって、怜司が行きたがったわけではない。怜司を労うという建前で、俺が誘ったのだ。玄哉たちのような、高校生らしく夜通しバカ騒ぎができないことを…、いや違う。バカ騒ぎがしたいというよりかは、俺自身でするかしないか、その選択が許されていない。その不自由さに対する不満を、怜司を使ってずるく解消しようとしたのだ。
俺は怜司の為の存在に徹することができていない。怜司が健気に俺の為の役割を果たしている姿を目の当たりにするたび、自分の欲求が見え隠れして、抑え込めていない自分に苛立ちを覚える。自由になりたいという欲求が、指の隙間から煙のように抜け出てきて、見て見ぬ振りができない。ツラい思いをするのは、苦しんでいるのは怜司のはずなのに、その怜司に、自由を奪われているという被害者意識が止まらないのだ。
どうしたら解消されるのか。全てがうまく収まるのか。ただ強く生きているだけの無力な自分には、こうして傍で座り込み、タオルを取り替えながら、擦り切れるほど読み返した漫画を一から捲っていくしか他なかった。
