社務所の受付入り口は、自宅の玄関も兼用している。昔ながらの引き戸をガラガラと開けると、廊下の奥から足音が聞こえた。
今日も帰りが遅くなってしまった。しかも怜司を連れての帰宅。何か小言を言われるかと覚悟をしていたが、出迎えてくれた親父さんが、俺を見るなり「やりすぎるなよ」とだけ言って俺の肩を叩き、そのまま風呂に行ってしまった。
すれ違うように、お袋さんが姿を見せた。
「おかえりなさい」
少しばかりふくよかな身に割烹着を纏い、常にニコニコしているお袋さんは、親父さんとは対称的で、柔らかくて優しい雰囲気に溢れている。肩に入った力がふっと抜けて、俺も怜司も「ただいま」と返した。
「なんか、聞いてます?」
「なにか?放課後のことかしら?」
放課後の件は当然この鬼窟神社にも報告されていて、親父さんもお袋さんも、事の顛末を把握していた。
「大変だったわね、怜司。お務めご苦労様。雄大君も、ありがとうね。ただ、今度はやりすぎないでよ」
「はい。すんません」
無事に事なきを得て、俺は怜司と見合って気が抜けたように笑った。
「ふふ。さあ、お腹空いたでしょ?手を洗って、食事にしましょう。お夕飯温めておきますね」
「ありがとう、母さん!」
時刻は6時を回っていた。俺たちは部屋に鞄を放り投げ、手を洗い、制服のまま食卓に駆け込んだ。俺たち二人の大好きな特大ハンバーグが並べてあって、先ほどまで感じていた疲れはどこかへ吹っ飛んだ。
空腹のあまり、流し込むように食事を終えて、俺は怜司の次に風呂を頂戴した。恐らく怜司は布団に入った瞬間に寝入るだろう。大好きな音楽を堪能する余裕はなさそうだが、ヘッドホンをかけたまま寝落ちしている可能性はあるから、後で部屋を覗いておこう。
俺の自室は別途用意してもらっている。乱雑に物が詰め込まれて倉庫と化していた部屋が一つあって、そこを掃除してもらったのだ。そこは2階で、ちょうど怜司の部屋の隣だった。当時、本物の兄弟になったような気がしたことを、今でも覚えている。霊感の一かけらもない俺にとって、神様なんて存在は正直半信半疑だ。それでも、俺はこの神社に居候として来ることが運命づけられていたのではないか。本当に神様がいるなら、そうして怜司に合わせてくれたのではないかと、お導きとやらを思わずにはいられなかった。
今夜はどうにも目が冴えて眠れない。忙しない一日だったから、興奮状態が覚めないのかもしれない。俺は玄関にあるサンダルをひっかけて、外に出た。境内を一回りすることにした。風呂で温めた体が、冬の夜風に当てられて、一気に熱が引いていく。それが心地良かった。なるべくゆっくり、時間をかけて拝殿の裏手に回る。
鬼山村は多くの山々に囲まれているが、その中でも鬼山は頭一つ分高く、神の住まう霊験あらたかな山として、雄々しい立ち姿を見せていた。闇夜の中でもその存在感は強く、暗鋭く漆黒の輪郭を浮き立たせている。
山に生える木々の葉が風に揺れ、カサカサと音を立てれば、神が山の中で悠然と歩いている様が頭に浮かぶ。いつの頃か、一緒に境内を散歩していた時、怜司がそう教えてくれた。神様が見えるのか?そう聞くと、怜司は不思議そうな顔をこちらに向けた。何故そんなことを聞くのか?とでも言いたげな目だった。怜司や怜司の身を置く環境では、なんら特別なことではないのかもしれない。霊能力とやらがあれば、誰でも当たり前のように見えるものなのかと、当時の俺は勝手に納得していた。
ひと際強い風が吹いて、思わず足を止めた。押し出すような力を背中に感じながら踏ん張っていると、胸ポケットから紙切れが飛び出した。ちょうど風が収まったタイミングだったおかげで、遠くに飛ばされることはなく、少し先の地面にはらりと落ちた。
いつもポケットに忍ばせているお守りだ。
「あぶねえ」
風くらいで胸ポケットから飛び出ることはないはずだが、かなりの強風だったからだろうか。今度こそ飛ばされないように、小走りで紙を拾いに行った。摘まみ上げると、違和感を覚えた。紙の一部だけザラつきを感じる。社務所まで少し近づき、窓から漏れる蛍光灯の明かりに晒してみた。
縦に向かって、紙の半分程の亀裂が入っていた。
「え…、なにこれ」
「まだ起きていたのか」
向かいから足音が聞こえたと思ったら、浴衣を着た親父さんが現れた。お守りに気が向いていたし、もうとっくに寝ていると思っていたから、姿を見て柄にもなく肩がビクついて「へ?!」と声が漏れた。
「す、すんません。起こしちゃいましたか?」
「いや、なんだか妙に落ち着かなくてな」
「俺も、そうで」
「はは。お互い、怜司の霊気にでもあてられたかな」
今夜も怜司には助けられた。神社からは少し距離があったはずだが、怜司が能力を使った時に発せられる気は、そこまで拡散されるのだろうか。
「今回はいやに強かった。厄介なやつだったのかい?」
「そう…なんすかね。俺、チャリ漕ぐのに必死で、後ろ任せちゃってたから」
「ああ、なるほど。そうだね、厄介だったようだ。久しぶりに肌がピリついたよ。良く逃げ切ったな」
「それはもう、俺じゃなくて、怜司のおかげで」
「チャリを漕いだのは君だろう?」
「いや、まあ…はは。俺には、体力だけなんで」
「それが怜司にとっては重要なんだ。分かっているだろう?」
「…はい」
自転車を漕ぎ続けたのは、霊との間隔を保つため。俺が怜司の傍にいるのは、怜司を生かすため。俺も少なからず、怜司の役には立っている。そう信じている。
しかし、俺に少しでも霊能力があれば、俺一人で対処できることもたくさんあるのではないか。そうすれば怜司は、そんな厄介な霊と対峙することもなく、安全な神社の中で静かに過ごすことができるのではないか。
3年前の事件から、そんなことをずっと考えている。
親父さんが、俺の近くまで歩み寄り、俺の手元を覗き込んできた。親父さんの姿はいつも俺に少しの緊張感を与えてくる。そんな親父さんの片方の眉が、わずかに吊り上がった。
「これ、どうした」
親父さんも、亀裂に気が付いたようだ。
「俺もさっき気づきました。すんません、乱暴に扱ったつもりはないんすけど」
「いや、この紙はご加護の宿るお守りだ。人の力如きで傷つくことはないはずなんだ」
そう言って、親父さんは考え込んでいるのか黙ってしまった。沈黙が長い。この亀裂は異常を知らせるものなのか。
沈黙が長い。長い沈黙は圧を感じる。怖い。
「…ま、これを作ったのは怜司だ。明日、怜司に聞いてみなさい」
「はい」
「それから雄大君、これからは風呂と寝る時以外、必ず眼鏡をするように」
そういえば風呂上りの後、ずっとかけないで過ごしていた。眼鏡を洗面所に置きっぱなしにしてある気がする。境内だからと、すっかり油断していた。
「ここのところ、鬼山がざわついているように感じる。気をつけなさい」
「はい」
そう言って、親父さんは踵を返した。50代とは思えないピンと張った背筋を見送って、俺は再び手元に視線を落とす。そして、半分に折り畳んでいた紙をそっと開いてみた。怜司の描いた絵は下手とはいえ、神様の姿だ。本当は目に触れてはいけないからと、折り畳んでポケットに入れておくようにと言われていた。
全体を広げるわけではない。裂け目にあたる箇所を確認したくて、チラと開いた。力強く塗りつぶされた黒い塊。わざとなのか、雑なのか、所々黒い線が塊の枠からはみ出ている。目であろう部分は黄色に塗られていて、人間で言う眉間から胸あたりまでが裂けているようだった。
どういう意味があるのだろうか。俺には霊感がない。それでもこの亀裂を見ていると、親父さんの言ったざわつきが、胸の中から湧き上がるように感じた。
「え、裂けてる?」
翌朝、俺は起きてまず一番に怜司の部屋を訪ねた。
今日は休日。とはいえ、神社に土日は関係ない。特に、鬼窟神社のように宮司一人で回している小さな神社には、休みという概念がないかのようだ。だから朝食の時間も平日と変わらず、6時半頃には出来上がっている。俺たちガキは出来立ての美味い朝食を食べたければ、休み関係なく早起きしなければならない。本当は親父さんの手伝いをすべきなのだから、当然なのだけれど。
疲労困憊のはずである怜司も、規則正しく5時には起きていたようで、俺が目覚めた6時には既に顔を洗い終わり、部屋着に着替えてのんびりと音楽を聴いていたそうだ。
お互い、いい年した男子高生。そうそう互いの部屋に邪魔することはない。ドアのノックと共に俺が声をかけると、怜司は大層驚いたのか向こうから変な奇声が聞こえた。
バタバタと慌ただしくもドアが開いたので、お守りを見せて、それで今に至る。
加護の宿ったお守りに亀裂が入ったのだ。もっと驚いて、大騒ぎするのかと思った。しかし怜司は最初こそ不思議そうに紙を見ていたが、しばらくして何かを納得したような表情を見せた。
「古くなったんじゃない?」
「は?」
素っ頓狂な返答に、思わず肩がズレる。
「だって、…すげえ頑丈なんじゃねえの?」
「まあ…。でもほら、紙だし。ただの」
そんなもんなのか。まあ確かに、単なる画用紙だけど。
「ならさ、描き直してよ。さすがにもう幼稚園児みたいな絵よりかはマシに描けるだろ?」
「えぇ…」
「上手く描けば、もっと強くなるんだろ?」
「いやまあ、そうなんだけど」
歯切れが悪い。確かに、怜司の美術の成績を知っている俺がこんなことを言うなんて、意地の悪いことをしているとは思う。しかし、今より強い加護の宿ったお守りがあれば、もう少し、怜司の負担を減らせるかもしれない。昨夜のオバケくらい黙ってても蹴散らせるなら、俺にとっても、どんなに楽だろうか。
「ごめんな」
「…なに?」
小さく漏らされた言葉に聞き返す。
「ここ最近さ、村の様子が変なんだよ」
「なにが?」
「弱い霊がいないんだ。数はそんなにないけど、力を持った霊だけが彷徨いているというか」
昔から鬼山の発する霊気につられて、弱い強い関係なく多くの霊が鬼山村に集まってくるという話は聞いていた。だから、せめて弱い霊だけは寄り付かないようにと、怜司のお守りが力を発揮していた。
強い霊しかいないならば、確かに怜司の画力では限界があるのかもしれない。親父さんが言っていた、鬼山のざわつきと何か関係があるのだろうか。
「まあ、だからさ、僕が何とかするから心配しないで!…それより、今日は一緒に勉強しない?」
「は?…ああ、そいやもうすぐ期末か」
再来週、11月の第3週頭から、2学期の期末試験が始まる。すっかり忘れていた。
俺は10月の時点で進学先の大学を決めた。AO入試で神主になるための学部を受験し、合格した。だから正直、学校の勉強は赤点さえ取らなければいいくらいに、気を抜いている。
神職に就くには資格が必要だ。そして資格を取るためには、基本的には大学で勉強し、決められた課程を修了する必要がある。怜司も当然、鬼窟神社の宮司という地位を継ぐ者として必要な勉強をし、資格を取らなければならない。しかし、虚弱体質に加えて、義務教育のほとんどを休学で終わってしまった怜司にとって、勉強は、幽霊を退治するよりずっと難しい。一般入試なんてとても無理だから、俺と一緒にAO入試を受けるはずだったのだが、緊張のあまりか体調を崩して受験はご破算。まあそもそもとして、怜司が大学に通学できるかどうかが不安なところであり、仕方なく、親父さんが通信講座や検定試験など他の道を探しているのが現状である。
高校受験は、怜司も頑張ってギリギリ滑り込むことができた。…と、いいたいところだが、実は裏で親父さんの口添えがあった。それもあり、勉強が出来ない事情は高校側も理解しているからか、補講の機会を設けながらも、結局は怜司がどんな点数を出そうが卒業させることは決まっている。点数通りに評価するより、次期宮司の学歴を潰さない方が大事ということだ。大都会ではおそらく考えられない、小さく閉鎖的な社会だからできる特例中の特例だ。
世間では浪人という扱いになるのだろうが、結果的に、怜司は高3の現時点でがむしゃらに勉強する必要はない。
「別に、そんな頑張る必要ないだろ?」
「いやさ、さすがに最後ぐらいは良い点を取って終わりたいなあと思って」
「3学期もあるだろ」
「いや、ほらさ、勉強も徳と同じで、積み重ねが大事でしょ?雄大勉強できるからさ、教えて欲しいんだ。この通り!」
怜司に比べれば、というだけで、俺も別に優等生というわけではないのだが。
怜司はパンっと勢いよく両手を合わせ、潜り込むように深々と頭を下げてきた。神事で神に祈るより深い気がする。
「神頼み、ってか?」
「雄大様!今日終わったら、コーヒー奢る!」
「乗った。んじゃあまずは腹ごしらえだな」
顔をバッと上げた。満面の笑みを湛えて、腹減ったーと騒ぎながら食卓に向かうべく階段を下りて行った。嬉しそうなその後ろ姿に、俺も思わず口角が上がった。
学校とは反対の道を自転車で走って20分程の場所に、俺たち行きつけの喫茶店がある。
ダークグレーの外壁をした、シンプルな箱のような形の二階建てで、その二階が住居となっている。畑の真ん中にポツンと建っていて、目立つような看板が道路沿いに立てられているわけでもないから、一見しては気づかないだろう。しかし、今の店主で3代目となる、この村では知らない者のいない老舗の店だ。こだわりが詰まった一杯のコーヒーは当然ながら、軽食も美味いと定評がある。特にオムライスは、焼き加減が固めの卵とケチャップソースが潔くシンプルで、俺の大好物だ。来店した際には空腹か否かにかかわらず、必ず注文すると決めていた。
すりガラスのはめ込まれた木製の引き戸をガラガラと開けると、その瞬間から、コーヒーの香りが体中を纏うように漂ってくる。サイフォンからコポコポとお湯の沸騰する音が店内を静かに流れていき、気持ちが落ち着くのか、ここに来ると自分の呼吸がゆっくりと、深くなるのが分かる。
怜司はこの店の窓が好きらしい。2代目の娘さんが3代目として引き継いだ時、ステンドグラスに新調された。ポイントで塗装されている赤や黄以外は絵の輪郭だけで、山に茂る木々や畑の緑を色として映し出し、その日の天気や太陽の傾きで絵全体の表情が変わるようになっている。店内の椅子を深い茶色のシンプルなソファータイプ、テーブルはガラス製とシンプルで落ち着きのあるものに揃えたのは、このステンドグラスから注がれる光彩を楽しんでもらおうという、3代目のこだわりだそうだ。このこだわりは、鬼山村の自然を愛してくれている証拠だと、怜司が嬉しそうに話していたことを覚えている。
ちなみに店名はない。あえていうなら、「喫茶店」だろうか。なにせ入り口には「喫茶店」と文字の彫られた木の板が打ち付けられているだけで、それ以上の情報が無い。だから村の誰もが、この店を「喫茶店」と呼んでいる。喫茶店に相当する店が近くにないから、今までも、おそらくこれからも、何の問題もないだろう。
村にある数少ない飲食店のため、村民の憩いの場となっている。そのせいか、訪れると大体満席なのだが、今日は休日にもかかわらず、空席が見えた。昼飯時を少し過ぎていて、お茶の時間にはまだ早い。一番微妙な時間に来たおかげかもしれない。
朝食後から始めていた勉強を何とか終えた俺たちは、自分たちへのご褒美としてここに来た。もちろん約束通り、今日は怜司の奢りだ。昼食を跨いだ約5時間の勉強。おそらく怜司の限界ギリギリの時間と量だっただろう。最後の日本史の暗記が終わった時には、もう何も覚えられないと目を回していた。
「勉強ってさ、結局必要なのは体力だよね」
注文してまず最初に出されたホットココアを両手で包み込むように持ちながら、怜司はため息をついた。
「頭を使うどころか、椅子に座り続けることも、体力が無いとどうにもならない」
「そういうものか」
「雄大が一生気づかない悩みだよ」
「ありがたや~」
一生懸命ふうふうと空気を送ってから、小さく小さくココアを吸っていく。そんな飲み方で味が分かるのか謎だが、猫舌の怜司にはこうやって飲むしかないのだろう。
次に俺の注文したホットコーヒーが運ばれた。オムライスはもう少し時間がかかるらしい。3代目一人ですべてをこなしているのだから、忙しいのは当然だ。それにこれから美味いコーヒーをゆっくり味わうのだ。待つくらいがむしろちょうどいい。
大して冷ましもせず口に運ぶ姿を、怜司がじっと見てくる。
「よく飲めるよな」
「別に熱くねえだろ」
「それもそうだけど、それ、ブラックだろ?」
怜司はコーヒーが飲めないわけではないが、砂糖とミルクを入れたコーヒー牛乳にしないと飲めない。もはやここでコーヒーを飲む価値ないだろう、と、一度冗談半分で言ったところ、本気にしてしまった怜司はこの喫茶店でコーヒーを注文しなくなってしまった。代わりに夏はクリームソーダ、冬はホットココアと、お子様向けの飲み物に徹するようになった。怜司のことだから、恥ずかしいというより、お店に対して申し訳ないという気持ちが強かったのかもしれない。言葉は時に、思いもよらない結果を引きずってくるものだ、と、反省した記憶がある。
「飲んでみるか?」
「…いいや。今はとにかく糖分が欲しい気分」
「違いない」
「僕はさ、雄大が宮司になればいいと思うんだ」
突然の思いもよらない言葉に、口に含んだばかりのコーヒーを吹き出しそうになった。咄嗟に手で口を塞ぎ、落ち着いてから怜司を一睨みしてやる。
「今なんつった?」
「雄大が宮司になればいいって」
「あんま笑えない冗談だな」
「割りと本気なんだけどな〜」
空気を送り込む回数が減ってきた。ようやく飲める温度まで下がったようで、先程よりもカップを深く傾ける。静かにテーブルに置くと、カップに触れたまま話を続ける。
「君は体力があって、勉強ができる。宮司に必要なのは資格であって、血筋とか霊力とか、そんなのは二の次三の次だろ?」
「お前んとこの神社は、そうはいかねえだろ。仮に親父さんが認めても、村が認めねえ。町長よりも強い求心力が落ちるぞ」
「認めさせればいいんだよ」
「お前を差し置いてか?」
「差し置くなんて…、まるで、人間一人分の扱いじゃないか」
もう既に半分減ったコーヒーのカップを、ソーサーに戻した。穏やかじゃない発言に、いつもより後味が苦く感じる。
「どういう意味だよ」
「自立できない僕なんて、差し置くとか、そういう話にすらならないってことだよ。いてもいなくても、同じじゃないか」
「お前、自分にどれだけの価値があるのか分かってないのか?」
「力だけだろ」
どうしてだろう、まるで時が止まったかのように、一瞬で周りから音が消えてしまった。代わりに自分の心臓が煩く響く。その沈み込むような重い鼓動に、体が震える。
そんなわけない、と即座に反論したいのに、喉元に言葉が引っかかって出てこない。
「神社は後継ぎさえいれば問題ない。仮に僕に存在感があるとすれば、それは力があるからで、力が存在すればそれは僕である必要はない。鬼山村にとっても、君にとっても」
怜司の纏う空気が冷たい。ホットココアなんて甘ちょろい飲み物では到底溶かしきれない、鋭い冷たさ。それは鋭利な刃となって、俺の心を容赦なく切り刻んでいく。そんな危機を覚えた。肝が冷える。
こいつはどうして、時々俺の心を、短い言葉で正確に突いてくる。
俺にも時々分からなくなる。怜司は俺を必要としているし、俺も怜司が必要だ。だから、体の弱い怜司を守るのは俺だと信じている。それが俺の役割だと。
しかし、守るものと必要なものと、必ずしも対象が一致していなければならないわけではない。もし、必要なものを守らなくてもいいとなれば、俺はどんなことを考えるだろうか。いや、俺はとっくに答えを出してしまっている。それを気づかれないように隠しているだけだ。もし見つかってしまったら、俺は何か大事なものを失ってしまう気がしてならなかった。俺の今生きている現実が足元から崩れ落ちるような、そんな大事に至る何かを。
それほど俺は怯えている。なのにこいつは、暗部に押し込んで蓋をしようとした俺の答えの一片を、いとも簡単に釣り上げて、俺に釣果の如く見せつける。否定できないことも承知の上で。
「なんで急に、そんな話すんだよ」
肯定も否定も俺の選択できる道ではない。苦し紛れに、話を振り出しまで戻してやる。なのに、怜司は優しい眼差しを向けてきた。それすらお見通しなのか、情けない男とでも言いたいのだろうか。
「ずっと考えていたことだよ。だって、来年は高校を卒業するんだからね。将来のこととか、どこかのタイミングで雄大と話そうと思っていたんだ」
将来か。高校を卒業して、大学に入り、神学科の課程を修了して神職に就く。俺はそう決めた。それは何故か。
難しいことは考えなくていい。怜司と同じように、俺も所詮生かされている身だ。俺の今生きる現実の中で、やることをやるしかない。
「力を持つのはお前だ。それに変わりはない。そんな与太話してねえで、お前こそ俺との未来を受け止めて生きろよ。この後も暇なら、帰って勉強すんぞ」
ずっと手元を見て話していた怜司が、はっとしたような表情をして俺の顔を見た。俺には見当がつかないが、予想していなかった言葉だったのか、気が抜けたように微笑んでみせた。
「…猫舌の僕には熱すぎるよ」
まもなく、待ち焦がれたオムライスが運ばれた。いつもは卵の崖を流れるように注がれるケチャップソースが、綺麗なハートに形作られている。二人で3代目の顔を凝視するが、いつもはクールに結ばれている口角が僅かに上がっている気がして、幽霊とは違う薄ら寒さを覚えた。
