君だけは、どうかお元気で



放課後。今日は掃除当番の日だ。
掃除は5~6人で一班として、班ごとに教室やトイレ、廊下、体育室などを担当して行う。といっても、ここ町立高校は、一クラス10人で、クラスも一学年に2つしかない程度の田舎学校。担当は隔日で回ってくる。かなり面倒臭い。
今日の担当は3階のトイレ掃除。班は男女混合で作られているから、俺は当然男子トイレだけやればいい。野郎は俺と、あともう一人。女子は3人だ。男子トイレは立ちション用と座る用の便座2種類あるから、それを二人だけで回すのは、これまたかなり面倒臭い。しかし真面目にやらないと女子から先生に告げ口されて、一週間ずっとトイレ掃除をやらされる羽目になる。それだけは避けたい一心で、俺たち野郎は黙々とブラシを動かす。
怜司はちなみに、掃除が免除されている。本人はやると最初はごねていたが、いざやらせてみると10分と持たず心臓が暴れ出してしまい、それ以来、怜司は掃除免除。というより、禁止されたと言った方が正しいだろうか。
あれは怜司が張り切りすぎたせいもある気がするが、皆の役に立てるかも、と嬉しそうにしていたのを覚えている。保健室の先生からドクターストップがかかったときの落胆ぶりには、見ていた奴らも同情の目を向けていて、誰も役立たずだとは思っていなかっただろう。それでも、掃除の時間になるたびに、あいつは少し後ろめたそうな表情を見せるようになった。分からなくもない。俺が掃除当番の日は、俺の近くにいて俺が終わるのを待っているわけだが、周りでダルそうにしながらも手を動かす様子を見ていたら、何もしていない自分に肩身の狭い思いをするのは仕方ないのかもしれない。あいつのためにも一秒でも早く終わらせたかった。
しかし、立ちション便座周りに飛び散った液体が次々と視界に入る。まるで床や壁から湧き水のように溢れてくるのではないかと疑うほどに、拭いても拭いてもキリがない。
「なんで野郎はトイレをまともに使えねえんだ!」
「お前も野郎だろ」
「俺はこんなに飛ばしてねえ。断じて!飛ばしてねえ!」
「分かったからそのきたねえブラシを振り回すな!」
隣の女子トイレから「男子真面目にやれ!」と一喝され、振り上げたブラシがピタリと止まった。行き場の失った怒りを無理やり抑え込み、結局は黙々とブラシを動かした。

「怜司、帰る…ぞ…」
漸く掃除も終わり、教室に戻った。トイレ掃除の日は、近くて問題ないからと、教室で待ってもらうようにしていた。今日も怜司が待っているであろう教室のドアを開くと、そこに怜司の姿は見当たらなかった。
他のクラスメイトも誰も教室にいなかった。隣の二組を覗いてみたが、まばらにいる生徒の中に、やはり怜司はいない。
「いた!雄大!」
後ろから玄哉に声をかけられた。いつものセットされた髪型も呼吸も乱れていて、何やら焦っている様子だ。
「どした?」
「どした?じゃねえよ!体育倉庫に、怜司おるぞ!」
「体育倉庫?なんで?」
体育倉庫は校舎の裏にある。この教室からはかなり距離があるし、掃除をしない怜司には、体育倉庫に行く用事は無いはずだ。
「小津の奴らだ。体育室掃除してる時に見えた…って、おい!」
小津という名前を聞いて、俺は一目散に走り出した。
小津は同級生で、地元では成績も素行も悪いことで少しばかり名の知れている、所謂不良グループのリーダー格だ。血の気が多くて喧嘩っ早いところもあり、かつて俺も因縁をつけられたことがある。6人くらい引き連れてきたが、当然返り討ちにしてやった。無様に天を仰ぐ小津の、悔しそうに歯ぎしりする様は今も覚えている。
俺に敵わないから、怜司に矛先を向けたのか?
逸る気持ちを堪えて階段を駆け下り、校舎の裏手に回る。地域は少子化で子どもなんて大していないくせに、土地だけは余りあるもんだから校舎も無駄に広く造られていて、回り込むだけに時間がかかる。
体育倉庫が見えたところで、黒の学ランの溜まりが見えた。倉庫の外壁に隠れて見えないところから、汚らしいしゃがれ声が聞こえる。小津だ。
「マジでくだらねえ。俺の金返せよ」
「それは、申し訳ないけど、…僕のお金じゃないから」
「うるせえ逆らうな!」
小さく応える声は、間違いなく怜司だ。小津と怜司が喋っている。しかし怜司の声はとぎれとぎれで、息苦しそうに聞こえる。症状が現れ始めてしまっているようだ。
小津の後ろに控えているらしい溜まりに気づかれないように、近くの木陰に隠れて様子を伺う。
「あの金があれば新作のソフトが買えんだよ。なのにあんのクソババア、氏子、ほう…何とか金だからって俺から取り上げやがって。一万だぞ、一万!」
「お母様のお心遣い、いつも感謝しています」
「感謝すんな!返せっつってんだよ!じゃなにか?あのババアが勝手にお前の神社にぶっこんだってのか?!大体こんな時代に何が神サマだ気色悪ぃ。天気見て草育てりゃ誰だって食いもんなんざ作れんだよ神サマは何もしてねえだろ!」
そろそろ介入しないと怜司が危ない。木陰から出て、バレない様に溜まりの後ろまで来て、一人ずつ殴って黙らせた。野郎の可愛くない呻き声が響いているはずなのに、一人で勝手にヒートアップしている小津は自分の後ろで何が起きているか全く気付いてないようだ。
一瞬、校庭の石垣を背にした怜司と目が合った。
「役立たずのくせして金だけ取っていきやがって、この金食い虫が!」
「役立たずの金食い虫はどっちだよ」
小津が怜司を殴ろうと拳をあげる。その手首を掴み、腕を後ろに回し動きを封じた。
「なっ…松岡!」
「お前そんなこと怜司に言ったって仕方ねえだろ。バカなの?あ、バカか」
「てめえ…!」
小津に思い切り足を踏まれた。痛みで思わず力が緩んだ隙に封じていた俺の手を振りほどき、正面に構えた。殴り掛かってくると、足を庇うように屈んでいた俺はそのまま小津の顎めがけて一発入れてやった。「うっ」という呻き声を吐いて、小津は天を仰いだ。痛みを堪えながらなんとか立っている。重めに入れたはずなのに、地面に倒れないとは、根性だけはある。それが余計に鬱陶しいのだが。
舌を噛んだのか、口から血を吐き出して、俺を睨みつけてくる。
「くそっ…脳筋が…!」
「暴れてえなら俺を捕まえろよ」
「…はは。姫を庇う王子サマ気取りってか?そうだな、お前も大変だよな?一人じゃ生きていけない奴の子守りしなきゃなんねえんだからよお」
なんとか噛みついて一泡ふかしてやりたいと考えたのか、思いつく限りの悪態をつき始めた。勝敗の読めない馬鹿はゲームにしたって喧嘩にしたって、本当に質が悪い。
「ババアの拝んでる神も、怜司サマも、どっちも役立たずの金食い虫ってか?」
「…お前みたいな馬鹿は一度三途渡ってこいや」
俺は小津の胸倉を掴み、渾身の力を込めてぶん殴った。首が一瞬にして90度振り切り、鼻や口から血が流れ落ちる。血が喉にまで溢れているのか、むせるたびに血飛沫が舞う。
汚らわしくてたまらない。口を塞ぐように顎を掴んだ。痛みで歪む顔は救いようのないほど不細工で、苛立ちが増す。そのまま握り潰してやりたい。
「雄大!」
力が一段と篭る直前で、怜司の声が聞こえた。背をもたれながら、荒い呼吸を繰り返している。
俺は小津の顔を放り投げて、怜司の横に駆け寄った。いつも通り俺の肩に怜司の腕をかけて、呼吸が落ち着くまで待つ。
俺の顔を見上げてくる。少しだけ怒っているようだ。
「やりすぎだ」
「あいつが悪いだろ」
「仕方ないよ。色々我慢しているんだ、きっと」
「単に俺に負けた当てつけだろ。…悪かった。間に合ってよかった」
怜司の症状が少しずつ回復していく。俺はホッとして、ようやく緊張が解けた気がした。
「雄大!…って、うわぁ…」
駆け付けてきた玄哉が、地面に転がる半死状態の塊たちを見て、呆れたとでも言いたげな顔をしている。
「先生来るから逃げろって言いに来たんだけど、こりゃあ無理だな。ご愁傷様でーす」
「マジかよ。なんで一々チクるんだよ」
「言っとくけど俺じゃねえよ!それに、お前がどうというより、怜司だろ?」
それはそうか。鬼窟神社のご子息である怜司が小津たちに囲まれているとなれば、誰だって先生を呼びに行く。子守り役の俺がいるのだから、信頼して放っておいてくれればいいものを。とはいえ血生臭い結果は避けるべきか。
少し離れたところから、俺を呼ぶ先生の声が聞こえて、玄哉は俺に手を合わせ深々と訳の分からない念仏もどきを唱え始めた。
俺は、何故だか分からないが、生命力が桁外れに強いらしい。その影響で身長も伸び、筋力にも恵まれた。そしてそれは膨大なエネルギーとして、俺の体内には収まりきらず、常に溢れ出ている状態でいるそうだ。この体外に漏れ出る生のエネルギーに反応して、現世に未練を残す霊が引き寄せられてしまう。俺が霊に取り憑かれやすい理由は、この生命力の強さにあった。
引き寄せられるのは幽霊だけではない。血の気の多い奴らもまた、俺のエネルギーに当てられるせいか、俺はよく喧嘩に巻き込まれた。常にエネルギーを発散させたい俺もその安い挑発に毎度嬉々として乗ってしまうから、大乱闘に発展し、その度に先生に呼び出され説教、反省文を書かされる始末だ。前回の小津との件も、小津自身の手の早さもあるが、俺にも原因があるのだろう。
ただ、俺のこの強い生命力は、悪いことばかり引き起こすわけでもない。俺の生命力は、他人に分け与えることができた。俺から溢れ出ているエネルギーが、他人の身体に流れ込んでいくことで、その人に活力を与えることができるらしい。
心臓に持病を持つ怜司は、元々僅かしかない体力が削られていくと、心臓が不規則に打ち、呼吸が乱れ、体勢を保つこともできなくなってしまう。それを防ぐために、俺が傍にいて、俺のエネルギーを怜司に送っているというわけだ。
離れたらすぐ危険な状態になるというわけではないから、しばらくは単独行動ができる。しかし長くはもたない。それに、俺のエネルギーを受け取ったとしても、普通の男子のように飛んだり跳ねたりできるわけではない。あくまでも落ち着いた行動が求められる。そのくらい、普段の怜司は生活できるギリギリの状態で、俺という存在が文字通り命綱となっていた。
でも俺にとってだって、怜司の存在はある意味命綱だ。俺たちは、お互いがお互いを守るために、一緒にいる。
その関係性も、この辺りの地域に住む人も学生もほとんどが知っている。当然、学校の先生も承知している。そのおかげか、現場に駆けつけた先生は怜司の様子を見て、教員室まで俺を引っ張り込んだものの、厳重注意だけして早々に帰してくれた。
「怜司様々だな」
晴れやかな顔の俺とは対称的に、承服しかねると言いたげな顔をした怜司が教員室の前で仁王立ちしていた。隣には玄哉がいた。俺が教員室から出てくるまで、傍にいて様子を見てくれていたようだ。
「しっかり叱られればいいのに」
「お前を放ってはおけないだろ?」
「ひゅ~スパダリ発言!」
すかさず玄哉が茶々を入れてくる。怜司はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「しかし今回は小津が100パー悪いだろ。怜司に手ぇ出したら終わりだって」
「あいつ生きていけないんじゃね?」
「今頃小津は、親や近所の大人からフルボッコだろうな」
玄哉が言うには、かなりの傷を負ったはずの小津だが、俺が教員室に監禁されている間、先生にまるでボロ雑巾のように引きずられ保健室に突っ込まれ、呼び出された父親にぶん殴られたらしい。母親は怜司のところに来て、泣きながら土下座して謝っていたそうだ。手には茶封筒が握られていて、怜司に受け取ってほしいと必死だったそうだが、怜司はお得意の穏やかな笑顔で何とか説き伏せて、握ったままお引き取りいただいたという。
怜司は、俺が暴力に訴えなければもっと穏便に事を済ませられたと思っているようだが、そんなことは知ったことではない。先に殴り掛かったのは小津の方だし、俺たちに喧嘩を売った時点でこうなることは小津が想定しておくべきだった。馬鹿な小津には無理だろうけど。それに玄哉の言う通り、今回は怜司に手を出したのだ。それだけで大人たちは黙っていないだろう。馬鹿な小津には想像できないだろうけど。
鬼窟神社では、毎年度末に氏子奉納金としての寄付を募っている。
特に多くが農業林業に携わっている鬼山村の村民は信心深く、日ごろの感謝も込めて、神社がお願いしている額よりも高額な寄付をする人がほとんどで、小津の親もその一人だった。
しかし特に若者の中では、大して裕福でもない自分の家の金が神社に意味もなく吸い取られていると思っている者もいて、同じ学生で貧弱で気弱そうな怜司をターゲットに、いじめたり恫喝をしたりと、時々事件が起きるのだ。鬼窟神社のご子息かつ次期宮司かつ強大な力を持つとされる怜司にそんな罰当たりなことをするわけだから、先生や大人に見つかると、近隣住民も巻き込んで、それはそれは大層にしばかれる。そんな血生臭い現場をいくつも見てきているはずなのに、やる奴はやる。馬鹿な小津みたいに。
怜司は昔から神社に身を置く人間として、村民のお心遣いで自分たちは生かされていることを忘れず、何事も努めて冷静に対処するよう躾けられてきているし、本人も最大限心掛けている。自分も苦しい中、小津の威圧的な態度にも屈せず、いつも通り穏やかに接していた怜司の姿を見た時、怜司は本当に頑張っていると感心した。それこそ、神々しさすら感じた。だから俺は、そんな頑張っている怜司のボディガ―ドとして、怜司を守っていきたいと思っている。
玄哉が教えてくれなかったら間に合わなかったかもしれないと思うと、怖くて堪らなかった。体育倉庫に向かうまでも、怪我していないか不安だった。もし傷の一つでも見つけていたら、本当に顎を握り潰していたかもしれない。
「雄大」
背中から怜司の声がした。玄哉と別れた帰り道。いつも通り後ろには怜司がいて、落ちないように俺の腰に腕を回して、しがみついている。
「ありがとうな」
「突然なによ」
「いや、さっきさ、お礼言い忘れたと思って」
「はは、律儀だな」
冬は陽が傾くのが早い。空が温かなオレンジに染まる中、カラカラと車輪の回る音が響く。怜司の影が俺の影に重なって見える。なんだかまるで、怜司が俺に取り込まれているみたいだ。
「なんで雄大の影まで伸びるんだよ。背が届かないじゃん」
「何に怒ってんだよ」
「は~あ。あと身長が20センチ高くて、ムキムキで、イケメンだったらな~」
「俺になりたいってわけね」
「自意識高っ」
ケタケタ笑う声が車輪と絡まる。一人静かに過ごす時間も欲するところだが、どこまでも続く広い空の下、こうして怜司が元気に笑っている声を聞きながら、一緒に過ごす時間も好きだった。いつもより空気が澄んでいるような気がするし、雲の流れも、よりゆったりと感じる。ここに在る自然が自分たちの味方をして、見守ってくれている。安心して体を預けているような気持ちになれるのは、怜司のおかげなのだろうか。まるで俺は、神様を背に自転車を漕いでいるような気さえするのだ。
そんな神様は、今朝と同じであろう洋楽を口ずさんでいる。俺はあまり音楽にも詳しくないし大して興味もないから、とりあえず巷で流行っている曲をランキング順に聞き流して、知識として仕入れておく程度なのだが。怜司は家で静かに過ごす時間が多いせいか、音楽をこよなく愛している。邦楽、洋楽関係なく、時間があればネットで聴き漁り、気に入った曲を片っ端からダウンロードしているようだ。村のネット環境は言わずもがななので、怜司の音楽海遊が始まると、俺や親父さんたちは黙ってスマホをそっと置くのだ。
「朝から歌ってるソレ、何?」
「言っても分からないだろ」
「まあ、確かに」
「良い曲だと思う?」
「まあな」
ふふ、と笑うと、また嬉しそうに歌い出した。同じフレーズを何回も歌っているから、サビのパートだろうか。もしくはそこしか覚えていないとか。なんにせよ、怜司が歌うと、どんな歌も風の音に合う気がして、その心地良さに、俺は静かに耳を傾けた。

しばらく無心で漕いでいると、いつの間にか辺りには夜の帳が下ろされていた。冬の日没は早い。相変わらず街灯は存在も灯りも疎らで、俺は慌てて自転車のヘッドライトを点けた。前方だけは明かりが確保されたが、他に頼れるのは月明かりだけだった。
神社まで、まだあと10分はかかる。周りに一層の注意を払いつつ、ペダルを回すスピードを上げた。
「雄大」
怜司が俺を呼ぶ。その声は小さいが、言外に、これから自分の言う事を聞かせようとする圧を感じた。俺は黙ったまま、続きの言葉を待った。
「そのままペダル漕いでて。後ろを絶対見ないで」
ハンドルから伸びるバックミラーのことを言っているのだろう。俺は「おう」とだけ返事をして、そのまま何も知らない体でペダルを漕ぎ続けた。
恐らく、いや確実に、後ろには何かがいて、その何かが追いかけてきているのだろう。
俺には見えていないが、たぶん今、怜司はまた何かを呟き続けているのだろう。俺には一文字も理解できないが、霊を追い祓うための、呪文のようなもの。この集中を途切れさせないように、自転車を前に進めることだけ考えた。
車輪の回る音だけがやけに大きく聞こえた。緊張のせいか、脚が徐々に重く感じ、膝に痛みが走る。いやに手汗が気になって、思わずハンドルを握り直した。直後、視界に石が見えた。その大きさに気づくも時すでに遅く、前輪が乗り上げてしまった。段差のせいで、ガタンという音とともに体のバランスが崩れる。
「うわっ」
「怜司!」
怜司の腕が離れた。弾かれた声に、思わずバックミラーを覗いてしまった。
瞬間、目が合う。
服も皮膚もドロドロに溶けた塊から覗く、丸い目玉だった。
「うわああああああ!」
あまりの恐怖に堪らず叫び声をあげてしまった。生身の人間なら殴れば終わる。だが得体のしれない幽霊はそうはいかない。俺には為す術がない。自分ではどうしようもない、正体の分からないモノに狙われるのは、恐怖でしかない。
《逃げるなああああああ》
俺の声に反応して、霊も金切り声をあげてきた。俺に向かって伸ばされる腕から、血の混じった肉片が飛び散る。
「そのまま走って!」
恐怖に襲われ車体がぐらつく中、怜司が声をあげた。気づけば怜司の腕は、俺の腰当たりの服を掴んでいた。指示通り前進しながらも、もう一度バックミラーを覗く。怜司の後頭部が見えた。相変わらず追いかけてくる何かと対峙している。気を抜けば間合いを詰められる。今度こそ前だけを見て、必死にペダルを漕いだ。
《その体をちょうだいぃいいい》
体力という概念のないやつらの猛追に終わりはない。鳥居はまだ先。鉛のように脚が重い。甲高く響き続ける叫び声に脳が痺れて、脚が止まりそうになった。
その時。
「させないよ」
怜司の静かな声と同時に、一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。風の音も、振り乱れる髪も、車輪も。全てがほんの一瞬、何か強い力に引っ張られたかのように、その場でピタリと止まり、そして、全てがほんの一瞬で元に戻った。
自転車は変わらず前に進んでいく。脚の重みからも解放された。バックミラーを覗くと、そこには何も映っておらず、ただ暗闇が広がっていた。
「やった…のか?」
いまいち状況が掴めていない俺は、引き続きペダルを漕ぎながら怜司に尋ねた。
「うん。バッチリ」
満面の笑みでピースサインをする怜司が、バックミラーに映りこんだ。少し息はあがっているものの、俺とずっと一緒にいたせいか、それほど辛そうには見えなかった。
気づけば、神社手前の曲がり角まで来ていた。俺はこれ見よがしと深く息を吐いて、ゆっくりと角を曲がった。鬼山を背に堂々と立つ鳥居の存在が、いつも以上に頼もしく、待ち遠しく感じた。
「お疲れー、俺たち」
自転車を停め、後ろを振り返った。疲労の色を見せながらも、俺の顔を見て笑った怜司と、小さくハイタッチを交わした。