「お前昨日遅かったな」
食卓に向かうと、既に親父さんが座ってコーヒーを飲んでいた。
親父さんは50歳を過ぎているものの、綺麗に整えられた口髭に、七三分けされたグレイッシュヘア―のツーブロックと、オシャレで清潔感のあるスタイリングをしている。渋さを湛えた顔に、腹の出ていない絞まった体も相まって、イケオジの権化のような人だ。そんな親父さんが浴衣をラフに着こなしながら、眼鏡越しにこちらをチラと覗く様は隙が無くて、俺はいつも肩に力が入ってしまう。
「すんません。ちょっと野暮用で」
「…ま、お前が無事ならいいが。気をつけろよ。私も眠い」
「っす」
鬼窟(きくつ)神社の宮司である親父さんは、朝が早い。4時頃に起床し、まず神様に挨拶する朝拝をする。その後境内の清掃を行うが、これがかなりの重労働で、ガキの頃何回か手伝いをしたことがある。しかしあっという間に音を上げて、今ではすっかり寝汚い様を晒している。
朝も早いし体力も要るからと、親父さんは夜の10時前には布団に入ってしまう。それ以降家族はなるべく静かに過ごすようにしているのだが、昨日は帰りが遅くなった上に、神社の近くで怜司が能力を使ったせいか、騒がしくて、親父さんは気が張ってしまったのだろう。
小さく頭を下げて、親父さんの向かいの席に座る。隣には既に怜司が座っていて、朝食を食べ勧めていた。
「おはよう」
「はよ」
軽い挨拶を交わして、少し温くなった味噌汁を啜った。怜司は角皿に盛り付けられた卵焼きをひとつ摘まんで、口に運んだ。
親父さんの息子である怜司は、幽霊を見たり、祓ったり、霊能力と言うのだろうか、そんな力を持っている。それも、親父さんを含めた鬼窟神社の歴代宮司を圧倒するほどの強い力を持っているらしい。しかし、心臓に持病があるのと、もともと体力が乏しいせいで、17歳の男子高校生として普通の日常生活を送るのも難しい。それほどの虚弱体質だ。
だから霊能力を使うのも、本当はかなり体に負担をかけているはずだ。それでも、いつも通りの挨拶を交わし、いつも通り、食卓に並ぶ料理を食べ進めている。ちゃんと寝られたのだろうか、特に辛そうには見えないから、少し安心した。
相変わらず、こいつの箸の持ち方は綺麗だ。細くて白い指が、黒の輪島塗の箸に絡んでいる。そのコントラストが芸術作品のように見えた。芸術には疎いから、それ以上の表現ができないのだが。
味噌汁を啜った後、怜司につられて俺も卵焼きを食べた。怜司の母親であるお袋さんの作ったご飯はいつも美味い。味噌汁は俺の好きな赤味噌で、具はシンプルに豆腐とわかめ。卵焼きは、怜司の好みに合わせて甘めにしてある。俺たちの好物を把握して用意してくれる。いつも朝から幸せだった。
食卓の奥からテレビの音が聞こえる。隣県で修学旅行に来ていた男子高生が、3日前から行方不明になっているというニュースが流れていた。警察が公開した顔写真が映る。特にこれという特徴のない、どこにでもいそうな平凡な顔。これは間違いなく、一か月も経たずに記憶から飛ぶだろう。それから何本かヘッドラインニュースが読まれ、お待ちかねのお天気お姉さんの登場だ。今年の4月から担当になった、“りなりん”の愛称で親しまれているお姉さん。ふわふわに巻かれたブラウンヘア―にくりくりの目、気持ちふくよかな丸顔に、ぽってりとした唇。スタイルの良さが際立つ白のニットワンピース。全部がドンピシャ俺好み。天気は別にネットでリアルタイムに確認できる。というか、傘が必要かどうかだけ分かればいい。7時前に流れる天気予報の時間は、お姉さんを見るためのコーナーと言っても過言ではない。今日もお姉さんの笑顔に癒されていたら、数分前の顔写真は頭からすっかり飛んでいった。
俺と怜司は、鬼窟神社から10キロ弱先、ここ鬼山村(きやまむら)の隣町にある町立高校に通っている。主に学生用にと、朝と夕方に2本ずつバスが運行されているが、学生以外の村民も当然利用するためかなり混雑する。そのため、俺たちは自転車を使い、30分から40分ほどかけて通学していた。怜司は自転車の運転ができないから、俺の後ろに乗せて走っている。ナントカって法律ではダメらしいが、こんな田舎でそんなこと言う奴はいない。特に俺たちに関しては、駐在さんすら黙認している。
鬼窟神社は、鬼山村という小さな村にある神社だが、周辺の町も含めて神社はこの鬼窟神社一社だけであり、村民は皆氏子としてここの神を崇めている。祀られている神はかつてこの辺り一帯を荒らしていた鬼と呼ばれる存在であったが、ある時から自然を守る神として崇められるようになり、その本殿が鬼窟神社にあるのだ。特に鬼山村は、鬼が現れたとされる、今では鬼山と呼ばれる山の麓に位置する村で、昔から自然を相手にする林業、農業が盛んな地域だ。そのため村民は鬼神様と呼び、熱心に参拝にきている。そのため鬼窟神社は村民の宝とされており、宮司は村長や町長より尊敬されている。
だから宮司の息子である怜司のことも誰もが知っているし、村民全員にとっての息子のように大事にされている。そんな“村の息子”である怜司の、ある種子守り役として位置する俺のことももちろん周知されている。だから二ケツで走っていても、体の弱い怜司様の送迎としか思われない、ということだ。
ただ、何にでも例外は存在する。
「ちょっと雄大クン!」
学校に向かうべく畑の脇道を走らせていると、少し先の区画で畑仕事をしている婦人に声をかけられた。
矢田部さんだ。またか…と思いつつ、素通りできず自転車を止めた。左足でバランスを取りながら、わざわざこちらに近づいてくる矢田部さんに挨拶をする。
「おざます」
「おはようございます、でしょ!それより、まーた怜司様を自転車に乗せて!危ないって言ってるじゃない!落ちてお怪我でもされたらどうするのよ!」
「いやだから、宮司サマが良いって言ったんで」
「だからってそんな自転車の後ろなんて…」
しつこくてイラついてきたので、自転車のバランスを保ちながらも矢田部さんに向かって少し体を近づけ、上から覗き込むようにしてゆっくりと喋った。
「良いって言いました」
俺の身長は185cmを超えている。大して矢田部さんはおそらく150cm前後と言ったところか。俺が少しでも近づけば、それで十分圧を感じる。
自分をすっぽり隠すほどの大きな影に気圧され、「ひっ…」と声をあげた。それでも何とか言い返したいらしい矢田部さんは、体を縮こませながらも俺を下から睨みつけてくる。
老化で垂れ下がった瞼が、それっぽく鋭くは見えた。
「お…、お、お尻だって、痛めちゃうじゃないの!」
「矢田部さん、大丈夫ですよ」
どうにも引っ込みがつかなくなった矢田部さんに、怜司が穏やかな口調で声をかけた。
「雄大、運転上手だから信頼しています。それに、父もよろしくって、いつも送り出してくれるんです。きっと神様のご加護がありますよ」
そう言って、優しく微笑んでみせた。
矢田部さんは怜司の微笑みに弱い。怜司は色白で、優しいアーチを描く眉に、くっきりした二重瞼の目、すっと通った鼻筋、形の整った少し薄めの唇と、美形を作るためのパーツが全て揃った典型的な美男子だ。マッシュヘアの前髪が風に揺れ、そこから覗かせる美男子の微笑みは、中年のオバサンにはご褒美に間違いない。
まあ…と、うっとりとした顔を見せながら、「鬼神様のご加護がありますように」と両手を合わせて、早々に立ち去ろうとする俺たちを見送った。
宮司が良いって、俺も言ったのに。この扱いの違いだ。
村と称されるだけあって、そこには小さいコミュニティが形成されている。狭くて閉鎖的なコミュニティだ。神社の息子なんて大した肩書がなくたって、村民全員が全員の個人情報を把握している。
俺は鬼窟神社の息子ではない。訳あって居候している身だ。その理由を知って、受け入れてくれる人がほとんどであるが、ごく一部、神社とは全くの無関係者である俺という異分子に反発する人もいる。その一人が矢田部さんだった。俺を見かけるたび、何でもいいから小さな粗を見つけては、こうして絡んでくるのだ。
とはいえ今のは果たして、俺を虐めたかったのか、純粋に怜司サマが心配だったのか。はたまた怜司サマの微笑が見たかっただけなのか。
毎度のことといえども、モヤモヤが腹に溜まる。
「矢田部さんって、雄大と喋るの好きだよね」
「…ん?えっ、は?」
「だって僕が一人でいても、お辞儀されるだけだよ。雄大イケメンだからな~」
「…お前それ本気で言ってる?」
「彫りが深いの。海外の人みたいで良いよな~!」
確かに俺の顔は怜司と全てが正反対で、彫りが深くて濃い。髪型をアップバングにしてからは、これはこれでイイ男だと、自分でも正直思っている。
しかし今の矢田部さんと俺とのやりとりから、どうやって俺への好意が読めるのか。怜司一人の時に声をかけないのは、多分、恐れ多いからではないだろうか。俺はさしずめ、怜司との接触のハードルを下げるためのバーターといったところだろう。
虚弱体質故の箱入り息子で世間知らずなのは承知しているが、ここまでボケが凄いともはや才能だ。
だがこのボケが時には、俺の気を晴らしてくれる。あまりのボケに思わず吹き出して、腹にあったモヤモヤも、昨日のオバケのように、いつの間にか消えていた。
怜司は何故か上機嫌に歌を歌い出した。どこかで聞きかじったであろう洋楽の鼻歌を背に、無駄に遅れた分を取り戻そうと一心にペダルを漕いだ。
俺達の扱いの差は、当然、学校にも存在する。
俺を受け入れてくれているとはいえ、片や神社の息子で、片や他所者。口には出さずとも、日頃から親の言動を見聞きしている子どもたちの行動は、ある意味大人よりも露骨だ。
学校に着いて、自転車を駐輪場に停めている間、怜司を見かけた学生は挨拶をしていく。ちょっとした雑談なんかもして、緩やかな雰囲気がそこにはあった。
しかし俺が怜司に近づくと、空気が一気に冷える。挨拶もそこそこだし、すれ違う奴らと明らかに視線が合わない。
階段を上がって3階の廊下には3年生の教室が並ぶ。階段から一番近い一組が俺たちの教室だ。ドアが開けっ放しの入り口に入る。自分のクラスに入っても、視線が集まるのは前を歩く怜司で、俺はこんなに背も高くて目立つのに、いるのかいないのか分からない扱い。
まあ、もういい加減、こういう扱いは慣れている。半分は俺の素行の問題もあるだろうし。イジメを受けるよりはよっぽどマシだろう。俺は特に誰とも挨拶をせず、黙って自席に腰を下ろした。
それから数分もしないうちに、階段をドタバタ駆け上がる音が響き、その音は迷わず一組の入り口に突入した。
「おーっす雄大!」
「おー」
隣のクラス、二組の千葉玄哉だ。金に染めた髪を無造作に遊ばせる、少しタレ目に見える一重の男。玄哉はナチュラルに明るくて、誰とでも分け隔てなく接するタイプだ。だから俺や怜司にも、他と同じ同級生として自然体で接してくれる。数少ないイイ奴で、俺たちの友人だ。玄哉の顔を見ると、少しほっとする。
「あ、玄哉おはよう」
「怜司おはー!ななな、それより雄大お前聞いたぞ。昨日の夜、オバケと鬼ごっこしてたんだって?」
「は?なんで知ってんだよ。お前8時にはねんねしてるガキだろ」
「俺じゃねえよ。てかガキじゃねえよ!近所のおっちゃんが教えてくれたの」
聞けば、昨夜外を歩いていた近所のおっちゃんとやらが、ものすごいスピードで走り去っていく俺を見たらしい。その後ろから、ぼんやりとだが人の姿が見えたので、幽霊にでも追いかけられているのだろうと思ったそうだ。
「なんでおっちゃんとやらが夜出歩いてんだよ」
「酔ったから夜風に当たってたんだって」
「なんでそれをお前に話すんだよ」
「同級生って知ってっからさ、気をつけろって言っとけって言われた」
鬼山村の村民は、生まれた時、いや胎児の時から霊山たる鬼山の霊気にあてられているせいか、大なり小なり霊感を持っているらしい。仮にこのおっちゃんじゃなくても、村民の誰かが外にいて俺を目撃していれば、同じように告げ口されただろう。
「律儀だなー、お前」
「お前なー。鬼山家のご子息にご苦労かけるだろ?昨日だってどうせ怜司に助けられたん
だろうし」
「そうだそうだ。いいぞ玄哉。もっと言ってくれ」
「なんだよ加勢しやがって。いいじゃねえか、ちゃんとお守り持ってただろ!」
「お守りだけじゃあ防ぎきれないって何度言ったら分かるんだ、この鳥頭!」
「なっ…!鳥居くぐれば近寄れねえんだろ?あのまま走りゃあ俺の勝ちだったんだ。余計な真似すんじゃねえ!」
「なんだよその言い草!」
「お前らもう…夫婦喧嘩なら他所でやれよ」
「「夫婦じゃねえ!!」」
怜司と俺は、基本的に二人で行動している。
その様を、玄哉から「夫婦」と弄られているわけだが、二人で行動するには理由があった。
俺は昔から、幽霊に取り憑かれやすい体質だった。しかし残念なことに、霊感は全くないため、霊を見ることができない。だから自分が今幽霊に狙われているのか、近くに幽霊がいるのかを自分で気づくことができないまま取り憑かれ、心身に支障をきたしてしまう。下手に強い霊に目をつけられると、魂を食われてしまうおそれもあるそうだ。
そのような事態を防ぐために、怜司がいてくれる。
怜司は強大な霊能力を持っており、お祓いや除霊の腕も間違いない。霊を近づけさせない、退散させることもできるから、俺の傍にいることで、有事の際に対処できるようにしてくれている。
しかし、いくら怜司がいるからといって、いついかなる時でも傍にいられるわけではないし、離れている間に訳が分からないまま何かが起きては遅い。
だから、せめて俺自身が霊の存在に気づけるようにと、俺は日頃から眼鏡をかけるようにしている。眼鏡は怜司から貰ったものだ。この眼鏡には怜司の霊力が込められているらしく、霊感のない俺でも霊を見ることができるようになっている。だから昨夜、俺は自分に声をかけて、襲ってくる霊に気づいて逃げることができたというわけだ。
とはいえ、結局は俺自身で幽霊をどうにかできるわけではない。遭遇して襲われたら、怜司になんとかしてもらうしかない。幽霊にも、大したことのない霊から、相当の力を持つ厄介な霊もいるらしい。いくら怜司に凄い力があるとはいえ、遭遇する霊によっては怜司にも危険が及ぶ。そのエンカウント率をなるべく下げるため、特に夜は一人で出歩かないようにと言われていた。周りの人たちもそれを知っているから、玄哉の近所のおっちゃんとやらも、俺に気をつけろと言いたかったのだろう。
それは分かっている。怜司と出会ってから今に至るまで、怜司が闘ってきた姿を一番傍で見てきたのは俺だ。俺こそ、怜司を危険な目に合わせたくはないと思っているんだ。
余裕だと思ったわけではない。ただ、油断してしまった。いつもなら夜の散歩は、境内でしていた。鬼窟神社は、鳥居から内側は悪い霊が入れないように、鬼神様の加護による結界が張られているらしい。だから陽が沈んだ後も、境内なら一人で外に出ることができた。
昨夜はどうしても外せない用事があって、鳥居の外に出た。鳥居の外という意識はもちろんあった。ただ、久しぶりの外出に舞い上がっていたのも事実だ。限りある一人時間を、満喫しようとしてしまった。襲ってきた霊が、たまたま強い奴じゃなくて正直助かった。
霊に襲われた時、ほんの少しだが間合いが取れたのは、怜司から貰ったお守りのおかげだった。お守りと言っても、鬼の絵が描かれた紙切れ、それも怜司が幼少期に描いたものだ。
強い霊能力を持つ怜司の特殊能力なのか、怜司は神様の絵を描くと、その神様の加護を宿らせることができるそうで、俺を守るために鬼神様の絵を描いてくれたのだ。絵の描かれた紙はその加護の影響か、傷ついたり汚れたりすることはなく、描いた本人が死ぬまでその効力は続くといわれている。
強い怜司の作ったお守りだから、最強…と言いたいところだが、実はそうではない。宿らせる加護の力は、その絵をどれだけ本物の神様に似せて描けるかで決まるらしい。
しかし怜司は、残念ながら絵心が無い。本当の姿を知らない俺らが見ても、そもそも絵が下手ということが明らかに分かるレベルだった。あの時はもう小学校の高学年になっていたと思うが、幼稚園生が描いたような線の描き方と色の使い方で。かなり似せて描けたと、得意げな顔をして俺に言ってきた当時のことは、今思い出しても笑える。
そんなわけで、このお守りで守れるのは力の弱い霊まで。中程度だと少し動揺させる程度、相当の力の持ち主だと、お守りの存在に気づいても無視できてしまうという。
お守りを持って防げる場合もあるが、それは遭遇した霊の力次第。だから余計に、油断してはいけなかった。
3年前のことを思い出す。雨の中、力なく地面に膝をつく、怜司の姿を。あの時に心から思ったのだ。怜司を危ない目に合わせたくないと。
そんなこと、非力な俺では不可能なことだと、分かってはいても…。
