11月の夜風は、昼間に感じた秋の気配が薄れ、一段と冷たくなるらしい。
骨身に染みるんだよ、というあいつの言葉が自分に響いたことはなかった。
白の半袖Tシャツに黒のジャージパンツ。いつもの部屋着に黒のサンダルを引っ掛けて、心地の良い夜風を全身に浴びながら、歩を進めていく。
風の音、風に揺られる木々の音、俺の持つ紙袋がパンツの裾に擦れる音、そして俺の足音。人っ子一人いない夜道に響く音を独り占めしながら、散歩するのが好きだった。誰に縛られることも、干渉されることもない、俺だけの自由な時間。たった20分程度だけれど、この時間を大切にしていた。
道端に疎らと立っている街灯は、まともに灯っている方が珍しいくらい、どれもこれもチカチカと不規則に明滅を繰り返している。陽が沈んでしまえば出歩くやつなんてほとんどいないから、メンテナンスをするという発想がないのだろう。眼鏡のレンズにその光が当たるたび、嫌に眩しく感じた。
ふと、一本の灯りの陰に人の姿が見えた。街灯の柱に寄り掛かるように立っている。上下グレーのスウェットを着た、おそらく男。見覚えのない後ろ姿だと思いつつ、休憩でもしているのかと横を通り過ぎた。
直後、背後から声が聞こえた。俺を呼び止めるように、ねえ、と聞こえた。
「はい?」
振り返ると、男は俺の真後ろに立っていた。不気味なほどの至近距離で、不気味なほどに感情のない目で、真っ直ぐに俺を凝視している。
驚いて後ずさりすると、その顔は一瞬にして満面の笑みを湛えた。
《見えているんだね。僕を助けてよ》
男がぐっと見開いた。突然、圧迫された時のような痺れを感じた。両腕も両脚もビリビリと響いて、力が入らない。その様を見て下卑た笑いを見せた男は、上半身を屈めて、動けない俺の身体にめり込もうとしてきた。
まずい、このままでは乗っ取られてしまう!
反射で目を閉じた。それで何も防げるわけではないが、最後の無駄な足掻き。しかしいくら堪えても何も起きない。片目だけ開けて確認すると、男の動きがピタと止まっていた。俺の胸ポケットを見て驚き、戸惑っている様子だった。
《この野郎…なんで!》
男が一歩後ずさりすると、感じていた痺れが弱まった。力が入る。この隙を逃したら終わりだ。俺は全速力で走りだした。焦った男が怒声を浴びせながら追いかけてくる。
《逃げるなクソが!》
それで止まるわけがない。後ろを振り向いたら減速してしまう、前だけを見て走ることに集中した。体力には絶対の自信がある。しかし、追いかけられているという緊迫感と焦りにやられて、いつもより息があがる。
いつの間にか街灯がなくなり、代わりに、街灯の高さを優に超える木々がうっそうと立ち並ぶ。そうなれば、そろそろ前方に曲がり角が出てくる。勝機が見えた。曲がった先にある鳥居をくぐれば逃げ切れるはずだ。
角を右に曲がると、2mほどの朱い鳥居の真ん中に人が立っていた。俺はその姿を見て、改めて自分の勝ちを確信した。
そいつは俺を見るや否や眉間に深々と皺をこさえたが、そのまま静かに目を瞑り、右手をまっすぐと前に突き出した。手の指を隙間なく揃えて、ピンと伸ばしたまま、微動だにしない。唇だけが、微かに聞き取れる声で忙しなく何かを呟き続けていた。
左の角から、遂に男が姿を見せた。
《ちょこまか逃げやがって…、早くその体を渡せぇ!》
今度こそ俺を捕まえようと、男が腕をぐっと伸ばした。
その瞬間。男の身体は霧散した。まるで煙のように、音も無く、人の形が一瞬にして霞みとなったのだ。男も、自身の身体に何が起きているのか分かっておらず、消え入る寸前まで、その目玉は動揺で震えていた。
あんなに威勢の良かった男の声はそれ以上聞こえず、そのまま跡形もなく消え去った。
男のいた場所には、何事もなかったかのように、夜風が通る。
「寒っ」
その言葉と同時に、何かが空を切る音が聞こえた。
後ろを振り向くと、その姿は地面に膝をついて、肩を上下させていた。苦しそうなその様子に、俺は慌てて駆け寄った。
「悪ぃ」
肩を抱えて立ち上がらせると、そいつは下を向いたまま、息継ぎの合間にボヤいた。
「こんな時間に、オバケと鬼ごっこか?」
「体力はあるからな。ココまで来れば良いわけだろ?」
「体力オバケと、オバケのたたかい…」
ふふっ、と小さく笑い声が聞こえる。
「お守り、忘れずに持っててくれたんだな」
ようやく呼吸が整って、俺に顔を向けた。
「無事で良かった、雄大」
その柔らかい笑みに、胸の辺りがざわつく。何も言葉が出せず、向けられる視線から顔を逸らした。反対の手に持つ紙袋が視界に入る。
カサカサと俺のパンツに当たる音は、こいつにも聞こえているはずだし、見ているはず。明らかに買い物帰りだ。こんな夜遅くなってからの、俺の一人行動。それなのに、何も言ってこない。こいつはいつも、俺の自由には何も言ってこない。
責めようと思えば、いくらでも俺を責められるのに。その沈黙がもどかしい。
でも、勝手な行動をとっている俺に、何かを言うことはできない。問い詰めるなんて以ての外だろう。
だから結局いつも、俺の身を按じたお前の一言で終わってしまう。
今日もそのまま、お前の重い足取りに合わせて二人、ゆっくりと鳥居の奥に帰った。
骨身に染みるんだよ、というあいつの言葉が自分に響いたことはなかった。
白の半袖Tシャツに黒のジャージパンツ。いつもの部屋着に黒のサンダルを引っ掛けて、心地の良い夜風を全身に浴びながら、歩を進めていく。
風の音、風に揺られる木々の音、俺の持つ紙袋がパンツの裾に擦れる音、そして俺の足音。人っ子一人いない夜道に響く音を独り占めしながら、散歩するのが好きだった。誰に縛られることも、干渉されることもない、俺だけの自由な時間。たった20分程度だけれど、この時間を大切にしていた。
道端に疎らと立っている街灯は、まともに灯っている方が珍しいくらい、どれもこれもチカチカと不規則に明滅を繰り返している。陽が沈んでしまえば出歩くやつなんてほとんどいないから、メンテナンスをするという発想がないのだろう。眼鏡のレンズにその光が当たるたび、嫌に眩しく感じた。
ふと、一本の灯りの陰に人の姿が見えた。街灯の柱に寄り掛かるように立っている。上下グレーのスウェットを着た、おそらく男。見覚えのない後ろ姿だと思いつつ、休憩でもしているのかと横を通り過ぎた。
直後、背後から声が聞こえた。俺を呼び止めるように、ねえ、と聞こえた。
「はい?」
振り返ると、男は俺の真後ろに立っていた。不気味なほどの至近距離で、不気味なほどに感情のない目で、真っ直ぐに俺を凝視している。
驚いて後ずさりすると、その顔は一瞬にして満面の笑みを湛えた。
《見えているんだね。僕を助けてよ》
男がぐっと見開いた。突然、圧迫された時のような痺れを感じた。両腕も両脚もビリビリと響いて、力が入らない。その様を見て下卑た笑いを見せた男は、上半身を屈めて、動けない俺の身体にめり込もうとしてきた。
まずい、このままでは乗っ取られてしまう!
反射で目を閉じた。それで何も防げるわけではないが、最後の無駄な足掻き。しかしいくら堪えても何も起きない。片目だけ開けて確認すると、男の動きがピタと止まっていた。俺の胸ポケットを見て驚き、戸惑っている様子だった。
《この野郎…なんで!》
男が一歩後ずさりすると、感じていた痺れが弱まった。力が入る。この隙を逃したら終わりだ。俺は全速力で走りだした。焦った男が怒声を浴びせながら追いかけてくる。
《逃げるなクソが!》
それで止まるわけがない。後ろを振り向いたら減速してしまう、前だけを見て走ることに集中した。体力には絶対の自信がある。しかし、追いかけられているという緊迫感と焦りにやられて、いつもより息があがる。
いつの間にか街灯がなくなり、代わりに、街灯の高さを優に超える木々がうっそうと立ち並ぶ。そうなれば、そろそろ前方に曲がり角が出てくる。勝機が見えた。曲がった先にある鳥居をくぐれば逃げ切れるはずだ。
角を右に曲がると、2mほどの朱い鳥居の真ん中に人が立っていた。俺はその姿を見て、改めて自分の勝ちを確信した。
そいつは俺を見るや否や眉間に深々と皺をこさえたが、そのまま静かに目を瞑り、右手をまっすぐと前に突き出した。手の指を隙間なく揃えて、ピンと伸ばしたまま、微動だにしない。唇だけが、微かに聞き取れる声で忙しなく何かを呟き続けていた。
左の角から、遂に男が姿を見せた。
《ちょこまか逃げやがって…、早くその体を渡せぇ!》
今度こそ俺を捕まえようと、男が腕をぐっと伸ばした。
その瞬間。男の身体は霧散した。まるで煙のように、音も無く、人の形が一瞬にして霞みとなったのだ。男も、自身の身体に何が起きているのか分かっておらず、消え入る寸前まで、その目玉は動揺で震えていた。
あんなに威勢の良かった男の声はそれ以上聞こえず、そのまま跡形もなく消え去った。
男のいた場所には、何事もなかったかのように、夜風が通る。
「寒っ」
その言葉と同時に、何かが空を切る音が聞こえた。
後ろを振り向くと、その姿は地面に膝をついて、肩を上下させていた。苦しそうなその様子に、俺は慌てて駆け寄った。
「悪ぃ」
肩を抱えて立ち上がらせると、そいつは下を向いたまま、息継ぎの合間にボヤいた。
「こんな時間に、オバケと鬼ごっこか?」
「体力はあるからな。ココまで来れば良いわけだろ?」
「体力オバケと、オバケのたたかい…」
ふふっ、と小さく笑い声が聞こえる。
「お守り、忘れずに持っててくれたんだな」
ようやく呼吸が整って、俺に顔を向けた。
「無事で良かった、雄大」
その柔らかい笑みに、胸の辺りがざわつく。何も言葉が出せず、向けられる視線から顔を逸らした。反対の手に持つ紙袋が視界に入る。
カサカサと俺のパンツに当たる音は、こいつにも聞こえているはずだし、見ているはず。明らかに買い物帰りだ。こんな夜遅くなってからの、俺の一人行動。それなのに、何も言ってこない。こいつはいつも、俺の自由には何も言ってこない。
責めようと思えば、いくらでも俺を責められるのに。その沈黙がもどかしい。
でも、勝手な行動をとっている俺に、何かを言うことはできない。問い詰めるなんて以ての外だろう。
だから結局いつも、俺の身を按じたお前の一言で終わってしまう。
今日もそのまま、お前の重い足取りに合わせて二人、ゆっくりと鳥居の奥に帰った。
