澄める空は琥珀に溶ける

八月の二週目。
朝の六時を少し回った頃の空気は、日中の焼け焦げるような暑さが嘘のように、まだひんやりとした涼しさを保っていた。

目当ての公園は、広大な芝生広場と、それを囲むように植えられた背の高い樹木が特徴的な場所だ。予想通り、この時間帯は人気がまばらだった。遠くの遊歩道をジョギングしている人が小さく見えるのと、大型犬の散歩をしている初老の男性がベンチで休んでいる程度。

誰も僕を気に留めない。僕の存在を評価しようとする視線がない。
その絶対的な安全圏の中で、僕は深く深呼吸をし、夏の朝特有の、少し湿った土と青葉の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。

首から下げたカメラの重みが、心地よい。
朝の光は、僕が最も好きな被写体の一つだ。真上の強い太陽光とは違い、低い角度から斜めに差し込んでくる朝の光は、地面や木々の細かい凹凸を浮き彫りにし、普段は見過ごしてしまうような繊細で長い影を作り出す。

僕はゆっくりと公園内を歩きながら、ファインダー越しに世界を観察した。

公園の片隅にある、古びたコンクリート製の水飲み台。その蛇口の根元に、ほんの少しだけ赤茶けた錆が浮いている。そこに、一枚の枯れ葉が落ちていて、朝の光がその枯れ葉の輪郭を水飲み台の白い面に影として落としていた。

息を止め、ピントリングを回す。二重像がピタリと重なり、錆の質感と枯れ葉の葉脈が鮮明に浮かび上がる。

カシャッ。

心地よいシャッター音が、静かな朝の空気に吸い込まれていく。
さらに歩みを進める。
誰も座っていない木製のベンチ。その脚が、砂地の地面に落とす幾何学的な影。
背の低い植込みの葉の先端に、今にもこぼれ落ちそうにしがみついている、一粒の朝露。その水滴の中に、逆さまに映り込む青空と太陽の光。
僕は時間を忘れ、夢中になってシャッターを切り続けた。

ゆっくりと歩きながら、立ち止まり、しゃがみ込み、景色と対話する。
楽しい。
純粋に、心の底からそう思えた。

「……久しぶりに、ちゃんと撮れてる気がする」

僕は、カメラの冷たいボディを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。

自分の見ている世界が、確実にフィルムに焼き付けられていく実感。カメラを持って外に出る喜び。この感覚が、僕の中に確かな熱を持って戻ってきていた。
もしかしたら、僕の背中を押し続けてくれた廉のおかげかもしれないし、毎晩僕の写真を言葉で愛してくれたHAKUのおかげかもしれない。

今は、そのどちらの功績だなんて問わなくていい。
ただ、僕が再びカメラを構え、美しいと感じた瞬間を残そうとしている。撮れている。

それだけで、今の僕には十分すぎるほどの救いだった。
僕は近くのベンチに腰を下ろし、カメラのカウンターを確認した。

残り、三枚。

「今日はこれを撮り切って、帰り道で現像に出そう」

そう決めると、なんだか足取りが軽くなるような気がした。現像された写真の束を受け取る時の、あの特有のインクの匂いとワクワク感を想像するだけで、胸が躍る。

ふと、顔を上げて空を見た。

朝の早い時間はあんなに澄んだ青空だったのに、いつの間にか、西の空から墨汁を流したようなひどく暗い色の雲が、不気味なほどの早さでこちらに向かって広がってきていた。

夏の朝特有の、冷たい風がさっと吹き抜ける。

「……嫌な感じの雲だなぁ」

急な夕立、いや、この時間なら朝立というべきか。大気が急激に不安定になっているのが肌で感じられた。

でも、あと三枚だけ。あと少しだけ歩いて、良い被写体を見つけたら帰ろう。
そう思って、ベンチから立ち上がろうとした、その時だった。

「あれ、澄空じゃん」

背後から、不意に声がした。

その声の周波数を聞いた瞬間、僕の全身の血液が一瞬で凍りついたように冷たくなり、立ち上がりかけた姿勢のまま、完全に固まってしまった。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てる。
恐る恐る、軋むような動きで振り向く。

公園の入り口の方向から、数人の男女のグループがこちらに向かって歩いてきていた。
見覚えのある顔。見間違えるはずのない顔たち。
僕が学校に行けなくなる直接の原因を作った、写真部の同級生たちだった。

男子が二人、女子が一人。夏休みに入っているから当然学校の制服ではなく、それぞれが流行りの私服を着崩して、コンビニの袋を提げたり、スマートフォンを見ながら談笑している。部活の活動前なのか、それとも徹夜で遊んだ帰りなのかは分からない。

でも、その顔は、脳裏に焼き付いて離れない。
あの白々しい蛍光灯の会議室で、僕の紫陽花の写真を見て、鼻で笑った顔たちだ。

「おー、やっぱり澄空だ。お前、ずっと学校行ってないんだってな。担任がすげえ心配してたぞ」

先頭を歩いていた男子の一人が、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。

「久しぶりー。元気だった?」

女子が、悪びれる様子もなく、屈託のない声で言った。その声に悪意があるのか、それともただの無神経さから来るものなのか、僕にはもう判別できなかった。ただ、彼らと同じ空間の空気を吸っているという事実だけで、喉の奥がカラカラに乾いていく。

「……久しぶり」

かすれきった声が、自分の喉から出たことに、僕自身が少し驚いた。もっと気の利いた言葉で誤魔化して、その場を立ち去りたかったのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。

「ていうか、なんか首から下げてるじゃん。……うわ、出た。まだそんな骨董品持ち歩いてんの?」

もう一人の男子が、僕の胸元にあるライカを指差して、馬鹿にしたような声を上げた。

「えー、骨董品って言い方、ひどくなーい?おじいちゃんの形見なんだよね?大切にしててエライじゃん」

女子がクスクスと笑いながら言った。彼女は言葉では彼を窘めているようで、その実、まったく僕を庇う気などなく、その状況を楽しんでいるだけだった。
僕は、指先から急速に体温が奪われていくのを感じた。

「骨董品」

その無遠慮な三文字の単語が、僕の耳の奥から脳の芯まで、鋭い氷の刃となって深く突き刺さった。
視界が、ぐらりと揺れる。
目の前の光景が歪み、彼らの私服の姿が、あの日の制服姿へとフラッシュバックしていく。
会議室の、無機質な長机。机の上に無造作に置かれた僕の写真。

『地味すぎない? 何が言いたい写真なのか全然わかんない』
『なんで今更フィルムなんか使ってんの? 現像代の無駄じゃん』
『そんな骨董品みたいなカメラで自己満足に浸られてもさ』

頭の中で、あの日彼らが放った言葉たちが、エコーをかけて何重にもリフレインし始めた。
息が、できない。
酸素が肺に入ってこない。浅い呼吸だけが何度も繰り返され、心臓が耳のすぐそばで激しく早鐘を打っている。

「おい、澄空?どうした、顔色やばいぞ」
「ちょっと、大丈夫?」

彼らの声が、まるで水の中に潜っている時のように、くぐもって遠くから聞こえる気がした。

僕の世界のピントが、急激に合わなくなっていく。
その時だった。

空が、不自然なほど急激に暗さを増した。

先ほどまで西の空にあった墨汁のような黒い雲が、あっという間に上空を覆い尽くし、夏の朝の光を完全に遮断してしまったのだ。生ぬるい風が突風となって吹き抜け、周囲の木々の葉がザワザワと不気味な音を立てて揺れる。
ゲリラ豪雨が来る直前の、あの独特の土の匂いと、大気が押し潰されるような重い暗さ。

ポツリ。

僕の頬に、冷たい水滴が落ちた。

それを合図にしたかのように、雨は「降り始める」という表現を通り越し、いきなり「落ちて」きた。

ザーッという暴力的なまでの音が、一瞬にして公園のすべての音を掻き消した。滝のような、視界を白く染め上げるほどの突然の土砂降り。

「うわっ、ヤバい! 急に降ってきた!」
「最悪! 走ろう走ろう、あっちの屋根あるとこまで!」

写真部の人たちは、僕のことなど一瞬で忘れ去り、頭を抱えながら蜘蛛の子を散らすように走り出した。

彼らの足音が雨音に紛れて遠ざかっていく。
僕は、動けなかった。

雨が容赦なく僕の体を打ち据える。あっという間に髪が濡れそぼち、シャツが肌に冷たく張り付く。

——カメラが、濡れる

頭の片隅で、冷静な理性が警鐘を鳴らしていた。祖父の形見の、大切な精密機械。水は絶対に避けなければならない。
でも、体が、指一本すら、僕の意志に反して動こうとしなかった。呼吸が浅いまま、全身が硬直し、目の前の景色が白く霞んでいく。
雨の音が、フラッシュバックする彼らの嘲笑の声を打ち消すように、頭の中をガンガンと満たしていく。

『骨董品』『地味』『自己満足』

その呪いのような言葉たちが、雨粒と一緒に僕の身体に染み込んでくる。
助けて。

無意識のうちに、僕は震える指でズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出していた。

画面には水滴がびっしりと付き、うまくスワイプできない。服の裾で乱暴に画面を拭き、震える手でアプリを開こうとする。
誰に連絡すればいい? 親はロンドンだ。学校の先生?同級生?
誰も、今の僕を助けてくれる人なんて思い浮かばなかった。

気づいた時、僕の指は、あの茶色いアイコンをタップし、HAKUとのダイレクトメッセージの画面を開いていた。
文字を入力するキーボードが、雨と涙で滲んでうまく見えない。

『助けて』

震える親指で、ただその三文字だけを打ち込んだ。

送信ボタンを押す。

意味がないことなんて、百も承知だった。
HAKUは、SNSという電子の海を隔てた向こう側にいる、顔も知らない匿名の存在だ。僕が今、どこの街の、どこの公園で、どんな風に雨に打たれて震えているかなんて、彼が知る由もない。彼にここへ駆けつけて僕を助け出すことなど、物理的に不可能なのだから。

でも僕の心は、僕の震える指は、世界で唯一、僕の存在と僕の写真を心から肯定し、寄り添ってくれた彼にだけ、この絶望的なSOSを発信することを選んだのだ。
雨は、さらにその勢いを増していった。

叩きつけるような雨粒の重さに耐えきれなくなったかのように、僕は力なくその場に膝をつき、水たまりのできた地面に座り込んだ。

そして、首から下げた大切なライカを両手で抱え込み、自分のお腹と太ももの間に隠すようにして、体を限界まで丸めた。

せめて、祖父のカメラだけは、この冷たい雨から、残酷な世界から守りたかった。
どれだけ自分が濡れてもいい。どれだけ僕がみじめに壊れてしまってもいい。

ただ、このカメラだけは。僕の残された最後の宝物だけは。
激しい雨音の壁の中で、僕は目を固く閉じ、小さく丸まったまま、永遠のように感じる時間をただ耐え続けていた。