澄める空は琥珀に溶ける

八月の初め。

本格的な夏が街を完全に支配し、まとわりつくような湿気と暴力的なまでの日差しがアスファルトを焦がしていた。蝉の鳴き声が耳鳴りのように響き渡る大通りから、逃げるようにしてあの細い路地裏へと足を踏み入れると、ひんやりとした日陰の空気が火照った肌を少しだけ冷ましてくれる。
僕はいつものように、避難所へ向かうような安堵感を胸に抱きながら「アンバー・デイズ」の木製のドアへと近づいた。

しかし、真鍮のドアノブに手をかけようとした瞬間、すりガラスの向こう側から、この静謐な空間にはおよそ似つかわしくない、少し荒げた声が漏れ聞こえてきた。
僕は反射的に足を止め、ドアの前で息を潜めた。

「だから、注文を変えたいって言ってんだよ!なんで融通が利かないの。マジで使えないな、ここの店員」

苛立ちを含んだ、大きくて粗雑な男の声だった。
そっと扉を少しだけ引いて中を覗き込むと、レジカウンターの前に一人の客が立っていた。四十代くらいの、スーツのネクタイを緩めた男性。真夏の暑さと苛立ちのせいか顔は赤く上気し、カウンターの向こう側にいる人物を威圧するように身を乗り出している。

そしてその客の矢面に立たされているのは、廉だった。
廉は怒鳴り散らす男性を前にしても、顔色ひとつ変えていなかった。いつものように背筋を真っ直ぐに伸ばし、白いシャツと深い色のエプロン姿で、ただ静かに凪いだ海のような琥珀色の瞳で男性を見据えていた。

「申し訳ありません。ですが、ご注文を受けてからすでに三十分以上が経過しております。エスプレッソの抽出も完了し、一度お作りしたものへの変更は対応が難しい状況です。ご不便をおかけして申し訳ありません」

廉の声はどこまでも平坦で、論理的だった。感情的に反発するわけでもなく、かといって過剰にへりくだるわけでもない。ただ事実とルールの境界線を、冷徹なまでに正確に引いているだけだった。
しかしその感情の乗らない完璧な対応が、かえって男性の神経を逆撫でしてしまったらしい。

「申し訳ないとか口先だけで言うなら、さっさと作り直せよ。金なら払うって言ってんだろ。そんなマニュアル通りの対応、どこの店もしてくれないとか言うつもりか?」
「金銭の問題ではございません。申し訳ありませんが、すでにお作りしたものは廃棄という形になりますので——」
「廃棄とか知らねーよ。そっちの都合だろ。こっちは客なんだよ。少しは頭使って接客しろ!」

男性がカウンターをドンッと強く叩いた。
その鈍い音に、僕は心臓が跳ね上がり、無意識に扉を引いていた手が滑ってしまった。

カランコロン。

澄んだ真鍮のベルの音が、張り詰めた店内の空気を切り裂くように鳴り響いた。

「あ……」

中に入ってしまった、と気づいた時には、すでに遅かった。男性の血走った視線が、怒りの矛先を探すように入り口に立つ僕の方へと鋭く向けられた。

「なんだ、お前。人の揉め事見てんじゃねーよ」

八つ当たりのように投げつけられた刺々しい言葉。

「あ、すみません……」

僕は反射的に体を縮こまらせ、後ずさりしそうになった。こういう、他人のむき出しの負の感情がぶつかり合う場面が、僕は世界で一番苦手だった。声の大きな人、怒っている人を見ると、自分に向けられた怒りではなくても、空気に当てられて息ができなくなってしまう。指先が急激に冷たくなり、視線をどこに向けていいか分からず、ただ床を見つめた。

その時だった。

「お客様」

廉の声が、先ほどよりもさらに一段階、低く、重く響いた。
僕が顔を上げると、廉がカウンターの内側から素早く移動し、怒り狂う男性と僕の視線を遮るように、絶妙な位置に体を滑り込ませていた。彼の手の届く範囲から、僕を完全に遠ざけるような立ち位置。

「他のお客様へのご発言は、お控えください」

廉の表情は、先ほどと変わらず無機質なままだった。
でも目が、完全に違っていた。
さっきまでただ淡々とクレーマーを処理していた業務的な目ではなく、自分のテリトリーを侵す外敵を冷徹に排除しようとする、絶対零度の光がその瞳の奥に灯っていた。見る者の呼吸を止め、本能的な恐怖を植え付けるような、静かで圧倒的な威圧感。
男性は、その廉の瞳に見下ろされ、何かを言い返そうと口を開きかけたが、喉の奥で言葉を詰まらせたように一瞬だけ怯んだ。

「……ふざけんな。二度と来るか、こんな店」

負け惜しみのような捨て台詞を吐き捨て、男性は僕の横を乱暴にすり抜け、ドアを強く閉めて店を出ていった。
激しい雨の後のような、不自然なほどの静寂が店内に降り降りた。廉は、男性の背中がすりガラスの向こうに消えるのを見届けてから、ふっと微かに、本当に微かにだけ、肩の力を抜いて息を吐いた。
僕は、強張っていた足に少しだけ力を入れ、おずおずとカウンターの方へと近づいた。

「……だ、大丈夫……?」

消え入りそうな声で尋ねると、廉が静かに振り返った。

「先輩こそ。すみません、騒がしいところをお見せしてしまって。お怪我はないですか」
「僕は平気だけど……廉くん、手」

僕の視線は、カウンターの端に置かれた彼の右手に釘付けになっていた。
白く美しい手の甲に、痛々しい赤い擦り傷ができていたのだ。おそらく、先ほど男性がカウンターを叩いた際か、僕を庇うように素早く移動した際に、どこか鋭い角に強くぶつけてしまったのだろう。

「血、出てる」

白い肌に滲む赤い血の対比がひどく鮮烈で、僕の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

「……ああ。大したことないです。かすり傷ですから」

廉は自分の手の甲をちらりと一瞥しただけで、何事もなかったかのようにエプロンのポケットからハンカチを取り出そうとした。

「大したことあるでしょ。……救急箱、ある?」

僕は、自分でも驚くほど強い口調で、廉の動作を制した。
いつもなら他人の領域に踏み込むことを恐れる僕が、なぜかこの時ばかりは、怪我をした彼をそのままにしておくことなど絶対にできないと、強い確信を持っていた。

「あります。でも、バックヤードですし、俺が自分で——」
「僕が、手当てするよ」

僕が譲らない姿勢を見せると、廉は少しだけ目を丸くして僕を見つめた。あの涼やかな琥珀色の瞳が、何かを探るように僕の顔をじっと見つめ返し、やがて、小さく、静かに瞬きをした。

「……じゃあ、ついてきてください」

廉に促され、僕はレジカウンターの横にある小さな扉を通り、初めてこの店のバックヤードへと足を踏み入れた。

中はひどく狭かった。両手を広げれば壁にぶつかってしまいそうなほどの細長い空間。壁面には小麦粉や砂糖の大きな紙袋が整然と積まれ、ステンレスの作業台には調理器具が並んでいる。

そして何より、そこは強烈な匂いの密室だった。
高温の揚げ油の香ばしさ、溶けた砂糖の暴力的なまでの甘さ、それにほんの少しのシナモンのスパイシーな香り。ドーナツが生まれるこの場所は、壁紙の繊維の一本一本にまでその甘い匂いが染み込んでいて、呼吸をするたびに肺の奥まで甘さで満たされていくような錯覚に陥る。

「救急箱は、これです」

廉が棚の下から白いプラスチックの箱を取り出し、ステンレスの作業台の上に置いた。
二人でこの狭い空間に立っていると、それだけでスペースは完全に埋め尽くされ、お互いの体温や衣類の擦れる音が痛いほどに伝わってくる。

「……手、見せて」

僕が言うと、廉は無言で右手を差し出した。
僕はその手を、自分の両手でそっと下から支えるようにして包み込んだ。彼の指先は少し冷たく、関節はしっかりとしていて、僕の手よりもずっと大きかった。
傷口を確認する。やはり深くはないが、皮膚がめくれて周囲が赤く腫れ上がっている。

「ちょっと、沁みるかもしれないけど」

僕は救急箱から消毒液とコットンを取り出し、慎重に液体を染み込ませた。そして赤い傷口の周りを、汚れを落とすように丁寧に、優しく拭き取っていく。廉は痛がる素振りも見せず、ピクリとも動かなかった。ただ、僕の手の中で、大人しく、静かに僕の作業を見下ろしていた。
静寂の中、コットンの擦れる音だけが狭い部屋に響く。濃厚な砂糖の匂いと、微かに漂う消毒液のアルコールの匂い。至近距離に立つ彼の、規則正しい呼吸の音が聞こえる。

「……廉くん、さっきの人、怖くなかった?」

沈黙に耐えきれなくなり、僕は傷口に絆創膏の封を切りながら、ポツリと呟いた。

「怖くはないです」

即答だった。

「よく、ああいう対応できるよね。全然声も震えてなかったし、表情も変わらなかったし」

僕ならあんな風に怒鳴られた瞬間に頭の中が真っ白になって、ひたすら謝ることしかできなかっただろう。

「非合理的な感情の爆発に付き合う気がないだけです。ルールに則って対応した結果なので、恐怖を感じる理由がありません。……ただ」

廉は、僕の手元に落としていた視線を、ゆっくりと僕の顔へと移した。

「先輩が、中に入ってきたから」
「え?」

絆創膏の台紙を剥がそうとしていた僕の手が止まる。

「先輩が中に入ってきて、あの男性が、先輩に向かって声を荒らげた。それがどうしようもなく嫌だったので、割り込みました」
「……僕のために?」
「先輩が、あんな人間のせいで怖い思いをして、怯えるのが嫌だったので」

あまりにも真っ直ぐに、何の見返りも求めないような純粋さで放たれた言葉に、僕はどう返事をしていいか分からなくなった。
傷口の真ん中にガーゼが当たるように、慎重に絆創膏を貼り付ける。

「……廉くんって、なんか……よく守ってくれるよね。僕のこと」

照れ隠しのように、僕は少しだけ自嘲気味に笑って言った。
雨の日には傘を傾け、濡れた髪を拭き、心無い客の暴言からは体を呈して僕の視界を塞いでくれる。僕のような、なんの価値もない人間を。

「当然です」
「当然なの?」
「俺にとっては」

廉の声は、囁くように静かだったけれど、その言葉の芯には、決して揺るがない鋼のような重さがあった。
僕は絆創膏をしっかりと貼り終え、傷口の保護が終わったことを確認した。だから彼の手を離さなければならない。手当ては終わったのだから。

でも。なぜか、離せなかった。

絆創膏を貼った彼の大きな右手を、僕は自分の両手で包み込んだまま、どうしても指先の力を抜くことができなかったのだ。
甘い匂いが、脳を麻痺させていく。彼の体温が、僕の手のひらを通じて、僕の冷たい血液を温めていく。この温もりを手放せば、僕はまた、あの冷たくて孤独な部屋の暗闇に引き戻されてしまうような気がして。

「……廉くん。一つ、聞いてもいい?」

気づけば僕の口は、ずっと胸の奥に閉じ込めていた禁忌の扉を開こうとしていた。

「何ですか」
「廉くんは……僕が、写真部だったこと、知ってる?」

その瞬間、僕の手を包んでいた廉の指先が、ほんのわずかにピクリと動いた。

「……先輩が写真部にいた、ということは、知っています。そして、ある時期を境に辞めた、ということも」
「……理由は?」
「先輩の口から、直接聞きたいです」

廉は、どこかから仕入れた憶測を語ることはしなかった。ただ、僕が自分の言葉で傷口を晒すのを、静かに待ってくれていた。

僕は、包み込んでいた廉の手から、ゆっくりと自分の手を離した。体温が離れていく喪失感に耐えながら、代わりに、背後のステンレスの作業台の冷たい縁に両手をついた。

深呼吸をする。肺いっぱいに、砂糖の甘い匂いを吸い込む。

「前も僕の部屋で話したけど……笑われたんだ」

僕の口からこぼれ落ちた声は、自分でも驚くほど掠れて、弱々しかった。

「僕が撮った写真を。自分の見ている世界を……全部、笑われた」

一度堰を切った言葉は、もう誰にも止められなかった。

「春のコンクールの出品作を選ぶ時。僕の撮った、彩度の低い桜や空の写真を、部活のみんなが笑ったんだ。『地味すぎる』『何が言いたいのか分からない』『コンクール向きじゃない』って。祖父の形見のこのカメラも、『そんな骨董品で自己満足に浸るな』『最新のデジタルを使え』って……」

フラッシュバックする記憶。蛍光灯の眩しい光。机の上に放置された僕のプリント。鼻で笑う同級生たちの顔。

「……反論、できなかった。あのカメラがどれだけ大切か、僕がどういう気持ちでファインダーを覗いていたか、うまく言い返せなかった。だって、彼らの言う通りだったから。僕の見てる世界は、地味で、古臭いだけだから。コンクールで賞を取って、部活に貢献できるような写真じゃないから。……それが分かってたから、僕は何も言えなくて、ただ逃げ出すことしかできなかった」

僕はステンレスの台の縁を強く握りしめ、自嘲気味に力なく笑った。

「情けないよね。自分の好きなものを、たった数人の一言で全部否定された気がして。それから、カメラを見るたびに彼らの笑い声が聞こえる気がして、シャッターを切れなくなった。それが怖くて、教室にも行けなくなって、不登校になって……」

俯いたまま、自分のスニーカーのつま先を見つめていた。
しゃべりすぎた、と思った。
いくら彼が優しいからといって、出会って二か月足らずの後輩に、こんな重くて泥めいた過去を垂れ流すなんて。同情を引こうとしているみたいで、ひどくみっともなかった。
でも、このバックヤードの非日常的な空気と、廉のすべてを受け入れてくれそうな静かな存在感が、僕の心の最も脆い部分をこじ開けてしまったのだ。

「……笑えるよね」
「何がですか」

頭上から降ってきた廉の声は、先ほどまでとまったく変わらない、平坦なトーンだった。

「自分の写真を笑われたくらいで、心が折れて学校に行けなくなるなんて。ひどく情けないし、弱い人間でしょ」
「情けなくなんかないです」
「廉くんは優しいから、そう言ってくれるんだろうけど——」
「優しさで慰めてるんじゃないです」

廉の声が、突然、地を這うように低く、鋭くなった。

「……先輩」

名ばかりを呼ばれ、僕が反射的に顔を上げた、その瞬間だった。
廉の手が伸びてきて、僕の右手首を、逃げ場のない確かな力で掴んだ。

「え……っ」

驚く間も与えられず、廉はそのままの力で僕を引き寄せ、体を反転させるようにして、僕を背後の壁際へと誘導した。
背中が、硬い壁にぶつかる。
目の前には、廉の大きな体が立ちはだかっていた。逃げ場が完全に塞がれた感覚。両腕を壁につかれ、僕は彼の腕と胸の間にすっぽりと閉じ込められていた。

「れ、廉くん……?」

至近距離で見上げた彼の顔は、いつもの感情を切り離したような無表情とは、まったく違っていた。
涼やかだった琥珀色の瞳の奥に、どす黒い炎のようなものが暗く燃え上がっているのが見えた。普段は理性の鎖で厳重に縛り付けられている何かが、今にもその鎖を引きちぎって暴れ出しそうな、強烈な怒りと執着の気配。

「誰が、そんなこと言ったんですか」

廉の声は、怒鳴っているわけではないのに、耳の奥が痺れるほどの圧を伴っていた。

「先輩の見てる世界が地味だなんて、誰が決めました?先輩の写真が古臭いなんて、誰が言いました?」
「だ、だから……写真部の、人たちが……」
「たかだか数人の解像度の低い人間の言葉が、先輩の世界の全部の価値を決めるわけがないでしょう」

廉は、さらに僕の顔へと近づいた。
鼻先が触れそうなほどの距離。彼が息を吐くたびに、少し高くなった彼の体温と、甘い砂糖の匂いが僕の顔にかかる。
僕は壁に背中を張り付けたまま、身動き一つとれずに彼の目を見つめ返すことしかできなかった。

「俺は」

廉が、一つ一つの言葉を噛み締めるように、重く、低く紡ぎ始めた。

「俺は、先輩の全部が好きです」

その真っ直ぐすぎる言葉が、物理的な重さを持って、僕の鼓膜から心臓へと直接突き刺さった。

「先輩が、あのカメラを大切に両手で包み込む手つきが好きです。一枚一枚のフィルムを惜しむように、息を止めて慎重にシャッターを切る姿が好きです。誰も見向きもしないような、路地裏の影や、曇り空のオレンジ色に美しさを見出す、先輩のそのひどく優しい目線が好きです」

廉の瞳が、僕の目元、鼻筋、唇へと、熱を帯びた視線でゆっくりと這うように移動する。

「誰かに笑われても、コンクールで賞なんて取れなくても、先輩がファインダー越しに切り取った世界は、先輩だけのものです。それが、心無い誰かの言葉によって否定されて、先輩がこんなにも傷ついて、泣きそうな顔をしているのが……」

廉は、僕の顔の横の壁に手をついたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「気が狂うほど、嫌なんです」

その言葉には、純度百パーセントの本気が込められていた。
笑いでも、僕を慰めるための社交辞令でもない。廉は、本気でそれを言っていた。僕のために、本気で怒り、本気で僕の痛みを自分の痛みのように感じて、狂いそうになっている。

「……廉くん」
「先輩が傷つくくらいなら、そんな世界、俺が全部壊してやりたい。……そのくらい、先輩が好きなんです」

最後にそれを絞り出すように言って、廉はゆっくりと、僕から体を離した。
壁に手をついていた腕が下ろされ、僕の領域を支配していた彼の熱が、少しだけ遠のく。
僕は、壁に背中を預けたまま、へなへなと崩れ落ちそうになる膝を必死で堪えて、少し呼吸を荒らげている廉を見つめていた。

廉は、ゆっくりと深呼吸を繰り返し、再びいつもの無表情なマスクを顔に貼り付けようとしていた。でも、その目の奥には、まだ隠しきれない残り火がチロチロと揺れている。

「……廉くん」
「……はい」
「いま、僕……泣きそうになっちゃった」

僕が掠れた声でそう言うと、廉はピクリと肩を揺らした。

「……」
「廉くんが、僕の世界を肯定してくれて。僕の代わりに、あんなに怒ってくれて……すごく、嬉しかった」

廉は僕のその言葉を聞いて、何も言わなかった。ただほんのわずかに、本当に泣き出しそうな子供を見るような目で、愛おしげに目を細めただけだった。
バックヤードの扉を開けて表の店舗に戻ると、充満していた砂糖の匂いが少しだけ薄れ、エアコンの冷たい風が火照った顔を冷ましてくれた。

僕はいつもの隅の席に座りながら、ぼんやりと店内を見つめていた。
廉が、僕のために怒ってくれた。
僕の見ていた世界を「好きだ」と、はっきりと言葉にしてくれた。
その事実が、干からびていた僕の心に、温かい雨のように降り注ぎ、どうしようもないほどの嬉しさと安堵感で満たしてくれていた。

そして、その夜。
自室のベッドに寝転がり、暗闇の中でスマートフォンの画面が放つ白い光を見つめながら、僕は一人、静かに、そして深く葛藤していた。
画面には、HAKUとのダイレクトメッセージの画面が開かれている。

廉への気持ちが、僕の中に確かにある。
あのバックヤードで、彼に壁際に追い詰められ、怒りと愛情の混じった瞳で見つめられた時、僕の心臓は恐怖ではなく、どうしようもない甘い痺れを感じていた。彼に守られ、彼にすべてを明け渡してしまいたいという、抗いがたい引力。

でも。
この画面の向こう側にいる、HAKUへの気持ちも、僕の中に確かにあるのだ。

僕の写真を誰よりも早く見つけて、誰よりも深く理解してくれた人。僕がすべてを諦めて暗闇に沈もうとしていた夜に、文字という名の光を差し伸べてくれた人。彼の言葉がなければ、僕は二度とカメラに触れることはなかっただろう。

二人に対して、まったく同じような、依存にも似た重い感情を抱えている自分が、どこか決定的に壊れていて、おかしいような気がした。

HAKUは、僕の写真を誰よりも肯定してくれた。
廉は、僕のカメラを誰よりも大切に扱ってくれた。

HAKUは、毎晩の静かな言葉で僕の精神を支えてくれた。
廉は、温かい手料理を作り、雨の日に傘を傾け、僕のために本気で怒ってくれた。

二人に対して、ひどい罪悪感があった。

現実の世界で、廉の熱に浮かされ、彼を好きになりかけているのに。夜になると、HAKUとのDMを心待ちにし、彼の言葉に救われている自分への罪悪感。

HAKUという匿名の存在にこれほどまでに依存しているのに。廉の前に立つと、彼の瞳の引力に逆らえず、別の感情で胸を焦がしている自分への罪悪感。

僕は、画面の中のHAKUのアカウントアイコンを見つめながら、心の中でそっと呟いた。

——あなたが言っていた「好きな人」に、僕がなれていたらよかったのに

そして今日の手当ての記憶が残る自分の右手を握りしめながら、もう一人の彼へ向けて思った。

——廉くんがHAKUさんのように、僕の写真をずっと見てくれていた人だったらよかったのに

矛盾している。どちらか一つしか選べないはずなのに、僕の中では、両方への感情がどちらも痛いほどに「本当」だった。
僕は、スマートフォンを枕元に裏返して置き、固く目を閉じた。

あの路地裏の「アンバー・デイズ」に行くのが、怖いと思ってしまった。
廉のあの「先輩が好きです」という、熱情を孕んだ言葉を、明日から一体どんな顔をして、どう受け止めればいいのか、僕にはまったく分からなかったからだ。



「アンバー・デイズ」に足を向けられない日が、数日続いた。
いや、正確に言えば、足を向けられなかったのではない。意図的に、あの路地裏に続く道を避けて、逃げていたのだ。
あの日、甘い砂糖とシナモンの匂いが充満するバックヤードで、廉は僕を壁際に追い詰め、そして言った。

『俺は、先輩の全部が好きです』

その、あまりにも重くて、熱くて、真っ直ぐすぎる言葉に対して、僕は結局、何一つ気の利いた返事を返すことができなかった。ただ呆然と彼を見つめ、彼が僕の身を案じて怒ってくれたことに「嬉しかった」と涙ぐむことしかできなかった。

気まずさと、自分の感情の整理がつかない混乱から、僕は逃げるようにして店を飛び出し、一人でマンションへと帰ってきた。

それから三日間。

廉からは、当然のように何の連絡もなかった。
僕たちはあれほど頻繁に顔を合わせていながら、お互いの連絡先すら交換していなかったのだ。チャットアプリも、電話番号も知らない。店に行かなければ、彼と繋がる術は現実世界には何一つ存在しなかった。

そして奇妙なことに、HAKUからも、その数日間はほとんどダイレクトメッセージが来なかった。
僕が新しい写真を一枚も投稿していなかったから、彼もかける言葉を見つけられなかったのかもしれない。あるいは、僕が「ドーナツ屋の廉くん」という具体的な他者の名前を出したあの夜から、HAKUの言葉の端々に微かな硬さが混じるようになっていたから、そのせいかもしれない。

現実の廉と、ネットの向こうのHAKU。

どちらの繋がりも絶たれてしまったこの数日間は、僕にとって、想像以上に息苦しいものだった。

エアコンの効いた冷たい部屋の中で、一人で膝を抱えていると、自分がまたあの「学校に行けなくなったばかりのどん底の日々」に逆戻りしてしまったような、真っ暗な閉塞感に襲われる。

でも、今はあの頃と少しだけ違っていた。

外に出られない理由が、他者の視線が「怖い」からではない。

ただ、廉のあの切実な言葉をどう受け止め、次に彼と会った時に「どんな顔をして、どんな声で接すればいいのか」が分からないという、ひどく個人的で、甘やかな戸惑いが僕の足を止めているだけなのだ。

『俺は、先輩の全部が好きです』

目を閉じれば、今でも彼のあの低く震えるような声が、鼓膜の奥で鮮明に蘇る。あの時、僕の手首を掴んでいた彼の手の熱さが、幻肢痛のように肌に残っている。

「……このままじゃ、ダメだ」

四日目の朝。
僕は、ベッドの上で一人、小さく呟いた。

逃げてばかりでは、何も変わらない。廉の気持ちに対しても、HAKUの言葉に対しても、そして何より、僕自身の心に対しても、不誠実だ。

少しだけ、前を向こう。

彼らが肯定してくれた僕の「好き」なものを、もう一度、自分の足で探しに行こう。

僕はベッドから起き上がり、窓際の棚に置かれた祖父のライカを手に取った。ずっしりとした金属の重みが、手のひらを通して僕の心に小さな勇気を流し込んでくれる。

近所の、少し大きめの公園なら、時間帯を選べば人が少ないはずだ。朝の早い時間か、夕方の少し遅い時間か。
窓の外を見ると、まだ夏の太陽が昇りきっていない、淡い青色の空が広がっていた。

「……朝にしよう」

僕は簡単な身支度を整え、カメラを首から下げて、静まり返ったマンションの廊下へと足を踏み出した。