七月も終わりに近づき、本格的な夏が街を白く染め上げ始めた頃。
僕は少しずつ、祖父のライカを手に取る時間が増えていた。
もちろん決定的なきっかけをくれたのは、深夜の暗闇の中で僕の心を掬い上げてくれたHAKUのダイレクトメッセージだった。でもそれと同じくらい、現実世界で出会った廉の「次の雨の日は、外に出てみてください」という、あの不器用で強引な言葉も、僕の背中を強く押し出しているような気がした。
ネットの向こう側の理解者と、現実世界の美しい後輩。
交わるはずのない二人が、不思議なほど同じようなことを言う。僕の撮る写真の価値を肯定し、僕が見ている世界をもっと形に残してほしいと、言葉を変えて伝えてくるのだ。
あの大雨の日に僕の部屋で廉が作ってくれた雑炊を食べて以来、「アンバー・デイズ」でカウンター越しに言葉を交わす時間が増えた。
彼は相変わらず無口で、感情の起伏を表に出さない静謐な佇まいを崩さない。けれど、僕が席に着くと、必ず彼の方から話しかけてくるようになった。
そしてその話題は、決まって僕の写真のことだった。
「先輩。……最近は、どんなものを撮りましたか」
「フィルムの現像は、いつも決まった写真屋に出すんですか。それとも郵送で?」
「光の入り方って、ファインダーを覗く前にあらかじめ予測して決めるんですか。それとも、覗いてから偶然に気づくことの方が多いですか」
彼の質問は、決して表面的な世間話ではなかった。
写真部に所属しているわけでも、自分でカメラを趣味にしているわけでもないはずなのに、彼の投げてくる問いは、いつも写真という行為の核心を突くような、ひどく的を射たものばかりだった。
まるで、僕の頭の中の思考回路を、外側から一つずつ分解して理解しようとしているかのように。
どこかの本で体系的に勉強しているのか、それとも、彼の生来の分析能力の高さゆえなのか。
「廉くんって……なんでそんなに、写真のこと聞いてくれるの?」
ある日、僕はホットミルクのマグカップを両手で包み込みながら、ふとそう尋ねてみた。
廉は、エスプレッソマシンの清掃をしていた手を止め、少しの間、考えるように視線を落とした。そして、真っ直ぐに僕の目を見て答えた。
「先輩が、写真の話をしてくれる時、嬉しそうだからです」
「……え」
予想外の答えに、僕は面食らった。
「嬉しそうかどうか……分かるの?」
僕は、自分の感情が顔に出やすいタイプではないと思っている。むしろ、人の顔色を窺ってばかりで、自分の喜怒哀楽は分厚い眼鏡と前髪の奥に隠して生きてきたつもりだった。
「分かりますよ。手に取るように」
廉は、一切の躊躇なく言い切った。
「どこで分かるの……?」
「……目です」
廉は、少しだけ身を乗り出し、カウンター越しに僕の顔をじっと覗き込んだ。彼の切れ長の瞳の奥に、琥珀色の光がとろりと揺れる。
「眼鏡越しでも?」
僕は無意識に、分厚い黒縁眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「眼鏡が、俺の視界を邪魔しているとは思っていません」
「……」
廉は時折、こういう短い、しかしひどく断定的な言葉の刃を投げてくる。「邪魔をしているとは思っていない」とは、どういう意味だろう。物理的なガラスのレンズが表情を隠すことはない、という意味なのか。それとも、彼自身の洞察力の前では、僕の些細な防御壁など無意味だと言っているのか。
僕が返答に窮していると、廉はふっと視線を窓の外へと移し、話題を変えた。
「先輩、今日は……どんな空でしたか」
「……曇り気味、かな。梅雨は明けたのに、雲の層が厚くて。でも、西の方の雲の端っこだけが、ちょっとオレンジに染まってて、不思議な色合いだった」
僕が頭に思い描いた景色をそのまま言葉にすると、廉は静かに頷いた。
「撮りました?」
「……うん。数枚だけ、撮ったよ」
「現像したら、見せてください」
「え?」
突然の要求に、僕は声が上擦った。僕の写真を現実の誰かに見せる。それは、あの写真部のトラウマを呼び起こす、ひどく勇気のいる行為だった。
「今すぐじゃなくていいです。先輩のペースで現像して、気が向いたら、でいいので」
廉は僕の怯えを察知したのか、少しだけトーンを落として優しく付け加えた。
僕はカウンターの木目をじっと見つめながら、少し考えた。
笑われるかもしれない。地味だと言われるかもしれない。でも、廉のあの長く美しい指が、僕のカメラに触れた時の優しい手つきを思い出す。彼なら、僕の宝物をぞんざいに扱うことはないかもしれない。
「……うん。現像できたら、持ってくるね」
僕がそう答えると、廉は「はい。楽しみにしています」と短く言った。その時の彼の顔を見て、僕は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
彼は本当に、心の底から楽しみにしているような顔をしたのだ。
それが分かるのは、彼が大きく笑ったからではない。普段は氷のように冷徹な彼の表情が、ほんの微かに、本当に雪解けのように一瞬だけ緩むのだ。口角がミリ単位で上がり、切れ長の瞳が優しく細められる。
最初はまったく気づかなかったけれど、彼をじっと観察し続けているうちに、僕にも少しずつ、その微細な表情の変化が読めるようになってきていた。
◇
マンションに帰った僕は、吸い寄せられるように窓際の棚へと向かい、ライカを手に取った。
ベランダへのガラス戸を開けると、まとわりつくような夏の湿気を含んだ熱い空気が、部屋の中に流れ込んできた。
空は先ほど廉に話した通り、どんよりとした厚い雲に覆われていた。しかし、西の空、ちょうど太陽が沈みかけている地平線に近い部分だけが、雲の切れ間から強烈な西日を受け、燃えるようなオレンジ色に染まり始めていた。
分厚い灰色の雲海と、その縁を縁取る鮮烈なオレンジのコントラスト。それが、どこかこの世界の終わりを告げるような、ひどく美しくて寂しい光景に見えた。
僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。四角い枠の中に、世界が切り取られる。
ピントリングをゆっくりと回す。幾重にも交差する黒い電線がシルエットになり、隣のビルの給水塔が鈍く光る。遠くに、霞んで見える山の稜線。
息を止め、静かにシャッターを押し込む。
カシャッ。
布幕が走る、重くて小気味良い機械音。フィルムを巻き上げ、構図を少しだけずらして、またシャッターを切る。
光の角度が変わってしまう前に。この感情が薄れてしまう前に。
五枚ほど撮り終えて、僕はゆっくりとカメラを下ろした。
今日、僕が感じたままの空が撮れたかどうかは、フィルムをすべて撮り切り、現像に出して、印画紙に焼き付けられるまで分からない。デジタルカメラのように、背面の液晶ですぐに結果を確認することはできない。
でも。
「……撮れた気がする」
僕の胸の奥に、確かな手応えが残っていた。久しぶりに味わう、自分の視点と世界がカチリと噛み合ったような、心地よい充足感。
部屋に戻り、僕はスマートフォンを手に取った。
「すず」のアカウントを開き、カメラアプリを起動する。今ファインダー越しに見たのと同じ景色を、スマートフォンのレンズで撮影した。
フィルムの現像には時間がかかるけれど、この昂った感情の残滓を、少しでも早く誰かに共有したかったのだ。
キャプションは何もつけず、ただその空の写真だけをタイムラインに投稿した。
数分後、スマートフォンが短く震え、画面の上部に通知バナーがポップアップした。
HAKUからの、ダイレクトメッセージ。
『今日の空、いいですね。重たい曇り空の中に、燃えるようなオレンジが混じっている感じが、すごく惹かれます』
僕の投稿から数分での反応。
「ずっと僕のアカウントを監視してたんですか」と冗談めかして言いたくなるほどのタイミングだったが、おそらく彼もたまたまスマートフォンを開いていたのだろう。
『ありがとうございます。さっき、廉くんにも話したら、見たいって言われて、久しぶりにたくさんシャッターを切りました』
僕は気負うことなく、その日の出来事を素直に打ち込んだ。
送信ボタンを押した直後。
僕は画面に表示された自分の文章を見て、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
『廉くん』
現実世界の彼の名前を、ネットの匿名アカウントであるHAKUに送ってしまった。
しまった。まずい。
僕は慌ててメッセージの取り消し機能を探そうとしたが、時すでに遅く、メッセージの横には残酷にも「既読」の文字が点灯していた。
『廉くん?』
HAKUから、短い、しかしどこか鋭い問いかけが返ってきた。
『ご、ごめんなさい!打ち間違えました。知り合いって書こうとしてたんです』
僕は必死に取り繕うように、画面をタップする指を震わせた。
これまでHAKUには、現実世界の交友関係についてはほとんど話してこなかった。「雨の日に傘を貸してくれた知り合いがいる」という程度で、具体的な名前や関係性を出したことは一度もなかったのだ。
『……廉くん、というのは、誰ですか』
HAKUは、僕の弁解を無視して、さらに一歩踏み込んできた。文字の羅列から、いつもの凪いだ空気が消え、何かを確かめようとするような冷たい圧を感じる。
『あ……えっと。この前話した、雨の日に傘を貸してくれた人のことです。近くのドーナツ屋の店員さんで……僕の通ってる高校の後輩なんですけど』
嘘をつくのも不自然だと思い、僕は観念して正直に少しだけ情報を開示した。送信してから、少し、長い間があった。
画面上の「入力中」のアイコンが、点滅しては消える。
『……そうですか』
数分後に届いたのは、たったそれだけの、ひどく素っ気ない言葉だった。
『HAKUさん?』
『その廉くんっていう人とは、よく会うんですか』
『そうですね。割と。息抜きによくそのドーナツ屋に行くので、その時に話をしたりして』
『……そういうことですか』
なぜか、HAKUの文章が、いつもより極端に短くなっている気がした。句読点の打ち方や、言葉の選び方に、目に見えないトゲのようなものが混ざっている。
『HAKUさん、どうかしましたか?気に障るようなこと、言っちゃいましたか』
僕は、彼を不快にさせてしまったのではないかと焦り、恐る恐る尋ねた。
『……どうもしてないです。ただ』
『ただ?』
『あなたが見せてくれる写真に、最近、ただの空や無機物だけじゃなくて、少しずつ『温度』や『生活の匂い』みたいなものが混ざるようになってきたのは……その、ドーナツ屋さんの彼のおかげなのかな、と思って』
その言葉に、僕はハッとした。
確かに、ここ数日の僕の写真は、絶望に満ちた灰色の空ばかりではなく、マグカップから立ち上る湯気や、夕暮れの路地に伸びる長い影など、ほんの少しだけ、世界への興味を取り戻したようなものが増えていたかもしれない。
『それは……そうかもしれません。彼が、外に出て写真を撮れって背中を押してくれたから』
僕が素直に認めると、すぐに返事が来た。
『よかった』
短い言葉だった。でもなんとなく、その「よかった」という文字の前に、彼が本当に言いたかった、飲み込んだ言葉の残骸があるような気がしてならなかった。
『HAKUさん、本当は何か言いたいこと、ありますか。もし僕が嫌な思いをさせたなら、謝りますから』
僕は、彼の沈黙に耐えきれず、さらに問い詰めてしまった。
しばらく、本当に長い間があった。
外は完全に日が落ちて、部屋の中は青白いスマートフォンの光だけが僕の顔を照らしている。
やがて、画面が震えた。
『…………あなたは、僕のことをどう思っていますか』
表示されたその一文に、僕は息を呑んだ。
HAKUが、僕との関係性について、そんな直接的で、核心を突くような問いかけをしてきたのは、これが初めてだった。
『HAKUさんのこと、どう思ってるか……ですか』
僕は文字を打ちかけ、ピタリと指を止めた。
どう思っているのだろう。
見ず知らずの他人の僕の写真を、誰よりも深く理解し、肯定してくれた人。毎晩の彼とのやり取りが、僕の壊れかけた精神を繋ぎ止める命綱のようになっていた。僕の孤独な夜に、文字という形で寄り添ってくれる大切な人。
でも、HAKUが「誰」なのかは、まったく分からない。
年齢も、顔も、声も、住んでいる場所も。僕たちは、現実世界ではただの交わらない平行線だ。それでも。確かに、僕の胸の奥には、「HAKUのことが好きだ」という、明確な温度を持った感情が存在していた。
ただ、その「好き」が、恩人に対する感謝の「好き」なのか、友人としての「好き」なのか、それとも、もっと別の、名前のつけられない重い感情としての「好き」なのか、僕自身にもまだ整理がついていなかった。
『……大切な人だと思っています。HAKUさんが、あの夜にメッセージをくれなかったら、僕は今も、カメラを棚の奥にしまい込んだまま、部屋の隅で膝を抱えていたと思います』
僕は、自分の中にある偽りのない感謝の気持ちを、そのまま言葉にして送った。
『あなたが再びカメラを握り、撮ることを選んだのは、あなた自身の意志の力です。僕の言葉は、ただのきっかけにすぎない』
HAKUは、僕の感謝を静かに否定した。
『でも、そのきっかけをくれたのは、HAKUさんです。だから、僕にとっては特別な人です』
僕は、引き下がらなかった。送信した後、少しだけ間があった。
『……その言葉、大切にします』
返ってきたのは、それだけだった。僕はスマートフォンをゆっくりと胸の上に下ろし、すっかり暗くなった窓の外の空を眺めた。
鮮やかだったオレンジ色はとうの昔に消え失せ、深い藍色の夜空が街を包み込んでいる。
廉も見たいと言ってくれたあの空を、今、僕はHAKUに一番に見せた。
現実世界で僕を甘やかし、強引に僕の世界に踏み込んでくる美しい後輩の廉。
ネットの世界で僕の傷を撫で、僕の視点を深く愛してくれる匿名の理解者、HAKU。
二人とも、僕の空を見たがる。二人とも、僕のカメラを肯定してくれる。
「本当に、不思議な偶然だな……」
僕は、部屋の静寂の中にぽつりと呟いた。
左の耳たぶを無意識に撫でながら、僕は二つの異なる、けれどひどく似通った「好き」という感情の狭間で、心地よいような、それでいてどこか恐ろしいような、複雑な微熱に包まれていた。
僕は少しずつ、祖父のライカを手に取る時間が増えていた。
もちろん決定的なきっかけをくれたのは、深夜の暗闇の中で僕の心を掬い上げてくれたHAKUのダイレクトメッセージだった。でもそれと同じくらい、現実世界で出会った廉の「次の雨の日は、外に出てみてください」という、あの不器用で強引な言葉も、僕の背中を強く押し出しているような気がした。
ネットの向こう側の理解者と、現実世界の美しい後輩。
交わるはずのない二人が、不思議なほど同じようなことを言う。僕の撮る写真の価値を肯定し、僕が見ている世界をもっと形に残してほしいと、言葉を変えて伝えてくるのだ。
あの大雨の日に僕の部屋で廉が作ってくれた雑炊を食べて以来、「アンバー・デイズ」でカウンター越しに言葉を交わす時間が増えた。
彼は相変わらず無口で、感情の起伏を表に出さない静謐な佇まいを崩さない。けれど、僕が席に着くと、必ず彼の方から話しかけてくるようになった。
そしてその話題は、決まって僕の写真のことだった。
「先輩。……最近は、どんなものを撮りましたか」
「フィルムの現像は、いつも決まった写真屋に出すんですか。それとも郵送で?」
「光の入り方って、ファインダーを覗く前にあらかじめ予測して決めるんですか。それとも、覗いてから偶然に気づくことの方が多いですか」
彼の質問は、決して表面的な世間話ではなかった。
写真部に所属しているわけでも、自分でカメラを趣味にしているわけでもないはずなのに、彼の投げてくる問いは、いつも写真という行為の核心を突くような、ひどく的を射たものばかりだった。
まるで、僕の頭の中の思考回路を、外側から一つずつ分解して理解しようとしているかのように。
どこかの本で体系的に勉強しているのか、それとも、彼の生来の分析能力の高さゆえなのか。
「廉くんって……なんでそんなに、写真のこと聞いてくれるの?」
ある日、僕はホットミルクのマグカップを両手で包み込みながら、ふとそう尋ねてみた。
廉は、エスプレッソマシンの清掃をしていた手を止め、少しの間、考えるように視線を落とした。そして、真っ直ぐに僕の目を見て答えた。
「先輩が、写真の話をしてくれる時、嬉しそうだからです」
「……え」
予想外の答えに、僕は面食らった。
「嬉しそうかどうか……分かるの?」
僕は、自分の感情が顔に出やすいタイプではないと思っている。むしろ、人の顔色を窺ってばかりで、自分の喜怒哀楽は分厚い眼鏡と前髪の奥に隠して生きてきたつもりだった。
「分かりますよ。手に取るように」
廉は、一切の躊躇なく言い切った。
「どこで分かるの……?」
「……目です」
廉は、少しだけ身を乗り出し、カウンター越しに僕の顔をじっと覗き込んだ。彼の切れ長の瞳の奥に、琥珀色の光がとろりと揺れる。
「眼鏡越しでも?」
僕は無意識に、分厚い黒縁眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「眼鏡が、俺の視界を邪魔しているとは思っていません」
「……」
廉は時折、こういう短い、しかしひどく断定的な言葉の刃を投げてくる。「邪魔をしているとは思っていない」とは、どういう意味だろう。物理的なガラスのレンズが表情を隠すことはない、という意味なのか。それとも、彼自身の洞察力の前では、僕の些細な防御壁など無意味だと言っているのか。
僕が返答に窮していると、廉はふっと視線を窓の外へと移し、話題を変えた。
「先輩、今日は……どんな空でしたか」
「……曇り気味、かな。梅雨は明けたのに、雲の層が厚くて。でも、西の方の雲の端っこだけが、ちょっとオレンジに染まってて、不思議な色合いだった」
僕が頭に思い描いた景色をそのまま言葉にすると、廉は静かに頷いた。
「撮りました?」
「……うん。数枚だけ、撮ったよ」
「現像したら、見せてください」
「え?」
突然の要求に、僕は声が上擦った。僕の写真を現実の誰かに見せる。それは、あの写真部のトラウマを呼び起こす、ひどく勇気のいる行為だった。
「今すぐじゃなくていいです。先輩のペースで現像して、気が向いたら、でいいので」
廉は僕の怯えを察知したのか、少しだけトーンを落として優しく付け加えた。
僕はカウンターの木目をじっと見つめながら、少し考えた。
笑われるかもしれない。地味だと言われるかもしれない。でも、廉のあの長く美しい指が、僕のカメラに触れた時の優しい手つきを思い出す。彼なら、僕の宝物をぞんざいに扱うことはないかもしれない。
「……うん。現像できたら、持ってくるね」
僕がそう答えると、廉は「はい。楽しみにしています」と短く言った。その時の彼の顔を見て、僕は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
彼は本当に、心の底から楽しみにしているような顔をしたのだ。
それが分かるのは、彼が大きく笑ったからではない。普段は氷のように冷徹な彼の表情が、ほんの微かに、本当に雪解けのように一瞬だけ緩むのだ。口角がミリ単位で上がり、切れ長の瞳が優しく細められる。
最初はまったく気づかなかったけれど、彼をじっと観察し続けているうちに、僕にも少しずつ、その微細な表情の変化が読めるようになってきていた。
◇
マンションに帰った僕は、吸い寄せられるように窓際の棚へと向かい、ライカを手に取った。
ベランダへのガラス戸を開けると、まとわりつくような夏の湿気を含んだ熱い空気が、部屋の中に流れ込んできた。
空は先ほど廉に話した通り、どんよりとした厚い雲に覆われていた。しかし、西の空、ちょうど太陽が沈みかけている地平線に近い部分だけが、雲の切れ間から強烈な西日を受け、燃えるようなオレンジ色に染まり始めていた。
分厚い灰色の雲海と、その縁を縁取る鮮烈なオレンジのコントラスト。それが、どこかこの世界の終わりを告げるような、ひどく美しくて寂しい光景に見えた。
僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。四角い枠の中に、世界が切り取られる。
ピントリングをゆっくりと回す。幾重にも交差する黒い電線がシルエットになり、隣のビルの給水塔が鈍く光る。遠くに、霞んで見える山の稜線。
息を止め、静かにシャッターを押し込む。
カシャッ。
布幕が走る、重くて小気味良い機械音。フィルムを巻き上げ、構図を少しだけずらして、またシャッターを切る。
光の角度が変わってしまう前に。この感情が薄れてしまう前に。
五枚ほど撮り終えて、僕はゆっくりとカメラを下ろした。
今日、僕が感じたままの空が撮れたかどうかは、フィルムをすべて撮り切り、現像に出して、印画紙に焼き付けられるまで分からない。デジタルカメラのように、背面の液晶ですぐに結果を確認することはできない。
でも。
「……撮れた気がする」
僕の胸の奥に、確かな手応えが残っていた。久しぶりに味わう、自分の視点と世界がカチリと噛み合ったような、心地よい充足感。
部屋に戻り、僕はスマートフォンを手に取った。
「すず」のアカウントを開き、カメラアプリを起動する。今ファインダー越しに見たのと同じ景色を、スマートフォンのレンズで撮影した。
フィルムの現像には時間がかかるけれど、この昂った感情の残滓を、少しでも早く誰かに共有したかったのだ。
キャプションは何もつけず、ただその空の写真だけをタイムラインに投稿した。
数分後、スマートフォンが短く震え、画面の上部に通知バナーがポップアップした。
HAKUからの、ダイレクトメッセージ。
『今日の空、いいですね。重たい曇り空の中に、燃えるようなオレンジが混じっている感じが、すごく惹かれます』
僕の投稿から数分での反応。
「ずっと僕のアカウントを監視してたんですか」と冗談めかして言いたくなるほどのタイミングだったが、おそらく彼もたまたまスマートフォンを開いていたのだろう。
『ありがとうございます。さっき、廉くんにも話したら、見たいって言われて、久しぶりにたくさんシャッターを切りました』
僕は気負うことなく、その日の出来事を素直に打ち込んだ。
送信ボタンを押した直後。
僕は画面に表示された自分の文章を見て、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
『廉くん』
現実世界の彼の名前を、ネットの匿名アカウントであるHAKUに送ってしまった。
しまった。まずい。
僕は慌ててメッセージの取り消し機能を探そうとしたが、時すでに遅く、メッセージの横には残酷にも「既読」の文字が点灯していた。
『廉くん?』
HAKUから、短い、しかしどこか鋭い問いかけが返ってきた。
『ご、ごめんなさい!打ち間違えました。知り合いって書こうとしてたんです』
僕は必死に取り繕うように、画面をタップする指を震わせた。
これまでHAKUには、現実世界の交友関係についてはほとんど話してこなかった。「雨の日に傘を貸してくれた知り合いがいる」という程度で、具体的な名前や関係性を出したことは一度もなかったのだ。
『……廉くん、というのは、誰ですか』
HAKUは、僕の弁解を無視して、さらに一歩踏み込んできた。文字の羅列から、いつもの凪いだ空気が消え、何かを確かめようとするような冷たい圧を感じる。
『あ……えっと。この前話した、雨の日に傘を貸してくれた人のことです。近くのドーナツ屋の店員さんで……僕の通ってる高校の後輩なんですけど』
嘘をつくのも不自然だと思い、僕は観念して正直に少しだけ情報を開示した。送信してから、少し、長い間があった。
画面上の「入力中」のアイコンが、点滅しては消える。
『……そうですか』
数分後に届いたのは、たったそれだけの、ひどく素っ気ない言葉だった。
『HAKUさん?』
『その廉くんっていう人とは、よく会うんですか』
『そうですね。割と。息抜きによくそのドーナツ屋に行くので、その時に話をしたりして』
『……そういうことですか』
なぜか、HAKUの文章が、いつもより極端に短くなっている気がした。句読点の打ち方や、言葉の選び方に、目に見えないトゲのようなものが混ざっている。
『HAKUさん、どうかしましたか?気に障るようなこと、言っちゃいましたか』
僕は、彼を不快にさせてしまったのではないかと焦り、恐る恐る尋ねた。
『……どうもしてないです。ただ』
『ただ?』
『あなたが見せてくれる写真に、最近、ただの空や無機物だけじゃなくて、少しずつ『温度』や『生活の匂い』みたいなものが混ざるようになってきたのは……その、ドーナツ屋さんの彼のおかげなのかな、と思って』
その言葉に、僕はハッとした。
確かに、ここ数日の僕の写真は、絶望に満ちた灰色の空ばかりではなく、マグカップから立ち上る湯気や、夕暮れの路地に伸びる長い影など、ほんの少しだけ、世界への興味を取り戻したようなものが増えていたかもしれない。
『それは……そうかもしれません。彼が、外に出て写真を撮れって背中を押してくれたから』
僕が素直に認めると、すぐに返事が来た。
『よかった』
短い言葉だった。でもなんとなく、その「よかった」という文字の前に、彼が本当に言いたかった、飲み込んだ言葉の残骸があるような気がしてならなかった。
『HAKUさん、本当は何か言いたいこと、ありますか。もし僕が嫌な思いをさせたなら、謝りますから』
僕は、彼の沈黙に耐えきれず、さらに問い詰めてしまった。
しばらく、本当に長い間があった。
外は完全に日が落ちて、部屋の中は青白いスマートフォンの光だけが僕の顔を照らしている。
やがて、画面が震えた。
『…………あなたは、僕のことをどう思っていますか』
表示されたその一文に、僕は息を呑んだ。
HAKUが、僕との関係性について、そんな直接的で、核心を突くような問いかけをしてきたのは、これが初めてだった。
『HAKUさんのこと、どう思ってるか……ですか』
僕は文字を打ちかけ、ピタリと指を止めた。
どう思っているのだろう。
見ず知らずの他人の僕の写真を、誰よりも深く理解し、肯定してくれた人。毎晩の彼とのやり取りが、僕の壊れかけた精神を繋ぎ止める命綱のようになっていた。僕の孤独な夜に、文字という形で寄り添ってくれる大切な人。
でも、HAKUが「誰」なのかは、まったく分からない。
年齢も、顔も、声も、住んでいる場所も。僕たちは、現実世界ではただの交わらない平行線だ。それでも。確かに、僕の胸の奥には、「HAKUのことが好きだ」という、明確な温度を持った感情が存在していた。
ただ、その「好き」が、恩人に対する感謝の「好き」なのか、友人としての「好き」なのか、それとも、もっと別の、名前のつけられない重い感情としての「好き」なのか、僕自身にもまだ整理がついていなかった。
『……大切な人だと思っています。HAKUさんが、あの夜にメッセージをくれなかったら、僕は今も、カメラを棚の奥にしまい込んだまま、部屋の隅で膝を抱えていたと思います』
僕は、自分の中にある偽りのない感謝の気持ちを、そのまま言葉にして送った。
『あなたが再びカメラを握り、撮ることを選んだのは、あなた自身の意志の力です。僕の言葉は、ただのきっかけにすぎない』
HAKUは、僕の感謝を静かに否定した。
『でも、そのきっかけをくれたのは、HAKUさんです。だから、僕にとっては特別な人です』
僕は、引き下がらなかった。送信した後、少しだけ間があった。
『……その言葉、大切にします』
返ってきたのは、それだけだった。僕はスマートフォンをゆっくりと胸の上に下ろし、すっかり暗くなった窓の外の空を眺めた。
鮮やかだったオレンジ色はとうの昔に消え失せ、深い藍色の夜空が街を包み込んでいる。
廉も見たいと言ってくれたあの空を、今、僕はHAKUに一番に見せた。
現実世界で僕を甘やかし、強引に僕の世界に踏み込んでくる美しい後輩の廉。
ネットの世界で僕の傷を撫で、僕の視点を深く愛してくれる匿名の理解者、HAKU。
二人とも、僕の空を見たがる。二人とも、僕のカメラを肯定してくれる。
「本当に、不思議な偶然だな……」
僕は、部屋の静寂の中にぽつりと呟いた。
左の耳たぶを無意識に撫でながら、僕は二つの異なる、けれどひどく似通った「好き」という感情の狭間で、心地よいような、それでいてどこか恐ろしいような、複雑な微熱に包まれていた。
