澄める空は琥珀に溶ける

七月も中旬に差し掛かった頃、梅雨の忘れ物のような、ひどい大雨が降った日があった。

朝のニュース番組の週間天気予報では「曇り時々雨、一時的に傘が必要になるでしょう」くらいの、控えめな予報だったはずだ。しかし、午後から急激に大気の状態が不安定になり、空はインクをこぼしたような黒い雲に覆われた。そして夕方を迎える頃には、バケツをひっくり返したような、あるいは空の底が抜けたかのような本降りの雨へと変わっていた。

その日、僕は珍しく、午後の早い時間から外に出ていた。
どうしても本屋に行きたかったのだ。祖父が生前好んで作品を集めていた、海外の風景写真家の新しい写真集が出版されたとネットのニュースで見たからだ。高価な装丁の本なので今は買えないけれど、せめて立ち読みだけでもして、その人がどんな新しい世界を切り取ったのかを見ておきたかった。
本屋は、僕のマンションから歩いて二十分ほどの、駅前の商業ビルに入っている。『アンバー・デイズ』のある路地裏とは、ちょうど反対の方向だった。

一時間ほどかけて目当ての写真集のページをめくり、満足して本屋を出た時。
自動ドアの向こう側の世界は、激しい雨音と、アスファルトを叩きつける水しぶきで白く霞んでいた。

「……うそでしょ」

僕は、小さなため息をついた。
傘なんて持っていなかった。天気予報の「一時的に傘が必要」という言葉を都合よく解釈しすぎた。それに、そもそも僕は普段から荷物を持ち歩くのが好きではなく、今日も財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで身軽に出てきてしまっていた。
仕方なく、商業ビルの軒下に立ち止まり、雨宿りをすることにした。
少し待てば小降りになるだろう。そう甘く考えていたが、雨は一向に止む気配を見せない。それどころか、雷の低い地鳴りまで聞こえ始め、雨脚はさらに強さを増していった。

スマートフォンを取り出して雨雲レーダーのアプリを開いてみる。現在地である駅周辺は、真っ赤な表示で完全に覆われていた。予測グラフによると、少なくともあと一時間は、この土砂降りが続くらしい。

「一時間か……」

傘を買おうかと思って、ポケットから財布を取り出して中身を確認する。
千円札が一枚と、小銭が少し。昨日、親から振り込まれた生活費を下ろすためにATMに行くつもりだったのに、すっかり忘れていた。これではビニール傘を買うのも少し躊躇われる。

どうしようかな。このまま小雨になるまで待つか、それとも濡れるのを覚悟で走って帰るか。
そんなことを考えながら、ぼんやりと雨のスクリーンを見つめていた時だった。
軒下を急ぎ足で通り過ぎようとした誰かの肩に、僕の腕がほんの少しだけ当たってしまった。

「あ、すみません」

僕は慌てて身を引き、小さく頭を下げた。

「……先輩?」

雨音を切り裂くように、すぐ真横から、あの低く落ち着いた声が聞こえた。
心臓が跳ねる。顔を上げると、そこには廉が立っていた。
黒のシンプルな折りたたみ傘を差し、片方の肩に同じく黒のトートバッグをかけている。いつもの『アンバー・デイズ』での白いシャツとエプロン姿ではなく、少し光沢のある青いシャツに細身のパンツという、ひどく大人びた私服姿だった。濡れたアスファルトを背景に立つ彼は、まるでそこだけ雨粒を弾いているかのように、凛とした静けさを纏っていた。

「廉くん……?」

なぜここに、という言葉が喉まで出かかった。学校もバイト先も、ここからは少し離れているはずなのに。
廉は僕の顔を見て、それから僕の手元に視線を移し、最後に、白く煙る外の雨を見た。

「……傘、ないんですか」

咎めるような響きは一切なく、ただ事実を確認するような平坦な声だった。

「……うん。予報を信じすぎた。持ってこなかったんだ」
「こんなところで、何をしてるんですか。どこに行くつもりでした?」
「家。……ここから歩いて、二十分くらいで帰れるから、ちょっと小降りになるのを待とうと思って」

僕がそう答えると、廉は静かに首を横に振った。

「この雨で二十分歩いたら、小雨になったとしても、びしょ濡れどころの騒ぎじゃないですよ。風邪を引きます」

廉はそう言って、少しだけ考えるような、あるいは何かを計算するような顔をした。切れ長の瞳が微かに細められる。

「俺の家、ここから近いんですけど」
「え、いや、廉くんの家に上がるのは……」

いくらなんでも、出会って数週間の後輩の家に上がり込むのは図々しすぎる。それに、彼のような完璧に整頓された空間に、僕のような不審者が濡れたまま入るなんて、想像しただけでも申し訳なかった。

「……じゃなくて」

僕の言葉を遮るように、廉が静かに言った。

「先輩の家は、どこですか」

僕が、自分の住んでいるマンションの名前と、だいたいの場所を伝えると、廉の瞳の奥で、カチリと何かが噛み合ったような気がした。

「俺の家も、そっちの方向です。……一緒に行きましょう」
「でも、傘一本しかないし……」
「二人で、入れます」

廉は有無を言わさぬ口調でそう言うと、持っていた折りたたみ傘の柄を少しだけ僕の方へと傾けた。
男性用の少し大きめのサイズとはいえ、所詮は折りたたみ傘だ。廉の広い肩幅と並ぶと、二人が同じ傘の下で濡れずに歩くためには、かなり距離を縮めなければならない。

「……いいの?」
「先輩が濡れるのが、嫌なので」

なぜか、ひどく当然のことのように言われた。

その言葉の奥底にある熱に、僕は一瞬だけ息が詰まった。だが、彼があまりにも自然に傘を差し出してくれるものだから、僕は断る理由を見つけられず、「……ありがとう」と小さく呟いて、おずおずとその黒い傘の下へと入った。

雨は、信じられないほど強かった。厚手の傘の生地を、大粒の雨粒がバラバラと音を立てて叩きつけている。まるで、僕たち二人だけが、この世界の喧騒から切り取られた、暗くて狭いカプセルの中に閉じ込められているような錯覚に陥った。
廉が右手に傘を持っているので、僕は彼の左側の、少し後ろを歩いていた。しかし、それだとどうしても僕の左肩が傘の円周から外れ、雨粒の直撃を受けてしまう。

それに気づいたのか、廉がすっと、傘の柄をわずかに僕の方へと傾けた。
その瞬間、僕の左肩は雨の領域から完全に守られた。しかし代償として、廉の右肩が傘の外に完全に露出してしまった。黒いシャツの色が、雨を吸って見る間に濃くなっていく。

「廉くん、右肩……濡れてるよ」

僕は慌てて声をかけた。

「気にしないでください」

廉は前を向いたまま、涼しい声で答えた。自分が濡れることよりも、僕の方へ傘を傾け、僕を守ることを優先した、ということだ。
その無言の、強烈な保護欲に触れて、僕はどうしようもなく申し訳なくなり、そして、少しだけ胸の奥が甘く疼いた。
これ以上彼を濡らすわけにはいかない。
思い切って廉の横顔を見上げながら、自分から彼の方へと少しだけ距離を詰めた。
二人の距離が、わずか五センチほどになった。

一歩進むたびに、お互いの腕や肩が微かに触れ合いそうになる。
雨で冷え切った空気の中で、すぐ横から、廉の体温がじわりと伝わってくるような気がした。少しだけ甘い、外国製の柔軟剤のような、あるいは彼自身が持つ静かな匂い。
歩きながら、僕は無意識に、左の耳たぶをきゅっとつまんでいた。

緊張している、というのとは少し違う。恐怖や不安ではない。ただ、どうしようもなく落ち着かなくなった、という感じだ。廉の横にいて、彼に守られていると、僕はいつも、自分の輪郭が甘く溶け出してしまいそうな、不思議な感覚に陥るのだ。

「……先輩」

雨音に紛れるような、低い声で呼ばれた。

「な、なに?」
「今日の空、撮りましたか」

突然の、そして核心を突くような質問に、僕は肩をビクッと跳ねさせた。

「……撮ってないよ。今日はあいにくの天気だったし、出かける用事もあったから」
「雨の日の空も、好きじゃないですか」

HAKUと同じことを言う。僕は、息を呑んで彼の横顔を見つめた。

「好きだよ。……でも、一人だと、雨の日にわざわざカメラを持って外に出る気がしなくて……。なんか、寂しくなっちゃうから」

僕が正直な気持ちを吐露すると、廉は少しだけ歩みを遅くした。

「……じゃあ、次の雨の日は、外に出て撮ってみてください」
「え?」
「俺も、一緒に行きます」

さらりと言って、廉はまた黙った。僕はその言葉を頭の中で何度も反芻した。
一緒に行きます、と彼は言った。
僕が「一緒に行ってほしい」と頼んだわけでもなく、「嫌です」と拒否したわけでもないのに。彼は、もうすでに決定事項であるかのように、僕の領域の中に当然のように踏み込んできたのだ。

「……廉くん、写真は好きでも嫌いでもないって、この前言ってたのに」
「俺自身が撮るのには興味がない、という意味です。……先輩が撮るのを、隣で見るのは別です」
「……」
「変ですか」
「変じゃないけど……」

なんと言えばいいか分からなくて、僕はまた耳たぶを強く触った。この人は、どうしてこんなにも、僕の隠しておきたい孤独の隙間に、的確に、そして力強く入り込んでくるのだろう。
やがて、見慣れたマンションの外観が雨の中に浮かび上がってきた。

「……ここまでで、大丈夫」

僕はそう言って、廉と一緒に、エントランスの屋根の下へと駆け込んだ。
雨の直撃から逃れると、急に世界が静かになったような気がした。

「ありがとう。……おかげで、全然濡れなかったよ」

僕がお礼を言うと、廉は無言で一度傘を閉じ、バサバサと水滴を払った。

その時、彼の右肩から腕にかけて、黒いシャツが肌に張り付くほどびしょ濡れになっているのがはっきりと見えた。僕を守るために、彼が差し出してくれた傘の代償。

「……それ、拭いていく? タオル、貸せるし……」

言ってから、しまった、と激しく後悔した。拭いていくということは、彼を僕の部屋に上げるということだ。この散らかり放題の、生活感の欠落した薄暗い部屋に。
廉は僕の言葉を聞いて、少しの間、僕の目をじっと見つめた。その琥珀色の瞳の奥で、何かが計算され、そして結論が出されたような光が宿った。

「……じゃあ、お邪魔します」

断られると思っていた予想は、あっさりと裏切られた。



僕の部屋は決して「ゴミ屋敷」のように汚いわけではない。
ただ、ひたすらに無秩序で、整然としていなかった。読みかけの文庫本が机の上に無造作に積まれ、数日前に取り込んだ洗濯物がソファの隅に山になり、窓際の棚には祖父の写真集と、ライカのカメラと、現像したまま整理されていない写真のプリントが無造作に重ねてある。僕にとってはこの「ある程度散らかっている状態」が、最も落ち着くテリトリーの形だ。

けれど他の人からしてみれば、その秩序の無さは、イコール部屋が汚い、という意味に捉えられるだろう。
廉は玄関で靴を丁寧に揃えて脱ぎ、部屋の中に入ると、切れ長の目で空間全体を静かに見回した。
僕は急に、自分の内面をすべて覗き見られているような猛烈な恥ずかしさに襲われ、顔から火が出る思いだった。

「ごめんね、散らかってて……!すぐ片付けるから、適当に座ってて」

慌ててソファの上の洗濯物を抱え込もうとする僕を、廉は静かな声で制した。

「そんなでもないですよ。……生活している場所なんですから」

廉はそう言いながら、僕の代わりに、テーブルの上に出しっぱなしになっていた本をさっと揃えた。数冊の文庫本を、背表紙のラインを完璧に揃えて、綺麗なタワーのように積み上げる。その動作は一切の無駄がなく、流れるように自然で、僕が止める間もなく、テーブルの上はすっきりと片付いてしまった。

「片付けなくていいよ、そんな……お客さんなんだから」
「手癖です。……視界に入る情報が乱れていると、気になるので」

几帳面な性格が、行動の端々に染み付いているな、と僕は思った。
僕は洗面所から清潔なタオルを二枚持ってきて、一枚を廉に渡した。廉はそれを受け取ると、濡れた右肩と腕を丁寧に拭き始めた。

「先輩も、少し濡れてます。拭いてください」

廉が、僕の髪の毛先が少しだけ濡れているのを指摘した。

「うん、ありがとう」

僕は、もう一枚のタオルで自分の頭を拭こうとした。しかし僕がタオルを広げるよりも早く、廉が拭き終えた自分のタオルを置き、僕が持っていたもう一枚のタオルを横からすっと奪い取った。
そしてそのタオルを、僕の頭の上からふわりと被せたのだ。

「……っ」

視界が白いタオルで遮られ、僕は小さく息を呑んだ。タオル越しに廉の両手が僕の頭に添えられた。そしてそのままゆっくりと、僕の濡れた髪を拭き始めた。
ごしごしと乱暴に擦るのではなく、髪の水分をタオルに吸わせるように、優しく、ひどく丁寧に。頭の丸みに沿って、彼の長い指が動く感触が伝わってくる。

「じ、自分で出来るって……」

僕は慌てて顔を上げようとしたが、タオルの上から軽く押さえ込まれて、身動きが取れなかった。

「先輩は、放っておくとこういうの、後回しにするでしょ。絶対」

廉の声が、頭のすぐ上から降ってきた。
どこでそれを知ったんだろう。確かに僕は、少し濡れたくらいなら自然乾燥でいいやと放置してしまうズボラな人間だけれど。
反論する言葉が見つからず、僕は諦めて、おとなしく廉にタオルで髪を拭かれるがままになった。

不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ彼の手のひらから伝わってくる温もりと、一定のリズムで髪を梳かれる感覚が心地よくて、このままずっとこうして目を閉じていたいとすら思ってしまった。
やがて廉の手が止まり、タオルが外された。

「……はい。これで風邪は引きません」
「……ありがとう」

タオルの摩擦で、僕の分厚い眼鏡が少しだけ下にずり落ちていた。

直そうと僕が手を上げるより一瞬早く、廉の手が伸びてきた。彼の人差し指が、僕の眼鏡のブリッジにそっと触れ、元の位置へと正確に押し戻した。その動作が、またしてもひどく細かくて、そして僕の顔との距離があまりにも近くて、僕は息を止めた。

「……廉くん、器用だよね」

動揺をごまかすように、僕は少し上擦った声で言った。

「そうですか?」
「ドーナツ作れるくらいだし、料理とかもできるの?」
「……それなりには。生きていくのに必要なスキルですから」
「一年生から一人暮らしって、すごいね。僕は親が海外赴任だから仕方なくやってるけど、全然ちゃんとした生活できてないし」
「……実家が、遠いので」
「どこなの?」

何気なく聞いた質問に、廉は少しだけ目を伏せた。

「北の方です。……詳しくは、言わないでもいいですか」
「……あ、ごめん。聞きすぎた。言いたくないこと、あるよね」

僕は慌てて謝った。彼のパーソナルな部分に土足で踏み込んでしまったような気がして。

「いや、別に先輩になら聞いてもらっても構わないんですけど。……面白い話じゃないので、空気が悪くなるのが嫌なだけです」

廉はそう言って、僕から少し距離を取り、部屋の奥へと視線を巡らせた。そして窓際の棚の上を見た。
僕の、フィルムカメラがある場所。
廉の視線が、そこでピタリと止まった。
その瞬間、僕の体は再び硬く強張った。写真部の部室で浴びた嘲笑の記憶が、フラッシュバックする。「骨董品」「地味」「デジタル使えよ」。

「わ、笑わないで」

反射的に、ひどく怯えた声が出ていた。自分でも情けなくなるくらい、防御の姿勢を取っていた。
廉が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その琥珀色の瞳には、怒りでも憐憫でもない、もっと静かで深い感情が宿っていた。

「……誰が笑うんですか」
「……前に、笑われたから。部活のひとたちに。そんな骨董品で自己満足してるなって」

僕が俯いて答えると、廉は再び棚の方へと向き直った。
そして、ゆっくりとした足取りでカメラの前に歩み寄り、立ち止まった。
長い指が静かに伸びていく。僕は息を詰めて、その手つきを見守った。

廉の白く美しい指先が、そっとカメラの金属製のボディに触れた。そして、使い古されて少し色褪せた革のグリップを、まるで壊れ物を扱うように、指の腹でゆっくりと、優しく撫でた。
それは乱暴に機能を確認するような手つきではなく、古い機械を面白半分で触るような興味本位の手つきでもなかった。
本当に、価値のある、ひどく大切なものに触れる人の、敬意に満ちた触り方だった。

「……ライカのM3、ですよね」

廉が静かに言った。

「……よく分かったね」
「調べました。フィルムカメラの、歴史と機種を」

まただ。「調べました」という、その言葉。

「……先輩と、写真の話をする時に、俺が何も知らないのは嫌だったので。もう少し、分かった上で話したくて」

その言葉が、静かな部屋の空気に、波紋のように広がって落ちた。

先輩の写真の話をする時に。

廉は、ただの暇つぶしで調べたわけではない。僕の使うカメラを知り、僕の愛する世界を理解し、僕と同じ目線で話をするために、わざわざフィルムカメラの知識を頭に叩き込んだのだ。

「……」

僕はなんと言えばいいか分からず、ただ彼の背中を見つめていた。
廉はカメラから手を離さないまま、言葉を続けた。

「……すごく、綺麗なカメラですね」
「……え?」
「時間と、持ち主の愛情をたっぷり吸い込んでいる。……先輩の、その柔らかい雰囲気に、ひどくよく似合っていると思います」

その言葉が、僕の胸の奥深く、ずっと凍りついていた一番柔らかい場所に、すとんと落ちた。

祖父の形見のカメラを「骨董品だ」「時代遅れだ」と笑った人たちがいた。確かに、最新のデジタルカメラと比べたら、連写もできないし、ピント合わせも手動だし、機能的には圧倒的に劣っている。

でも、廉は「綺麗なカメラ」だと言ってくれた。
僕に、似合っていると言ってくれた。
他人に侵された僕の「聖域」を、廉は決して土足で踏み荒らさなかった。靴を脱ぎ、姿勢を正し、そっと、世界で一番大切なものに触れる人の手で、その傷跡ごと撫でてくれたのだ。

「……祖父から、譲り受けたカメラなんだ」

僕は、気づけば自分の口から、誰にも言えなかった過去を話し始めていた。
廉が振り返り、僕を見た。

「お祖父様が?」
「うん。……写真がすごく好きな人で。プロじゃないけど、いつもこのカメラで空とか景色を撮ってて。遺言みたいな形で、僕に大切にしてほしいって遺してくれて」

廉はカメラからゆっくりと手を離し、僕の方へと向き直った。その切れ長の目が、僕の言葉を一つ残らず拾い上げるように、静かに見つめていた。

「……だから、こんなに大切にしてるんですね」
「……うん」
「先輩の、その写真の撮り方は……お祖父様に似てますか」

その質問は、僕にとって少し意外だった。
僕は少し考えて、答えた。

「……目線は、似てるかもしれない。派手なものじゃなくて、日常の何でもない瞬間に、隠れている美しさを見つけるって。それは、おじいちゃんが教えてくれたことで」

廉は、深く、静かに頷いた。

「だから、あんな写真が撮れるんですね」
「あんな写真って……?」
「地味なんかじゃない写真です」

廉は一歩だけ僕の方へと近づき、はっきりとした声で言った。

「ちゃんと見ればわかる。世界に対して誰よりも優しくて、すごく丁寧に時間を切り取っている、あの綺麗な写真」

僕の目の奥が、カーッと熱くなるのを感じた。
視界がぼやける。鼻の奥がツンと痛い。

いけない、と思った。

ここで、廉の前で泣くのは、なんか違う気がして。彼に同情されたいわけじゃない。ただ、僕の肯定された事実を、きちんと受け止めたかっただけだ。
僕は必死で涙をこらえ、大きく息を吸い込んだ。

「……廉くん、夕食、どうするの?」

涙声になるのを誤魔化すように、ひどく唐突に話題を変えた。
廉は、僕が泣きそうになっているのに気づいているはずなのに、あえてそれを指摘せず、僕のペースに合わせてくれた。

「先輩が作りますか?」
「つ、作れないことは無いけど……僕、本当に料理が苦手で。適当に野菜炒めとか、お茶漬けとか、簡単なものしか……」
「じゃあ、俺が作ります」

当然のように言って、廉はシャツの袖をまくり上げながら、迷いなく僕のキッチンの冷蔵庫へと向かった。

「……え、いや、廉くんは今日、お客さんなのに。それに材料あるか……」
「俺が食べたいから作るんです。買い出しに行ってもいいですけど、まだ雨も強いですし。……冷蔵庫、開けますね」

廉が冷蔵庫の中をのぞき込んでいる。
僕の冷蔵庫の貧弱な中身を他人にさらけ出すのは、カメラの棚を見られるのと同じくらい恥ずかしいことだった。親からの仕送りはあるが、買い物に行く気力が湧かず、スーパーで適当に買ってきた物が雑然と入っているだけだ。
卵数個と、半額シールが貼られた鶏のもも肉、萎れかけのネギ、しわしわになった椎茸、木綿豆腐。それに、使いかけの調味料が少し。

「……これで、何かできるかな。出前でも取る?」

僕が申し訳なさそうに提案すると、廉は冷蔵庫の扉を閉め、短く答えた。

「十分です。適当に作りますよ。先輩は、そこで座って見ていてください」

廉は慣れた手つきで手を洗い、まな板と包丁を取り出し、コンロに小鍋をかけた。僕の、生活感の薄い狭い台所に、彼の存在があまりにも自然に収まっていた。
切る。煮る。味を調える。
廉の動きには、本当に一切の無駄がなかった。僕が「何か手伝うよ」と声をかけるたびに、彼は振り返りもせずに「いいです。座っててください」と冷たく、しかし優しく言い放った。
しばらくして、部屋の中に、出汁のいい香りが漂い始めた。

「お待たせしました」

廉がテーブルに運んできたのは、卵と豆腐、それに細かく刻んだ椎茸と鶏肉が入った、温かい雑炊だった。
二人で、小さなテーブルを挟んで向かい合う。
「いただきます」と手を合わせてから、僕はレンゲで雑炊を掬い、一口食べた。

温かかった。
市販の白だしを使っただけのはずなのに、深みのある優しい味がして、卵がふんわりと全体を包み込んでいる。冷えて強張っていた体に、その温もりがじんわりと染み渡っていくのを感じた。

「これ、どこで覚えたの?」
「一人暮らしを始めてから。生きていくために必要に迫られて、ネットでレシピを見ながら」
「……美味しい」

僕が心からそう言うと、廉は少しだけ、本当にわずかに、口の端を緩めたように見えた。

「よかった」

表情の変化が極端に少ない人だから、あの微細な筋肉の動きが笑顔なのかどうか、僕にはまだ正確に判別できない。

「廉くんって、いつも表情変わらないよね」

僕は、熱い雑炊をふーふーと冷ましなが、聞いてみた。

「そうですか?」
「うん。喜怒哀楽、ちゃんとあるの?」
「ありますよ。機械じゃないんですから」
「じゃあ、今は何の感情?」

僕が少し意地悪に尋ねると、廉はレンゲを持った手を一瞬止め、僕の顔をじっと見た。

「……”嬉しい”です」
「え」
「先輩と一緒にいるので」

あまりにもあっさりと、何の照れもなく言い切った廉の言葉に、僕は完全に言葉を失った。

「……そういうことを、さらっと言うんだから。冗談だよね?」
「俺は、非効率な冗談は言いません。思った事実を、そのまま口にしているだけです」
「でも、普通はそういうこと、恥ずかしくて言えないでしょ」
「先輩に言いたかったから、言いました」

廉はそれ以上は何も言わず、再び雑炊を食べ始めた。
僕は、雑炊の熱さとはまったく別の理由で、自分の頬から耳にかけてがカッと温かくなるのを感じ、ただ俯いて無言でレンゲを動かすことしかできなかった。



食事の後、廉は僕が止めるのも聞かず、皿を洗い、台所のシンクを水滴ひとつ残らないほど綺麗に磨き上げて片付けた。
窓の外では、雨はまだ勢いよく降り続いている。
廉は、自分のトートバッグを肩にかけ、上がり框のところで靴を履きながら、振り返った。

「また、来ていいですか?」
「え、は、なんで……? 部屋、何もないしつまらないでしょ」
「雨の日は特に、先輩が一人でこの部屋にいると、心配なので」
「……べつに、心配しなくても大丈夫だよ。一人には慣れてるし」

僕が強がってそう言うと、廉はドアノブに手をかけたまま、僕を真っ直ぐに見据えた。

「先輩が大丈夫だったとしても、俺が心配なんです」

廉は、低く、重みのある声でそう言って、玄関の扉を開けた。

「おやすみなさい、先輩。……戸締まり、ちゃんとしてくださいね」
「……おやすみなさい」

重い金属の扉が閉まり、カチャリtとオートロックの鍵がかかる音が響いた後。部屋は再び静寂に包まれた。僕はしばらくの間、玄関の扉の前に立ち尽くしていた。
廉の言葉が頭の中で何度も反響していた。

『先輩が大丈夫だったとしても、俺が心配なんです』

心配という言葉をこんなふうにエゴイスティックに、そして強引に使う人間を、僕は今まで見たことがなかった。
普通は「大丈夫?」と聞いて、相手が「大丈夫」と答えたら、それでその会話は終わりだ。相手の自己申告を免罪符にして、自分を納得させる。
でも廉は違った。僕が「大丈夫」と言い張ったとしても、そんなものは関係ない。彼自身が僕を心配しているという事実だけが重要であり、その感情を僕にぶつけてきたのだ。

それは、僕の孤独を許さない、不器用で、ひどく真っ直ぐな侵略だった。僕はリビングに戻り、棚を見た。
廉がさっき触れた場所。彼の長く美しい指が、そっと敬意を持って撫でた、古いライカ。僕はゆっくりと近づき、そのカメラを両手で包み込むように手に取った。
ひんやりとした金属の感触。でも、持っているだけで、今日の廉の優しい手つきと、彼の言葉を思い出す。

『先輩の柔らかい雰囲気に、よく似合ってる』

その言葉の熱が、僕の胸の中で、いつまでも温かく灯り続けていた。



その夜は、どうしても寝付けなかった。

熱めのシャワーを浴びて、髪をしっかりと乾かし、清潔なパジャマに着替えてベッドに潜り込んだというのに、脳の覚醒状態がまったく収まる気配を見せないのだ。

部屋の明かりを消し、薄闇の中で目を閉じても、瞼の裏には鮮明な映像が次々と浮かんでは消えていく。
雨の中、自分の右肩が濡れるのも厭わず、僕の方へ傘を傾けてくれた廉の横顔。
タオル越しに、僕の濡れた髪を丁寧に拭いてくれた時の、あの少しだけ強引で、でもひどく優しい手の感触。
僕のずれた分厚い眼鏡を、人差し指でそっと押し戻してくれた時の、彼の透き通るような琥珀色の瞳の近さ。

そして。

『好きな人が好きなものは、気になります』
『先輩と一緒にいるので、嬉しいです』

彼が紡いだ言葉たちが、あれこれ浮かんでは思考の渦に飲み込まれていく。
廉は、僕のことを一体どう思っているのだろうか。

彼が口にした「好きな人」とは、どういう意味の枠組みに収まる言葉なのだろう。同じ高校の「先輩だから」気にかけてくれているのか。それとも、ドーナツ屋の「常連客だから」親切にしてくれているのか。あるいは、僕のように学校に行けず、一人で引きこもっている人間に対する、彼なりの強烈な「同情」や「保護欲」の表れなのだろうか。

彼は一年生の男の子だ。僕よりも一つ年下のはずなのに。

それなのに、僕よりもずっと背が高くて、肩幅も広くて、考え方も大人びていて、圧倒的なまでの生活力と実行力を持っている。今日だって、彼がいなければ僕は土砂降りの雨の中で立ち往生し、冷たい部屋に帰って一人で惨めな夕食を摂るしかなかったはずだ。

年齢としては僕が「先輩」であるはずなのに、廉の前にいる時の僕は、どうしようもなく無力で、彼という大きな傘の下でただ一方的に保護されているような、不思議な感覚に陥る。
それが、なんだかひどく変な感じがした。情けなくて、申し訳なくて、でも……心のずっと奥底の、誰にも見せられないような暗い場所では、その抗いようのない絶対的な甘やかしに、ひどく安堵している自分がいることも事実だった。

窓を打つ激しい雨音が、部屋の静寂をより一層際立たせている。寝返りを打ち、シーツの冷たい部分を探して頬を押し当てた時だった。
枕元に伏せて置いていたスマートフォンが、ブブッ、と短く二回、振動した。
暗い部屋の中で、液晶画面のバックライトが白く発光し、僕の顔を薄青く照らし出す。時間を見ると、深夜の十一時を回ったところだった。こんな時間に誰だろうと思いながら、目を細めて画面を確認する。
通知センターに表示されていたのは、『すず』のアカウントへのダイレクトメッセージだった。

送信者は、HAKU。
僕は少しだけ驚いて、画面をタップした。
今日は大雨だったこともあり、僕は新しい写真を一枚も投稿していなかった。いつもは僕が写真をアップロードしたことをきっかけにHAKUから感想のメッセージが届くのが通例であり、彼の方から何もない日に突然話しかけてくるのは、これが初めてのことだった。
パスコードを解除し、SNSを開く。

『今日、外に出ましたか』

たった一行。挨拶もなく、ひどく単刀直入な問いかけだった。
僕は、仰向けの姿勢のまま、両手でスマートフォンを持ち直し、親指を動かした。

『少しだけ。駅前の本屋に行きたくて』

送信すると、瞬時に「既読」の文字がついた。まるで、僕の返信を画面を開いたまま待ち構えていたかのような早さだった。

『雨、ひどかったですよね』
『そうですね。天気予報を信じて傘を持っていかなくて、本屋を出たら土砂降りで焦りました』

文字を打ちながら、数時間前の、軒下での出来事を思い出す。

『濡れましたか?』
『……たまたま、傘を貸してくれた人がいたので、大丈夫でした』

僕は、少しだけ迷った末にそう返信した。廉の存在を、見ず知らずのネット上の彼にどこまで詳しく話すべきか分からなかったからだ。
メッセージを送った後、少しだけ長い間が空いた。
入力中の「…」というアイコンが点滅しては消え、また点滅する。画面の向こう側のHAKUが、何かを言うのを躊躇っているかのような、不自然な沈黙だった。
やがて、ポン、という軽い通知音とともに、新しい吹き出しが表示された。

『誰かと、一緒にいたんですか』

その文字列を見た瞬間、僕はなぜか、背筋に冷たい水滴を落とされたような微かな緊張を覚えた。
文字の羅列から、いつものHAKUの持つ静かで凪いだ空気とは違う、何か硬くて、少しだけ切迫したような気配を感じ取ったからだ。

『たまたま知り合いに会って。家が同じ方向だったので、僕のマンションの入り口まで一緒に帰ってもらいました』

嘘はついていない。ただ、彼がそのまま僕の部屋に上がり、僕の髪を拭き、雑炊を作ってくれたことまでは、わざわざ言う必要はないだろうと思った。
また、間があった。
雨音が、やけに大きく聞こえる。スマートフォンの画面が放つ白い光が、僕の視界のすべてを占領している。

『……その人のことは、信頼してるんですか』

次に届いたその質問は、僕の予想を完全に裏切る、ひどくパーソナルで、少しばかり意外なものだった。

信頼。

見知らぬ人からのその問いかけに対して、僕はしばらく指を止めて考え込んだ。
廉のことを、僕は信頼しているのだろうか。
出会ってから、まだ一ヶ月も経っていない。彼がどこの出身なのかも、どんな中学校生活を送ってきたのかも、深い部分は何も知らない。

でも。

『信頼、してると思います。……なんか、変な感じはしない人なので』

僕は、自分自身の心の奥底にある感情を探り当てるようにして、ゆっくりと文字を紡いだ。

『変な感じがしない、ですか』

HAKUからの返信は、僕の言葉の真意を測りかねているようだった。

『はい。一緒にいると、いつもすごく緊張するんですけど、でも、その緊張は決して嫌なものじゃないというか。一緒にいると、すごく落ち着くような気もするし、逆に、心臓がうるさくて落ち着かないような気もするし』

キーボードを叩きながら、僕は自分でも何が言いたいのか、どう表現すれば正解なのかが分からなくなってきた。
矛盾している。落ち着くのに、落ち着かない。
でも、廉の隣にいる時の僕の感情は、まさにその言葉の通りだった。彼の静かな佇まいと完璧な配慮は僕に圧倒的な安心感を与えるのに、彼が不意に見せる雄のような視線や、強引に僕の領域に踏み込んでくるあの低い声は、僕の平穏な心を激しく掻き乱すのだ。

『……こういう風に、誰かの前で自分の感情がぐちゃぐちゃになる人が、初めてなのかもしれません。うまく言えないですけど。でも、彼に守られていると、嫌じゃないんです』

送信ボタンを押す。
薄闇の中で、僕は自分の打ち込んだ文章を改めて読み返し、顔がカーッと熱くなるのを感じた。
なんだこれ。まるで、恋愛相談じゃないか。相手は同性の後輩なのに。HAKUにこんなことを送って、呆れられたらどうしよう。
HAKUからの返事は、しばらく来なかった。

僕はスマートフォンを持ったまま、ベッドの天井をぼんやりと見上げた。
廉のことを、今、初めて誰かに向かって、ちゃんと言葉にして説明しようとしたかもしれない。

「変な感じがしない」「緊張するけど嫌じゃない」「落ち着く気もするし、落ち着かない気もする」

どんな文学的な表現よりも稚拙で、しどろもどろな言葉たち。でも、僕の心の中に確かに存在する、名前のつけられない熱のような何か。
数分後。
スマートフォンが、短く震えた。

『…………その人のそばに、いてください』

画面に表示されたその一文を見て、僕は「え?」と小さく声を出してしまった。

『あなたが安心できる人なら、あなたの世界を傷つけない人なら、そのまま、その人のそばにいていいと思います』

その言葉は、なんだかひどく奇妙だった。
今まで、僕の撮る写真の構図や、光の捉え方について静かに語り合ってきたHAKUが言うには、あまりにも直接的で、少し踏み込みすぎているような気がしたのだ。
「そばにいていいと思います」とは、どういう立ち位置から言っているのだろう。まるで、僕とその「知り合い」との関係を、彼自身が強く肯定し、背中を押そうとしているような。

『HAKUさん、なんかいつもと雰囲気違いますね』

僕は、感じた違和感をそのまま文字にしてぶつけてみた。

『……そうですか?』
『はい。なんか、急に』
『急に、何ですか』
『急に、ネットの向こう側の存在じゃなくて、血の通ったリアルの人間みたいな言い方をする気がして。少し、驚きました』

僕がそう返信すると、これまでにないほど、長い、長い間が空いた。
画面が暗くなりそうになるのを、指でタップして防ぐ。雨の音だけが、絶え間なく部屋を満たしている。時計の針が、深夜の十一時半を回ろうとしていた。
やがて、画面上に「既読」がつき、ゆっくりと、彼からのメッセージが届いた。

『……僕のこと、感情のない機械か何かだとでも思ってたってことですか?』

その文章には、ほんの少しだけ、拗ねたような、あるいは静かに苛立っているような感情の色が滲んでいるように見えた。

『そういう意味じゃないですけど……ごめんなさい。でも、HAKUさんって、僕にとっては、なんかすごく遠い存在のイメージがあって。どこか遠い国から、望遠鏡で僕の小さな世界を覗き込んで、優しい言葉をかけてくれる人、みたいな。だから、今日みたいに僕の現実の人間関係に言及されるのが、少し意外だったんです』

僕は慌てて弁解するように、長文を打ち込んだ。
すると、HAKUからの返信は、僕のそのロマンチックな想像を一刀両断するように、鋭く、そして重いものだった。

『遠くないですよ』
『……え?』
『僕は、あなたが思っているよりも、ずっと近いところにいます』

その言葉を見た瞬間。
僕の心臓が、ドクン、と、今までで一番大きな嫌な音を立てて跳ね上がった。
背筋を、冷たい汗が流れ落ちるような感覚。
「あなたが思っているよりも、ずっと近い」とは、どういう意味だろう。
HAKUとは、このSNSの匿名アカウント上でのやりとりしかない。現実世界では会ったこともないし、年齢も本名も明かしていない。
物理的な距離ではなく、心の距離のことを言っているのかもしれない。「あなたの心に寄り添っていますよ」という、彼なりの詩的な表現なのだと。そう解釈するのが、一番自然なはずだ。

でも。

なぜか、僕の直感が、サイレンを鳴らすように激しく警鐘を鳴らしていた。
喉がカラカラに乾いていることに気づき、僕は無意識に生唾を飲み込んだ。左の耳たぶを、指先で強く、痛いほどにつまむ。

『近いところって、どういうことですか?』

震える指で、なんとかそれだけを打ち込み、送信する。

『……あなたの周りに、いつもいます』
『周りに?』

僕がそう問い返したのを最後に、HAKUからの返信は、ぷつりと途絶えた。
メッセージの横には「既読」の小さな文字がついたままだ。彼は画面の向こうで、僕の言葉を読み、そして沈黙を選んだのだ。
何度か画面を下に引っ張って更新してみたけれど、新しい吹き出しがポップアップすることは二度となかった。
僕は、重くなったスマートフォンを胸の上に下ろし、再び暗い天井を見上げた。

『あなたの周りに、いつもいます』

その言葉が、頭の中で呪文のようにぐるぐると渦を巻いている。どういう意味だろう。もしかしてHAKUは、僕の現実世界での知り合いなのだろうか。
写真部の同級生? いや、彼らがあんな優しい言葉をかけるはずがない。
クラスメイト? 担任の川島先生?
どれも違う。僕の写真をあんなに深く理解し、愛してくれる人が、今の僕の周囲にいるはずがない。

思考を巡らせる僕の脳裏に、不意に、一つの顔がフラッシュバックした。
涼やかな切れ長の琥珀色の瞳。白く長い指。雨の中、僕に差し出された黒い傘。

『好きな人が好きなものは、気になります』

今日、ドーナツ屋のカウンターで、廉が口にしたあの言葉。

『好きな人が好きなものは、気になります』

いつしかこの画面の中で、HAKUが僕に送ってきたあの言葉。
一言一句、まったく同じそのフレーズが、脳内で完全に重なり合い、恐ろしいほどの精度でシンクロした。

「……まさか」

僕は、自分自身の発した掠れた声に驚いて、口元を両手で覆った。
心臓の鼓動が、肋骨を突き破りそうなほど早鐘を打っている。呼吸が浅くなり、息苦しい。
廉が、HAKU?

あの完璧で、美しくて、僕を甘やかしてくれる後輩が、夜な夜な僕の拙い写真に優しい言葉を紡いでくれていた、あの名もなき理解者?

「……ない。ないよ、そんなの」

僕は、強く首を横に振った。
あり得ない。そんなドラマみたいな偶然、あるはずがない。

だいたい、HAKUのアカウントのアイコンは茶色い円形で……廉の瞳の色は、光に透けると琥珀色で……。HAKUが時折見せる、理詰めで逃げ道を塞ぐような話し方と、廉のあの断定的な話し方は……。今日、HAKUが雨のことを気にしてきたタイミングと、廉が僕を家まで送ってくれた事実は……。

考えれば考えるほど、無数の点と点が、一本の太い線で結びついていくような恐ろしい感覚に襲われた。
いやだ。
もし本当にそうだとしたら、僕は彼に、どれだけ恥ずかしい姿を晒してきたというのだ。

現実世界で彼に甘やかされながら、ネットの世界では「知り合いに一緒に帰ってもらって、緊張するけど嫌じゃないんです」なんて、まるで彼への恋心を自白するようなメッセージを、彼本人に向かって送りつけていたことになる。

「……嘘だ。考えすぎだ」

僕は、自分に言い聞かせるように呟き、枕に深く顔を押し当てた。
これ以上、この思考の沼に足を踏み入れてはいけない。もしHAKUが廉じゃなかったら、それは僕の自意識過剰も甚だしいし、もし本当に廉だったとしたら、僕は明日からどんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。
どちらに転んでも、僕の小さな世界がひっくり返ってしまう。
僕は、目を固く閉じ、耳を塞いで、外で鳴り続ける雨音だけを意識しようと努めた。

でも。

『俺は、先輩を知っていましたよ。先輩が俺を知らなかっただけで』

いつか彼が言ったその言葉が、耳の奥で、甘く、そして重く響き続けていた。
考えすぎだ。絶対に考えすぎだ。
僕はそう念じながら、シーツをきつく握りしめた。
激しい雨音と、自分のうるさすぎる心臓の音のせいで、その夜、僕が眠りにつくことができたのは、空が白み始める少し前のことだった。