澄める空は琥珀に溶ける

七月になった。

長かった梅雨がようやく明けた。ベランダから見上げる空は、昨日までの重たく垂れ込めていた灰色の雲が嘘のように姿を消し、急に手の届かない高さまで遠のいたような、抜けるような青色をしていた。ジリジリと肌を焼くような夏の強い日差しが、アスファルトを白く光らせ、アスファルトから立ち上る陽炎が、遠くの景色をゆらゆらと歪ませている。

僕は相変わらず、学校には行けないままでいた。

でも、この『アンバー・デイズ』という路地裏の小さなドーナツ屋には、週に三度ほどのペースで、逃げ込むように通い続けていた。

カランコロン、とドアベルを鳴らして中に入り、一番奥の壁際の席に座る。決まって頼むのは、口の中ですっと溶けるシュガーグレイズド・ドーナツと、少しだけ砂糖を多めに入れてもらったホットミルク。

廉は、いつ来てもカウンターの中にいた。

個人経営の店らしかったが、オーナーがどこか別の場所で作業をしているのか、僕が訪れる夕暮れ前の時間帯は、彼一人で店を切り盛りしていることがほとんどだった。
彼は常に静かだった。無駄な動きが一切なく、てきぱきと立ち働き、客に対して過剰な愛想笑いを浮かべることもない。それでいて接客はひどく丁寧で、言葉の選び方には一片の淀みもなかった。心地よい静寂を纏った、美しい機械のような人。

僕は自分の指定席となった壁際の席からホットミルクのマグカップを両手で包み込むようにしながら、カウンターの向こうの彼を、よく観察するようになっていた。

理由は自分でもよく分からなかった。ただ、どうしても彼に目が向いてしまうのだ。
例えば、彼がエスプレッソマシンの前でコーヒーを淹れる時。金属製のポルタフィルターを叩き、タンパーで粉を押し固める動作。陶器のカップを持ち上げ、細い注ぎ口からお湯を落とす時の、手首の滑らかな角度。
あるいは、彼が少しだけ時間が空いた時に、カウンターの陰でスマートフォンを操作する時。画面をタップし、スクロールする時の、白く長い指の流れるような動き。

彼の所作は、そのどれもが、切り取って額縁に飾りたくなるほど洗練されていて、見惚れてしまうほどの美しさがあった。

特に、彼の「手」だ。

廉の指は、本当に長くて、節立ちもなだらかで、彫刻作品のように綺麗だった。
僕はマグカップを包み込んでいる自分の手と見比べてみた。廉のそれに比べると、全体的に短くて、指先も少しふっくらと丸みを帯びている。昔から「おじいちゃんの手によく似ているね」と言われてきた、器用さの欠片もない凡庸な手。

廉のあの美しい手で淹れられたミルクだから、こんなにも温かくて、甘くて、僕の強張った心を解きほぐしてくれるのだろうか。そんなとりとめのないことを考えながら、僕はぼんやりと彼の横顔を見つめていた。



別の日の夕方。
静かな店内で、彼が珍しく、自分から僕に話しかけてきた。

「先輩。……最近、フィルムの残りはどうですか」
「え?」

予想外の質問に、僕は思わず間の抜けた声を出して顔を上げた。
カウンター越しに、廉の涼やかな瞳が僕を真っ直ぐに捉えていた。

「フィルムカメラ、使ってますよね?三十六枚撮りだとして、残りの枚数が少なくなってくると、一枚撮るのが惜しくなって、シャッターを切れなくなるんじゃないですか」

彼が発した、そのあまりにも的確な言葉に、僕は少しだけ面食らった。

「……なんで、そんなこと知ってるの?」

フィルムカメラを使ったことがない人間には、なかなか分からない感覚のはずだ。デジタルと違って、フィルムは有限だ。カウンターの数字が減っていくのを見ると、「もっといい景色があるかもしれない」「ここで撮ったら後悔するかもしれない」という貧乏性が顔を出し、どうしてもシャッターボタンにかけた指が重くなる。

「少し、調べました」

廉は、グラスを磨く手を止めずに、さらりとそう言った。

少し調べました、とは。

それは、僕のために調べてくれた、ということなのだろうか。それとも、単なる彼の知的好奇心の一環なのだろうか。どちらにせよ、彼が僕の持ち物に興味を持ち、わざわざ時間を割いて知識を入れてくれたという事実に、胸の奥がくすぐったいような、不思議な温かさを感じた。

「フィルムは……まだ、カメラを譲り受けたときのものが何本かあるよ」

僕は無意識に、左の耳たぶをきゅっとつまみながら答えた。

「でも、最近はあまり……撮れてなくて」
「どうしてですか」

一切のオブラートに包まない、直球な質問だった。

「……なんか、上手く撮れない気がして」
「気がして?」

廉が、少しだけ眉を上げた。その僅かな表情の変化に、僕は自分の言葉の曖昧さを指摘されたような気がして、少しだけ縮こまった。

「……うん。僕が見てる世界なんて、どうせ誰も……」

言い淀む僕の言葉を遮るように、廉が静かに、しかし断定的な口調で言った。

「気がするだけです。……あなたの場合は」

それは甘やかしでも慰めでもなく、事実をただ並べたような、強い決めつけだった。
少し意地悪な言い方だなと思った。でも、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、僕の自己嫌悪の逃げ道を塞いでくれるような、その断定的な言い回しに、少しだけ救われたような気すらした。

「廉くんは……写真、好き?」

僕は、話題を変えるように、そして少しの期待を込めて尋ねた。

「どちらでもないです」

返ってきたのは、彼らしい、感情を切り離したような正直な返事だった。

「でも」

廉は磨き終わったグラスを棚に置き、再び僕の方を向いた。

「好きな人が好きなものは、気になります」

その言葉が、耳の奥で反響した。

「好きな、人って……」

心臓の奥がどくりと音を立てるのを感じながら、問い返した。

「先輩のことです」

彼は、まるで「今日は晴れですね」と言うのと同じくらい、当たり前のように、平坦な声でそう言った。

「……っ」

僕は息を呑み、言葉を完全に失った。
頭の中が真っ白になる。好きな人。先輩のこと。その単語が、僕の脳内で意味を成さずにぐるぐると渦を巻いた。

「……」
「別の意味に取らなくていいですよ」

僕がフリーズしているのを見て、廉は微かに口の端を緩めたように見えた。

「……そ、そう」
「とりあえず今日も、ホットミルクにしますか」

彼がすぐに話題を変えてくれたおかげで、僕はなんとか呼吸を取り戻すことができた。「うん、お願い」と消え入りそうな声で答えると、廉はもうカウンターの奥へと引っ込み、ミルクパンを火にかけていた。

僕は、自分の頬から首筋にかけてが、じんわりと熱を持っているのを感じていた。テーブルの木目をじっと見つめながら、先ほどの彼の言葉を頭の中で反芻する。

『好きな人が好きなものは気になります』

別の意味に取らなくていい、と言われたけれど。
じゃあ、それはどういう意味の「好き」なのだろう。先輩として? 常連客として? それとも、ただの好意的な表現のひとつ?

聞けなかった。僕のような人間に、そんな特別な意味の「好き」が向けられるはずがないと分かっているのに。これ以上踏み込んで聞いてしまったら、せっかく見つけたこの居心地のいい関係が、変な方向に転がって壊れてしまうような気がして、怖かった。

数分後、廉が僕のテーブルにトレイを運んできた。
白いマグカップに注がれたホットミルク。そして、いつものシュガーグレイズドではなく、今日は全体に茶色い粉がまぶされたドーナツだった。

「試作品です。シナモンシュガーを作ってみました。よかったら、感想を聞かせてください」
「あ……うん。ありがとう」

ふわりと、スパイシーで甘い香りが鼻腔をくすぐる。
僕はフォークを使い、少しだけ切り取って口に運んだ。

口の中に入れた瞬間、シナモン特有の深い香りがぱっと広がった。生地はいつものように外側がサクッとしていて、中はふんわりと柔らかい。ただ甘いだけでなく、シナモンのほんの僅かな苦味とスパイスの刺激が、砂糖の甘さを引き締めていて、大人っぽい味がした。

「美味しい」

僕は、自然と笑みをこぼして言った。

「どういう感じで?」

廉が、少しだけ身を乗り出すようにして尋ねてきた。彼の瞳の奥が、ほんの少しだけ期待を含んで揺れているように見えた。

「甘さの中に、ちょっとだけ辛みというか、スパイスの刺激がある感じ。甘すぎなくて、すごく食べやすいな。ミルクにもよく合うし……僕は、これすごく好き」

僕が素直な感想を伝えると、廉は少しの間、無言で僕を見つめた。

そしてゆっくりと、「……ありがとうございます」と言った。
その声が、いつもより一段階低くて、どこか安堵したような、ひどく柔らかな響きを持っていて、僕はなぜか耳の奥がくすぐったくなるような感覚に陥った。

「美味しい」と言って、お礼を言われる。飲食店ではごく日常的なやり取りのはずなのに。なぜか今日の彼の「ありがとうございます」は、僕の言葉の奥底にある感情まで丁寧に掬い取ってくれたような、不思議な重みと温かさを持っている気がした。
僕はミルクを一口飲み、再びカウンターに戻った廉の後ろ姿を見た。

彼はメモ帳を広げ、ペンを走らせていた。おそらく、今のシナモンドーナツのレシピや、僕の感想を記録しているのだろう。ペンを持つ手が、細かく、でも確実な軌道を描いて動いている。

あの手で作ったんだ、と僕は思った。
あの白くて長い、彫刻のように美しい指で、小麦粉を練り、生地を成形し、熱い油で揚げて、シナモンと砂糖の粉を丁寧にまぶしてくれた。僕に食べさせるために。
その事実が、なんだかひどく特別で、贅沢なことのように思えて。

僕は無意識に左の耳たぶに触れながら、シナモンドーナツをもう一口、ゆっくりと味わいながら口に運んだ。

やっぱり、すごく美味しかった。



その日の夜。
シャワーを浴びて、薄暗い部屋のベッドに寝転がりながら、僕は『すず』のアカウントを開いた。
今日、ドーナツ屋に行く前にベランダから撮った、夕暮れの空の写真を投稿する。

梅雨が明けて、空の青さがぐんと高くなり、雲の輪郭がくっきりと白く際立っている。日が沈みかける西の空は、鮮やかなオレンジと深い藍色が混ざり合い、美しいグラデーションを描いていた。久しぶりに、自分の撮った写真を「綺麗だ」と素直に思えた一枚だった。

投稿ボタンを押して数分後、スマートフォンが短く震えた。
HAKUからのDMだった。

『今日の空、明るいですね。少し、視界が開けたような気がします』

彼のメッセージは、いつものように僕の心情の変化を正確に読み取っていた。

『梅雨が明けたから。空が高くなった気がして』

僕はそう返信した。

『外、出ましたか』
『はい。夕方、近くのドーナツ屋に行きました』

送信した後、少し間があった。入力中のアイコンが点滅し、やがてメッセージが届く。

『……ドーナツ、美味しかったですか』
『すごく美味しかったです。今日は新しい味の、シナモンドーナツで。甘すぎなくて、すごく好きでした』
『それは、よかったですね』

短い返事。
でも、文字の羅列から伝わってくる気配が、いつものHAKUの静謐なトーンとは少し違う気がした。どこか、柔らかく安堵しているような、そんな温度を感じたのだ。
僕は、ふと思いついて、文字を打った。

『HAKUさんも、甘いもの好きですか』
『どちらでもないです』

即答だった。しかし、その後に続く一文に、僕は息を呑んだ。

『でも、好きな人が好きなものは、気になります』

画面に表示されたその文字列を見て、僕はベッドの上で身を硬くした。

今日、アンバー・デイズのカウンターで、廉が口にした言葉と、一言一句同じだった。

「好きな人が好きなものは、気になります」

偶然の一致だろうか。
確かに、よくある言い回しと言えなくもない。でも、同じ日に、同じ言葉を、僕の世界に現れた数少ない二人の人間から立て続けに聞くなんてことがあるだろうか。
胸の奥が、ざわざわと波立った。

廉と、HAKU。

現実世界で僕を甘やかし、肯定してくれる美しい後輩。
ネットの世界で僕の傷を撫で、写真を愛してくれる匿名の理解者。

まさか、という思いと、ただの気のせいだという理性が頭の中で交差する。頭に浮かんできたざわめきを振り払うようにして、少しだけ意地悪な、それでいてひどくパーソナルな質問を打ち込んでいた。

『HAKUさんも、好きな人がいるんですか』

送信してから、すぐに後悔した。

さすがに無遠慮すぎたかもしれない。いくら毎晩やり取りをしているとはいえ、相手は素性も知らないネット上の人間だ。こんなプライベートな感情に踏み込む権利は、僕にはないはずなのに。
返事がくるまで、いつもより少しだけ長い時間がかかった。
画面を凝視する僕の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。

『います』

届いたのは、ひどく素っ気ない、たった三文字の返事だった。
でもその短い一言が、なぜか途方もない重みと熱を持って僕の胸にのしかかってきたような気がして、僕はどう返せばいいか分からなくなった。

HAKUに好きな人がいる。

それは、当たり前のことだ。この人だって生身の人間なのだから。でも、その事実を知った瞬間、心の奥のずっと深い場所が、ちくりと痛んだような気がしたのは何故だろう。

『そうですか。……いい人なんですか』

当たり障りのない、バカみたいな返信しかできなかった。

『どんな基準で「いい人」か、というのはありますけど』

すぐに返事が来た。

『僕にとっては、一番いい人だと思っています。綺麗で、優しすぎて、見ているとどうしようもなく守りたくなる人です』

画面越しにでも、その言葉に込められた彼の大切な人への強い愛情と、隠しきれない熱情が痛いほど伝わってきた。

『素敵ですね』

僕は、少しだけ震える指でそう打った。そして少し考えてから、心の底から湧き上がってきた、嘘偽りのない感情をもう一言加えた。

『HAKUさんの好きな人も、HAKUさんのことが好きになるといいですね』

送信ボタンを押す。
返事はしばらく来なかった。
僕はスマートフォンを胸の上に置き、目を閉じた。
口の中に、今日の夕方食べたシナモンドーナツの、甘くて少しだけスパイシーな後味がまだ微かに残っているのを確認した。廉が作ってくれた、僕のための試作品。

しばらくして、短い振動音が部屋の静寂を破った。

『……そうなれたら、本当に嬉しいです』

その控えめで、でも強い祈りのような言葉を見た時、僕はなぜか、心の底から「よかった」と思った。
HAKUがどんな人かは分からない。顔も、本名も、声も、住んでいる場所さえ知らない。

でも、僕のどん底の暗闇に光を当ててくれたこの人が、彼の一番大切にしている人に想いが届いて、幸せになってほしいと。
僕は、祈るような気持ちで、その画面をそっと撫でた。