アンバー・デイズを見つける、少し前のこと。
その夜のことは、僕のひび割れた記憶の中で、今でもひどく鮮明に細胞の隅々にまで刻み込まれているように覚えている。
梅雨前線が停滞し、午後から降り始めた雨が、夜の帳が下りる頃には本格的な本降りへと変わっていた。雨滴がベランダのガラス戸を規則正しく、けれど執拗に叩く音が、静まり返った部屋の中に冷たく反響している。
ひとりきりの一LDK。メインの照明は点けず、ベッドサイドの小さな間接照明だけが、部屋の隅に薄暗い影の領域を作り出していた。僕はその曖昧な境界線に身を横たえるようにしてベッドに寝転がり、スマートフォンの無機質な発光画面をぼんやりと眺めていた。
今日も、学校には行けなかった。
明日も、行ける気がしない。いや、行けるかどうかというよりも、行きたいとすら思えなかった。学校へ行くための気力という名の燃料が、身体のどこを探しても見つからない。
担任の川島先生からは、先週の金曜日に「次の面談日程を決めたいんだが、いつなら体調が良いかな」という、気遣いに満ちた、だからこそ重苦しいメッセージが届いていた。まだ返事をしていない。既読をつけることすらできずに、通知画面のプレビュー文字だけを何度も目でなぞっている。返事をして面談の具体的な日程を決めてしまえば、この曖昧に停滞した時間が急に動き出し、僕を「不登校の生徒」という明確な現実の枠組みに縛り付けてしまうような気がして、恐ろしかった。
ロンドンにいる両親には、『最近ちょっと学校のペースにしんどさを感じてるけど、体調は大丈夫だから心配しないで』とだけ伝えている。時差のある場所にいる彼らには彼らの生活があり、同時に重要な仕事がある。僕のこんな情けない停滞で心配させたくなかったし、ましてや一時帰国させるなんてことは絶対に避けたかった。自分でなんとかしなければならない。高校生なのだから、自分の足で立ち上がって、普通の日常に戻らなければ。
そう思えば思うほど、足には見えない枷が幾重にも巻き付き、僕はベッドの海から一歩も動けなくなる。何もできない現実と、焦燥感だけが、僕の思考を泥水のように濁らせてぐるぐると渦巻いていた。
重い溜息をつき、僕は逃避するようにSNSのアプリを開いた。
メインアカウントの通知バッジは見ないふりをして、素早くサブアカウントへと切り替える。
「すず」という、名前のない僕のアカウント。
今日、夕方に投稿したばかりの写真が表示される。いつものように、ベランダから外に出ることもなく撮った一枚。雨に濡れた窓ガラスにピントを合わせ、その向こう側にぼんやりと滲む街灯の光を写し取ったものだ。
フォーカスの外れたひとつのオレンジ色の光が、ガラスに付着した雨粒を通して何十もの小さな光の粒子に分散されている。古いライカ特有の、あるいはフィルムというアナログな媒体が持つ独特の粗い粒状感が、その光の滲みをさらに柔らかく、どこかノスタルジックなものに昇華させていた。
投稿から数時間が経っていたが、当然のことながらコメントは一件もなかった。
左下の小さなハートマークに、「いいね」が三つだけついている。
そのうちの一つは、いつも僕の写真に無言でいいねを押してくれる、風景写真ばかりを投稿している海外のBotのようなアカウントだった。後の二つも、おそらくハッシュタグ検索から偶然流れ着いた通りすがりの誰かだろう。
僕は自分のアカウントが、誰も訪れない深海の底に沈んだ箱庭のように感じていた。フォロワー数も二桁のままだし、鍵をかけて外部を遮断しているわけでもないのに、誰かと積極的に交流する気配は一切ない。ただ、僕が撮った寂しい写真を、誰にも評価されることなく静かに並べておくだけの場所。
僕は、スマートフォンの画面に映る今日の写真を、もう一度じっと見つめ直した。
街灯の光の滲み。画面全体を覆う、冷たいブルーグレーの空気感。雨の音がそのまま聞こえてきそうなほどの静けさ。自分でファインダーを覗いてシャッターを切ったはずなのに、改めて客観的に見てみると、ひどく「悲しい」写真だと思った。
意図して悲しさを演出したわけではない。ただ、あの時、僕の目に映った世界がそう見えたから、そのままの温度でフィルムに定着させただけだ。
「……これ、今の僕みたいだな」
独り言が、雨音に溶けて消えた。暗くて、冷たくて、誰にも届かない光。
これ以上画面を見ていても虚しくなるだけだと気づき、アプリを閉じようとしたその時だった。
画面の上部に、ふわりと白いポップアップ通知が降りてきた。
『HAKUさんからメッセージが届いています』
ダイレクトメッセージの通知。
僕は思わず首を傾げた。このアカウントにDMが来るなんて、スパムか、副業の勧誘か、出会い目的の怪しいアカウントくらいだ。警戒しながら、しかしどこか不思議な胸騒ぎを覚えて、僕はその通知をタップした。
画面が切り替わり、メッセージの画面が開く。
送信者のアイコンは、写真ではなく、単色で塗られただけのシンプルな茶色の円形だった。
アカウント名は『HAKU』。
僕のアカウントをフォローしているわけでもなく、投稿も数件しかない、できたばかりの新しいアカウントらしかった。
僕は、彼が送ってきた短い文章に目を落とした。
――『この写真、どこか寂しさを覚えるような気がします。でも、僕はあなたの切り取る世界が好きです』
活字で構成されたその文字列を見た瞬間。
僕の思考は、そこで完全に停止した。
寂しさを覚える。
そう言われた。
それは、僕の写真を「暗い」と馬鹿にする言葉でも、「地味だ」と切り捨てる言葉でも、「つまらない」と嘲笑う言葉でもなかった。僕がこの写真に無意識に込めてしまった、どうしようもない孤独の温度を、ただ静かに、正確に掬い上げてくれた言葉だった。
そして、彼は言ったのだ。
『好きです』と。
僕の、切り取る世界を。
あの写真部での薄暗い会議室で、部員たちの無神経な笑い声に包まれた写真たち。
「地味すぎる」「色がなくて古臭い」「コンクールに出すには映えない」と、僕の感性ごと徹底的に否定された、僕の目線。
それを、この見知らぬ誰かは、たった一言で肯定してくれたのだ。
胸の奥深く、ずっと凍りついて硬くなっていた何かが、パキンと音を立ててひび割れたような気がした。
電撃が走るような激しい衝撃でも、心臓が大きく跳ね上がるような高揚感でもなかった。もっと静かな、雪解けの水が乾いた土にゆっくりと染み込んでいくような、深くて柔らかい感覚。じんわりと、でも確実に、体温よりも少し高い熱が僕の胸の奥底から全身へと広がっていく。
気づいた時、僕はスマートフォンを握りしめたまま、うつ伏せになって枕に顔を深く埋めていた。
奥歯を強く噛み締めても、喉の奥から込み上げてくる熱い塊を抑えきれなかった。
変だ、と頭のどこかで冷静な自分が言っている。見知らぬアカウントから、たった一行のメッセージが送られてきただけだ。素性も知らない相手の「好きです」という言葉に、どうしてこんなに胸が締め付けられるほど痛くなるのだろう。いい歳をした高校生が、声を出して泣きじゃくるようなことではないはずなのに。
でも、涙は止まらなかった。
「うっ……ぁ……」
声を殺し、嗚咽が漏れないように枕に顔を押し当てて、僕は泣いた。自分の目からこんなに大量の水分が溢れ出すなんて知らなかった。
自分でも、その理由がはっきりとは分からなかった。ただ、ずっと、ずっと「間違っている」「価値がない」と否定され、僕自身すら見捨てようとしていたものを、初めて、真っ向から「好きだ」と言ってもらえた。その純粋な事実が、僕の中に張り巡らされていた脆い防波堤をいとも簡単に決壊させてしまったのだ。
祖父の古いライカで撮った、僕の大切な写真を。
誰の目にも留まらず、誰にも褒めてもらえなかった、静かな景色を。
写真部の誰も認めてくれなかった、僕の見ている世界を。
この人は、好きだと言ってくれた。
どれくらいの間、そうして泣いていたのか分からない。雨音だけが、僕の震える背中を慰めるように降り続いていた。
やがて、呼吸が少しずつ落ち着いてきた頃、僕はゆっくりと枕から顔を上げた。
視界がひどくぼやけている。眼鏡が涙で汚れ、斜めにずり落ちていた。鼻をすり、袖口で乱暴に涙を拭ってから眼鏡を掛け直し、僕は再びスマートフォンの発光する画面を見つめた。
見知らぬ人からの、たった一言のメッセージ。
そこに、僕の救いがあった。
僕は、まだ少し震える指先で、キーボードを叩き始めた。
『ありがとうございます。好きって言ってもらえたの、初めてかもしれないです』
送信ボタンを押した直後、僕は強烈な後悔に襲われた。「初めてかもしれない」なんて、いくらなんでも重すぎる。見知らぬ人に自分の孤独を押し付けるような、みっともない返事だ。引かれてしまうかもしれない。相手はただ、ちょっと気まぐれに褒めてみただけかもしれないのに。
メッセージを取り消そうかと迷っているうちに、画面に『既読』の文字がついた。
そして、数秒も経たないうちに、入力中の波線が現れ、返事が届いた。
『初めてなんですか。それはおかしい。……あなたの写真、ちゃんと見る人が少なすぎる』
おかしい、と彼は言った。
僕の写真が誰にも好きだと言ってもらえなかった事実を、僕の能力のせいではなく、周りの「見る人の少なさ」のせいだと、彼は真っ向から否定してくれた。
その断定的な言葉の強さに、また目の奥がじんわりと熱を帯びる。
『……そんなことないです。僕の写真、地味だから』
僕が自虐的に打ち返すと、間髪入れずに返信があった。
『僕にとっては違います。地味な写真って、どういうことですか』
『華やかじゃない、ってことです。目を引かないし、コンクール向きじゃない、とか』
『それって、誰が決めたんですか』
誰が。
その問いに、僕は少しキーを打つ手を止めた。
『学校の、写真部の人たちです』
文字にして送信すると、古傷を直接なぞられたような鈍い痛みが走った。
しばらく、画面の向こうからの反応が途絶えた。数分後、長い沈黙を破るように、彼からのメッセージが届いた。
『あなた自身は、どう思っているんですか。自分の写真が、本当に地味で価値がないと思っていますか?』
僕は、この質問に対して、すぐに答えることができなかった。
自分の写真について、自分がどう思っているか。
僕はゆっくりと、自分の心の一番底にある、誰にも見せなかった感情を掬い上げるようにして文字を打った。
『……分からなくなってきました。最初は、好きだと思ってたんです。自分が良いなと思ったものを撮っているから』
『今は?』
『今も、好きだと思う気持ちはあります。でも、カメラを見るたびに、写真部の人たちの笑い声が聞こえる気がして。自分が間違っているんじゃないかって。だから最近は、シャッターを切るのが少し怖くて』
送信した後、また少しの間があった。
相手は、僕のこの重苦しく、救いようのない吐露をどう受け止めているのだろうか。面倒な相手に関わってしまったと思っているかもしれない。
やがて、画面に現れた文字は、僕の不安を静かに溶かすものだった。
『そうなんですね。……それは本当に、もったいないことだと思います。あなたの見ている世界は、あなたにしか見えない、特別な世界だから』
『……』
『写真部の人たちには、たまたまその美しさが見えなかっただけです。見えない人に否定されたからといって、あなたの世界が間違っているわけでも、なくなるわけでもない』
あなたの見ている世界。あなたにしか見えない世界。
その言葉が、僕の乾き切った心に染み渡っていく。
雨音は、いつの間にか優しい子守唄のように聞こえていた。
『ありがとうございます』
僕は、心からの感謝を込めてそう打った。
そして、ほんの少しだけ迷ってから、もう一言だけ付け加えた。
『また、話せますか』
拒絶されるのが怖かった。でも、この繋がりをここで終わらせたくなかった。
僕の不安を切り裂くように、返事はすぐに来た。
『はい。いつでも』
いつでも。
その短い単語が、数日前に聞いたあの低い声をフラッシュバックさせた。
あの路地裏の、甘い匂いのする店で、涼やかな瞳をした彼が言ってくれた言葉と、ひどく似ている気がして。
僕はスマートフォンを胸に抱きしめ、また少しだけ泣きそうになった。
◇
その夜を境に、僕と『HAKU』との不器用なDMのやり取りが始まった。
毎晩というわけではなかった。二、三日空くこともあった。でも、僕が勇気を出して新しい写真を投稿すると、HAKUは必ず、遅くとも翌日には何かしらのメッセージをくれた。
『今日の空は、なんだか泣き出しそうですね』
『この電線の影の入り方、静かで好きです』
『雨の日の写真、また撮りましたか。あなたの雨の写真は、温度が伝わってきます』
彼が紡ぐ言葉は、一言一言がひどく丁寧だった。写真の構図や技術を上から目線で批評するわけでもなく、ただ機嫌を取るために過剰に褒め称えるわけでもない。僕が被写体に向けていた微かな感情や、その場の空気感を、彼自身のフィルターを通して正確に言語化してくれているような気がした。
僕がシャッターを切った瞬間を、彼も隣で一緒に見てくれていたのではないか。そう錯覚してしまうほど、彼の言葉は僕の写真の核心を突いていた。
僕は次第に、HAKUという人間のことが気になり始めた。
彼のアカウントのページを見に行っても、得られる情報はほとんどない。何の変哲もない茶色のアイコン。投稿数は五件ほどで、そのどれもが文字だけの短い呟きか、どこからか拾ってきたような抽象的な画像だけで、彼自身の個人的な情報や、彼自身が撮った写真は一枚も公開されていなかった。プロフィール欄には自己紹介の一言さえない。
どんな人なんだろう。
僕と同世代の学生なのか、それともずっと年上の大人なのか。男性なのか、女性なのか。どんな声をしていて、どんな指先で僕へのメッセージを打っているのか。どんな瞳で、僕の不器用な写真を見つめているのか。
何も分からなかった。文字という細い糸一本だけで繋がっている関係。
でも、僕は毎晩、彼からのDMの通知を待つようになっていた。
彼からの言葉をもらうたびに、僕の中で萎縮していた写真への愛情が、少しずつ、本当に少しずつだけれど、息を吹き返していくのを感じていた。
「今日のこの景色は、彼ならどう思うだろう」
そう考えながら、ベランダでファインダーを覗く僕がいた。
写真部で受けた呪いのような言葉よりも、HAKUがくれた静かな肯定の言葉の方が、僕の中ではるかに大きく、確かな重みを持つようになっていた。
いつか、外の景色を。
僕の部屋の窓から見える四角く切り取られた世界ではなく、もっと広くて、風の吹く場所の写真を撮って、彼に見せたい。
そんな小さな願いが、僕の胸の奥で芽生え始めていた。
その夜のことは、僕のひび割れた記憶の中で、今でもひどく鮮明に細胞の隅々にまで刻み込まれているように覚えている。
梅雨前線が停滞し、午後から降り始めた雨が、夜の帳が下りる頃には本格的な本降りへと変わっていた。雨滴がベランダのガラス戸を規則正しく、けれど執拗に叩く音が、静まり返った部屋の中に冷たく反響している。
ひとりきりの一LDK。メインの照明は点けず、ベッドサイドの小さな間接照明だけが、部屋の隅に薄暗い影の領域を作り出していた。僕はその曖昧な境界線に身を横たえるようにしてベッドに寝転がり、スマートフォンの無機質な発光画面をぼんやりと眺めていた。
今日も、学校には行けなかった。
明日も、行ける気がしない。いや、行けるかどうかというよりも、行きたいとすら思えなかった。学校へ行くための気力という名の燃料が、身体のどこを探しても見つからない。
担任の川島先生からは、先週の金曜日に「次の面談日程を決めたいんだが、いつなら体調が良いかな」という、気遣いに満ちた、だからこそ重苦しいメッセージが届いていた。まだ返事をしていない。既読をつけることすらできずに、通知画面のプレビュー文字だけを何度も目でなぞっている。返事をして面談の具体的な日程を決めてしまえば、この曖昧に停滞した時間が急に動き出し、僕を「不登校の生徒」という明確な現実の枠組みに縛り付けてしまうような気がして、恐ろしかった。
ロンドンにいる両親には、『最近ちょっと学校のペースにしんどさを感じてるけど、体調は大丈夫だから心配しないで』とだけ伝えている。時差のある場所にいる彼らには彼らの生活があり、同時に重要な仕事がある。僕のこんな情けない停滞で心配させたくなかったし、ましてや一時帰国させるなんてことは絶対に避けたかった。自分でなんとかしなければならない。高校生なのだから、自分の足で立ち上がって、普通の日常に戻らなければ。
そう思えば思うほど、足には見えない枷が幾重にも巻き付き、僕はベッドの海から一歩も動けなくなる。何もできない現実と、焦燥感だけが、僕の思考を泥水のように濁らせてぐるぐると渦巻いていた。
重い溜息をつき、僕は逃避するようにSNSのアプリを開いた。
メインアカウントの通知バッジは見ないふりをして、素早くサブアカウントへと切り替える。
「すず」という、名前のない僕のアカウント。
今日、夕方に投稿したばかりの写真が表示される。いつものように、ベランダから外に出ることもなく撮った一枚。雨に濡れた窓ガラスにピントを合わせ、その向こう側にぼんやりと滲む街灯の光を写し取ったものだ。
フォーカスの外れたひとつのオレンジ色の光が、ガラスに付着した雨粒を通して何十もの小さな光の粒子に分散されている。古いライカ特有の、あるいはフィルムというアナログな媒体が持つ独特の粗い粒状感が、その光の滲みをさらに柔らかく、どこかノスタルジックなものに昇華させていた。
投稿から数時間が経っていたが、当然のことながらコメントは一件もなかった。
左下の小さなハートマークに、「いいね」が三つだけついている。
そのうちの一つは、いつも僕の写真に無言でいいねを押してくれる、風景写真ばかりを投稿している海外のBotのようなアカウントだった。後の二つも、おそらくハッシュタグ検索から偶然流れ着いた通りすがりの誰かだろう。
僕は自分のアカウントが、誰も訪れない深海の底に沈んだ箱庭のように感じていた。フォロワー数も二桁のままだし、鍵をかけて外部を遮断しているわけでもないのに、誰かと積極的に交流する気配は一切ない。ただ、僕が撮った寂しい写真を、誰にも評価されることなく静かに並べておくだけの場所。
僕は、スマートフォンの画面に映る今日の写真を、もう一度じっと見つめ直した。
街灯の光の滲み。画面全体を覆う、冷たいブルーグレーの空気感。雨の音がそのまま聞こえてきそうなほどの静けさ。自分でファインダーを覗いてシャッターを切ったはずなのに、改めて客観的に見てみると、ひどく「悲しい」写真だと思った。
意図して悲しさを演出したわけではない。ただ、あの時、僕の目に映った世界がそう見えたから、そのままの温度でフィルムに定着させただけだ。
「……これ、今の僕みたいだな」
独り言が、雨音に溶けて消えた。暗くて、冷たくて、誰にも届かない光。
これ以上画面を見ていても虚しくなるだけだと気づき、アプリを閉じようとしたその時だった。
画面の上部に、ふわりと白いポップアップ通知が降りてきた。
『HAKUさんからメッセージが届いています』
ダイレクトメッセージの通知。
僕は思わず首を傾げた。このアカウントにDMが来るなんて、スパムか、副業の勧誘か、出会い目的の怪しいアカウントくらいだ。警戒しながら、しかしどこか不思議な胸騒ぎを覚えて、僕はその通知をタップした。
画面が切り替わり、メッセージの画面が開く。
送信者のアイコンは、写真ではなく、単色で塗られただけのシンプルな茶色の円形だった。
アカウント名は『HAKU』。
僕のアカウントをフォローしているわけでもなく、投稿も数件しかない、できたばかりの新しいアカウントらしかった。
僕は、彼が送ってきた短い文章に目を落とした。
――『この写真、どこか寂しさを覚えるような気がします。でも、僕はあなたの切り取る世界が好きです』
活字で構成されたその文字列を見た瞬間。
僕の思考は、そこで完全に停止した。
寂しさを覚える。
そう言われた。
それは、僕の写真を「暗い」と馬鹿にする言葉でも、「地味だ」と切り捨てる言葉でも、「つまらない」と嘲笑う言葉でもなかった。僕がこの写真に無意識に込めてしまった、どうしようもない孤独の温度を、ただ静かに、正確に掬い上げてくれた言葉だった。
そして、彼は言ったのだ。
『好きです』と。
僕の、切り取る世界を。
あの写真部での薄暗い会議室で、部員たちの無神経な笑い声に包まれた写真たち。
「地味すぎる」「色がなくて古臭い」「コンクールに出すには映えない」と、僕の感性ごと徹底的に否定された、僕の目線。
それを、この見知らぬ誰かは、たった一言で肯定してくれたのだ。
胸の奥深く、ずっと凍りついて硬くなっていた何かが、パキンと音を立ててひび割れたような気がした。
電撃が走るような激しい衝撃でも、心臓が大きく跳ね上がるような高揚感でもなかった。もっと静かな、雪解けの水が乾いた土にゆっくりと染み込んでいくような、深くて柔らかい感覚。じんわりと、でも確実に、体温よりも少し高い熱が僕の胸の奥底から全身へと広がっていく。
気づいた時、僕はスマートフォンを握りしめたまま、うつ伏せになって枕に顔を深く埋めていた。
奥歯を強く噛み締めても、喉の奥から込み上げてくる熱い塊を抑えきれなかった。
変だ、と頭のどこかで冷静な自分が言っている。見知らぬアカウントから、たった一行のメッセージが送られてきただけだ。素性も知らない相手の「好きです」という言葉に、どうしてこんなに胸が締め付けられるほど痛くなるのだろう。いい歳をした高校生が、声を出して泣きじゃくるようなことではないはずなのに。
でも、涙は止まらなかった。
「うっ……ぁ……」
声を殺し、嗚咽が漏れないように枕に顔を押し当てて、僕は泣いた。自分の目からこんなに大量の水分が溢れ出すなんて知らなかった。
自分でも、その理由がはっきりとは分からなかった。ただ、ずっと、ずっと「間違っている」「価値がない」と否定され、僕自身すら見捨てようとしていたものを、初めて、真っ向から「好きだ」と言ってもらえた。その純粋な事実が、僕の中に張り巡らされていた脆い防波堤をいとも簡単に決壊させてしまったのだ。
祖父の古いライカで撮った、僕の大切な写真を。
誰の目にも留まらず、誰にも褒めてもらえなかった、静かな景色を。
写真部の誰も認めてくれなかった、僕の見ている世界を。
この人は、好きだと言ってくれた。
どれくらいの間、そうして泣いていたのか分からない。雨音だけが、僕の震える背中を慰めるように降り続いていた。
やがて、呼吸が少しずつ落ち着いてきた頃、僕はゆっくりと枕から顔を上げた。
視界がひどくぼやけている。眼鏡が涙で汚れ、斜めにずり落ちていた。鼻をすり、袖口で乱暴に涙を拭ってから眼鏡を掛け直し、僕は再びスマートフォンの発光する画面を見つめた。
見知らぬ人からの、たった一言のメッセージ。
そこに、僕の救いがあった。
僕は、まだ少し震える指先で、キーボードを叩き始めた。
『ありがとうございます。好きって言ってもらえたの、初めてかもしれないです』
送信ボタンを押した直後、僕は強烈な後悔に襲われた。「初めてかもしれない」なんて、いくらなんでも重すぎる。見知らぬ人に自分の孤独を押し付けるような、みっともない返事だ。引かれてしまうかもしれない。相手はただ、ちょっと気まぐれに褒めてみただけかもしれないのに。
メッセージを取り消そうかと迷っているうちに、画面に『既読』の文字がついた。
そして、数秒も経たないうちに、入力中の波線が現れ、返事が届いた。
『初めてなんですか。それはおかしい。……あなたの写真、ちゃんと見る人が少なすぎる』
おかしい、と彼は言った。
僕の写真が誰にも好きだと言ってもらえなかった事実を、僕の能力のせいではなく、周りの「見る人の少なさ」のせいだと、彼は真っ向から否定してくれた。
その断定的な言葉の強さに、また目の奥がじんわりと熱を帯びる。
『……そんなことないです。僕の写真、地味だから』
僕が自虐的に打ち返すと、間髪入れずに返信があった。
『僕にとっては違います。地味な写真って、どういうことですか』
『華やかじゃない、ってことです。目を引かないし、コンクール向きじゃない、とか』
『それって、誰が決めたんですか』
誰が。
その問いに、僕は少しキーを打つ手を止めた。
『学校の、写真部の人たちです』
文字にして送信すると、古傷を直接なぞられたような鈍い痛みが走った。
しばらく、画面の向こうからの反応が途絶えた。数分後、長い沈黙を破るように、彼からのメッセージが届いた。
『あなた自身は、どう思っているんですか。自分の写真が、本当に地味で価値がないと思っていますか?』
僕は、この質問に対して、すぐに答えることができなかった。
自分の写真について、自分がどう思っているか。
僕はゆっくりと、自分の心の一番底にある、誰にも見せなかった感情を掬い上げるようにして文字を打った。
『……分からなくなってきました。最初は、好きだと思ってたんです。自分が良いなと思ったものを撮っているから』
『今は?』
『今も、好きだと思う気持ちはあります。でも、カメラを見るたびに、写真部の人たちの笑い声が聞こえる気がして。自分が間違っているんじゃないかって。だから最近は、シャッターを切るのが少し怖くて』
送信した後、また少しの間があった。
相手は、僕のこの重苦しく、救いようのない吐露をどう受け止めているのだろうか。面倒な相手に関わってしまったと思っているかもしれない。
やがて、画面に現れた文字は、僕の不安を静かに溶かすものだった。
『そうなんですね。……それは本当に、もったいないことだと思います。あなたの見ている世界は、あなたにしか見えない、特別な世界だから』
『……』
『写真部の人たちには、たまたまその美しさが見えなかっただけです。見えない人に否定されたからといって、あなたの世界が間違っているわけでも、なくなるわけでもない』
あなたの見ている世界。あなたにしか見えない世界。
その言葉が、僕の乾き切った心に染み渡っていく。
雨音は、いつの間にか優しい子守唄のように聞こえていた。
『ありがとうございます』
僕は、心からの感謝を込めてそう打った。
そして、ほんの少しだけ迷ってから、もう一言だけ付け加えた。
『また、話せますか』
拒絶されるのが怖かった。でも、この繋がりをここで終わらせたくなかった。
僕の不安を切り裂くように、返事はすぐに来た。
『はい。いつでも』
いつでも。
その短い単語が、数日前に聞いたあの低い声をフラッシュバックさせた。
あの路地裏の、甘い匂いのする店で、涼やかな瞳をした彼が言ってくれた言葉と、ひどく似ている気がして。
僕はスマートフォンを胸に抱きしめ、また少しだけ泣きそうになった。
◇
その夜を境に、僕と『HAKU』との不器用なDMのやり取りが始まった。
毎晩というわけではなかった。二、三日空くこともあった。でも、僕が勇気を出して新しい写真を投稿すると、HAKUは必ず、遅くとも翌日には何かしらのメッセージをくれた。
『今日の空は、なんだか泣き出しそうですね』
『この電線の影の入り方、静かで好きです』
『雨の日の写真、また撮りましたか。あなたの雨の写真は、温度が伝わってきます』
彼が紡ぐ言葉は、一言一言がひどく丁寧だった。写真の構図や技術を上から目線で批評するわけでもなく、ただ機嫌を取るために過剰に褒め称えるわけでもない。僕が被写体に向けていた微かな感情や、その場の空気感を、彼自身のフィルターを通して正確に言語化してくれているような気がした。
僕がシャッターを切った瞬間を、彼も隣で一緒に見てくれていたのではないか。そう錯覚してしまうほど、彼の言葉は僕の写真の核心を突いていた。
僕は次第に、HAKUという人間のことが気になり始めた。
彼のアカウントのページを見に行っても、得られる情報はほとんどない。何の変哲もない茶色のアイコン。投稿数は五件ほどで、そのどれもが文字だけの短い呟きか、どこからか拾ってきたような抽象的な画像だけで、彼自身の個人的な情報や、彼自身が撮った写真は一枚も公開されていなかった。プロフィール欄には自己紹介の一言さえない。
どんな人なんだろう。
僕と同世代の学生なのか、それともずっと年上の大人なのか。男性なのか、女性なのか。どんな声をしていて、どんな指先で僕へのメッセージを打っているのか。どんな瞳で、僕の不器用な写真を見つめているのか。
何も分からなかった。文字という細い糸一本だけで繋がっている関係。
でも、僕は毎晩、彼からのDMの通知を待つようになっていた。
彼からの言葉をもらうたびに、僕の中で萎縮していた写真への愛情が、少しずつ、本当に少しずつだけれど、息を吹き返していくのを感じていた。
「今日のこの景色は、彼ならどう思うだろう」
そう考えながら、ベランダでファインダーを覗く僕がいた。
写真部で受けた呪いのような言葉よりも、HAKUがくれた静かな肯定の言葉の方が、僕の中ではるかに大きく、確かな重みを持つようになっていた。
いつか、外の景色を。
僕の部屋の窓から見える四角く切り取られた世界ではなく、もっと広くて、風の吹く場所の写真を撮って、彼に見せたい。
そんな小さな願いが、僕の胸の奥で芽生え始めていた。
