その店を見つけたのは、本当に偶然だった。
梅雨の合間に、珍しく雨雲が途切れ、抜けるような青空が広がった日があった。本来なら喜ぶべき晴れ間なのかもしれないけれど、その日の僕にとって、雲の隙間から降り注ぐ初夏の陽光は、あまりにも眩しすぎた。
部屋の薄暗さに慣れきってしまった網膜に、窓ガラスを越えて入り込んでくる光はひどく鋭く感じられた。空気中の細かな埃までが光の粒を反射してきらきらと舞い、部屋の隅々にまで影の境界線をくっきりと引いていく。その鮮明なコントラストが、なぜかひどく息苦しかった。隠れていたかった。自分の輪郭ごと、曖昧なグレーのグラデーションの中に溶け込ませてしまいたかったのに、光はそれを許してくれない。
このままこの四角い部屋に閉じこもって光に炙られ続けていたら、おかしくなってしまうかもしれない。そんな、根拠のない焦燥感に急き立てられるようにして、僕はしぶしぶと立ち上がった。
クローゼットから、なるべく色のない、目立たない服を選んで袖を通す。外に出る気分では到底なかったけれど、この息の詰まるような明るさから逃げ出さなければならないという防衛本能だけが、重い足を動かしていた。
行く当てなんて、もちろん一つもなかった。ただ歩く。マンションを出て、見慣れたはずの、けれど今の僕にはひどくよそよそしく感じられる静かな住宅街を。
太陽の光を避けるように、建物の陰影に沿って進む。人がなるべく少ない方向、大きな通りから外れる方向へと、無意識に足が向かっていた。
度の強い分厚い黒縁眼鏡の奥で、街の輪郭は容赦なくクリアに結像する。葉脈のすじ、アスファルトのひび割れ、すれ違う自転車のスポークのきらめき。見えすぎる世界は、時として僕の許容量をいとも簡単に超えてしまう。特にしんどいのは、人の顔だ。すれ違う見知らぬ人々の表情、視線の動き、微細な筋肉の収縮。それらがはっきりと見えてしまうと、僕はそこに勝手に感情を読み取ってしまう。「こんな平日の昼間に歩いている高校生を、不審に思っているのではないか」「だらしない格好だと笑われているのではないか」。誰の口も動いていないのに、視線が交差するほんの一瞬で、無数の刃のような言葉が僕の体を貫いていくような錯覚に陥る。
だから僕は、ひたすら足元だけを見つめ、なるべく人通りの少ない、細く入り組んだ路地を選んで歩き続けた。
どれくらい歩いたのだろう。ふと、周囲の空気が少しだけ変わった気がした。
車のエンジン音も、遠くの喧騒も、まるで分厚い布越しに聞いているようにくぐもって聞こえる。古いレンガの塀と、蔦の絡まるアパートに挟まれた、ひらがなの「く」の字のように曲がった細い路地。
そこで僕は、ふわりと漂ってきた温かい匂いに足を止めた。
それは、ひどく甘く、どこか懐かしい匂いだった。揚げたての生地の香ばしさと、熱で溶けかけた砂糖の匂い、それにほんの少しのバターの風味。嗅覚から直接記憶の奥底にある安心感に触れてくるような、優しくて丸い匂い。
匂いの糸をたぐるように路地の奥へと進むと、どんづまりの手前に、ひっそりと息を潜めるようにしてその小さな店はあった。
『Amber Days』
古びた、けれど丁寧に磨き込まれた木製の看板に、流れるようなシンプルな筆記体で店名が彫り込まれている。アンバー・デイズ。琥珀色の日々。
アンティーク調の深い焦げ茶色のドアは、初夏の風を入れるためか半分ほど開け放たれており、そこから、オレンジ色を帯びた白熱灯の温かみのある光が、路地のアスファルトに向かって四角く零れ落ちていた。通りに面した大きなすりガラスの窓越しに、三つ、四つほどの小さなテーブルが並んでいるのがぼんやりと透けて見える。
僕は、まるで魔力にでも吸い寄せられるかのように、その光の入り口へと近づいていった。
学校に行けなくなってからというもの、誰かと関わるかもしれない店舗に入るなんてことは極力避けてきた。コンビニでさえ、人が少ない深夜を選ぶくらいだ。理性では「もし混んでいたら嫌だ」「誰かに見られたらどうしよう」という警鐘が鳴り響いていたけれど、そっと店内を覗き込んでみると、客は一人しかいなかった。窓際の一番明るい席で、上品な身なりの年配の女性が、文庫本に目を落としながら静かにコーヒーを飲んでいるだけだった。
あの匂いの源に、もう少しだけ近づきたい。
僕は小さく息を吸い込み、少しだけ震える手で、真鍮のドアノブに触れた。ゆっくりと扉を引く。
カラン、コロン。
頭上で、真鍮のベルが控えめで澄んだ音を立てた。耳障りな電子音とは違う、空気を優しく揺らすような響き。
「いらっしゃいませ」
音の余韻に重なるように、カウンターの奥から静かな声が響き、ひとりの人が姿を現した。
僕は思わず呼吸を止め、目を瞬かせた。
そこに立っていたのは、僕と同い年か、あるいは少し年下に見える男の子だった。清潔感のある白いシャツに、深いコーヒー色のエプロンをきっちりと身につけている。背が高く、姿勢が驚くほど良い。
なにより目を引いたのは、その顔立ちだった。
さらりとした、癖のない黒髪が額にかかり、その下には涼やかな切れ長の瞳が静かに佇んでいる。すっと通った鼻筋、薄く引き結ばれた形の良い唇。全体的に色素が薄く、どこか人間離れした、美術館に飾られている大理石の彫刻のような、冷たくて透き通った美しさがあった。もし彼が僕の通う高校にいたら、間違いなく全校生徒の噂の的になっているだろう。それほどまでに、彼は周囲の風景から浮き立つような特異な引力を持っていた。
しかし、不思議と圧迫感はなかった。
僕がドアの前で立ち尽くしていると、彼と視線が交差した。その瞬間、彼の切れ長の瞳がわずかに見開かれ、微かに眉が上がった。それは「変な客が来た」というような警戒や、値踏みするような驚きではなかった。まるで、ずっと探していた何かをようやく見つけたかのような、あるいは、不意に落ちてきた花びらを確認するような、ひどく静かで熱を帯びた表情だった。
窓からの光を受けた彼の瞳の奥が、透き通った茶色から、とろけるような琥珀色へと鮮やかに色を変えたのを、僕は確かに見た。
彼は僕の顔を、そして全身を、ほんの数秒だけじっと見つめ、それからごく自然に、何事もなかったかのようにすっと視線を外した。
「お好きな席にどうぞ。ご注文はカウンターでも、お席でも承ります」
低くて、よく通る声だった。落ち着き払っていて、高校生らしからぬ静謐さが滲んでいる。
僕は彼から視線を外し、きょろきょろと不審者のように店内を見回した。
こぢんまりとした、居心地の良い空間だった。床は使い込まれた無垢材で、歩くたびに微かに軋む音がする。テーブルが六卓ほど、ゆったりとした間隔を空けて配置されていた。
壁には、写真や絵がいくつも飾られていた。誰かが旅先で撮ったらしいモノクロの風景写真、水彩で描かれた植物のスケッチ、古い映画の小さなポスター。統一感はまったくないのに、それがかえって、長い時間をかけて大切に集められた宝箱の中身のように見えて、僕の凝り固まっていた心を不思議と解きほぐしてくれた。
「あの……奥の、端の席でもいいですか」
僕は、入り口から一番遠い、壁に囲まれた隅の席を指差した。外の路地からは死角になっていて見えにくく、少し引っ込んだ窪みのような場所にある、小さな二人掛けのテーブル。そこなら、誰の目にも触れずに、静かに息を潜めていられそうだったから。
男の子は、僕の指した席に視線をやり、それから再び僕の顔を見た。
「こんな暗い席でいいのか」とか「他も空いているのに」とか、何か言われるかもしれないと身構えた僕の予想に反して、彼は静かに、ただ一度だけ深く頷いた。
「どうぞ。……あそこ、一番落ち着く席ですよ」
それは、ただの接客の相槌ではなかった。僕がなぜその席を選んだのか、僕が何を恐れてそこに隠れようとしているのかを、すべて見透かした上での言葉のように聞こえた。値踏みするわけでもなく、過剰な同情を寄せるわけでもない。踏み込みすぎないけれど、決して冷たく突き放すわけではない、絶妙な温度を持った肯定。
「ありがとうございます」と小さく呟いて、僕は逃げ込むようにおずおずとその席に座った。
壁を背にして座ると、視界には店内の大部分が収まる。けれど、手前にある観葉植物と柱のせいで、僕自身の姿は空間から切り離されたように目立たない。まるで、透明人間になって世界を安全な場所から観察しているような気分だった。確かに、ここは一番落ち着く席だ。どうして彼は、僕がこういう場所を求めていると一瞬で分かったのだろう。
テーブルの上に置かれていたメニューを開く。
厚手の手漉き紙のような質感のページには、万年筆で書かれたような美しい文字で、ドーナツの種類がたくさん並んでいた。
定番のプレーングレイズド、艶やかなチョコレートグレイズド、雪のように白いシュガーパウダー、鮮やかな赤色が目を引くフランボワーズ、深緑の抹茶……。それぞれのドーナツの横には、小さなポラロイド写真のようなプリントが添えられていて、丁寧な説明書きが添えられている。ただのメニュー表というよりは、誰かの個人的な日記やスクラップブックを読んでいるようで、見ているだけで少しだけ心が浮き立つような気がした。
ドリンクは、数種類のコーヒーと紅茶、それにホットミルクがあった。
「お決まりでしょうか」
ふと、カウンターから声がかかった。
顔を上げると、男の子が控えめな距離を保ったまま、こちらを見ていた。急かすような素振りは微塵もなく、ただ静かに僕の言葉を待っている。
「あ、えっと……シュガーグレイズドと、ホットミルクをお願いします」
緊張で少し上擦った声が出てしまった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼は静かに一礼すると、それだけでカウンターの奥へと引っ込んだ。愛想笑いも、世間話も、余計な言葉は一切ない。それが、今の僕にはひどくありがたかった。他人とのコミュニケーションにおいて、相手の感情の揺れ動きを過剰に受信してしまう僕にとって、彼の波風の立たない静かな佇まいは、ノイズキャンセリングのヘッドホンをつけているような安らぎを与えてくれた。
僕は壁に飾られた写真をぼんやりと眺めながら、自分自身の体の力をゆっくりと抜いていった。
今日、あの眩しすぎる部屋から一歩外に出てからずっと、自分がいかに極度の緊張状態にあったのかに気づかされた。肩は耳につくほど高く上がり、奥歯を強く噛み締め、呼吸は喉の浅いところでだけで繰り返されていた。
でも、この椅子に座り、壁に背中を預けてからは、強張っていた筋肉の繊維が一本一本ほぐれていくような感覚があった。店内に静かに流れる、ピアノとチェロのインストゥルメンタル。時折聞こえる、年配の女性が文庫本のページをめくる音。
しばらくして、カウンターから微かな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
男の子が、僕のテーブルに静かにトレイを置いた。
その所作が、あまりにも美しくて、僕は思わず目を奪われた。白く長い指先が、グラスや皿の縁にそっと触れ、音を立てることなくテーブルの中央へと滑らせていく。計算し尽くされたような無駄のない動き。
「シュガーグレイズド・ドーナツと、ホットミルクです。どうぞ」
白い陶器の皿の中央に鎮座する、きつね色に揚がったドーナツ。その表面を覆う砂糖の薄いコーティングが、窓から差し込む光を受けて、まるで薄氷のようにキラキラと乱反射している。その横には、両手で包み込めるほどの丸みを帯びた白いマグカップ。ふわりと立ち上る湯気が、ミルク特有の甘く優しい香りを運んできた。
テーブルの上に作り出されたその小さな景色があまりにも完璧で、僕は思わず「わあ……」と小さな声を漏らしていた。
「……きれいですね」
言葉に出してから、しまった、と後悔した。男同士で、しかも高校生が、ドーナツを見て「きれい」だなんて、気持ち悪いと思われたかもしれない。顔がカッと熱くなるのを感じた。
しかし、男の子は馬鹿にするでもなく、笑うでもなく、ただ何も言わずに僕の手元を見つめていた。そして、ほんのわずかに、本当に気づかないくらい微かに目を細めた。それが、彼なりの喜びの表現なのか、ただの無表情の揺らぎなのか、僕には判別できなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
彼はそれだけを言い残し、足音も立てずにカウンターへと戻っていった。
僕はしばらくドーナツを眺めた後、両手でそっとマグカップを包み込み、顔を近づけた。温かい湯気が眼鏡のレンズを白く曇らせる。ゆっくりと一口飲む。
適切な温度に温められたミルクは、驚くほど滑らかだった。ほんの少しだけ、砂糖か蜂蜜が加えられているのか、かすかで上品な甘みが舌の上に広がる。冷え切って強張っていた胃の腑に、その温もりがじんわりと落ちていき、体の芯からじわじわと体温が上がっていくのが分かった。
続いて、ドーナツを手に取る。指先に伝わる、揚げたての微かな熱。
そっと一口かじりつくと、サクッ、という心地よい音を立てて、表面のシュガーグレイズが砕けた。その直後、中の生地のふんわりとした柔らかさが歯を包み込む。油っこさはまったくなく、生地自体の素朴な甘さと、コーティングされた砂糖の濃厚な甘さが口の中で見事に溶け合った。
美味しい。
心から、そう思った。
学校に行けなくなってから、僕にとって食事はただの「生命維持のための作業」でしかなかった。一人きりの部屋で食べる冷たいご飯やインスタント食品は、何を口に入れても味がぼやけていて、砂か粘土を噛んでいるような虚しさしかなかった。
でも今、このドーナツの確かな甘さは、死んだようになっていた僕の味覚を優しく叩き起こし、脳の奥深くまで直接届いているような気がした。美味しいものを食べて、幸せだと感じる。そんな当たり前の人間らしい感覚を取り戻せたことが、涙が出るほど嬉しかった。
入り口のドアの隙間から差し込む西日が、時間が経つにつれて徐々に角度を変え、古い木のテーブルの上に細長く傾いた影を作っていく。空気中を漂う埃が、光の帯の中でゆっくりと踊っている。
僕はドーナツを少しずつかじり、ミルクを飲みながら、その光と影のゆっくりとした移ろいを、ただじっと目で追っていた。
こういう時間が、好きだ。
誰かに何かを証明する必要もなく、何者かにならなければならないというプレッシャーもなく、ただ光の動きを見つめていて許される時間。学校のこと、同級生からのメッセージ、写真部での出来事、遠く離れた両親。そういった僕をがんじがらめにしているあらゆる思考から切り離された、空白の、けれど確かに満たされた時間。
カウンターの向こうでは、男の子が何かを片付けている音がした。グラスを拭くキュッという音、エスプレッソマシンの低い唸り声。すべてが静かで、丁寧で、この空間の穏やかな空気を乱すものは何もなかった。
ドーナツを最後の一口まで食べ終え、マグカップの底に残ったミルクを飲み干した時、僕の心の中にある衝動が湧き上がっていた。
「……すみません」
気づいた時には、声が出ていた。
布巾でエスプレッソマシンを磨いていた男の子の手が止まり、彼が静かにこちらを振り向いた。琥珀色の瞳が、まっすぐに僕を捉える。
僕は、無意識に左の耳たぶをきゅっとつまんでいた。心臓の音が急に大きくなる。
「あ、あの。……ここ、また来てもいいですか」
自分でも、なんて馬鹿なことを聞いているんだろうと思った。また来ていいかどうかなんて、客が店員に確認することではない。店は開いていて、来たい客が来ればいいだけの話だ。
でも、僕にはどうしてもそれを彼自身の口から確認したかった。
ここは、僕にとってあまりにも居心地が良すぎた。だからこそ怖かった。こんなに安全で、甘い匂いがして、誰も僕を傷つけない場所が、僕のような逃げ出してばかりの人間に許されているはずがないのではないか。明日来たら「あなたのような暗い人間は来ないでくれ」と追い出されるのではないか。そんな不安が、胸の奥で黒い染みのように広がっていた。
男の子は、僕のその不器用で滑稽な問いかけに対して、少しの間、無言のまま僕を見つめ返した。
その数秒間が、僕には永遠のように感じられた。
やがて、彼は持っていた布巾をカウンターに置き、僕に向かって少しだけ体を向けた。
「もちろんです。……いつでも、お待ちしています」
彼の声は、どこまでもフラットで、静かだった。僕の唐突な質問を笑うこともなく、過剰な歓迎の言葉を並べ立てることもなく、ただ事実として、僕がここに戻ってくることを完全に肯定してくれた。
否定しない。驚かない。ただ、いつでも来ていいと、その低い声が告げてくれた。
その言葉が、僕の胸の奥の、ずっと冷え切っていた一番柔らかい場所に、すとんと落ちた。
「……ありがとうございます」
それほど大層なやり取りをしたわけでもないのに、なぜか目の奥がじんわりと熱くなった。おかしいな、僕はそんなに泣き虫だったかな。そう思いながら、僕は空になったマグカップの縁を指先でそっと撫でた。
◇
その日を境に、僕は時々「アンバー・デイズ」に足を運ぶようになった。
週に二、三度。時計の針が午後四時を回り、街に夕暮れの気配が漂い始めるころ。昼間の活気が少し落ち着き、仕事帰りの客がやって来る前の、ぽっかりと空いた凪のような時間帯を狙って。
部屋にいて息苦しくなると、僕は逃げ込むようにあの路地裏へ向かった。ドアベルを鳴らし、甘い匂いの充満する空間に入ると、決まって僕は同じ席に座った。一番奥の、壁際の、少し窪んだあの席。そこが僕の指定席のようになっていた。
男の子は、いつもカウンターの中にいた。
彼が僕以外の他の客と話しているのを見る機会もあったけれど、彼の接客は誰に対しても完璧で、無駄がなく、そして常に一定の距離を保っていた。決して馴れ合いにはならず、冷たすぎることもない。まるで、精密に設計された美しい機械のように、彼はその空間を支配し、整えていた。
僕が彼と言葉を交わすのは、注文の時と、帰る時の挨拶くらいだった。それでも、僕が席に着くと、僕が何も言わなくても、少しだけ砂糖を多めに入れた熱いホットミルクが運ばれてくるようになった。彼は「いつものですね」なんて野暮な確認はせず、ただ無言で完璧な温度のそれを僕の前に置いていった。
彼の名前を聞いたのは、三度目に店に行った時のことだった。
いつものようにドーナツを食べ終え、帰る準備をしている時。カウンターでグラスを拭いている彼の横顔を見ながら、僕は唐突にそう思ったのだ。
毎回「ありがとうございます」「ごちそうさまでした」と言って別れているのに、僕にこの居場所を与えてくれている彼の名前を知らないのが、なんとなくずっと不自然な気がして。
「あの……」
僕が声をかけると、彼は手を止め、グラス越しにこちらを見た。
「……な、名前、聞いてもいいですか」
自分から他人に名前を聞くなんて、いつぶりだろう。鼓動が少し速くなるのを感じながら、僕は絞り出すようにそう言った。
男の子は、僕の言葉に少し驚いたように微かに眉を上げ、それから、ほんの少しだけ、本当にわずかに、口の端に何かの感情がよぎったように見えた。
「琥珀、廉です」
彼は静かに答えた。
「琥珀糖の『琥珀』に、清廉潔白の『廉』で、こはくれん」
「こはく、さん……」
僕がその響きを口の中で転がすように呟くと、彼はすぐに言葉を継いだ。
「廉でいいですよ。……俺も、名前を聞いていいですか」
彼の言葉は丁寧だったけれど、そこには有無を言わせないような不思議な強さがあった。
「澄空、奏多。……すずら、かなた、です」
僕が答えると、彼はその名前を記憶の底に刻み込むかのように、ゆっくりと復唱した。
「すずら、かなた。……奏多、先輩」
当たり前のように、ごく自然に僕の言葉の後に付け足された『先輩』という呼称に、僕は少し驚いて彼を見た。
「廉くんは……何年生なの?」
「高校一年です」
「そっか……じゃあ、僕が二年だから」
「はい。ですから、奏多先輩です」
廉の表情は相変わらず静かで、波一つ立っていないように見えたけれど、その「奏多先輩」という発音には、どこか意図的な、ひどく大切にその言葉を扱っているような、不思議な重みがあるように感じられた。言わなければならないから言ったのではなく、ずっと前からそう呼びたかったから呼んだ、みたいな。
「もしかして……同じ学校?」
「南陽高校ですよね」
僕の通う高校の名前を彼が口にした時、少しだけ背筋が冷たくなった。なんで知っているのだろう。でも、このアンバー・デイズの近隣にある高校といえば、確かに南陽高校くらいしかなかった。
「廉くんも、南陽?」
「そうです」
じゃあ、同じ学校の後輩なのか、と僕は思った。でも、記憶を探ってみても、彼の顔に見覚えはなかった。こんなに目を引く容姿の生徒がいれば、学校に行けていない僕の耳にすら噂くらいは届きそうなものだけれど。
「学校で、会ったことは……ないよね?」
僕が恐る恐る尋ねると、彼はグラスを拭く手を止め、僕の顔をじっと見つめた。
「俺は、先輩を知っていましたよ」
静かな、けれど断言するような口調。
「先輩が、俺を知らなかっただけで」
さらりと言ってのけた廉の言葉を、僕はどう受け取っていいか分からなかった。一年生が二年生を一方的に知っている。部活? 委員会? いや、僕はどちらでも目立つような存在ではなかったはずだ。
「……そうなんだ」
困惑を隠しきれないまま、僕は短くそう返すのが精一杯だった。
廉は、僕の戸惑いを気にする様子もなく、まるでずっと聞きたかったことをようやく口にするような、そんな間の取り方をして、言葉を続けた。
「先輩、写真が……好きなんですか」
その瞬間、僕の体はビクッと跳ね、肩の筋肉が石のように強張った。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねる。
「……な、なんで」
声が裏返りそうになるのを必死で押さえ込む。呼吸が一気に浅くなった。写真。カメラ。部室。嘲笑。僕の傷口に、直接塩を塗り込まれたような痛みが走る。
「最初に来た日、鞄からフィルムカメラが見えたので」
廉は、僕の明らかな動揺に気づいているはずなのに、声のトーンを一切変えずにそう答えた。
あの日。初めてこの店に来た日。僕はベランダで空を撮った後、一度は棚に戻したカメラをトートバッグに突っ込んで家を出た。きっとバッグの口から、祖父のライカの使い込まれた革のストラップや、銀色の軍艦部が少しだけ覗いていたのだろう。
それを、彼は見ていたのだ。
「……好き、かな。一応」
僕は視線を落とし、テーブルの木目を睨みつけながら、消え入りそうな声で答えた。自己防衛の本能が働き、これ以上踏み込まれないように、曖昧に言葉を濁す。
「一応、じゃなさそうですよ」
しかし、廉は引き下がらなかった。
僕が顔を上げると、カウンター越しの廉の目が、僕を真っ直ぐに捉えていた。あの涼やかな切れ長の瞳の奥に、窓からの光を反射して琥珀色に輝く熱が灯っている。それは、僕の嘘を暴き、心の奥底に隠している本当の感情を引きずり出そうとするような、強い意志を持った眼差しだった。
彼に見つめられていると、僕の薄っぺらい自己防衛の膜など、いとも簡単に見透かされて破られてしまうような気がした。
僕は思わず、逃げるように視線を外した。左の耳たぶを強く握りしめる。
「……そんなことないよ。ただの、暇つぶし」
嘘だ。宝物だ。でも、もう誰にも、僕の宝物を評価されたり、笑われたりしたくなかった。
「そうですか」
僕の拒絶の意志を感じ取ったのか、廉はそれ以上追及しなかった。ただ短くそう言って、再びグラスを磨く作業に戻った。
深追いされないことに安堵したはずなのに。
僕は少しだけ、拍子抜けしている自分に気がついた。
もっと聞いてくれてもいい、と思ったのは何故だろう。いや、絶対に聞かれたくなかったはずだ。写真の話なんて、誰にもしたくない。
でも、なんとなく。本当に根拠のない直感だけれど。
彼になら。僕の世界を笑うことなく、静かに受け止めてくれる彼になら、話してもいいかもしれないと。
一瞬だけ、そんな風に思ってしまった自分がいた。
ただ、僕がその感情を整理して口を開く前に、廉が引いてしまった。その絶妙な距離の取り方が、彼らしいといえば彼らしかった。
僕は少しぬるくなったホットミルクを飲みながら、口の中に残る甘さと、胸の奥で燻る名前のない感情の残滓を、ぼんやりと噛み締めていた。窓の外では、いつの間にか太陽が沈みかけ、路地裏の空を鈍い茜色に染め始めていた。
梅雨の合間に、珍しく雨雲が途切れ、抜けるような青空が広がった日があった。本来なら喜ぶべき晴れ間なのかもしれないけれど、その日の僕にとって、雲の隙間から降り注ぐ初夏の陽光は、あまりにも眩しすぎた。
部屋の薄暗さに慣れきってしまった網膜に、窓ガラスを越えて入り込んでくる光はひどく鋭く感じられた。空気中の細かな埃までが光の粒を反射してきらきらと舞い、部屋の隅々にまで影の境界線をくっきりと引いていく。その鮮明なコントラストが、なぜかひどく息苦しかった。隠れていたかった。自分の輪郭ごと、曖昧なグレーのグラデーションの中に溶け込ませてしまいたかったのに、光はそれを許してくれない。
このままこの四角い部屋に閉じこもって光に炙られ続けていたら、おかしくなってしまうかもしれない。そんな、根拠のない焦燥感に急き立てられるようにして、僕はしぶしぶと立ち上がった。
クローゼットから、なるべく色のない、目立たない服を選んで袖を通す。外に出る気分では到底なかったけれど、この息の詰まるような明るさから逃げ出さなければならないという防衛本能だけが、重い足を動かしていた。
行く当てなんて、もちろん一つもなかった。ただ歩く。マンションを出て、見慣れたはずの、けれど今の僕にはひどくよそよそしく感じられる静かな住宅街を。
太陽の光を避けるように、建物の陰影に沿って進む。人がなるべく少ない方向、大きな通りから外れる方向へと、無意識に足が向かっていた。
度の強い分厚い黒縁眼鏡の奥で、街の輪郭は容赦なくクリアに結像する。葉脈のすじ、アスファルトのひび割れ、すれ違う自転車のスポークのきらめき。見えすぎる世界は、時として僕の許容量をいとも簡単に超えてしまう。特にしんどいのは、人の顔だ。すれ違う見知らぬ人々の表情、視線の動き、微細な筋肉の収縮。それらがはっきりと見えてしまうと、僕はそこに勝手に感情を読み取ってしまう。「こんな平日の昼間に歩いている高校生を、不審に思っているのではないか」「だらしない格好だと笑われているのではないか」。誰の口も動いていないのに、視線が交差するほんの一瞬で、無数の刃のような言葉が僕の体を貫いていくような錯覚に陥る。
だから僕は、ひたすら足元だけを見つめ、なるべく人通りの少ない、細く入り組んだ路地を選んで歩き続けた。
どれくらい歩いたのだろう。ふと、周囲の空気が少しだけ変わった気がした。
車のエンジン音も、遠くの喧騒も、まるで分厚い布越しに聞いているようにくぐもって聞こえる。古いレンガの塀と、蔦の絡まるアパートに挟まれた、ひらがなの「く」の字のように曲がった細い路地。
そこで僕は、ふわりと漂ってきた温かい匂いに足を止めた。
それは、ひどく甘く、どこか懐かしい匂いだった。揚げたての生地の香ばしさと、熱で溶けかけた砂糖の匂い、それにほんの少しのバターの風味。嗅覚から直接記憶の奥底にある安心感に触れてくるような、優しくて丸い匂い。
匂いの糸をたぐるように路地の奥へと進むと、どんづまりの手前に、ひっそりと息を潜めるようにしてその小さな店はあった。
『Amber Days』
古びた、けれど丁寧に磨き込まれた木製の看板に、流れるようなシンプルな筆記体で店名が彫り込まれている。アンバー・デイズ。琥珀色の日々。
アンティーク調の深い焦げ茶色のドアは、初夏の風を入れるためか半分ほど開け放たれており、そこから、オレンジ色を帯びた白熱灯の温かみのある光が、路地のアスファルトに向かって四角く零れ落ちていた。通りに面した大きなすりガラスの窓越しに、三つ、四つほどの小さなテーブルが並んでいるのがぼんやりと透けて見える。
僕は、まるで魔力にでも吸い寄せられるかのように、その光の入り口へと近づいていった。
学校に行けなくなってからというもの、誰かと関わるかもしれない店舗に入るなんてことは極力避けてきた。コンビニでさえ、人が少ない深夜を選ぶくらいだ。理性では「もし混んでいたら嫌だ」「誰かに見られたらどうしよう」という警鐘が鳴り響いていたけれど、そっと店内を覗き込んでみると、客は一人しかいなかった。窓際の一番明るい席で、上品な身なりの年配の女性が、文庫本に目を落としながら静かにコーヒーを飲んでいるだけだった。
あの匂いの源に、もう少しだけ近づきたい。
僕は小さく息を吸い込み、少しだけ震える手で、真鍮のドアノブに触れた。ゆっくりと扉を引く。
カラン、コロン。
頭上で、真鍮のベルが控えめで澄んだ音を立てた。耳障りな電子音とは違う、空気を優しく揺らすような響き。
「いらっしゃいませ」
音の余韻に重なるように、カウンターの奥から静かな声が響き、ひとりの人が姿を現した。
僕は思わず呼吸を止め、目を瞬かせた。
そこに立っていたのは、僕と同い年か、あるいは少し年下に見える男の子だった。清潔感のある白いシャツに、深いコーヒー色のエプロンをきっちりと身につけている。背が高く、姿勢が驚くほど良い。
なにより目を引いたのは、その顔立ちだった。
さらりとした、癖のない黒髪が額にかかり、その下には涼やかな切れ長の瞳が静かに佇んでいる。すっと通った鼻筋、薄く引き結ばれた形の良い唇。全体的に色素が薄く、どこか人間離れした、美術館に飾られている大理石の彫刻のような、冷たくて透き通った美しさがあった。もし彼が僕の通う高校にいたら、間違いなく全校生徒の噂の的になっているだろう。それほどまでに、彼は周囲の風景から浮き立つような特異な引力を持っていた。
しかし、不思議と圧迫感はなかった。
僕がドアの前で立ち尽くしていると、彼と視線が交差した。その瞬間、彼の切れ長の瞳がわずかに見開かれ、微かに眉が上がった。それは「変な客が来た」というような警戒や、値踏みするような驚きではなかった。まるで、ずっと探していた何かをようやく見つけたかのような、あるいは、不意に落ちてきた花びらを確認するような、ひどく静かで熱を帯びた表情だった。
窓からの光を受けた彼の瞳の奥が、透き通った茶色から、とろけるような琥珀色へと鮮やかに色を変えたのを、僕は確かに見た。
彼は僕の顔を、そして全身を、ほんの数秒だけじっと見つめ、それからごく自然に、何事もなかったかのようにすっと視線を外した。
「お好きな席にどうぞ。ご注文はカウンターでも、お席でも承ります」
低くて、よく通る声だった。落ち着き払っていて、高校生らしからぬ静謐さが滲んでいる。
僕は彼から視線を外し、きょろきょろと不審者のように店内を見回した。
こぢんまりとした、居心地の良い空間だった。床は使い込まれた無垢材で、歩くたびに微かに軋む音がする。テーブルが六卓ほど、ゆったりとした間隔を空けて配置されていた。
壁には、写真や絵がいくつも飾られていた。誰かが旅先で撮ったらしいモノクロの風景写真、水彩で描かれた植物のスケッチ、古い映画の小さなポスター。統一感はまったくないのに、それがかえって、長い時間をかけて大切に集められた宝箱の中身のように見えて、僕の凝り固まっていた心を不思議と解きほぐしてくれた。
「あの……奥の、端の席でもいいですか」
僕は、入り口から一番遠い、壁に囲まれた隅の席を指差した。外の路地からは死角になっていて見えにくく、少し引っ込んだ窪みのような場所にある、小さな二人掛けのテーブル。そこなら、誰の目にも触れずに、静かに息を潜めていられそうだったから。
男の子は、僕の指した席に視線をやり、それから再び僕の顔を見た。
「こんな暗い席でいいのか」とか「他も空いているのに」とか、何か言われるかもしれないと身構えた僕の予想に反して、彼は静かに、ただ一度だけ深く頷いた。
「どうぞ。……あそこ、一番落ち着く席ですよ」
それは、ただの接客の相槌ではなかった。僕がなぜその席を選んだのか、僕が何を恐れてそこに隠れようとしているのかを、すべて見透かした上での言葉のように聞こえた。値踏みするわけでもなく、過剰な同情を寄せるわけでもない。踏み込みすぎないけれど、決して冷たく突き放すわけではない、絶妙な温度を持った肯定。
「ありがとうございます」と小さく呟いて、僕は逃げ込むようにおずおずとその席に座った。
壁を背にして座ると、視界には店内の大部分が収まる。けれど、手前にある観葉植物と柱のせいで、僕自身の姿は空間から切り離されたように目立たない。まるで、透明人間になって世界を安全な場所から観察しているような気分だった。確かに、ここは一番落ち着く席だ。どうして彼は、僕がこういう場所を求めていると一瞬で分かったのだろう。
テーブルの上に置かれていたメニューを開く。
厚手の手漉き紙のような質感のページには、万年筆で書かれたような美しい文字で、ドーナツの種類がたくさん並んでいた。
定番のプレーングレイズド、艶やかなチョコレートグレイズド、雪のように白いシュガーパウダー、鮮やかな赤色が目を引くフランボワーズ、深緑の抹茶……。それぞれのドーナツの横には、小さなポラロイド写真のようなプリントが添えられていて、丁寧な説明書きが添えられている。ただのメニュー表というよりは、誰かの個人的な日記やスクラップブックを読んでいるようで、見ているだけで少しだけ心が浮き立つような気がした。
ドリンクは、数種類のコーヒーと紅茶、それにホットミルクがあった。
「お決まりでしょうか」
ふと、カウンターから声がかかった。
顔を上げると、男の子が控えめな距離を保ったまま、こちらを見ていた。急かすような素振りは微塵もなく、ただ静かに僕の言葉を待っている。
「あ、えっと……シュガーグレイズドと、ホットミルクをお願いします」
緊張で少し上擦った声が出てしまった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼は静かに一礼すると、それだけでカウンターの奥へと引っ込んだ。愛想笑いも、世間話も、余計な言葉は一切ない。それが、今の僕にはひどくありがたかった。他人とのコミュニケーションにおいて、相手の感情の揺れ動きを過剰に受信してしまう僕にとって、彼の波風の立たない静かな佇まいは、ノイズキャンセリングのヘッドホンをつけているような安らぎを与えてくれた。
僕は壁に飾られた写真をぼんやりと眺めながら、自分自身の体の力をゆっくりと抜いていった。
今日、あの眩しすぎる部屋から一歩外に出てからずっと、自分がいかに極度の緊張状態にあったのかに気づかされた。肩は耳につくほど高く上がり、奥歯を強く噛み締め、呼吸は喉の浅いところでだけで繰り返されていた。
でも、この椅子に座り、壁に背中を預けてからは、強張っていた筋肉の繊維が一本一本ほぐれていくような感覚があった。店内に静かに流れる、ピアノとチェロのインストゥルメンタル。時折聞こえる、年配の女性が文庫本のページをめくる音。
しばらくして、カウンターから微かな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
男の子が、僕のテーブルに静かにトレイを置いた。
その所作が、あまりにも美しくて、僕は思わず目を奪われた。白く長い指先が、グラスや皿の縁にそっと触れ、音を立てることなくテーブルの中央へと滑らせていく。計算し尽くされたような無駄のない動き。
「シュガーグレイズド・ドーナツと、ホットミルクです。どうぞ」
白い陶器の皿の中央に鎮座する、きつね色に揚がったドーナツ。その表面を覆う砂糖の薄いコーティングが、窓から差し込む光を受けて、まるで薄氷のようにキラキラと乱反射している。その横には、両手で包み込めるほどの丸みを帯びた白いマグカップ。ふわりと立ち上る湯気が、ミルク特有の甘く優しい香りを運んできた。
テーブルの上に作り出されたその小さな景色があまりにも完璧で、僕は思わず「わあ……」と小さな声を漏らしていた。
「……きれいですね」
言葉に出してから、しまった、と後悔した。男同士で、しかも高校生が、ドーナツを見て「きれい」だなんて、気持ち悪いと思われたかもしれない。顔がカッと熱くなるのを感じた。
しかし、男の子は馬鹿にするでもなく、笑うでもなく、ただ何も言わずに僕の手元を見つめていた。そして、ほんのわずかに、本当に気づかないくらい微かに目を細めた。それが、彼なりの喜びの表現なのか、ただの無表情の揺らぎなのか、僕には判別できなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
彼はそれだけを言い残し、足音も立てずにカウンターへと戻っていった。
僕はしばらくドーナツを眺めた後、両手でそっとマグカップを包み込み、顔を近づけた。温かい湯気が眼鏡のレンズを白く曇らせる。ゆっくりと一口飲む。
適切な温度に温められたミルクは、驚くほど滑らかだった。ほんの少しだけ、砂糖か蜂蜜が加えられているのか、かすかで上品な甘みが舌の上に広がる。冷え切って強張っていた胃の腑に、その温もりがじんわりと落ちていき、体の芯からじわじわと体温が上がっていくのが分かった。
続いて、ドーナツを手に取る。指先に伝わる、揚げたての微かな熱。
そっと一口かじりつくと、サクッ、という心地よい音を立てて、表面のシュガーグレイズが砕けた。その直後、中の生地のふんわりとした柔らかさが歯を包み込む。油っこさはまったくなく、生地自体の素朴な甘さと、コーティングされた砂糖の濃厚な甘さが口の中で見事に溶け合った。
美味しい。
心から、そう思った。
学校に行けなくなってから、僕にとって食事はただの「生命維持のための作業」でしかなかった。一人きりの部屋で食べる冷たいご飯やインスタント食品は、何を口に入れても味がぼやけていて、砂か粘土を噛んでいるような虚しさしかなかった。
でも今、このドーナツの確かな甘さは、死んだようになっていた僕の味覚を優しく叩き起こし、脳の奥深くまで直接届いているような気がした。美味しいものを食べて、幸せだと感じる。そんな当たり前の人間らしい感覚を取り戻せたことが、涙が出るほど嬉しかった。
入り口のドアの隙間から差し込む西日が、時間が経つにつれて徐々に角度を変え、古い木のテーブルの上に細長く傾いた影を作っていく。空気中を漂う埃が、光の帯の中でゆっくりと踊っている。
僕はドーナツを少しずつかじり、ミルクを飲みながら、その光と影のゆっくりとした移ろいを、ただじっと目で追っていた。
こういう時間が、好きだ。
誰かに何かを証明する必要もなく、何者かにならなければならないというプレッシャーもなく、ただ光の動きを見つめていて許される時間。学校のこと、同級生からのメッセージ、写真部での出来事、遠く離れた両親。そういった僕をがんじがらめにしているあらゆる思考から切り離された、空白の、けれど確かに満たされた時間。
カウンターの向こうでは、男の子が何かを片付けている音がした。グラスを拭くキュッという音、エスプレッソマシンの低い唸り声。すべてが静かで、丁寧で、この空間の穏やかな空気を乱すものは何もなかった。
ドーナツを最後の一口まで食べ終え、マグカップの底に残ったミルクを飲み干した時、僕の心の中にある衝動が湧き上がっていた。
「……すみません」
気づいた時には、声が出ていた。
布巾でエスプレッソマシンを磨いていた男の子の手が止まり、彼が静かにこちらを振り向いた。琥珀色の瞳が、まっすぐに僕を捉える。
僕は、無意識に左の耳たぶをきゅっとつまんでいた。心臓の音が急に大きくなる。
「あ、あの。……ここ、また来てもいいですか」
自分でも、なんて馬鹿なことを聞いているんだろうと思った。また来ていいかどうかなんて、客が店員に確認することではない。店は開いていて、来たい客が来ればいいだけの話だ。
でも、僕にはどうしてもそれを彼自身の口から確認したかった。
ここは、僕にとってあまりにも居心地が良すぎた。だからこそ怖かった。こんなに安全で、甘い匂いがして、誰も僕を傷つけない場所が、僕のような逃げ出してばかりの人間に許されているはずがないのではないか。明日来たら「あなたのような暗い人間は来ないでくれ」と追い出されるのではないか。そんな不安が、胸の奥で黒い染みのように広がっていた。
男の子は、僕のその不器用で滑稽な問いかけに対して、少しの間、無言のまま僕を見つめ返した。
その数秒間が、僕には永遠のように感じられた。
やがて、彼は持っていた布巾をカウンターに置き、僕に向かって少しだけ体を向けた。
「もちろんです。……いつでも、お待ちしています」
彼の声は、どこまでもフラットで、静かだった。僕の唐突な質問を笑うこともなく、過剰な歓迎の言葉を並べ立てることもなく、ただ事実として、僕がここに戻ってくることを完全に肯定してくれた。
否定しない。驚かない。ただ、いつでも来ていいと、その低い声が告げてくれた。
その言葉が、僕の胸の奥の、ずっと冷え切っていた一番柔らかい場所に、すとんと落ちた。
「……ありがとうございます」
それほど大層なやり取りをしたわけでもないのに、なぜか目の奥がじんわりと熱くなった。おかしいな、僕はそんなに泣き虫だったかな。そう思いながら、僕は空になったマグカップの縁を指先でそっと撫でた。
◇
その日を境に、僕は時々「アンバー・デイズ」に足を運ぶようになった。
週に二、三度。時計の針が午後四時を回り、街に夕暮れの気配が漂い始めるころ。昼間の活気が少し落ち着き、仕事帰りの客がやって来る前の、ぽっかりと空いた凪のような時間帯を狙って。
部屋にいて息苦しくなると、僕は逃げ込むようにあの路地裏へ向かった。ドアベルを鳴らし、甘い匂いの充満する空間に入ると、決まって僕は同じ席に座った。一番奥の、壁際の、少し窪んだあの席。そこが僕の指定席のようになっていた。
男の子は、いつもカウンターの中にいた。
彼が僕以外の他の客と話しているのを見る機会もあったけれど、彼の接客は誰に対しても完璧で、無駄がなく、そして常に一定の距離を保っていた。決して馴れ合いにはならず、冷たすぎることもない。まるで、精密に設計された美しい機械のように、彼はその空間を支配し、整えていた。
僕が彼と言葉を交わすのは、注文の時と、帰る時の挨拶くらいだった。それでも、僕が席に着くと、僕が何も言わなくても、少しだけ砂糖を多めに入れた熱いホットミルクが運ばれてくるようになった。彼は「いつものですね」なんて野暮な確認はせず、ただ無言で完璧な温度のそれを僕の前に置いていった。
彼の名前を聞いたのは、三度目に店に行った時のことだった。
いつものようにドーナツを食べ終え、帰る準備をしている時。カウンターでグラスを拭いている彼の横顔を見ながら、僕は唐突にそう思ったのだ。
毎回「ありがとうございます」「ごちそうさまでした」と言って別れているのに、僕にこの居場所を与えてくれている彼の名前を知らないのが、なんとなくずっと不自然な気がして。
「あの……」
僕が声をかけると、彼は手を止め、グラス越しにこちらを見た。
「……な、名前、聞いてもいいですか」
自分から他人に名前を聞くなんて、いつぶりだろう。鼓動が少し速くなるのを感じながら、僕は絞り出すようにそう言った。
男の子は、僕の言葉に少し驚いたように微かに眉を上げ、それから、ほんの少しだけ、本当にわずかに、口の端に何かの感情がよぎったように見えた。
「琥珀、廉です」
彼は静かに答えた。
「琥珀糖の『琥珀』に、清廉潔白の『廉』で、こはくれん」
「こはく、さん……」
僕がその響きを口の中で転がすように呟くと、彼はすぐに言葉を継いだ。
「廉でいいですよ。……俺も、名前を聞いていいですか」
彼の言葉は丁寧だったけれど、そこには有無を言わせないような不思議な強さがあった。
「澄空、奏多。……すずら、かなた、です」
僕が答えると、彼はその名前を記憶の底に刻み込むかのように、ゆっくりと復唱した。
「すずら、かなた。……奏多、先輩」
当たり前のように、ごく自然に僕の言葉の後に付け足された『先輩』という呼称に、僕は少し驚いて彼を見た。
「廉くんは……何年生なの?」
「高校一年です」
「そっか……じゃあ、僕が二年だから」
「はい。ですから、奏多先輩です」
廉の表情は相変わらず静かで、波一つ立っていないように見えたけれど、その「奏多先輩」という発音には、どこか意図的な、ひどく大切にその言葉を扱っているような、不思議な重みがあるように感じられた。言わなければならないから言ったのではなく、ずっと前からそう呼びたかったから呼んだ、みたいな。
「もしかして……同じ学校?」
「南陽高校ですよね」
僕の通う高校の名前を彼が口にした時、少しだけ背筋が冷たくなった。なんで知っているのだろう。でも、このアンバー・デイズの近隣にある高校といえば、確かに南陽高校くらいしかなかった。
「廉くんも、南陽?」
「そうです」
じゃあ、同じ学校の後輩なのか、と僕は思った。でも、記憶を探ってみても、彼の顔に見覚えはなかった。こんなに目を引く容姿の生徒がいれば、学校に行けていない僕の耳にすら噂くらいは届きそうなものだけれど。
「学校で、会ったことは……ないよね?」
僕が恐る恐る尋ねると、彼はグラスを拭く手を止め、僕の顔をじっと見つめた。
「俺は、先輩を知っていましたよ」
静かな、けれど断言するような口調。
「先輩が、俺を知らなかっただけで」
さらりと言ってのけた廉の言葉を、僕はどう受け取っていいか分からなかった。一年生が二年生を一方的に知っている。部活? 委員会? いや、僕はどちらでも目立つような存在ではなかったはずだ。
「……そうなんだ」
困惑を隠しきれないまま、僕は短くそう返すのが精一杯だった。
廉は、僕の戸惑いを気にする様子もなく、まるでずっと聞きたかったことをようやく口にするような、そんな間の取り方をして、言葉を続けた。
「先輩、写真が……好きなんですか」
その瞬間、僕の体はビクッと跳ね、肩の筋肉が石のように強張った。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねる。
「……な、なんで」
声が裏返りそうになるのを必死で押さえ込む。呼吸が一気に浅くなった。写真。カメラ。部室。嘲笑。僕の傷口に、直接塩を塗り込まれたような痛みが走る。
「最初に来た日、鞄からフィルムカメラが見えたので」
廉は、僕の明らかな動揺に気づいているはずなのに、声のトーンを一切変えずにそう答えた。
あの日。初めてこの店に来た日。僕はベランダで空を撮った後、一度は棚に戻したカメラをトートバッグに突っ込んで家を出た。きっとバッグの口から、祖父のライカの使い込まれた革のストラップや、銀色の軍艦部が少しだけ覗いていたのだろう。
それを、彼は見ていたのだ。
「……好き、かな。一応」
僕は視線を落とし、テーブルの木目を睨みつけながら、消え入りそうな声で答えた。自己防衛の本能が働き、これ以上踏み込まれないように、曖昧に言葉を濁す。
「一応、じゃなさそうですよ」
しかし、廉は引き下がらなかった。
僕が顔を上げると、カウンター越しの廉の目が、僕を真っ直ぐに捉えていた。あの涼やかな切れ長の瞳の奥に、窓からの光を反射して琥珀色に輝く熱が灯っている。それは、僕の嘘を暴き、心の奥底に隠している本当の感情を引きずり出そうとするような、強い意志を持った眼差しだった。
彼に見つめられていると、僕の薄っぺらい自己防衛の膜など、いとも簡単に見透かされて破られてしまうような気がした。
僕は思わず、逃げるように視線を外した。左の耳たぶを強く握りしめる。
「……そんなことないよ。ただの、暇つぶし」
嘘だ。宝物だ。でも、もう誰にも、僕の宝物を評価されたり、笑われたりしたくなかった。
「そうですか」
僕の拒絶の意志を感じ取ったのか、廉はそれ以上追及しなかった。ただ短くそう言って、再びグラスを磨く作業に戻った。
深追いされないことに安堵したはずなのに。
僕は少しだけ、拍子抜けしている自分に気がついた。
もっと聞いてくれてもいい、と思ったのは何故だろう。いや、絶対に聞かれたくなかったはずだ。写真の話なんて、誰にもしたくない。
でも、なんとなく。本当に根拠のない直感だけれど。
彼になら。僕の世界を笑うことなく、静かに受け止めてくれる彼になら、話してもいいかもしれないと。
一瞬だけ、そんな風に思ってしまった自分がいた。
ただ、僕がその感情を整理して口を開く前に、廉が引いてしまった。その絶妙な距離の取り方が、彼らしいといえば彼らしかった。
僕は少しぬるくなったホットミルクを飲みながら、口の中に残る甘さと、胸の奥で燻る名前のない感情の残滓を、ぼんやりと噛み締めていた。窓の外では、いつの間にか太陽が沈みかけ、路地裏の空を鈍い茜色に染め始めていた。
