澄める空は琥珀に溶ける

昨日の、まるで世界の終わりかと思うような土砂降りのゲリラ豪雨が嘘だったかのように、その日の朝は、突き抜けるような群青色の空とともにやってきた。

遮光カーテンのわずかな隙間から差し込む朝日が、フローリングの床に鋭い光の線を引いている。空気中の細かな埃が、その光の帯の中でゆっくりと踊るようにきらめいていた。僕は、まだ少しだけ熱を帯びているシーツの中で、ゆっくりと重い瞼を開けた。

遠くで、蝉の鳴き声がかすかに聞こえる。雨に洗われた街は、すべての輪郭がくっきりと際立ち、空気がひどく澄んでいるように感じられた。

僕はベッドの上で身をよじり、仰向けになって天井の染みをぼんやりと見つめた。
昨日の出来事が、鮮明な映像と、確かな温度を伴って脳裏に蘇ってくる。

冷たい雨の匂い。水たまりを蹴り上げて僕の元へと駆けてきた、彼の足音。濡れた黒いシャツ越しに伝わってきた、火傷しそうなほどの体温と、力強い心臓の鼓動。そして、僕の額にそっと落とされた、ひどく静かで熱い、誓いのようなキスの感触。
無意識のうちに、僕は右手を持ち上げ、昨日彼が唇を押し当てた自分の額にそっと触れていた。
あそこに、彼が来てくれた。現実世界の僕を甘やかしてくれる後輩であり、ネットの向こう側で僕の世界を愛してくれた匿名の理解者でもある、彼が。

『俺だけのものになってください。先輩の全部を、俺にください』

その低く、重い、執着に満ちた声が耳の奥でリフレインするたびに、胸の奥が甘く締め付けられ、心臓が早鐘のように鳴り始める。僕は顔に集まってくる熱をごまかすように、両手で顔を覆ってベッドの上で小さく身悶えした。

昨日はあの雨の中で僕が「廉くんに全部あげる」と答えた後、彼は僕を自分のアパートではなく、僕のマンションまで送り届けてくれた。雨に濡れた僕が風邪を引かないようにと、玄関先で僕の無事を確認すると、「また明日、必ず来ますから」と言い残して、足早に自分の家へと帰っていったのだ。本当は彼もずぶ濡れで冷え切っていたはずなのに、彼は最後まで僕のことしか気にかけていなかった。

ベッドからゆっくりと体を起こし、枕元の分厚い黒縁眼鏡に手を伸ばす。

蔓を開いて耳にかけると、ぼやけていた部屋の輪郭が一気にクリアになった。窓際の棚に目をやる。そこには、昨日僕が雨から必死に守り抜いた、祖父の形見のライカが静かに鎮座している。彼が「先輩に似合っている」と言ってくれた、僕の宝物。カメラは一滴の雨水に濡れることもなく、鈍い銀色の光を放っていた。

僕は、大きく一つ深呼吸をした。

学校に行けなくなってから、朝の光は僕にとって「今日もまた何もできない一日が始まる」という絶望の象徴でしかなかった。けれど、今日の光は違う。僕を否定するものは何もなく、ただ静かに、新しい時間の始まりを祝福してくれているように見えた。

時計の針が午前十時を回った頃。
静まり返った部屋に、ピンポーン、という無機質なインターホンの音が鳴り響いた。
ビクッと肩が跳ねる。心臓の音が、急に耳の奥でうるさく鳴り始めた。

彼だ。彼が来たんだ。

僕は、慌てて洗面所の鏡で自分の顔を確認した。寝癖は直したし、顔も洗った。でも、目の下には昨日泣きすぎたせいの微かな赤みが残っているし、着ているのは何の変哲もない無地のシャツとチノパンだ。こんな冴えない姿で、あんなに綺麗な彼を迎え入れていいのだろうかという不安がよぎる。

それでも、待たせるわけにはいかない。僕は小さく息を吐き出して覚悟を決め、玄関の重いドアノブに手をかけた。

カチャリと鍵を開け、扉を引く。

「……おはようございます、先輩」

夏の強い日差しを背に受けながら、廉が立っていた。
昨日の泥まみれでずぶ濡れだった姿とは打って変わり、今日の彼は完璧に整っていた。白い薄手のシャツに、細身の黒いパンツ。さらりとした黒髪は一糸乱れず、涼やかな切れ長の瞳が、扉を開けた僕を真っ直ぐに捉えている。手には、上品な淡い色の小さな箱が提げられていた。

「あ……おはよう、廉くん。昨日は……その、送ってくれて、ありがとう」

僕がしどろもどろになりながら挨拶をすると、廉は微かに目を細め、ひどく優しい声で言った。

「風邪、引いてませんか。熱はないですか」
「う、うん。大丈夫。すぐにお風呂に入ったから。廉くんこそ、あんなに濡れてたのに……」
「俺は丈夫なので風邪は引きません。……上がっても、いいですか」
「うん。もちろん。散らかってるけど、どうぞ」

僕は慌てて道を譲り、彼を部屋の中へと招き入れた。

彼が靴を脱いで廊下に上がる瞬間、ふわりと、彼特有の清潔な柔軟剤の香りと、かすかに混じる甘い砂糖の匂いが鼻腔をくすぐった。その匂いを嗅いだだけで、僕の体の奥底に眠っていた昨日の記憶の熱が、再びじわりと呼び起こされるのを感じた。



リビングに通すと、廉は手の中の箱をテーブルの隅にそっと置き、ソファの端に腰を下ろした。僕は彼と対角線になるように、少しだけ距離を空けて座った。

静寂が降りてくる。

エアコンの微かな稼働音だけが、部屋の中に響いている。僕は緊張で膝の上に乗せた両手をぎゅっと握りしめ、無意識に左の耳たぶへと手を伸ばしかけた。しかし、その僕の指先を、廉の涼やかな声が引き止めた。

「先輩。……改まって、ちゃんと謝罪させてください」

廉はソファから立ち上がり、僕の目の前まで歩いてくると、なんとそのまま床に膝をつき、僕を見上げるような姿勢をとったのだ。

「えっ、廉くん!?なに、どうしたの、座ってよ……!」

僕が慌てて彼を引き起こそうと手を伸ばしたが、彼はその僕の手をそっと両手で包み込み、決して離そうとはしなかった。彼の長い指が、僕の指先に絡みつくように重なる。

「HAKUとして、ずっと素性を隠して先輩に接触していたこと。先輩を騙すような形になってしまったこと。本当に、すみませんでした」

彼の声には、一片の言い訳も含まれていなかった。ただ純粋な、僕への深い懺悔の念が込められていた。

「廉くん、もういいよ。昨日も言ったでしょ、僕は怒ってない。むしろ、君がHAKUさんでよかったって……」
「俺が、許せないんです」

廉は、琥珀色の瞳に暗く重い光を宿し、僕の言葉を遮った。

「先輩は優しいから、そんな俺の身勝手すら許してくれる。でも、俺の行動の根本にあったのは、ひどく醜くて、傲慢なエゴでした」

廉の親指が、僕の手の甲を優しく、けれど逃げ場を与えないような確かな力で撫でる。

「先輩が、あの写真部の連中の心無い言葉で傷ついて、世界から逃げ出してしまった時。俺は、先輩が他の誰かに救われるのが、死ぬほど嫌だったんです」
「え……」
「学校のカウンセラーでも、遠くにいるご両親でも、他の同級生でもない。先輩のその繊細で綺麗な世界を理解し、肯定し、守り抜くのは、絶対に俺じゃなきゃ嫌だった。……もし先輩が現実の世界で息ができなくなって逃げ場所を探すなら、俺が『アンバー・デイズ』という甘い匂いのする逃避場所を用意する。もし先輩が夜の暗闇に耐えきれずネットの海に助けを求めるなら、俺が『HAKU』という理解者になってその言葉をすべて受け止める」

廉の言葉の端々からこぼれ落ちる、その異常なまでの執着心と、計算し尽くされた支配欲。それは、一歩間違えれば狂気とも呼べるような、重すぎる感情の塊だった。

「先輩の生活のすべてを、先輩の心の逃げ場のすべてを、俺一人の手で独占したかった。先輩が、俺以外の何かに依存し、俺以外の誰かに笑いかける世界線が存在すること自体が、俺にはどうしても許せなかったんです」

彼は、自らの内面にあるそのドロドロとした独占欲を、一切包み隠すことなく僕の目の前にさらけ出した。

「こんな、計算高くて、自分の欲求を満たすために先輩の孤独を利用したような最低な男です。……軽蔑、しましたか」

廉は、僕の反応を恐れるように、少しだけ瞳を揺らして僕を見上げた。あの完璧な彼が、僕という存在を失うことを恐れて、ひどく脆弱な顔をしている。
その顔を見た瞬間、僕の中にあった最後の戸惑いは、完全に霧散して消え去っていた。
怖いなんて、微塵も思わなかった。軽蔑なんて、するはずがなかった。

「……ばかだなぁ、廉くんは」

僕は、彼に握られていない方の手を伸ばし、彼のさらりとした黒髪にそっと触れた。

「軽蔑なんか、するわけないじゃない。……廉くんがそこまでして、僕の世界を守ろうとしてくれていたこと。僕の逃げ道を、全部君自身で塞いで、受け止めてくれようとしていたこと。……それが、どれだけ僕にとっての救いだったか、君には分からないの?」

僕の指先が彼の髪を梳くと、廉は驚いたように息を呑んだ。

「現実で僕に温かいミルクを淹れてくれたのも、ネットで僕の写真に優しい言葉をかけてくれたのも、全部、君一人だった。……僕の世界を肯定し、僕の壊れかけた心を繋ぎ止めてくれたのは、最初から最後まで、廉くんだけだったんだよ」

僕の目から、またしても熱いものが込み上げてくるのが分かった。視界がぼやける。でも、目の前にいる彼の体温だけは、はっきりと感じ取れる。

「……僕も、廉くんが好きなんだ。廉くんが僕にしてくれたこと、全部が愛おしいよ。……廉くんがいなきゃ、僕、もうダメみたいだ」

涙声になりながら、僕は自分の心の中にある想いのすべてを、不器用な言葉にして彼に返した。
その瞬間だった。
廉の瞳の奥で、何かが決定的に弾ける音がしたような気がした。

普段は幾重にも張り巡らされた理性の鎖で厳重に縛り付けられている彼の中の「獣」が、完全に放たれた瞬間。

「……先輩っ」

低く、掠れた声で僕の名前を呼んだかと思うと、廉は床から立ち上がり、僕の体をソファからふわりと抱え上げた。

「えっ、わっ、廉くん!?」

驚いて声を上げる間もなく、僕は彼に抱き抱えられたまま、リビングの隣にある寝室へと一直線に運ばれていた。
そして、そのまま、柔らかいベッドの上へと、乱暴ではないけれど逃げ場のない確かな力で押し倒され、深く沈め込まれた。
背中にスプリングの弾力を感じた直後、僕の上から、彼のがっしりとした大きな体が覆い被さってくる。

「……っ、廉くん、あの……」

僕が抗議の声を上げるより早く、彼の手首が僕の顔の両脇に突き立てられ、完全に退路を断たれた。上から見下ろす廉の顔は、僕の知っている冷静沈着な後輩のものではなく、獲物を絶対に逃がさない捕食者のような、雄の熱情に満ちた顔だった。

「……もう、絶対に許しません」

彼の荒い吐息が、僕の顔にかかる。

「これ以上、先輩が俺以外の誰かのことを考えたり、誰かの言葉で傷ついたりするのは、絶対に許さない。……もう二度と、誰にも先輩を傷つけさせない。先輩の世界は、今日から俺が全部、俺のルールで守ります」

彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

「俺だけのものになってください。……心も、体も、先輩の切り取る世界も、全部」

その言葉とともに、彼の長くて美しい指先が、僕の顔へと伸びてきた。
彼の手は、僕の分厚い黒縁眼鏡の蔓をそっと掴み、極めて慎重に、僕の顔からそれを外した。
視力が絶望的に悪い僕の世界は、眼鏡を外された瞬間、輪郭がすべて溶け出し、曖昧な光のグラデーションへと変貌した。部屋の壁紙の柄も、窓の外の景色も、すべてがぼやけて認識できなくなる。
僕の世界に残された、唯一はっきりと見える輪郭。それは、至近距離にいる廉の顔と、彼から発せられる圧倒的な熱量だけになった。
視覚が奪われたことで、聴覚と触覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。

「……先輩の素顔、儚げで、本当に綺麗だ。眼鏡の奥に隠しておくなんて、もったいないくらい」

彼が、ひどく甘い、とろけるような声で囁く。僕自身は自分の素顔を「美少年」などと思ったことは一度もないけれど、彼にそう言われると、顔から火が出るほど恥ずかしくて、僕はぎゅっと目を閉じた。

「目、開けてください。俺だけを見て」

閉じられた僕の右目のまぶたに、チュッ、と、柔らかな唇が押し当てられた。

「あっ……」

熱い感触に驚いて目を開けると、今度は左目のまぶたに、同じように優しく、吸い付くようなキスが落とされる。僕が過去に流した見えない涙の痕跡を、一つずつ舐め取って浄化していくような、ひどく労りに満ちたキスだった。

「んっ……、廉、くん……」

続いて、彼の唇は僕の頬へと移動した。頬骨のあたり、そして耳たぶ。僕がいつも緊張すると無意識に触ってしまうその場所に、彼が自分の唇を当て、そっと甘噛みをする。

「ひゃっ……だめ、そこ……」

背筋に電流が走ったような感覚になり、僕は体をビクッと震わせてシーツを強く握りしめた。ベッドのシーツが擦れる、微かな、けれどひどく扇情的な音が寝室に響く。
廉の長い指が、僕の髪の毛に滑り込み、根元からゆっくりと梳いていく。頭皮をマッサージするようなその手つきが心地よくて、僕は無意識のうちに彼の腕の中にすり寄るように体を預けていた。

「……先輩。口、開けて」

耳元で低く命じられ、僕がわずかに唇を開いた瞬間。

彼の唇が、僕の唇を完全に塞いだ。

今までの優しいキスとは違う。もっと深く、熱く、僕のすべてを味わい尽くそうとするような、貪欲で甘いキスだった。

「んんっ……、ふ……っ」

舌先が絡み合い、互いの唾液が混ざり合う。甘い砂糖の匂いと、彼特有の香りが僕の鼻腔をいっぱいに満たし、脳髄が痺れて思考が完全に停止していく。酸素が足りなくなって、僕が彼の胸板をトントンと叩くと、彼は少しだけ唇を離し、銀色の糸を引かせながら僕を見下ろした。

「……好きです。狂いそうなほど、愛してます」

言葉の合間に、何度も何度も、啄むような短いキスが降り注ぐ。目元に、鼻筋に、頬に、そして再び唇に。

彼の下に組み敷かれ、徹底的に甘やかされ、愛の言葉を注ぎ込まれる。僕の心の奥底にこびりついていた劣等感や孤独感が、彼の放つ圧倒的な熱量と愛情によって、跡形もなくドロドロに溶かされていくのを感じていた。

どれだけの時間が経ったのか分からない。窓から差し込む太陽の光が少しだけ角度を変えるまで、僕は彼という甘やかな檻の中で、身も心も徹底的に愛でられ、深く、深く沈め込まれていた。



「……先輩、起きてますか」

耳元で優しく囁く声で、僕は微睡みから引き戻された。

乱れたシーツの上で、僕は廉の広い胸に背中を預けるようにして座っていた。彼の長い腕が僕の腰にしっかりと巻き付き、背中から彼の規則正しい心拍が伝わってくる。

「うん……」

僕が小さく返事をすると、廉は僕の肩越しに手を伸ばし、リビングから持ってきたらしいあの小さな箱を、僕たちの目の前に置いた。

「これ、開けてみてください」

言われるがままに、僕は箱の蓋をそっと持ち上げた。
中には、一つずつ丁寧に薄紙に包まれた、少し不格好なドーナツが二つ並んでいた。

「わあ……」

僕は思わず感嘆の声を漏らした。

いつものシュガーグレイズドやシナモンとは違う。ドーナツの表面を覆っているグレーズが、まるで砕いた宝石やガラスの破片のように、キラキラと乱反射して光を放っていたのだ。淡い青色や、透き通った紫色、そして琥珀色の欠片が、アイシングの上に無造作に散りばめられている。

「これ……すごく綺麗」
「俺が試作した、新しいレシピです。……『琥珀糖グレーズ』っていいます」

廉が、僕の耳元で解説してくれた。

「琥珀糖って、あの、寒天とお砂糖で作る和菓子の?」
「それです。それを細かく砕いて、ドーナツのコーティングに乗せてみました」

廉の指が、薄紙ごとドーナツを一つ持ち上げ、僕の口元へと運んできた。

「食べてみてください」

僕は、彼の指先から直接差し出されたドーナツを、少しだけ恥じらいながらも、小さく口を開けてかじりついた。

シャクッ。

外側の琥珀糖が、小気味良い音を立てて砕ける。その瞬間、上品な砂糖の甘さと、ほんのりとしたフルーツの香りが口いっぱいに広がった。そして、噛み進めると、今度は琥珀糖の内側の柔らかなゼリーの食感と、ドーナツの生地のふわふわとした温かさが見事に混ざり合う。

「美味しい……! 外はカリカリなのに、中がすごく柔らかくて、優しい甘さだね」

僕が目を丸くして感想を言うと、廉は僕の背中から顔を覗き込むようにして、微かに口角を上げた。

「……外側は硬くて冷たそうに見えるけど、中身は不器用で、どうしようもなく甘い。……俺の先輩に対する感情みたいだと思って、作りました」

そんなキザなセリフを、真顔で、大真面目に言うものだから、僕は呆れるのを通り越して、顔が真っ赤に茹で上がるのを感じた。

「もー……廉くんって、本当にそういうことサラッと言うよね」
「俺は、非効率な嘘はつきません。事実を述べているだけです」

廉はそう言うと、僕がかじったのと同じドーナツの反対側を、自分の口に運んで小さくかじった。

「うん。……悪くない」

彼がドーナツから唇を離した時、僕の視界の端で何かが光った。
僕の口の端に、琥珀糖の小さな欠片と、砂糖のグレーズがほんの少しだけ付いていたのだ。

「あ、ごめん、僕、口の周りに……」

僕が手で拭おうとした瞬間、廉の手が僕の手首を優しく掴んで制止した。

「そのまま」

彼は低い声で命じると、僕の顔へと身を乗り出した。
そして、彼の長く美しい人差し指が、僕の唇の端に付いた砂糖の欠片を、そっと掬い取るようにして拭った。
僕の唇に触れた彼の指先の微熱。
廉は、僕の目から一切視線を逸らすことなく、僕の砂糖が付いた自分の指先を、ゆっくりと自分の口元へ運び、ペロリと艶やかな舌で舐め取った。

「……っ!」

そのあまりにも色気のある、扇情的な仕草に、僕の心臓は再び限界を突破して爆発しそうになった。

「うん。……すごく甘い」

廉が、琥珀色の瞳を細めて、獲物を味わうように低く笑う。

「もう……廉くんのばか」

僕は限界を迎えて、両手で顔を覆い隠した。彼に徹底的に甘やかされ、愛され、僕の理性はすでに跡形もなく溶け去っていた。



窓の外の太陽が少し高くなり、部屋の中はすっかり明るさを取り戻していた。
ベッドから起き上がり、乱れた服を直し、再び眼鏡をかけた僕は、昨日棚に戻したままになっていた祖父のライカを、そっと両手で持ち上げた。
金属の確かな重み。ファインダー越しに世界を見るための、僕の心臓の一部。

僕は、部屋の真ん中に立つ廉の方へと向き直った。
太陽の光を背に受けて立つ彼は、本当に彫刻のように美しく、完璧で、そして僕にとって世界で一番大切な人だった。

「……廉くん」

僕が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

「明日……」

僕は、カメラを胸の前に抱きしめたまま、少しだけ言葉を区切った。

「明日、このカメラで、廉くんの写真を撮ってもいいかな」

僕がそう尋ねると、廉は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、今まで見たことがないくらい、ひどく優しくて、愛情に満ちた表情で微笑んだ。

「……はい。光栄です」

彼が、静かに頷く。
僕は、大きく一つ深呼吸をした。
彼が僕の閉ざされた世界の扉をこじ開けてくれた。彼が僕の目を覆っていた絶望を取り払ってくれた。
だから、今度は僕自身が、自分の足で一歩を踏み出さなければならない。

「それとね」

僕は、まっすぐに彼の琥珀色の瞳を見つめ返した。

「九月になって、新学期が始まったら……少しだけ、学校に行ってみようかなって、思ってるんだ」

口に出すのは、すごく勇気がいることだった。まだ、写真部の連中の顔を見るのは怖いし、教室の空気に耐えられる自信も完全に復活したわけではない。
でも、逃げているだけじゃ、彼が守ってくれたこの世界に胸を張って立つことができないから。

「最初は、保健室登校とか、放課後に少しだけ顔を出すとか……そんなレベルかもしれないけど。でも、もう一度、外の世界を見てみたいんだ」

僕がそう決意を口にすると。
廉は、長い足でゆっくりと僕に近づき、カメラを抱えていない方の僕の左手を、彼の大さな手でしっかりと、隙間なく包み込むように握りしめた。

「……先輩なら、絶対に大丈夫です」

彼の低い声が、僕の不安をすべて打ち消すように、確かな重量を持って響いた。

「それに、一人で立ち向かわせる気なんてありませんから」

廉は、僕の左手を握ったまま、僕の顔を覗き込み、日が当たって透き通るような琥珀色に輝く瞳を優しく細めた。

「俺がずっと、隣で手、繋いで歩きますよ」

その言葉は、どんな魔法の呪文よりも強力で、僕の心に絶対的な安心感を与えてくれた。

「……どこにも、逃がしませんからね」

「うん。……もう、どこにも逃げないよ」

僕は、彼の握り返す手の力強さに応えるように、ぎゅっと指を絡ませた。
部屋の空気には、まだ彼が持ってきた琥珀糖のドーナツの甘い匂いがふんわりと漂っている。
僕の左手には彼の熱い体温があり、右手には祖父のカメラの確かな重みがある。
ぼやけて、色褪せていた僕の世界は、今、彼という存在によって、鮮やかな琥珀色に優しく溶け出していた。

二人の重なった体温と、甘い匂いと共に。
僕たちの、不器用で、とびきり甘い新しい日常が、今、静かに幕を開けた。