國吉は、ダンス教室まで辞めてしまった。生徒が颯斗一人になってしまったため、もう颯斗のために教室は開けられない、と言われた。12月の最初の週だった。
颯斗は國吉に怒りが湧いて仕方なかった。颯斗のオーディションに國吉がついてきたせいで母をとられ、颯斗は心細い中最終審査に臨んだのだ。母が遅れたことに対し、余分な嘘まで吐かざるをえなかったのだ。それなのに、島に帰ってからは一度も訪ねてこないし、勝手に習い事も辞めている。帰って来た日の病院では気にしてない、と言ったものの、こうなってしまっては気になる。颯斗の心がどうあれ、國吉にはずっと優しく接していたのに。父の代わりに冷たい水で皿を洗いながら、颯斗は苛立ちに任せてスポンジをシンクにたたきつける。
もう國吉のことなどどうでもいい。三月には横浜に戻っていままで通りの生活に戻るのだ。関係が良好になった母と暮らし、本気でアイドルを目指し、父の出向が終わるのを待つ日々があるのだ。こんな島なんてあと四ヶ月で終わりだ。
國吉と喧嘩したらしい、という事だけを悟った父からは度々國吉の様子を一方的に聞かされるが、颯斗は無視し続けた。最終選考にだってきっと落ちている。そしてそれも國吉のせいだ。
「正月は國吉くんが出る行事があるんだが颯斗も見とくか」
年末が近づいた日、父が再び國吉に関わることを話題に出す。颯斗は父と喧嘩などしたくないが、そのしつこさには限界だった。仲直りしてほしいという意思が見え透いている。颯斗は無視を止めて、ぶっきらぼうな相槌を返すことにした。
「なにそれ」
とげとげしい颯斗の返事にもほっとして嬉しそうに眉を下げる可哀そうな父はスマホを見せて動画を再生した。
「だから、なにこれ」
動画には大勢の人の後頭部と仰々しいお宮が写り、開かれた空間で小さな少年が砂の上に座っている。小さい手には不釣り合いに大きい扇子を持ち、静止しているのかと思うほどゆっくりと足や腕を動かしてかろうじて踊っていると判別できた。頭には重そうな飾りをつけ、服も巫女のような仰々しいものを纏っていて、明らかに颯斗の生きる世界とは別のものだ。颯斗は早々にその無音の映像に飽きて、父を睨んだ。
「これ去年の國吉くんだって」
言われずともわかっていた。あの子供は國吉だ。顔なんて映らなくとも、容易に気付けた。
だからなに、と颯斗がどっかりカーペットに座る。島に引っ越して来て以来、父にこんなにひどい態度をとったことは無い。それでも父は怒ったりせず優しく颯斗を誘う。
「國吉くん今年も覡やるらしいから、正月見に行かないか」
「だからそのカンナギってなんなの」
颯斗はあまりに聞きなれないその言葉の響きを忘れてしまっていた。國吉がそう言ったことを覚えている。だが、あとから人に聞こうにもその四音が思い出せなかった。今、父からその四音を聞いて颯斗は國吉に拒絶されたそのやり取りを新鮮に思い出してしまった。とても気分の悪い記憶だ。
「カンナギは……ほら、シャーマンみたいなものだ。別に興味なくたって、友達として見にいくのもいいだろ?」
颯斗にはそのシャーマンさえもいまいち意味が解らなくて苛立ちが収まらない。仲直りを促す父だって満足に説明できていないのだから、颯斗にとってはどうでもいいことだ。
そんな風に突っぱねたのに父は正月に颯斗が一人で留守番することを許さなかった。島の人たちに混じって行事の手伝いをしなくてはならない父は忙しく、家にいる時間は短い。そんな日にひとりで家に残ることなんて今までもあったように思う。だが父はその日に限っては近くにいた方が安全だからと譲らなかった。
結局は父の手伝いまですることになり正月早々颯斗は不機嫌だ。用事がある父について公民館に行き、たくさんの知らない人に新年の挨拶をした。いつもなら大人相手には元気に挨拶できるのに、寒さと眠さと怠さで人見知り者のような返事しかできない。そんな颯斗の様子を疑問に思わず、そこの人たちに颯斗は立派な男手として数えられ、軍手と灯油のポリタンクを押し付けられた。
颯斗とて軟弱なわけでは無いが、それを神社まで運ぶのは大変な距離だ。そもそも颯斗は神社までの正確な道を知らない。ポリタンクを持って、これから神社に向かいそうな人の跡を距離を保ちながら追いかけた。空は雲が一つもなく、颯斗の気持ちと裏腹にすがすがしい。
休み休み道を進んで行けば、颯斗が一度も訪れたことのない神社に辿りつく。周辺の木が申し訳程度に飾られていて、人が行き交っていなければ目的地かどうか確証が持てないほどその神社の入口は道の途中に紛れていた。階段の先を見上げると人の気配があって声も響いている。
長くて急な階段が颯斗を見下ろした。
階段の幅は狭く、途中でポリタンクを置いて休憩するには適していない。できれば一気に駆けあがってしまいたかった。颯斗は覚悟を決めてポリタンクを持ち上げ、階段に一歩踏み入れる。
しかし、一段目に足は乗らなかった。重さにつられて前に屈めた頭が何かにぶつかり弾かれる。颯斗は驚いて顔を上げた。一緒にポリタンクを押し車で運んでくれた人は他所をみていて気付かない。颯斗と同じように階段を登り始めた人はよいしょ、よいしょ、と先に進んでいる。颯斗は特に深く考えることなく、もう一度階段を登ろうとする。今度は自然と足だけを上に上げて、ポリタンクと上半身を後ろに引いてしまう。
音もなく、大した衝撃も無く、ただ確かに颯斗の足が弾かれた。
「っうわ」
大勢を崩した颯斗はポリタンクの重さで後ろに転び、硬い石の上に腰や肘をぶつけた。
痛い。
出たくなかった外へ出て、やるつもりのなかった手伝いをして、カッコ悪いこけ方をして。
散々な正月だ。颯斗はとにかく恥ずかしくてサッと立ち上がる。だが、今回はポリタンクが滑る鈍い音も少年がこけた音もしたため、近くの大人が心配そうに駆けよる。
「大丈夫ねあんた?あーあすりむいてからに」
可哀そうに、と痩せたおじちゃんが颯斗の足の下敷きになったポリタンクを避ける。
「血ぃも出とるが」
颯斗は返事もそこそこに身体を捻って打ち付けた肘を覗く。そこは表面の皮膚が破れて赤くなっているが、血は出ていない。大丈夫です、と言おうとして、唇に鉄の味が沁みる。ボタ、と重たい血液が白い運動靴の上に落ち、じわっと赤黒い染みになる。
「歩けんね?上に診てくれるのおるから」
おじちゃんは通りがかった大人に灯油を任せ、颯斗の腕を引いて階段を一段登る。一段分目線が上がった親切なおじちゃんを見上げると颯斗の視界に鳥居が映った。階段が始まるその一段目と同じところにちょうど鳥居の柱が立っている。颯斗にはわけがわからない。だが、本能的に腰が引けた。
「痛いか?」
登ろうとしない颯斗の腕を引っ張るのを止め、おじちゃんは肩を持つ。颯斗も歩かないわけにはいかなくなって、片手で鼻を摘まみながら背中を押された。
一段登る。二段登る。
何も起こらない。颯斗はやっぱりかっこ悪いこけ方をしただけなのだと恥ずかしくなって、おじちゃんに、すみません、と鼻声で礼を言った。
「手伝っとったんじゃろ、ええ子なのになぁ」
ははは、とおじちゃんは聞き取りにくい皺枯れた声で笑う。一段一段、急な角度の階段を慎重に登った。転げたのが一段目で良かったのだ。もし今の高さからこの石段を転げていたら。恐ろしい想像を払って、最後の一段を越えた。既に賑やかな境内では服を着こんだ大人たちが忙しなく行き交っている。ところどころに固まりができて、座ったり運んだり、笑ったり注意したりと様々だ。必然、颯斗の知る催しの中では人数が少ない方だが、静かな島にこんなに人が隠れていたのかと感心する。突っ立ってよそ見をする颯斗を、おじちゃんが引っ張って神社の屋根がかかる場所に連れられる。靴を脱いで畳の上に上がると、颯斗が補充するはずだっただろうストーブがぽつんと置かれていた。おじちゃんは颯斗を座らせて、待っとれよ、と言い残し人を呼びに行く。しばらくすると、両腕にアームカバーをしたおばちゃんが畳に上がってきた。
「石崎さんとこの子ね?」
「棚橋です」
子供が怪我したいうからてっきり、知らん子かいね、と無遠慮に放っておばちゃんは救急箱を開いた。腕を捲ってすりむいたところを見せ、居心地の悪さからよそ見をする。目を向けた方向から、若い女の人が細い足を砂利に捕られながら向かって来るのが見えた。
「けが人?」
女の人は鋭くよく通る声でおばちゃんに問う。おばちゃんは女に人に聞こえなくても構わないというように小さな声で「そうよー」と返した。女の人は颯斗の前まで来てパンプスのくるぶしに寄ったストッキングを引っ張りながらこれまた鋭く高い声で話かけてくる。
「誰くん?」
「棚橋颯斗です」
「ああ、わかった棚橋さんとこの!お父さんの手伝い?」
「はい」
靴を脱いだ女の人はおばちゃんが開いた救急箱からさっと銀色の缶を取り出して颯斗の横で四角く切られた綿を取り出した。
「石野さんここ私みとくから戻ってええよ」
女の人は朗らかだが、有無を言わさぬ声色でおばちゃんを払う。見れば年の差はありそうなのに、こちらもこちらで無遠慮だった。石野さん、と呼ばれたおばちゃんはまたも小さな声で「はあい」と返して来た道を戻っていってしまった。その間にも颯斗の腕は掴まれ細い指が痛いくらいに食い込み、颯斗はアルコールが沁みる擦り傷に対して反応をすることができなかった。
「痛かったねー」
まるで小さな子供に話しかけるような言葉遣いの女の人に面食らって、颯斗は「っす」としか返せない。なんとなくあのおばちゃんがこの女性を苦手そうなのも納得がいく。颯斗は知らない人たちの嫌な部分を見た気がしてさらに居心地が悪くなる。
「鼻も打った?」
「いえ、普通の鼻血です」
何故出てきたのか分からない鼻血はいつの間にか止まっていて、腕で拭った際についた跡が頬を走っていた。女の人は動じることなく、「じゃあ拭こっかぁ」と颯斗に一枚ウェットティッシュを差し出す。することのなくなった女の人にじっと見られているのが嫌で、颯斗は早くこの場から逃げたくなった。
「あの、ありがとうございました」
もう行きます、と立ち上がった時、後ろで楽器の音がする。生の楽器の音ではなく、CDプレイヤーから流れたような音質だった。もうなにかが始まった、と颯斗はサッと音の方向を探した。
「まだ始まってないよー」
女の人はにこにこと立ち上がった颯斗を見上げる。
「お父さんからきいとるよー、カンナギさんの友達じゃって」
気味が悪い、と咄嗟に颯斗は思った。島で生まれ育った父がこの人と知り合いでもおかしくない。仕事で関わりがあるのかもしれないし、今日のような行事で話すこともあるかもしれない。ただ、颯斗は父がこんな人に自分と國吉の話を漏らしていると信じたくなかった。
「でも今日は大事な日だから連れて行かんといてね」
女の人は颯斗が後退りしたぶんを正座のまま滑って距離を詰める。その貼り付けたような完全な微笑みにつられて颯斗も口を弧に歪める。引き攣る口角で会釈をして、颯斗はそそくさとその場を離れた。ストーブから離れると身体が一月の冷えを思い出して、却って打ち付けた箇所が重く熱を持っているのを感じる。颯斗はつま先だけで履いた靴をコンコンと石の上で整え、鼻の下で乾いているであろう血を乱雑に拭き取ってウェットティッシュをポケットに突っ込んだ。連れて行くな、などと嫌な言いがかりをつけられたが、こちとら元々見に来るつもりでも無かったのだ。父は仲直りして欲しそうにするし、変な女の人はまるで颯斗を悪い友人のように扱うしで颯斗は苛立ちが振り返す。そもそも原因をつくって避けているのは向こうであるし、仲直りしようにも颯斗にはどうしようもないのだ。むしろ、今日見つけ出して本人に直接文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
先程のCDプレイヤーからの音をきっかけに、境内の最も開けた場所には人が集まっていた。砂利の上にブルーシートと茣蓙が重ねて敷かれ、その上には颯斗のしらない道具もぽつんと置かれている。人だかりはその周囲を広くぐるっと囲み、大人たちは何かが始まるのを静かに待っていた。どこかでお香も炊かれているのか、中学生の颯斗にはいい匂いと思えない煙が境内を満たしていた。颯斗は立っているのも嫌で、端っこに座らされている幼い兄弟を見つけるとこれ幸いと隣に座った。兄弟は一つの小さいゲーム機を二人で覗き込んで周りなんて気にしていない。子供なのだから、こんなものに興味が無くて当たり前だ。颯斗もスマホを弄りながら、目の端で時々父の姿を探した。もう手伝ってなどいないが、怪我もして鼻血も出ている。サボっていたって父なら咎めたりしないが、姿が見えると安心するものだ。そのうち、またCDプレイヤーからさっきと同じ音が流れ始め、境内は瞬く間に静かになる。大人たちの足の合間から向こうを覗くと、気付けば茣蓙の上には昔の人、のような衣装を纏った男の子が座っていた。父が動画で見せてきた國吉の姿と同じだ。遠くから見る國吉の後ろ姿は虚ろで、見ないうちにすごく大人になったように見えた。
舞、というものが始まり、耳に不快な鋭い笛の音や、胸にまで響く低く間延びした歌声が境内に響く。厳かな空気に負け、隣の兄弟もゲームをやめて退屈そうに葉っぱで手遊びをしている。大人たちの方はスマホを掲げて動画を撮っている人もいれば、ちゃんとしたカメラを脚立に乗せて撮っている人もいた。
颯斗はなんだか國吉が可哀想になった。こんな退屈なことを、あの國吉が望んでやっていることなんて無いだろう、と決めつける。颯斗の育ってきた環境では神社で行われる大人の行事が好きな男の子なんていなかった。それを國吉は「カンナギだから」と変な理由で見つけたばかりの夢まで諦めようとしているのだ。横浜までついてきた癖に体調を崩したことも避けられていることも、ここは年上として國吉を許してやるか、と颯斗は思い直した。
長く退屈な儀式が終わって、颯斗は立ち上がって大人の中に紛れる。國吉がこっちを認識してくれればそれでいいと思ったし、向こうに話す気があるならタイミングをみて会いにくるだろうとも思った。中心から離れて他所へ掃けようとする國吉が通る道を見越して、少し離れてしゃがむ。この位置なら、うつむいたまま歩いていてもきっと見つけられるだろう。だが國吉はなかなか気付かない。颯斗は足を組み替える素振りで足元の砂利を鳴らして気を引いた。
國吉は顔を上げるが、ついに颯斗に気付くことはなかった。仕方なく立ち上がって、國吉の小さな背中を見送る。ふと、横に気配を感じた。
『とらないで』
「え?」
口に出てしまった声が足元の砂利に吸収される。慌てて周りを確認するが、颯斗の周囲には誰もいない。すぐ近くでものを言うには遠い位置に大人が居るし、さっきの兄弟は大人たちよりももっと後方で近くに来た形跡もない。颯斗は気にするのを止め、父を探しに境内を歩き回った。
颯斗は國吉に怒りが湧いて仕方なかった。颯斗のオーディションに國吉がついてきたせいで母をとられ、颯斗は心細い中最終審査に臨んだのだ。母が遅れたことに対し、余分な嘘まで吐かざるをえなかったのだ。それなのに、島に帰ってからは一度も訪ねてこないし、勝手に習い事も辞めている。帰って来た日の病院では気にしてない、と言ったものの、こうなってしまっては気になる。颯斗の心がどうあれ、國吉にはずっと優しく接していたのに。父の代わりに冷たい水で皿を洗いながら、颯斗は苛立ちに任せてスポンジをシンクにたたきつける。
もう國吉のことなどどうでもいい。三月には横浜に戻っていままで通りの生活に戻るのだ。関係が良好になった母と暮らし、本気でアイドルを目指し、父の出向が終わるのを待つ日々があるのだ。こんな島なんてあと四ヶ月で終わりだ。
國吉と喧嘩したらしい、という事だけを悟った父からは度々國吉の様子を一方的に聞かされるが、颯斗は無視し続けた。最終選考にだってきっと落ちている。そしてそれも國吉のせいだ。
「正月は國吉くんが出る行事があるんだが颯斗も見とくか」
年末が近づいた日、父が再び國吉に関わることを話題に出す。颯斗は父と喧嘩などしたくないが、そのしつこさには限界だった。仲直りしてほしいという意思が見え透いている。颯斗は無視を止めて、ぶっきらぼうな相槌を返すことにした。
「なにそれ」
とげとげしい颯斗の返事にもほっとして嬉しそうに眉を下げる可哀そうな父はスマホを見せて動画を再生した。
「だから、なにこれ」
動画には大勢の人の後頭部と仰々しいお宮が写り、開かれた空間で小さな少年が砂の上に座っている。小さい手には不釣り合いに大きい扇子を持ち、静止しているのかと思うほどゆっくりと足や腕を動かしてかろうじて踊っていると判別できた。頭には重そうな飾りをつけ、服も巫女のような仰々しいものを纏っていて、明らかに颯斗の生きる世界とは別のものだ。颯斗は早々にその無音の映像に飽きて、父を睨んだ。
「これ去年の國吉くんだって」
言われずともわかっていた。あの子供は國吉だ。顔なんて映らなくとも、容易に気付けた。
だからなに、と颯斗がどっかりカーペットに座る。島に引っ越して来て以来、父にこんなにひどい態度をとったことは無い。それでも父は怒ったりせず優しく颯斗を誘う。
「國吉くん今年も覡やるらしいから、正月見に行かないか」
「だからそのカンナギってなんなの」
颯斗はあまりに聞きなれないその言葉の響きを忘れてしまっていた。國吉がそう言ったことを覚えている。だが、あとから人に聞こうにもその四音が思い出せなかった。今、父からその四音を聞いて颯斗は國吉に拒絶されたそのやり取りを新鮮に思い出してしまった。とても気分の悪い記憶だ。
「カンナギは……ほら、シャーマンみたいなものだ。別に興味なくたって、友達として見にいくのもいいだろ?」
颯斗にはそのシャーマンさえもいまいち意味が解らなくて苛立ちが収まらない。仲直りを促す父だって満足に説明できていないのだから、颯斗にとってはどうでもいいことだ。
そんな風に突っぱねたのに父は正月に颯斗が一人で留守番することを許さなかった。島の人たちに混じって行事の手伝いをしなくてはならない父は忙しく、家にいる時間は短い。そんな日にひとりで家に残ることなんて今までもあったように思う。だが父はその日に限っては近くにいた方が安全だからと譲らなかった。
結局は父の手伝いまですることになり正月早々颯斗は不機嫌だ。用事がある父について公民館に行き、たくさんの知らない人に新年の挨拶をした。いつもなら大人相手には元気に挨拶できるのに、寒さと眠さと怠さで人見知り者のような返事しかできない。そんな颯斗の様子を疑問に思わず、そこの人たちに颯斗は立派な男手として数えられ、軍手と灯油のポリタンクを押し付けられた。
颯斗とて軟弱なわけでは無いが、それを神社まで運ぶのは大変な距離だ。そもそも颯斗は神社までの正確な道を知らない。ポリタンクを持って、これから神社に向かいそうな人の跡を距離を保ちながら追いかけた。空は雲が一つもなく、颯斗の気持ちと裏腹にすがすがしい。
休み休み道を進んで行けば、颯斗が一度も訪れたことのない神社に辿りつく。周辺の木が申し訳程度に飾られていて、人が行き交っていなければ目的地かどうか確証が持てないほどその神社の入口は道の途中に紛れていた。階段の先を見上げると人の気配があって声も響いている。
長くて急な階段が颯斗を見下ろした。
階段の幅は狭く、途中でポリタンクを置いて休憩するには適していない。できれば一気に駆けあがってしまいたかった。颯斗は覚悟を決めてポリタンクを持ち上げ、階段に一歩踏み入れる。
しかし、一段目に足は乗らなかった。重さにつられて前に屈めた頭が何かにぶつかり弾かれる。颯斗は驚いて顔を上げた。一緒にポリタンクを押し車で運んでくれた人は他所をみていて気付かない。颯斗と同じように階段を登り始めた人はよいしょ、よいしょ、と先に進んでいる。颯斗は特に深く考えることなく、もう一度階段を登ろうとする。今度は自然と足だけを上に上げて、ポリタンクと上半身を後ろに引いてしまう。
音もなく、大した衝撃も無く、ただ確かに颯斗の足が弾かれた。
「っうわ」
大勢を崩した颯斗はポリタンクの重さで後ろに転び、硬い石の上に腰や肘をぶつけた。
痛い。
出たくなかった外へ出て、やるつもりのなかった手伝いをして、カッコ悪いこけ方をして。
散々な正月だ。颯斗はとにかく恥ずかしくてサッと立ち上がる。だが、今回はポリタンクが滑る鈍い音も少年がこけた音もしたため、近くの大人が心配そうに駆けよる。
「大丈夫ねあんた?あーあすりむいてからに」
可哀そうに、と痩せたおじちゃんが颯斗の足の下敷きになったポリタンクを避ける。
「血ぃも出とるが」
颯斗は返事もそこそこに身体を捻って打ち付けた肘を覗く。そこは表面の皮膚が破れて赤くなっているが、血は出ていない。大丈夫です、と言おうとして、唇に鉄の味が沁みる。ボタ、と重たい血液が白い運動靴の上に落ち、じわっと赤黒い染みになる。
「歩けんね?上に診てくれるのおるから」
おじちゃんは通りがかった大人に灯油を任せ、颯斗の腕を引いて階段を一段登る。一段分目線が上がった親切なおじちゃんを見上げると颯斗の視界に鳥居が映った。階段が始まるその一段目と同じところにちょうど鳥居の柱が立っている。颯斗にはわけがわからない。だが、本能的に腰が引けた。
「痛いか?」
登ろうとしない颯斗の腕を引っ張るのを止め、おじちゃんは肩を持つ。颯斗も歩かないわけにはいかなくなって、片手で鼻を摘まみながら背中を押された。
一段登る。二段登る。
何も起こらない。颯斗はやっぱりかっこ悪いこけ方をしただけなのだと恥ずかしくなって、おじちゃんに、すみません、と鼻声で礼を言った。
「手伝っとったんじゃろ、ええ子なのになぁ」
ははは、とおじちゃんは聞き取りにくい皺枯れた声で笑う。一段一段、急な角度の階段を慎重に登った。転げたのが一段目で良かったのだ。もし今の高さからこの石段を転げていたら。恐ろしい想像を払って、最後の一段を越えた。既に賑やかな境内では服を着こんだ大人たちが忙しなく行き交っている。ところどころに固まりができて、座ったり運んだり、笑ったり注意したりと様々だ。必然、颯斗の知る催しの中では人数が少ない方だが、静かな島にこんなに人が隠れていたのかと感心する。突っ立ってよそ見をする颯斗を、おじちゃんが引っ張って神社の屋根がかかる場所に連れられる。靴を脱いで畳の上に上がると、颯斗が補充するはずだっただろうストーブがぽつんと置かれていた。おじちゃんは颯斗を座らせて、待っとれよ、と言い残し人を呼びに行く。しばらくすると、両腕にアームカバーをしたおばちゃんが畳に上がってきた。
「石崎さんとこの子ね?」
「棚橋です」
子供が怪我したいうからてっきり、知らん子かいね、と無遠慮に放っておばちゃんは救急箱を開いた。腕を捲ってすりむいたところを見せ、居心地の悪さからよそ見をする。目を向けた方向から、若い女の人が細い足を砂利に捕られながら向かって来るのが見えた。
「けが人?」
女の人は鋭くよく通る声でおばちゃんに問う。おばちゃんは女に人に聞こえなくても構わないというように小さな声で「そうよー」と返した。女の人は颯斗の前まで来てパンプスのくるぶしに寄ったストッキングを引っ張りながらこれまた鋭く高い声で話かけてくる。
「誰くん?」
「棚橋颯斗です」
「ああ、わかった棚橋さんとこの!お父さんの手伝い?」
「はい」
靴を脱いだ女の人はおばちゃんが開いた救急箱からさっと銀色の缶を取り出して颯斗の横で四角く切られた綿を取り出した。
「石野さんここ私みとくから戻ってええよ」
女の人は朗らかだが、有無を言わさぬ声色でおばちゃんを払う。見れば年の差はありそうなのに、こちらもこちらで無遠慮だった。石野さん、と呼ばれたおばちゃんはまたも小さな声で「はあい」と返して来た道を戻っていってしまった。その間にも颯斗の腕は掴まれ細い指が痛いくらいに食い込み、颯斗はアルコールが沁みる擦り傷に対して反応をすることができなかった。
「痛かったねー」
まるで小さな子供に話しかけるような言葉遣いの女の人に面食らって、颯斗は「っす」としか返せない。なんとなくあのおばちゃんがこの女性を苦手そうなのも納得がいく。颯斗は知らない人たちの嫌な部分を見た気がしてさらに居心地が悪くなる。
「鼻も打った?」
「いえ、普通の鼻血です」
何故出てきたのか分からない鼻血はいつの間にか止まっていて、腕で拭った際についた跡が頬を走っていた。女の人は動じることなく、「じゃあ拭こっかぁ」と颯斗に一枚ウェットティッシュを差し出す。することのなくなった女の人にじっと見られているのが嫌で、颯斗は早くこの場から逃げたくなった。
「あの、ありがとうございました」
もう行きます、と立ち上がった時、後ろで楽器の音がする。生の楽器の音ではなく、CDプレイヤーから流れたような音質だった。もうなにかが始まった、と颯斗はサッと音の方向を探した。
「まだ始まってないよー」
女の人はにこにこと立ち上がった颯斗を見上げる。
「お父さんからきいとるよー、カンナギさんの友達じゃって」
気味が悪い、と咄嗟に颯斗は思った。島で生まれ育った父がこの人と知り合いでもおかしくない。仕事で関わりがあるのかもしれないし、今日のような行事で話すこともあるかもしれない。ただ、颯斗は父がこんな人に自分と國吉の話を漏らしていると信じたくなかった。
「でも今日は大事な日だから連れて行かんといてね」
女の人は颯斗が後退りしたぶんを正座のまま滑って距離を詰める。その貼り付けたような完全な微笑みにつられて颯斗も口を弧に歪める。引き攣る口角で会釈をして、颯斗はそそくさとその場を離れた。ストーブから離れると身体が一月の冷えを思い出して、却って打ち付けた箇所が重く熱を持っているのを感じる。颯斗はつま先だけで履いた靴をコンコンと石の上で整え、鼻の下で乾いているであろう血を乱雑に拭き取ってウェットティッシュをポケットに突っ込んだ。連れて行くな、などと嫌な言いがかりをつけられたが、こちとら元々見に来るつもりでも無かったのだ。父は仲直りして欲しそうにするし、変な女の人はまるで颯斗を悪い友人のように扱うしで颯斗は苛立ちが振り返す。そもそも原因をつくって避けているのは向こうであるし、仲直りしようにも颯斗にはどうしようもないのだ。むしろ、今日見つけ出して本人に直接文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
先程のCDプレイヤーからの音をきっかけに、境内の最も開けた場所には人が集まっていた。砂利の上にブルーシートと茣蓙が重ねて敷かれ、その上には颯斗のしらない道具もぽつんと置かれている。人だかりはその周囲を広くぐるっと囲み、大人たちは何かが始まるのを静かに待っていた。どこかでお香も炊かれているのか、中学生の颯斗にはいい匂いと思えない煙が境内を満たしていた。颯斗は立っているのも嫌で、端っこに座らされている幼い兄弟を見つけるとこれ幸いと隣に座った。兄弟は一つの小さいゲーム機を二人で覗き込んで周りなんて気にしていない。子供なのだから、こんなものに興味が無くて当たり前だ。颯斗もスマホを弄りながら、目の端で時々父の姿を探した。もう手伝ってなどいないが、怪我もして鼻血も出ている。サボっていたって父なら咎めたりしないが、姿が見えると安心するものだ。そのうち、またCDプレイヤーからさっきと同じ音が流れ始め、境内は瞬く間に静かになる。大人たちの足の合間から向こうを覗くと、気付けば茣蓙の上には昔の人、のような衣装を纏った男の子が座っていた。父が動画で見せてきた國吉の姿と同じだ。遠くから見る國吉の後ろ姿は虚ろで、見ないうちにすごく大人になったように見えた。
舞、というものが始まり、耳に不快な鋭い笛の音や、胸にまで響く低く間延びした歌声が境内に響く。厳かな空気に負け、隣の兄弟もゲームをやめて退屈そうに葉っぱで手遊びをしている。大人たちの方はスマホを掲げて動画を撮っている人もいれば、ちゃんとしたカメラを脚立に乗せて撮っている人もいた。
颯斗はなんだか國吉が可哀想になった。こんな退屈なことを、あの國吉が望んでやっていることなんて無いだろう、と決めつける。颯斗の育ってきた環境では神社で行われる大人の行事が好きな男の子なんていなかった。それを國吉は「カンナギだから」と変な理由で見つけたばかりの夢まで諦めようとしているのだ。横浜までついてきた癖に体調を崩したことも避けられていることも、ここは年上として國吉を許してやるか、と颯斗は思い直した。
長く退屈な儀式が終わって、颯斗は立ち上がって大人の中に紛れる。國吉がこっちを認識してくれればそれでいいと思ったし、向こうに話す気があるならタイミングをみて会いにくるだろうとも思った。中心から離れて他所へ掃けようとする國吉が通る道を見越して、少し離れてしゃがむ。この位置なら、うつむいたまま歩いていてもきっと見つけられるだろう。だが國吉はなかなか気付かない。颯斗は足を組み替える素振りで足元の砂利を鳴らして気を引いた。
國吉は顔を上げるが、ついに颯斗に気付くことはなかった。仕方なく立ち上がって、國吉の小さな背中を見送る。ふと、横に気配を感じた。
『とらないで』
「え?」
口に出てしまった声が足元の砂利に吸収される。慌てて周りを確認するが、颯斗の周囲には誰もいない。すぐ近くでものを言うには遠い位置に大人が居るし、さっきの兄弟は大人たちよりももっと後方で近くに来た形跡もない。颯斗は気にするのを止め、父を探しに境内を歩き回った。
