夢の中であのステージがよみがえった。パイプ椅子いっぱいの客がステージ上の颯斗を見上げている。ひとりひとりの顔がよく見えるのに、見た傍からその顔を忘れてゆく。そのどれもが期待のまなざしで颯斗をみていた。もっと派手に動きたいのに、期待に応えたいのに、手足は思うように動かない。酔って具合が悪いときのような感覚さえあって、嫌な火照りと汗が衣装と肌の間に燻ぶる。喉が乾いて、歌うどころではない。自分のパートで声が出ず颯斗はさらに焦る。
水が欲しい。
そう思った直後、颯斗を裏切るように身体が冷気に包まれる。吹き抜けの天井から雨が落ちて、建物の中まで海の波が押し寄せている。颯斗は立っていられなくなり、波に流された。周りにあった人、パイプ椅子にあった人、通りすがりの遠くにあった人も次々と流される。颯斗は流された先の大きな柱にしがみつく。口に水が入り、呼吸もままならない。同じように柱に流れ着いた人が漂流物にぶつかって悲鳴を上げながら柱からはがされてゆく。颯斗は手を伸ばしてその服を掴むが、颯斗は掴んだジャケットは溶けて、人はさらに奥へと流されてゆく。颯斗は流される人たちの行く末が恐ろしく、目を逸らす。代わりに波が向かってくる方へ顔を向けた。息は苦しいままで、もう身体に酸素なんて残っていない。ふとステージを見ると、そこには國吉がいた。國吉より背が高く、顔も大人びている。颯斗より年上らしきその男を、なぜだか颯斗は國吉だと確信した。その男は波が押し寄せる中でも流されず、動揺もせず、ただ流される人を呆然と眺めている。颯斗は憤る。見ていないで助けろ、どうにかしろ、と心の中でその男に怒りをぶつける。颯斗の言葉が届いたかのように男は柱にしがみつく颯斗を目で捉えた。颯斗が見ている間に、男の身長はゆっくりと縮み、顔も幼く、颯斗の良く知る國吉の風貌に近付く。への字に曲がったその國吉の口が開いた。
「その子をかえして」
『その子をかえして』
─その子をかえして─
四方八方から、身体の中から、地の底から声が響く。父の声で、女将さんの声で、ダンスの先生の声で、島の中学校の友達の声で、名前も知らない顔見知りのおじちゃんおばちゃんの声で、そして、國吉自身の声で。
起き抜けから外は雨だった。
早くに目が醒めてしまった颯斗は音を立てないよう自室に戻り、上着を調達する。キッチンに戻って水を飲み、布団を敷いたリビングに静かに戻る。布団を被ってスマホを弄ろうとしたとき、國吉の息の荒さに気付いた。目覚めた時には無かった音だった。颯斗が隣で立ち上がったりしたから起こしてしまったのだろうと思い、國吉の方を向いて「まだ寝てていいよ」と声をかけた。
だが、國吉の荒い呼吸は収まらない。颯斗は怪訝に思い、國吉の布団を捲った。國吉は眠っていた。汗でびちゃびちゃになった髪が額や頬に張りつき、颯斗のおさがりのパジャマの襟は濡れて変色している。颯斗はそれ以上國吉に触るのを止め、母を起こしに飛んでいった。
「昨日夕方は寒かったのに長いこと外歩かせちゃったね…」
母が体温計の数値をみて、眉間をぎゅっと押さえる。颯斗には「準備してね」と言い、溜息を吐きながらキッチンに立った。
颯斗は気が立つ。大事な日に体調をくずすなんて。ついてきたいって言ったのは國吉なのに。
出発時間が近付き、どうしていいかわからない颯斗は玄関で靴履いて蹲る。自身のことを薄情だと思った。それでも、今はどうしても自分の予定のことしか心配できない。國吉の体調より、自身の最終審査の方が大事に思えて仕方がない。颯斗は自分自身の冷たさに慄いた。バタバタと家の中を駆けまわる母の音を頭の後ろからただ聞いていた。もし、今日は会場まで連れて行けないと言われたらなんと返そう、と颯斗は考えを巡らせた。
しかし、母は着替えて、玄関まで来る。颯斗と同じく焦った様子で車の鍵と家の鍵と母の鞄を颯斗に預け、「開けといて」と言い渡した。その後、母はパジャマのままの國吉を抱えて再び玄関に戻る。
「開けて!早く!」
呆然としていた颯斗は慌ててドアを開け、抱えられた國吉が外に出るまでぴったりとドアに貼りついて見送った。足の先までがドアの可動域から出たのを確認して車まで走る。後方座席のドアを開けて待っていれば、駆け足気味の母が追いついた。國吉を座らせて座席を倒し、毛布をかけて布ごとシートベルトを閉めさせる。顔色悪くされるがままの國吉の姿を見て、颯斗は初めて気の毒に思えた。母に言いつけられるまま玄関の鍵をかけ、急いで助手席に座る。出発しても母は無言で、颯斗も國吉も一言も発することは無かった。11月の寒さが突然襲ってきたような気候のせいで、窓ガラスが曇っている。颯斗は手持無沙汰で、曇った窓ガラスに適当に星を描く。指の太さで描かれた星の線から外の景色を眺める。しばらくそうしていると窓が開けられ、描かれた星が下方に収納されてゆく。母が慌ただしく曇り止めヒーターをつける音がした。いつの間にか小雨になった景色に再び浮上してきた窓ガラスにはもう、星の姿は無かった。
母は会場近くのコインパーキングに車を停め、國吉を胸でしっかりと抱いて颯斗に会場までの道を案愛させた。母の方に頭を預けた國吉の閉じた瞼は腫れぼったく丸い。幸い数分もせず会場に着くと、國吉を見つけた椅子で座らせて颯斗に預ける。國吉を見ていなければならないのに、受付に駆けよって身を乗り出して話し込む母の背中ばかりに目を奪われた。戻ってきた母の表情は少し和らいでいた。
「ママちょっといないけど絶対戻ってくるから」
がんばってね、と言い残し、再び國吉を抱えて外へ出ていく。颯斗は外に出て風に吹かれる母の明るい色の髪を呆然と見送る。二人の姿が見えなくなるまで見送った。それは颯斗が覚悟を決める時間になった。受付のほうを振り向くと、案内のスタッフがすぐ後ろに立っていて、颯斗の名前を確認する。よく通る声で答えた颯斗にその人は満足そうに頷き、待合室まで付き添ってくれた。
全体説明のあと、その場でダンスを教わった。事前につたえられていた課題曲の振りとは違ったもので、ダンス経験が長い颯斗には少々簡単だ。
だが、それが罠だった。そのままひとりひとりの審査が始まるかと思いきや、少年たちは番号順に四人に分けられてチームを組まされた。与えられた15分間でチームと相談し、フォーメーションを考えて披露し、チームごとに審査するというのだ。チームでの評価という事は、颯斗一人が上手くいっても評価にはつながらないということだ。きっと協調性をみられているに違いない、と颯斗は焦った。チームとなった子の名前を確認した。リク、と名札に書かれた男の子が唯一しっかりしている印象だ。
「ハヤトくん?は何歳?」
「13」
じゃあ、一番年上のハヤトくんにリーダーしてもらった方がいいかな、とリクがいう。
そんな決め方をすることが嫌だったし、身長が同じくらいの周りがじぶんより幼いことに動揺した。
だが、スイッチの入った颯斗は腹からはきはきとした声が出てしまう。
「オッケー」
しかし、リクはまだしも、そのほか二人があまり協力的ではなかった。ひと際顔が綺麗な男の子は緊張で意見を一切ださないし、一番幼くてのんびりした奴はその子にちょっかいをかけて気を惹くことに専念して話し合いに参加しないのだ。制限時間はこの間にも消費されている。ほかのチームが早速フォーメーションを確認し始めたのを横目でみて颯斗の背中から汗が噴き出す。
「ねぇ緊張してる?大丈夫?」
「あぁ、えっと……そんなには」
うそつけ、見るからに表情が硬いその子は小さな子を震わせて答えた。同じチームを組まされた周りもその子の扱いに困っている。ハズレだ。きっとみんなが思っているだろう。颯斗もそう思った。ここではみんなが夢に食らいついている。こんな子のためにチームごと評価を下げられてはたまらないのだ。
「お前さ、」
颯斗の一声に空気が凍りつく。等の男の子も一層顔を硬くしてビクビクした目で颯斗を見る。颯斗は覚悟を決めるために息を吐いた。
「めっちゃ俺の弟に似とるわ」
颯斗は敢えて、島の子達のようなイントネーションでそういった。
「ああ、そうなんだ」
男の子の緊張はまだ見えるが、フォーメーションの相談から始めたときよりは声が出ている。
「兄弟おるん?」
「はい、兄がいます」
リクも話にのり、「僕も妹二人いるよ」と割って入った。気が利くリクは隣ののんびりした子も輪に入れて、その子が四人兄弟の末っ子だという情報を聞き出した。
「みんな兄弟いるんじゃん。いくぞブラザー」
颯斗の突然の掛け声に全員がきょとんと颯斗を見上げる。颯斗は恥ずかしくなって笑いだしてしまわないうちに提案で畳みかけた。
「俺とリクで二番と四番に入るから、末っ子ズは一番三番ね。相談して時々前後で位置入れ替わってな。俺とリクは移動で番号ごと一回入れ替わろう、いいよな?」
リクは颯斗の勢いに気圧されるも、チームメイトの頼もしい様子に口を弧にして頷いた。颯斗もしっかりしたリク相手なら話しやすい。
「一旦練習始めよう」
のんびりした末っ子は手足を既に他チームが始めた練習の音に合わせて動かしており、ターンを混ぜながら「はーあーい」と間延びした返事をする。こいつは俺と同じでダンスに自信があるやつだ。勝手に持ち場を見つけて目立てるだろう。
位置についたふたりを見届けて颯斗はリクに追加で耳打ちする。
「サビの前半で二人より前に出なよ。俺がサビ後半で前に出るから、そこで交代して」
リクは前に出された末っ子役をちらりと不安そうにみて、颯斗に視線を戻した。
「俺らもちゃんと目立たないとだろ」
「わかった。ありがとう」
見せ場は当然サビだ。あと数年は応募のチャンスがある前方の二人から最大の見せ場を譲ってもらうくらいいいだろう。颯斗は全員に1、2、3、4と掛け声で拍子をとる。覚えさせられた振りは颯斗にとっては簡単で、周りの動きにも注意を配れるほど余裕がある。なのに、颯斗の手先は冷たく痺れていた。さっきついた意味のない嘘が頭でリフレインする。身体はキッチリ振りをこなしているのに、意識はその場に無い感覚がした。「今、上手くいっているのか?」と自分自身の姿を俯瞰する。集中しなければいけないのに、簡単な振りのせいでこの場にいない母のこと、母がいない原因となった國吉の体調不良のことまで颯斗の思考に入り込んでしまう。颯斗はこの場に足をつけて居たくて、リクと番号を交代する際、通りすがりに真ん中にいる緊張していた男の子の肩を叩いた。男の子は驚いて颯斗を振り返ってステップが遅れる。だが、すぐに颯斗の笑みを視認してほっと上がった肩を降ろした。颯斗はその緊張が解けた顔をみて、ついた嘘に意味をつければいいのだ、と自身を納得させた。
チームの審査が終わり、昼食のための昼休憩と、同時に一人ずつの面談が始まった。朝、國吉の体調に焦って満足に用意できなかったお弁当には混ぜ込みご飯のおにぎりと、母が前日から用意していたバターロールが詰められていた。きっと國吉のことが無かったらバターロールは卵サンドになっていただろうし、焼き印で顔なんかもついていただろう。飾られていたはずのそこがのっぺりと艶を発しているのをみて颯斗は急激に寂しくなった。東京へは友達と遊びに来たこともある。一人で移動するのだって苦ではないほうだ。だというのに、今は心細くて仕方がなかった。
空になった紙の弁当箱をリュックに詰め、颯斗はそこに背中を預けた。背中には紙のくしゃりとした感覚と、ビニール袋にいれた靴のかかと部分が当たっている。膝を抱え、室内履きを小さくキュッキュと鳴らして颯斗は時間の経過を待った。颯斗の面談の時間は前から数えて5番目だ。母にはその時間に間に合うようにここに戻ってきてもらわなければならない。颯斗は順番の進み具合を母に逐一報告していたが、あるときから返事はなく既読の印もつかなくなった。周囲では子供たちが母親と小声で会話している。ある子は携帯ゲーム機で遊んでいて、ある母は他の母と親し気に話し込んでいる。颯斗はたったひとりでその時間をやり過ごした。
そして母の到着前に颯斗の番が来てしまった。案内の人に名前を呼ばれ、颯斗はリュックをそのままに慌ててドアまで走る。そして精一杯の真面目な顔をつくって大人を見上げた。
「すみません、雨のせいで渋滞みたいで。ご迷惑をおかけします」
順番も変えてもらってかまいませんと颯斗は落ち着いて返した。一瞬、眉を歪めたその人は手元のバインダーを見て「あー」と声を漏らす。その声が喉から消える前に「確認してきます」と言われ、颯斗の背中を嫌な汗が伝う。嘘をついた。今、母と連絡はとれていない。案内の人が廊下へ戻っていった後も、颯斗は怖くてしばらくそこから動け無かった。廊下の外を覗く用につんのめり、キュっとその場にとどまろうとする室内履きの足裏が颯斗をかろうじて立たせる。いくら待てどもさっきの人は戻って来ない。颯斗は仕方なく潰れたリュックの定位置まで戻った。気付けば子供たちは静かになって颯斗の方をちらちらと見ている。反対に大人たちは不自然に無関心で、子供の意識が他所へ向くのをやんわりと注意している。
結局颯斗の番を飛ばして他の子が呼ばれていった。
颯斗を残してあとは後ろに二人、という時間にやっと母は会場についた。受付の人に連れてこられた母は颯斗を見つけるなり表情を明るくして、平気だった、ご飯食べた、と矢継ぎ早に聞いてくる。忙しかった朝と違って化粧もしており、雑に結ばれていた髪も解かれて肩で綺麗に揺れている。國吉は、と聞くと、今は大丈夫、と母に微笑まれる。
颯斗が面談を受けられたのは、他の子の面談が全て終わった後だった。
颯斗は手ごたえを感じなかった。すべてを出し切ったつもりだった。それでも、目の肥えた審査員の視界にはまるで自分が写っていないようだった。互いに何も発することなく母と会場を後にした颯斗は、空が晴れていることに気が付いた。さっき適当に「母は雨で遅刻している」などと吐いた嘘がすぐにバレるようなものだったのだとわかってさらに気が曇った。しかしもう言ってしまったことだ。今更気にしても仕方がない。
家に帰る途中、母はスーパーに寄って國吉の好物はわかるか、と颯斗に聞いた。だが颯斗は答えられない。國吉の好物が何かなど、聞いたことも考えたことも無かった。
「……熱あるならゼリーとかでいいんじゃない」
「そうね、そうよね。ゼリーなら大丈夫よね」
母も自分に言い聞かせるようにそう繰り返した。
余分に買った食材を抱えて家に帰ると、リビングに寝かされた國吉と女の子が見え、その子は「おかえりー」と颯斗に声をかける。颯斗はその場に固まって、まだ玄関の鍵をしめている母を振り返った。颯斗の様子に、また忘れられたと思ったらしいその子は「化粧薄いからわかんないか、千夏だよ」と國吉を起こさないよう小声で言った。
「あぁ、千夏ちゃん……」
颯斗はこの時初めて、千夏を親し気に呼んだ。こんな状況でありながら母の前で“千夏さん”と呼ぶのが気恥ずかしかった。
母がキッチンに入って、「今日は泊っていってね、もう遅くなってしまうから」と國吉を起こそうとした千夏を止める。千夏はすみません、と立ち上がり、母とキッチンに並ぶ。
「國吉が帰りたいって言い出したたのにすみません…」
「無理よ無理よ11歳が具合悪いのに夜に新幹線なんて」
夕食作りを手伝おうとした千夏に母は恐縮する。本当は千夏にも座っていて欲しかったようだが、國吉が食べられるものがわからないから、と千夏を頼ることにした。母は颯斗にゼリーを渡し、目で國吉を見ろ、と指示を出す。颯斗はキッチンから離れる前に、気になったことを聞いた。
「帰りたいって言ったの?國吉が」
千夏が颯斗を見て色のない唇を開く。だが開くだけで何かを言う事は無かった。
「熱は下がったんだけど、『かえしてー』ってうわ言みたいに言うから、可哀そうで」
パパにも親御さんにも連絡したんだけどね、と母は続ける。
「三連休で旅館忙しいし距離も遠いからって千夏ちゃん駆り出されちゃったんだよね。ごめんねぇ本当は私が診てないといけないのに」
母は申し訳なさそうに何度も千夏に謝った。千夏も千夏で、「私も國吉も颯斗くん応援してましたら、こんなことになって申し訳ないです。面談間に合ったって聞いて安心しました」と頭を下げて対抗した。
颯斗はぬるいゼリーとスプーンを持って國吉が眠る布団の横に座り込む。スプーンの裏でゼリーの蓋を叩きながら、食べますかーと囁いた。國吉は寝ていて、起きる気配が無い。
「明日帰れるからな。元気になれよ」
颯斗はぬるいながらも人肌よりは冷たいゼリーを國吉の額に載せた。國吉は顔に当たるものが気になったのか、動きそうに無かった瞼を少し開いた。怠そうな國吉は寝ぼけたように口をはくはくと動かして頭を揺らす。
「なんて?」
ゼリーを國吉の額から離すと、國吉は仰向けをやめて横になった。
「…アイドルになれた?」
小さな、元気の無い声で聞かれる。
「さあね。その話はまた今度な」
颯斗は國吉の肩をぽんぽんと叩いて仰向けに戻させた。
翌日、千夏と國吉と颯斗で新幹線に乗った。千夏はその足で旅館まで國吉を送る役目があるため、旅の最後まで颯斗と一緒だ。口数の少ない國吉はまだ本調子でないようで、どこか落ち込んでいるようにも見える。いつも生意気で空気が読めなくて拗ねることや静かなことはあっても気落ちしている所は初めて見た。長い移動時間の後、駅を出た千夏がその足で港の病院で國吉を診てもらうというので、颯斗も付き添うことにした。
待っている間、「石守様ー」と呼ばれて、千夏が國吉を起こして立ち上がる。
「え?今呼ばれて……」
國吉の名字は確か──。
「呼ばれたよ。颯斗くんはここで待っててね」
國吉の症状はどこまでいっても軽いものだそうだが、昨日から食事を満足にとれていないことから点滴をさせられることになった。待合室に戻って来た千夏に國吉の状態を聞き、颯斗は安心していいものか迷った。そして、他に話すことも無く、それを聞くしか無かった。
「あの、名字って居倉じゃないんですか」
千夏は切りそろえた長い髪を後ろに跳ねて、そーだね、と零した。
「クニちゃんが居倉って名乗ってるからでしょ、あれウチの名字で」
本名は石守國吉。と千夏は話す。じゃあ、居倉千夏なのか、と颯斗は関係ないことが頭を過った。
「ウチのお母さんの妹の子供がクニちゃんで、お母さんが引き取ってるから、居倉の國吉。石守の家はちょっと遠いから」
颯斗には話が見えなかった。じゃあ、学校ではどっちで呼ばれるんだ、とまた関係ないことが気になった。妙な思考を振り払って、踏み込んだ質問をする。
「じゃあ國吉のお母さんは」
「わからない。誰も話さないから。私はもう居ないと思うけどね」
颯斗は自分から聞いておいて何と返せばいいのか分からなかった。千夏はぽかんとする颯斗に「ごめんね、クニちゃんには内緒」とばつが悪そうに唇を噛んだ。
「おはようクニちゃん」
窓から夕日が射す病室で千夏は國吉に話しかける。
「帰るよ、船のれそう?」
國吉はぼんやりと頷き、かけられた布団を腕で押しのけた。千夏の後ろにいる颯斗の方をちらっとみて、うつむいてしまう。昨夜、審査の出来について颯斗が返事を誤魔化したせいかもしれない。
「なぁ、俺別に気にしてないし、あんまりおおごとに思うなよ」
颯斗は夢の中で、島の人たちに「その子を返して」と合唱されたことを思い出した。ただの夢だ。だが、なにか國吉に話かけなければ、と焦った末に出てきた言葉だった。
「お前が受ける時だってまたウチに泊っていいし」
「いいよもう」
國吉は寝起きらしい覇気のない声を出す。その声で颯斗は、話題選びを間違えたことを悟った。國吉の顔は曇り、俯いて何もない白い掛け布団をぼーっと見ている。
「なれんこと知っとるよ。はやとみたいに顔カッコよくないし」
颯斗は動揺した。初めて、國吉の方言を聞いた気がした。呼び捨てにされたことを咎められないくらいに國吉の纏う空気はこれまでと異なっている。
「アイドルは顔じゃないだろ」
嘘だ。でも、大石はそう言っていた。颯斗は容姿も大事だと思っている。けれども、自信を失くした國吉に「お前はかわいいから大丈夫」だと言っても効かないと思った。実際、國吉の容姿は悪くない。普通だ。颯斗のように普通だと思う人もいれば、颯斗が投稿した動画についたコメントのようにその素朴さを『美少年』だと評価する人もいる。それこそ、変な目で見る人も現れるくらいに。
「もうできん。ぼくカンナギじゃから」
こんなに長く一緒に過ごしたのに、國吉の喋り方が気になったのは初めてだ。その、部外者の颯斗を突き放すような島の子らしい言葉遣いに戸惑って、カンナギって何、と聞き返すのを忘れた。
船に乗る前からあたりは雨が降り始めた。今回の旅のためにチェックするようになった天気アプリを開くと、昨日横浜で雨を降らせていた雨雲がここまで下がってきていたようだ。船を降りて島につくと、父が港に軽トラを停めて待っていた。知らない大きな車もあって、千夏ちゃんは「じゃあね」と言って國吉の荷物をもってその車に乗り込む。颯斗は「はい」としか言えず、雨が降る中父の待つ軽トラまで走る。父におかえり、と言われ、颯斗は疲れ気味にただいまと返した。父は車をゆっくりと走らせて大きな車の隣にそっと停止する。すると大きな車の運転席の窓がさーっと開いた。父は窓を颯斗に窓を開けさせ、助手席越しに運転席に乗った女将さんに頭を下げる。颯斗も反射で頭を下げた。女将さんは化粧ばっちりで髪も結っているが、服装は薄いピンクのジャージだった。女将さんは瞳が見えなくなるほど目を細めて赤い唇で笑みを浮かべる。
「この度はどうもありがとうございました。うちの子がお世話になりまして」
助手席に座っている千夏ちゃんも女将さんに合わせて頭を下げた。颯斗は無意識に國吉を探すが、後方の窓は黒いスモークフィルムが張られていてよく見えない。
「いえいえ、すみませんでした。預かる身でありながらこんなことになってしまって」
父は颯斗の膝まで身体を乗り出して必死に謝る。颯斗は父の邪魔をしないよう、座席の背にのけ反って避けた。父の様子に女将さんは笑っていた顔を苦くする。
「いいえぇ、こちらこそお世話になってますのにご迷惑おかけしました。もともと弱い子なんで気にしないでください」
女将さんも真剣に声を張る。それは大人の探り合いだった。両者、特に相手を責めたりおおごとにするつもりは無いと確信し、頭を下げる合戦は終結する。
「二人とも無事だったんですから、いいじゃないですか、ねぇ?」
女将さんの言葉を最後に、では、失礼しますー、と父は軽トラを発進させた。父は分かりやすく安堵の溜息をついて、家ではなくモールへ進む道にハンドルを切った。
「何食べたい?」
颯斗はうーん、と曖昧に答える。旅の疲労の上に雨に打たれて少し寒い。冷えた身体を早く風呂で温めたいと考えながら、モールに入っている飲食店のラインナップを思い返した。
