かすかに青だった

 学校が始まってから、何かが変わると漠然と思っていたが、何も変わらない。夏の高揚が抜けず、焼けた肌の熱のせいで颯斗は授業もほとんど聴いてなかった。だらりとした時間が続くことで気持ちまでだるくなって、ダンス教室に通う曜日すら頭から抜けていた。
 新学期が始まってから1週間も経たないその日、学校の前で父の軽トラを見た。慌てて駆け寄るとどこからともなく現れた父から背中を叩かれて「乗って乗って」と促される。そこでやっと、今日が習い事の日だ、と思い出す。だが、嬉しそうな父の車はダンス教室の駐車場を過ぎてひさご旅館まで行って停まった。
 「なんで…?」
 颯斗が助手席でシートベルトを外しあぐねていると、父は「いいからいいから」とエンジンを忙しなく止めて車から出てゆく。颯斗が降りるのを待って、鍵を構えている。颯斗は父の様子に苛立ちを覚えながらも、渋々助手席から出る。颯斗がドアを閉めたのとほぼ同時に鍵についたボタンが押され、車のドアがガチャリと締められる音が鳴る。
 すっかりポロシャツが似合うようになってしまった父の背を追いかけ、颯斗は初めてひさご旅館の玄関から入館した。中は木の匂いがして、少し暗い。外から入ったぬるい空気と奥から漂うエアコンの冷気がぶつかって颯斗たちを誘い込む。靴を脱いで二段上がると、暗さに目が慣れて、玄関の棚に所狭しと並べられた工芸品が目に入った。そして工芸品に紛れて置かれた古いCDプレイヤーからいかにも和な音楽が流れている。ただのCDプレイヤーなので案内されるままその場から離れて廊下の道に入ってしまえば音楽はもう聴こえなくなった。颯斗は頭の後ろに感じていた音に助けを求める心地で廊下を進んだ。車に置き損ねた重い通学鞄が颯斗の肩に伸し掛かる。
 颯斗には周りの音がどんよりと聴こえていた。「ごゆっくりどうぞー」と仲居さんが戸を引き、父が「はあすみません」とにこやかに返事して颯斗の背中を押す。颯斗は足取りが重く、引き戸の敷居を踏んでしまった。靴下越しに感じるその痛みは、目の前に現われた母の姿よりもいくらかマシだった。
 「おー颯斗ひさしぶり!」
 母は染めたばかりの明るい髪色で、掛けてきたであろう大きなサングラスを座卓に置いて指で弄っている。「早く座んな」と颯斗のことを招きながら、母自身も緊張していることが颯斗にはわかってしまった。
 「久しぶり……」
 颯斗は母と対角線に座り、通学鞄を背に置いた。颯斗が座ったのを見て、父は意気揚々と縁側に出て行ってしまう。母は去ろうとした仲居さんを呼び止めて「ビールとカルピスくださーい」とよく通る声を飛ばした。母は颯斗に向き直り、再び「久しぶり」と笑う。
 「元気そうじゃん。島はどうよ」
 「別に……」
 「別にってなによ」
 母は颯斗の反抗的な態度にも機嫌を悪くすることは無く、スマホを取り出して何やら操作をしている。颯斗が聞き覚えのある曲が流れたかと思えば、母は画面を颯斗に向けて見せた。颯斗の顔にカッと血が上った。それは夏休みの間に投稿した、颯斗と國吉が踊っている動画だった。
 「これさ、祐介くんのママが教えてくれてさ。颯斗がんばってんだなーって」
 母はもう既に何度も見たのだろう。颯斗に見せつけていた画面を自分に向けて何度も同じ個所をループして遊んでいる。颯斗は恨み言をいうつもりだった。だが、母が嬉しそうに、にっこりとスマホの画面を眺める姿を見て、何も言えなくなってしまった。
 「やっぱり颯斗はまだアイドルになりたいって、諦めてないんじゃないかって私も思ってたからさ」
 母は颯斗の気も知らず、しんみりとした声を出して長い爪でカツカツと液晶を叩いた。戸が開いてビール瓶とカルピスが入ったガラスコップが運ばれてくる。母はまた通る声で礼を言って、届いたばかりの瓶の蓋を開けた。なみなみと注いだ泡の少ないビールを煽って静かに息を吐く。縁側で日に当たる父に「いるー?」と声をかけ、父が振り向いて答える前に「そうだ車で来てんだ」と差し出そうとしたコップを座卓に戻す。
 母はもう一杯ビールを注いで、「残念だったね、このオーディションは……」と颯斗を慰めた。颯斗は頭が追い付かず泣きそうになった。まず、この動画オーディションのことは颯斗は全く気にかけていない。颯斗のSNSのアカウントが母に伝わったことは恥ずかしいが、自身がした行動については悔いていない。だから颯斗は母が怒るでもなく夢を見る颯斗を諭すでもなく、神妙にそう慰めることに、頭がついていかなかった。
 「それは別にいい。本当は夏休みに……」
 颯斗は心臓が飛び出そうだった。自室でもないのに涙が溢れて腿に落ちてしまいそうだった。母が颯斗の夢のことを、こんな風に言ってくれることがただただ信じられなかった。二人の間の蟠りなどなかったかのように颯斗のやりたいことを応援するような素振りを見せるとは。それならば颯斗は自分勝手な話ではなく、あの日のことを謝るべきなのに。
 「本当は東京であった二次審査に行きたかった」
 颯斗はついに涙を零した。言葉尻は震え、鼻からも液が出そうになる。顔を隠すように俯くと、座卓のティッシュ箱を滑らせて母が颯斗の前で三枚引き抜いて颯斗の手に押し付ける。鼻をかんでみっともない顔を上げると、母も目を真っ赤にして泣いていた。
 「ごめんね颯斗。ママのせいだね。ごめんね」
 泣いているのに母は声が震えない。ティッシュを丸めた颯斗の手を引き寄せて繋ぐ。颯斗の目からはもっともっと涙が零れた。
 「もっと早く迎えに来てあげればよかった」
 母の言葉に、颯斗は首を振った。母の言葉のすべてを颯斗は否定したかった。

 父が石成島に出向が決まったと言った夜、母は夕ご飯を作らず外に出かけた。残された颯斗と父はあらかじめ炊かれていたほかほかの白米と二種類のふりかけで難をしのいだ。両親はもうずっと長いこと喧嘩を続けている。颯斗の目には大人しい父を相手に声の大きな母が言いくるめているようにしか見えず、二人が喧嘩によって別行動をするときは決まって父の側についた。
 「……離婚するの」
 颯斗は聞く。食欲は無いのに、ふりかけご飯はどんどん身体に吸い込まれる。行き場のない怒りをご飯にぶつけているようだと、自分でも思った。父は颯斗の問いに答えることは無く、溜息をついてご飯を掻き込む。ご馳走様、と律儀に言って席を立とうとする父を、颯斗は止める。
 「本当にこの家を出る?」
 今度は強く、責めるような声が出る。喉の奥に、音になれなかった言葉たちが詰まって颯斗に痛みを感じさせる。
 「二年か三年か。パパがいなくてもママと喧嘩するなよ」
 父は穏やかに答える。てっきり、「離婚」と口走った颯斗に怒っているのだと思った。颯斗は返事に迷う。しょっちゅう喧嘩しているのはそっちのくせに、と父を責めることもできた。だが、やはり喉が詰まって痛むだけだった。
 その後両親の間にどんなやり取りがあったのかを颯斗が知ることは無く、母はころりと機嫌を治して父が家を開けることを受け入れていた。そこから実際に父が出る日までの数か月、颯斗は居心地の悪い日々を過ごしたものだった。両親は喧嘩こそしなくなったが会話自体も少なくなった。その穏やかな毎日が過ぎるほど、颯斗の気をわけもわからず逆撫でする。我慢の限界に達した颯斗はついに、母に言ってしまったのだった。
 父さんについていく。
 颯斗は今でも、この時の自分の声を思い出せない。耳がキーンと鳴って、水の中にいるようにすべての音が鈍く聴こえた感覚だけが残った。しばらく穏やかだった母はその日形相を変えて怒鳴った。見るからに取り乱していたし、何度も何度も颯斗の意思を確認しては溜息を吐いた。
 「学校はどうする気?」「ダンスもうできないよ」「友達のことはもういいんだ?」「パパのこと可哀そうとか思ってるんでしょ」
 母は言いたい放題に颯斗を追い立てた。颯斗も颯斗で、その場限りの言い訳が口から出てきた。それも、母が颯斗の夢を持ち出すまでとなる。
 「浅いんだよ芸能人になるって言ったりスポーツ選手になるって言ったり田舎に行くって言ったり!そんなめちゃくちゃで何者にもなれるわけないんだよ!」
 そう言われた時にはもう余裕が無かった。小学三年生でオーディションに落ちた時の両親の言い争い、何を言われても翌年のオーディションを受けさせなかった母への不信感、日々母がとる父への態度、それら全てが颯斗を苦しめている。その苦しみが怒りとなって母を糾弾した。
 長い言い争いの後、母は途中から傍観していた父を睨みつけた。
 「もうあんたにそっくり。私知らないから。男二人で勝手にして」
 母の恨み節は止まらない。
 「あー疲れた。私がこんなにお金費やしてもこうなるんだ」
 颯斗は宣言通り、父について島に引っ越すことになった。年が明け、小学校の卒業式が迫る中、父は何度も颯斗に「ママと仲直りしたか」と聞いてきた。颯斗は毎度首を振った。母と仲直りはできない。そんな素振りでも見せようものなら、父は颯斗の中学校の転入の手続きをやめてしまう。颯斗を連れて行かない選択をしてしまう。颯斗はもう、両親のどちらからも手に余る扱いを受けていると頭では分かっていた。それでも、きっかけを作ったのは両親のほうだと責任を押しつけ、意地を張った。
 どうしてこうなったのだろう、と引っ越す前の自室で何度も自問したことを覚えている。ほんの半年ちょっと前のことなのに、もうずいぶん前の出来事のように感じる。どのようにしてその日々を乗り越え、友人に別れを告げたのか記憶もところどころ抜け落ちている。

 颯斗は左右から母と父に抱きしめられて泣いていた。疲れて眠くなる最中、颯斗の頭にもう一人の颯斗が現れる。彼の考えは母にそっくりで、強気な態度も母そのものだった。その“新しい颯斗”は母の心配の種を知っていた。小学三年生の時、連日ニュースで芸能ゴシップが流れていた。幼い颯斗には意味が分からなくとも、その情報は頭に残り、年を重ねるごとに染みた。少年を集めた芸能事務所の大人が、その子供を相手になにをしていたか。今でもニュースの意味はよくわからない。しかしそれが母が颯斗の「アイドルになりたい」という夢に対し神経質になっていた理由なのだと、颯斗はとっくに理解できていた。颯斗が理解しながら無視していた、母との蟠りの大元について“新しい颯斗”は責めた。お前が母に謝るべきなのだと颯斗を諭す。“新しい颯斗”は父についても言及した。お前は父が鈍いのをいいことに利用し甘えている、と颯斗を指差す。颯斗はこれまで、父を言葉で傷つけたことがある。母に言えば怒られるようなことを、母のいないところで父には幾度となく言った。にもかかわらず、優しい父になんでもしてもらった。父から貰える愛はいくらでも貰った。“新しい颯斗”が傲慢な颯斗を叱る。そこまで言われると颯斗も反抗し、“新しい颯斗”に立ち向かう。いがみ合う二人は近付けば近付くほど融合し、融合を拒絶して相手の手をはたくとそのまま削ぎ落されてその場に砂となって落ちる。いつしかその砂で足元に砂浜ができ、颯斗の身体もひとつになる。一人になった颯斗はどうしようもなく寂しくなって、人を探した。
 「國吉ー」
 なぜだか、幼馴染や横浜の同級生の名前が思い出せなかった。くによし、ともう一度つぶやくと、白い海から國吉が巨大なウミウシをつれて上がってくる。颯斗は自身の二倍もの大きさのウミウシが迫ってくる光景が気持ち悪く、國吉から逃げようと走る。國吉は逃げる颯斗を追いかけた。
 「まって」
 息切れをする國吉にウミウシが追いついて慰める。颯斗はもう國吉に背を向けているのに、何故か國吉とウミウシの姿が視界に入っていた。小さな國吉が、「はやちゃんのところに連れてって」とウミウシを見上げる。
 ─いいよ
 そのウミウシはあたりに響く大きな声で言った。それは、幼くて生意気な國吉の声そのものだった。

 颯斗の頭の上で両親の会話が聞こえた。腫れた目は開きづらく、視界が晴れないまま上体を起こす。気付いた母は「おはよう颯斗」と笑った。開けっ放しの縁側から雷の音が聞こえる。空は曇って暗いが、まだ夕方の時間帯だった。
 「もう横浜帰る?」
 眠気眼の颯斗が制服の皺を伸ばしていると、両親は笑った。
 「むりむり、もう船ないんだもん」
 「じゃあ、こっちの家に帰ろう…」
 颯斗は目を擦り、通学鞄を探す。時計が5時前を差すのに、もう夜9時を回ったような心地だ。帰って布団で眠りたい、そんな気に駆られる。
 「え、私ここ泊まるよ」
 母の言葉に、颯斗は驚いた。父も想定外だったようで、「本当に?」と確認している。
 「だってどうせ散らかってるんでしょ?片付けさせられんの嫌だし」
 布団もないし私ここに泊まるからいい、と母は膝を伸ばした。父も颯斗もリビングに山盛りに積まれた洗濯物を思い出し、口ごもる。綺麗好きな母なら一目でため息をつき片付け始めてしまうだろう。
 「夜ご飯は一緒に食べようよ、どっか連れてって」
 父は夏休みの間に颯斗を連れて入った焼肉屋に再び車を走らせた。平日の夜は人が少なく、店内に広がる白い煙も薄い。
 「じゃあ颯斗はママが反対してると思って島まで逃げたわけ?」
 「……逃げてないし」
 「じゃあ何のためにあんたの月謝払ってきたと思ってたのよ」
 母が突然颯斗の夢を許してくれた理由はなんだと探ると、母は呆れて笑った。
 「だって、小三以降オーディション受けさせて貰えなかったし」
 颯斗は肉をつつき、裏返して焼き色を覗く。まだ赤いよ、と対面の父から言われて肉を戻した。
 「あれねぇ……ごめんね、ママも忙しかったし、怖かったしね、あの時は色々あって」
 目を伏せる母に、颯斗は何も言えなくなる。母はそれ以上詳しくは言わない。言われなくとも、芸能ゴシップのことを指しているのだ、と颯斗はハッとする。颯斗は夢の中の自分に叱られたことを思い出して、今しかない、と背筋が伸びた。
 「俺もごめんなさい」
 「なぁんであんたが謝るの」
 母は目を見開いて颯斗を一瞥し、隣の父と目を合わせた。父は母子の話があまり話に入っていないようで、母のアイコンタクトに困っていた。
 「横浜出る前のこと言ってるんじゃないか。反抗期だっただろ」
 何とか絞り出した父の言葉は偶然にも適切で、颯斗は母を見て何度も頷く。
 「それならその謝罪は受け取ろうかな」
 烏龍茶が入ったジョッキを傾けて、母が一口含む。目を伏せて口の中の違和感を払うように飲み込んで、母は颯斗のほうへ身を乗り出した。
 「──颯斗はさ、家に戻る?」
 周りを憚るように小声で聞かれた。家、というのが横浜にある住居を指しているのだとわかった。母はこれから颯斗の夢を応援してくれるのだという。確か颯斗が今より幼い頃は土日も休みなく忙しそうにしていたが、ここ2年は颯斗の目にも落ち着いているように見えていた。両親が不仲だったことばかりに気を取られて、颯斗は母にそれを言われて初めて気付いたのだった。母は母で、「前に言ったのに」とボヤいた。
 「だって、ママに反対されてると思って島に来たんでしょ?私も協力するし、家の方が距離も都合がいいよ」
 颯斗は答えに困った。目で父に助けを求めると、父は話がわかっているのかわかっていないのか、颯斗に向かって力強く頷いた。
 「残る」
 颯斗は低い声で言った。ちょうど店員が大きな声で客を迎え入れたタイミングと被ってしまい、伝わっている気がしなかった。颯斗は両親の反応を待つ前に、再び「島に残る」と言い切った。
 「途中で転校するのは目立つし変だから。中一がおわるまではここにいる。中二から、横浜に戻りたい」
 両親は黙ってしまう。会話に夢中で焼きすぎてしまった肉を拾い、颯斗はご飯と一緒に掻き込んだ。母もつられて肉を拾って皿に運ぶ。美味しい味をよく噛まずに飲み込んだ颯斗は島に残る理由を畳み掛けた。
 「お父さんのために家事とかやらないといけないし……」
 現状颯斗が担っている家事は殆どない。片付けはお互いにしないし、掃除はたまに父がしている。この夏休みで火の扱いを覚えたばかりの颯斗の腕前では大人に遠く及ばず、料理も父が担っている。それなのに、颯斗はそれを理由に挙げる。そのほかの理由では納得して貰えない気がした。母は本当にやってるの、と父に確認するが、最後には納得した。
 「わかった。颯斗のわがまま聞いてあげる」


 母が横浜に帰って数日、颯斗は本当に家事をやり始めた。山盛りになった洗濯物を適当に畳み、整列させて積み上げる。掃除機も久しぶりに触って、廊下の隅に固まる出処不明の砂を、掃除機の吸い口でガコガコと責めた。時々再生数をチェックするようになった動画投稿アプリを眺めて、新しいコメントを読む。再生数は現在もじわじわと伸びており、その日五万回を超えた。颯斗は自身が映らないその動画に賞賛の声が集まるのを見てニヤリとする。
 母の支援を受けられると知って、颯斗は大型連休に限らない新人オーディションの情報も探るようになった。運のいいことに、秋から冬にかけて募集している事務所があったのだ。それは颯斗が夏前に見かけたが応募まではしなかった事務所だった。当時は存在を認識したばかりで視野に入っていなかったSTEPUPが所属するその事務所は、抱えるグループもまだ少なく狙い目だ。既に練習生としてデビューに備えている少年たちの顔ぶれを見ると、可愛らしい顔立ちがちらほらと写っている。シャープなカッコ良さが理想のアイドルだと信じていた前の颯斗なら候補にもせず、目に止まらなかっただろう。この中なら國吉が混ざっていても違和感がない、と考えるまでになっていた。
 颯斗は母に募集要項と注意事項が書かれたサイトのリンクとスクリーンショットを送り、メッセージで同意を得てから応募フォームを埋めた。颯斗の心は晴れやかだ。まるで悪いことをしているかのように隠れて応募していた夏前の自分を哀れに思った。
 颯斗はすがすがしい海風を受けて自転車で島の道を駆け抜ける。お盆の休みを除いて毎週欠かさず通っているダンス教室すら、これほど楽しみにしたことは無い。
 時間ギリギリに着く颯斗と違い、國吉は先に着いて駐車場でひとり遊んでいる。いつもは草や木の棒を生垣に突き刺して遊んでいるのに、この日は違った。生垣に埋まるようにして猫背に座る國吉の手には本があった。
 「どしたんそれ」
 颯斗は敢えて島の訛りを真似して國吉の頭から声をかけた。國吉は頭を上げず、本を覗き込んだまま、「ほーんー」と答えた。読むことに夢中で、機嫌のいい颯斗がどんな変顔をしようと我関せずだ。颯斗は無視されることに我慢できなくなり、本を抱える肩を揺らして「國吉、國吉」と無理矢理気を惹かせた。
 「夏休みに動画撮っただろ」
 「それが?」
 「國吉くん大人気だよ」
 國吉は暫し呆けて、それがどんな意味なのか考える。数秒して本をパタンと閉じ、「ほんと!?」と身を乗り出した。漸く本を片付けた國吉を颯斗はさらに揶揄う。
 「今日のレッスン終わったら動画についたコメント読んでやるよ」
 「えー今じゃないの?」
 「忘れて先帰るなよ」
 そもそも颯斗は時間ギリギリでここに着いているのだ。本を膝に乗せたままの國吉を置いて先々建物の中に入る。重いガラスのドアを大きく開けて、それがゆっくり閉まる様を眺めた。重いドアは國吉一人ではとてもじゃないが開けられない。國吉は慌てて颯斗の後を追い、ドアが閉まってしまう前に建物に滑りこんだ。

 「ねぇ早く見せて」
 レッスン終わり、汗を拭く颯斗の周りを國吉がちょこまかと跳ね回る。颯斗はそんな國吉が面白く、もったいぶってベンチに座り、スマホの画面を丁度國吉が見づらい角度で構える。アプリを立ち上げて該当の動画を表示し、やっと國吉に手渡した。
 「すごーい、どうやって見るの」
 スマホをまだ持たされず、恐らく電子機器にも疎い國吉はそれを渡されても賞賛の声にどう辿りつくのかわからない。颯斗は仕方がない、という態度を隠さず横から指を出して手品のようにコメント欄を表示させて見せた。
 「美少年?だってー、うはは」
 國吉は短く読みやすいコメントだけを拾って嬉しそうに颯斗を見上げる。颯斗も同様に誇らしく、國吉に笑い返した。
 「かわいいって言われてる、けしきって読むの?あ、ウミウシが気持ち悪いって、かわいいのに…」
 國吉は次々とコメントを読み上げる。颯斗はそろそろスマホを返してもらおう、と考えながらペットボトルの蓋を開けた。動画の自慢はしたいが、決して安くはない大事な颯斗のスマホだ。國吉があと二つ三つ読みあげたら取り上げようか、と颯斗は決めた。
 「この海行きたい、砂にまみれた足舐めたい…この海どこ?ふふ、瀬戸内海だってば」
 颯斗は國吉が読みあげたその言葉を飲み込むのに数秒はかかった。颯斗は数時間前にも動画の詳細をチェックしていたのだ。そんなコメントを残していった人など記憶にない。きっと國吉が読み間違えたのだ。怪訝に思いながら口に含んだスポーツドリンクを飲み干して國吉からスマホを取り上げた。
 「はいもうおわりー」
 「まだあったのに!」
 「これ俺のスマホなんだから。お前も買ってもらえばいだろ」
 颯斗の頭はぐちゃぐちゃだった。國吉に無茶なことを言いながら、頭では何も考えていなかった。國吉が先程読み間違えたコメントがどれなのか血眼になって探した。いくら上下にスクロールしても数十個しかないコメントの中にそんな異色な言葉は見つからない。颯斗はコメントを新着順にして画面を読み込み直した。
 『砂にまみれた足舐めたい』
 ほんの数分前にコメントされたばかりのそれは國吉が読みあげた言葉と寸分の違いも無かった。颯斗はそのコメントをタップするが、そもそもコメントは誰かが返信しない限り指でつついても何も起こらない。颯斗は考えるのを止め、スマホの画面を黒く落とした。
 「もー暑いから帰ろ」
 「うん。ばいばーい」
 國吉は聞き分けよくベンチから立ち上がり、颯斗を置いて駆けてゆく。入口の重いガラスドアも、出ていくときは全体重をかけて突進すれば國吉でも開けられる。颯斗はいつもならしない忘れ物の確認をして、疲れが溜まる重い脚でとぼとぼと自転車置き場まで歩いた。

 颯斗が投稿した動画は公開してから二ヵ月以上が過ぎ、再生回数の伸びは緩やかであるものの毎日誰かしらが跡をつけていった。コメントの数はそれほど増えず、ただ通りすがりの視聴者が数字に足されていくだけだった。そんなつまらない数字を、颯斗は眺め続けた。その度、あの様子のおかしいコメントが目に入る。初めこそ何かの打ち間違いだろうと思ってやり過ごした。そのコメントを非表示にすることもできると知っているのに、颯斗は何もしなかった。ほかの誰かに「それは変だ」と言われるまで、変であると断定することができない気がした。そのせいで颯斗がスマホを眺める時間は増え、ベッドに寝ころびながら新着メッセージの無いメッセージアプリを開いたり、メールボックスを徒に開いたりして過ごした。
 そんな日々が功を奏してか、颯斗はメールボックスに待ち望んだ新着バッヂが瞬いたのを見逃さなかった。
 結果は通過。
 颯斗は特大の溜息を吐いた。本当はここからもっともっと勝負がある。それでも、颯斗は嬉しいと思う気持ちを止められない。颯斗は勝負の舞台に立てるのだ。今までは資格がありながら立つことすら出来なかった土俵に立てるのだ。まだ仕事中であろう母にメッセージを送り、スマホの画面を下にして放る。颯斗は疲れた目を擦って洗濯物を取り込みに庭へ出た。