八月に入った日、仕事が休みの父は颯斗を連れて焼き肉屋に入った。家族連れや大人同士が煙の向こうに見える中、颯斗は父が注文するのを静かに聞いた。夏休みにどこにも行けないことを父に当たっていられない。参加したかった二次審査の日程はとうに過ぎ、取り返すこともできなかった。
店員が飲み物の注文を聞く。車でここまで来ている父は酒に見向きもせずつまらないお茶を頼んだ。そして颯斗の注文を聞くため、店員と父の両の目がこちらを向いた。あの日以降、父とあまり話していない。必要なことや普通の挨拶は互いに声掛けをしてきたが、それでも二人の間に流れる空気はどこかひりひりとしていた。それはきっと颯斗のせいだった。
「俺、カルピスがいい」
颯斗は店員にではなく、父の方を見て言った。
「ああ、じゃあ……やっぱり俺もカルピスで」
父子の間に流れる空気など我関せずな店員はすぐさま「カルピス二つー」と唱え二重線を引くボールペンの音を立てた。
カルピスが入ったジョッキをぶつけて「かんぱーい」と声が揃った。カルピスで喉を潤すと、喉の奥にあった痛い固まりが解けていく心地がした。父とごっこ遊びのように乾杯できることが嬉しかった。母から離れて島に来た颯斗の味方はもう父しかいないのだ。旅行になんて行けなくても、オーディションの選考に進めなくとも、代わりの幸運があったりなどしない。心地よい空間は自身で作るしかないのだ。
「今月は登校日はあるんだったか」
「うん。次の木曜日…」
颯斗は父が焼いてくれた肉を白米と一緒に口に詰め込みながら答える。口いっぱいにして噛む焼き肉は今ではない時代の、懐かしい味がする。颯斗は目だけでタレの容器に向けてその注ぎ口を観察した。変に汚れたりはしていない。それ以上に荒を探す前に颯斗は目を逸らして目の前で色づいていく次の肉に集中した。
「あ、そうだ」
颯斗はスマホを取り出してあの巨大なウミウシの写真を表示してテーブルに出す。皿やジョッキを避けてスマホを父の方へ押して画面を見せた。
「うわなんだこれ」
「ウミウシだって」
父は焼きあがった肉を全て取り皿に乗せて颯斗のスマホを手に取った。「ウミウシなのはわかるよ」と目を細めてその画像を眺めた。
「見ない色だなあ。そんでデカイのか」
颯斗の手じゃないな、友達か。と父は嬉しそうにする。颯斗は父がウミウシに興味をなくす前に、と気になっていたことを聞く。
「ねぇこれって毒ないの」
「わからんなぁ。触るなって言われとったのはオコゼかアカエイか…あれは踏むな、じゃったか」
颯斗が知りたいなら今度聞いてこようか、と父は写真の共有を求めた。颯斗は毒性があるかどうかだけを知れたらそれで良かったし、父以外に聞く気も無かったが黙って父に画像を送信する。
「颯斗もまた海行くならオコゼとアカエイ気を付けえよ」
父は送られた写真を確認して新たに肉を焼き始める。颯斗相手にも時々方言が混じるようになった父に慣れない颯斗は父の言葉がむずがゆい。島に関連することを話題に上げるときっとそうなるのだ。颯斗は父に振る別の話題を探した。
朝、颯斗が目を覚ますと既に十一時を回っていた。昨夜は中学生の癖して酷く釣り好きの友達に夜釣りに連れていかれた。帰宅できたのは朝方七時で、既に仕事に出る準備をしていた父には「すっかり島ガキだ」と呆れられた。颯斗はまだ寝ていたかったが、誰かが自分を呼ぶ声で目が覚めたような気がしてならなくて、フラフラしながらリビングに出た。昨日の釣り好きが性懲りもなく訪ねてきたのかもしれない。颯斗は縁側から外にでて太陽光を浴びた。
「あー出てきたよはやちゃん」
「はぁ?」
玄関の前で國吉が座り込んでいた。その隣には都会っぽい恰好をした女の人がいる。
「久しぶりー。覚えてる?覚えてないかー!あのときすっぴんだったから」
颯斗はその声で彼女が“千夏ちゃん”であると確信した。今こうして聞くと、ひさご旅館の女将さんと喋り方がそっくりだ。確かに島に来たばかりの翌日、三月に会った彼女とは雰囲気が変わっている。優しそうな印象だった目元は黒くラインが引かれ、唇は濃くはっきりと暗い赤色が塗られていた。
「覚えてます。あの、着替えてきますので、上がってください、先に」
颯斗は動揺を隠せず訪問者二人を縁側から招待した。國吉が遠慮もなく靴を脱いだのを確認して、リビングに山盛になっている洗濯物を山ごと自室に引っ込める。父の靴下まで混ざるその山の中から適当にダンス用の練習着を引っ張りだしてドタバタと廊下に出ながら慌てて身に着けた。
「ごめんねぇ急だったね」
「でもはやちゃんがいつも家にいるって言ったよ」
明日ダンス教室で会うんだからその時約束取り付けろよ、と颯斗は笑顔の裏で文句を思い浮かべた。
「麦茶でいいですか」
「あぁ、いいのいいの、お母さんからジュース持たされてて。颯斗君の分もあるから」
千夏はトートバッグの中から次々とお菓子の袋を取り出して、最後に缶ジュースと瓶に入ったオレンジジュースを取り出した。颯斗がひさご旅館で出されたものと同じオレンジジュースだった。コップだけお願いします、と千夏に言われ、颯斗はなるべく揃ったデザインのものを探す。しかし父と2人暮らしのこの家には来客用のコップなど無く、颯斗は仕方なく父が使う酒用のガラスコップと自身が使う麦茶用の背の高いガラスコップ、そして耐熱用のマグカップを出すしかなかった。マグカップはさすがに自身が使い、ガラスの方を2人に差し出す。どうして國吉が千夏まで連れて家まで来たのか、颯斗は見当がついていなかったが、千夏がテーブルの上にディスクが入ったケースを積み上げ始めたのみて「あっ」と声を上げた。國吉にアイドルのコンサート映像を見せてやる、と言ったことを思い出したのだ。
「これがA-RIZEで…私昔は琥珀一途も好きだったからDVDで持っててさ」
アイドルに疎い國吉が琥珀一途を知っていたのはきっと彼女の影響だろうと勝手に思っていたが、正解だったようだ。
「鑑賞会するんだって聞いたから持ってきちゃったけど、私のは気にせず颯斗君の持ってるもの優先で再生してね」
「あぁ、はい……」
颯斗は千夏を含めた空間で何をすべきか相当に迷い、背中をかきむしった挙句テレビをつけて瞬時に配信サービスの画面に切り替えた。國吉はぼーっとジュースを飲み続けるが、千夏はそれだけで颯斗が何をしようとしているのか見当がついたようだった。
「契約してるの?いいなー!」
颯斗は検索項目に琥珀一途の名を途中まで入力し、表示された一覧を二人に見せた。琥珀一途が出ていたバラエティ番組もワンマンライブも含めてサムネイルがずらりと並ぶ。
「國吉が疎そうなんで、深夜番組の面白かった回とか見ようかなって思ったんすけどライブとどっちがいいすかね」
「えっいいの!」
食いついたのは千夏の方で、テレビの前に移動して真剣にサムネイルを比べている。遠慮も無くなった彼女は「あれ見たい!審判のヨルにゲストで出た時の!」と颯斗が手にしたリモコンをびしっと指す。
「國吉もそれでいい?」
「うん。別にいいよ」
きっと何もわからず返事をしているのだろう。颯斗は國吉に選ばせるのは今度でいいか、と千夏のリクエストを優先した。
バラエティ番組で千夏がひとしきり笑っている間、國吉はじっとテレビを見つめる。既に一度は見た颯斗でも面白いと思って口許が緩むくらいだ。楽しめているのか心配になった颯斗は國吉に「この話、分かる?」と聞いてみた。案の定、「あんまりわからない」と返ってくる。
「まぁこれで笑うには賢くならないとな」
冗談のつもりで國吉を慰めた颯斗だったが、千夏は大真面目に賛同した。
「そうだよクニちゃん、今はいいけど、アイドルになるんだからこんな風に面白いことも言えるようにならないと」
「えー」
國吉は不満そうに膝を組んでお菓子に手を伸ばす。調子の付いた颯斗が「今からでもがんばれよお前、馬鹿にアイドルは務まらないんだから」と野次を飛ばす。國吉はもー!と怒り出し、颯斗に飛びつく。馬鹿っていうな、とぽかぽかと颯斗の膝を叩く。颯斗も颯斗で、お前に向かって言ったんじゃないのに、と逃げ道に入る。「聞こえない!今のとこ巻き戻してよー」と千夏がテーブルに身を乗り出し、二人の争いを止める。賑やかな鑑賞会は夕方のチャイムが鳴るまで続いた。
八月の終わり、颯斗はスマホの通知から見覚えのある文字列を見つけた。颯斗が投稿してからずっと忘れていた、動画オーデションを募集していたプロジェクト名だ。タップすると、一次審査を通過した面々が合宿に招待されたという内容のVLOGだった。颯斗は慌ててダイレクトメッセージの欄を覗くが、メッセージは一件もない。別に悔しくはなかった。もう一度VLOGに戻って審査に通過した面々を確認すると、颯斗と住む世界が違う者たちばかりだった。ダンサーを目指すような派手な髪色の子、面白い動画で再生数を伸ばす高校生のティックトッカーに容姿ひとつで人気を集めるインフルエンサー、そんな人たちばかりだった。選ばれた者の中に男の子は一人もいなかった。颯斗は心が萎れると知りながら自身が投稿した動画一覧を表示した。プロジェクト名のハッシュタグをつけて投稿した動画と、その後に投稿した、國吉を撮影した動画だ。結局國吉には特に断りも無く動画を一つアップロードした。颯斗はその動画たちの再生数がオーディション用の動画よりひどく伸びていることに気付いた。
「四万?」
僅か千回しか再生されなかったオーディション用の動画より何倍も見られている。颯斗は怪訝に思って動画のコメント欄を開いた。数は少ないが、コメントもつけられている。颯斗は興奮で心臓が飛び出そうだった。コメントの一つ一つをゆっくりと読み進む。ほとんどは「きれい」「海いいな」などと短く景色を褒めるものだが、一部はややオーバーに「こんなとこ日本にあるんだ」「美少年」と賛美している。
颯斗は「いいねボタン」を押された回数やら再生数が格段に伸び始めた日、他SNSに共有された回数など、動画の詳しい分析を隈なく調べた。どれだけそれを眺めようとも颯斗にはなにひとつ意味など分かりはしない。ただ、自分の身にすごいことが起きている予感がした。颯斗は嬉しくなって、もう一つ、ウミウシを持ち上げた國吉の動画を急いでアップロードした。動画はちょうど颯斗が『うわキモなにそれ!!』と叫んだところで終わっている。ギリギリ写り込んだ國吉が薄紫を手に持っていることがなんとなくわかるくらいだ。その動画に「瀬戸内海の浜辺で見つけた」とどうにか視聴者の気を引くタイトルを絞り出し、海、ウミウシ、入道雲、と手当たり次第のハッシュタグを付ける。最後に迷って、「美少年」というタグも付けた。もちろん國吉のことを指している。からかうつもりで付けたと言えるし、ひとつ前の動画で実際にそうコメントに書かれたのだからそうなのだろう、と思って付けたとも言える。どうなろうと誉め言葉だ。颯斗は國吉にバレてなにか言われた時のための言い訳を今から考えては心の中で笑った。
もう、動画オーディションで選考に進めなかったことは心底どうでも良くなった。あんなのより、この動画の方が遥かに面白い。颯斗は久々に横浜の友達と連絡をとり、四万回再生された動画のリンクを送信する。
一分もせず既読がつき、友達のうちの一人は「バズっとる」というメッセージと共に犬が踊るアニメーションスタンプが返ってきた。颯斗はまだ再生数については言及していない。にもかかわらず、颯斗の意図を汲んでいち早く反応してくれたことが嬉しかった。たった四万回かよ、と言われる覚悟までしていたのに、これは颯斗のほうからなんと返せばいいか分からない。悩んでいると、時間差でメッセージが追加される。
『うつってるの友達?』
数秒の迷いが生じて、颯斗は『小学五年生』とだけ返した。國吉のことは既に友達、だとおもっているが、横浜で親しかった友達に國吉のことをそう紹介することは少し嫌だった。彼なら深く聞いてこないだろうという企みもある。
『颯斗ももうティックトッカーや』
友達はサングラスをした犬の絵文字で会話を締めた。颯斗は友達のそのメッセージに笑い、自身がティックトッカーになった想像をしてみる。四万回再生された動画には颯斗は映っていないのに、自分自身が有名になることばかり考えた。そのまま芸能界にスカウトされたりなんかすれば、もう書類審査や二次審査に悩むことはきっと無いのだろう。颯斗はアプリを閉じて、動画から話題になって芸能人になった人の前例を探した。探すのに困らないくらいには例が出てくる。しかしそれらの動画の再生回数は文字通り桁違いだった。今の百倍再生されたって彼らには敵わない。颯斗はガッカリするも、そんなもんだよな、と自分を納得させる。吹っ切れるとティックトッカーへの憧れも醒めて、タオルケットを被ってスマホを手放す。明日こそ宿題に手を付けないと、と颯斗は夏休みの残り日数を指折り数えて眠りについた。
