ダンス教室の廊下のベンチで颯斗は猫背になってスマホを握りしめる。夏休みの間に二次審査が行われるであろうオーディションを調べ、ページをタブに残して積んでゆく。どこでもいい訳では無いので、A-RISEが所属する事務所だけにする。事前に撮っておいた中で『そこそこ盛れた顔写真』をアップロードし、必要事項を入力していく。応募フォームの下方に並んだ小さな文字とにらめっこしながら慎重に注意事項を読む。つらつらと長ったらしいそれは個人情報の取り扱いや失格要件など至極当然なことを羅列している。颯斗はついに読むのを諦め、そのまま応募ボタンを押した。
「はやちゃんやっほ」
國吉が颯斗の隣に座る。スマホを覗き込んでくる頭を躱してポケットに隠した。
「なにいまの」
相変わらずため口だ。ただ颯斗も小学生相手に無理を言うつもりはないし、中学に入ったからといってあまり自分が敬われることに憧れもなかったのでそのままにさせている。なんでもない、と誤魔化そうとして事務所オーディション、と素直に答えた。もうコイツも同じ目標をもつ仲間だ。隠す必要は無いし、情報を流してやってもいい。
「家にパソコンあるなら國吉もやれば」
國吉は少し考えてから「ふーん」と澄まし、ぼくはちなつちゃんにやってもらお、と生意気に言った。國吉のいとこにあたるという千夏ちゃんは、颯斗がひさご旅館で話をしたあの女の子のことで、京都の大学に通っている。あの時期は春休みで実家に居ただけであり、普段は島に居ないのだとお喋りな國吉から聞いていた。
「言っとくけど締め切りあるからな」
颯斗は話を切り上げた。國吉にその意味が分からないとしてもそれまでだ。颯斗は自分のことに手一杯で、人を助ける余力などない。本気になれ、と國吉を叱咤することもないし、こうすべきだ、と道を示すこともしない。颯斗はそう自分に言い聞かせ、火が灯りかけた心を鎮める。
國吉は颯斗と違いちびっこに混ざって練習することに納得したらしく、そこにも参加して、颯斗と一緒のレッスンの時間にも参加している。國吉は今週二回目のダンス教室ということになる。颯斗はいつも、この『クソガキ』がどれほど上達したのかを審査する気持ちで週一回のレッスンに臨むようになっていた。自分のことに集中しなければならないが、なにせ半ば無理矢理開くことになった二人同時のレッスンだ。本当の意味で颯斗のレベルに合わせたレッスンをしてもらうには、國吉のレベルが颯斗に追いつかないと話にならない。ダンス歴に明らかな差があるからしてそんな日が来ることは有り得ないとしても、颯斗はそう期待した。
アイドルになりたいと思い始めたのが「このまえから」と言った國吉は案の定アイドルに疎かった。小学生が目標を決めるときなんてそんなもんだ、と父は颯斗を宥めたが、それにしたってアイドルが出演するようなテレビ番組も見ていないようだった。アイドルという言葉を知っていたのもあの千夏ちゃんの影響に過ぎず、その千夏ちゃんの気を引きたくて言っているに違いないと颯斗は決めつけた。それでもこうしてダンス教室には来ているのだから、國吉はよっぽどあのお姉ちゃんがお気に入りなのだと解釈した。
國吉の顔は特別なものではない。だけど、笑うと可愛い。ちいさなほくろが所々にあって、アイドル然とした顔立ちではないが、颯斗はアリだと思った。今活躍しているアイドルの中にも國吉のようなほくろがある人はいるし、とびきりの美形、とは言えない人もいるからだ。ダンスや歌が上手ければ望みがあり、それは努力で補える。幸い國吉は歌は得意だった。よく通る声がでるし、レッスン中もふざけたりしない。その時は普段の甘えたな様子から2、3歳は歳をとってみえる。平常時の幼さから考えるとつまり歳相応だ。それは颯斗から見て好印象だった。妙な聞き分けの良さからもくるのだろう。
そんな颯斗と國吉のレッスンも八回目を重ねた。その日の終わりに、先生がタブレットを持って二人を手招く。元気が有り余る二人は先生が胡坐をかくその目の前まで走った。
「これみて」
先生は緑の爪でタブレットの液晶をカツカツと叩いた。國吉はその文字を覗き込んでも首を傾げるが、颯斗には遠目からそのページの意味がわかった。見覚えがあったからだ。
「ダンス動画オーディション……」
颯斗は知らないふりをして遠くからそのページを読みあげた。内容も知っている。動画投稿アプリに自身が踊っている縦型映像をアップロードして、ハッシュタグを付けて投稿するだけでエントリーしたことになるオーディションだ。ほかの人の投票によって上位に選ばれた人が次の選考に進めるというもので、チーム応募とソロ応募ができるはずだ。
「これね、二人にいいと思うんだよね。もちろん颯斗くんだけでもいいけど」
ぬるい。颯斗は画面に目を落として國吉に募集要項を読みあげて説明している先生のつむじをみて想像の中で『ぬるい』とシールを張った。こんなものは既に人気のある動画投稿者が参加するもので、一つも動画をアップロードしたことのない颯斗が出る幕は無い。颯斗が得たいのは大人の、事務所の審査員からの評価であり、有象無象の視聴者からの投票は意味がない。そんなところからアイドルに成りあがる想像がつかなかったし、颯斗自身、インフルエンサーの場から芸能人になったというアイドルの例をみては「違う」と感じていた。颯斗が憧れるのは事務所に入所し、研究生としてレッスンを受けた後に、共に切磋琢磨した研究生の中からグループを組まされてデビューする、そういうものだ。颯斗は「ダンス動画オーディション」を自身に進めてきた先生への違和感に耐えられなくなり、ついに口を挟んだ。
「俺普通の事務所オーディション受けるんでそういうのやらないです」
先生は颯斗のトゲのある声色に気付かず、タブレットを颯斗の方に向けてスワイプして見せた。
「それはそれとして数打つのは大事だから、ほら」
先生の緑の爪は例題として祭り上げられているダンス系インフルエンサーの動画を表示して止まる。
「颯斗くんが嫌なら投稿はしなくてもいいんだけどね、動画撮るのは挑戦してほしいな。撮ったら自分がどう動いてるかよくわかるよ。動画は鏡より真実だから、動画の君らが実際に周りに見えている姿だと思って」
知らない顔のインフルエンサーが縦動画の枠に収まるようなダンスを披露しているのが颯斗の目の前でループする。
「ぼくやる。ねぇはやちゃん、ちなつちゃんに撮ってもらおうよ」
國吉はまた千夏ちゃんを召喚した。國吉にとってはコレと、颯斗が真剣に応募している事務所オーディションも似たようなものなのだ。颯斗はこんなぬるい國吉に「俺もアイドルになる」と打ち明けたことを後悔し始めた。
「わかりました。動画は撮ってみます」
颯斗は声色を戻して先生に元気よく言った。動画投稿アプリで顔出しをするのが不安だったのだと言い訳まで添えて顔に照れを浮かべる。そうすることによって説得されることを避けようとした。実のところ、颯斗がどこに応募しようと、どこに応募しなかろうと自由だ。満足のいく動画が撮れなかったことにすればいいし、そんなのより前に事務所オーディションの書類審査を通過してしまえばいいのだ。そうなったら、言い訳を考える暇もないほど忙しくなれるだろう。
颯斗はダンスレッスンが無い日も毎日早く学校から早く帰ることが習慣になっていた。明るいうちなら庭でダンスの練習ができるし、家でテレビ見たりゲームをしたりして過ごすこともできる。父子家庭であることを持ち出して家事や買い物をしなきゃいけないことも言い訳に使える。だから、期末テストが終わった今日その日がボランティア部の活動日だという事を完全に忘れていた。
少人数かと思われたボランティア部は集められてみると結構な数だった。その日の活動内容は花壇の植え替えで、入学式のときには揃えられていたチューリップやパンジーが既にごっそり無くなっていた。颯斗が任されたのはサルビアだとかいう花で、素手で土を掘って種を二つ三つ落としていく。周りには大人しそうな男の子と女子ばかりで、力仕事を厭わない颯斗は用務員さんと音楽の先生に重宝された。それぞれ腰をかがめて雑談をしながらプランターに集まると、どうしても女子が固まるところは騒がしくなる。颯斗は特に理由なく早く帰りたいと思い職人のような気持ちで袋に入った土をいろんなグループの前に置いて行った。「土おいときまぁーす」とリズミカルに言えば、女子のグループは声を揃えてはーいと返事をした。そのグループの中に、大石がいた。大石も気付いたのか、土のついていないほうの手を小さく上げて「おっす」とでも言うようにこっそり合図した。颯斗も首を反射的に首をすくめて「おっす」と声もなく返す。自分の分のプランターに帰ってきたとき、一緒に作業していた用務員のおばちゃんに、「ボランティア部ってこんなにいるんですか」と聞いた。すると想像通りの回答が得られる。
「あの女の子らは吹奏楽部で、あとは生物部もおるね」
大石とその近くにいた女子たちは吹奏楽部だったはずだ。道理で吹奏楽の顧問である音楽の先生もいるし、人手もこんなにあるはずだと颯斗は納得した。颯斗はあのあと一度も真面目に話していない大石のグループの方に耳を傾けた。女子グループは人目もはばからず普通の声量で喋っているし、耳を澄ませずとも周りには丸聞こえなのだが、大石は雑談に相槌を打つだけで、あまり主体となって喋っていなかった。あんなにペラペラしゃべるのに、と、颯斗は心で笑う。結局颯斗はSTEPUPの曲まで聴くようになった。A-RISEほど派手なダンスを踊るグループではなかったが、曲はなかなか良かった。かっこいい曲よりかはどこか面白いような、明るく跳ねるような楽曲を得意としているようだった。頂点にいる琥珀一途とは比べられもしないが、楽しいミュージックビデオや曲のポップな印象は颯斗がアイドルというものを目指す前の時代の琥珀一途と通ずるものがある。だから、颯斗はもう一度大石と話してもいいと考えていた。
「あーそう、みたよ晴子!『解析不能なわたしたち』」
ひと際声の大きい女子が言う。それに対し、大石が「えっっ!ほんま?」と高い高い声を上げた。
「清長やっぱおもろいわ」
「でしょー!私まだみてないんだけど。リアタイしたん?」
「ママがみててさ、途中まで横で見てたんだけどさ」
「心理テストのでしょ?」
「そう!清長の検索履歴がさ、健康のことばっかりでさ。そんなの気にする歳じゃないじゃんって。これ番組でも言われてたんだけど」
「あーそれ、言ってたかも。腰痛持ちだから芋づる式にいろいろ見ちゃうって」
「えーそうなんだ、でさ、……」
颯斗は聴こえてくる雑談をなんとなく流しながら手を動かした。大石が喋っているという状況だけが面白く、内容の意味が解らなくともどうでもよかった。
「あ、なに?ステパの?」
大石の周りにいた別の女子の声がする。ステパ、と聞いて颯斗の頭は急に働き始めた。流し聞きしていた今までの会話を必死に思い出そうとする。STEPUPの話をしている大石を面白いと思っていたのに、今の会話がSTEPUPに関連した会話だと気付かなかった。
「晴子の推しだれだっけ?」
「え、清長じゃないの?」
「紀野でしょ?」
「紀野」
正解を当てた女子が「ういー」と勝利の拳を上げる。土の付く拳を顔の高さまで上げたその子は、すぐさま周りの女子の手で「きたない」「やめろ」と押さえ込まれた。
「ウチだったら道長じゃわ」
「わかる、紀野は無いかも」
大石は変わらないいつもの赤い頬でえーっと笑いながら声を出した。
「というかステパ自体顔面があんまりね」
「それ言ったらこの話終わる」
「いっつもそれ言うじゃん」
「ステパになんかされたんか」
STEPUPのことがあまり好きではないらしい女子は口々にからかわれる。大石だけが何も言わなかった。それは普通の女子の会話だった。横浜のダンススクールで雑誌を囲んでいた女子達も似たような会話をしていたような気がするし、題材が変われば颯斗も覚えのある会話の流れだった。好きなものの話をするのは自由で、誰にも止められない友達同士の雑談だ。
颯斗はあの日の大石の態度が、ようやく腑に落ちた。大石は、あの女子に対して思っていることをあの日、颯斗に向けて言ったのだ。
颯斗はそれ以上大石たちの話を聞くのをやめた。勝手に耳が彼女たちの声を拾ってしまわないよう、用務員さんと近くの男の子に話しかけてなんとか会話に集中する。男の子は大人しくて反応があまりよくないし、用務員さんも口ごもる男の子に遠慮して場を譲るので会話は弾まなかったが、颯斗には十分だった。颯斗はそうすることで理由もわからず湧く怒りを鎮められる気がした。
ボランティア部の活動はほかの部活に比べると長いものでは無かったが、颯斗はまるで運動部の活動をやり切ったような気分になって帰宅した。玄関前までだらだらと歩き、家の鍵を差し込もうとして既に開いていることに気付く。颯斗は久しぶりに自分の身体から「ただいまー」という響きを奏でた。リビングの奥から、「おー、おかえり」と父の声がした。靴を見ても父が帰ってきていることがわかる。
「早いね」
「まぁ今日だけな」
父は颯斗の代わりに洗濯物を取り込み、小さな山になったバスタオルの横でテレビを見ていた。父子の間から洗濯物を畳むという習慣が消えてからは各々必要な時にその山から目当ての布を引っ張り出して使うことになっている。颯斗はその山が放って置かれているのを見て胸がざらりとした。さっきのムカムカとは別のものが心に溜まっていく心地がした。
「颯斗はいっつもこの時間か」
「いや、今日だけ遅くなった」
それだけ返して自室に逃げ込み、肩に食い込む鞄も降ろさず椅子に座った。スマホを取り出すが特に急いで見たい動画もない。目的もなくホーム画面を行き来すると、メールアプリのアイコンに新着メールを報せるバッジがくっついていることに気が付いた。苛立ちを流し込むように親指で連打し中身を確認する。それは颯斗が二週間前に応募した事務所オーディションの一次審査の結果のお知らせメールだった。颯斗はそのタイトルでその文字を認識して、苛立ちからきていた貧乏ゆすりがピタリと止まった。代わりのように心臓がばくばくと脈打ち、全身から緊張の汗がじわりと噴き出た。タップしてメールが読み込まれる僅かな瞬間も我慢できず颯斗の頭の中は自分の声と考えでいっぱいになる。お知らせがわざわざ来るという事は手応えがあったということで、対面審査で審査員に絶賛されて、横浜に戻ることになって、高校生のうちにはデビューもできて──
颯斗はまずメールの文面の中から『合格』の文字を探した。パッと目を流すだけでは見つからず、焦る自分自身を落ち着けて肩にかかったままの鞄を床に落とした。もう一度ちゃんと読むと、『通過されましたので』というフレーズがある。これが合格の意味だと颯斗は確信する。さらに下へと読み進めると、二次審査の日程が載せられていた。颯斗の睨んだ通り、それは夏休みが始まった後、最初の日曜日だった。颯斗は部屋を飛び出し、廊下を跳ねるように走った。リビングにいる父の隣に転がりスマホの画面を父に見せた。父は颯斗からスマホを受け取り、しげしげとメールを読んで颯斗が興奮している理由をその中から探す。
颯斗は父がメールを読み終わるのを待てず、芸能事務所の一次審査に通ったのだとまくし立てた。二次審査の日程と、会場のことまで言って、颯斗は期待を込めて父の顔を見た。
「すごいじゃんか颯斗。へー、すごいことだ」
父はだらけていた身体を起こして改めてメールを読み込む。父は笑みを浮かべたまま表情を変えない。真剣にスマホに向き合う父が次に何を言うのか、颯斗は察してしまった。
─愛想で誤魔化そうとしてんだよあれは─
颯斗は父が決して誤魔化そうとしているのではないとわかっていた。表情が固まっているときは、真剣に言葉を探していることに気付いていた。それなのに、母の声が颯斗を苦しめる。
布団の中でユーチューバーの動画を見ながら、颯斗は体中の寂しさを集めた。
保護者同伴であることが条件の二次審査は、もう行くことができない。父が一緒に行けない理由は決して颯斗の夢を否定するものではなかった。それでも颯斗は憤った。父と一緒にこの島へきたのはこの賭けに勝つつもりだったからだ。母と横浜に残っても母は二次審査の会場についてきてくれない。しかし父なら応援してくれる。そう思って父についてきたはずだった。颯斗は自身の見通しが甘かったことに腹が立ったし、それ以上に両親を憎んだ。そもそも、母が応援してくれていたら、父が島にUターン出向しなければ。自分をもっと、愛してくれていたら。
面白い動画を見ているはずなのに、颯斗の耳には母と父の言い争いが聞こえた。
「あなたは何もわかってない」
母が父を責める。
「小学生よ?親がついて行かなくちゃいけないの。私が行かなくちゃいけないしあなたがつかなきゃいけないの。他の親御さんにウチの子みてもらうつもり?アンタが無責任なのよ」
小学三年生の颯斗は自身の話をされているのだと理解した。ゲームに没頭するために、小さな耳穴にイヤフォンをねじ込んだ。
「諦めさせようとするのは違う」
父が母を責める。
「颯斗がやりたいって言ってるのに誘導するのは違うだろ。子供相手に誘導するのは卑怯だって言ってるんだ。おかしいこと言ってるか?」
「おかしい! 全く話が嚙み合わない! 忙しいのに! 私の方がアンタより忙しいのに!」
「関係ないだろこの話に!」
泣き出す母と怒鳴りながら狼狽える父。
颯斗は昨日、二次審査に落ちた。母がついてきてくれた二次審査の受け答えで何かを失敗したような気がする。でも、全力を出せたような気がする。何が悪かったのかわからないけれど、きっと颯斗のどこかが悪かった。きっと失敗をした。颯斗は特に気にしていなかった。毎年あるものだと知っていたし、審査員の人にも褒められた。だから、颯斗は二次審査の結果を知らされたとき、泣いたりしなかった。部屋の中が暗いのに、誰も灯りを点けない。液晶画面を見つめる颯斗の目に涙が溜まる。泣いていることがばれてしまうから、拭わなかった。声も出さずに颯斗はひっそりと涙を膝に落とした。
