かすかに青だった

 三学期の授業が始まった日、スマホのメールボックスに新しいバッヂがついた。件名を見ると、11月の下旬に受けた最終審査の結果通知だとわかる。颯斗は新着メールとしてそこに並ぶメールをなかなかタップできなかった。今の今まで落ちたのだと思い意識からも消えていたその通知に乾いた笑いさえ出る。結果も期待できないそのメールに、どうドキドキすれば良いのだろう。とどめを刺すようなそのメールを開き、今度はゆっくりと上から順に読む。最終審査にお越しいただき、誠にありがとうございました、厳正なる選考の結果、 残念ながら、候補生、見送り─
 言葉を飛ばし、だんだんと読むのにも飽きてくる。颯斗はそれ以上文字を追うのをやめて母にメールのスクリーンショットを送る。「結果きた」とだけメッセージを添えてスマホの画面を落とした。テレビをつけて何を見ようかと動画配信サービスの中から興味もない映画の新着をだらだらと眺めた。
 父が帰り、ぼーっとテレビを見ながらリモコンを握る颯斗のために電気をつけてくれる。夜ご飯を作り始めた父は動かない颯斗に声をかけない。父が理由も知らず気を遣ってくれているのがわかった。
 味のしない夜ご飯を食べ終わった頃、颯斗のスマホに母から電話がかかった。先に食べ終わった父が颯斗の分の食器までシンクに運ぶのを見送って電話をとる。
 「見たよ。どうする?颯斗はどうしたい?」
 開口一番、電話口の母がやけに優しく語りかけた。颯斗はどう答えるべきかわからない。
 「どうって…」
 黙ってしまう颯斗に、優しい母が急かすように再び「どう?」と催促する。そんな風に言われると颯斗は余計に言葉が出ない。父もこちらを伺って緊張した様子で颯斗と母の電話内容に耳をそばだてている。ついにしびれを切らした母が、あのね、と颯斗を諭し始めた。
 「ママはいいと思うよ。一回話聞いたら?」
 「話?」
 母の言っている意味がわからず颯斗は最終審査のメールの内容について話しているのか、それとも別の話をされているのか混乱する。
 「話ってなんの話?」
 颯斗の混乱が電話口に伝わり、母が呆れたように笑った音がした。
 「やっぱりあんたメール読んでないでしょ。もっかいちゃんと読んで、悪い話じゃないよ」
 母に送ったスクリーンショットを表示してもう一度読む。長々と堅苦しい文章の続きは颯斗が落ちた理由を連ねているのでは無く、部門を変えての所属の誘いだった。アイドルの候補生としては採れないが、素質を評価しているだとかと言って、俳優・タレント部門の育成枠として改めて話をしないか、という内容だった。「アイドル候補生としての採用ではないため、棚橋様のご意向を第一に伺いたいと考えております」と述べた後に、話し合うための希望の形式や予定調節の提案がある。続きをスクロールすると、変なところで途切れていた。母がやっぱり、と笑った理由が今になってわかり、颯斗も母とそっくりな呆れた笑い声がでた。スクリーンショットには入り切らなかった続きの文章をメールアプリで確認し、内容の全文を理解する。
 「どうだった?」
 父が優しく聞いてくれる。メールの内容を読みあげると、父も母と同じように「いいと思うよ」と言ってくれた。颯斗が嫌なら断ってもいいよ、と続けて母が言いそうなことも父の言葉で補った。
 「うん。考えてみる」
 そうだ、と父が席から立って映画の途中で停止したままのテレビを消す。
 「お祝いしようか」
 「どうやって?」
 「アイス買いに行こう」
 父はさっき脱いだばかりのコートを掴んで袖を通す。
 「冬なのに?」
 言いながら、颯斗も脱ぎっぱなしの靴下を履きなおした。部屋まで上着を探しにいってリビングに戻る。既にリビングの電気を消した父が玄関で待っていた。
 夢は叶わないかもしれない。それでも、今感じている嬉しさを無視することはできない。颯斗はそんな風に思う自分を幼いと思った。同時に、大人になるというのは、素直になることかもしれない、と纏まらない頭で考えた。

 二学期にまるまる忘れられていたボランティア部の活動は、三学期に復活した。とんど祭りの準備に駆り出される運動部とボランティア部一行は放課後、ぞろぞろと小学校に向かった。小学校の方角をなんとなく知っている颯斗でも、実際に行くのは初めてだ。運動部の友達と話しながらその固まりについていくことで、颯斗は周囲に馴染んでいた。
 到着してから、まずテントを組み立てる手伝いをした。ほとんど上級生が率先してやってくれるおかげで、颯斗たち一年生は軽い手伝いしかできない。特に運動部に入っておらず縦のつながりを持たない颯斗は積極的に混ざりに行くこともしなかった。友達の方は仲のいい先輩と同じ角を持ったり連携をとったりして、雑用なのに楽しそうだ。
 その代わり、颯斗はグラウンドに残っている小学生に目が移る。國吉がいればいいと思った。もう國吉に対する苛立ちは無い。大人げないからだとかそんな理由でなく優しく國吉に声をかけられると思った。最終審査の結果は望んだものではなかったこと、でも、所属しようとは思っていること、夢は諦めてないこと。國吉にその話をしたくて仕方なかった。すごいね、いいなー、と颯斗の話を聞いてくれる國吉を見たくて仕方なかった。
 人数が多いおかげでテントの組み立てはすぐに終わり、男子生徒は道路に面した駐車場に呼び出される。駐車場にはトラックが停まり、荷台に木を積んでいる。その木たちをこれまた二年生が主体となってグランドの中心に運び始めた。いつしか一緒に来た友達は運動部の子とペアを組んで七夕で使ったような竹を運んでいる。颯斗は慌てて同じボランティア部の大人しい男の子を探して一緒に運ぼう、と誘った。力のなさそうな子だが、颯斗と組むことを快く受け入れてくれる。それぞれがまとめて数本運べば、そもそも数の無い木はあっという間になくなる。想像より早い解散になるな、と颯斗は踏んだ。
 空は次第に曇り、グラウンドの端の遊具で遊んでいた小学生もまばらに帰り始めている。
 解散を言い渡された運動部は中学校に戻り部活を始める。ボランティア部は帰宅を許されたが、鞄を学校に置いてきているからどのみち戻らねばならない。
 颯斗は運動部一行が中学校に帰って行くのを見送って、こっそり校舎の玄関に入った。気まぐれに下駄箱の名前を眺めて、五年生のスペースに辿り着く。颯斗は國吉の名前を探した。居倉、という名字は無く、代わりに石守を見つけた。
 『石守國吉』
 その字の並びを見て、颯斗は知らない人の名前を見た気分になる。こうして文字で國吉の名前を認識するのはきっと初めてだ。そして、その下駄箱にはまだ靴があった。周りも見れば、他にも五年生の靴は二人分ほど下駄箱に残っている。颯斗ははやる気持ちで校舎の階段を靴下のまま駆けあがった。中学校の体操ジャージを着ている颯斗が先生に見つかればなにか言われるだろうか、と頭に過る。否、祭りの準備の手伝いに駆り出されているのだし、トイレを借りに上がったと言えばサボっていることも見逃されるだろう。教室のドアの上につく学年のプレートを辿って五年生の教室まで走った。靴下でいるため廊下は滑り、足音小さく移動できる。唯一電気がつけられている六年生の教室を遠目に確認して、颯斗は手前の教室の後ろのドアから入った。
 教室の前方には宿題をする女の子、後方には席に座って本を読む國吉がいた。
 「國吉くん」
 颯斗は小声で呼びかける。國吉は本に夢中で気付かない。それなのに颯斗からより遠い距離にいる女の子には気付かれた。振り返って中学生を見た女の子に、うわ、と声を上げられる。女の子の驚く声で前を見た國吉は、女の子の視線を辿って颯斗を見つけた。
 「え!」
 小声で驚く國吉は本を閉じておずおずと立ち上がる。颯斗は未だこちらを凝視する女の子に会釈して教室に足を踏み入れた。
 「久しぶり……」
 國吉が座る席まで歩いて、声を普通の音量に戻した。國吉も座り直して、うん、と返した。前方の女の子がプリントをランドセルに入れる音が聞こえる。颯斗には國吉に言ってやりたい文句も聞きたいこともあった。だがそれを堪えて「11月の、」と切り出す。本の表紙を押さえる國吉の指が、ぴくりと反応したのが見えた。
 「審査の結果でたって話」
 颯斗は國吉が不安そうにうつむくのが可哀そうで、もったいぶらずに要点を言った。女の子はいつの間にか廊下に出ていて、教室には二人きりとなる。
 「所属は決まった」
 なりたかったものとしてではないけれど、なんて、國吉には難しい話だ。遠回りになるが諦めてはいない、と國吉に伝わっているのかいないのか気にせず、颯斗は打ち明けた。
 「俺は四月から横浜もどるよ」
 いつかの日に話した計画の通りだ。
 國吉は表情を柔らかくして、すごいね、と颯斗の想像通りの言葉を返した。思っていたものよりも静かで控えめな声だったが、その言葉と、颯斗に憧れるようなその目は颯斗の知る國吉そのもので、嬉しくなる。
 「いいな、連れてってよ」
 少し背が伸びた國吉が、ふわっと笑う。それが冗談なのだと颯斗は分かった。國吉がそんな冗談を言うところを、初めて見た気がした。わがままで、なんでも望み通りになって、なのに妙に聞き分けがいい國吉に、今までそんな冗談は必要が無かった。
 「お前も来たらいいだろ、普通に」
 友達としてでもいい。同じ夢を追いかける者同士としてでもいい。國吉も動き出せばいい。そんな思いで返した。國吉はそんな颯斗の鼓舞の意図を知ってか知らずか、試すような瞳で見上げた。出会った頃より聡明になった眼差しが颯斗の身体を貫く。
 「じゃあ、ここから出してくれる?」
 ─バリッ、と空が引き裂かれる。
 網膜を焼くような白い閃光が走ったかと思うと、ワンテンポ遅れて、内臓を揺さぶるような轟音が降り注ぐ。あまりに突然な雷に、颯斗は驚くこともできなかった。
 「どういう……意味で……」
 まだばくばくと跳ねる心臓が颯斗の息を切らした。そのせいで絞り出す声は小さく、不自然な間を挟んでやっとのことで言葉を繋げる。言ったはものの、颯斗自身ももうその言葉に用はなかった。
 静かな五年生の教室と、雷に騒ぐ六年生の教室から聞こえる声は対称的だった。
 國吉は荷物を纏め、動けない颯斗に、帰るね、とだけ告げて教室を出た。引き止めることもしなかった。引き止めて、これ以上何を話すのだろうと思う。だと言うのに、颯斗の胸は國吉をそのまま帰らせた後悔で痛む。
 颯斗は外に出た。学校の体操ジャージだけではもう寒い時間だ。雷が鳴っても雨が降らない空に後頭部を見せて、颯斗はとぼとぼと中学校に戻った。




 颯斗が島を出る三月のその日はすぐにやってきた。
 仕事でまだ島に残る父と、中学校の友達が数人見送りに来てくれた。一年も一緒にいられなかったのに島の友達は長い付き合いの友人のように颯斗が旅立つことを寂しがってくれた。
 國吉はその場にいなかった。
 颯斗はこの日のことを千夏に連絡していた。世の中の大学生の春休みが既に始まっていることは父に確認済みだ。スマホを持たない國吉と颯斗が直接連絡をとる方法はない。千夏にも良くしてもらっていたし、連絡するのは不自然ではないと踏んだのに。
 父に手伝ってもらい、船に荷物を積む。父に借りたスーツケースには島にいる間に増えてしまった颯斗の私物が詰まっている。船の二階に上がり、見下ろす視界で友人に手を振る。すると友人たちは笑って手を振り返してくれる。
 「………」
 颯斗は島を見た。たった数メートルの違いなのに、高い位置から見渡すと丘の上にある颯斗の家の屋根も、中学校の校舎も見える。
 ────
 颯斗は慌てて船の階段を駆け下りた。出発の準備をしていた船を飛び出し、駆けて、駆けて、駆けた。背中から父の声が聞こえる。友達の戸惑い騒ぐ声が聞こえる。道に自信が無いのに、島の道路を運動会のリレーよりも速く走った。ダンス教室に向かう時の自転車よりも速く走った。
 見覚えのある車を見たのだ。ここにあるはず。ここにいるはず。颯斗は自分を信じて走った。車を見つけ、車体に寄りかかって海を見る千夏を見つけ、颯斗はスピードを落とした。あった。本当にいた。颯斗は身体から慣性のように息が出る。それは咳き込みとなって颯斗の呼吸を乱した。颯斗に気付いた千夏が驚き、「大丈夫?」と身体を支えてくれる。今の時間船に乗っているはずの颯斗に困惑しながら、海岸に座り込む國吉を呼ぼうとする。颯斗は腕だけでそれを遮り、再び走り出した。
 「何してんだよお前」
 荒い息から出た弱弱しい声は裏返って、驚き振り向いた國吉の目を大きく開かせる。颯斗は膝を押さえてもう一度声を吐き出した。
 「何やってんだよここで!」
 「ここから船がよく見えるから……」
 「馬鹿野郎見送りに来いよ!!」
 颯斗は力いっぱい怒鳴った。声の勢いにつられて少しの涙も押し出され、目頭に溜まる。國吉は立ち上がって、酸素を上手く取り込めない颯斗の腕を支えた。國吉の背はまた少し伸びていた。
 「お前が」
 喉に詰まる言葉を、颯斗は咳と共に國吉の足元にぶつける。曲げていた身体を起こして、國吉の腕を掴み返した。
 「お前が俺に会いに来いよ!」
 『いいな、連れてってよ』なんて言うのなら。颯斗はあの日の返事をやり直した。國吉の心境がどう変わったのか、颯斗にはわからない。國吉が話してくれないからだ。
 「自力でここから出ろよ!」
 『じゃあ、ここから出してくれる?』なんて言うのなら。颯斗は國吉に言いたかったことを叫んだ。國吉の事情も知らないし、事情を聞く気も起きない。
 國吉は言い切った颯斗を見上げて、うん、と小さく返した。

 船乗り場まで送り返してくれた千夏に枯れた声で礼を言う。車から降りる颯斗に國吉は、後部座席から「またね」と言ってきた。
 船に乗って、颯斗は微かな電波を拾って動画投稿アプリを立ち上げる。温かくなった日差しが画面に反射して、暗くて見えないそれを目に近付けて見ようとする。いつかの日までは頻繁に開いて日々の再生回数をチェックしていたことが嘘のように、久々に見た画面だった。日が空いて、あの神秘的な動画の日々の再生数は落ち着いている。そしてあの気味の悪い『砂にまみれた足舐めたい』というコメントには、四つの「いいね」がついていて、たった一人が返信をしていた。
 『きも』
 たった二文字のそれだけが颯斗を慰めた。颯斗は元凶となったコメントを動画の投稿主の権限で削除する。
 船からは小さな島の全貌が見える。島の上空は眩しい程に晴れていて、勝ち誇ったように雲を高く積んでいた。だが、颯斗は少しも負けた気がしない。遠ざかっていく島の気配に、颯斗は心でベロを出した。
 ばーか、お前が戦う相手は國吉だ。