かすかに青だった

 強い海風に包まれる中、颯斗はこれからのことを真剣に考えた。今まで住んでいた横浜と引っ越し先の石成島の間には広い広い大地とちょっとの海がある。教科書の地図では短く見えたその距離が颯斗の計画を狂わせた。
 横浜駅から新幹線で出発して、広島に着くまで3時間。そこから港に移動してフェリーに乗るまでに1時間。ここからは30分の船旅だ。そして父と二人で住む予定の家まではさらにどれくらいかかるのか、颯斗には検討もつかなかった。移住するにあたって辞めることになったダンススクールで「また遊びにきてね!」という先生と仲間たちに「また来まーす」と笑って返した己の声が頭に甦って憎らしい。
 「父さん、向こうにダンススクールある?」
 終わったと思っていた声変わりは長旅の疲れの中で再発して、自分に似合わないざらざらした声が海風にのった。
 「おお、まだやりたいか」
 父は質問を躱すように颯斗の背中を叩いた。母と別居することになった時、颯斗はずっと父の味方をしてきたつもりだった。しかし、「愛想で誤魔化そうとしてんだよあれは」と零していた母の言葉を思い出すと時々父に対してギクシャクしてしまう。風が強くなり、耳にごうごうと風の音が入り込む。冷たくなった耳を手で包んでほぐすと温かくて気持ちよかった。父は颯斗に届くよう、海に向かって声を張り上げた。
 「あったかなー。どうだろうなー」
 颯斗は黙って父の横顔を見つめた。そうしている自分が少し前の母のようで気が滅入る。睨まれた父はより一層陽気を装って颯斗の頭をくしゃくしゃに撫でた。
 「探しといてやるから、まずは友達つくれよ」
 うん、と返事した声は掠れて風に撒かれた。拗ねたような自分の姿を父に見せたのが恥ずかしくて、颯斗は頭に手を置く父の腕を払いのけて顔を上げた。
 「ねぇiPhoneは?いつから?」
 中学に上がったら買ってもらえるという約束だった携帯電話は、まだ契約もしていない。今はまだ三月だが、四月から中学生だ。本当ならば横浜にいる間に買ってもらって、既にスマホを持っている友達と連絡先を交換してからこっちにくるつもりだった。携帯電話の契約を後回しにされて友達と連絡ができない颯斗に向かって「新しい友達をつくれ」と言ったものだから気が立つのも仕方がない。
 「わかった。車とってきたら行こう」
 きっぱりと言い切る父に安堵する。静かで真面目で冗談が言えないいつもの父だ。
 港についてから颯斗はその場に残され、父だけが家に向かう。1時間も待たされた後、一台の軽トラに乗った父が迎えに来た。荷物を荷台に放り投げ、慣れない高さの助手席に乗った。
 「ねー新しい車買う?」
 「なんで?軽トラ嫌いか?」
 「だって壊れそうじゃん」
 「まあまあ古いからねー。でも父さんの友達が直しといてくれたんだぞ」
 しばらくは使わないと、と父はハンドルを切りながら言う。遠心力で窓側に身体が押し付けられた颯斗はそのままドアに身体を預けた。ガタガタと揺れて居心地の悪い助手席にも関わらず眠気に襲われた。

 「iPhoneと夜ご飯どっちが先か?」と起こされた颯斗は寝ぼけながら「iPhone!」と呟いた。すんなり手に入ったiPhoneに感動し眠気は吹き飛んだ。欲しくてたまらなかったそれを大事に箱に収め、箱を鞄に入れてさらにそれを抱えて歩いた。ファミレスで夜ご飯を食べている間はどうやって横浜の友達と連絡をとろうかと考えるのに必死だった。
 「ママのも入れとけよ」
 「いいの?」
 「いいのって、お前のお母さんだろ」
 父は自身のスマホを差し出して母の連絡先を表示する。父の言っている意味はわからなかった。だが、颯斗には都合が良かった。横浜の友達と連絡を取れない悩みはこれできっと解決できる。颯斗の友好関係の中でスマホを持っている友人は、スマホをまだ持たない颯斗らの母親と連絡先を交換していた。ひとりのスマホ持ちと繋がればあとは芋づる式に以前の友好関係を復元できることになる。颯斗と同じように中学からスマホを持ち始める家の子もそのうち誰かが繋いでくれるだろう。
 島に来てしまったという不安はそれだけで吹き飛んだ。そもそも、新生活に対しての不安はそれほど大きくない。友達はすぐできる方で、父とも仲良しでいられると思う。気になるのは都心部への距離と、ダンススクールという習い事だけ。
 父の実家だという家は丘の上にあって、古くて普通の家だった。疲れている二人は掃除もせず購入した日用品を一つの部屋に広げて同じ部屋に布団を敷いた。
 暗闇の中で買ったばかりの布団の中で買ったばかりのスマホを光らせた。YouTubeで早くお気に入りのユーチューバーの新着動画が観たかったが、我慢して検索欄にアイドルのグループ名を丁寧に打ち込む。スマホを買ってもらって最初に観る動画は決めてあった。
 琥珀、一途、ココロノエコー。
 打ち込む遅い指の動きに合わせて口から目的の曲名が漏れる。予測変換にはもう表示されているのに、わざわざ最後まで自分の力で入力した。検索すると表示される一番上の動画を指でつつく。わくわくする指がターンと跳ねて液晶に当たった。爪のせいで画面に傷が入らなかったか慌てて確認する。幸いこのくらいで傷が入るようなものでは無く、画面には曇りひとつ無い。液晶を確認している間に動画は読み込まれ、白黒のシーンから始まるミュージックビデオが再生される。耳になじんだギターの音がスマホの下方のスピーカーから流れ出た。
 まだ春休みで、新学期が始まるまでは少し時間がある。これから島の中学校の制服が必要になって、ここの道を覚えなきゃいけない。電車のない島だから自転車も必要で、
 明日もまた必要なものを買いに連れて行ってくれるだろうと考えて目を閉じた。
 はやる気持ちを抑えて、儀式のように曲を最後まで聴く。最後の最後のストリングスの音が止んだその瞬間にホーム画面に戻って画面の灯りを消す。枕元に置いたスマホの箱に丁寧に戻し箱ごと自身から遠ざける。慣れない布団で寝相が悪くなって蹴ってしまうと大変だ。


 すぐに眠ってしまった颯斗が次に目を開けた時はまだ外が暗かった。飛び起きて隣の父親を見るがまだ眠っている。颯斗はスマホを仕舞った箱を拾って布団に戻った。まだ買ってもらって二十四時間も経っていない。手元にあることが信じられないくらい嬉しかった。スマホを立ち上げて、手当たり次第に知っているアプリをインストールした。自分専用のものであることが初めてなだけで、両親のものや横浜に置いてきたタブレット端末に慣れていたから操作に不安は無かった。寂しかったホーム画面にInstagram、TikTok、サッカーゲームが並ぶ。少し悩んで漫画が読めるアプリも入れた。LINEには昨日のうちに連絡をとっていた母と、母がつないでくれたであろう友人からのメッセージが来ていた。友人は多くを語らず、友達がみんな入っているグループに招待してくれている。そちらには感謝を示すスタンプを押して、母からのメッセージを開いた。長い長い吹き出しが二つ、颯斗の心を試していた。「スマホデビューおめでとう!良かったね」から始まり、「パパと仲良くね。まだ寒いから毛布も買ってもらえ」で締められた文章はいつも通りの優しくて口うるさい母が同時に見えて苦しかった。母には酷いことも言われたし、酷いことも言った。だからこうしてまだ颯斗を気にかけてくれる母の言葉に心が乱される。もう颯斗には誰が悪いのかわからない。誰のせいで島に来ることになったのか、誰のせいで大好きなダンススクールを辞める羽目になったのか、それらを誰のせいにすればいいのかも、もうわからない。
 サッカーゲームのアイコンをタップして苛立ちに任せ読み込み画面を連打した。

 颯斗は菓子パンを持った父に起こされた。読み込みを待っている間に2度寝してしまったようで、ゲームが作動する代わりにスマホの充電が大きく減っている。
 昨日のうちに買ってあったメロンパンとペットボトルの緑茶を朝ご飯に迎え、広げたままの布団の上で親子揃ってぼーっと外を眺めた。
 「今日なにすんの」
 「9時からガスの立ち会いで、シャワー浴びて昼から外」
 「仕事いつから?」
 「明日。その間に颯斗が家掃除してくれないかなー」
 「嫌だなー」
 昨日は気になっていなかった畳の古さ、ガムテープを貼られたガラス、絶対に吸い込みたくない障子の埃が目に付いた。嫌だとは言いながら、実際には掃除に協力するつもりでいた。
 8時を過ぎて起床した二人に優雅な時間はあまり無く、9時10分を過ぎてガスの立ち会いが始まった。なにか手伝えるつもりで颯斗も同席したが、地元訛りの父とおじさんの世間話にまったく興味が湧かず、挨拶からガスの開栓が完了するまで一言も喋ることはなかった。おじさんの去り際に曖昧にありがとうございましたー、と言うまで、退屈だった。
 「シャンプーとかタオルとか、昨日のうちに買っときゃ良かったな」
 「え、ないの?」
 父は颯斗の背中を叩き、そのまま軽トラックに乗った。
 昨日と同じ、駐車場がだだっ広いモールで思いつく必需品を手に取ってカートに放り込む。タオルや鍋やインスタント食品、もちろんこの後使うシャンプーとボディソープ、洗濯洗剤まで適当に選んでレジに通した。すると合計金額は目を見張る数字になる。シャンプーについてこだわりがあるわけでは無かったが、元の家で使っていたものがこの店の棚に並んでいないことが寂しかった。しかしきっと、いままで使っていたものはあの母が買っていたものだからもしここに置いてあっても金額に驚いて手に取れなかっただろう。颯斗は他の日用品についても敢えて最も安いものを選んだ。昨日高価なiPhoneを買ってもらったばかりであるし、父についてきた以上いままでの生活はできないとわかっていた。同時に、今までは良い生活をしてきたのだと自覚が芽生えた気さえした。
 家に戻って父が浴室の掃除をする間、颯斗は埃まみれの箒をはたいて埃まみれの廊下を掃いた。宙に舞って空気を汚す埃を見て気分が萎えるが、それ以上に雑巾がけはしたくなかった。いつからあるかもわからない黒い雑巾を素手で触る気にならないからだ。いつかはきっとやる、と言い訳しながら集めた埃を玄関から乱暴に追い出した。
 その後は昨日の分の汗と家の埃を落とすため父と交代にシャワーを浴び、家を出る。先々軽トラックの助手席のドアを開いた颯斗をみて父が笑った。
 「今回は歩こうか」
 「……いいよ」
 歩ける距離になにかあるのか、と口を開こうとして止める。父に笑われたことが恥ずかしかっただけで、徒歩や父が嫌いなわけではないのだ。こんなことで反抗して父を困らせるのは幼稚だと思ったし、実際やっと歩けるという気分が勝った。昨日の長旅でへとへとにはなったけど座ってばかりだったので、体を動かせるのはうれしかった。遠くに見える海からの風は澄んでいて、ゴム臭い車の中や家のすえた匂いよりはるかに心地よい。父と並んで道路沿いをたらたら歩く。行き先も道もわからないので逸れた道に差し掛かる度速度を落として父の後ろについた。そんなことを三度繰り返したころ、空の上をしらないメロディが抜けていった。腕時計で時間を確認すればデジタル表記で12時過ぎを示していた。
 「うわー懐かしい」
 「昼のチャイム?学校の?」
 「島のだよ。学校はまだ春休みだろ」
 聞いたこと無いのか?と父は不思議そうに聞く。颯斗は聞いたこと無いよ、と眉をひそめて返した。
 「流れてただろあっちも」
 「ないない。絶対流れてなかった」
 あったぞー俺は覚えてるぞー、と笑う父に、颯斗も負けじと言い返した。昨日から萎んでいた喉が開いて、声が大きくなる。自然と顔もほぐれて、颯斗の声と父の笑い声は誰も居ない丘に響いた。それだけで気分も回復した気がして父と距離を詰めた。
 「どこ行ってるの今」
 颯斗の問いに父は指をさして答える。父がさしたものがどれほど遠くのものをなのか見当がつかず、どれ?と目を細めた。
 「ひさご、って看板みえるか」
 「ないよ。見えない」
 「ひさご旅館で昼ご飯。父さんの友達と同窓会みたいなもんだ」
 「こんなことに旅館あるの」
 「こんなところだからあるんだろ」
 父の言葉は足りなかったが、颯斗には分かった。父の島の友達が集まって、島に帰ってきたことをきっと歓迎してくれるのだろう。そしてお酒も出る。だから父は歩いて行こうと言ったのだ。

 ええ!と日に焼けた男が父をみて声をあげた。
 「ゆーじくんあるいてきたんか」
 ちょっとの距離じゃけービール飲んでも大したことなーじゃろ。皺が深く父より遥か年上に見える男の言葉遣いは、笑った口の隙間から出るには不釣り合いで威圧感があった。手に持った煙草を振って、それ以上こちらに歩いてきたりはしない。代わりに父が向こうに歩いていくのではないかと慌ててポロシャツの裾を掴んだ。
 「公務員がそがなことできません」
 幸い父は男に近づくことなく、笑いをにじませた声だけを飛ばして片手を挙げ挨拶のかたちにする。颯斗はすぐに父のポロシャツから手を離した。つられて方言がでる父まで少し怖く感じてしまったのだ。
 父は旅館のロビーにはいかず、入り口から横に伸びる石畳に沿って庭に回る。知らない場所に手も足も出ない颯斗はその後ろにぴったりとついていくしかできない。縁側らしき空間が見えたところで父は靴を脱ぎその間に上がった。こんにちはー、と余所行きの声を投げる父に倣って颯斗も見えない相手に挨拶をし、慌てて靴を脱ぐ。スニーカーを石段の上にそろえて廊下に上がると、少し進んだ先の広間におじさんたちが5人そろって座っていた。再び、どうもーこんにちはーとにこやかに発する父をおじさんたちはおお、ひさしぶりこっちの席座りぃ車大丈夫じゃったかやもめ仲間が増えたでこらぁ、と次々に畳みかけた。

 ご飯が運ばれてくると、仲居さんの一人が颯斗をみて声をあげた。
 「あらま!これが颯斗ちゃん?」
 知らないおばちゃんは父や颯斗の肯定を待たず、そう、だと確信したようで盆を次々と座卓の奥へ流しながら颯斗に話しかける。
 「『これ』とか言うてごめんねぇ。いくつ?」
 「12です」
 面食らったことを隠したくて、そして良い印象を取り返したくて颯斗は頬を上げて声を張った。
 「元気な子じゃーよかったよかった」
 おばさんは黄色い声で喜び、後から入ってきた仲居さんに「棚橋くんの息子さんじゃってー12歳!」とお節介に紹介した。颯斗はホッとした。島に越してきて最初のコミュニケーションだ。出だしで失敗という悲劇を回避できた。にこにこして瞳も隠れたおばさんにオレンジジュース好き?これでいいね?と慣れないイントネーションで聞かれ、颯斗は意味も解らず返事をする。出されたオレンジジュースは細くて長い瓶に入っていて、大人たちと同じ大きなカラスコップも同時に座卓に並べられた。

 食事が終わったのに一向に解散する気配がない大人から逃げて、颯斗はトイレに立った。
 廊下から部屋に戻る前に靴を脱いだ縁側に座る。しばらく庭を眺めていた。するとさーっと日が照り、まるでステージに誘うように庭の砂利がキラキラと輝いた。颯斗はたまらず靴を履いて3月の暖かい、日が照る庭に飛び出す。
 トゲトゲした葉を生やす木に興味があるふりをしながら近くまでいってこっそり口ずさんだ。心に以前の余裕がもどってきたのが嬉しくて、脚で軽くステップをする。靴を滑らせたせいで砂利が音を立て、慌てて控えめな足さばきに変える。隣の木もじっくり見るために移動した、という建前を忘れずくるりとターンして三歩進む。もう砂利の音は気にならなくなって、動きも大胆になってゆく。どうせ誰も見ていないだろうと高を括り、ターンに腕の振り付けを加えて両手を胸の前に突き出した。
 颯斗の視線と体が固まった。
 伸ばした手の先は今出てきた縁側で、父の靴がある丁度その上の廊下に背の低い子供が立っていた。
 「なにそれー!」
 男の子は小さな身体でどたどたと縁側に腰掛け、父が揃えて置いた靴の中に飛び降りた。サイズが合うはずもない不釣り合いな大きい靴を引きずってこちらに駆けてくる。知らない子供に自分の父の靴を使われるのは驚きと同時に不快感もあって、颯斗は「おい!」と声を荒げそうになった。
 「…人の靴つかうなよ」
 自分より小さな子には優しくあらねばなるまい。颯斗はあたりを見まわして大人が近くにいないか確認をする。
 「ねぇさっきの何?」
 「だから靴脱げって」
 子供は颯斗の話を聞かなかった。颯斗は大人に見つかる前にどうにかしてしまおうと、男の子の脇を抱えて縁側に戻す。年下とは言っても大人と子供のような対格差があるわけでは無い。体重こそ軽かったがぶかぶかの靴をまた引きずりながら男の子を運んだ。持ち上げられた男の子は大人しくなり、縁側の高さまで腰を持ち上げてやれない颯斗に代わって自分でよじ登った。拍子に父の靴は砂利に転がり、颯斗は「あーあ」と男の子を責めるように溜息を聞かせた。
 「おどってた?ねぇなんて名前?」
 男の子は靴を拾っている颯斗の苛立ちなど意にも介さず声変わりの始まっていない青臭い声で颯斗を急かす。頬は丸く産毛が見えるほど幼くて、坊ちゃん刈りからちょっと髪が伸びましたと言わんばかりの田舎っぽさ。さらさらとした前髪がかかる、薄くて広い眉と空が映る程真っ黒な瞳。そして顔に散る星座みたいなほくろをみて颯斗はそのおでこに想像で『クソガキ』とシールを張った。
 「お前こそ誰だよ」
 「國吉」
 颯斗の質問返しに男の子は少しむっとして答える。丸い頬の下で口がへの字に曲がった。
 「クニヨシ?それ本名?」
 聞かれた事の意味がわかっているのかいないのか、男の子は顔を顰めて颯斗の腕を叩く。
 颯斗の口調は荒いままだったが、教科書で見るような馴染みのない名前に対する素直な反応だったので、それが本当の名前らしいとわかって男の子が叩いてきたことについては目を瞑った。
 「だれ」
 男の子はすっかり機嫌が悪くなって颯斗を睨む。颯斗にはこの年下がどうしてそこまで臍を曲げるのかわからずあやすつもりでその場で先程の振り付けと同じターンを披露した。
 「棚橋颯斗だよ~ん」
 おまけに変顔もつけてあげた。颯斗からすれば勝手に父の靴を履き、話も聞かず突っかかってきた『クソガキ』に対して十二分の「神対応」だ。だというのに男の子は颯斗の顔をまじまじと見上げて何かを確認した後、「しらなーい」と言ってそのまま颯斗を残して縁側の奥に逃げて行った。
 「なんなんだよ」
 一人になった颯斗はポケットに入れたスマホをぎゅっと掴んで悪態をつく。
 こんな気分で父とその友人の宴会会場に戻るわけにもいかず、父の靴の隣、石段に腰かけてスマホを弄った。youtubeを開いてA-RIZEと検索し、知っている曲を適当にタップして流した。チカチカする画面の中で六人のアイドルが派手なダンスを踊っている。颯斗はイントロが終わったのを確認して音を流したままスマホを裏返して庭を眺めた。イライラを抑えるために少しだけ音量を大きくして、明るい空に響いたメロディにすこしだけスカっとする。
 廊下の奥でどたどたという足音が聴こえてきて、すぐに音量を下げるボタンを親指で連打した。縁側の向こうをちょっとだけ覗き、人が見える直前で隠れるように頭を下げた。
 「さっきここにいたよ」
 あの男の子だった。どうやら大人を連れて来たらしいと気付いて颯斗はサッと顔を上げた。
 「こんにちは!」
 怪しい者と思われては困る、と人好きのする朗らかな笑顔を心がけて、男の子が袖を引く女の人に挨拶する。
 「こんにちは…」
 女の人は大人っぽかったが、声は少し掠れていて、完全な大人ではないことがわかった。それでも明らかに颯斗より年上だ。男の子は女の子が手に持っている雑誌を指さして「この中にいない?」と、女の子を見上げた。女の子は恥ずかしそうに愛想笑いをして颯斗に会釈をする。手に持っている雑誌はアイドル雑誌のようだ。颯斗は雑誌を読まないので買ったことは無いが、ダンススクールに似たような表紙の雑誌が置いてあるのを見たことがある。同学年の女の子たちがレッスン前に集まってそんな雑誌を広げて首を傾けて一斉に読み込んでいるのも見たことがある。
 「A-RIZE…」
 颯斗は表紙に映る六人組のアイドルの風貌を見て呟いた。きっと好きなのだろうと思ったし、女の子も喋らないまま気まずい時間が続くので、その時間からどうにか脱却したくて声を出した。
 颯斗の呟きが届いた女の子は見るからに顔を明るくして颯斗の前に膝をついた。靴を置く石段に腰かける颯斗と縁側に膝をつくのではまだ遠いが、目線は近い。
 「えっ、A-RIZEわかる?」
 「はい。曲好きなので」
 女の子は雑誌を親指でパラパラと左右に行ったり来たりさせながら颯斗にふわふわと笑いかける。
 「あのね、この子がね、研究生がいるって言うから嘘だぁと思って」
 『クソガキ』が庭で踊っていた自分に突っかかってきた理由がぼんやりと見えてきて、あぁ、と自然と頷いた。しかし、「研究生」という言葉の意味を理解した上で流した颯斗に女の子は食いついた。
 「えっもしかして……」
 「や、ちがいます」
 「ふふ、へへ、だよね、こんなところにいるわけないもんね」
 「なんかすんまんせん一般人で」
 「いやでも、カッコいいね。どっかから来たん?」
 女の子に好感触だとわかった颯斗は調子よくおどけた。女の子の問いには横浜です、と答えれば「うわーめっちゃ都会!アリーナとかあるよね?」とはしゃいでもらえた。颯斗はそのアリーナに行ったことは無いのでなんと反応すればより喜んでもらえるのかわからず、素直にそうっすね、とだけ返した。
 「何くんって言うの?」
 「颯斗です」
 女の子はもう颯斗がなんと言っても気がいいのか、うわー名前もかっこいいー、と口を隠して笑う。
 「クニちゃんもカッコいいと思ったんやろ」
 女の子は手持無沙汰で髪や背に悪戯してくる男の子の方を向いた。そんな名前だっただろうかと一瞬怪訝に思うが、クニヨシだからクニちゃんか、と少し考えて納得する。
 「うん。こはいちだと思った」
 「年齢ちがうよクニちゃん」
 女の子はころころ笑った。こはいち、こはくいちず。琥珀一途の一般的な略称だ。颯斗は足が浮いた心地がした。颯斗を見て琥珀一途だと言った男の子の顔をまじまじと確認する。颯斗の視線に気付いて、男の子も真っ黒な瞳でこっちを見続けた。
 宴会場から大の男たちの笑い声がして颯斗は我に返った。低く響く破裂するような笑い声の中に父親の声が控えめに混じっている。
 「あれ、もしかしてこの部屋のお客さん?もー、クニちゃんあっちいっとって」
 女の子も同じくハッとして男の子の背を押して追いやった。ごめんなさい中へどうぞ、と仲居さんと同じ作法で流れるように颯斗を案内する。颯斗は着物も着ていない女の子が突然年をとった仲居さんそのものに見え、流されるまま靴を脱いで父のいる宴会場に戻った。

 日が落ちかけて空が白む帰り道、酔って顔の赤い父は気分がよさそうだった。颯斗は一から友達を作り直しだが、父には既に友達がいるのだ。気分がいいのは当然だろう、と颯斗は父を責める気持ちが無いのに恨めしく思う。
 「明日ひとりで平気か」
 父は緩やかな坂で息を切らして言う。明日から仕事に出る父と、知らない土地で時間をつぶさなければならない颯斗。退屈かもしれないということだけが気にかかって、こっちで通う予定の中学校の制服や通学路だとかのことは後回しにする。
 「音楽聴くやつのファミリーアカウントに俺のスマホ登録してよ」
 「おお、やっとけやっとけ」
 まだ家にもついていないのに、父は自身のスマホを差し出して颯斗の手に押し付けた。颯斗はそのくらいのことでは文句など言わず、ありがと、と小さく返した。