幽霊はエロいことが苦手らしい

 図書館は旧校舎の二階にある。
 記念として残した旧校舎は。学校側も持て余しているらしく、中に入っている音楽室や美術室などの教室は、不必要なほど広い。そしてそれは、蔵書のために広い面積を必要とする図書館ですら同じことだった。
 そんな図書館は蔵書量の割には面積が広く、六人掛けの机がいくつも置かれていた。
 小学校や中学校までの図書館とは違い、物語やフィクションの本が少なく、歴史書や専門書が多い。だからほとんどの生徒が、図書館には本を借りに来るというよりは、勉強や、自分で持ってきた本を読むために使っていた。
 だからだろうか。六時にもなると人はほとんどいなくなり、本の貸し借りのためだけに図書委員が入り口近くのカウンターの中にいるだけだった。

「おい、歩きづらい」
「だ、だってぇ……」

 蒼介の背中に張り付くようにして歩く暁人に、さすがの蒼介が文句を言う。図書館へと続く引き戸は、もう目の前だ。

「扉の窓越しに見えたら怖いじゃん」
「だからってくっつき過ぎだ」

 もうすでに涙目の暁人の後ろでは、ちゃっかり乃々羽が二人を盾にするようにしている。
 蒼介はそんな二人をそこに置き去りにして図書館の中を確認しに行く。中は乃々羽の言っていた通り、図書委員しかいなかった。

「……なにしてるんだ」

 廊下に戻った蒼介は、図書館の扉の窓から死角になる廊下の壁に張り付くようにして並ぶ二人を見てこぼした。

「怖いんだもん」

 暁人の言葉に、遠慮がちに乃々羽が頷く。蒼介は彼女から暁人を遠ざけるようにして腕を引っ張ると、偵察結果を伝える。

「和島さんの言う通り、中には図書委員以外誰もいなかった」
「よ、よし……っ! じゃあ、行こうか、和島さん!」
「う、うん!」

 そう言って蒼介の後ろにひな鳥のように縦に並んだ二人に、蒼介はもう何も言わずに図書館へ続く引き戸を開いた。

「……『いない』ね」
「うん」

 蒼介の背中にしがみつく暁人と、暁人の背中のシャツを控えめに握る乃々羽を、カウンターの中にいる男子生徒がチラリと見て、すぐに手元のスマホでゲームを再開した。やはりこの時間は利用者は少なく、図書委員も暇をしているらしい。なら、やはり好都合だ。

「じゃあ、僕とあおくんが奥のほうの机に座るね。和島さんは、一応誰も来ないかだけ見ててくれる?」
「分かった」
「で、僕らがいいって言うまで、絶対にこっちを見ないでね」
「うん」
「絶対だよ!」

 暁人の言葉に乃々羽が緊張した面持ちで頷く。彼女にとって図書館は、いつ幽霊が来てもおかしくない場所なのだ。

「怖いなら、図書委員の近くの本棚で本でも読んでたらいい」
「でも椅子に座らないようにして」
「分かった」

 そうして、二人は乃々羽を入り口に残し、図書館の奥の机へと移動した。
 図書館は旧校舎の持て余した教室の壁を取り除いて作られたので、歪なL字のような形をしていた。そのため、奥に置かれた机はカウンターにいる図書委員からも、乃々羽からも見えない死角に位置していた。
 死角にある机に二人で並んで座る。正面の椅子は、空席だ。
 このまましばらく待機し、幽霊が出て来たところで退治しようという計画だった。

「……思ったんだけど」

 暁人の隣に座った蒼介が小声で言う。

「図書委員の動向を見張らせるためとはいえ、和島さんを図書館の中に連れてきてもよかったのか」
「それはめちゃくちゃ考えたんだけど……図書館っていつ誰が来るか分からないでしょう? 僕達の『退治』を見られたらまずいからさ」
「ああ、エロキスか」
「そっ、その言い方やだぁ!」
「静かにしろ」

 大きな声を出させた本人が何を言うか。と言いたげな顔をして、暁人は蒼介の耳元に両手を当てて話すことにした。

「あのね――」

 話し始めた暁人の吐息が耳に当たって、蒼介の肩が小さく跳ねた。それに気が付かないまま、暁人が声で蒼介の形のいい耳を撫でながら続ける。

「――きっと和島さんは、図書館で座ってなければ幽霊が見えないと思うんだ」
「座ってないと?」

 暁人を引っぺがし、くすぐったい耳をゴシゴシと肩で搔きながら言う。

「そう。なんて言うんだろう……チューニング? って言えばいいのかな。ラジオとかの、分かる?」
「ああ、分かる」
「僕が思うに、幽霊が見えるっていうのは幽霊との電波っていうか、波長が合っちゃってる状態のことを言うと思うんだよ。今まで幽霊を見たことないのに、ある幽霊だけが見えたのなら、その幽霊とチューニングが合っちゃってるってこと」
「じゃあ和島さんは、『図書館』で、『座っている時』にだけ幽霊とチューニングが合ったってことか」
「たぶん……前に言ってた、図書館を出るときにガラスの鏡越しに見えたのは、チューニングの余韻? みたいなのがあったからだと思う」
「じゃあ、もしかして図書館につい行ってしまうのも、チューニングがあったままだから。いわゆる『呼ばれてる』ってやつか」

 蒼介の言葉に暁人が頷いて答えた。
 そして、後ろを振り返って言う。視線の先は死角なので姿は見えないが、乃々羽がいる。

「和島さんって、話してて思ったんだけど、すごく気遣いができる人だよね」
「……なんだ、急に」

 少し不機嫌そうな顔をして蒼介が返す。

「あっ、あおくんが気遣いできないって意味じゃないよ」
「別にそこを気にしてるわけじゃねぇよ。――ほら、続けろ」
「んん……? ま、まあ続けますけど――で、和島さんだけじゃなくて伊東さんもいろんな人に気を配った話し方をしてる。二人とも、人の心に敏感なんだ」

 人の心に敏感。人の顔色を窺ったり、不快に感じていないかを気にすること。
 乃々羽は暁人と話した時、ずっと多方面に気を配った、言い訳をするように話していた。いろんな方向に気を配り、誰かの気持ちを考えているように。

「だからきっと、そういう誰かの心を読み取れる人は、幽霊にも同じなんだよ。だからチューニングが合いやすいんだ」
「暁人みたいにか」
「僕は違うよぉ。僕はたまたま、ほとんどのチャンネルにチューニングが合いまくってるだけ」

 蒼介の言葉を暁人は笑ってへらりと交わした。しかし、蒼介の表情は真剣そのものだ

「俺は暁人も、人の心に気を配りまくってるように見えるけどな」
「お節介なだけだよ」
「そうかもしれないけど、現に和島さんと伊東さんは救われてる」

 黒縁眼鏡のレンズの向こう側で、暁人の目がぱちりと瞬いたのが分かった すぐにそれは照れた表情に変わり、蒼介をからかうような口調になる。

「あおくんってば、僕をおだてたってなんにもならないよう」
「別におだててるつもりはねぇよ。それに――」

 今までずっと暁人の目を見ていた蒼介が、視線を手元に移した。
 まるで、暁人のまっすぐな黒い目から逃れるように。
 まるで――腹の中を、覗かれないように。

「――俺だって、救われてる」
「え?」

 蒼介は何を言っているのだろうか。
 救われたのは、暁人のほうだ。保育園時代、「信じる」と言ってくれて暁人の心を救い、それから今の今までずっと、幽霊に怯える怖がりな暁人を支えてきてくれた。
 暁人が救われていると言うのは分かるが、蒼介を救った記憶なんて、暁人にはなかった。

「あおくん、それ、どういう――ッ」

 ――ぞわっと、背中の毛穴が開くような感覚。
 眼鏡のレンズの向こう。蒼介がいる視界の端に急速に意識が集中する。
 今まで誰も座っていなかった六人掛けのテーブルの端に、誰かが、座っている。
 ……乃々羽の言っていた通り、姿勢が異常に良い。
 それは、何をするでもなく、ただまっすぐに前だけを向いていた。
 顔をこちらに向けていないのに笑っているのが分かるのは、常人では考えられないくらい頬が盛り上がっているからだろう。

「~~~ッッ!」

 開いていた口から悲鳴が溢れ出しそうで、暁人はとっさに両手で口を塞いだ。蒼介は突然の暁人の奇行に少しだけ驚いた顔をしていたが、すぐに状況を理解すると暁人の顔を引き寄せ自分の肩口に押し付けた。

「来たか?」

 すぐそこにある耳に囁けば、暁人はいつものようにものすごい勢いで頷いて返す。
 幽霊は、やはり笑っていた。
 笑っていたと言うより笑顔、と言うのが正しいか。

「どこら辺にいる?」
「あ、ぁああああおくんのッ、あおくんの、斜め後ろッ! 斜め後ろの席に、い、いる、ぃ、いるいるいるぅううう……ッ!」

 ――暁人は、ずっと不思議に思っていた。
 幽霊の話をする時の、乃々羽の言葉に。
 乃々羽は幽霊について説明をする時、図書館を使う生徒のことは「勉強している子」とか「ほかの子」と言っていた。しかし、幽霊については、「その人」という表現を使っていた。
 それがどういうことか、恐怖でぐるぐると渦を巻く頭の中、暁人は合点がいった。
 幽霊は、スーツを着ていた。ブレザーではない。あれは、スーツだ。
 社会人。成人以上の、男性。
 チューニングが合っているといっても、乃々羽にはそこまで見えていなかったのだろう。
 暁人は勝手に、階段裏にいた幽霊のような、意識の集合体や、高校に出る幽霊なんだから、教室で見た少女のような幽霊だとばかり思っていた。だからその予想が外れてしまった時、暁人は普段以上に恐怖を感じた。

「おい、暁人」
「めっっっっちゃ怖いぃいいいいい……ッ!」

 蒼介の肩口に吸い込ませるようにして叫ぶ。幸い、危険を予知していた蒼介が思い切り頭を押さえ付けてくれていたので、なんとか乃々羽に気が付かれることはなかったようだ。
 とはいえ、錯乱一歩手前のような状態の暁人は、これからどんな奇声を上げるか分からない。そう判断した蒼介は、もうすでに椅子から半分ずり落ちそうになっている暁人の腰と太腿に手を回すと、「ふんっ」と持ち上げて自分の太腿の上に座らせた。

「落ち着け」

 そのまま首にしがみついてきた暁人の背中をさすりながら言う。暁人は歯をガチガチと言わせながらそれに答える。

「おおお落ち落ち、落ちついてるよ大丈夫大丈夫だいじょうぶだともさぁ」
「ダメダメじゃねえか」

 ぐりぐりと頭を押し付ける暁人の眼鏡が、蒼介の頭に押し付けられて地味に痛い。

「暁人、やるぞ。顔上げろ」
「むりむりむり無理だってもう、もうこれ怖すぎるもんすっごい笑ってるんだもん……ッ、めちゃくちゃ笑ってるんだもンんん……!」
「見るな。目を閉じろ」
「無理なの! 見ちゃうの! 逆に目を閉じたままでめちゃくちゃ近くにいられるほうが怖いの!」

 そう言うと暁人は言葉通り少しだけ顔を浮かせると、蒼介の斜め後ろの席に座るそれを盗み見た。
 ――それは、もう暁人の正面に来ていた。

「ひぎ、ぃ……っ」

 向けた視線をすぐに戻す。
 ――まるで、大きなシワが寄ったような顔だった。
 それくらい、顔面を歪ませて笑っていた。
 歪むのも構わずに口角を上げ、半分が三日月のような口で占められている顔。三日月の淵は顔の皮膚が盛り上がり、それがシワのように波打っている形をしていた。目も糸のように細く、それも曲線を描いている。
 これなら顔を見ないように努めていた乃々羽でも、笑っていると言うだろう。
 暁人の口から、引き絞ったような声が出る。
 ……しかし、それは狂気的な笑顔を見たからではなかった。
 三日月の形をしたそれの口の隙間から漏れ出すような、まるで忍び笑いのような声が聞こえてきたからだ。


「めてほめてきょうべんきょうがんばってるるあべんきょうがんばってるがんばってるみてみてがんばってるほめてほめてべきょうがんばってるやってるがんばってるやってるやってるみてみてみてべんきょうみんなよりみてほめてべんきょうやってるみてみてみてみてべんきょうやってるほ」


 三日月の口を一切動かすことをせず、まるで真っ暗な口の奥にあるもうひとつの口で話しているよう。
 そんなものが、二人の真正面の席に座っていた。

「きききき聞こえちゃってる聞こえちゃってぅううう……ッ!」
「喋ってんのか」
「めちゃくちゃ早口すっごい早口!」
「見た目より声が怖い感じ?」
「そそそそそンな感じぃいいい!」
「そうか。なら――」

 蒼介は自分の首に巻き付いている腕を無理やり引き剥がすと、そのまま暁人の耳に持っていった。

「耳、塞いでろよ」

 眼鏡の向こうにある、涙が滲んだ目がぎゅうっと瞑られたまま、暁人は自分の手のひらを耳に押しし当てながらブンブンと首を縦に動かした。その拍子に、また眼鏡がずれた。

「やるぞ」

 聞こえていないと分かっていながらも、蒼介は一言そう言うと、自分の上に乗る暁人の腰に手を回し、上体をゆっくりと引き寄せた。

「んっ!?」

 ふにゅ、と、暁人のきつく結んだ唇に蒼介の唇が触れる。
 声が聞こえていない暁人は少し驚いたように肩を揺らしたが、すぐにそれが蒼介だと分かると唇を薄く開いて彼を受け入れた。

「は、はぅ、う……っ、んっ……」

 乾いた紙と埃の匂いのする図書館で、濡れるような小さな音を立てる。
 それは、乃々羽にも聞こえないくらいの小さな音だ。テーブルの上に零した水たまりを、ゆっくりと手のひらで触れたり離したりするような、控えめな音。
 ――しかし、耳を自分の手のひらで完璧に押さえている暁人には、脳を揺らすような大きな音に聞こえていた。

「っはぁ、あ、あお、くん……っ、あお、く、ぅ……っ」

 まるで、とろみのある生ぬるい水が、頭の中でたぷん、とぷん、と波打ち、波が柔らかな曲線を描くたびに、背筋に甘い感覚が走った。

「ぁおく、しゃ、さわんなぁ……」

 暁人の薄い腰に回された手は、怖がる暁人をなだめるように優しく上下に動いていている。
 頭の中でとろける水が波打ち、背中を甘い手が撫でる。
 もう何も考えられない暁人の舌がだらしなく突き出され、涙で束になった睫毛で縁取られた目がとろんと蕩けていた。
 手に力が入らない。腕を上げているのが辛い。

「ぁ……っ」

 ぢゅっ、と舌を吸われた拍子に、腕が落ちてしまった。
 すぐに三日月の口から聞こえる声の恐怖が蘇ってくる。……が、声はいつの間にか聞こえていなくなっていた。

「……大丈夫そうか?」

 先程までくったりと全身を自分に預けていた暁人の体に力が戻ったのを感じた蒼介が、唇を離して尋ねた。

「う、うん……声、聞こえなくなった」

 目を閉じたまま耳から手を離し、しばらく周囲の様子を耳で窺っていた暁人が「うん」と答えた。

「大丈夫みたい」

 そして、閉じていた目を開き――目の前にある三日月に、息が止まった。

「ッッ……!!」

 あれは移動してのだ。
 自分に背中を向ける暁人の前に、移動して来ていたのだ。
 目を閉じ、耳を塞いでいた暁人に自分の存在を知らせるように。

「ひぎゃ――」

 ついに錯乱状態となった暁人が蒼介の頭を鷲掴むと、そのまま勢いよく頭突きのようなキスをした。

「っぐ……!」

 ゴン! という鈍い音と、ガチン! という固い音がして、目の前に星が散り口の中に鉄の味が広がる。
 痛みで正気に戻った暁人が目を開けると、そこには額を赤くし、唇から血を滲ませた蒼介しかいなかった。



 図書館に新しく入った本を読んでいた乃々羽は、呼ばれた気がして顔を上げた。
 普段読まないSF系の小説を読んで、思わず入り込んでしまっていた。
 カウンターを見れば図書委員はイヤホンをして本格的にゲームへ没頭している。なら、自分を呼んだのはあの二人だ。
 おそるおそる二人がいる図書館の奥に行く。そこには、椅子に座って不機嫌そうに唇に触れる蒼介と、その隣で気まずそうに笑う暁人がいた。蒼介の唇には、ここに来た時には絶対に無かった怪我がある。

「お、終わったの?」

 乃々羽の問いに、暁人が「う、うん」と返す。
 どうやったのかは全く想像もつかないが、蒼介が口に血を滲ませているのだからずいぶん大変だったのだろう。よくよく見れば、暁人の耳や首が赤くなっていて、しっとりと汗ばんでいた。
 自分のために、関係のない二人がここまで頑張ってくれた。

「あ、ありがとう……っ! 本当に、ありがとう!」

 思わず頭を下げて感謝を伝える乃々羽に、暁人が嬉しそうに――少しだけ気まずい気持ちを滲ませ、「どういたしまして」と返した。