幽霊はエロいことが苦手らしい

 和島乃々羽は、高校受験に失敗してしまった。
 それでも彼女は腐ることはなかった。この高校で好成績を収め、イワシの頭を狙おうと努力しようと切り替えて、まだ入学して一か月だというのに勉学に励んでいた。

「――うち、家族が多いから自分だけの部屋がなくて。だから、学校の図書館で勉強してるの」
「えらぁ」
「すごいな」
 
 テスト一週間前に詰め込むタイプの二人が同時に褒めると、乃々羽は慌てたように「よ、予習程度だから」と謙遜した。

「そ、れで、勉強してる時、いつも気が付くと同じ机の列に誰かがいることに気が付いたの」

 図書館で勉強をしているのは、学年問わず何人かいる。乃々羽と同じように、家では集中できず、自分のクラスでは残って騒いでいる生徒がいて集中できない。そういう生徒は図書館を利用していた。
 まだテスト期間も遠い今の時期は、乃々羽は予習程度の勉強をしている。内容的には軽めのものだが、元来真面目な彼女は勉強に恵まれた環境もあってすぐに集中してしまった。
 ――そして、気が付いたのだ。自分がいる机の列に、いつも同じ人がいることに。

「それ自体は全然あるからいいの。ほら、やっぱりいつも行くところって、定位置みたいなのがかたまってくるでしょ? でも、なんていうか、その人ちょっと変で……」
「変?」
「あ、変っていうのはちょっと違くて、なんて言えばいいんだろう……その、怖くて」

 乃々羽が勉強している机がある列の、一番端。そこにその人はいるのだと言う。

「図書館だから、あたしみたいに勉強してる子や、当然本を読んでる子もいるんだけど、その人は何もしてないの。い、いや、それが悪いってわけじゃないんだけど」

 乃々羽もなんと説明していいのか分からないようで、何度も何度も訂正を繰り返しながら話す。

「その……なにもしてない子だって当然いるの。寝てたり、ぼうっとしてたりする子ね。でも、その人もなにもしていないんだけど、すごく姿勢がいいまま、両手を机に乗せて、背筋をまっすぐにして前を見てるだけで」

 ――静寂に満たされた、古い紙と埃の匂いがする薄暗い図書館の中。
 時間を確認しようと書き込んだノートから顔を上げ、壁掛け時計を見る視界の端に、それはいる。

「あたしの席の一番遠い対角の席にいるの」

 なにをするでもない。まっすぐに前を見る、やけに姿勢の良い人。

「最初は誰かを待ってるのかな、とか、適当なことを考えてたんだけど……毎回いるし、誰もその人のことを指摘したりしないの」

 普通、図書館で何もせず、ただまっすぐに前だけを見ていたら、何か変なものを見るような目でその人の死角から見たりするだろう。でも、誰もそうしない。なんなら、その人の前に座る生徒だっていた。

「……その人、だんだん近付いてきてるんだ。座る椅子の位置がね、何日かに一回、私側にズレてて――」

 乃々羽が咥内の唾液を飲み込もうと喉を動かした。しかし口の中は乾いているようで、苦しそうに喉をそらしただけだった。

「近付いてきて、それで――それで、分かったの。その人が、ずっと……ずっとずっと、信じられないくらい口角を上げた笑顔のままだったって」
「ぅわ……」

 暁人の肩が大きく粟立った。毛穴が開くような感覚がして、その穴に入り込んだ冷気が心臓を冷やす。隣で話を聞く蒼介も、眉を寄せて嫌そうな顔をしていた。

「何度も座る場所を変えた。けどダメだった。席を移動して、椅子に座って勉強して、ふと気が付いた瞬間には今までと同じ間隔の場所にその人が座っていて、どんどん近くなって、それで……」

 ――今はもう、斜め隣にいる。

「あの顔を正面から見たら絶対にダメだと思った」

 問題集を押さえる手が震える。体は寒く、指先は冷たいのに、手のひらにはじっとりと嫌な汗をかいてノートが湿る。急いで文房具をしまい、ノートを片付けて立ち上がる。
 焦りすぎて、テーブルの脚に椅子をぶつけてしまって大きな音が出る。図書館にいる何人かの生徒がこちらに視線を向ける。その中に、その人の視線もあった気がする。
 なんとか図書館の扉の前にたどり着き、重たい引き戸を開けようと手を伸ばした。その時、引き戸の窓に映る館内を、乃々羽は見てしまったのだ。
 あんなに――あんなにも正面を見続けていたその人は、質の悪い鏡越しに、こちらを見ていた。

「思ったんだが――」

 話を聞き終えた蒼介が、至極真面目な顔をして言う。

「――図書館に行かなければいいんじゃないのか」

 暁人が慌ててその口にまだ残っていたおにぎりを捻じ込んだ。

「あははっ」

 乃々羽がおかしそうに笑う。それでも、その笑顔は無理をしているように見えた。

「うん、私もそう思ったよ。図書館に行かないで、空き教室とか多目的室を使えばいいんだって。でも、気がついたら図書館に行っちゃうんだ」
「気がついたら?」
「そう……なんて言えばいいんだろう。変なことを言うんだけど、図書館にいる時はあんなに怖いのに、図書館を出てしばらくすると、怖いって感情が少し落ち着いちゃって、家に着くころには何でもなかったように思える。それこそ、図書館に行かなければいいんだって」

 ここにいる誰もが思いついた解決策。それを乃々羽も分かっているのだろう。ごまかすように笑って続けた。

「だからなのかな。怖さを忘れちゃって、それでまた図書館に行っちゃう。空いてる適当な席について勉強して、それで『あ、しまった』と思ったらもうそこにいる」

 笑顔が、ゆっくりと歪む。
 あ、と思った時には、乃々羽の目に張っていたものがボロッと決壊した。

「っ、ごめん……っ」

 次々と零れ落ちていくものを、少しほつれたカーディガンの袖で乱暴に拭く。水分を吸わないカーディガンは、ただ顔に涙を塗りたくるだけだ。

「だ、誰かが正面に座るのが、すごく怖くなっちゃって……」
「……うん」
「い、家でも、ダイニングテーブルでご飯、食べるんだけど、っ、正面に座った妹の顔が、見れなくて……」
「うん」
「教室でも、誰かが前に座るのが、怖くて。あ、あの人なのかもって、思っちゃって……でも、気がついたら、図書館にいるの」

 図書館に行かなければいい。自分でもわかっているのに、図書館に行ってしまう自分がいて、もうどうしていいか分からない。
 乃々羽は、ずっと不安で孤独だったのだろう。こんな話を、誰が聞いてくれるのだろう、と。

「……ごめんね、めちゃくちゃなこと言ってるって自分でも分かってる。でも、本当なの……」

 乃々羽はまた強く袖で目を強く擦ると、ふざけた感じで笑った。

「あー、やだやだ。学校で泣くなんて、本当にいやだ」
「――和島さん」

 暁人が、ごまかすように笑う乃々羽の顔を正面から見た。そして、

「信じるよ」

 そう、力強く言った。

「え……」
「和島さんの話、信じる。僕も、あおくんも」

 蒼介から受け取ったポケットティッシュを乃々羽に渡す。乃々羽は、ポカンとした顔のまま無意識にそれを受け取った。

「僕らで解決できるかどうか、分からない……けど、協力させて欲しい。ね、あおくん」
「暁人がやるって言うなら、俺はそれでいいよ」
「あおくんも大丈夫だって。だからさ、心配しないで。一人じゃないよ」

 白く小さな手の中のティッシュが、乾いた音をたてて変形する。

「僕達もいるからね」
 
 暁人の言葉を聞いて、また乃々羽の目から大きな涙が零れ落ちた。