入学してから一か月以上が過ぎ、暦の上では夏が始まっていた。
ブレザーを着る生徒は数を減らし、カーディガンやベスト姿の生徒がほとんどを占め、シャツ一枚で過ごす生徒もいる。
窓を開けて授業をすることが増え、昨日降った大雨の名残によって冷やされた風が、暁人の前髪を揺らした。
黒板の前では、担任による特別授業が行われていた。内容は『郷土の歴史』で、この澤見高校の歴史と合わせて澤見市の説明もしていた。
「今、あなた達や先生が住んでいる澤見市は、旧深地町と、澤見市が合併して今の澤見市となりました」
昼休み前で集中力が薄れている生徒の耳を、年配の女性教師の聞き取りやすい声がかすめていく。
「合併した深地町は、もとは村でした。高度経済成長期に様々な企業の工場誘致を行い、移住者が増え、それによって町へと成長しました。今は人口減少で当時に比べると賑やかさは潜んでしまいました。……が、今度川向こうにショッピングモールができるでしょう? それによって、様々な経済発展が期待できますよね」
澤見市には、八淵川という穏やかな川がある。学校から見た時、八淵川の向こうの川岸では、今まさに新しく大型商業施設の建設工事が始まっていたところだ。
「今後はより人の往来が多くなり、より栄えてくことでしょう。深地橋も新しく架け替えるし、どんどんと街の風景が変わっていきますね。この一帯は山から流れる数多くの支流により、大昔から水害に悩まされていました。怖い話、人身御供の伝説も残っています。その深地橋に関係する歴史もいずれ忘れられてしまうのでしょうが、覚えて置かなければいけない歴史はしっかりと後世に伝えていきましょうね」
加齢により垂れ目になった藤澤の目と暁人の目が合う。暁人はそれをそらすことなく、まっすぐに見つめ返していた。そんな暁人の勉学に対する姿勢が嬉しかったのか、彼女は穏やかな笑みを浮かべると話を進めた。
「昔から住んでいる人にとっては、少しもの悲しさもあるかもしれませんが、変化を恐れてはそこから動けなくなりますからね」
藤澤は少し寂しそうに笑うと、「話が逸れてしまいましたね」と続けた。
「澤見高校は、このあたりがまだ深地村と呼ばれている時代から学校としてありました。三十年程前の合併時に校舎を新しくしたのですが、状態のよかった校舎は歴史を残すという名目で補強工事だけをして、特別教室棟という名前で残しました。みなさんには、旧校舎って呼び方のほうが分かりやすいかな」
藤澤の話を、暁人は机に噛り付くように真剣に聞いていた。
……いや、真剣に聞いているのではない。ほかのことから目を背けようと、必死になっているのだ。
暁人の隣の席には、女子生徒が座っている。……それはいい。問題なのは、その女子生徒に暁人は面識がなかったことだ。
入学して一か月と少しが経っている。正直、まだクラスメイトの名前は曖昧だ。男子なら何とかなるが、あまり関わらない女子ならなおさらだ。それでも顔くらいは分かる。校内や帰り道で一緒になれば、「あ、同じクラスの子だ」くらいには。
彼女には、それがない。
つまり彼女は、このクラスの生徒ではない。
気が付いたのは二十分程前だった。分かりやすいが退屈な担任の話に、ついウトウトとしてしまい、はっと目を開けた時――彼女は教室の黒板側の入り口にいた。
最初、暁人はクラスメイトの誰かの姉妹が、緊急事態でその子に会いに来たのだと思った。
しかし、誰も彼女に気が付いていない。それでようやく彼女の違和感に気が付き、その違和感が恐怖へと変わっていったのだ。
彼女はゆっくりと暁人に近付いてきた。
……いや。正確には、暁人の隣。今日欠席している生徒の机に向かって、彼女はゆっくりと近付いてきた。暁人が恐怖で視線を外すたびに彼女の位置は変わり、目の前を通り過ぎられた時は叫びだしそうになるのを両手で口をふさいで耐えた。
次に目を開けた時、彼女は隣の席に座っていた。
そこでようやく気が付いたのだ。そのそも、彼女が着ている制服が違うことに。
澤見高校の制服は、ブレザーとスラックスとスカートの色はダークグレーだ。しかし彼女は、青みの強いネイビーの制服を着ていた。というか、そもそもブレザーではない。制服はジャンパースカートタイプのもので、リボンも紐タイプのものだ。
暁人はもう、前を向くことしかできなかった。
気が付かれたら、まずい。もし自分が幽霊が見えると気が付かれたら、きっとこっちに接触してくるだろう。
暁人は担任の話に集中し、なるべく平常心を装い、息が震えないように腹筋に力を入れた。
そして、そろそろ授業の終わりが見えてきたころ――
「私の席、ここじゃないの?」
と、耳元で言われた。
体がビクンッと強張り、周囲の音が聞こえなくなる。
視界の端では、姿勢よく座る女子生徒の顔だけが、真横を向いているのが見えていた。
「ねぇ」
まるで耳元に直接吹き込まれているような声だ。
「私の席、ここじゃないの?」
恐怖で歯の根が合わない。じわっと涙が滲んでくる。息も短く速いものになり、肩が小さく揺れる。
もう一度耳元で話されたら、今度こそ叫んでしまう。
「……ッ、……ッ!」
だから暁人は、一か八か、反応することにした。小さく頷き、彼女の質問に答えることにしたのだ。
暁人の反応が正しかったのかは分からない。
ただ、それを見た女子生徒はくるっと首を前に向けると、「そっかぁ」と呟いた。
途端に周囲の音が戻ってくる。昼休みを告げるチャイムが鳴り、みんなが一斉に立ち上がる。慌てて暁人も立ち上がるが、その時には隣に女子生徒はおらず、ただ少しだけ引かれた椅子があるだけだった。
「暁人」
隣の空席に目が釘付けになっている暁人のもとに、蒼介がやってきた。
蒼介の席は暁人の斜め後ろで、どうやら授業中、暁人の様子がおかしいと感じていたようでチャイムが鳴ってからすぐに暁人のもとへ来てくれたのだ。その後ろには、ランチバッグを持って蒼介に話しかけるタイミングを窺う女子達がいる。
「大丈夫か」
「あ……う、うん」
「……よし。メシ行くぞ」
「え、いいの?」
「いいの?」というのは、彼女達のことだ。学校生活に慣れ、周囲の生徒にようやく目が行き始めたクラスメイトの女子は、毎回競うようにして蒼介を昼食に誘っていた。
そんな明るく賑やかな彼女達に蒼介は「悪い」と小さく謝ると、机の横に引っかけていた暁人のランチバッグを持って暁人を引きずるようにして教室を出た。
「また小野に負けたわ」
「小野つよ~」
「また今度ね~」
彼女達はおかしそうに笑うと、手をヒラヒラとさせて二人を見送る。
背中で聞く声が、さっきの女子生徒の声に似ていて、少しだけ怖かった。
「――めっっっちゃくちゃ怖かったぁああ~~っ!」
「頑張ったな」
「僕頑張りました!」
普通教室棟から離れた、創立百周年を祝った際に建てられた記念館の影に腰を下ろした二人は、それぞれの家族が持たせてくれた昼食を食べていた。
「うちのクラスに幽霊っていたっけか」
「ん~……階段裏の幽霊みたいな、場所に固定されている幽霊じゃなくて、たぶんあれはいわゆる浮遊霊ってやつだと思う」
「浮遊霊か」
「うん。ただ、あの子は自分がいる場所を探しているだけだったみたい」
暁人は母が握ってくれた巨大なおにぎりを一口頬張ると、「……居場所、見つかったらいいな」と呟いた。
「だな。居場所が見つかってくれたら、突然暁人の前に現れて暁人がビビることもないしな」
「そうなんですよねぇ」
「それか成仏してくれるのが一番か」
「うん」
また一口頬張る。なかなか中の具が見えてこない巨大なおにぎりに、ついに蒼介が突っ込んだ。
「てか暁人のおにぎりデカくねぇか」
「今日はママ飯なので……食べきれるかな」
「親父さん、今日は早出?」
「そう。お父さん、今日は朝から結婚式の前撮りがあるらしくて、五時に出かけてったよ」
「美容師は大変だな。あーなんか、久しぶりに暁人のおじさんとあばさんに会いたくなってきた」
「いつでもおいでよ。我々小野家はあおくん大歓迎だよ」
「それは光栄だわ」
そう薄く笑う蒼介の弁当は、A4のコピー用紙ほどの大きさの弁当箱に、ぎゅうぎゅうに具と白米が詰め込まれ、さらには追加分のおにぎりまであった。
「……相変わらず、あおくんのお弁当は大きいねぇ」
「いや、巨大おにぎりの暁人に言われたくねぇな」
「違う違う。僕はいっぱい食べたいからおにぎり大きいんじゃなくて、料理に慣れていないお母さんが作ったから大きくなってしまったわけで。あおくんと一緒にしていただきたくはないですね」
「まあ俺は育ち盛りだからな」
「でも……ちょっとその卵焼き一個おくれよ。おにぎり一口あげるから」
「おにぎり一口って白米と変わんねぇじゃねえか。まだ具見えてねえぞ」
「あおくんのお母さんが作った卵焼き、甘くておいしいよねぇ」
「俺の話聞いてるか?」
――そうして、蒼介が諦めて暁人へ卵焼きを一つあげ、暁人のおにぎりの具が冷凍から揚げだと分かった頃。
「あ、あの……」
一人の女子生徒が声をかけてきた。
暁人は一瞬だけ教室にいた幽霊を思い出して肩を震わせたが、すぐにそれが間違いだと気が付いた。隣にいる蒼介にも、彼女は見えていたからだ。
肩まである淡い亜麻色の髪をハーフアップにしていて、しっかりとしめられた第一ボタンやネイビーのカーディガンから真面目そうな印象を受けた。二人と同じ学年色である緑のリボンと上履きを履いていたので、面識はないがどうやら彼女も一年生らしい。
彼女は自分を見上げる二人を前に、もじもじと何やら言い辛そうに視線を彷徨わせ、何度も口を開けて「あの」とか「その」と繰り返していた。
それを見て、暁人は「そういうことか」と理解した。
名も知らぬ彼女は、蒼介に用があるのだ。
「さすが」と暁人は思った。
蒼介は昔からよくモテていた。それこそ、つくし組の頃からだ。
同じつくし組の女の子には「けっこんして」「およめさんにして」など言われていたし、小学校や中学校でもしょっちゅう告白されていた。ラブレターなんか少女漫画の世界の中だけかと思っていたのに、実際に蒼介の机の中から出てきた時はあまりの希少性から拝んでしまったほどだ。
蒼介は顔立ちが整っていることに加え、高い身長と十六歳とは思えない、何かを達観してしまったかのような落ち着いた雰囲気を持っていた。それがクールだったりミステリアスという風に捉えられ、同い年はもちろんのこと、年下からも年上からも好意を寄せられていたのを暁人は何度も目にしていた。
確か、過去には彼女も何人かいたはずだ。
そんなことを思い出しながら、暁人はまだ話し出せないでいる彼女に向かって、
「僕はちょっとお手洗いに……」
と気を使って席をはずそうとした。しかし――
「ま、待って!」
それを彼女本人に止められ、そんなこと予想もしていかなった暁人の口から「はぇ?」と間抜けな音が出る。
彼女はまた少しだけ逡巡するように唇をもにもにと動かすと、ようやく決心がついたのか、小さく口を開いた。
「……お、小野、暁人くん、だよね……四組の……」
「え、僕?」
驚いて自分を指さす暁人に、彼女が小さく何度も頷いて答えた。
「わ、私、一組の和島乃々羽」
彼女――和島乃々羽は、蒼介ではなく暁人をまっすぐに見て、
「ゆ、幽霊が見えるって、本当?」
と続けた。
