夜になるにつれて、雨がさらにひどくなっていく。
道の脇の用水路はもうすぐ溢れそうだ。頭の真上で雷が鳴り、一瞬視界が白くなったかと思うと山に雷が落ちた。
そんな、水と、泥と土と、埃の匂いに満ちる中、嗅ぎ慣れない匂いが鼻をついた。
いやな――鉄錆の、匂いだ。
「っ……」
プラネタリウムへ向かう道で見た女の霊――釘の女の霊が、頭の中によぎる。
あの不気味な姿。赤錆色の全身に、不自然に長い、まるで錆びた釘のような見た目の幽霊。
今の匂いは、あの時嗅いだ匂いと同じだった。
暁人は、その匂いのほうへと進んでいった。鉄錆の匂いはどんどんと強くなる。それに比例して、肌をチクチクと刺すような圧迫感や、心臓の鼓動も。
人とも車ともすれ違わない。みんな避難したのだろうか。
暁人は必死で自転車をこいだ。合羽は汗で張り付いて、自転車をこぐのに邪魔で早いうちから脱いでしまった。目に雨粒が入って、この時初めて自分が眼鏡をつけていないことに気が付いた。
でも、そんなことはどうでもいい。
「あおくん」
今まで暁人は、幽霊を直視しないように、輝也にお願いして作ってもらった遮蔽眼鏡をかけていた。
それが、蒼介の顔をもかすませていたことに気がつかないまま。
暁人はずっと目を背けていたのだ。
自分達の関係を幼馴染という枠に当て込み、そこから出ないよう、必死に自分の気持ちを押し込んでいた。
「うぅ……」
匂いがどんどんと強くなっていくのと同じように、心臓が押し潰されそうな恐怖が体を支配する。けれど、暁人は歯を食いしばって足を動かし続けた。
――蒼介の気持ちを、ずっと知っていたような気がする。
気が付いていても、幼馴染の関係に当てはめて、見てみないふりをしてきた。
それが蒼介をどれだけ傷つけていたか、考えもしなかった。
『暁人に強要させてきた』
蒼介はそう言った。
「違うよ、あおくん」
自分こそ、蒼介に幼馴染という関係を強要し続けてきたのだ。自分の気持ちも、蒼介の気持ちも、分かっていたくせに。
「ッ、う……」
暁人は匂いの強いほうへ――深地橋へと進んでいく。
鉄錆の匂いは、もはや血そのものだ。
息をすればするほど、鼻腔と喉に血がへばり付くような感覚がする。大雨で白くかすむ景色すら、錆色に染まっていくような気がした。
まるで血飛沫だ。大粒の雨によって地面で跳ねる泥ですら、酸化した血に見える。目の前がどんどんと錆びた血色に染まっていく。
――そんな、錆びた世界の中。
見慣れた――ずっと見つめ続けてきた背中が見えた。
「あおくん!」
深地橋の真っ暗な向こう側に、蒼介がこちらに背を向けて立っていた。
正子が言っていた通り、土地開発は予定以上の早さで進んでいたようで、前に見かけた時にあった地面はなくなっていた。そして、川の氾濫によって削り取られてしまったのだろう。祠は、跡形もなく消えていた。
街頭の明かりは点いていない。この大雨の落雷で停電してしまったのか。
「あ、あおくん!」
もう一度呼びかける。蒼介は反応すらしない。
橋の下では、血色の濁流が橋を飲み込むように暴れている。あそこにいては危険だ。すぐに連れ戻さないと。
暁人は自転車をその場に乗り捨てると、深地橋の上を走って行った。
「っぐ、ぅ……」
深く濃い血の匂い。
何人もの血を溜めた甕の中に落とされたような感覚を暁人を襲う。匂いと圧迫感と恐怖で、吐き気がこみ上げてくる。しかし、足は止めない。止めては、いけないのだ。
「っ、あお、くん……、戻ろう……っ」
立ち尽くしたままの蒼介の肩に触れる。
ゆっくりと、蒼介が振り向く。
蒼介はぼんやりとた表情を浮かべていて、いつも暁人を見守ってくれていた目は、どこも見ていない。暁人はもう一度蒼介に呼びかけた。そして――
「あおく――ッひ、ぎ、ぃい……ッッ!!」
どうして、今まで気が付かなかったのだろう。
振り向いた蒼介の、すぐ隣。
まるで彼の体にぴったりと寄り添うように、釘の女がいた。
「ッ、ひ、っひ、ッひ、ぃ」
細く皮だけとなった腕は背中に回され、縄を何重にも巻き付けられている。足も同じように縄でこれでもかと強く巻かれていて、荒い縄が薄い皮膚を破り、肉に食い込んでいた。
顔は――顔は、見れなかった。ただ、血と泥に汚れた髪が体に張り付き、顔に張り付き、その下で目か口か何かが、まるで蛆が這うように蠢いているように感じた。
「ッ、うぇ……!」
血のような匂いではない。これは、血の匂いだ。
むせかえるような血の匂いが、あたりに充満している。
歯が、足が、体が震える。今までにない恐怖。ただの恐怖ではない。確実にこちらへと向けられた、悪意をもった目で見つめられる、恐怖。
「ぁっ、ぁああ、あお、あお、くん……ッ」
暁人は震える口で、恐怖で涙を流しながら、もう一度蒼介の肩を揺すった。
早く目を覚まして。早く一緒に逃げて。
その、瞬間――
「ぁぐ――!」
体が浮いて、地面に叩きつけられた。
目の前が白くなったのは、雷か、それとも星が散ったからか。
痛みで一瞬だけ意識が遠くなり、すぐに背中に感じる水の冷たさで正気に戻る。そして分かった。自分を固いコンクリートへ叩きつけたのは、蒼介だということに。
まだぼんやりとした目のままの蒼介が、衝撃で立ち上がれないでいる暁人に跨った。
そして、真っ白に冷えた両手を、暁人の細い首に這わせ――いつも背中をさすってくれた手に、思い切り、力が込められた。
「ッ、ぁ、……ッげ、ぇ……ッ」
喉を外から押し潰される。咳が出るのに、息がうまくできなくて体の中で苦しさが暴れまくる。息をしようにも、詰まった空気が弾けるような音しかしなくて呼吸ができない。
「ぇッ、げほ、……ぇ、え……ッ!」
雨粒が視界を汚す。それでも、蒼介の顔はよく見えた。――そして、こちらを覗き込む、釘の女も。
釘の女は、縛られているからか、不自然に体を折り曲げてこちらを覗き込んでいる。血の通っていない青紫の唇が、ゆっくりと動きだした。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
ぞっとした。
何十人もの女性が叫んでいるような、泣きながら囁いているような、そんな声。
釘の女が、犠牲となった女達の声を囁きながら、ゆっくりと顔を近付ける。――だから、気がつけた。
この釘の女は、蔵の写真で見た、辻志津子だ。
彼女が、釘の女達の、綿飴の串になっているのだ。
「しづ、こ……」
釘の女の動きが、少しだけ止まった気がした。
暁人は朦朧とする中、力を振り絞り、叫ぶ。
「――ぁ、あなたのッ、恋人、はぁ……ッ! 裏切って、な、か、ない……ッ!」
それは、助かりたいとか、成仏してほしいとか、そんな気持ちから出た言葉ではなかった。
蔵で正子から話を聞いた時、暁人は思ったのだ。
せめて、恋人が彼女を裏切ったのではないと。それだけでも、伝えてやりたいと。
「――」
――そして、蒼介がいつもお人好しとからかう暁人の優しさが、一瞬の隙間を生んだ。
釘の女の声が止み、首をしめる力が抜けた。
暁人は蒼介の両手を掴むと、まだ緩く締め続けられている喉を引き絞るようにして言った。
「あお……あお、くん……ッ」
「……あき、と」
どこも見ていない蒼介が暁人の名前を呼び、さらに手から力が抜ける。
暁人は逃げ出すこともせず、蒼介の手を掴んだまま、彼の目をまっすぐに見つめた。
「あおくん」
ゆっくり、ゆっくりと、釘の女が顔を近付けてくる。蒼介の手に、力が戻る。
「僕が、好きであおくんと一緒にいるんだよ」
幽霊が怖い暁人が、幽霊を引き寄せる蒼介と一緒にいる理由。
幼馴染とはいえ、自分のことを信じてくれるとはいえ、ずっとずっと、一緒にいる理由。
「僕、あおくんが好きだから」
いつの間にか、当たり前のように一緒に過ごしていた。その関係に、胡坐をかいていると気が付いたのは、いつだろう。
自分達の関係を幼馴染という枠に当てはめ続け、気が付いた時には、自分でも説明のつかない感情に混乱した。
「今のままが一番心地よくて、あおくんへの気持ちを、ずっと知らないふりしてた。言葉にすることから、逃げていた。だって、僕はああおくんに嫌われるのが、幽霊よりも怖かったから――ッ」
釘の女の声が聞こえ始めた。蒼介の両手に力が込められる。
喉の奥が締まって苦しい。けれど暁人は、抵抗しなかった。逃げも、しなかった。
「あお、く……」
首を掴んでいる両手に沿うようにして手を持ち上げ、氷のように冷たく、生気がまるで感じられない頬に触れる。
そのまま、いつも自分がされていたように、蒼介の後頭部へ手を回し、そのまま力を入れて頭を引き寄せる。
鼻と鼻が、触れ合う距離。
眼鏡を取り除いた視界の中には、直視しただけで心臓が止まりそうな釘の女がいる。けれど今の暁人には、女は見えていなかった。
今の暁人が見えているもの。それは、幼い頃の蒼介でもなく、幼馴染の蒼介でもない、ただの蒼介だった。
「あおくん。大好きだよ」
そして暁人は、生まれて初めて、自分から蒼介にキスをした。
