「ただいま……」
家へと戻った暁人を迎えたのは、玄関に横たわる女性だった。
「っぎゃー!!」
「わー!!」
思わず悲鳴を上げる。その声に目の前で倒れていた女性も反応し、それが誰だか分かるとホッと息を吐いた。
「お母さん……! おどかさないでよ!」
玄関で倒れていたのは、暁人の母である穂香だった。
グレーのパンツスーツに身を包み、顔に疲れの色を濃く残した彼女は小野家の大黒柱だ。
「――相変わらずビビりなんだから」
「いやいや、あれは誰だってびっくりするよ」
ひとしきり驚き合った後、着替えてリビングのソファに座った穂香へ暖かいインスタントコーヒーを作って渡せば、彼女は美味しそうに飲んだ。
「お疲れだね」
「急な出張が立て続きに入ってさぁ~もう本当に勘弁だよ~~」
澤見市が企業誘致を行い、数々の工場が建設された。穂香はその中の一つの製造系企業で製造ラインの管理職についていたが、納品先で欠品や不良品が出るとすぐに先方へ赴き、仕分け作業などをしているのだ。
「係長なんて言ったってね、体のいい尻拭い役よ」
「はは……あれ、お父さんは?」
「旧深地村方面で避難警報出てるでしょ? 新平くんは地域役員だから、避難場所の公民館とかのカギを開けに走り回ってるよ」
「そっか」
「あおくんの家のほうは昔から水害に強いから心配しなくてもいいと思うけど、その周りはちょっと怖いかもね。うちはニュータウン時代に基礎を上げてあるから、避難危険区域外だからいいんだけど」
あおくん。
穂香の口から出たこの名前に、暁人は胸を突かれる感覚がした。
そして「水害に強い」という言葉が、土地のおかげではなく、釘の女達による恨みの守りのおかげということに、胸が締め付けられる。
息子のいつもと違う様子を母は感じ取ったのだろう。「あれ?」と言うと、ソファからぐるんと首を持ち上げて聞く。
「もしかして暁人、あおくんと喧嘩でもしたの?」
「喧嘩……」
喧嘩なら、どれだけよかっただろう。
これまで二人は小競り合いのような喧嘩をいくつもしてきた。けれどそのたびに、どちらかが謝り、譲り合い、それで終わっていた。
でも、今回は喧嘩ではない。どうすれば元の関係に戻れるかも分からない。それは、今の暁人が唯一、はっきりと分かることだった。
「喧嘩したんなら、早く仲直りしなさいよ」
まるで子供に言うみたいな言葉だ。いや、母の中では、まだ自分と蒼介は幼い子供のままなのだ。
「そうだね……」
「そうだよぉ」
穂香が続ける。
「あんた、あおくんのことを守るって、約束したんだから」
その、言葉に、暁人は顔を上げた。驚いて穂香を見ると、穂香もそんな暁人に驚いている。
「え、何……僕が、あおくんを?」
「覚えてないの? まあ、あんなちっちゃかったら、無理もないかぁ」
頭の中の、記憶の引き出しがゆっくりと開いていく感覚。
幼い蒼介に「信じるよ」と言われた、その前の記憶――
「あんた、あたしやあおくんのお母さんと、保育園の先生達の前で宣言したんだよ。『僕があおくんを守るんだ』って」
「……そうだ」
思い出した。
ずっと、蒼介と幼い頃の記憶が食い違うと思っていたのだ。
――蒼介と初めて話したのは、それよりも少し前。
深地保育園では、年中さんはお遊戯室でみんな一緒に寝ていた。
暁人はお遊戯室の子供達の幽霊が怖かったので、いつも布団を頭までかぶって寝ていたのだが、隣で眠る友達が、苦しそうにうなされているのを聞いて目を覚ました。
恐る恐る布団から顔を出すと、そこには、あの子供達が何人も友達の布団の周りを囲い、ペタペタと触れ、口をワアワアと動かし、ギョロギョロとした目つきで見ていたのだ。
友達は苦しそうにふうふうと息をするだけ。周りに大人はいない。
怖くて怖くて涙が出た。心臓が大きく脈打って、叫び出したかった。
けど、暁人はそこで自分の枕を手に取ると、その子供達に向かって殴りかかったのだ。
「あっちいって! あっちいってぇ!」
騒ぎを聞きつけた先生達は驚いた。暁人が一人の園児を枕で叩き、それをほかの園児が遠巻きに見つめていたからだ。暁人はすぐに職員室へと連れて行かれ、当時まだ係長ではなかった穂香が呼ばれた。
「あきちゃんが、お友達のことを枕で殴ったんです」
そう言う先生の隣で、暁人はただ泣きじゃくっていた。そこに、殴られていた園児の母親もやってきた。怪我もなかったということで母親同士は簡単な謝罪と挨拶で終わらせた。
「暁人。あんた、蒼介くんに何か言うことあるでしょう」
「っ、うん……っ、あるぅ……」
泣きながら言う暁人と、母の手を握ったまま暁人を見つめる友達。
そして暁人は、しゃくり上げながら、みんなの前で宣言したのだ。
「ぼくが、あおくんを守るからねぇ」
母親二人と先生は苦笑いした。暁人が今するべきは謝罪であるのに、何を言っているのだろうと。
しかし、彼は――蒼介だけは、違った。
「うん」
お遊戯室で眠ると、いつも苦しくて怖い夢を見ていた。それが今日は、暁人が枕で叩いてから見なくなった。
「ぼ、ぼくが、ずっといっしょにいて、あおくんを守るからねぇ」
「ありがとうね、あきちゃん」
「ううん。たたいちゃって、ごめんねぇ」
そこまで思い出して――暁人は、靄がかっていた視界が、晴れたようだった。
「……そうだったね」
はにかむように笑った。それはまるで、呆れたような、よく蒼介がしていた笑い方だ。
「僕が言ったのにね」
ずっと一緒にいよう。
自分で言ったのに。遠ざかる蒼介を追いかけることすらしなかった。
忘れていた。忘れてしまっていた。それでも、追いかけることはできたのに。
孤独と恐怖から救ってくれた蒼介を、一人ぼっちにさせてしまった。
「はぁ……」
「思い当たる節があるんなら、ちゃんと仲直りしなさいね」
「うん」
今からでも遅くない。暁人はスマホを取り出し、蒼介へ電話をかけ――ようとして、手の中のスマホが震えた。
着信だ。表示された名前は、『あおくん』。
「はッ、はい! あおくん?」
慌てて電話に出る。――しかし、電話の主は蒼介ではなかった。
「正子ちゃん……どうしたの?」
電話の主は正子だった。どうして蒼介のスマホから正子が暁人に電話をしたのか分からない。戸惑いながら言えば、向こうから正子の焦った声が聞こえてきた。
「そっちに蒼介来てない?」
「え……来てないけど……どうしたの?」
「蒼介がいなくなっちゃったんだよ」
「えっ!」
正子の話を聞いている隣では、穂香の会社携帯にも着信があり、何やら慌ただしく動き出した。
「ううん……こっちには来てない」
「そっか……なんか、あんな話聞かせた後にこれだからさ、やっぱ話さなきゃよかったな、反省してる。でも、後悔はしてない。こんなこと、今言うのは違うと思うけど……」
「ううん。聞かせてくれてありがとう」
「……あんたは本当に良い奴だよ。――じゃあ、暁人も気を付けてね。ニュータウン側はそんなに危なくないらしいけど、万が一の時は避難してね。……くれぐれも、蒼介のことを探そうなんて、危ないことはしないでね」
「うん」
電話を切ると、同じタイミングで穂香も電話が終わったようだった。
「工場のほうで浸水被害があったみたいだから、会社に戻るね」
「えっ、今から!?」
「今だから戻るの。現場で責任ある人がいないと、有事の時に判断できなくて困るでしょ。社会人の悲しさよ」
穂香は荷物をまとめると、コーヒーをぐっと一口で飲み干した。
「コーヒーありがとうね。じゃあ、お母さんは会社に戻る。暁人は家の中にいなさい。……もし、避難指示が出たら、公民館へ避難してね。新平くんには、あたしから連絡しておくから」
「うん」
暁人は玄関まで穂香を見送った。そして、穂香の運転する車が通りの角を曲がったタイミングで――合羽を着て自転車に飛び乗った。
向かう先はもちろん、蒼介のいる場所だ。
